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記事 3件
  • 「芸術家と偏執性~荒木経惟編」小林よしのりライジング Vol.268

    2018-05-01 21:15  
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     アラーキーこと写真家の荒木経惟が、自身の過去のモデルにネット上で告発され、それに乗じて荒木作品が一部で炎上、バッシングされるという出来事があった。
     ひとりは現在47歳の女性で、19歳の時に撮影現場で、レイプではないが性的虐待を受けて撮影されたという内容の文章と、その英訳をフェイスブックに投稿。
     もうひとりは荒木作品では世界的に有名な、15年間ミューズ(写真やファッションショーなどでそのブランドの象徴的な女性モデル)をつとめ、荒木と深い関係にあった女性によるブログだ。
     私の感想としては……
     前者の女性は、荒木経惟がどんな作風の写真家なのかを知らないor説明されないまま、マネージャーに騙されて撮影現場に連れてこられたのか、だとしたらそのマネージャーに問題があると思うし、ご本人がなにも知らずに個人モデルに応募してしまったのなら、PTSDに悩まされるほどの苦痛を受けたということだから、ネットに書き込んで私刑を煽るよりは法的な交渉に動いたほうが……と思った。
     しかし、なにしろ個人間のことで事情もはっきりわからないから、なんとも言えない。
     後者のミューズによるブログは、多くの写真ファンが度肝を抜かれた。彼女はてっきり荒木経惟と共に“主体的に作品づくりをしている側の人”だと思われていたからだ。
     個人的には、「愛憎」が絡んでいる話なのかなとは感じた。15年のうち、恋人兼モデルとして幸せで刺激的な時期がどのくらいあったのかは知らないが、荒木の写真への狂気に触れて、扱いに納得がゆかない、でも作品には参加したい、心の底にいびつで複雑な思いがうずめいてしまったのかもしれない。
     そんなに苦痛だったのなら、15年のうち、もっとはやく降りていたほうがよかったのではとも思えてくるし、しかしこれも、個人の関係性と、心のなかの話だから、なんとも言えない。
     写真家にしても、モデル全員を等しく扱っているわけじゃない。相手との親密度や、接している頻度、想いの強さや内容は、写真にそのまま反映されていく。
     一律に、「こうだ」とは言えないところがある。
    ■アラーキーのこと
    「荒木経惟」という写真家の世界について、私が感じていることを綴ってみたいと思う。
     私はアラーキーの写真全部を見ているわけではないが、総じて、あまり好きではない。でもそれは個人の趣味の問題であって、別に「こんな写真撮りやがって」なんて嫌悪したりはしていない。ほかにもっと好きな写真家がいるだけだ。
     右眼を失明しても、写真の右側を黒く塗りつぶした 『左眼ノ恋』 という作品シリーズを発表したのは「すごいこと考える人だな」と驚いたし、きっと死ぬまで“写狂老人”として突っ走る人なんだろうと思っている。
     
     ちなみにこのタイトルは 「左眼だけになってもまだエロい」 みたいな変態的な意味ではない。オランダ人写真家・エルスケンが1950年代のパリの若者たちの姿を撮った 『セーヌ左岸の恋』 という超有名な傑作写真集のオマージュになっているというお洒落なものだったりする。
     アラーキーはずいぶん昔から「俺は男尊女卑だ」と言っていた。78歳という年齢を考えても、女性に対しては横柄な物の言い方をするところがある人なんだろう。
     でも、女を縛ってこねくりまわした写真ばかり撮っている人ではない。
     私が写真展で強烈に覚えているのは、 ある花の写真 だ。展示パネルの一枚だったので、ネット検索しても出てこないが、爛れるように赤黒く、しおれかけた肉厚の花弁と、からからに乾燥してねじくれた土色の葉っぱだった。
     花を見て、「エロい」と感じたのははじめてだった。
     それから、ものすごく悲くてしょうがない、胸のつまるような感情がこみあげてくる不思議な写真だった。
     その写真展で、はじめて、アラーキーが吉原遊郭そばの三ノ輪出身で、実家は、 遊女の「投げ込み寺」として有名な浄閑寺 の目の前にあったと話すのを聞いた。
  • 「幸せよりもカネが欲しい高齢者」小林よしのりライジング Vol.186

    2016-07-26 16:40  
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      今の高齢者は、圧倒的に「幸せよりもカネが欲しい」と思っている!
     博報堂生活総合研究所が60~74歳を対象にした「シルバー意識調査」の結果を発表した。
     その中に「欲しいもの」を「若さ」や「名誉」など20項目から3つ選ぶという質問項目があり、1位は「健康」、2位が「安定した暮らし」、3位が「お金」となった。
     この結果で注目を浴びたのは、 欲しいものは「お金」と答えた人が40.6%に上り、「幸せ」の15.7%を大きく上回ったことだった。
    「お金で買えない幸せがある」「お金よりも幸せが大事」といったことは常識のように言われてきたし、年配者こそそういう台詞を言うものだと思っていたが、今や年配者が身も蓋もなく 「幸せよりカネ!」 と言うようになってしまったのだ。
     同調査は1986年から10年ごとに同じ方式で実施され、今回が4回目になる。
      初回の86年調査では「欲しいもの」は「幸せ」(31.1%)が「お金」(28.1%)を上回っていたが、2回目の96年に逆転。その後は差が広がり、ついにはお金が欲しい人が、幸せが欲しい人の2.5倍以上にまでなってしまったのだ。
     年々幸せを求める人がどんどん減り、お金を求める人がどんどん増えているわけである。
     しかも「何歳まで生きたいか」という質問に対する回答の平均は「84歳」で、86年の「80歳」から4年も延びている。
     長生き願望は肥大させながら、長く続くであろう老後に対する不安を抱え込んでいるのだから、「お金が欲しい」というのは切実だ。欲しいもの1位の「健康」や2位の「安定した暮らし」も、その不安感の反映だと言える。
     幸せよりもお金が欲しいという理由をよく見ると、 子供などに迷惑をかけたくない ということがあるようだ。
      この場合の「幸せ」とは、具体的には子や孫に囲まれて暮らし、面倒を見てもらいながら安らかに老いていくことだろう。
     しかし、子供に迷惑をかけたくないからそういう「幸せ」は諦めたとなれば、いずれは自分一人で自分の始末をつけなければならなくなる。
     子供と別居して夫婦二人で暮らしても、どっちかが先に死んで必ずどちらかは一人の老後を迎える。そうなれば、まず必要なのはお金だということになる。
     だから幸せよりもお金が欲しいということになるのだ。
     この結果は、ものの見事に今の時代を反映している。
      かつては、子供を産んで育てたのなら、老後は子供に面倒を見てもらうという期待が常識としてあったものだ。
     ただし、それは祖父母から孫までの三世帯同居の大家族だったから成立していた常識だったのである。
     大家族であれば、分担して誰かが老人の面倒を見るから、家族のうちのたったひとりに負担が集中するということはなかった。だから親は家で死ぬのが当たり前だったのである。
      だがこれは、核家族になった途端に崩壊する。
  • 「総選挙に勝ったのは“いい人”か“悪い人”か?」小林よしのりライジング Vol.113

    2014-12-16 16:00  
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     第45回ゴー宣道場は12月14日、衆議院総選挙投票日に開催された。
     テーマは 「道徳教育は可能なのか?」 で、当日は小中学校の教師も多く参加し、現場の声を聞かせてくれた。
     ゲストは『僕らの新しい道徳』という著書がある評論家の 岡田斗司夫氏 。同書は岡田氏と7人の論客の対談集で、その相手の1人としてわしも呼ばれて対談し、『市民―"庶民"が"大衆"になり果てるとき』というタイトルで収録されている。
     わしや師範方の誰とも異なる感性を持つ岡田氏が参加した道場は、実に刺激的なものとなった。
     岡田氏は「道徳」と「政治」や「経済」の問題が無縁だと思っているが、わしの考えではそれは間違っている。
    「衣食足りて礼節を知る」 というが、現在子供の6人に1人が貧困状態にあり、カロリーの摂取が学校給食に頼るのみという深刻なケースもある学校で、「道徳」を教えて何になろう?
    「礼節よりもまず食べさせる」それが国家、あるいは大人の「道徳」であって、「食わせず秩序感覚だけを教え込め」というのは、北朝鮮の独裁者の考えである。
      そもそも「道徳」は、「知育」・「体育」と共に、「教育」の一つであって、国家が国民を育てる意図の下に行われる。
     国家が世界市民のような普遍的な人間を育てるためのものではない。「国民形成」の手段でもあるのだ。
     道徳教育は権力者の政治的意図が大きく関わるものなのだ。政治と経済ぬきの「道徳」はあり得ない。
     しかも「 道徳の教科化 」という文科省の要請は、安倍政権の要請であって、わしは「新しい歴史教科書をつくる会」の会合に来ていた安倍晋三とは、左翼偏向教科書の問題点を話し合っていたのだ。
     自民党の憲法草案には、表現・結社の自由に「公益や公の秩序に反しない限り」という制限がつけられているが、これについて自民党の憲法改正推進本部本部長代行を務める船田元衆院議員は、「公の秩序」を重視し、いきすぎた自由を制限する旨の発言をしている。
     また、草案には憲法の本旨である「国民の国家権力に対する命令」に加え、国民に対する義務規定や道徳規制などが含まれており、船田は「 道徳的側面は現在の日本人の規範意識が薄れてきている実情を考えるとどうしても書き込まざるを得なかった 」と言っている。
      日本社会の秩序が乱れてきたから、憲法にも「道徳」を書き込み、「道徳教育」も強化しようというのが、自民党が重要視する「道徳」の原点なのだ。
     これから新自由主義の政策がさらに加速され、貧困層が膨大に増えていく。そこで権力や政治に対する不満が爆発すると、政権が覆されるかもしれない。
     だから子供のうちから「秩序」を教え込み、権力に反抗できないような精神を植え付けてしまおうという魂胆の「道徳教育」という側面もあると警戒しておくのが大人である。
     岡田氏の言う「道徳」と「政治・経済」は関係ないという考えは、実にナイーブなもので、わし自身の今までの政治的行動も、大いに関係しているのである。
      権力に従順な国民を育てる装置として「道徳教育」が利用されうることは、中国を見れば明らかである。
      中国の道徳教育は「社会科」と合科になっており、徹底した「愛国教育」を行なっている。
     この愛国教育では日本の「侵略」を撃退した中国共産党の「功績」を徹底的に称賛することが行われる。
     実際に日本軍と戦っていたのはほとんどが国民党軍であり、共産党軍はその間戦力を温存して「漁夫の利」を得ただけなんてことは、絶対に教えられない。
     こうして「中国共産党を正統と認めよ」という教育が行われ、中国人は子供の頃から中国共産党への忠誠心を刷り込まれるのである。