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「ゼレンスキーとプーチン、天地の差」小林よしのりライジング Vol.455
2022-12-27 19:30150ptゼレンスキーは今のところ、確かに「英雄」である。
ウクライナ戦争勃発以前は、政治経験のないコメディアンが大統領に当選したことを「ポピュリズムの極み」と非難し、「ゼレンスキーは間違いなく失敗する」と断言した知識人もいたらしい。
実際に戦争前には失政も多かったようだし、まだ戦争の行方も定まらない現在、戦争後にどうなっていくかなんてことはわかりようもない。
しかし、ゼレンスキーは現時点では間違いなく「英雄」である。
ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は21日、アメリカ・ワシントンを訪問、バイデン大統領と会談し、米国連邦議会の上下両院合同会議で演説した。
2月24日にロシアがウクライナ侵攻を開始してから300日、ゼレンスキーが国外に出たのはこれが初めてである。
ゼレンスキーが訪米するとの報を聞いた際に、わしがまず気になったのは服装をどうするのだろうということだった。
オリーブ・グリーンのTシャツ、冬季の今は軍用トレーナーがトレードマークになっているゼレンスキーだが、戦争前は普通にスーツを着ていた。
さすがに米大統領と会談し、議会演説をするのだから、今回はスーツを着てネクタイをするのかと思っていたのだが、 それがいつものオリーブ・グリーンのトレーナーのままだったので驚いた。
それと同時に、 自分はどこに行こうと、ウクライナ大統領として戦時下にあるということを、スタイルで示しているのだろうとわしは感心した。
ところがアメリカの「保守派」の中には、この服装が「無礼だ」と激怒した者もいたという。
だがその批判に対しては、第2次世界大戦中の1941年に英国のチャーチル首相がホワイトハウスを訪れた際に、「サイレンスーツ」というツナギ服を着ていた事例を挙げて反論する者がいた。
サイレンスーツとは、ドイツ軍の激しい空襲に遭っていたイギリスで、空襲警報のサイレンが鳴ったらすぐ服の上に着て避難できるように作られたものだ。そしてこのスーツは単に実用性だけでなく、国民が一致団結して戦い抜く象徴的な意味合いも持つようになったという。
ゼレンスキーがチャーチルのサイレンスーツを意識していたかどうかはわからないが、 ロシアが軍事侵攻を開始すると、ゼレンスキーは直ちにスーツとネクタイをやめ、ロシア軍と戦うウクライナ国民に近い服装であるTシャツ姿になることで国民との団結を示し、それ以降、どこに行くにもそのスタイルを貫いている。やはりそのセンスは素晴らしいというしかない。
服装ひとつにも文句をつけたように、アメリカの「保守派」にはゼレンスキーを快く思わない者がおり、特にトランプ前大統領の一派にはそれが顕著である。
その理由として、巨額に上るウクライナ支援が、トランプの掲げた「米国第一」の政策に反するということがある。
トランプの「親衛隊長」といわれる共和党のグリーン下院議員は巨額支援を「ばかげている」とSNSに投稿し、ゼレンスキーを「(米国を操る)影の大統領」と、陰謀論めいた呼び方で揶揄した。
また、トランプの長男・ジュニアはゼレンスキーを「恩知らずな国際的福祉の女王(welfare queen)だ」と罵っている。
もともと「福祉の女王」とは1970年代、巨額の福祉支援金を詐取してぜいたくな暮らしをしていた女性詐欺師に付けられた呼称である。
当時大統領を目指していたレーガンが、これを政府の福祉政策の無駄を批判するキャンペーンに利用し、それ以降 「福祉の女王」は、米国の保守派が社会福祉の縮小を主張する際に使う特有の表現となった。
日本のネトウヨの「生活保護バッシング」も、これと似たような感覚だろうが、トランプ政権では特に「福祉の女王」が唱えられていたらしい。
だが、 トランプ一派がゼレンスキーを目の敵にするもっと大きな理由は、もともとトランプがプーチンとズブズブの関係だったからだろう。
そもそもトランプが2016年に大統領に当選できたのも、ロシアがサイバー攻撃やSNSによるプロパガンダなどの世論工作・選挙干渉を行ったためと言われているし、同様の選挙干渉は前回の大統領選でも行われたとされている。
そしてトランプは、プーチンが侵攻直前にウクライナ東部の親ロシア派地域の「独立」を承認したことを「天才的だ」と称賛し、同地域へのロシア軍派兵が「最強の平和維持軍になる」とまで言っていたのである。
日本のネトウヨがゼレンスキーを叩いているのも、Qアノン的なトランプシンパが多いからではないか。
アメリカではトランプが今なお復権を狙っていて、その支持者も一定数存在する。そして、トランプの支持者ではなくとも、巨額な支援に反発する者はかなりいる。 -
「『戦争論』でわしが間違っていた記述」小林よしのりライジング Vol.454
2022-12-13 19:45150ptわしは「ミスをする天才」であると、だいぶ昔描いたことがある。
『ゴーマニズム宣言』も膨大な話題について触れ、『戦争論』や『天皇論』シリーズも描いてきたが、時代の変化につれ、ミスが見つかったり、アップデートしたかったりする箇所はある。
増刷される機会があれば、修正した方がいいのかもしれないし、いちいち少部数の増刷で修正していたら、編集者や印刷会社には手間がかかるから、申し訳ない気もする。
それにその時代の表現だったり、そのときまでのわしの思想だったりするので、間違いは間違いとして残しておいたほうが誠実なんじゃないのかという考えもある。
だが、どうしても訂正しなきゃならない箇所があれば、修正し、謝罪することだってある。
言いっぱなしで転向するのは卑怯だし、思想の成長にならないから、「謝ったら死ぬ病」にだけは罹らないようにしたい。
『新ゴーマニズム宣言SPECIAL戦争論』(幻冬舎)は平成10年(1998)に出版し、来年には刊行25周年となるわしの代表作のひとつで、これまで60刷以上を重ねている。
戦後に「自虐史観」が席巻してしまった日本の歴史観に、大転換を巻き起こした世紀の書であるとの自負もある。
だがその中に、最近になってミスが見つかった。
第18章『軍部にだまされていたのか?』の冒頭で、統一協会の元信者が起こした 「青春を返せ訴訟」 について描いているが、この部分に現在の認識からすると大きな誤りがあり、このままでは統一協会を利してしまう恐れすらあることがわかったのだ。
まだ誰にも指摘されてはいないのだが、見つけてしまった以上、隠すわけにはいかない。
そこで今回は、このことについて説明しておきたい。
統一協会の元信者が、教団の勧誘や教化の方法は違法なものであるとして、教団などに損害賠償を求める裁判が昭和57年(1987)の札幌地裁を皮切りに、全国で起こされた。
原告は青春のすべてを捧げて活動して、裏切られたとして「青春を返せ」と訴えたことから、これらは「青春を返せ訴訟」と呼ばれた。
平成10年3月、名古屋地裁で初めての判決があり、裁判所は教団の行為は元信者に対する不法行為とは言えないとして、原告の請求を棄却した。
わしは『戦争論』の中で、この名古屋地裁判決について 「信仰を捨てたとたん『青春を返せ』と言ったって棄却されて当たり前じゃないか」 と賛同してしまった。
そしてその上で、こう描いている。
元信者たちは結局
「信じたんじゃない だまされたんだ」
と言ってるわけだ
悪かったのは文鮮明教祖であり
統一教会という組織であり
その幹部たちだと
オウム真理教を脱会した元信者にも
似た言い方に転じた者がいた
「麻原が悪い」
「麻原は俗悪なおっさんだ」
「麻原はサギ師だ」
「マインドコントロールのせい」
「信者はだまされていただけ」
かくして元信者たちは
自分たちが愚かであったことは認めても
悪かったこと 自分たちにも
責任があることは認めず
教祖や幹部だけを悪者にして
自分だけどこまでも純粋で
善良な人間であろうとする
「私たちは教団にだまされていただけ!」
だまされることを決断した自分はいないのか?
信じることを決断した自分はいないのか?
「だまされる」ことと「信じる」ことは
両面張り合わせのひとつの心理だ!
この元信者たちは実は相当恥ずかしいことを主張している
つまりこう言ってるのだ
「『自分』はなかったのです」
「カラッポだったのです」
「決定する主体たる自分はなかった」
「だまされただけ!」
わしは統一教会とオウム真理教に深く関わってしまったために
「だまされていただけ」と言って
自分の責任を棚上げにするやつが大嫌いになってしまった
ボロッカスである。
いま見ると、残念ながらこれは認識不足と言わざるを得ない。
確かに執筆当時、「青春を返せ訴訟」では元信者側の敗訴が続いていた。
だが『戦争論』発行以後、平成12年(2000)には広島高裁岡山支部で教団の違法性を認める全国初の判決が出て、その判決が翌年、最高裁で確定した。
これにより、統一協会の勧誘・教化の方法は違法であるという判例が確立し、以降の裁判では元信者側の勝訴が相次ぎ、今日に至っている。
確定した判決では、 統一協会が正体を隠した勧誘を行い 、 計画的に自由意思を制約し、自律的な判断能力を奪った上で入信させる手口 が、 憲法に保障された宗教選択の自由を侵害している ことや、 不当に高額の献金をさせる ことによって元信者の生活を侵し、 自由に生きるべき時間を奪った ことなどが、不法行為に当たると認定している。
現在、統一協会が違法な活動をしているとして、教団の解散や被害者救済へ向けた動きが加速しているが、その「違法活動」が行われたとする根拠こそが、これら「青春を返せ訴訟」の判例なのだ。
わしも現在、統一協会の行為は違法であると非難しており、また、統一協会は創価学会などの宗教とは違うという主張もしている。
そしてその根拠は、 第一に統一協会は正体を隠して接近 してくること、 第二に自律的な判断能力を奪った状態で入信させ、献金させている ことであり、つまり「青春を返せ訴訟」の判決で確定したことと同じ理由なのである。
たとえ元信者たちが「カラッポだった」「決定する主体たる自分はなかった」と主張したとしても、それは「相当恥ずかしいことを主張している」とまで言うわけにはいかない。
実際にマインドコントロールによって「カラッポ」にされ、「決定する主体たる自分」を喪失させられていたと認定し、これは「だまされただけ」だったと言っても仕方がない。
そういうわけで、元信者側が敗訴した「青春を返せ訴訟」の一審判決を『戦争論』の中でわしが支持し、元信者側を批判したのは間違いだったと言うしかない。
「オレオレ詐欺」に騙される老人も結局、人がいいから騙されるのだろう。わしは「個」の確立を啓蒙してきた。だからサタンを飼いならす「個」が必要だというのは真理だ。
だが、ようするに「善良で純粋で、騙されやすい人だって、この世にはいる」と認識しておかなければ、弱者を救えない。
三浦瑠麗や太田光が統一協会に関心を持たないのは、個の弱い弱者を馬鹿にしているからだろう。自己責任が身についているから、信仰は個人の自由でいい、騙される奴が悪いということになる。
以上の認識を再確認したうえで、ではなぜ当時わしが『戦争論』であのようなことを描いたのかを検証しておこう。
この章はまず、統一協会に洗脳されて家族が崩壊してしまった、わしの叔母の話から始まっている。
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