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「森永ヒ素ミルク事件 後編」小林よしのりライジング Vol.421
2021-12-28 16:55150pt前回、前々回と「森永ヒ素ミルク中毒事件」の歴史を見てきた。
岡崎哲夫という、たった一人の人物が執念と理想と信念を捨てずに戦い抜いたことで、絶望的な状況を逆転し、世の中を変えることができたという実例は今後にも大きな希望となるし、ここで話を終えられれば本当に良かった。
だが現実は、そうはいかないのである。
森永乳業は倒産の危機に瀕するほどの不買運動に遭い、刑事裁判で有罪判決が確定するに至ってようやく 企業責任を認め、被害者への恒久対策を行うことを約束した。 事件発生から実に19年もの歳月が経過していた。
娘がヒ素ミルクの被害を受け、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」(被害者が全員成人したのに伴い 「森永ミルク中毒の被害者を守る会」 に改称、略称・守る会)を立ち上げて戦ってきた 岡崎哲夫氏 は、この機に長年勤めた社会福祉協議会(社協)を辞め、守る会の専従となった。
妻の幸子氏は社協の職に留まるべきだと意見したが、岡崎氏は社協の仕事には後任者がいるが、守る会の仕事は、立ち上げからずっと関わってきた自分にしかできないとして譲らなかった。
だが、ここは幸子氏の方が正しかったのかもしれない。
一生障害が残るヒ素ミルク被害者に対しては、一度限りの「損害賠償」ではなく、生涯の医療や生活を保障する「恒久対策」でなければならないというのは、岡崎氏ら被害者の親たちの一貫した主張だった。
これを長年の死闘によってようやく勝ち取り、 恒久対策を実施する「財団法人ひかり協会」 が設立されることは決まった。
しかし、実際に約束通りの恒久対策が行われるかどうかはこれからの問題だった。何しろ相手はこれまで19年間被害者を騙し、蔑ろにし続けてきた森永である。約束が反故にされ、対策が骨抜きにされるということは十分にありうる。
だからこそひかり協会を監視し、恒久対策を確実に実施させるために、被害者団体である守る会の存在が一層大事になるという岡崎氏の考えには、確かに一理あった。
だがその肝心の、自らが心血を注いだ守る会が変質してしまうとは、岡崎氏は夢にも思わなかったであろう。
森永ヒ素ミルク事件が社会的な関心事となって以降、守る会には支援と称して様々な人が入ってきた。そして その中にはイデオロギーに染まったプロ活動家がいた。
運動の一時的な勝利によって守る会には組織と金が生じており、プロ活動家はこれに「利権」として目をつけた。
岡崎氏は守る会において、特に重症者に対する手厚い救済事業の実施と、森永乳業に対する警戒心の保持を第一と考えていたが、このような方針はプロ活動家にとっては邪魔なものだった。 プロ活動家の目的はあくまでも運動の継続にあり、被害者の救済にはないからだ。
岡崎氏は変節を始めた組織を是正しようとするが、これに対してプロ活動家たちは岡崎氏や家族に対してまで、あらゆる誹謗中傷とプロパガンダを展開していったのだった。
これはもう、わしが薬害エイズ運動で目の当たりにした「HIV訴訟を支える会」とそっくりである。
薬害エイズが社会的関心事となり、運動が奇跡的勝利を達成したあたりから、それまでの苦しい闘いをしていた頃には見たことのなかったような人がどこからともなく現れるようになり、いつの間にか専従職員に収まったりしていた。そして、これからも運動の継続が必要だとか言って、運動に参加した学生たちを組織化しようとし始めた。
わしはそれに対して、あくまでも訴訟の支援運動なのだから、訴訟が終わった以上は解散しろ、学生は日常に帰れと訴えた。
そうしたら、わしに対してものすごい誹謗中傷が始まった。
わしは会を辞めたが、その後に会が作成した運動の歩みを紹介するVTRでは、薬害エイズ運動の中に「小林よしのり」という人物は一切存在しなかったかのように編集されていたそうだ。
守る会はプロ活動家に乗っ取られ、その機関紙には毎回岡崎氏に対する誹謗中傷が書き立てられ、それに対する反論は一切載せられなかった。
守る会はひかり協会に従属する存在となり、協会を監視して恒久対策の完全実施を要求していくという役割は失われた。
岡崎氏はこれを本来の形に戻そうとするが、古参の役員たちは次々排除され、 岡崎氏も昭和61年(1986)、守る会を除名されてしまった。
一方、被害者の親たちも決して一枚岩ではなく、守る会を乗っ取った活動家に洗脳される者や、森永におもねる者まで出てきて、個々に分断されて発言力はごく小さいものになってしまった。
こうなれば、もう圧倒的に森永に有利である。ひかり協会が実施する恒久対策には、森永の意向が強く反映されるようになっていった。 -
「オミクロン空騒ぎとワクチン接種のその後」小林よしのりライジング Vol.420
2021-12-21 18:45150pt東京都内の街の人々は、マスクだけはビッシリと着用しながらも、百貨店やショッピングセンター、家電量販店などに「密」を形成して、買い物に没頭している。めぼしい飲食店は、予約満席のケースが多く、大衆居酒屋などでも、老若男女がゲラゲラ笑いながら酔っぱらっている様子があちこちで見られる。
ただ、マスコミはと言うと、相変わらず 「オミクロン株キター!」 の連呼である。
12月17日(金曜)の東京新聞には、度肝を抜かれた。
なにしろ、朝刊1面トップ記事が、これだ。
「オミクロン株『水際』すりぬけ」
「自宅待機 都内の女性陽性」
「接触し感染か 知人男性がサッカー観戦」
記事によれば、米国から帰国した20代女性が、空港検疫では陰性だったものの、自宅待機中に発熱し、オミクロン株に感染していることが発覚したというもの。
素直に自己申告しすぎだよと言いたくなるが、帰国当日には、女性の自宅に彼氏がお泊まりして濃厚接触しており(それもしゃべりすぎだよ)、彼氏は、発熱と咳の症状が出たが、薬を飲んで会社に出勤しており、家族や同僚らと一緒にサッカー天皇杯を観戦したという。
その後、彼女のオミクロン株をもらっていたことが発覚し、サッカー場で男性の周囲にいた人々に対して検査が呼びかけられ、女性と同じ飛行機に搭乗していた人は、濃厚接触者扱いになっている。
どんだけ恐ろしい変異株なのかという話だが、 肝心の女性は「ほぼ症状がなく、入院中」、彼氏も「症状がない」 と真面目に書かれているのでズッコケる。
症状がないなら、いつぞやの「新宿ホスト大量入院」と同じことになって、防護服で対応しなければならない看護師たちにストレスを与えるだけだから、すぐさま解放したほうがいい。
この日は、森友学園問題で自殺に追い込まれた財務省職員・赤木俊夫さんの妻が起こした訴訟が、冷酷無比に幕引きされた翌朝だった。東京新聞ならば、国家を糾弾する姿勢をトップで見せてくれよと思う。
だが、新聞社として、国家権力の疑獄よりも重要なのは、 風邪をひいた若いカップルのお泊まり話!
記者は、一体どんな顔でこの記事を書いたのか。
このくだらなさは、東京新聞だけではない。テレビでは、次々と速報が打たれ、報道番組は、カップルの様子について、ほぼ犯罪者扱いで解説。
https://youtu.be/UU_FJaxIaCE
https://www.youtube.com/watch?v=rJNK-zi3IZ8
https://www.youtube.com/watch?v=0XIa74BTWa8
どこもかしこも頭がおかしい。
ちょろっと熱が出て、すぐ治ったなら、 「風邪ですね」 で終わりでいい!
広まりやすいのならば、たまたま人生の終末を迎えつつある人や、ひどく免疫機能の衰えた人の口内に入った所をキャッチされて、「オミクロン死者」と騒がれることになるのだろう。
しかし、そもそもバカの一つ覚えの「PCR検査」にさえ固執しなければ、注目すらされない話なのだ。
サッカーの試合は、入場上限が撤廃されて18,000人の観客が入っていたそうだが、同じ競技場にいたという若い男性が、 「密になっていた」「不安」 などとインタビューに答えているのでため息が出た。
みずから上限撤廃の試合に出かけておいて、何を言い出しているのか、「自分の免疫に自信を持て~!」と肩をつかんで前後左右に強く揺さぶりたい。それに、この時期、ノロウイルスなど、軽い発熱などでは済まない強烈な感染症はいくらでもあるではないか。
しかし、インタビューされている人の様子を見ていると、いま街に繰り出して楽しんでいる普通の人々も、テレビカメラを向けられて、オミクロン株について聞かれると、途端に 「みんな出てきているから怖いですね」「密は不安です」 と答えるのではと思えてくる。世間に対して見せる自分と、欲望に忠実に行動する自分とが分裂している。 -
「森永ヒ素ミルク事件 前編」小林よしのりライジング Vol.419
2021-12-14 15:30150pt新型コロナウイルス接種後の副反応疑い死亡者数は、厚労省に報告が上がっているだけでも1387人にも上る。中でも、 子供はコロナでは一人も死んでいないのに、ワクチンで死者が出ているのは重大問題だ。
それなのに国は、なおも子供への接種を広げようとしている。
もしもこれが食品の中毒事件だったらどうだろう。即座に出荷停止、回収となるはずではないか?
そう思ったところで、ふと 「 森永ヒ素ミルク中毒事件 」 が頭に浮かんだ。
大勢の子供が犠牲になった事件でもあるし、薬害エイズや新コロワクチンにも通じるものがあるかもしれない。
ところがこの事件、その名は知っているものの、どういうわけだか、その詳細はよく知らない。
昭和30年(1955)の事件だから、昭和28年生まれのわしとほぼ同世代の人が被害者になったわけだが、その割にはなぜか詳しいことは知らないままだった。
そこでこの機会に知っておこうと思い、調べてみた。
昭和30年の6月末頃から、西日本一帯の赤ちゃんに原因不明の奇病が流行った。 その症状は、それまで元気だった赤ちゃんに発熱や下痢が続き、飲んだミルクを度々吐き、全身各所の皮膚が黒く変色し、腹が膨れてくるというものだった。
病気の赤ちゃんには全員に共通点があった。森永乳業の缶入り粉ミルク 「森永ドライミルク」 を飲んでいたのだ。
このことは8月初旬には判明していたが公表されず、森永ミルクの飲用中止が呼びかけられることもなかった。
そしてその公表は、森永ミルクからヒ素が検出されて原因が確定した8月24日まで延ばされ、その間も被害は拡大し続けた。
8月24日の新聞各紙はこの件を大きく報じたが、その見出しには「森永」の文字はなく、記事を読んでいかないと原因がわからないようになっていた。
みんな、巨大企業・森永に忖度したのだ。
森永乳業は新聞・雑誌・ラジオ、そして開局間もないテレビで積極的にCMを打ち、さらに「赤ちゃんコンクール」を開催して大きな効果を上げ、急速に売上げを拡大。当 時は粉ミルク全国シェアの50%以上を占めていた。
森永は「母親の愛情」と自らの企業イメージを結びつけるプロモーションを積み重ねており、その製品を疑う者はいなかった。
だが製品の実情は、宣伝とはかけ離れたものだった。
原料の牛乳が新鮮なら問題はないが、 劣化した牛乳を粉ミルクに加工すると水に溶けにくくなるため、「安定剤」を添加して溶けやすくする必要がある。
森永は急激にシェアを伸ばして大増産を迫られ、工場から遠く離れた酪農家からも原料乳を仕入れていた。当時は保冷設備のついたタンクローリーがなく、輸送中に品質は劣化した。そうして 腐敗寸前の牛乳まで使用することになり、安定剤は必要不可欠となった。そして問題は、この「安定剤」だった。
ヒ素が入っていたのは徳島工場(製造所コード・MF)で製造された通称「MF缶」だけで、ヒ素は徳島工場に納入された安定剤・第二リン酸ソーダに混入していた。
第二リン酸ソーダ自体は現在でも使用される食品添加物だが、徳島工場が使用したのはなんと純度の低い「工業用」だった。
しかもそれは、メーカーが国鉄(当時)に「機関車のボイラー洗浄用」として納入したが、ヒ素が混じっているとして返品されたものだった。
ところがこれが再出荷され、いくつかの企業を経由して、最終的に森永乳業徳島工場に行き着き、安全検査もされずに粉ミルクに使用されたのだ。
後の裁判で森永側は、 「第二リン酸ソーダにヒ素が入っていたとは知らなかった。納入業者に騙された。森永も被害者だ」 と抗弁した。
これに対して納入業者は、 「森永は用途を話さず、秘密にしたがった。もし食品用と聞いていたら、それ相当のものを納入した」 と反論した。
ヒ素ミルクの患者数は約1万2300人、死亡者は130人にも上った。
長女が生後2か月でヒ素中毒を発症した 岡崎哲夫氏は「被災者同盟」を結成 し、被害児の親たちを集めて森永乳業らと交渉を開始した。
当時岡崎氏は小さな化粧品店を営んでいたが、岡崎氏は被災者同盟の活動に、夫人は娘の看病に追われ、「被災者同盟事務所」の看板がかかった店にはマスコミや被災者が出入りして「変な店」「アカの店」と噂され、経営は傾いた。
しかもそこに、厚生省(当時)が介入してきた。
当時は産業育成政策や高度経済成長が最優先される時代であり、国は完全に森永乳業の側についていた。
厚生省は日本医師会に依頼してヒ素ミルク被害の診断・治療方針に携わる委員会を設置した。その会長に就任したのは 大阪大学名誉教授・西沢義人 という人物だが、これがどんな人だったかは、以下の発言を引くだけで十分だろう。
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