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知的な態度とは何か、知性とは何か、ということを、幼い頃からずっと考えていた。
その中で、知的な態度とは、「なぜ?」というのを突き詰めて、ものごとを客観的にとらえることだというのが何となく分かってきた。爾来、そういう態度を貫いている。
その結果どうなったかというと、何でも客観的にとらえるくせがつくようになってしまった。そうして、何でもかんでも納得できるようになり、その分、どんどん社会から乖離するようになった。
例えば、残酷な殺人事件が起きたとする。これを、感情的にではなく理性的に考えて、客観的にとらえていくと、どんどんと「殺した側」の事情というものが理解できるようになる。そうして最後には、殺人を犯したのもむべなるかな……などという結論に至ってしまって、被害者ではなく殺人鬼に、そこはかとない感情移入や同情心を寄せてしまうようになるのである。
そのため、自分の考えがなかなか世間と合一できなくなる。
例えば、世の中からは極悪非道の評価が定まった死刑囚にさえも、「おれが彼の立場だったら、やっぱり殺していただろうな」などと思ってしまうのである。
それが、知的な態度の行き着く先である。だから、知的な態度や知性というのは、まあ、碌でもないものなのである。
ところで、なぜこんなことを書いているかというと、こういうブログ記事を読んだからだ。
堀江貴文氏とのやり取りから見える「ニッポンの多数派」の論理
このブログ記事は、映画監督である想田和弘氏が、東京オリンピックの開催を巡って、Twitter上でホリエモンこと堀江貴文氏と論争したことを受けて書かれた。
この論争では、想田氏が2020年の東京オリンピックに対して、原発事故の収束もなっていないのにするべきではないと反対の立場を表したのに対し、堀江氏からは、「ウザい」「粘着質」などと反論のあったものだ。
その論争を、端から見ていた人がいた。それは、Twitterのアカウントを@HSarabandeという人なのだが、二人の意見を見比べて、自身のTwitterでそれを批評するような連投ツイートをした。
その連投ツイートを見た想田氏が、「がぜん意味が出てきた。感謝したい」と受け取って、この記事で引用したのだ。
さて、その連投ツイートなのだが、ここで@HSarabande氏は、想田氏の態度を「知的」と評価しているのに対して、堀江氏の態度を「感情的」と断罪し、はっきり「良くないもの」としている。以下に、該当部分を引用してみる。
「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気、空気、これは、知的ではなく、感情的な論理である。比較的多数の、空気にのって楽しんでいる多数派は、それに水をさされると、感情的嫌悪感で反応してくる。「キモい、怖い、マゾ」であり、排除である。
この知的欠陥を持つ多数派の感情論理=日本的空気(第二次世界大戦敗戦と、原発事故問題の歴史的経緯から、「欠陥」と呼んでも差支えないと判断する)を、いかに少数派が、戦略的に切り崩し、風穴をあけ、より成熟した空気を醸成してゆけるのか。結局は、そういう問題に帰する。
この「知的欠陥を持つ多数派の感情論理」は、子供であれば、いじめ問題に直結する。一人が苦しんでいても、多数が面白ければいいじゃん、なんで、そこに水をさすわけ?となる。一人の苦しみの深さは、ネグレクトされる。それが、今は福島であり、福島や最終処分地の苦悩を代弁しようとする者である」
ぼくは、この@HSarabande氏の物言いが、どうにも気になった。それは、彼の言う「知的」が、どうしても「知的」には思えなかったからだ。もっといえば、ぼくの知っている「知的」とはずいぶん違う、「非知的」な考え方だとさえ思った。
どいうことかというと、@HSarabande氏の視点には、ぼくが冒頭で述べたような、何ごとも客観的にとらえるという視点が欠けているのである。
例えば彼は、「第二次世界大戦」や「子供のいじめ」を単純に「悪いもの」と決めつけているようなのだが、これは、ちょっと知的に考えれば、「本当にそうだろうか?」と疑問の湧くところなので、こういうふうに簡単に断罪はできないはずなのだ。
本当に知的な人間は、第二次世界大戦やいじめが必ずしも「悪」ではないというのを知っている。「悪」というのは本当に一面的なとらえ方だ。本当に知的な人間は、戦争やいじめの「善」なる側面にも目配りできるのである。
例えば、「いじめ」にははっきりとした「善」の側面がある。それは、こういう論理からである。
人間は、社会なしでは存続しえない。だから、個人と社会、どちらを優先させるかといえば、立前はいろいろあれど、これまではずっと社会を優先させてきた。それが本質である。
なぜなら、社会が崩壊してしまえば、人類は存続できないからだ。全滅してしまう。そこで、次善の策として、個より社会を優先するという選択を採ったのだ。
社会を優先すると、ある個は滅しても、残りの個は存続を許される。その方が全滅するよりはまし、というのが人間の本質的な考え方なのである。
だから、社会を崩壊させるような個は、必然的に社会が排除しようとする。いじめはその一形態だ。子供の社会では、個をいじめることによって、社会そのものを守ろうとしているのだ。なぜなら、その個を滅しないと、社会そのものが滅してしまい、それは、全ての子供が滅してしまうことを意味しているからだ。
そもそも、人間には「死」がある。それは、個にとっては悲劇かも知れないが、社会にとっては新陳代謝を促進する、むしろ喜ぶべきことだ。そうして、いじめによる個の抹殺を「新陳代謝」ととらえると、これはもう「善」としか評価しようがなくなるのである。
戦争で人が死ぬのも、これと同じ理由で「善」だ。本当に知的な態度を取るならば、そうした結論に比較的すぐに到達するはずなのである。
ただし、この考え方はあまりにも世知辛く、多くの人は受け止めきれない。そのため、いつの頃からか「立前」というのが必要になった。社会は、自然と「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気」を醸成し、そうした世知辛い現実からは目を背けても生きていけるような状態を生み出した。その意味では、これは社会を存続させるための一つの「知恵」であり、あるいは「発明」とすらいうことができるだろう。
こういう知恵や発明は、上の例でいえば堀江氏のような「ウザい」という態度となって現れることもあれば、想田氏や@HSarabande氏のような「戦争やいじめは良くない」という態度となって現れることもある。つまり、三者はいずれも「知的欠陥を持つ多数派の感情論理」という意味では、同じ穴の狢なのだ。
その中で、知的な態度とは、「なぜ?」というのを突き詰めて、ものごとを客観的にとらえることだというのが何となく分かってきた。爾来、そういう態度を貫いている。
その結果どうなったかというと、何でも客観的にとらえるくせがつくようになってしまった。そうして、何でもかんでも納得できるようになり、その分、どんどん社会から乖離するようになった。
例えば、残酷な殺人事件が起きたとする。これを、感情的にではなく理性的に考えて、客観的にとらえていくと、どんどんと「殺した側」の事情というものが理解できるようになる。そうして最後には、殺人を犯したのもむべなるかな……などという結論に至ってしまって、被害者ではなく殺人鬼に、そこはかとない感情移入や同情心を寄せてしまうようになるのである。
そのため、自分の考えがなかなか世間と合一できなくなる。
例えば、世の中からは極悪非道の評価が定まった死刑囚にさえも、「おれが彼の立場だったら、やっぱり殺していただろうな」などと思ってしまうのである。
それが、知的な態度の行き着く先である。だから、知的な態度や知性というのは、まあ、碌でもないものなのである。
ところで、なぜこんなことを書いているかというと、こういうブログ記事を読んだからだ。
堀江貴文氏とのやり取りから見える「ニッポンの多数派」の論理
このブログ記事は、映画監督である想田和弘氏が、東京オリンピックの開催を巡って、Twitter上でホリエモンこと堀江貴文氏と論争したことを受けて書かれた。
この論争では、想田氏が2020年の東京オリンピックに対して、原発事故の収束もなっていないのにするべきではないと反対の立場を表したのに対し、堀江氏からは、「ウザい」「粘着質」などと反論のあったものだ。
その論争を、端から見ていた人がいた。それは、Twitterのアカウントを@HSarabandeという人なのだが、二人の意見を見比べて、自身のTwitterでそれを批評するような連投ツイートをした。
その連投ツイートを見た想田氏が、「がぜん意味が出てきた。感謝したい」と受け取って、この記事で引用したのだ。
さて、その連投ツイートなのだが、ここで@HSarabande氏は、想田氏の態度を「知的」と評価しているのに対して、堀江氏の態度を「感情的」と断罪し、はっきり「良くないもの」としている。以下に、該当部分を引用してみる。
「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気、空気、これは、知的ではなく、感情的な論理である。比較的多数の、空気にのって楽しんでいる多数派は、それに水をさされると、感情的嫌悪感で反応してくる。「キモい、怖い、マゾ」であり、排除である。
この知的欠陥を持つ多数派の感情論理=日本的空気(第二次世界大戦敗戦と、原発事故問題の歴史的経緯から、「欠陥」と呼んでも差支えないと判断する)を、いかに少数派が、戦略的に切り崩し、風穴をあけ、より成熟した空気を醸成してゆけるのか。結局は、そういう問題に帰する。
この「知的欠陥を持つ多数派の感情論理」は、子供であれば、いじめ問題に直結する。一人が苦しんでいても、多数が面白ければいいじゃん、なんで、そこに水をさすわけ?となる。一人の苦しみの深さは、ネグレクトされる。それが、今は福島であり、福島や最終処分地の苦悩を代弁しようとする者である」
ぼくは、この@HSarabande氏の物言いが、どうにも気になった。それは、彼の言う「知的」が、どうしても「知的」には思えなかったからだ。もっといえば、ぼくの知っている「知的」とはずいぶん違う、「非知的」な考え方だとさえ思った。
どいうことかというと、@HSarabande氏の視点には、ぼくが冒頭で述べたような、何ごとも客観的にとらえるという視点が欠けているのである。
例えば彼は、「第二次世界大戦」や「子供のいじめ」を単純に「悪いもの」と決めつけているようなのだが、これは、ちょっと知的に考えれば、「本当にそうだろうか?」と疑問の湧くところなので、こういうふうに簡単に断罪はできないはずなのだ。
本当に知的な人間は、第二次世界大戦やいじめが必ずしも「悪」ではないというのを知っている。「悪」というのは本当に一面的なとらえ方だ。本当に知的な人間は、戦争やいじめの「善」なる側面にも目配りできるのである。
例えば、「いじめ」にははっきりとした「善」の側面がある。それは、こういう論理からである。
人間は、社会なしでは存続しえない。だから、個人と社会、どちらを優先させるかといえば、立前はいろいろあれど、これまではずっと社会を優先させてきた。それが本質である。
なぜなら、社会が崩壊してしまえば、人類は存続できないからだ。全滅してしまう。そこで、次善の策として、個より社会を優先するという選択を採ったのだ。
社会を優先すると、ある個は滅しても、残りの個は存続を許される。その方が全滅するよりはまし、というのが人間の本質的な考え方なのである。
だから、社会を崩壊させるような個は、必然的に社会が排除しようとする。いじめはその一形態だ。子供の社会では、個をいじめることによって、社会そのものを守ろうとしているのだ。なぜなら、その個を滅しないと、社会そのものが滅してしまい、それは、全ての子供が滅してしまうことを意味しているからだ。
そもそも、人間には「死」がある。それは、個にとっては悲劇かも知れないが、社会にとっては新陳代謝を促進する、むしろ喜ぶべきことだ。そうして、いじめによる個の抹殺を「新陳代謝」ととらえると、これはもう「善」としか評価しようがなくなるのである。
戦争で人が死ぬのも、これと同じ理由で「善」だ。本当に知的な態度を取るならば、そうした結論に比較的すぐに到達するはずなのである。
ただし、この考え方はあまりにも世知辛く、多くの人は受け止めきれない。そのため、いつの頃からか「立前」というのが必要になった。社会は、自然と「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気」を醸成し、そうした世知辛い現実からは目を背けても生きていけるような状態を生み出した。その意味では、これは社会を存続させるための一つの「知恵」であり、あるいは「発明」とすらいうことができるだろう。
こういう知恵や発明は、上の例でいえば堀江氏のような「ウザい」という態度となって現れることもあれば、想田氏や@HSarabande氏のような「戦争やいじめは良くない」という態度となって現れることもある。つまり、三者はいずれも「知的欠陥を持つ多数派の感情論理」という意味では、同じ穴の狢なのだ。
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コメント
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『チャボとウサギの事件』で書かれているような「情熱」と「理」のバランスを、社会のものごとから客観的に読み取る態度が、「知的である」ということでしょうか。
岩崎夏海(著者)
>>1
感情的なことや状態をバカにしない、ということですね。むしろそれを重んじるくらいでいいと思います。
そうか、でも、ぼくは15年前にそのことを書いていたんですね。
ぼくがたびたび感情的に振る舞うのも、感情を大切にしているからなんですよね。
まぁ、感情的に振る舞うことの代償も大きいですけどね。
でも、得るものの方が大きいことは確かです。
“知的欠陥を持つ多数派の感情論理=日本的空気”と表現されていますが、“知的欠陥を持つ多数派の感情論理“は日本特有のものなのでしょうか?
後述の“社会は、自然と「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気」を醸成し、そうした世知辛い現実からは目を背けても生きていけるような状態を生み出した。”という知恵や発明はすべての人間社会が獲得しているものだと考えますが如何でしょうか。
岩崎夏海(著者)
>>3
まさしくその通りで、これが日本人にだけ起こることというのは、「知的欠陥を持つ多数派の感情論理」に他なりません。
また「クリティカルな欠点を覆い隠したうえでなりたっている、多数派の多幸的な雰囲気」というのも、世界中のあらゆる社会で見られる現象ですね。
その意味で、彼の論理は単純に破綻しているということができるでしょう。