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記事 16件
  • マンガのはじまり:その16(1,673字)

    2023-01-30 06:00 8時間前 
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    『ノンキナトウサン』は、大正末期の関東大震災などに端を発する「不況」という世相にぴったりハマって、大ヒットとなった。それ以前の大正前半は、第一次世界大戦がもたらした輸出の拡大によって、維新以来の好況に沸いていた。そのいわば「大正バブル」の中でさまざまな文化が花開いた。
    それは後に「大正元禄」と呼ばれるようになるのだが、その文化シーンをリードしていたのは当時の若者たち――モボ(モダンボーイ)とモガ(モダンガール)であった。彼らはアメリカ「狂騒の20年代」の影響を色濃く受けながら、あらゆるものを洒脱に、如才なく受け止めようとした。洗練された「ジョーク」で昇華しようとしたのだ。
    だから、大正末期に訪れた不況においても、あたふたすることをよしとしなかった。軽く受け流し、虚勢を張った。『ノンキナトウサン』作者の麻生豊も、それを読んだ読者たちも、モボやモガであった。だから、『ノンキナトウサン』は不況を

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  • マンガのはじまり:その15(1,588字)

    2023-01-23 06:00  
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    北澤楽天が活躍したのは、25歳だった1901年(明治30年)から、55歳になった1930年(昭和5年)くらいまでの30年間だ。つまり明治末期から大正全部、そして昭和初期である。
    こうしてみると、やはり「昭和不況」が、楽天のマンガ家人生にもとどめを刺したのだろう。ここは時代の大きな転換点で、50代の楽天はさすがに乗り越えられなかった。
    それでも、30年間は第一線で活躍した。実に息の長いマンガ家であった。
    ただ、例えば現代の人気マンガ家である井上雄彦や冨樫義博らも、すでにマンガ家生活30年以上だ。手塚治虫はちょうど40年くらいマンガの第一線で活躍した。
    そう考えると、マンガ家というのは息の長い職業だ。老人になっても活躍できる、希有な表現媒体である。さいとう・たかをやみなもと太郎も死ぬまで現役だった。ちばてつやもまだ現役である。
    楽天は、若くして福澤諭吉の時事新報で「時事漫画」を描き始め、人気を

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  • マンガのはじまり:その14(1,888字)

    2023-01-16 06:00  
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    宮武外骨という人がいる。
    1867年(慶応3年)に香川県で生まれ、明治14年(1881年)、14歳のときに上京する。その後ジャーナリストを志し、新聞や雑誌を発行するようになる。
    反骨精神に富んだ彼は、しきりに明治政府を批判した。特に1889年(明治22年)、22歳のとき、主宰する「頓知協会雑誌」という雑誌で、大日本帝国憲法発布式をパロディ化した戯画「頓知研法発布式」を掲載する。
    頓知研法発布式
    明治政府やそれが満を持して定めた日本最初の憲法はおろか、明治天皇まで文字通り「骸骨」に描いて茶化した過激な風刺画だ。これによって外骨は、不敬罪のかどで逮捕され、禁固3年の刑に処せられる。大変に重い処分だが、ここから約20年後の1910年(明治43年)に起きた大逆事件では、数多くの人が死刑になった。そのことを考えると、この頃はまだ時代が鷹揚だったといえよう。
    この外骨は、1901年(明治34年)、34

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  • マンガのはじまり:その13(1,553字)

    2023-01-09 06:00  
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    北澤楽天も若い頃はそれなりに反骨精神があり、風刺精神も持ち合わせていたが、中立の立場を貫く時事新報に長くいたことで、その牙は徐々に失われていく。そうしてやがて、社会の中の「おかしみ」に目を向け、それをふざけ半分に茶化していくことに自分の生きる道を見出していった。当時はそれが求められていたということも大きかっただろう。
    楽天は1876年(明治9年)の生まれだが、16歳の1894年(明治27年)に日清戦争が起こる。ここで日本の国体はあらかた固まった。ここから明治政府の権力がどんどんと強まっていく。
    時事新報の創刊は1882年(明治15年)で、つまりは国体が固まったあとに始まったのだ。だから、なおさら中立でいる意味は大きかった。それが当時の社会情勢ともマッチしていたのだ。
    楽天がそこに加わるのは1899年(明治32年)である。23歳のときだが、このときの社会情勢はさらに明治政府寄りになっていた。

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  • マンガのはじまり:その12(2,256字)

    2022-12-26 06:00  
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    ここで、あらためて「明治の北澤楽天」について見ていきたい。
    北澤楽天は明治9年(1876年)の生まれだ。進取の気性で若い頃から横浜に出入りし、外国人向けの新聞社」ボックス・オブ・キュリオス」で挿絵画家の職を得た。彼は、海外の文化に強い興味があった。新しもの好きの若者だったのだ。
    そこで、先輩の風刺画家でオーストラリア人のナンキベルに大いに刺激され、風刺マンガを描き始める。その後、ナンキベルは退社してアメリカへ移住するが、福澤諭吉の義理の甥である今泉一瓢に引っ張られて、今度は時事新報で描き始める。明治32年(1899年)、楽天23歳のときだ。
    ただ、そこで楽天は、風刺を封印することになる。特に政治を風刺しなくなった。というのも、福澤諭吉と彼の作った時事新報という新聞が、政治的に中立の立場だったからだ。福澤は、政治的には中立を保ちながら日本の「文明開化」に熱心だった。取り分け身分制度の打破を目

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  • マンガのはじまり:その11(1,703字)

    2022-12-19 06:00  
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    北澤楽天は1902年から時事新報に「時事漫画」の連載を始めた。楽天26歳の年である。
    前にも書いた通り、これの形式はアメリカ由来の「コミック・ストリップ」だった。おかげで以降、コミック・ストリップのスタイルが「漫画」と呼ばれるようになる。
    こうしてみると、漫画の源流にはアメリカという国もあったことになる。『北斎漫画』など日本の浮世絵、フランスの風刺画、イギリスのパンチ系雑誌、アメリカのコミック・ストリップなどが絶妙に組み合わさって、徐々に新しいスタイルが組み上がっていったのだ。
    この「時事漫画」が絶大な人気を獲得し、北澤は1905年に『東京パック』という漫画雑誌を自ら創刊している。この「パック」という名は、恩師ナンキベルがアメリカで編集していた雑誌『パック』にちなんでいる。
    『東京パック』のサイズはB4変形版で、つまりA4よりも一回り大きい。昔のグラフ誌のようなサイズだ。中身もオールカラー

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  • マンガのはじまり:その10(2,135字)

    2022-12-12 06:00  
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    18世紀のイギリスで、ウィリアム・ホーガスが政治家や上流階級を風刺した絵を描いて人気になる。
    ただ、ホーガスは誇張した絵(カリカチュア)を描かなかった。ところがホーガスの死後、カリカチュアを描く画家が多数現れる。カリカチュアの方が描くのは簡単で、また需要も高かったからだ。そうしてカリカチュアの技法と人気が確立していった。
    19世紀に入ると、フランスで1830年にシャルル・フィリポンが、カリカチュアを前面に押し出した雑誌、その名も『カリカチュール』を創刊する。ここでは、主に政治家の風刺画で人気を博す。
    その人気を受け、フィリッポンは2年後の1832年、さらにカリカチュアをフィーチャーした日刊紙『シャリバリ』を創刊する。これがさらなる人気を博し、オノレ・ドーミエなどのカリカチュール画家が人気となった。
    この『シャリバリ』の人気を受け、今度はイギリスで1840年にカリカチュア誌『パンチ』が創刊さ

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  • マンガのはじまり:その9(1,703字)

    2022-12-05 06:00  
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    江戸が終わって明治になると、世の中は再び窮屈になった。今度は「政府」が、幕府に代わって人々を同調圧力で縛り始めたからだ。
    そのとき、まるで救世主のように、日本に2人の「ふざける男」が現れた。渋沢栄一と福澤諭吉である。
    2人はともに、「明治政府」の要人だった。そのため、2人とも公職に就くよう政府から請われたが、これを蹴って野にとどまった。そうしてフリーな立場で活躍したのだ。渋沢は経済の世界で活躍し、福澤は教育の世界で活躍した。
    この2人は、ともにかなり明確に明治政府を批判していた。その縛ってくる態度が気に入らなかったからだ。せっかく江戸の窮屈さが嫌で幕府を倒したのに、再び窮屈にしたのでは元の木阿弥だった。
    それでも、明治政府の権力はあまりにも絶大だった。そのため、2人は表立っては政府と対立しなかった。また、中に入って変えようともしなかった。そういうことをしても、結局権力にねじ伏せられ、望むよ

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  • マンガのはじまり:その8(1,334字)

    2022-11-28 06:00  
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    欧米では、産業革命に伴って新聞も発展した。それまで上流階級向けだったのが一般向けになった。新聞が大衆化された。
    大衆化されると、中心的な読者はいわゆる「労働者階級」になった。そして、この頃の労働者には、常に資本家や政治家に対する不平や不満があった。
    だから、その憂さを晴らす必要があった。ガス抜きが必要であった。そうして新聞は、自然とそのガス抜きの役割を果たすようになるのだ。労働者たちは、憂さを晴らすために新聞を読むようになっていった。
    そのため、新聞の中でも「風刺画」の役割が増した。風刺画の社会的地位が高まった。風刺画の人気がより一層高まったのだ。
    なぜかというと、労働者の一部は、まだそれほど知的に洗練されていない「非知識階級」だった。そういう人々は、小難しい文章を苦手としていた。その分、絵が好きになった。彼らは、戯画化された資本家や政治家の顔に夢中になった。それを見て笑い、憂さを晴らして

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  • マンガのはじまり:その7(1,931字)

    2022-11-21 06:00  
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    日本には古くから「諧謔精神」があった。ふざけることで、お上の追求を巧妙に逃れながらも、これを手厳しく糾弾していた。これが、日本社会における同調圧力のガス抜きの役割を果たしていた。
    ただ、諧謔をするには高度な技術が必要なので、誰にでもできるというものではなかった。そこで、古くから「ふざけ」を指南する人が社会の中で求められてきた。そうして育まれたのが「戯」の文化だ。
    戯作、戯曲、戯画など、そこでは主に「芸術家」が、人々にふざけの手本を示した。おかげで多くの人が、その真似をすることで自分でもふざけができるようになり、社会の風通しが良くなった。これは、特にお上の締めつけが厳しかった江戸時代に、急速に発展した。
    そうして、戯の指南役としての芸術家が次々と輩出される。逆にいえば、江戸時代の芸術家には、だいたい戯の指南役の役割が求められた。ふざけていないと、芸術家としてはなかなか独り立ちできなかった。

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