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記事 48件
  • 石原莞爾と東條英機:その48(1,581字)

    2024-05-13 06:00  
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    一夕会は宇垣一成や宇垣閥を牽制するために荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎を盛り上げた。実際、東條英機は荒木貞夫に相当な尊敬の念を抱いていた。
    荒木貞夫はどのような人物か?
    1877年生まれで旧一橋家の出身である。つまりバリバリの徳川だ。
    1897年に陸軍士官学校を卒業し、1907年には陸大を首席で卒業する。そうして恩賜組となり、幹部候補生としてエリート街道を歩むことになった。
    荒木貞夫は徳川家の矜持か、清廉な性格で、独特のカリスマ性があり、若手将校からの信頼と人気があった。先述のように東條も惚れ込んだくらいなのだが、それより下の無印の将校たちの間にはさらに熱狂的なファンが数多くいた。
    それは、荒木が「若者好き」だったということもある。荒木は他の将軍とは違って若手と積極的に交わったので、若手もそんな荒木を好んだ。荒木は彼らを自宅に招き、毎晩のように酒席を交わした。そんなふうに、荒木は若手にとっ

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  • 石原莞爾と東條英機:その47(1,652字)

    2024-05-06 06:00  
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    ここで陸軍の「派閥史」を概観してみたい。
    1873年に陸軍省が創設され、ここから山縣閥が始まる。山縣は1938年の生まれなので、スタート時はまだ35歳の若さであった。
    1889年に、ドイツに留学した東條英機の父、英教が山縣に長州閥の弊害を直談判する。それが山縣の恨みを買って、英教は出世街道から脱落する。英教は34歳、山縣は51歳。英機は1984年の生まれなのでまだ5歳であった。
    その山縣も、1918年に宮中某大事件を起こし、失脚する。80歳であった。ここで初めて山縣閥が崩れ、4年後の1922年に83歳で亡くなる。
    山縣亡き後、陸軍の中で力を持ったのは長州閥ではない宇垣一成だった。宇垣は1868年に岡山県で生まれる。1900年に陸大を3位で卒業し、恩賜の軍刀を拝領する。いわゆる「恩賜組」だった。
    彼は、若い頃に陸軍で第二の派閥だった薩摩閥の川上操六に気に入られ、出世する。川上は1899年に亡

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  • 石原莞爾と東條英機:その46(1,696字)

    2024-04-29 06:00  
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    1929年に歩兵連隊長になった東條英機は、部下の歩兵たちにとっては理想に近い上司だった。常に下々のことを気にかけてくれ、偉ぶったところが少しもなかった。
    東條は、部下たち全員の顔や氏素性を覚え、何くれとなく声をかけたり、また気にかけてくれたりした。陸大を受ける将校がいたら、受験勉強に励めるよう、仕事の量を少なくするなど配慮した。これは、自分が陸大受験に苦労した経験によるものだ。
    東條はとにかく人情にあつかった。人間味があったのだ。それが、エリート揃いの天保銭組の中ではいかにも異色であった。天保銭組のほとんどは、歩兵など歯牙にもかけないどころか、人間扱いすらしなかった。エリートたちにとって、歩兵は単なる駒、もっというと道具に過ぎなかった。道具としてのケアはしたが、人間扱いすることはなかったのだ。
    しかし東條は違った。彼は歩兵たちを人間扱いし、あつい人情をかけた。それで、東條は「人情連隊長」な

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  • 石原莞爾と東條英機:その45(1,708字)

    2024-04-22 06:00  
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    満州事変で石原莞爾が激動の中心にいた頃、東條英機は何をしていたのか?
    彼は東京にいた。歩兵第一連隊長として、出世街道のほぼど真ん中を順調に歩んでいた。
    一方で、東條は一夕会でもど真ん中を歩いている。一夕会のトップは押しも押されもしない永田鉄山だったが、東條はその直下のナンバーツーだった。そして、忙しい永田に代わって、一夕会の中心的な役割を担っていたのだ。いうならば「幹事役」だった。
    ここまで見てきたように、一夕会は静かなるクーデターを目指した反逆者たちの集まりだ。彼らの目的は二つあって、一つは陸軍の合法的な乗っ取り(と改革)、もう一つは満蒙問題の解決である。
    そうして一夕会のうち板垣・石原ラインが満蒙問題――すなわち満州事変の中心的役割を担っていたため、東京にいた永田・東條ラインが静かなるクーデター――すなわち陸軍の改革を担うようになっていった。
    そこで東條は、歩兵第一連隊長という役職に就

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  • 石原莞爾と東條英機:その44(2,107字)

    2024-04-15 06:00  
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    石原莞爾はスイスから帰国した直後、仙台の歩兵第四連隊長に着任する。これは、心身の疲れから引退を申し出た石原を引きとどめるため、陸軍上層部が用意したポストだった。石原の故郷である山形に近い地で、石原の好きな歩兵たちとの仕事だ。そこで心身の疲れを癒してほしいという狙いがあった。
    ここから分かるのは、このときの陸軍上層部は石原に対して破格の扱いをしていたということだ。それは、満州事変の成功を評価してのものだ。満州事変と満州国の成立は、陸軍としても強く望んでいた、心から嬉しいできごとだった。それを主導してくれた石原に対する感謝の気持ちもあって、この人事になった。
    また、陸軍上層部は石原の「好み」もよく分かっていた。普通のエリートなら田舎の連隊長など絶対に望まない。もし配置されたら、「自分は左遷された」と大いに嘆くところだろう。
    しかし石原は、陸軍に入ってから除隊するまで、一貫して出世を望まなかった

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  • 石原莞爾と東條英機:その43(1,568字)

    2024-04-08 06:00  
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    石原莞爾は事変がなった後、満州での参謀の職を解かれ、日本に戻される。このとき、事変において上司に無断で自らが兵を動かした責任を取り、陸軍の除隊を申し入れる。が、慰留された上に大佐に昇進までさせられて、踏みとどまった。
    このことで分かるのは、石原は満州事変がなった瞬間から、それに必ずしも満足してはいなかったということだ。特に事変がなった直後、さまざまな政治勢力が介入し、混沌とした状況に陥った。だから石原自身は、それを計画・実行した首謀者とはいえ、離れられて少しホッとしたところがあったろう。
    この後、石原は事変をよく知る者として、松岡洋右全権に随伴して国際連盟が行われたスイスのジュネーブまで行く。ただし、このとき日本の方針はすでに陸軍上層部や政府などによって決定していたため、石原の意見が求められることは一度もなかった。
    おかけで石原も、同行はしたものの会議そのものには関心を示さず、もっぱら自分

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  • 石原莞爾と東條英機:その42(1,952字)

    2024-04-01 06:00  
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    「満州」は、中国大陸のうち朝鮮半島と接している東端の部分だ。そこを北へ行くと、ロシア(ソ連)とも国境を接している。満州の北側は北海道よりも緯度が高く、冬は非常に寒い。鉄道が通るまでは、ほとんど未開の土地であった。
    それが、20世紀に入ってからの鉄道の拡大で、一気に開発されていく。そして日本は、そこにおける鉄道の利権をロシアと争い、日露戦争が起きるのだ。これに勝利した結果、満州の鉄道利権は日本のものとなった。
    満州の南側半分を南北に貫く鉄道が「南満州鉄道(満鉄)」である。満州の主要な都市は、主要港である大連、奉天、満州の首都となる新京(長春)、ハルビンと、皆この満鉄沿いに連なっている。だから、満鉄は文字通り満州の背骨であり、逆にいえば満鉄が、満州という国家の根拠ともなっていた。
    1932年3月1日、柳条湖事件から約半年後に、満州国は成立した。コンセプトとして、石原莞爾の草案した「五族協和」が

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  • 石原莞爾と東條英機:その41(1,897字)

    2024-03-25 06:00  
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    関東軍は、満州事変の成り行きを見ながら、満州国の建国と、そこにおける溥儀の皇帝擁立を決めた。つまり満州は、日本に組み込むのではなく、またその統治下とするのでもなく、独立国として存在させ、その権威づけに溥儀を利用しようとしたのだ。
    溥儀とは誰か?
    愛新覚羅溥儀は、清の最後の皇帝である。いわゆるラストエンペラーだ。1906年に生まれ、1967年に亡くなる。生まれたのは最後の封建国家で、多感な時期に革命や戦争を経験し、20世紀後半の平和の中で亡くなった。まさに激動の生涯だったといえよう。
    溥儀は、1908年にわずか2歳で清の第12代皇帝に即位する。が、1912年の辛亥革命で清が倒れたことにより退位させられる。このとき6歳だった。2歳で即位し、6歳で退位するのだから、なんともいえないジェットコースターだ。
    その後、中国の政局が二転三転するに連れ、立場を翻弄させられる。次第にヨーロッパ各国が中国を実

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  • 石原莞爾と東條英機:その40(1,693字)

    2024-03-18 06:00  
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    石原莞爾は満州事変を計画し、現場で指揮した。ただし、石原には権限がないので、あとは上の者が乗っかってくるかどうかが勝負だった。上の者とは天皇までをも含む。石原は、満州事変で日本そのものを動かそうとしたのだ。
    しかしもちろん、石原が単独で計画したのではなく、そこには板垣征四郎のバックアップがあり、さらに永田鉄山のプロデュースがあった。この謀略の首謀者は、一夕会そのものだともいえる。一夕会が軍部を動かし、政府を動かし、日本を動かしたのだ。
    張学良が指揮する軍隊の兵力は、総勢で約45万だった。これに対して石原が率いる関東軍は、約1万だった。実に45倍の差がある。
    それでも石原は、電光石火の早業で張学良を混乱させた。そうしてずるずると反撃のいとまを与えないまま、順次満州各都市を占領下に置いていったのだ。
    こうして満州の占領は既成事実化され、日本政府もそれを追認する形となった。全ては事後承諾だったが

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  • 石原莞爾と東條英機:その39(1,824字)

    2024-03-11 06:00  
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    当時の陸軍将校には有り体にいって「バカ」と「ずる賢いやつ」しかいなかった。ちなみにここでいう「バカ」とは、勉強はできるが考える力がない者のことだ。バカは皇道派になり、ずる賢いやつは統制派になった。
    そして、バカとずる賢いやつは相性が悪い。文字通り犬猿の仲である。ぼくもずる賢い人間だが、バカがこの世で一番苦手である。
    ところで、なぜ陸軍には「ずるくなくて賢いやつ」がいなかったのか? それは全部山縣有朋のせいである。山縣有朋がずるい政治を長年に渡って続けてきたから、賢いやつは皆それに倣ったのだ。
    そういうふうに、ずるさは伝播する。組織の風紀を決定的に乱す。だから、リーダーがずるいやつでは絶対にダメだ。自慢ではないが、ぼくもリーダーに向いていない。リーダーは、バカでもなく、かといってずる賢くもない人間がするべきだ。
    林銑十郎は旧加賀藩、つまり朝敵側の武家の出身だった。ところが、山縣有朋が権勢をふ

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