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記事 66件
  • 石原莞爾と東條英機:その66(1,738字)

    2024-12-16 06:00  
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    石原莞爾は武藤章ら対中国強硬派の満州組からは敬遠されるようになっていたが、二・二六事件での活躍もあって、中央部ではまだ高い影響力を保持していた。
    そんなとき、広田内閣が瓦解し、新しい総理大臣として元陸軍の宇垣一成が天皇から指名された。これに対して、石原が妨害工作へと動くのである。
    後に石原は、この妨害工作を「自分の人生の中でも一番の失敗」あるいは「最大の後悔」として挙げている。理由は、宇垣内閣が流産したことで陸軍の力がますます強まり、結果的に暴走を許して、対中国の戦争が始まってしまったからだ。これは石原の構想とは真逆だった。

    石原は中国との戦争は何が何でも避けたかった。そして、軍縮に積極的な宇垣なら、これをなし遂げられたかも知れなかった。だから石原は、中国で戦争を起こさないためには、本来なら宇垣を積極的に支援しなければならなかったのだ。
    しかし石原は逆のことをした。陸軍のいつもの政治工

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  • 石原莞爾と東條英機:その65(1,934字)

    2024-12-09 06:00  
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    1936年12月、石原莞爾のはしごが武藤章によって密かに下ろされ始める。そうしてこれ以降の数年間が、石原にとって一つの「受難の時代」となっていく。
    その石原の受難を見る前に、まず当時の内閣の動きから確認したい。石原と武藤の一件から3ヶ月後の1937年2月、時の広田内閣が総辞職した。

    広田内閣は、二・二六事件の責任を取って解散した岡田内閣に代わり、11ヶ月前の1936年3月に組閣された内閣だった。首相は外務省出身の元外務大臣、広田弘毅である。
    岡田内閣解散後、最後の「元老」(明治以来の「元老制度」はまだ残っていたが、在任者が亡くなると新任は決めず、元老が全て亡くなったら制度そのものを廃止するというのが既定路線だった。ちなみに山懸有朋も元老の一人だった)として、天皇のブレーンを務めていた西園寺公望に、新しい首相の任命が託される。
    そこで西園寺は、貴族院議長であった近衛文麿を推挙する。ところ

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  • 石原莞爾と東條英機:その64(1,872字)

    2024-12-02 06:00  
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    1936年の2月に、石原莞爾は武藤章と協力して二・二六事件を鎮圧した。このとき、中心的な働きをしたのが石原と武藤だった。そうして一度は協力関係を築いた二人だが、すぐに袂を分かつことになる。
    二・二六事件の後、武藤は関東軍――つまり満州へと異動になる。赴任後、内蒙古(モンゴル)の分離独立工作を担当することになった。モンゴルを中国から切り分けて

    この工作を、はじめは田中隆吉という大佐が担当していたが、神経衰弱にかかってしまったため、代わりに武藤が担当することになった。つまり、それだけ神経をすり減らす仕事だった。さらにいえば、武藤はそれだけ肝が据わっている男であった。それは、自他共に認めるところだった。彼は単に頭が良いだけではなかった。それゆえ、二・二六事件でも力を示すことができ、周囲から一目も二目も置かれていたのだ。
    この満州に、12月に石原がやってきた。このときは視察が目的だったが、そこ

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  • 石原莞爾と東條英機:その63(1,862字)

    2024-11-25 06:00  
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    二・二六事件は1936年に起こっている。つまり太平洋戦争開戦の9年前だ。ここからの9年間が、激動なのである。戦争中を抜かせば、日本の最も脂っこい時代だ。
    石原莞爾は1889年生まれなので、47歳から56歳までがその激動の時代ということになる。そのため石原自身も、まさに脂が乗り切っていた時期だが、それが逆に石原にとって最もつらいものになった。
    というのも、この頃の石原はますます頭が冴え渡っていたが、それゆえますます傲岸不遜になっていたからだ。歯止めが利かなくなったのだ。
    石原はもともと傲岸不遜だった。ただ、若い頃は周囲がそれを許さないところもあり、少なからず隠忍自重させられていた。しかし年齢や立場が向上するに連れ、いよいよ意見する者がいなくなり、歯止めが利かなくなった。
    しかも、歯止めをかけないことで石原の能力はますます冴え渡った。その自覚もあったから、石原自身にもそれに歯止めをかけられない

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  • 石原莞爾と東條英機:その62(1,818字)

    2024-11-18 06:00  
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    二・二六事件が起こったとき、石原莞爾は参謀本部作戦課長という肩書きだったが、早くから反乱部隊の鎮圧組織に身を置き、その要として活躍した。
    二・二六事件は繊細に推移する。最初は荒木貞夫や真崎甚三郎を中心にこれを容認する雰囲気が広がったが、そこから石原莞爾らの働きで徐々に鎮圧するという考えが広がっていく。
    もとより、昭和天皇は断固鎮圧すべしとの立場だったが、皇道派があれこれと策を弄し、その意向をなんとか伝えないようにしていたのだ。
    しかし石原は、そうした企みをことごとく断ち切って、最終的に全体の流れを鎮圧の方に強引に持っていった。その手腕があまりにも見事だったため、ここでまた周囲から一目置かれることになったのだ。
    まず、事件が起こるとすぐに反乱部隊の本部が置かれた陸軍大臣官邸に駆けつける。そこへ入ろうとすると入口で反乱部隊の兵卒に止められるが、これを一喝すると強引に通過する。石原のその迫力に、

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  • 石原莞爾と東條英機:その61(1,883字)

    2024-11-11 06:00  
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    相沢事件は1935年8月12日、夏の暑い盛りに起こった。それから半年、皇道派は追い詰められた。永田鉄山の復讐に燃える統制派の画策によって、その主要なメンバーが満州へと派兵されることになったのだ。つまりかなり強硬な敵対工作、弱体工作を講じてきたのである。
    すると皇道派は、窮鼠猫を噛むで、究極の手段に訴える。軍事クーデターである。時は1936年2月26日。東京に記録的な大雪が降った日であった。
    二・二六事件を語るのは難しい。その詳細が微妙で繊細で曖昧だからだ。まず追い詰められた皇道派の青年将校たちは、新たな敵を政府と見定めた。政府が統制派と結託し、天皇をたぶらかして自分たちのいいように世の中を動かしていると考えたからだ。
    それで首相をはじめとする時の大臣や昭和天皇の侍従長であった鈴木貫太郎が襲撃の標的となった。この襲撃された鈴木貫太郎は、日本にとって「運命」ともいえる存在だった。鈴木貫太郎の妻

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  • 石原莞爾と東條英機:その60(1,924字)

    2024-11-04 06:00  
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    永田鉄山が相沢三郎に殺された。その報に接したとき、石原莞爾は「なんだ、殺されたじゃないか」と言ったとされる。そして相沢に対しては、「妻子もある40代の男が、命をかけて何かをするということは、陸軍にはまだ見込みがある」と言ったとされる。つまり、永田鉄山の側ではなく、むしろ相沢三郎の側についたのだった。
    しかし同時に石原は、テロリズムを容認する立場ではない。だから、完全に相沢に与するというわけでもなかった。また、相沢が所属する皇道派は嫌っていたから、その意味では相沢の行いの動機は、全く受け入れられるものではなかった。
    それでも、石原は相沢に感情移入し、永田には冷たかった。それはやはり、満州事変以降の陸軍中央の在り方に、石原が強い違和感を抱いていたことによるものだ。その中心にいるのが永田だったから、永田にも複雑な感情を抱くようになっていたのだ。
    しかしその永田が死んだことで、この後、統制派の結束

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  • 石原莞爾と東條英機:その59(1,847字)

    2024-10-28 06:00  
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    化物と化した戦前の陸軍。その中で石原莞爾はどのような存在だったのか?
    彼は陸軍内で、誰からも文字通り一目も二目も置かれていた。いろいろな理由はあるが、やはりその独特の個性に因るところが大きい。誰に対しても一歩も引けを取らない。しかも満州事変を主導したという実績もある。
    満州事変は陸軍の「心の拠り所」だった。なぜなら、陸軍が日本の歴史を変えた最大のできごとだったからだ。陸軍が主導して、日本の未来を動かしたのだ。何より政府を、そして国民を動かした。これは陸軍の自信につながった。陸軍は政府よりも強力な指導力を持っていると証明することになったからだ。
    しかし同時に過信にもつながった。政府は頼りにならん、陸軍しか日本を救える存在はないという奢りが、後の暴走を招いたのだ。
    つまり石原莞爾は、そんな陸軍の暴走を引き越した張本人ともいえた。だから陸軍の誰にとっても一目置く存在であった。ただし上の者からは目

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  • 石原莞爾と東條英機:その58(1,885字)

    2024-10-21 06:00  
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    皇道派は荒木貞夫と真崎甚三郎を旗頭としていた。荒木も、元々は一夕会の領袖を務めるなど、統制派の永田鉄山とは非常に近しい関係にあった。永田鉄山が荒木を引き立て陸軍大臣に仕立て上げたという経緯さえあった。
    ところが荒木は、陸軍大臣になってからは、腐敗した閣僚や経済人を一掃し、陸軍が中心となる国家を作ろうという考えをこじらせ、天皇の名の下、武力によるクーデターを起こし自分が首相になろうと目論むようになった。この考えに多くの若手将校が感銘を受け、皇道派が形成される。
    そうして皇道派に与しない、静かなるクーデターを志す永田や東條らとの間に亀裂が生じた。それがやがて「統制派」という派閥の形成を促す。統制派は必ずしも積極的に派閥を組んだわけではないが、皇道派に与しないものは自動的に統制派と見られるような状況が生まれたのだ。
    そして統制派の領袖はもちろん永田鉄山だった。永田鉄山と彼に近しい者たちが、荒木や

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  • 石原莞爾と東條英機:その57(1,698字)

    2024-10-14 06:00  
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    永田鉄山を殺したのは相沢三郎という陸軍将校だった。つまり永田の後輩であり部下だ。陸軍士官学校出身で当時46歳の中佐だった。この事件は、犯人の名を取って「相沢事件」と呼ばれている。
    相沢三郎は1889年に仙台で生まれる。実家は旧仙台藩士だった。そして石原莞爾も同じ1889年の生まれで、同じ東北(山形)の旧武家出身である。ただし石原は早生まれなので学年は一つ上だった。
    この相沢と石原は、同じ仙台陸軍地方幼年学校に通っている。そして石原は当時から有名だったから、相沢は石原のことをよく知っていた。当時の仙台幼年学校のほとんどの後輩がそうであったように、石原に憧れ、尊敬していた。
    陸軍に入ってからの相沢は、長い間教育畑を歩んだ。教官として若者たちに接した。そのため、当時の若者たちの困窮ぶり、あるいは東北をはじめとする地方経済の疲弊ぶりはよく知っていた。実家の姉妹が吉原に売られたという話しも幾度となく

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