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  • 石原莞爾と東條英機:その72(1,685字)

    2025-02-17 06:00  
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    東條英機は、1936年12月1日に中将に昇進する。それからちょうど4ヶ月後の1937年3月1日、板垣征四郎の後任として関東軍参謀長に就任する。
    ちなみに板垣は広島方面に展開する第五師団の師団長となる。さらに1年後の1938年6月3日、陸軍大臣に就任するのであった。
    東條は、奇しくもこの板垣のスリップストリームに入るような形で出世していく。この後一人(畑俊六)を挟んでから、2年後の1940年7月22日に、東條自身も陸軍大臣に就任するからだ。つまりこの頃の東條は、板垣のナンバーツーのような立ち位置にもいたのだ。
    その意味で、板垣は石原莞爾のボスであり盟友でありつつ、東條英機のボスでもあった。石原と東條を研究するこの連載においては、極めて重要な人物であるといえよう。
    そしてこのことから分かるのは、石原と東條には、どこまでいっても奇妙な共通点が見受けられるということである。ただし両者は全く似ていな

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  • 石原莞爾と東條英機:その71(1,715字)

    2025-02-10 06:00  
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    ここで東條英機の当時の動きを、もう一度時系列で整理してみたい。
    1935年7月15日、永田鉄山が殺される。直後の9月21日に久留米から満州へと転任(栄転)になり、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任する。
    このとき、東條と憲兵とのつながりが生まれる。東條は「憲兵のリーダー」として抜群の才を有していた。釘を打つトンカチのように、憲兵を意のままに動かすことができたのだ。
    そこで、まずは当時の関東軍陸軍将校たちの中にいた「共産主義者」たちを洗い出し、順次検挙していく。そうして、憲兵のリーダーとしての第一歩を踏み出す。
    関東軍に転任してから約半年後の1936年2月26日、二・二六事件が勃発する。このとき東條は、すでに掌握していた憲兵隊を十全に動かして、ここぞとばかりに関東軍にいた皇道派関係者を検挙しまくる。
    この頃から東條は「都合の悪いやつは憲兵隊を使って逮捕すればいい」という独特の政治手法を編

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  • 石原莞爾と東條英機:その70(1,782字)

    2025-02-03 06:00  
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    相沢事件で永田鉄山が殺されて以来、東條英機には何かが「ノ」っかった。何かといえばそれは永田鉄山だ。それ以降の東條英機は永田鉄山の代行者、代理人となったのだ。
    それは永田の弔い合戦でもあった。だから人々は、東條自身に永田の影を見ないわけにはいかなかった。そもそも永田と東條は全く異なるタイプの人間だが、しかし永田の代行者となると、東條の右に出る者はいなかったともいえる。
    それは現代にたとえていうなら山田康雄と栗田貫一の関係に近い。そもそも栗田はモノマネ芸人で声優でもなんでもない。単に山田康雄が声優を演じるルパン三世のモノマネをしているに過ぎなかった。
    しかし山田が病気で亡くなってしまったあとも『ルパン三世』のアニメは続いた。そこで誰かが声優を務めなければならなかったのだが、その適任として山田のモノマネが上手かった栗田貫一以上の人物がいなかったのだ。
    永田鉄山が死んだ後も、誰かが永田の代行者を務

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  • 石原莞爾と東條英機:その69(1,825字)

    2025-01-27 06:00  
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    東條英機は1935年まで久留米に左遷されクビ寸前だった。そこからほんの6年で首相の座にまで上り詰めるのである。1935年の時点で東條の首相就任を予見した者は、本人も含め皆無だろう。
    東條は良くも悪くも事務方の人間である。そのためリーダーにとっては頼もしい部下だったし、東條もそれを自認していた。けっしてリーダーではなかった。しかし東條には不思議なカリスマもあった。それはナンバーツーとしてのカリスマだ。
    すぐれた組織には必ずといっていいほど優秀なナンバーツーが存在する。このナンバーツーの存在が組織の優秀さを決めるともいえる。いかにすぐれたリーダーでも、すぐれたナンバーツーがいなければ組織としての成功は果たせないのだ。
    そして真にすぐれたナンバーワンは、組織の成功はすぐれたナンバーツーの有無にかかっていると知っている。だからすぐれたナンバーツーは喉から手が出るほど欲しい存在なのだ。何よりも貴重な

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  • 石原莞爾と東條英機:その68(2,034字)

    2025-01-20 06:00  
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    ここで少し時系列を整理したい。
    1936年2月、二・二六事件が起きる。
    1936年11月、満州に駐屯する関東軍の北支分離工作が激しくなる。北支分離工作とは、華北(中国の北の地方)を満州同様に中国から独立させ、中国の弱体化をはかる工作だ。
    1936年12月、当時中央の作戦課長だった石原莞爾は、わざわざ満州まで赴き、分離工作を止めるよう部下たちを説得する。しかし二・二六事件を鎮圧した同志でもあり、直前に満州に赴任したばかりの武藤章から、「我々は石原閣下が満州事変でしたことを踏襲しているだけです」と皮肉を言われてしまう。さらに、盟友である板垣征四郎は、これを黙認していた。それで、石原も引き下がるしかなかった。
    その後、陸軍中枢は「北支」の駐屯軍を増やしていった。実はこの頃、わずかだが北支にも陸軍を駐屯させていたのだ。これを増やすことで、満州の信仰を抑えようとしたのである。陸軍は縄張り意識が強いか

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  • 石原莞爾と東條英機:その67(1,723字)

    2025-01-13 06:00  
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    石原莞爾は宇垣一成の首相就任を阻止した。しかし石原は後にこれを後悔することになる。なぜならもし宇垣が首相だったら軍縮を実現させ、それによって中国との戦争を食い止められたかもしれないからだ。
    石原は中国との戦争を絶対にやめたかった。なぜなら、中国を味方に引き入れないと、来るべきアメリカとの戦争に勝てないと思っていたからだ。
    しかしこの頃、アメリカと戦争になるなどとは誰も思っていなかった。それよりも、中国を支配することがほとんどの人の目標だった。そのため陸軍は、中国の北の地域やモンゴルに働きかけ、独立戦争の画策をしていた。その混乱に乗じて、中国を乗っ取ろうとしたのだ。
    それは石原の思惑に反するところだった。だからそういう方向に反抗できる首相を立てなかったのだが、しかし宇垣ではダメだった。それは石原が宇垣が決定的に嫌いだったからだ。人としてダメだった。それは、宇垣が俗物だったということもあるが、

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  • 石原莞爾と東條英機:その66(1,738字)

    2024-12-16 06:00  
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    石原莞爾は武藤章ら対中国強硬派の満州組からは敬遠されるようになっていたが、二・二六事件での活躍もあって、中央部ではまだ高い影響力を保持していた。
    そんなとき、広田内閣が瓦解し、新しい総理大臣として元陸軍の宇垣一成が天皇から指名された。これに対して、石原が妨害工作へと動くのである。
    後に石原は、この妨害工作を「自分の人生の中でも一番の失敗」あるいは「最大の後悔」として挙げている。理由は、宇垣内閣が流産したことで陸軍の力がますます強まり、結果的に暴走を許して、対中国の戦争が始まってしまったからだ。これは石原の構想とは真逆だった。

    石原は中国との戦争は何が何でも避けたかった。そして、軍縮に積極的な宇垣なら、これをなし遂げられたかも知れなかった。だから石原は、中国で戦争を起こさないためには、本来なら宇垣を積極的に支援しなければならなかったのだ。
    しかし石原は逆のことをした。陸軍のいつもの政治工

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  • 石原莞爾と東條英機:その65(1,934字)

    2024-12-09 06:00  
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    1936年12月、石原莞爾のはしごが武藤章によって密かに下ろされ始める。そうしてこれ以降の数年間が、石原にとって一つの「受難の時代」となっていく。
    その石原の受難を見る前に、まず当時の内閣の動きから確認したい。石原と武藤の一件から3ヶ月後の1937年2月、時の広田内閣が総辞職した。

    広田内閣は、二・二六事件の責任を取って解散した岡田内閣に代わり、11ヶ月前の1936年3月に組閣された内閣だった。首相は外務省出身の元外務大臣、広田弘毅である。
    岡田内閣解散後、最後の「元老」(明治以来の「元老制度」はまだ残っていたが、在任者が亡くなると新任は決めず、元老が全て亡くなったら制度そのものを廃止するというのが既定路線だった。ちなみに山懸有朋も元老の一人だった)として、天皇のブレーンを務めていた西園寺公望に、新しい首相の任命が託される。
    そこで西園寺は、貴族院議長であった近衛文麿を推挙する。ところ

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  • 石原莞爾と東條英機:その64(1,872字)

    2024-12-02 06:00  
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    1936年の2月に、石原莞爾は武藤章と協力して二・二六事件を鎮圧した。このとき、中心的な働きをしたのが石原と武藤だった。そうして一度は協力関係を築いた二人だが、すぐに袂を分かつことになる。
    二・二六事件の後、武藤は関東軍――つまり満州へと異動になる。赴任後、内蒙古(モンゴル)の分離独立工作を担当することになった。モンゴルを中国から切り分けて

    この工作を、はじめは田中隆吉という大佐が担当していたが、神経衰弱にかかってしまったため、代わりに武藤が担当することになった。つまり、それだけ神経をすり減らす仕事だった。さらにいえば、武藤はそれだけ肝が据わっている男であった。それは、自他共に認めるところだった。彼は単に頭が良いだけではなかった。それゆえ、二・二六事件でも力を示すことができ、周囲から一目も二目も置かれていたのだ。
    この満州に、12月に石原がやってきた。このときは視察が目的だったが、そこ

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  • 石原莞爾と東條英機:その63(1,862字)

    2024-11-25 06:00  
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    二・二六事件は1936年に起こっている。つまり太平洋戦争開戦の9年前だ。ここからの9年間が、激動なのである。戦争中を抜かせば、日本の最も脂っこい時代だ。
    石原莞爾は1889年生まれなので、47歳から56歳までがその激動の時代ということになる。そのため石原自身も、まさに脂が乗り切っていた時期だが、それが逆に石原にとって最もつらいものになった。
    というのも、この頃の石原はますます頭が冴え渡っていたが、それゆえますます傲岸不遜になっていたからだ。歯止めが利かなくなったのだ。
    石原はもともと傲岸不遜だった。ただ、若い頃は周囲がそれを許さないところもあり、少なからず隠忍自重させられていた。しかし年齢や立場が向上するに連れ、いよいよ意見する者がいなくなり、歯止めが利かなくなった。
    しかも、歯止めをかけないことで石原の能力はますます冴え渡った。その自覚もあったから、石原自身にもそれに歯止めをかけられない

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