記事 76件
  • 石原莞爾と東條英機:その76(1,869字)

    2025-03-17 06:00  
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    石原莞爾はかねてから日本の中国への侵攻に反対していたため、陸軍の中央部から煙たがられた。それで、1937年の10月に東京の参謀本部長から満州の副長官に転属になった。
    これは、中央から移されたという意味では左遷でもあったが、しかしそれでも満州は日本の要衝だったので、必ずしも悲観するような人事ではなかった。依然として、石原は陸軍の要職にいた。
    それに満州は、石原が脚光を浴びるきっかけともなった満州事変の当地であった。石原は満州が好きだったし、満州も石原が好きだった。
    しかし満州には大きな遺恨が形成されつつあった。それは、本来は単なる外国人である日本人が、満州人より威張っていたからだ。これは、軍人はもちろんだが役人や民間人もそうだった。
    満州は、対外的には独立国で、日本とは対等の立場ということになっていた。このことは、日本が諸外国に最も強調しなければならないポイントだった。
    それなのに、満州の日

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  • 石原莞爾と東條英機:その75(1,752字)

    2025-03-10 06:00  
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    チャハル作戦は1937年8月9日に始まった。これは関東軍の参謀長である東條自らが指揮して大きな成果を上げた。
    ところがその直後、東條と、そして石原莞爾の運命を大きく変えるあるできごとが起こる。それは人事である。中央の参謀本部第一部長だった石原莞爾が、異動でなんと関東軍の参謀副長へと配置換えになるのである。つまり東條の真下に就くこととなったのだ。
    これまで、東條と石原は同じ一夕会だったから旧知の間柄ではあった。しかし同じ部署になったことはなく、それ以前に親しく交際したこともなかった。だから、お互い有名人でありどういう人間かは知っていたのだが、しかしもう一方では深く知り合っていないところもあった。
    だからこのときが、両者が初めて接近した瞬間となった。それはお互い離れた場所を飛んでいた衛星が、たまたま軌道の関係で重なり合ったというような状況だった。本来は重なり合うはずのないものが、運命のいたずら

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  • 石原莞爾と東條英機:その74(1,882字)

    2025-03-03 06:00  
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    チャハル作戦は1937年8月9日に始まった。盧溝橋事件が7月7日なので、およそ1ヶ月後である。
    日中戦争が始まると、満州に駐屯していた関東軍はすぐにチャハル省の占領作戦を日本の参謀本部に打診した。参謀本部はこれをのらりくらりとかわしていたが、やがて陸軍内部における対中戦への意欲の高まりを抑えきれなくなる。特に「対支一撃論」の高まりを抑えきれなかった。
    対支一撃論とは、もともとは永田鉄山が考えた対中国への陸軍の姿勢のことで、とにかく一撃きつい攻撃をお見舞いしてから、日本にとって有利な講和条約を引き出すという考え方だ。
    当時の陸軍は、中国の政府を腰抜けと見下していた。だから素早い攻撃とその後の粘り強い懐柔をくり返していくことが、最も効果的な侵略になると考えていたのである。これをすれば、中国はなし崩し的に屈服するだろうと考えていた。
    そうして日中戦争が始まった今、その「対支一撃」の絶好のチャンス

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  • 石原莞爾と東條英機:その73(1,774字)

    2025-02-24 06:00  
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    1937年7月6日の夜に、盧溝橋事件が起こる。中国に駐屯する日本軍が、盧溝橋の近くでいささか挑発的な演習を行っていた。そのとき、数発の銃声が聞こえた。
    それで隊長が慌てて点呼を取ってみると、兵隊が一人足りなかった。そのことから「中国軍の襲撃を受けて殺された」と考え、取りあえず反撃した後、牟田口廉也連隊長に報告した。牟田口は、中国軍にことの経緯を質すように命じたが、この命令は上手く伝わらず、翌日にはさらなる戦闘に発展した。
    これをきっかけに日中の緊張感が高まり、やがて本格的な戦闘が始まった。日中戦争である。ちなみに、行方不明だった兵隊は後に何ごともなかったかのように帰ってくる。そうしたことから、これは謀略(その首謀者は牟田口)であるという説は色濃いが、満州事変と違って今も確たる証拠はない。また、牟田口の性格や、その後の行動を考えると彼の指揮とは考えにくい。
    だから、本当に「自然発生的」に起こ

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  • 石原莞爾と東條英機:その72(1,685字)

    2025-02-17 06:00  
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    東條英機は、1936年12月1日に中将に昇進する。それからちょうど4ヶ月後の1937年3月1日、板垣征四郎の後任として関東軍参謀長に就任する。
    ちなみに板垣は広島方面に展開する第五師団の師団長となる。さらに1年後の1938年6月3日、陸軍大臣に就任するのであった。
    東條は、奇しくもこの板垣のスリップストリームに入るような形で出世していく。この後一人(畑俊六)を挟んでから、2年後の1940年7月22日に、東條自身も陸軍大臣に就任するからだ。つまりこの頃の東條は、板垣のナンバーツーのような立ち位置にもいたのだ。
    その意味で、板垣は石原莞爾のボスであり盟友でありつつ、東條英機のボスでもあった。石原と東條を研究するこの連載においては、極めて重要な人物であるといえよう。
    そしてこのことから分かるのは、石原と東條には、どこまでいっても奇妙な共通点が見受けられるということである。ただし両者は全く似ていな

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  • 石原莞爾と東條英機:その71(1,715字)

    2025-02-10 06:00  
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    ここで東條英機の当時の動きを、もう一度時系列で整理してみたい。
    1935年7月15日、永田鉄山が殺される。直後の9月21日に久留米から満州へと転任(栄転)になり、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任する。
    このとき、東條と憲兵とのつながりが生まれる。東條は「憲兵のリーダー」として抜群の才を有していた。釘を打つトンカチのように、憲兵を意のままに動かすことができたのだ。
    そこで、まずは当時の関東軍陸軍将校たちの中にいた「共産主義者」たちを洗い出し、順次検挙していく。そうして、憲兵のリーダーとしての第一歩を踏み出す。
    関東軍に転任してから約半年後の1936年2月26日、二・二六事件が勃発する。このとき東條は、すでに掌握していた憲兵隊を十全に動かして、ここぞとばかりに関東軍にいた皇道派関係者を検挙しまくる。
    この頃から東條は「都合の悪いやつは憲兵隊を使って逮捕すればいい」という独特の政治手法を編

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  • 石原莞爾と東條英機:その70(1,782字)

    2025-02-03 06:00  
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    相沢事件で永田鉄山が殺されて以来、東條英機には何かが「ノ」っかった。何かといえばそれは永田鉄山だ。それ以降の東條英機は永田鉄山の代行者、代理人となったのだ。
    それは永田の弔い合戦でもあった。だから人々は、東條自身に永田の影を見ないわけにはいかなかった。そもそも永田と東條は全く異なるタイプの人間だが、しかし永田の代行者となると、東條の右に出る者はいなかったともいえる。
    それは現代にたとえていうなら山田康雄と栗田貫一の関係に近い。そもそも栗田はモノマネ芸人で声優でもなんでもない。単に山田康雄が声優を演じるルパン三世のモノマネをしているに過ぎなかった。
    しかし山田が病気で亡くなってしまったあとも『ルパン三世』のアニメは続いた。そこで誰かが声優を務めなければならなかったのだが、その適任として山田のモノマネが上手かった栗田貫一以上の人物がいなかったのだ。
    永田鉄山が死んだ後も、誰かが永田の代行者を務

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  • 石原莞爾と東條英機:その69(1,825字)

    2025-01-27 06:00  
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    東條英機は1935年まで久留米に左遷されクビ寸前だった。そこからほんの6年で首相の座にまで上り詰めるのである。1935年の時点で東條の首相就任を予見した者は、本人も含め皆無だろう。
    東條は良くも悪くも事務方の人間である。そのためリーダーにとっては頼もしい部下だったし、東條もそれを自認していた。けっしてリーダーではなかった。しかし東條には不思議なカリスマもあった。それはナンバーツーとしてのカリスマだ。
    すぐれた組織には必ずといっていいほど優秀なナンバーツーが存在する。このナンバーツーの存在が組織の優秀さを決めるともいえる。いかにすぐれたリーダーでも、すぐれたナンバーツーがいなければ組織としての成功は果たせないのだ。
    そして真にすぐれたナンバーワンは、組織の成功はすぐれたナンバーツーの有無にかかっていると知っている。だからすぐれたナンバーツーは喉から手が出るほど欲しい存在なのだ。何よりも貴重な

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  • 石原莞爾と東條英機:その68(2,034字)

    2025-01-20 06:00  
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    ここで少し時系列を整理したい。
    1936年2月、二・二六事件が起きる。
    1936年11月、満州に駐屯する関東軍の北支分離工作が激しくなる。北支分離工作とは、華北(中国の北の地方)を満州同様に中国から独立させ、中国の弱体化をはかる工作だ。
    1936年12月、当時中央の作戦課長だった石原莞爾は、わざわざ満州まで赴き、分離工作を止めるよう部下たちを説得する。しかし二・二六事件を鎮圧した同志でもあり、直前に満州に赴任したばかりの武藤章から、「我々は石原閣下が満州事変でしたことを踏襲しているだけです」と皮肉を言われてしまう。さらに、盟友である板垣征四郎は、これを黙認していた。それで、石原も引き下がるしかなかった。
    その後、陸軍中枢は「北支」の駐屯軍を増やしていった。実はこの頃、わずかだが北支にも陸軍を駐屯させていたのだ。これを増やすことで、満州の信仰を抑えようとしたのである。陸軍は縄張り意識が強いか

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  • 石原莞爾と東條英機:その67(1,723字)

    2025-01-13 06:00  
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    石原莞爾は宇垣一成の首相就任を阻止した。しかし石原は後にこれを後悔することになる。なぜならもし宇垣が首相だったら軍縮を実現させ、それによって中国との戦争を食い止められたかもしれないからだ。
    石原は中国との戦争を絶対にやめたかった。なぜなら、中国を味方に引き入れないと、来るべきアメリカとの戦争に勝てないと思っていたからだ。
    しかしこの頃、アメリカと戦争になるなどとは誰も思っていなかった。それよりも、中国を支配することがほとんどの人の目標だった。そのため陸軍は、中国の北の地域やモンゴルに働きかけ、独立戦争の画策をしていた。その混乱に乗じて、中国を乗っ取ろうとしたのだ。
    それは石原の思惑に反するところだった。だからそういう方向に反抗できる首相を立てなかったのだが、しかし宇垣ではダメだった。それは石原が宇垣が決定的に嫌いだったからだ。人としてダメだった。それは、宇垣が俗物だったということもあるが、

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