-
石原莞爾と東條英機:その62(1,818字)
2024-11-18 06:00110pt二・二六事件が起こったとき、石原莞爾は参謀本部作戦課長という肩書きだったが、早くから反乱部隊の鎮圧組織に身を置き、その要として活躍した。
二・二六事件は繊細に推移する。最初は荒木貞夫や真崎甚三郎を中心にこれを容認する雰囲気が広がったが、そこから石原莞爾らの働きで徐々に鎮圧するという考えが広がっていく。
もとより、昭和天皇は断固鎮圧すべしとの立場だったが、皇道派があれこれと策を弄し、その意向をなんとか伝えないようにしていたのだ。
しかし石原は、そうした企みをことごとく断ち切って、最終的に全体の流れを鎮圧の方に強引に持っていった。その手腕があまりにも見事だったため、ここでまた周囲から一目置かれることになったのだ。
まず、事件が起こるとすぐに反乱部隊の本部が置かれた陸軍大臣官邸に駆けつける。そこへ入ろうとすると入口で反乱部隊の兵卒に止められるが、これを一喝すると強引に通過する。石原のその迫力に、 -
石原莞爾と東條英機:その61(1,883字)
2024-11-11 06:00110pt相沢事件は1935年8月12日、夏の暑い盛りに起こった。それから半年、皇道派は追い詰められた。永田鉄山の復讐に燃える統制派の画策によって、その主要なメンバーが満州へと派兵されることになったのだ。つまりかなり強硬な敵対工作、弱体工作を講じてきたのである。
すると皇道派は、窮鼠猫を噛むで、究極の手段に訴える。軍事クーデターである。時は1936年2月26日。東京に記録的な大雪が降った日であった。
二・二六事件を語るのは難しい。その詳細が微妙で繊細で曖昧だからだ。まず追い詰められた皇道派の青年将校たちは、新たな敵を政府と見定めた。政府が統制派と結託し、天皇をたぶらかして自分たちのいいように世の中を動かしていると考えたからだ。
それで首相をはじめとする時の大臣や昭和天皇の侍従長であった鈴木貫太郎が襲撃の標的となった。この襲撃された鈴木貫太郎は、日本にとって「運命」ともいえる存在だった。鈴木貫太郎の妻 -
石原莞爾と東條英機:その60(1,924字)
2024-11-04 06:00110pt永田鉄山が相沢三郎に殺された。その報に接したとき、石原莞爾は「なんだ、殺されたじゃないか」と言ったとされる。そして相沢に対しては、「妻子もある40代の男が、命をかけて何かをするということは、陸軍にはまだ見込みがある」と言ったとされる。つまり、永田鉄山の側ではなく、むしろ相沢三郎の側についたのだった。
しかし同時に石原は、テロリズムを容認する立場ではない。だから、完全に相沢に与するというわけでもなかった。また、相沢が所属する皇道派は嫌っていたから、その意味では相沢の行いの動機は、全く受け入れられるものではなかった。
それでも、石原は相沢に感情移入し、永田には冷たかった。それはやはり、満州事変以降の陸軍中央の在り方に、石原が強い違和感を抱いていたことによるものだ。その中心にいるのが永田だったから、永田にも複雑な感情を抱くようになっていたのだ。
しかしその永田が死んだことで、この後、統制派の結束 -
石原莞爾と東條英機:その59(1,847字)
2024-10-28 06:00110pt化物と化した戦前の陸軍。その中で石原莞爾はどのような存在だったのか?
彼は陸軍内で、誰からも文字通り一目も二目も置かれていた。いろいろな理由はあるが、やはりその独特の個性に因るところが大きい。誰に対しても一歩も引けを取らない。しかも満州事変を主導したという実績もある。
満州事変は陸軍の「心の拠り所」だった。なぜなら、陸軍が日本の歴史を変えた最大のできごとだったからだ。陸軍が主導して、日本の未来を動かしたのだ。何より政府を、そして国民を動かした。これは陸軍の自信につながった。陸軍は政府よりも強力な指導力を持っていると証明することになったからだ。
しかし同時に過信にもつながった。政府は頼りにならん、陸軍しか日本を救える存在はないという奢りが、後の暴走を招いたのだ。
つまり石原莞爾は、そんな陸軍の暴走を引き越した張本人ともいえた。だから陸軍の誰にとっても一目置く存在であった。ただし上の者からは目 -
石原莞爾と東條英機:その58(1,885字)
2024-10-21 06:00110pt皇道派は荒木貞夫と真崎甚三郎を旗頭としていた。荒木も、元々は一夕会の領袖を務めるなど、統制派の永田鉄山とは非常に近しい関係にあった。永田鉄山が荒木を引き立て陸軍大臣に仕立て上げたという経緯さえあった。
ところが荒木は、陸軍大臣になってからは、腐敗した閣僚や経済人を一掃し、陸軍が中心となる国家を作ろうという考えをこじらせ、天皇の名の下、武力によるクーデターを起こし自分が首相になろうと目論むようになった。この考えに多くの若手将校が感銘を受け、皇道派が形成される。
そうして皇道派に与しない、静かなるクーデターを志す永田や東條らとの間に亀裂が生じた。それがやがて「統制派」という派閥の形成を促す。統制派は必ずしも積極的に派閥を組んだわけではないが、皇道派に与しないものは自動的に統制派と見られるような状況が生まれたのだ。
そして統制派の領袖はもちろん永田鉄山だった。永田鉄山と彼に近しい者たちが、荒木や -
石原莞爾と東條英機:その57(1,698字)
2024-10-14 06:00110pt永田鉄山を殺したのは相沢三郎という陸軍将校だった。つまり永田の後輩であり部下だ。陸軍士官学校出身で当時46歳の中佐だった。この事件は、犯人の名を取って「相沢事件」と呼ばれている。
相沢三郎は1889年に仙台で生まれる。実家は旧仙台藩士だった。そして石原莞爾も同じ1889年の生まれで、同じ東北(山形)の旧武家出身である。ただし石原は早生まれなので学年は一つ上だった。
この相沢と石原は、同じ仙台陸軍地方幼年学校に通っている。そして石原は当時から有名だったから、相沢は石原のことをよく知っていた。当時の仙台幼年学校のほとんどの後輩がそうであったように、石原に憧れ、尊敬していた。
陸軍に入ってからの相沢は、長い間教育畑を歩んだ。教官として若者たちに接した。そのため、当時の若者たちの困窮ぶり、あるいは東北をはじめとする地方経済の疲弊ぶりはよく知っていた。実家の姉妹が吉原に売られたという話しも幾度となく -
石原莞爾と東條英機:その56(1,737字)
2024-10-07 06:00110pt東條英機は久留米で電報を受け取った。そこに永田鉄山の訃報が載っていた。ただちに東京へのキップを取り、鉄道で一昼夜をかけて上京した。そうして永田邸を訪れ、その亡骸と対面した。
東條英機にとって永田鉄山とは何だったのか?
それは「全て」といっていい。永田鉄山こそ東條英機の生きる理由のようなものだった。師匠であり兄貴であり友人であった。私淑するメンターで、憧れのアイドルのような存在でもあった。実父の英教亡き後、心の父のような存在でもあった。
その永田鉄山が殺されたのだ。ここで東條英機も死んだといっていいだろう。東條英機はここで死んだのだ。彼は、永田夫人から殺されていたときに着ていた血染めの軍服を受け取った。そうして自宅に持ち帰ると、深夜家族が寝静まった後にそれに着替え、一人涙に暮れていたという。血染めで何カ所も指された穴があるその軍服を着て、亡き永田を思いながら、その胸に復讐と、それ以上の何かを -
石原莞爾と東條英機:その55(1,769字)
2024-09-30 06:00110ptこうして永田鉄山は殺されてしまった。東條英機はそれを左遷先の久留米で聞いた。
この頃、東條英機は久留米で苦しみながらもなんとか部下を掌握していた。当時の若手将校は、その多くが皇道派だった。しかも久留米は、真崎甚三郎が自分の子飼いを赴任させ、固めていた。
そのため東條英機にとっては完全にアウェーだった。誰も言うことを聞いてくれなかった。それでも、東條英機というのはリーダーとしての不思議な才覚があった。天性の「人たらし」のところがあった。特にその実直さで、多くの人を魅了した。
東條英機の魅力とは何だったのか?
それは、自分が優秀ではないことを知る者の強さだった。東條英機は自分が優秀ではないことを百も承知していた。それは一つには父の英教が優秀だったこと。そんな父と比べると、自分はいかにも劣っているということが幼いうちから分かっていた。
また長じてからは、永田鉄山をはじめとする一個上の先輩に優秀な -
石原莞爾と東條英機:その54(1,854字)
2024-09-23 06:00110pt真崎甚三郎は陸軍大臣になれず、代わりになったのは林銑十郎だった。これによって今度は真崎と林が対立するようになり、真崎は林の追い落とし工作をあれこれと計るが、逆に林の怒りを買って、今度は林が真崎に教育総監の地位も辞職するよう求める。
真崎はこれに頑として抵抗したが、ついにその地位を剥奪されてしまう。真崎は、この更迭劇の裏には軍務局長に就いていた永田鉄山がいると見る。林一人でこんなことはできないと考えたからだ。
そうして陰で永田鉄山の悪口を言うようになり、それを受けて皇道派若手将校が作成したと思われる永田批判の怪文書が撒かれたりもして、皇道派と統制派の対立は日ごとに険しさを増していった。
そんなときに、とんでもない事件が起こる。真崎に私淑していた皇道派の若手将校、相沢三郎が、陸軍省内で、永田鉄山を剣で斬りつけ、殺害してしまうのである。1935年8月12日のことだった。太平洋戦争終結のちょうど1 -
石原莞爾と東條英機:その53(2,039字)
2024-09-09 06:00110pt気のいいオッサンの荒木貞夫は1931年、満州事変の真っ只中で、永田鉄山らの後押しもあって陸相に就任する。しかし1932年から若手将校たちが荒木の元に参集するようになり、やがて「皇道派」を形成する。いい気になった荒木は盟友真崎甚三郎とともに自らを利する独裁的な人事を行う。
しかしこれが皇道派以外の反感を買い、やがて「統制派」の形成を促す。そもそも統制派という派閥はなかったのだが、皇道派があまりにも専横的なので、それを良く思わない者たちが一致団結したのだ。
しかもこの頃から若手将校たちが暴走し始め、荒木の手にも負えなくなった。さらに陸相としての能力にも国会や国民から疑問を持たれるようになり、急速に求心力を失っていった。
そうして1934年に、とうとう病気を理由に陸相を辞任する。表向きの理由は病気だが、周囲からの批判にとうとう耐えられなくなったのだ。
引退を決意した荒木は、陸相の後釜に真崎甚三郎
1 / 7