• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 81件
  • 石原莞爾と東條英機:その81(1,954字)

    2025-04-21 06:00  
    会員無料
    1938年12月、東條英機は多田駿を道連れにする形で陸軍次官をクビになり、陸軍航空総監に就任する。再びの閑職であったが、この頃は戦争における飛行機の重要性がにわかに高まっている時期でもあった。つまり未来の成長産業の長に、たまたまこのとき収まるのである。

    そして1939年になる。太平洋戦争開戦の約3年前だ。この年に、日本にとっては実にいろんなできごとが起こる。

    まずノモンハン事件である。「ノモンハン事件」とは、満州国とモンゴル人民共和国の国境線を巡って、日本軍とソ連軍がぶつかった事件だ。国の軍隊同士が戦ったが、両国が「これは戦争ではない」としたため「事件」と呼ばれる。ノモンハンとは、そのぶつかり合いのあった土地の名前である。

    ただし「ノモンハン事件」は満州国側(日本側)の名称で、ソ連側はこれを「ハルハ河戦役」と呼んでいる。ハルハ河を国境とするか否かで争ったからだ。そのため西洋諸国では、

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その80(1,880字)

    2025-04-14 06:00  
    会員無料
    1938年5月、東條英機は陸軍の事務次官に就任した。このとき、最初は就任を渋ったという。理由は、政治の世界に足を踏み入れたくなかったからだ。
    東條もまた複雑な人物である。ほとんどが俗っぽいが、純粋なところは純粋で、軍人は政治をすべきではないと考えていた。
    しかし後に豹変し、軍のためという建前こそあったものの、これ以上ないというほど政治の世界にどっぷりと浸かる。しかも東條は、政治の世界にそれなりの適性があった。生まれついての政治家向きなところがあったのだ。
    しかしこのときまで軍人一筋で、政治の世界とは無縁だった。それが事務次官となれば、片足ではあるが政治の世界に足を突っ込むことになる。それを躊躇したのだ。東條は政治を「水商売」とバカにしていた。
    それでも「日中戦争拡大」という使命があったので、最後は引き受けた。そうして事務次官になると、次第に板垣と対立していく。板垣はやはり日中戦争不拡大の立

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その79(2,026字)

    2025-04-07 06:00  
    会員無料
    1937年に日中戦争が始まり、東條英機は満州から軍を動かして中国に侵略した。その一方で、満州に帰ると直属の部下に石原莞爾が赴任してきて、これと決定的な不仲になる。
    そんなときに、陸軍中央部、あるいは日本政府の中では新たな動きが起きていた。それは日中戦争を巡るもので、これを止めようとする不拡大派と、進めようとする拡大派が対立していたのだ。そして、このときの首相は近衛文麿であったが、彼はなんとか日中戦争を止めさせたかった。一番の理由は予算がないことだった。
    しかしこれに陸軍大臣の杉山元が難色を示す。この杉山は後に「便所の扉」と呼ばれるようになる無責任な男で、日本を悲劇に招いた張本人の一人ともいえる。戦後に死刑になることは確定的だったが、その前に自殺した。そこだけは責任を取ったのだ。
    「便所の扉」とは「どちらにでも押した方に開く」という杉山の優柔不断なあり方のことを表しており、「風見鶏」と同じ意

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その78(1,676字)

    2025-03-31 06:00  
    110pt
    「出る杭は打たれる」という言葉が昔からある。意味は、日本人は能力の高い人間をよってたかって潰そうとする村社会、という意味だ。従ってイノベーションが生まれにくい。
    しかし同時に「出過ぎる杭は打たれない」という言葉がいつの頃からかあった。最近ではイチローがこの言葉を使っていたが、日本人というのは不思議なもので、あるところまでは能力者を抑えにかかるが、それを超えると今度はとたんに持ち上げ始める。これは実は昔から日本にあった。
    近代以前の江戸時代でも、たとえ身分は低くても能力さえあれば重用するという文化はずっとあった。なにしろ幕末の主役たちは皆身分が低かった。西郷隆盛も勝海舟も、武士といえば武士だがほとんど町人と変わらないような身分だった。彼らを島津斉彬や徳川慶喜といった、封建社会におけるトップ中のトップが引き上げたのだ。
    西郷も勝も「出る杭」だった。だから若い頃はさんざん打たれている。福澤諭吉や

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その77(1,923字)

    2025-03-24 06:00  
    110pt
    石原莞爾は満州の関東軍に転属になって以来、満州国の自主独立を目指して、あるいは始まってしまった日中戦争を早期に終わらせようと、あれこれ働きかけていた。
    しかしそれを東條英機がことごとく阻止した。東條の立場(意見)は石原と正反対だった。満州は日本が支配しなければならないし、中国との戦争は継続(拡大)しなければならない。それは、陸軍の大半の意見と同じでもあった。
    おかげで石原の立場はどんどんと失われていった。しかし石原は基本的には気にしていなかった。東條との仲は傍目にもひどいものとなっていったが、表立って反発しているのはむしろ石原のように見えた。なにしろ聞こえがよしに、東條のことを「東條上等兵」などと言ったりしていたからだ。
    陸軍はエリート主義なので、必ずしも年功序列というわけではない。まず重要なのは陸大の卒業時の席次で、その点は石原の方が東條よりも上だった。だから、東條も石原から反発されても

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その76(1,869字)

    2025-03-17 06:00  
    110pt
    石原莞爾はかねてから日本の中国への侵攻に反対していたため、陸軍の中央部から煙たがられた。それで、1937年の10月に東京の参謀本部長から満州の副長官に転属になった。
    これは、中央から移されたという意味では左遷でもあったが、しかしそれでも満州は日本の要衝だったので、必ずしも悲観するような人事ではなかった。依然として、石原は陸軍の要職にいた。
    それに満州は、石原が脚光を浴びるきっかけともなった満州事変の当地であった。石原は満州が好きだったし、満州も石原が好きだった。
    しかし満州には大きな遺恨が形成されつつあった。それは、本来は単なる外国人である日本人が、満州人より威張っていたからだ。これは、軍人はもちろんだが役人や民間人もそうだった。
    満州は、対外的には独立国で、日本とは対等の立場ということになっていた。このことは、日本が諸外国に最も強調しなければならないポイントだった。
    それなのに、満州の日

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その75(1,752字)

    2025-03-10 06:00  
    110pt
    チャハル作戦は1937年8月9日に始まった。これは関東軍の参謀長である東條自らが指揮して大きな成果を上げた。
    ところがその直後、東條と、そして石原莞爾の運命を大きく変えるあるできごとが起こる。それは人事である。中央の参謀本部第一部長だった石原莞爾が、異動でなんと関東軍の参謀副長へと配置換えになるのである。つまり東條の真下に就くこととなったのだ。
    これまで、東條と石原は同じ一夕会だったから旧知の間柄ではあった。しかし同じ部署になったことはなく、それ以前に親しく交際したこともなかった。だから、お互い有名人でありどういう人間かは知っていたのだが、しかしもう一方では深く知り合っていないところもあった。
    だからこのときが、両者が初めて接近した瞬間となった。それはお互い離れた場所を飛んでいた衛星が、たまたま軌道の関係で重なり合ったというような状況だった。本来は重なり合うはずのないものが、運命のいたずら

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その74(1,882字)

    2025-03-03 06:00  
    110pt
    チャハル作戦は1937年8月9日に始まった。盧溝橋事件が7月7日なので、およそ1ヶ月後である。
    日中戦争が始まると、満州に駐屯していた関東軍はすぐにチャハル省の占領作戦を日本の参謀本部に打診した。参謀本部はこれをのらりくらりとかわしていたが、やがて陸軍内部における対中戦への意欲の高まりを抑えきれなくなる。特に「対支一撃論」の高まりを抑えきれなかった。
    対支一撃論とは、もともとは永田鉄山が考えた対中国への陸軍の姿勢のことで、とにかく一撃きつい攻撃をお見舞いしてから、日本にとって有利な講和条約を引き出すという考え方だ。
    当時の陸軍は、中国の政府を腰抜けと見下していた。だから素早い攻撃とその後の粘り強い懐柔をくり返していくことが、最も効果的な侵略になると考えていたのである。これをすれば、中国はなし崩し的に屈服するだろうと考えていた。
    そうして日中戦争が始まった今、その「対支一撃」の絶好のチャンス

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その73(1,774字)

    2025-02-24 06:00  
    110pt
    1937年7月6日の夜に、盧溝橋事件が起こる。中国に駐屯する日本軍が、盧溝橋の近くでいささか挑発的な演習を行っていた。そのとき、数発の銃声が聞こえた。
    それで隊長が慌てて点呼を取ってみると、兵隊が一人足りなかった。そのことから「中国軍の襲撃を受けて殺された」と考え、取りあえず反撃した後、牟田口廉也連隊長に報告した。牟田口は、中国軍にことの経緯を質すように命じたが、この命令は上手く伝わらず、翌日にはさらなる戦闘に発展した。
    これをきっかけに日中の緊張感が高まり、やがて本格的な戦闘が始まった。日中戦争である。ちなみに、行方不明だった兵隊は後に何ごともなかったかのように帰ってくる。そうしたことから、これは謀略(その首謀者は牟田口)であるという説は色濃いが、満州事変と違って今も確たる証拠はない。また、牟田口の性格や、その後の行動を考えると彼の指揮とは考えにくい。
    だから、本当に「自然発生的」に起こ

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その72(1,685字)

    2025-02-17 06:00  
    110pt
    東條英機は、1936年12月1日に中将に昇進する。それからちょうど4ヶ月後の1937年3月1日、板垣征四郎の後任として関東軍参謀長に就任する。
    ちなみに板垣は広島方面に展開する第五師団の師団長となる。さらに1年後の1938年6月3日、陸軍大臣に就任するのであった。
    東條は、奇しくもこの板垣のスリップストリームに入るような形で出世していく。この後一人(畑俊六)を挟んでから、2年後の1940年7月22日に、東條自身も陸軍大臣に就任するからだ。つまりこの頃の東條は、板垣のナンバーツーのような立ち位置にもいたのだ。
    その意味で、板垣は石原莞爾のボスであり盟友でありつつ、東條英機のボスでもあった。石原と東條を研究するこの連載においては、極めて重要な人物であるといえよう。
    そしてこのことから分かるのは、石原と東條には、どこまでいっても奇妙な共通点が見受けられるということである。ただし両者は全く似ていな

    記事を読む»