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本質的に生きる方法:その12(1,747字)
2024-12-17 06:00会員無料コルビュジエの有名な言葉に「住宅は住むための機械である」というものがある。これはコルビュジエがその建築において何よりも「機能」を重視したことの証しだ。そして、その「機能」を可能な限り「美」しく見せようとした。つまり「機能美」を追求したのだ。
サヴォア邸には、その思想が十全に表れている。それはピロティ構造の実現と、その「アピール」においてである。
鉄筋は、これまでの石造りや木造には不可能だった「強度」というものを建築に与えた。その結果、建築は高層化、あるいは超高層化が可能になった。それで、経済合理性と相まって、建築は上へ上へと伸びていった。
しかしその結果として人間性が失われてしまった。芸術性も居心地も失われてしまった。これでは犠牲が大きいというので、アール・ヌーヴォーを経てアール・デコにおいて、機能性を伴った高層建築の道が幾人もによって模索された。
しかしこの試みは失敗に終わった。高層建築 -
本質的に生きる方法:その11(2,110字)
2024-12-10 06:00会員無料フランク・ロイド・ライトの建築は「アール・デコ」のスタイルがベースにある。「アール・ヌーヴォー」を用いたことはない。それは、近代のテクノロジーに対して、深いところで共感あるいは賛同の気持ちを持っていたからだ。
ただし、それでいながらアール・デコをそのまま踏襲するのではなく、大きな「アンチテーゼ」を提唱している。
それは、アール・デコの建築に特徴的な鉄骨の作り出す「直線」を、アール・デコ自体はエンパイアステートビルディングに代表されるように垂直方向つまり縦に伸びていったのに対し、ライトの建築においては水平方向つまり横に伸ばしていったことだ。
なぜそうしたアンチテーゼを提唱したかといえば、それはアール・デコにおける縦への直線が、デザインにおける大きな「弱点」ともなっていたからだ。
なぜ弱点になっていたかというと、直線が縦に伸びることで、人々に大きな「威圧感」を与えてしまっていたからだ。それによ -
本質的に生きる方法:その10(2,233字)
2024-12-03 06:00会員無料
本質的に生きるためには「土」とともに生きることが不可欠だ。また土木と共に生きることが不可欠だ。そう考えると、本質的に生きた人としてまず釈迦やガンジーが浮かび上がる。彼らは土と共に生きた。本質的な活動を発展させる中で、必然的に土へと向かった。
ところで、ここで少し話は飛ぶが、ぼくは建築家のコルビュジエが好きだ。なぜかというと、彼にも釈迦やガンジーと同じ、土の匂いがするからだ。コルビュジエも、釈迦やガンジーに連なる人物だと思う。
ただし、ほとんどの人はコルビュジエのことをそうとらえていない。むしろ土とは逆に、きわめて近代的な「非土」的な建築を作る人物と思われている。
しなしながら、それは端的にいって誤解である。彼ほど土に寄り添おうとした建築家はいないのではないだろうか。比するとすれば、利休だろう。利休の茶室と、コルビュジエの建築はとてもよく似ている。
ところで、このコルビュジエとよく対比さ -
本質的に生きる方法:その9(1,670字)
2024-11-26 06:00110pt
ぼくが糸島に来たきっかけの一つに、ぼく自身が「土」のことをよく知らなかった――ということがある。数年前、ぼくは「土について全くの無知である」ということに気づかされた。そして驚愕した。これだけ知識に溢れたぼくが、あらゆる知識の中で最も重要ともいえる「土」について何も知らないというのは、狂気の沙汰としか思えなかったからだ。
たとえていうなら、デッサンをしないで絵を描いていたようなものである。キャッチボールをしないまま、野球をしていたようなものだ。基本のキをすっぽかして、表面ばかりをなぞっていたのである。
土は知識の一丁目一番地である。人間の知識はまず土を知ることから来ている。土への知識なくして文明も文化もない。そのことに気づいて、自分はなんと無知だったかということに気づかされた。50歳くらいのときのことである。
それで糸島に来て土の勉強を始めた。庭を作っているが当然農業にも興味を持った。さ -
本質的に生きる方法:その8(1,716字)
2024-11-19 06:00110pt
アメリカでトランプ氏が大統領に当選したことに続き、日本でも斎藤元彦氏が兵庫県知事に当選した。そのことから今、日本でも徐々に「本質的に生きる」という人が増えているようにも見える。「和を以て貴しとなす」を捨てる人が増えているようにも見える。
しかし、単純にそうと言い切れない。なぜなら、そこにはまた別の「和」が発生しているということも考えられるからだ。日本人がそもそも持っていた、中世的な百姓根性の「和」の復活ということも考えられる。
前回も述べた通り、日本は中世から「和」を持っていた希有な民族である。そのため、全世界的に「和」を要求された「近代」にぴったりとハマった。近代において、日本は文句なく世界ナンバーワンの生産国となった。それはもちろん、民族性と文化が近代とぴったりとハマったからである。
それは、近代が生まれたイギリスはもちろん、近代を強力に推し進めたアメリカをも遥かに凌駕した。だから -
本質的に生きる方法:その7(1,890字)
2024-11-12 06:00110pt使われる人間とは何か?
それは他人の価値観で生きる人間である。
では「他人の価値観で生きる人間」というのはどのようなものか?
それは自分よりも社会との関係性――つまり「和」をだいじにする人間のことだ。
今度のアメリカ大統領選は日本でも話題になった。そこであぶり出された面白い現象があると思っている。それは、トランプを嫌ってハリスを応援していた人は、それだけでもう「本質的に生きていない」ということだ。「与えられた価値観」で生きている。
「与えられた価値観」のうち、最も大きいのは「人から嫌われてはいけない」という思想だ。人との和に何より価値を置いている。だから、それを崩す者を唾棄するという思想だ。
そこでは当然のように「自分」は二の次三の次である。和の方がだいじだからだ。「和を以て貴しとなす」だ。
20世紀はそういう生き方が幅を利かした。19世紀までは勝手なやつもそこここにいたが、20世紀に入 -
本質的に生きる方法:その6(1,775字)
2024-11-05 06:00110ptAIは愚者に似ている。どこが似ているかというと、誰かが発明したものを利用することで成果を上げる――というところだ。与えられた道具の最適な使い方を考えること。あるいはそれを再編集すること。これこそ愚者の最も得意なことである。
いわゆる1を10にするというものである。反面、発明やイノベーションつまり0を1にするということには向いていない。なにしろAIは大規模データを学習することによって成果を上げるわけだから、既存の知見の枠組みを出ることはないのだ。
イノベーションとは既存の枠組みをはみ出ることである。あるとき、アメリカのダイナーで文句ばかり言う常連客がいた。彼は、薄くスライスしたポテトのフライが好きだった。それでいつも、店主に「もっと薄くできないのか?」と文句を言っていた。
そこで怒った店主は、あるとき限界まで薄くしてやろうと考えて、既存の枠組みを大きくはみ出して、それまで7ミリほどあった厚み -
本質的に生きる方法:その5(1,812字)
2024-10-29 06:00110pt本質的に生きる方法は、これまでの社会では賢者がしていれば良かった。なぜなら、これまでは愚者の社会だったからだ。
なぜ愚者の社会だったかというと「文明」の助けがあったからだ。文明は愚者を助け、賢者をそれほど必要としなかった。それでおよそ5000年前から、どんどんと愚者が増えていったのだ。
文字が発明された5000年前、エジプトでは愚者が増えることが社会問題化されていた。文字の発達によって、ものを覚えることができない愚者が増えたからだ。その現状を見て、ときの王様は「文字というのは悪魔の発明ではないか」と恐れおののいた。
その後キリスト教が生まれるが、これも基本的には愚者の広がりに対する懸念をベースとしている。「この世界は悪くなり続けている」というのが、キリスト教の基本的な世界観である。つまり、愚者が増え続けているという考えだ。それをなんとか押しとどめるために、キリスト教は存在した。そんなふうに -
本質的に生きる方法:その4(1,850字)
2024-10-22 06:00110pt2なぜ釈迦をはじめとして偉大な人たちが偉大な発見を過去に何度もしているのに、それは広まらないのか?
それは、人間を含むあらゆる生き物の生存は、「賢者」よりも「適者」の方が有利だからだ。適者生存の法則である。これが人間界でも成り立っている。
そして人間界において、「生存適者」とは幸か不幸か「愚者」なのである。だからこの社会は愚者ばかりなのだ。
ではなぜ愚者の方が生存に適しているのか?
それは「文明」の存在と深い関係がある。
人間は元々文明なしで生きていた。そのときは賢者の方が生存に適していた。そのため適者が多かった。
しかしあるき賢者の一人が文明を発展させた。例えば石器を作った。すると、それは愚者を強力に助けた。そうして社会の生産性が上がった。人類全体の生存確率も上がった。
その結果、愚者の側からの強烈な「文明発展圧力」が強まった。なぜなら文明が発展することで得をするのは賢者よりも愚者の方だか -
本質的に生きる方法:その3(1,595字)
2024-10-15 06:00110pt釈迦は仕事を禁じた。
なぜか?
それは、その方が本質的に生きられるからだ。
ではなぜ仕事をしないと本質的に生きられるのか?
それは、仕事というのは執着を生み出すからである。そして執着こそが本質的な生き方を阻害する。だから、仕事を取り除くことで本質的に生きる道は開かれやすくなる。
ではなぜ仕事は執着を生み出すのか?
それを語る前に、まず前提としてほとんどの人がそのことを知らないということがある。誰も仕事が執着を生み出すと思っていない。想像すらしていない。だから厄介なのだ。
そして、なぜ仕事が執着を生み出すかといえば、それは仕事をすると「他の人に役立っている」という実感を抱きやすいからだ。しかしこれこそが執着を生み出す麻薬である。
「他の人の役に立っている」と思うと、それがあまりにも心地いいので溺れてしまう。その快感を得るために仕事をするようになる。そうしてどんどんと本質から外れていくのだ。
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