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本質的に生きる方法:その6(1,775字)
2024-11-05 06:00 21時間前110ptAIは愚者に似ている。どこが似ているかというと、誰かが発明したものを利用することで成果を上げる――というところだ。与えられた道具の最適な使い方を考えること。あるいはそれを再編集すること。これこそ愚者の最も得意なことである。
いわゆる1を10にするというものである。反面、発明やイノベーションつまり0を1にするということには向いていない。なにしろAIは大規模データを学習することによって成果を上げるわけだから、既存の知見の枠組みを出ることはないのだ。
イノベーションとは既存の枠組みをはみ出ることである。あるとき、アメリカのダイナーで文句ばかり言う常連客がいた。彼は、薄くスライスしたポテトのフライが好きだった。それでいつも、店主に「もっと薄くできないのか?」と文句を言っていた。
そこで怒った店主は、あるとき限界まで薄くしてやろうと考えて、既存の枠組みを大きくはみ出して、それまで7ミリほどあった厚み -
本質的に生きる方法:その5(1,812字)
2024-10-29 06:00110pt本質的に生きる方法は、これまでの社会では賢者がしていれば良かった。なぜなら、これまでは愚者の社会だったからだ。
なぜ愚者の社会だったかというと「文明」の助けがあったからだ。文明は愚者を助け、賢者をそれほど必要としなかった。それでおよそ5000年前から、どんどんと愚者が増えていったのだ。
文字が発明された5000年前、エジプトでは愚者が増えることが社会問題化されていた。文字の発達によって、ものを覚えることができない愚者が増えたからだ。その現状を見て、ときの王様は「文字というのは悪魔の発明ではないか」と恐れおののいた。
その後キリスト教が生まれるが、これも基本的には愚者の広がりに対する懸念をベースとしている。「この世界は悪くなり続けている」というのが、キリスト教の基本的な世界観である。つまり、愚者が増え続けているという考えだ。それをなんとか押しとどめるために、キリスト教は存在した。そんなふうに -
本質的に生きる方法:その4(1,850字)
2024-10-22 06:00110pt2なぜ釈迦をはじめとして偉大な人たちが偉大な発見を過去に何度もしているのに、それは広まらないのか?
それは、人間を含むあらゆる生き物の生存は、「賢者」よりも「適者」の方が有利だからだ。適者生存の法則である。これが人間界でも成り立っている。
そして人間界において、「生存適者」とは幸か不幸か「愚者」なのである。だからこの社会は愚者ばかりなのだ。
ではなぜ愚者の方が生存に適しているのか?
それは「文明」の存在と深い関係がある。
人間は元々文明なしで生きていた。そのときは賢者の方が生存に適していた。そのため適者が多かった。
しかしあるき賢者の一人が文明を発展させた。例えば石器を作った。すると、それは愚者を強力に助けた。そうして社会の生産性が上がった。人類全体の生存確率も上がった。
その結果、愚者の側からの強烈な「文明発展圧力」が強まった。なぜなら文明が発展することで得をするのは賢者よりも愚者の方だか -
本質的に生きる方法:その3(1,595字)
2024-10-15 06:00110pt釈迦は仕事を禁じた。
なぜか?
それは、その方が本質的に生きられるからだ。
ではなぜ仕事をしないと本質的に生きられるのか?
それは、仕事というのは執着を生み出すからである。そして執着こそが本質的な生き方を阻害する。だから、仕事を取り除くことで本質的に生きる道は開かれやすくなる。
ではなぜ仕事は執着を生み出すのか?
それを語る前に、まず前提としてほとんどの人がそのことを知らないということがある。誰も仕事が執着を生み出すと思っていない。想像すらしていない。だから厄介なのだ。
そして、なぜ仕事が執着を生み出すかといえば、それは仕事をすると「他の人に役立っている」という実感を抱きやすいからだ。しかしこれこそが執着を生み出す麻薬である。
「他の人の役に立っている」と思うと、それがあまりにも心地いいので溺れてしまう。その快感を得るために仕事をするようになる。そうしてどんどんと本質から外れていくのだ。
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本質的に生きる方法:その2(1,533字)
2024-10-08 06:00110ptイズムを捨てて生きるにはどうすればいいか? あるいは、イズムと反対の生き方とはどういうものか?
実は、それを表現する言葉はいくつもある。虚心坦懐、是々非々、現実主義的。どれも「理想に囚われない」という意味である。「現実を見る」ということだ。見るだけではなく、受け止めることが重要である。もっというと、積極的に肯定することが必要だ。
勝間和代氏が「起きていることはすべて正しい」と言ったが、ぼくはそれくらいの心構えを持つ必要があると思う。例えば大災害が襲ってきて愛する人が突然亡くなったとしても、それを正しいと思える力――それがイズムを捨てるという生き方である。
こういう生き方は、現代人のほとんどができないだろう。しかしかつてはできていた。なぜなら、かつては死が間近にあったからだ。多くの人が不条理な形で死んだ。そういう社会では、いちいち現実を否定していては身が持たない。勢い、現実主義的にならざるを -
本質的に生きる方法:その1(1,489字)
2024-10-01 06:00110pt来たるべき「超能力社会」において、そこに参加するほとんどの人が結果的に苦しむことになる。従って、多くの人はそもそも参加せず、新たな生き方を模索した方がいい。
そしてそれは、それほど難しいことではない。産業革命まで、あるいは明治維新まで、多くの人々はそういう生き方をしてきた。
ところが、産業革命によって競争主義社会――すなわち能力社会が生まれ、それはどんどんと拡大した。第二次大戦の終戦をきっかけに拡大スピードが加速し、20世紀の終わりのインターネットの登場によってとうとう世界の隅々にまで行き渡った。
今の競争社会はオリンピックのようなものだ。世界の誰もが横一線になったので、たった一人しか勝者がいない。そうなると、多くの人を幸せにするにはオリンピックと同じように種目を増やしていくしかない。
しかし種目を増やすといっても限界がある。今年行われたパリオリンピックも、まさにそうした様相を呈していた。
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