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記事 40件
  • 教養論その40(最終回)「本当の教養」(1,578字)

    2016-06-02 06:00  
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    本当の教養とは愚者のことである。何も考えていないということだ。
    賢者は、一周回ってこの境地に辿り着く。ビートルズに「フール・オン・ザ・ヒル」という歌があるが、これもそのことを歌っている。
    桜井章一さんとお話ししたときに、最も印象的だった言葉が「鮭はここまで約束守ってんのに」だった。だからそれが本のタイトルにもなった。

    鮭はここまで約束守ってんのに – Amazon
    桜井さんの、野に生きる獣に対する尊敬の態度は一貫している。蟻を見て、そこに「人間には一生到達できないすごい動き」を見出す。
    人間でいえば、愚者が一番偉い。愚者が一番教養がある。なぜなら、教養があるとは教養がないことだからだ。
    それゆえ、本当の教養を身につけた人は、自分が教養を身につけたがゆえに最も教養から遠いところまで来てしまったことを知る。そして、教養を身につけていないからこそ最も教養に近い愚者に憧れを抱くのだ。
    この一周回

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  • 教養論その39「教養とは何か?」(2,033字)

    2016-05-26 06:00  
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    教養論という連載を続けてきて分かったのは、教養とは「知る」ということだ。そして教養を育むというのは、知るということは何かを理解することも含めて、多くのことを知るということである。
    ところで、「知る」という事象についての有名な言葉で、「無知の知」というのがある。この言葉は、多くの人が知っているようで実は知らない、というものの代表格のような存在だ。つまり、「無知の知」の本当の意味を知っているか知らないかで、教養のあるなしが測れるといってもいいだろう。「無知の知」は、面白いことに教養のあるなしを測るリトマス試験紙のような役割を持っているのだ。
    では、多くの人はこの「無知の知」という言葉をどのように理解しているだろうか?
    もちろん、全く知らないという人もいるだろうが、現代日本人のほとんどは、聞いたことはあるのではないだろうか。そしてそのうちの大部分は、これをソクラテスが言った言葉として理解している

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  • 教養論その38「歴史から学ぶ認知フィルター」(2,041字)

    2016-05-19 06:00  
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    人間というのは、自分の五感を通して世界を認知する。そして通常、人はその五感の能力を疑わないので、自分の認知の仕方が、そのまま世界の「事実」だと思い込んでいる。
    しかしながら、それは端的にいって誤りだ。人間の五感には、さまざまなフィルターがかかっているから、事実をその通りには受け取れないのである。
    例えば、手持ちカメラの映像は、激しく揺れており、見ているとやがて気持ちが悪くなってくる。しかしながら、我々が普段肉眼で歩きながら世界を見ているときには、激しく揺れているにもかかわらず、気持ち悪くならない。それは、脳内で揺れを補正しているからだ。「事実」は、手持ちカメラの映像のように揺れているのに、五感は揺れていないように感じているのである。
    そういうふうに、人間の五感を初めとする認知の仕方にはフィルターがかかっている。それゆえ、どんな人でも事実をそのまま受け取ることはできない。
    そこで重要になって

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  • 教養論その37「歴史の距離感」(1,655字)

    2016-05-12 06:00  
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    人間は、さまざまな経験を積むことによって教養を育む。だから、経験を積めば積むほど、教養もまた育まれるといっていいだろう。若者より老人の方が、一般的に教養が深いのはそのためである。一方で、人間が積める経験には自ずから限界がある。この世の中には、自分では体験できないこともたくさんある。そのうちの代表的なものの一つが「歴史」だ。例えば我々は、どんなに努力しても江戸時代を体験できなければ。明治時代も体験できない。我々は、常に現代しか体験できない。しかしながら、単に経験できないからという理由で歴史を軽視するのはあまりにももったいない。それは、歴史は教養の宝庫であり、そこからいろいろなことを学ぶことができるからだ。しかもそれは、ほとんど人類始まって以来の伝統でもある。学問とは、まさに歴史を学ぶことから始まった。人間は、歴史を学ぶことで今のような進歩した文明を手に入れることができたのだ。そんな教養を育む

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  • 教養論その36「自分を正しく認知するために役立った教養(後編)」

    2016-05-05 06:00  
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    高校生くらいになると、映画が教養として役立つようになった。
    例えば『二十四の瞳』『七人の侍』『ゴッド・ファーザー』『フォレスト・ガンプ』などから、人と人との関係性――つまり人間関係、特に「家族とは何か?」ということを学ぶことができた。
    人間は、環境に左右されながら生きている。だから、人間を理解するにはそれを取り巻く環境をも理解する必要がある。
    その人間の環境にとって、最も重要なものの一つが「家族」だ。だから、「家族」を理解することは人間を理解する上では欠かせないのである。
    上に挙げた映画は、どれも「家族というのは必ずしも絶対ではない」ということを教えてくれる。もっというと、家族の「負」の側面について教えてくれる。
    家族というのは、重要であることには疑いの余地がないが、実は正しいことがほとんどない。それは、ほとんどの場合「負」である。
    ほとんどの家族は、実は失敗している。その意味で、ほとんど

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  • 教養論その35「自分を正しく認知するために役立った教養(前編)」(1,652字)

    2016-04-28 06:00  
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    ぼくが、「自分を正しく認知するために役立った教養」といってまず思いつくのは「絵画」である。それも西洋絵画だ。ぼくの家にはいくつかの画集があって、それを眺めることによって教養が育まれた。特に、ヤン・ファン・エイクやレオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロなど、いわゆるルネサンス期のデッサンがしっかりした画家の絵が参考になった。なぜかというと、人間の脳というのは、目からの情報を受け取り過ぎないために、そもそもかなりの部分で遮断している。もし目からの情報全てを受け取ってしまうと、パンクして機能しなくなるからだ。そうなると、例えば車の運転ができなくなる。人間が車の運転をするためには、目からの情報の大部分を遮断する必要があるのだ。つまり、人間の脳はそもそも見ているものを正しく認識できないようになっている。しかし、そうなると正しく絵を描くことができないので、画家というのは後天的に脳の仕組みを修正する。そうし

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  • 教養論その34「自分を素直に見ることによって初めて分かる教養の本当の役割」(1,836字)

    2016-04-21 06:00  
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    自分に素直になるということは、もう一人の自分を持って、自分を客観的に見ることによって果たされる。自分を客観的に見ることができると、自分の弱点が見えるから、それをあまり出さないようにできる。それと同時に、自分の長所も分かるから、それを上手く出せるようになるのだ。
    そういうふうに、自分の長所や短所が分かると、さらにその奥にある、自分の素直な思いというものを知ることもできる。自分の素直な思いとは、自分が何に価値をおいているか、ということだ。自分が大切に思っていることは何か。自分にとってのプライオリティが判別できるようになるのだ。
    ここまでして気づくのは、人間は、自分のことが案外分かっていない――ということである。それはまた、ほとんどの人間は、自分のことが分かったつもりでいる――ということでもある。ぼくは30歳のときに、その視点を得ることができた。ぼくを含めた多くの人間が、自分のことを分かっていな

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  • 教養論その33「素直になるということ」(1,490字)

    2016-04-14 06:00  
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    ぼくは、あるときから「もう一人の自分」を持てるようになった。
    そうなったのは高校生のときである。きっかけは、恋をしたことだった。
    恋をしたとき、こう思った。
    「自分は、相手からどう思われているのだろう?」
    ぼくは、好きになった相手が自分のことをどう思っているか、気になった。なぜなら、相手もぼくのことを好きでいてくれれば、つき合いたいと思ったからだ。しかし、好きでなければ告白はしたくなかった。告白して振られるのが怖かったからだ。
    それで、何日か思い悩んでいたのだが、結論は出なかった。相手がぼくのことをどう思っているのか、分からずじまいだった。
    というのも、ぼくはそれまで「自分が他者からどう思われているか」ということをほとんど気にしたことがなかった。だから、「他者の気持ち」というのがよく分からなかったのだ。
    それで、最終的には告白して、相手の気持ちを確かめてみた。しかし、そこで見事に振られてし

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  • 教養論その32「もう一人の自分を持つ方法(後編)」(1,592字)

    2016-04-07 06:00  
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    もう一人の自分を持つもう一つの方法は、「他者を利用する」ということだ。他者を鏡にし、そこに映った自分を「もう一人の自分」とするのである。
    高校生の頃、あることに気づいた。それは、誰かと話していると、どんどんと自分の考えが分かっていく――ということだ。自分の希望や絶望、望みや嫌悪をいったものが、皮をむくようにクリアーになっていくのである。
    あるいは、自分では思ってもみなかった発想が口から飛び出したりすることもあった。そういう経験を重ねるうちに、やがて「誰かと話すことは、自分自身の力では引き出せなかった『もう一人の自分』を引き出してもらうこと」だというのを悟った。
    小説家の平野啓一郎さんは、それを「分人」という言葉で定義している。
    「分人」とは、「個人」はそれぞれ一つではない。互いに無関係な、バラバラの、さまざまな側面を持っている。その意味では、「個人」というより「分人」だ――という意味だ。

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  • 教養論その31「もう一人の自分を持つ方法(前編)」(2,014字)

    2016-03-31 06:00  
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    自分の中のネガティブな感情(怒りや憎しみ)を適度に解放するためには、自分を外側から見つめるもう一人の自分を作る必要がある。そのもう一人の自分に自分を冷静に見つめさせることで、もとの自分は、あえて感情に「とらわれる」ことができるようになるのだ。激高したり、逆上したりできるのである。
    では、そのもう一人の自分はどのように持てばいいのか?
    まず、最もシンプルで即効性のある方法としては、自分の映像を撮るということである。そして、それを何度も見ることだ。
    誰でも経験があると思うのだが、自分の声を録音したテープを初めて聴いたとき、それが自分の声に聞こえなくて驚いたことがある。あるいは、自分の動く姿を初めて映像で見たとき、それが自分だとは思えなくて驚いたことがある。その姿は、いつも鏡で見ていたのとは別人にしか見えないのだ。
    しかし、その裏には多くの人が知らない事実が隠されている。それは、そういう映像を何

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