-
野球道とは負けることと見つけたり:その14(2,098字)
2025-02-14 06:00会員無料文也の父は教師であった。それも徳島商業の教師であった。だから文也は徳商に行くのは初めは嫌がっていたという。父が教師をしている学校に行くのが恥ずかしかったのだ。
この恥ずかしさには、単に「父だから」ということの他に、もう一つの理由があった。それは文也の父がアル中だったことだ。それもかなり重度のアル中だった。なにしろ勤務先の神聖なる学校にも、酒の匂いをさせていくぐらいだった。だから文也も、入った当初は、上級生から「おまえも酒臭いぞ」とからかわれたという。
そんなふうに、父は教師という聖職にありながら生徒にも知れ渡るほどのアル中だった。アル中の父は、文也をよく池田町の酒場に連れて行ったという。まだほんの子供だった文也を連れて、夜な夜な酒場をはしごした。文也は、その時間が苦痛だった。酔っ払う父や父の知人たちがだらしなく見えたからだ。
だから文也は、父に対して素直な愛情を抱けなくなった。それと同時に -
野球道とは負けることと見つけたり:その13(1,719字)
2025-01-31 06:00110pt文也が監督になったのは1951年、29歳の年だった。全国制覇をするのが1982年だから、そこから実に31年が経過したことになる。このとき、文也は60歳になっていた。ちょうど教師を定年する年だった。
その文也の30余年の苦闘とはどのようなものだったか?
まずは「甲子園の呪い」ともいえる日々だった。監督に就任したときから、文也は甲子園にこだわり続けた。甲子園に連れていくことこそ高校野球指導者としての使命という信念を持ち続けた。
さらにいうと、「勝つ」ということにこだわった。文也の辞書に、実は「負け」の文字はなかった。彼はとことんまで勝ちにこだわったのだ。
なぜなのか?
一番の理由は、文也自身が、自分のことを好きではなかったことだ。彼は今の言葉でいえば自己肯定感が極端に低かった。自分は負け犬のどうしようもない人間だと思っていた。それを払拭するために、半分は酒に頼っていたところもあった。酒に溺れて -
野球道とは負けることと見つけたり:その12(1,630字)
2025-01-24 06:00110pt1951年、蔦文也は池田高校の監督に就任したが、ベンチに入ることはできなかった。当時の規定で、元プロ野球選手は引退後一年間、監督になれないという高野連の規定があったからだ。それでこの年だけ、文也は球場の観客席で試合を見守ることとなった。
この年の池田は、エース蔵の活躍で二回戦を突破し、準決勝に進出する。この試合に勝てば決勝に勝ち残りの二校に入り、勝っても負けても南四国大会に進める。つまり準決勝は、事実上の決勝戦ともいうべきだいじな試合だった。
その対戦相手は鳴門高校だった。前年夏の大会では甲子園で準優勝し、そればかりか今年の春に甲子園で優勝したばかりの超強豪だった。つまり日本一の高校だ。この大会でも優勝候補の筆頭で、下馬評では鳴門の圧勝だった。
その通り、鳴門はエースを温存し、二番手投手を先発させた。ところが、池田はその二番手投手を打ち崩し、大量5点を先制する。そうして、慌てて相手エースを -
野球道とは負けることと見つけたり:その11(1,855字)
2025-01-17 06:00110pt蔦文也は引き裂かれた男である。能力はあるが根性はない。それは、幼い頃甘やかされて育ったからだ。
そのため何をやらせても、はじめは調子よく自分でもその気になるのだが、肝心のところで挫けてしまい、ビビって負けてしまう。それで逃げるが、ときどきの環境と根が真面目な性格だったため、最後まで逃げ切れず、また元の場所に戻ってくる。
そうして徳商野球部、同志社野球部、特攻隊、全徳島、プロ野球と渡り歩いた。しかしプロ野球の世界で全く通じず、結婚したばかりの妻と故郷の池田町に帰ってくることになる。
このときまでに文也は、今の時代はもちろん同時代の人さえ追随を許さないような凄絶な前半生を送っていた。それはとても「金持ちのボンボン」といえるような経歴ではなかった。つまり、根は金持ちのボンボンでありながら、他の誰よりも過酷な生き方を強いられることとなったのだ。
それは「野球が全てそうさせた」ということもあるだろう -
野球道とは負けることと見つけたり:その10(1,624字)
2024-12-20 06:00110pt蔦文也は1951年に池田高校の野球部監督に着任した。27歳になる年のことであった。
池田高校野球部は、戦後すぐの1946年に発足した(当時はまだ旧制の池田中だった)。はじめは同好会だったが、翌年の1947年から正式に部としての運営をスタートし、甲子園を目指す公式戦にも参加した。
当時の徳島県の公式チームは15校である。夏は、このうちの2校までが南四国大会に進める。つまり3回勝てば進める。そこで高知代表2校も含めた4校で、甲子園出場をかけた勝負をする。このとき、勝ち残った1校しか出場できない。そういう狭き門であった。
県大会に参加し始めてからの池田は、しばらくは連敗が続いた。それでも、2年後の1949年の夏の大会で、初めての勝利を記録する。さらに1950年は躍進し、夏の大会の県予選で2回勝った。もう1勝で南四国大会に出場できたが、名門鳴門商業に大敗する。
文也が着任したのはその次の年である。 -
野球道とは負けることと見つけたり:その9(1,791字)
2024-12-13 06:00110pt
1950年、文也は東急フライヤーズに入った。背番号は16。見合い結婚したばかりだったが、新妻は郷里に残してきた。東急フライヤーズは日本ハムファイターズの前身で、本拠地は東京にあった。
文也の背番号は16だった。二軍の練習場所は読売ジャイアンツと同じ多摩川グラウンド。だから練習していると巨人の16番と間違えた子供たちが、よく群がってきたという。そして文也の顔を見ると「ちぇ、川上じゃないのかよ」と言った。これが滅法応えたという。
文也はピッチャーとして入ったが、成績はパッとしなかった。なにしろ肩がもう限界だったのだ。全徳島に入ってからは無茶な投げ方をしていた。昔のことだから、連投連投が当たり前だったのだ。それ以前は戦争で心身をすり減らしてもいた。その頃に覚えた酒も続いていた。
だから27歳にして体が悲鳴を上げていた。文也の体はもうプロ野球選手のそれではなかった。あまりにも球速が遅く、打たれ -
野球道とは負けることと見つけたり:その8(1,735字)
2024-12-06 06:00110pt2
蔦文也は1923年の生まれだが、よくよく考えるとぼくの母方の祖母が1923年の生まれであった。祖母の苦労はなんとなく知っているので、蔦文也の苦労もまた実感できるようになった。
戦争は1941年に始まり1945年に終わった。この4年間は、文也にとって18歳から22歳という最も多感な時期だった。しかも特攻隊員だったのだ。これ以上の「地獄」はなかなかないだろう。
1945年8月15日、文也は特攻隊員として玉音放送を聞く。最後は奈良の大和海軍航空隊「神風特別攻撃隊千早隊」に所属していた。先述のように、終戦するとすぐに同志社に復学している。
それから1年後の1846年9月、文也は晴れて同志社大学を卒業。ただし、終戦直後で世の中は混乱して、経済は逼迫しており、先行きは全く見通せなかった。
それでも、世の中は明るい空気に満ちていた。それは、戦争の4年間があまりにも暗かったからだ。それに比べれば、混乱 -
野球道とは負けることと見つけたり:その7(2,011字)
2024-11-29 06:00110pt同志社大学はミッションスクールでアメリカとの親和性が強かった。そのため軍国教育や日本の国家主義には最後まで抵抗した。だから戦時中は、相当肩身の狭い思いをしただろう。それでもキリスト教徒の頑なさで、かなりギリギリのところまで抵抗した。
キリスト教徒は抵抗することへの抵抗が少ない。なにしろ教祖のイエス・キリストが「抵抗の人」なので、弾圧に抵抗するのは最も教義に適った行動ということもできるからだ。
それゆえに長期的に見ると強い。なぜなら弾圧するのはいつでも守旧派で、弾圧されるのはたいてい革新派である。そして長期的に見れば、革新派が勝利することは間違いないのである。それが、キリスト教が2000年以上にわたって栄え続けた最大の理由だろう。
逆に、キリスト教2000年の中で最大のピンチだったのが、キリスト教自体が守旧派に回った中世だった。そんな中で活版印刷が生まれ、キリスト教内にキリスト教に抵抗する革 -
野球道とは負けることと見つけたり:その6(1,599字)
2024-11-22 06:00110pt蔦文也は1923年の生まれである。ぼくが好きな『二十四の瞳』という映画に出てくる12人の少年少女は、1921年生まれの設定である。
そのため文也は、彼らより2学年下ということになる。また、場所も徳島と小豆島でそう遠くない。だから『二十四の瞳』を見れば、文也の少年時代の日本、文化というものがなんとなく体感できる。
『二十四の瞳』の主人公で、12人の子供たちの先生である大石久子は、1907年生まれの設定だ。明治40年である。そのため、青春時代を大正デモクラシーの中で過ごした。大正の好景気の中で育った。「モボ・モガ」の文化である。
大石先生が月賦で買った自転車に乗っているのを、小豆島の女性たち(生徒の母親たち)ははじめ、良く思わない。それは、自転車は女性が乗るものではないという明治の古い女と、女でも自転車に乗っていいという大正の新しい女の文化がぶつかったからだ。明治と大正で、大きな世代間ギャップ -
野球道とは負けることと見つけたり:その5(1,968字)
2024-11-15 06:00110pt2いきなりドラマの構成を考えるのはとても骨が折れることなので、その前段階として、第一話に描くエピソードの背景というものをあらためて書き出していきたい。
蔦文也は徳島商業に入学する。それは徳島商業監督、稲原幸雄に請われたからでもあった。当時の甲子園はまだ小規模で、四国からは一校しか出られなかった。そして四国には高松商、松山商という二大強豪校があった。だから徳島商は、県下一の強豪校ではあったものの、1915年に全国中学校野球選手権大会が始まって以来、一度も甲子園に出られていなかったのだ。
その負の歴史を覆そうともがいていたのが徳島商業稲原監督だった。稲原は1907年の生まれで、徳島商を卒業後、関西学院大学を経て東京で就職した。しかし1932年、徳商OBから監督就任を強く要請され、これを引き受ける。25歳のときであった。
そこから稲原の指導が始まるのだが、それは「猛特訓」そのものだった。練習は朝か
1 / 2
次へ>