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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その19(1,809字)

    2025-03-21 06:00  
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    蔦文也は20年間甲子園に出られなかった。そしてその間は揺れ続けていた。
    1960年から3年間、県予選を勝ち抜き、甲子園まであっと一勝、もしくは二勝という期間が続いた。この間に、池田町民の期待は一気に盛り上がる。時代はまさしく高度経済成長のど真ん中で、池田の町も好景気を謳歌していた。その波に後押しされ、町民たちは自分たちの町にも誇れる何か、あるいは娯楽を求めたのである。
    その娯楽として高校野球は最高だった。というのもこの頃、戦後の復興とも相まって、ちょうど野球人気が頂点に達しつつあった時期だからだ。
    折しもプロ野球では1958年、長嶋茂雄のデビューで盛り上がっていた。高校野球では、同郷である徳島商業の板東英二が、1958年に夏の甲子園で不滅の大記録となる大会83奪三振を記録し、準優勝を遂げていた。
    この板東の活躍で、徳島県の高校野球人気はかつてないほどに盛り上がった。そうして池田高校は、なに

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その17(2,160字)

    2025-03-07 06:00  
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    蔦文也は1952年から1971年まで、甲子園に出られなかった。年齢でいうと29歳から48歳である。丸々20年間、ずっと苦しんでいた。そうして50歳を目前に、とうとう念願が叶ったのだ。
    その間に時代もうつろった。1952年というと、朝鮮戦争特需でちょうど高度経済成長が始まった頃である。この頃は人口も経済も伸びて、日本には活気があった。徳島池田町も大いに盛り上がっていたことだろう。
    その盛り上がる波に乗って、池田高校も町から大きな支援を受けた。この支援なしに、蔦文也の20年間はなかった。
    直裁に言うと、蔦文也は日本の最も裕福な20年間に、その裕福さを満喫した田舎で高校野球の監督をしていた。当時は都会よりむしろ田舎の方が裕福だったし高度経済成長の主役だった。日本の典型的な田舎である池田町も、よっぽど賑わっていたことだろう。
    文也は、生まれ育った時代環境は劣悪だったが、監督をしていた時代は環境に恵

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その16(1,553字)

    2025-02-28 06:00  
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    蔦文也の1951年から1983年までの32年間の年表を見てみたい。その人生がいかにジェットコースターだったか分かる。その谷の深さと、頂の高さは他になかなか比肩するものがない。
    1951年(28歳)
    池田高校の監督になる。
    1952年(29歳)
    ベンチで指揮を執り始める。
    1953年(30歳)
    目立った成績を残せず。
    1954年(31歳)
    目立った成績を残せず。
    1955年(32歳)
    秋の県大会、鳴門を初めて破り、決勝まで進む。しかし、惜しくも徳商に敗れる。
    1956年(33歳)
    目立った成績を残せず。
    1957年(34歳)
    夏の県予選で準優勝。南四国大会に初出場を果たす。しかし、一回戦で高知に敗れる。
    1958年(35歳)
    目立った成績を残せず。
    1959年(36歳)
    目立った成績を残せず。
    1960年(37歳)
    春の県大会、念願の初優勝を飾る。四国大会に初出場。しかし、一回戦で宇和島東に

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その15(1,765字)

    2025-02-21 06:00  
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    蔦文也は1951年(28歳)に池田高校の教師となり、翌1952年(29歳)から監督として采配を振るうようになる。そんな文也が初めて甲子園に出られたのが1972年(49歳)のときだった。つまりまだ若者だった頃から中年になるまで、丸々20年間、苦杯を舐め続けた。
    しかも、この間の池田は常に県の優勝候補の一角を占めていた。けっして弱小校ではなかった。つまり勝てそうで勝てないという期間が20年間も続いたのである。これは、後に勝ち続けることによって全国にその名を轟かした姿しか知らないファンには想像しにくい。だから、強く興味を引かれる部分でもあるのではないだろうか。
    ぼくは、1979年に甲子園で準優勝したときから、池田のファンである。当時11歳だった。一般に、池田が有名になったのはその3年後、1982年に全国優勝を成し遂げたときである。しかし高校野球ファンの間では、優勝する前から池田は知らない者がいな

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その14(2,098字)

    2025-02-14 06:00  
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    文也の父は教師であった。それも徳島商業の教師であった。だから文也は徳商に行くのは初めは嫌がっていたという。父が教師をしている学校に行くのが恥ずかしかったのだ。
    この恥ずかしさには、単に「父だから」ということの他に、もう一つの理由があった。それは文也の父がアル中だったことだ。それもかなり重度のアル中だった。なにしろ勤務先の神聖なる学校にも、酒の匂いをさせていくぐらいだった。だから文也も、入った当初は、上級生から「おまえも酒臭いぞ」とからかわれたという。
    そんなふうに、父は教師という聖職にありながら生徒にも知れ渡るほどのアル中だった。アル中の父は、文也をよく池田町の酒場に連れて行ったという。まだほんの子供だった文也を連れて、夜な夜な酒場をはしごした。文也は、その時間が苦痛だった。酔っ払う父や父の知人たちがだらしなく見えたからだ。
    だから文也は、父に対して素直な愛情を抱けなくなった。それと同時に

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その13(1,719字)

    2025-01-31 06:00  
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    文也が監督になったのは1951年、29歳の年だった。全国制覇をするのが1982年だから、そこから実に31年が経過したことになる。このとき、文也は60歳になっていた。ちょうど教師を定年する年だった。
    その文也の30余年の苦闘とはどのようなものだったか?
    まずは「甲子園の呪い」ともいえる日々だった。監督に就任したときから、文也は甲子園にこだわり続けた。甲子園に連れていくことこそ高校野球指導者としての使命という信念を持ち続けた。
    さらにいうと、「勝つ」ということにこだわった。文也の辞書に、実は「負け」の文字はなかった。彼はとことんまで勝ちにこだわったのだ。
    なぜなのか?
    一番の理由は、文也自身が、自分のことを好きではなかったことだ。彼は今の言葉でいえば自己肯定感が極端に低かった。自分は負け犬のどうしようもない人間だと思っていた。それを払拭するために、半分は酒に頼っていたところもあった。酒に溺れて

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その12(1,630字)

    2025-01-24 06:00  
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    1951年、蔦文也は池田高校の監督に就任したが、ベンチに入ることはできなかった。当時の規定で、元プロ野球選手は引退後一年間、監督になれないという高野連の規定があったからだ。それでこの年だけ、文也は球場の観客席で試合を見守ることとなった。
    この年の池田は、エース蔵の活躍で二回戦を突破し、準決勝に進出する。この試合に勝てば決勝に勝ち残りの二校に入り、勝っても負けても南四国大会に進める。つまり準決勝は、事実上の決勝戦ともいうべきだいじな試合だった。
    その対戦相手は鳴門高校だった。前年夏の大会では甲子園で準優勝し、そればかりか今年の春に甲子園で優勝したばかりの超強豪だった。つまり日本一の高校だ。この大会でも優勝候補の筆頭で、下馬評では鳴門の圧勝だった。
    その通り、鳴門はエースを温存し、二番手投手を先発させた。ところが、池田はその二番手投手を打ち崩し、大量5点を先制する。そうして、慌てて相手エースを

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その11(1,855字)

    2025-01-17 06:00  
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    蔦文也は引き裂かれた男である。能力はあるが根性はない。それは、幼い頃甘やかされて育ったからだ。
    そのため何をやらせても、はじめは調子よく自分でもその気になるのだが、肝心のところで挫けてしまい、ビビって負けてしまう。それで逃げるが、ときどきの環境と根が真面目な性格だったため、最後まで逃げ切れず、また元の場所に戻ってくる。
    そうして徳商野球部、同志社野球部、特攻隊、全徳島、プロ野球と渡り歩いた。しかしプロ野球の世界で全く通じず、結婚したばかりの妻と故郷の池田町に帰ってくることになる。
    このときまでに文也は、今の時代はもちろん同時代の人さえ追随を許さないような凄絶な前半生を送っていた。それはとても「金持ちのボンボン」といえるような経歴ではなかった。つまり、根は金持ちのボンボンでありながら、他の誰よりも過酷な生き方を強いられることとなったのだ。
    それは「野球が全てそうさせた」ということもあるだろう

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その10(1,624字)

    2024-12-20 06:00  
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    蔦文也は1951年に池田高校の野球部監督に着任した。27歳になる年のことであった。
    池田高校野球部は、戦後すぐの1946年に発足した(当時はまだ旧制の池田中だった)。はじめは同好会だったが、翌年の1947年から正式に部としての運営をスタートし、甲子園を目指す公式戦にも参加した。
    当時の徳島県の公式チームは15校である。夏は、このうちの2校までが南四国大会に進める。つまり3回勝てば進める。そこで高知代表2校も含めた4校で、甲子園出場をかけた勝負をする。このとき、勝ち残った1校しか出場できない。そういう狭き門であった。
    県大会に参加し始めてからの池田は、しばらくは連敗が続いた。それでも、2年後の1949年の夏の大会で、初めての勝利を記録する。さらに1950年は躍進し、夏の大会の県予選で2回勝った。もう1勝で南四国大会に出場できたが、名門鳴門商業に大敗する。
    文也が着任したのはその次の年である。

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  • 野球道とは負けることと見つけたり:その9(1,791字)

    2024-12-13 06:00  
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    1950年、文也は東急フライヤーズに入った。背番号は16。見合い結婚したばかりだったが、新妻は郷里に残してきた。東急フライヤーズは日本ハムファイターズの前身で、本拠地は東京にあった。
    文也の背番号は16だった。二軍の練習場所は読売ジャイアンツと同じ多摩川グラウンド。だから練習していると巨人の16番と間違えた子供たちが、よく群がってきたという。そして文也の顔を見ると「ちぇ、川上じゃないのかよ」と言った。これが滅法応えたという。

    文也はピッチャーとして入ったが、成績はパッとしなかった。なにしろ肩がもう限界だったのだ。全徳島に入ってからは無茶な投げ方をしていた。昔のことだから、連投連投が当たり前だったのだ。それ以前は戦争で心身をすり減らしてもいた。その頃に覚えた酒も続いていた。
    だから27歳にして体が悲鳴を上げていた。文也の体はもうプロ野球選手のそれではなかった。あまりにも球速が遅く、打たれ

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