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記事 83件
  • 庭について:その83(1,689字)

    2024-10-04 06:00  
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    ここまで82回にわたって庭について書いてきた。最初の記事が2022年9月30日なのでちょうど2年である。思えばこのメルマガで一番長い連載となった。
    今回が「庭について」の最終回である。そこでここでは、少し雑感というか、今思っていることなどを書いてみたい。
    まず、この連載を通して発見したのは、庭というのは総合芸術であるということだ。しかも、あらゆるジャンルの上位に位置する。
    この「総合芸術」という呼び方は通常建築、あるいは映画に対してなされるが、庭にはそれ以上の重要性があるように思う。また、実際にそう考えている人も少なからずいる。
    庭は建築とは違う。そこには自然――取り分け植物が不可欠だからだ。例外的に枯山水という植物を用いない庭もあるものの、これもたいてい遠景には木々があるし、そもそも岩を山に見立てたりもしているので、植物と全く無関係というわけではない。
    そんなふうに、庭は植物と共にある。

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  • 庭について:その82(1,808字)

    2024-09-27 06:00  
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    ここまで2年に渡って庭について見てきたが、次回を最終回としたい。その前に、今回は重森三玲について書きたい。
    重森三玲は1896年、明治29年に岡山県に生まれる。日本美術学校で日本画を学ぶ。その後、東洋大学で文学を学んでいる。
    大学卒業後、画家を目指すが挫折。その後、生け花の道に進み、花を通して庭に出合う。30代で生け花の新たな流派を立ち上げようとするが、家元制度を敷く旧来からの流派と衝突し、上手くいかなかった。
    重森三玲が38歳の1934年、室戸台風で京都の数多くの神社が壊滅的な被害を受ける。当時、神社やお寺は経営に苦労していたので、なかなか庭の修復費用まで捻出できず、その多くが荒廃してしまう。
    これを憂えた重森三玲は、ボランティアで修復作業に乗り出す。またそこで、庭についてより深く学ぶためと、貴重な設計やデザインを記録し残そうという意図で、1936年(昭和11年)より全国の庭園を巡って独

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  • 庭について:その81(1,852字)

    2024-09-06 06:00  
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    ここまで二年の長きにわたって庭について見てきたが、そろそろ連載も終盤に近づいてきた。
    前回、小川治兵衛の無鄰菴について述べた。これは近代日本庭園の最高傑作で、無鄰菴を越えるものはなかなかないと今でもいわれている。以降の日本庭園は、小川治兵衛と無鄰菴を無視できなくなった。
    日本庭園はさまざまな流派を生み出しながらそれがうねりのように混ざり合ったり統合したりまた離れたりしている。その中で通奏低音のように流れているのが「借景」で、これはどの庭園にも共通して見られる。「見立て」もまたそうだろう。どんな庭も、だいたい何かを山や川、海に見立てて作られている。
    そういう日本庭園の流れの中に、明治期には新たなうねりが加わる。それは西洋庭園である。そうして和洋折衷様式ができた。実は無鄰菴も和洋折衷様式なのだ。全く目立っていないが、日本建築の背後にちゃんと西洋建築が建っている。明治期には、和と洋の二棟を建てる

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  • 庭について:その80(1,748字)

    2024-08-30 06:00  
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    無鄰菴について書きたい。
    無鄰菴は現代人にも人気だが、一方でそれはありふれた庭にも見える。なぜ人気かといえば理由は二つで、一つはそれが街中にありながら、街中にはないように感じる「箱庭感」「異世界感」「異化効果」である。つまり、「市中山居」の系統を受け継いでいるのだ。
    もう一つは東山の借景の使い方が上手で、素人にもその魅力が分かるところである。そういう「素人受け」する二大要素がある。それに、山縣有朋という一般人にはよくは分からないが、とにかく明治の偉い人の別荘だったということで、なんとなく納得感、歴史観がある。そうしたことから人気なのだ。
    さらに、現在でも自由に観覧できることも、人気の一因である。しかしそれらは無鄰菴の本当の魅力ではない。無鄰菴には、庭に詳しい人が見ても唸るようないくつかの魅力が詰まっているのだ。
    まずは水の使い方。京都の名園でも、自邸に川を引けるというのは極めて希である。山

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  • 庭について:その79(1,898字)

    2024-06-07 06:00  
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    京都東山の麓、琵琶湖疎水の出口、南禅寺の参道入口のところにある「無鄰案」は、庭師小川治兵衛の代表作であると共に、近代日本庭園の代表作、大傑作でもある。治兵衛のほとんどデビュー作といっても差し支えないが、彼が残したいくつもの名庭園のうち、真っ先に名前が挙がるのがこの無鄰菴だ。
    ただ、ややこしいことにこの無鄰菴は、単に「治兵衛作」というのではない。そこには、クライアントである山縣有朋の意思や意図、あるいはデザインも、大きく反映されているのである。
    この山縣有朋は庭作りを一つの趣味としていた。生涯に、いくつもの庭を作っている。しかもその庭のどれも評価が高いのだが、中でもこの無鄰菴と、晩年を過ごした小田原の古稀庵は傑作庭園として、今も当時の姿のままで残されている。
    つまり、山縣有朋も、庭園史に燦然と輝く偉人なのである。我々は、山縣有朋がどんな人物かを知っているだけに、この事実には正直なかなか複雑な

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  • 庭について:その78(2,274字)

    2024-05-31 06:00  
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    明治期に小川治兵衛(おがわじへい)という庭師が活躍した。彼は「近代」日本庭園の先駆者、あるいは創始者ともいわれる。つまり明治以降(大名庭園以来)の新しい庭を造り、その方向性を形作った人物なのだ。
    治兵衛自身は、まだ江戸期の1860年に、現在の京都府長岡京市に生まれる(長岡京市は京都と大阪の中間地点である)。10歳のとき、京都の名門庭師だった六代目小川治兵衛の養子となって、七代目小川治兵衛を名乗るようになる。後に、植木屋の治兵衛なので「植治」と呼ばれた。
    そんなふうに、植治のルーツは京都である。幼少の頃から、京都の庭をたくさん見てきた。それで、彼の中に当時としては特殊な「作庭観」が育まれる。江戸時代に主流だった大名庭園の広大さを志向するのではなく、かといって当時流行していた西洋風を志向するでもなく、あくまでも京都の伝統に固執した、限られた土地に囲って作る、昔ながらの日本庭園を志向するのだ。

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  • 庭について:その77(1,699字)

    2024-05-10 06:00  
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    小沢圭次郞は1842年に桑名藩(今の三重県桑名市)の江戸下屋敷に生まれる。その下屋敷には浴恩園と名づけられた大名庭園があって、小沢はそれに親しみながら育った。
    父親が桑名藩の医官だった関係で、長ずると自分も医者を志し、幕末期には緒方洪庵のもとで学ぶ。つまり福澤諭吉と同門だが、それほど深い親交はなかったようだ。
    明治になると学問の道に進み、やがて教師になる。海軍兵学校や東京師範学校(現筑波大学)で教鞭を執ったりするが、この頃、自分の生家ともいえる浴恩園をはじめ、東京の大名庭園が次々と壊されていくのを憂えて、これの記録を残すと同時に、日本庭園の研究を始める。やがて庭園関係の書籍を次々と出版する。
    それと平行して、さまざまな庭造りのアドバイザーやプロデューサーを務める。彼が携わった庭には伊勢神宮の改修や奈良公園、天王寺公園など、今も残るさまざまな公共施設の公園がある。つまり、明治期の公園プロデュ

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  • 庭について:その76(1,628字)

    2024-05-03 06:00  
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    1968年に、日本は明治維新によって時代が明治になった。
    この「明治維新」というのはとらえるのが実に難しく、さまざまに巨大な変化が同時多発的に起こった。世界史的に見れば「近代化」の一つのあらわれなのだが、この「近代化」というものが人類に及ぼした影響はあまりにも大きいのである。
    それはインターネットの登場と比べてもなお大きい。おそらく、「近代化」に比肩するものは今のところ「農耕化」くらいしかないのではないだろうか。
    近代化の波は世界同様日本も襲ったが、その受け取り方は日本の風土を色濃く反映し、諸外国とはかなり様相を異にするものであった。日本は基本的には保守的だが、いったん変化を受け入れると超先鋭的になる。それは昔も今も変わらない。日本ほど文化がドラスティックに変化する民族は世界で他にないといえる。
    その現象が明治期の庭でも起こった。まず、大名庭園が次々と壊されていったのだ。これは諸外国では考

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  • 庭について:その75(1,655字)

    2024-04-26 06:00  
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    大名庭園は徳川家康が江戸に幕府を置いたことによって始まった。
    家康は、もともと駿府(静岡市)に本拠地を置いていたが、豊臣秀吉が1590年に小田原を本拠地とする北条氏を滅ぼしたため、北条氏が管轄していた関東の土地を家康が管理しなければならなくなった。
    そこで家康は、太田道灌が1457年に築いた「江戸城」に本拠を構え、部下たちを周囲に住まわせた。そうして「大名屋敷」が、江戸城下にいくつも作られたのだ。
    ところが、後に江戸幕府が開闢し、しばらく経った1657年、明暦の大火という大火事が江戸で起こり、多くの大名屋敷が燃えてしまった。これをきっかけに、幕府は大名たちに「第二第三の屋敷」を持つことを許可した。再び火事が起きたときの避難場所として使うためだ。
    そうして、江戸城に近い屋敷を「本屋敷」、第二の屋敷を「中屋敷」、第三の屋敷を「下屋敷」と呼ぶようになった。江戸城から近い順に「上・中・下」で、下に

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  • 庭について:その74(1,816字)

    2024-04-19 06:00  
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    偕楽園といったらなんといっても「梅」である。園の北東側に広大な梅園が広がっている。その数は約3000本にも及ぶ。
    そして、園のもう半分、南西側には竹や杉の鬱蒼とした森が広がっている。この梅園と森との関係が、「太極図」のような陰陽の世界を表現している。明るい梅園に対し、暗い森。それらが対になることで、偕楽園は一つの世界観、あるいは思想を示している。
    偕楽園の梅は、もともとは水戸の領民に楽しんでもらうのと同時に、弘道館の生徒たちにも心安まる場所を提供したいという思いがあって植えられた。つまりそこには、この世の「陽」を多くの人に味わってもらいたい――という思想があった。
    徳川斉昭は、陽の世界に通じること――すなわちよく遊び、よく休んでこそ、陰の世界――すなわちよく学び、よく働き、よく戦えると考えていた。
    ちなみに、偕楽園から弘道館までは徒歩で30分ほど離れているが、弘道館の庭にもたくさんの梅が植

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