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記事 35件
  • 生きるとは何か?:その35(1,725字)

    2022-06-14 06:00  
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    生きるとは何か?
    それはやはり「流れる」ということになるだろう。比喩的な意味ではなく、物理的・実際的な意味での大きなエネルギーの流れがあって、そこに乗っかって流れていくのが生きるということだ。だから、ひとつの大きな原則としていえるのは、流れに逆らったら大変だということだ。それは不幸や死を意味するだろう。
    しかしながら、「流れに棹さす」という言葉もある。「智に働けば角が立つ情に棹させば流される」と『草枕』の冒頭に書いたのは漱石だが、この「棹さす」という感覚は面白い。
    我々は、巨大な川に浮かぶ小舟のように流されている。ただ、必ずしも無力なわけではない。我々の手には棹があって、それを流れにさせば、ある程度は向きを変えられる。そうして、大きな流れに逆らいさえしなければ、ある程度の自由を得られる。
    これこそが「生きる」ということの面白さではないだろうか。全体的には不自由だが、その枠組みの中には自由が

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  • 生きるとは何か?:その34(1,629字)

    2022-06-07 06:00  
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    植物は面白い。植物は、もちろん人類が誕生する前から地球にある。そのため、人類は「植物がある」という環境を前提に生まれ、過ごしてきた。だから、そもそも植物にアジャストするようにできている。植物にアジャストできない性質は、長い歳月の中で切り落とされてきた。
    ただ、人間と植物との関係は(これは土との関係もそうだが)、必ずしも「親密」というものではない。そこには適度な「距離」がある。つかず離れずの関係が、人間と植物(もしくは土)にとって最適な距離感なのである。
    ぼくはいつも不思議に思うのだが、ぼく自身も含め人は、放置された田畑よりも、人の手が入って管理されている田畑の方を美しく感じる。つまり、自然の本質的な姿よりも、人間が手を加えた人工的な自然の方を、本能的に美しいと感じるのだ。そして、より美しくするために手を加えようと、自然と働きかけてしまう。
    この、「手を加える」という営為が、人間と自然との適

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  • 生きるとは何か?:その33(1,581字)

    2022-05-31 06:00  
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    人間が幸せに生きるためには、「80歳になってもできるようになることの喜びが持続できるもの」が必要となる。それを持つことが、上手に生きるコツといえよう。
    では、「80歳になってもできるようになることの喜びが持続できるもの」とは何か?
    ズバリ言うなら、それは「自然とかかわる」ということだ。もっと言うと、「土と木にかかわる」ということだ。
    ぼくの知っている農業をしている女性は、まだ若いのだが、こう言っていた。
    「農業は本当に難しい。なぜなら同じ条件というのはけっして起こらないからだ。作るたびに違う条件となる。だから失敗のくり返しだ」
    それでも、と続けてこう言った。
    「自分が成長している実感があるのは不思議だ。毎回全てが新しいわけではなく、くり返し遭遇するできごともある。だから、自然というものの本質が、段々分かってくる感覚がある。やればやるほど、『なるほど』という感覚も増えた。『きっとこうなるだろ

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  • 生きるとは何か?:その32(1,815字)

    2022-05-03 06:00  
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    「明日試してみたいこと」を持つためには訓練が必要だ。若いうちから、そういう癖をつけておかなければならない。
    では、どのような訓練が必要か? どうすれば、明日試してみたいことを自然に、しかも継続的に持つことができるのか?
    それには、まず「成長の喜び」を知る(あるいは思い出す)ことが必要だ。また、その本質を知ることが必要である。
    人間にとって、成長は楽しい。「昨日できなかったことが今日できるようになる」というのは、とてもワクワクする体験だ。
    実際、子供はそうしたワクワクを原動力に生きているところがある。それが推進力となるから、誰もがある程度のところまで成長できるのだ。
    そんなふうに、「昨日できなかったことが今日できるようになる」ということにワクワクする気持ちは、誰もが生得的に持っている。それは本能だ。だから、あらためて身につける必要はない。
    しかしながら、大人になるとその気持ちを忘れてしまう人

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  • 生きるとは何か?:その31(1,504字)

    2022-04-26 06:00  
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    これからの時代は、より本質的に生きることが求められる。しかも、誰に対してもそれが求められる。
    昭和のように、時代や社会構造に乗っかったり、逆に平成のように、変化を追いかけたりの時代ではなくなった。誰もが一様に、本質的に生きることが必要な時代になったのだ。
    そして、「本質的に生きる」ということの一つの答えが大工だ。だから、これからは大工的に生きなければならない。
    では、どうすれば大工的に生きられるのか?
    それは、「自分が研鑽できる領域を作る」ということである。そして、そこで研究と実験を繰り返す。そうしながら生き続けることだ。
    惰性で生きていると、人は活き活きしない。それは、ぼくがこの50年、人間というものを観察する中で得た結論だ。
    人間には「明日試してみたいこと」がどうしても必要だ。そして、その試したことの結果に興味を持つこと(わくわくすること)が何より重要なのだ。
    試してみたいことは、体力

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  • 生きるとは何か?:その30(1,890字)

    2022-04-19 06:00  
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    今思うと、昭和の時代は牧歌的であった。若者は、大人になったらサラリーマンか、それともミュージシャンかを選ばなければならなかった。ただし、ミュージシャンを選んだのは100人に1人くらいだ。それ以外の99人は、皆サラリーマンを選んだ。
    しかし、そんな中でサラリーマンでもなく、またミュージシャンでもない道があった。それが大工だ。大工には、サラリーマン的な部分と、ミュージシャン的な部分が混在している。いうならば、両者のジンテーゼのような職業だ。
    そして、昭和の時代に大工を目指すのはほんの少数だったが、今の時代、ほぼ全て――つまり100人いたら100人が、なんらかの形で大工的な生き方を模索しなければならない。そうしないと、生きてはいけない時代になった。
    そこでここからは、大工的な生き方とは何か? また、どうすれば大工的に生きられるか――ということについて見ていきたい。
    まず、大工の最大の特徴は、「人

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  • 生きるとは何か?:その29(1,859字)

    2022-04-12 06:00  
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    生きることの正解は、大工である。大工的に生きることが、人間にとって一つの理想となる。
    思えば、キリストの父親であるナザレのヨセフが大工だった。大工は、その意味で人類にとって、ある種の象徴的な職業なのかもしれない。
    実際、あらゆる社会に大工は存在する。そして面白いのは、あらゆる社会で尊敬はされるものの、けっして中心にはならない。リーダーやハブにはならない。
    なぜなら、全ての大工が「人間関係」をあまり持たないからだろう。だから中心的な立場にはならないし、周囲もそれを求めない。それよりも、黙々と家を作ることに集中してもらう。それが社会の総意である。
    だから、実に「キリストの父的な立場」がお似合いなのだ。リーダーではないが、リーダーを育むものとして尊敬される。
    大工は、重要なものを作りはするが、それだけである。評価は作ったものになされ、人物にはなされない。また、社会も大工に人間性を求めていない。た

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  • 生きるとは何か?:その28(1,859字)

    2022-04-05 06:00  
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    「生きるとは何か?」
    この疑問は、知識を得ることで湧き上がってくる副産物だ。そして、この疑問を持つことは若干生きにくくなることでもあるから、ある種の「副作用」といってもいい。
    現代において、知識というのはある面ではきわめて有用である。知識を活用することで生活が改善し、より良く生きられるというケースは実に多い。その逆に、知識がないばっかりに損をするというケースも数限りなくある。
    だから、知識を持つこと自体は疑わなくても良さそうだ。そうなると、問題は知識の「得方」にある。知識の得方を間違うと、「生きるとは何か?」という疑問をこじらせ、生きにくくなる。その逆に、正しい知識の得方をすると、「生きるとは何か?」という疑問とも適切な距離を保っていられ、より良く生きることの助けとなるだろう。
    そうなると、「生きるとは何か?」ということの答えの一つは、「正しく知識を得る」ということとなる。これは、「無意識

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  • 生きるとは何か?:その27(1,767字)

    2022-03-29 06:00  
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    生きるとは何か?――そう考えることが、ふと気づくとぼくのライフワークとなっていた。このこと事態は、きわめて「倒錯したできごと」といえよう。
    というのも、ぼく自身は紛れもなく現に(すでに)生きているわけだから、「生きるとは何か?」ということは考えなくとも、特段の問題はないわけだ。すでにできていることについてあれこれ考えるのは、ほとんど意味がない(ように見える)。
    しかしながら、ぼく自身は意識的に、意図してそのことを考えているわけではない。無意識的に、ほとんど本能的に、気がついたら「生きるとは何か?」ということを考えずにはいられなくなっていたのだ。
    それは、自然発生的に湧き上がってきた。しかも、今なお「逃れられないもの」としてある。ぼく自身、「生きるとは何か?」などと考えなくなれれば、どれだけ楽かとも思ったりする。しかしながら、これまでは考えられなくてはいられない状態になっていたし、今なおなっ

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  • 生きるとは何か?:その26(1,529字)

    2022-03-22 06:00  
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    野蛮人のように生きる――それが、これからの人類にとって幸せの鍵となるだろう。ただし、単純な意味での野蛮人ではなく、「情報時代の野蛮人」という意味でだ。現代社会を受け入れながら、古代の本質を取り戻すのだ。
    「情報時代の野蛮人」を連想して、ぼくが真っ先に思いつくのは、やはり桜井章一さんだ。桜井章一さんは、都会に生まれ、育ちながら、野生の感性を育んだ。では、彼はどのように野生の感性を育んだのか?
    その基本は、やはり生活にある。まず、食べない。代わりに、動く。歩いたり、泳いだりする。
    桜井さんは、睡眠もあまりとらない。野蛮人のように浅い眠りで、いつでも神経を研ぎ澄ませている。
    「眠らない」ことは、現代の常識では健康に悪いとされている。実際、眠らない(眠れない)現代人も多い。
    しかしながら、現代人の「眠らない」と、桜井さんの「眠らない」とでは、少し様相が違うと思う。
    現代人が眠らないのは、仕事などで

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