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失敗をした人が鬱病になることを心配してはいけない(2,796字)
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失敗をした人が鬱病になることを心配してはいけない(2,796字)

2014-03-17 06:00
    小保方晴子さんがバッシングを受けるようになった後、彼女がショックのあまり鬱病になるのではないか?――と心配した人が、次のような記事を書いていた。

    僕がSTAP騒動で懸念するたった1つのことは、小保方ユニットリーダーの精神状態。

    しかしぼくは、もし小保方晴子さんが鬱病になることがあるとすれば、それは「この人のせいではないか」と思った。そして、「失敗をした人が鬱病になることを心配しては絶対にいけない」と思った。
    そこで今回は、なぜそう思ったのか、その理由について書いてみたい。


    ところで、ぼくは子供を観察するのが好きだ。デパートや公園で子供を見かけると、興味からじっと観察している。
    そうしていると、あるとき面白いことに気がついた。それは、「子供も空気を読んでいる」ということだ。

    子供を観察していて分かったのは、彼らは想像以上に「複雑な精神の持ち主」だということだ。想像以上に複雑な「心情の機微」というものを理解している。いや「理解している」というより、「本能的に身につけている」のだ。

    では、どういう「心情の機微」を身につけているかというと、それは「他者との駆け引きを楽しむ」ということだ。駆け引きのゲーム性――その面白さを理解している。そうして、日々それに興じているのだ。

    彼らがどんな相手と駆け引きしているかというと、それは母親だ。彼らは母親との駆け引きを、日々楽しんでいるのである。
    デパートや公園で子供を観察していると分かるのだが、彼らはよく駆け回っている。そんな子供に対して、母親は「走らないの!」とか「危ないわよ!」と注意する。
    すると、そうしたときに子供というのは、その母親との駆け引きを楽しみ始めるのである。

    どういうことかというと、そこで多くの子供が、走るのを止めないのである。逆に、かえって速く走ったりするほどだ。
    そのとき、子供がどういう顔をしているかといえば、非常にいたずらっぽい表情をしているのだ。あるいは、愉悦に身をよじっているのである。
    それは、走るのが楽しいからではない。そうやって注意されているにもかかわらず、言いつけを破って走っているのが楽しいのだ。

    なぜそれが楽しいかといえば、それこそが駆け引きだからだ。自分を心配してくれている母親をじらすことで、自分が優位に立ったような気分を楽しんでいるのである。

    そうして彼らは、その楽しさをさらに増幅させようと、なおも速く走ろうとしたりする。
    しかしそこで、たいていは自分のキャパシティを超えたスピードで走ってしまうため、転ぶ。転んで痛い目に遭う。
    すると、そういう目に遭った子供の胸中には、非常に複雑な思いが去来するのである。

    まず、母親の心配が適中したことへの「しまった」という思い――つまり駆け引きに負けた悔しさを味わう。
    次いで、ちゃんと走れなかった自分自身への苛立ち。
    さらに、母親の言いつけを守らなかったことを咎められる恐怖。
    さらには、転んでしまったことの恥ずかしさといったものも痛感する。
    それらに比べると、体を打ったことの肉体的な痛みは、だいぶ後になって訪れる感情だ。

    そうしたさまざまな感情が交錯した後、彼らはどのような状態に至るのか?
    それは――これは子供に限らないのだが――「何かに失敗した人間に共通する、ある行動パターン」を取ろうとするのである。


    それは、 
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