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本質的に生きる方法:その8(1,716字)
アメリカでトランプ氏が大統領に当選したことに続き、日本でも斎藤元彦氏が兵庫県知事に当選した。そのことから今、日本でも徐々に「本質的に生きる」という人が増えているようにも見える。「和を以て貴しとなす」を捨てる人が増えているようにも見える。しかし、単純にそうと言い切れない。なぜなら、そこにはまた別の「和」が発生しているということも考えられるからだ。日本人がそもそも持っていた、中世的な百姓根性の「和」の復活ということも考えられる。前回も述べた通り、日本は中世から「和」を持っていた希有な民族である。そのため、全世界的に「和」を要求された「近代」にぴったりとハマった。近代において、日本は文句なく世界ナンバーワンの生産国となった。それはもちろん、民族性と文化が近代とぴったりとハマったからである。それは、近代が生まれたイギリスはもちろん、近代を強力に推し進めたアメリカをも遥かに凌駕した。だから、イ -
石原莞爾と東條英機:その62(1,818字)
二・二六事件が起こったとき、石原莞爾は参謀本部作戦課長という肩書きだったが、早くから反乱部隊の鎮圧組織に身を置き、その要として活躍した。二・二六事件は繊細に推移する。最初は荒木貞夫や真崎甚三郎を中心にこれを容認する雰囲気が広がったが、そこから石原莞爾らの働きで徐々に鎮圧するという考えが広がっていく。もとより、昭和天皇は断固鎮圧すべしとの立場だったが、皇道派があれこれと策を弄し、その意向をなんとか伝えないようにしていたのだ。しかし石原は、そうした企みをことごとく断ち切って、最終的に全体の流れを鎮圧の方に強引に持っていった。その手腕があまりにも見事だったため、ここでまた周囲から一目置かれることになったのだ。まず、事件が起こるとすぐに反乱部隊の本部が置かれた陸軍大臣官邸に駆けつける。そこへ入ろうとすると入口で反乱部隊の兵卒に止められるが、これを一喝すると強引に通過する。石原のその迫力に、 -
野球道とは負けることと見つけたり:その5(1,968字)
いきなりドラマの構成を考えるのはとても骨が折れることなので、その前段階として、第一話に描くエピソードの背景というものをあらためて書き出していきたい。蔦文也は徳島商業に入学する。それは徳島商業監督、稲原幸雄に請われたからでもあった。当時の甲子園はまだ小規模で、四国からは一校しか出られなかった。そして四国には高松商、松山商という二大強豪校があった。だから徳島商は、県下一の強豪校ではあったものの、1915年に全国中学校野球選手権大会が始まって以来、一度も甲子園に出られていなかったのだ。その負の歴史を覆そうともがいていたのが徳島商業稲原監督だった。稲原は1907年の生まれで、徳島商を卒業後、関西学院大学を経て東京で就職した。しかし1932年、徳商OBから監督就任を強く要請され、これを引き受ける。25歳のときであった。そこから稲原の指導が始まるのだが、それは「猛特訓」そのものだった。練習は朝か
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