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本質的に生きる方法:その1(1,489字)
来たるべき「超能力社会」において、そこに参加するほとんどの人が結果的に苦しむことになる。従って、多くの人はそもそも参加せず、新たな生き方を模索した方がいい。そしてそれは、それほど難しいことではない。産業革命まで、あるいは明治維新まで、多くの人々はそういう生き方をしてきた。ところが、産業革命によって競争主義社会――すなわち能力社会が生まれ、それはどんどんと拡大した。第二次大戦の終戦をきっかけに拡大スピードが加速し、20世紀の終わりのインターネットの登場によってとうとう世界の隅々にまで行き渡った。今の競争社会はオリンピックのようなものだ。世界の誰もが横一線になったので、たった一人しか勝者がいない。そうなると、多くの人を幸せにするにはオリンピックと同じように種目を増やしていくしかない。しかし種目を増やすといっても限界がある。今年行われたパリオリンピックも、まさにそうした様相を呈していた。 -
石原莞爾と東條英機:その55(1,769字)
こうして永田鉄山は殺されてしまった。東條英機はそれを左遷先の久留米で聞いた。この頃、東條英機は久留米で苦しみながらもなんとか部下を掌握していた。当時の若手将校は、その多くが皇道派だった。しかも久留米は、真崎甚三郎が自分の子飼いを赴任させ、固めていた。そのため東條英機にとっては完全にアウェーだった。誰も言うことを聞いてくれなかった。それでも、東條英機というのはリーダーとしての不思議な才覚があった。天性の「人たらし」のところがあった。特にその実直さで、多くの人を魅了した。東條英機の魅力とは何だったのか?それは、自分が優秀ではないことを知る者の強さだった。東條英機は自分が優秀ではないことを百も承知していた。それは一つには父の英教が優秀だったこと。そんな父と比べると、自分はいかにも劣っているということが幼いうちから分かっていた。また長じてからは、永田鉄山をはじめとする一個上の先輩に優秀な -
庭について:その82(1,808字)
ここまで2年に渡って庭について見てきたが、次回を最終回としたい。その前に、今回は重森三玲について書きたい。重森三玲は1896年、明治29年に岡山県に生まれる。日本美術学校で日本画を学ぶ。その後、東洋大学で文学を学んでいる。大学卒業後、画家を目指すが挫折。その後、生け花の道に進み、花を通して庭に出合う。30代で生け花の新たな流派を立ち上げようとするが、家元制度を敷く旧来からの流派と衝突し、上手くいかなかった。重森三玲が38歳の1934年、室戸台風で京都の数多くの神社が壊滅的な被害を受ける。当時、神社やお寺は経営に苦労していたので、なかなか庭の修復費用まで捻出できず、その多くが荒廃してしまう。これを憂えた重森三玲は、ボランティアで修復作業に乗り出す。またそこで、庭についてより深く学ぶためと、貴重な設計やデザインを記録し残そうという意図で、1936年(昭和11年)より全国の庭園を巡って独
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