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2025年の計:その1(1,766字)
「一年の計は元旦にあり」ということで、今週一週間は「2025年の計」について書いてみたい。2025年はいよいよ「自由」が決定的な価値になる。人々が自由を求めてやまない。ただ、それへの障害はまだまだ立ちはだかるので、至る所で「自由を求める争い」が起こるだろう。それは国家同士の戦争から家庭内不和までさまざまなレベルでだ。現代において、人々の不幸せはだいたいこの「自由の不足」に由来する。あるいは、「自由になることの恐れ」が足かせになることもある。自由を求めていながら、同時にそれが達成されるのが恐い。世の中には、そういう人もまだまだ多い。そういう人たちの象徴的な存在が「婚活をする人々」である。なぜなら、そもそも結婚は自由を奪われるので今風ではない。だからこそ婚姻者の数はぐっと減った。また子供を産むことも自由を縛る。だから出生数も下がった。ただ、その一方で結婚はしたい。なぜかというと、結婚を -
2024年を振り返り、2025年を展望する(5/5)(1,892字)
2025年は「少子社会元年」になるだろう。いや、社会的にはならないかもしれないが、少なくともぼく個人はそうなる。「少子社会」とは少子化を受け入れ、それを前提とする社会のことである。そういう社会を、ぼく自身がぼくの周囲だけでも構築していく。そういう社会の中では、次の三つのことが肝要になるだろう。一つは子供のシェア、二つはロボット化、三つは死の需要である。子供が少ないことの一番の問題は、街角から子供の笑い声が消えることである。多子時代(戦後しばらく)の一番の幸福は、子供の笑い声が街角に溢れていたことだ。小津安二郎の戦後の映画にはよく子供が出てくる。それも街角に出てくる。そうして彼らは街角を笑い声で満たした。小津がその光景を描いたのは、街角の子供の笑い声こそが、戦後の日本において最も描くべきものと感じたからだろう。この光景が、今の社会にはない。子供は隠されるようになってしまった。この状 -
2024年を振り返り、2025年を展望する(4/5)(1,724字)
わずか10年前まで日本の出生数は100万人前後であった。そこからガタガタと減って今年は70万人を割るという。およそ3割が減った。これは「激減」という表現が相応しいだろう。もちろんコロナもあったが出生数の減り方はここ2年の方が激しい。つまりコロナ禍が終わってからの方が激しい。なぜこうなったのか?それにはいろんな理由があって、みんなその理由を知っていると言えば知っているが、知らないと言えば知らない。「知らない」というのは、「そうなる『必然』がある」ということを知らないということだ。その必然というのは、社会がそれを許容している――ということである。もっと言うと、望んでいる。社会がそれを望んでいる。だから少子化になったのだ。昨日も書いたが、今、子供を生まないのは非インテリ層である。インテリ層――知識層は生んでいる。イーロン・マスクもたくさん生んでいる。なぜ知識層は生むのか? それは、理
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