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記事 23件
  • 逆流性食道炎について(75字)

    2024-05-17 06:00  
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    今日のブロマガは逆流性食道炎がひどくて書けないのでお休みさせてください。生きるのは難しいですね。原因は分かっているだけになおさらストレスが溜まります。

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  • 1994:その16(1,679字)

    2024-05-16 06:00  
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    桑田佳祐は1994年につながっている。彼がデビューした1978年からその数々の流行り歌を通じて紡いできた日本の恋愛における空気感が、そこから16年が経過した1994年においてもなお、男女の恋愛観に決定的な影響を与えている。
    では、桑田佳祐はどのような空気感を紡いできたのか? それは一言で言えば「撤退戦」である。恋愛市場における男性の決定的な敗北の、その被害を最小限に食い止めようとした。それが桑田佳祐だ。
    桑田佳祐の評価は、なんといってもサザンオールスターズのデビュー曲である『勝手にシンドバッド』において決定づけられた。同時に、ここに早くも、桑田佳祐の紡いできたスタイルが十全に湧き出している。
    そのスタイルとは「道化」である。そもそもこの曲は、タイトルが道化ている。前年の1977年に国民的なヒットを記録した沢田研二の『勝手にしやがれ』と、ピンクレディの『渚のシンドバッド』の2曲のタイトルをそ

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  • [Q&A]阿部慎之助監督の指導力について(1,793字)

    2024-05-15 06:00  
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    [質問]
    巨人がまあまあ好調です。キャッチャー出身の阿部新監督ですが、守りを重視しているように思います。最近は野球に対する興味も薄れているようなハックルさんではありますが、阿部監督に対して思うことを教えてください。
    [回答]
    阿部監督は巨人育ちで正統的な巨人の価値観を持っているので、巨人の監督にはいいと思います。打者としては立派でしたが、捕手としての評価は今一つだったように思います。だから、それなりに苦労もしているので、お花畑のような指導にはならないと思います。
    イメージでいうと藤田監督のような感じでしょうか。巨人というチームは、監督が個性を出さず、巨人らしさというものを追求すると、意外に上手くいくのです。原監督は、巨人らしさがある一方、実は個性的に見えてそうではなかったので、大成功しました。逆に堀内は個性が強く、巨人らしさがなかったので大失敗でした。
    長嶋は個性は強いですが、巨人らしさも

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  • 劣化する人:その23(1,797字)

    2024-05-14 06:00  
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    劣化する人のことを考えるたびに思うのだが、この50年で社会は大きく変化した。何よりその価値観が変化した。これまではロボット人間が有用だったが、これからはオリジナル人間が有用になった。そうして、ロボットの人間の居場所がなくなった。
    人類の長い歴史の中で、ロボット人間の価値がこれほど低下したのはおそらく初めてではないだろうか。人間はその特性上、「社会」と「道具」が不可欠な生き物である。社会と道具がなければ、人間は生きていけない。ここが他の動物と大きく異なるところだ。
    そして、社会を構成する上でも道具を使いこなす上でも、ロボット人間はどうしても必要だった。
    それはまず社会の構成要因として有用で不可欠だった。指導者が求めることをその通りすることが社会成立には欠かせないからだ。
    また、道具を使いこなすのはモノマネ人間の得意技だった。鍬一つでも使い方の上手い下手がある。そしてモノマネ人間はその習得が上

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  • 石原莞爾と東條英機:その48(1,581字)

    2024-05-13 06:00  
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    一夕会は宇垣一成や宇垣閥を牽制するために荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎を盛り上げた。実際、東條英機は荒木貞夫に相当な尊敬の念を抱いていた。
    荒木貞夫はどのような人物か?
    1877年生まれで旧一橋家の出身である。つまりバリバリの徳川だ。
    1897年に陸軍士官学校を卒業し、1907年には陸大を首席で卒業する。そうして恩賜組となり、幹部候補生としてエリート街道を歩むことになった。
    荒木貞夫は徳川家の矜持か、清廉な性格で、独特のカリスマ性があり、若手将校からの信頼と人気があった。先述のように東條も惚れ込んだくらいなのだが、それより下の無印の将校たちの間にはさらに熱狂的なファンが数多くいた。
    それは、荒木が「若者好き」だったということもある。荒木は他の将軍とは違って若手と積極的に交わったので、若手もそんな荒木を好んだ。荒木は彼らを自宅に招き、毎晩のように酒席を交わした。そんなふうに、荒木は若手にとっ

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  • 庭について:その77(1,699字)

    2024-05-10 06:00  
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    小沢圭次郞は1842年に桑名藩(今の三重県桑名市)の江戸下屋敷に生まれる。その下屋敷には浴恩園と名づけられた大名庭園があって、小沢はそれに親しみながら育った。
    父親が桑名藩の医官だった関係で、長ずると自分も医者を志し、幕末期には緒方洪庵のもとで学ぶ。つまり福澤諭吉と同門だが、それほど深い親交はなかったようだ。
    明治になると学問の道に進み、やがて教師になる。海軍兵学校や東京師範学校(現筑波大学)で教鞭を執ったりするが、この頃、自分の生家ともいえる浴恩園をはじめ、東京の大名庭園が次々と壊されていくのを憂えて、これの記録を残すと同時に、日本庭園の研究を始める。やがて庭園関係の書籍を次々と出版する。
    それと平行して、さまざまな庭造りのアドバイザーやプロデューサーを務める。彼が携わった庭には伊勢神宮の改修や奈良公園、天王寺公園など、今も残るさまざまな公共施設の公園がある。つまり、明治期の公園プロデュ

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  • 1994:その15(1,737字)

    2024-05-09 06:00  
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    松任谷由実は1954年1月19日生まれ。団塊の世代から5歳ほど下である。東京都八王子市出身で、1971年、17歳でプロの作曲家としてデビューする。また、翌年の1972年に、今度は歌手としてもデビューする。
    最初はなかなか売れなかったが、一方で業界内での支持者も後を絶たなかった。秘めたる可能性を感じさせる強烈なカリスマ性を持っていたからだ。それは歌詞、楽曲、そして歌のどれもにである。ユーミンは、そのどれもが技術的に長けているというわけではなかったが、他にはない独特の個性を持っていたのだ。
    1975年に作曲した『「いちご白書」をもう一度』が大ヒット。また自身が歌った『あの日に帰りたい』も大ヒットし、名実ともに超一流のミュージシャンとなる。まだ21歳だったが、それでも4年間の下積みをした後だった。
    ただし、下積み時代のことはほとんどの人が知らないから、一般には「彗星の如く現れた若き大型新人」と思

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  • [Q&A]GWをどう過ごしたか?(2,236字)

    2024-05-08 06:00  
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    [質問]
    ハックルさんの GWの過ごし方を教えてください。
    [回答]
    GWに限らず休日はなるべく混雑を避けるのというのがぼくのモットーです。とにかく人がたくさんいるところが苦手なので。ただ、渋谷のようにいつも人がいるというところは大丈夫なのですが、イベントや祭りのように、「その日だけたくさんいる」というのが苦手なのです。ぼくはコンサートも大嫌いです。そういう人はマイノリティなのでしょうが、いないわけではないですね。1割くらいの人が、イベントや祭りが苦手なのではないでしょうか。
    今年のGWは、子供の幼稚園が休みなので、ずっと子供と過ごしていました。といっても、近所のスーパーに行くなどして、あえてイベント的なスペースは避けていました。
    [質問]
    AKBの柏木由紀がいよいよ卒業されました。岩崎さんのいた時代の方だったと思うのですが、何かご感想はありますか?
    [回答]
    柏木由紀について覚えているの

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  • 劣化する人:その22(1,776字)

    2024-05-07 06:00  
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    2024年の今、劣化する人が目立っているのは、単純に劣化する人が行き詰まっているからだろう。行き詰まっている理由はただ一つで、コンピューターの進化などによって「モノマネ人間」の需要が極端に下がったからだ。
    例えば、昔はどこの会社でも「電話番」というのが重要な仕事だった。おそらく2010年くらいまでは重要だった。出るタイミングや応答の文言などが、高度にマニュアル化されていた。
    そして、そういうものが得意なのはモノマネ人間だった。電話番の他に、メーカー企業はどこもたいていカスタマーセンターという部門(はじめは内部組織がほとんどだったが、次第に外部委託がほとんどになった)があり、客からの問い合わせや苦情に対応していた。
    そういうところで働く人間は、モノマネが上手ければ上手いほど良かった。なぜなら業務は高度にマニュアル化されていたので、それをどれだけ正確に再現できるかがだいじだったからだ。
    80年

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  • 石原莞爾と東條英機:その47(1,652字)

    2024-05-06 06:00  
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    ここで陸軍の「派閥史」を概観してみたい。
    1873年に陸軍省が創設され、ここから山縣閥が始まる。山縣は1938年の生まれなので、スタート時はまだ35歳の若さであった。
    1889年に、ドイツに留学した東條英機の父、英教が山縣に長州閥の弊害を直談判する。それが山縣の恨みを買って、英教は出世街道から脱落する。英教は34歳、山縣は51歳。英機は1984年の生まれなのでまだ5歳であった。
    その山縣も、1918年に宮中某大事件を起こし、失脚する。80歳であった。ここで初めて山縣閥が崩れ、4年後の1922年に83歳で亡くなる。
    山縣亡き後、陸軍の中で力を持ったのは長州閥ではない宇垣一成だった。宇垣は1868年に岡山県で生まれる。1900年に陸大を3位で卒業し、恩賜の軍刀を拝領する。いわゆる「恩賜組」だった。
    彼は、若い頃に陸軍で第二の派閥だった薩摩閥の川上操六に気に入られ、出世する。川上は1899年に亡

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