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1994:その25(1.866字)
2024-10-17 06:00110pt1983年4月、フジテレビの深夜番組として『オールナイトフジ』がスタートする。世の中は夕ぐれ族の話題などもあってちょっとした女子大生ブームだった。まだ本格化していなかったが、バブルはすでに始まっていた。若者の誰も彼もが遊びほうけるような時代がすでに始まっていたのだ。
なぜこういう時代が始まったのか?
1970年代前半、世の中はオイルショックやそれに伴うインフレ、また安保闘争の終焉などもあってとても暗かった。ところが、そこから経済が急回復する。インフレが一つの大きなきっかけとなって、給料が伸び始めるのだ。そうしていわゆる大量消費社会が到来する。
地価がどんどん高騰し始めて、不動産を慌てて買う人が増える。銀行もお金をじゃんじゃん貸すようになって、市中にめぐる金が増える。当時はまだインターネットがなかったから、仕事はいくらでもあった。特に肉体労働がたくさんあったが、そうしたものは学生のアルバイト -
[Q&A]今なぜ村上春樹氏が批判されるのか?(2,504字)
2024-10-16 06:00110pt[質問]
村上春樹批判がネットで盛り上がっているみたいですが、これについてハックルさんのご意見はありますか?
[回答]
村上春樹氏が批判されているのは、大きくはポリコレ的な価値観が無闇に拡大し、文学という存在そのものを脅かしているからだと思います。
20世紀までは良くも悪くも「考えること」が推奨されていました。そのため文学というのは非常にその助けになった。
しかし今は考えることのハードルが高くなり、多くの人がそれを放棄してアウトソーシングしています。すなわちニューコモンセンスともいえるポリコレ価値観にすがりつき、それを盲目的に信じるという「中世のキリスト教徒」のような生き方を選択しているのです。
そういうある種の暗黒時代に、文学は最大の敵といえるでしょう。特に村上春樹氏のように既存の価値観に揺さぶりをかけるタイプの作家は、盲目的なポリコレ信者からするとまさに異教徒で、その作品は焚書ものです -
本質的に生きる方法:その3(1,595字)
2024-10-15 06:00110pt釈迦は仕事を禁じた。
なぜか?
それは、その方が本質的に生きられるからだ。
ではなぜ仕事をしないと本質的に生きられるのか?
それは、仕事というのは執着を生み出すからである。そして執着こそが本質的な生き方を阻害する。だから、仕事を取り除くことで本質的に生きる道は開かれやすくなる。
ではなぜ仕事は執着を生み出すのか?
それを語る前に、まず前提としてほとんどの人がそのことを知らないということがある。誰も仕事が執着を生み出すと思っていない。想像すらしていない。だから厄介なのだ。
そして、なぜ仕事が執着を生み出すかといえば、それは仕事をすると「他の人に役立っている」という実感を抱きやすいからだ。しかしこれこそが執着を生み出す麻薬である。
「他の人の役に立っている」と思うと、それがあまりにも心地いいので溺れてしまう。その快感を得るために仕事をするようになる。そうしてどんどんと本質から外れていくのだ。
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石原莞爾と東條英機:その57(1,698字)
2024-10-14 06:00110pt永田鉄山を殺したのは相沢三郎という陸軍将校だった。つまり永田の後輩であり部下だ。陸軍士官学校出身で当時46歳の中佐だった。この事件は、犯人の名を取って「相沢事件」と呼ばれている。
相沢三郎は1889年に仙台で生まれる。実家は旧仙台藩士だった。そして石原莞爾も同じ1889年の生まれで、同じ東北(山形)の旧武家出身である。ただし石原は早生まれなので学年は一つ上だった。
この相沢と石原は、同じ仙台陸軍地方幼年学校に通っている。そして石原は当時から有名だったから、相沢は石原のことをよく知っていた。当時の仙台幼年学校のほとんどの後輩がそうであったように、石原に憧れ、尊敬していた。
陸軍に入ってからの相沢は、長い間教育畑を歩んだ。教官として若者たちに接した。そのため、当時の若者たちの困窮ぶり、あるいは東北をはじめとする地方経済の疲弊ぶりはよく知っていた。実家の姉妹が吉原に売られたという話しも幾度となく -
ディスコミュニケーションの時代(1,698字)
2024-10-11 06:00110pt新連載の前に今回はディスコミュニケーションについて書きたい。
ディスコミュニケーションとはコミュニケーションが成立しないということだ。最近のぼくは、コミュニケーションが成立しないケースによく遭遇する。
例えば最近、ドラッカーの未来学について話していた。ドラッカーは、未来にメジャーになることは現在すでにマイナーな形で起こっているという。それをドラッカーは「すでに起こった未来」と表現した。未来にメジャーになるものが、今もうすでに起こっている、という意味だ。
そんな「すでに起こった未来」について話していたときに、ある人が「リモートワークはすでに起こった未来ではないか」と言った。コロナで一気に広まったリモートワークは、今後世界の主流になるだろうと。
しかしながら、これはぼくの考えとは正反対だ。コロナをきっかけに全世界に広まったリモートワークは、逆に今バックラッシュが起きて大きく否定され始めている。 -
1994:その24(1,601字)
2024-10-10 06:00110pt1080年代のはじめに女子大生ブームがあった。これはバブルの始まりで豊かになった親が自分の娘を女子大に入れ始めたのがきっかけだろう。これに呼応して女子大もまたいっぱいできた。1970年まで女子大はあまりなかったが1970年代になって急に増えるのだ。
団塊の世代で女子大に行った人はあまりいない。女子大に行ったのはその下の「シラケ世代」だ。1955年から1965年くらいに生まれた世代だ。彼らが18歳になる1973年から、徐々に女子大と女子大生が増え始める。そして1980年代になってそれが本格化する。
女子大ブームを印象づけたものは二つある。一つは「夕ぐれ族」でもう一つは』オールナイトフジ』だ。
夕ぐれ族は1982年に実在した売春組織である。経営者が若い女性だったことで世間の注目を集めた。その女性経営者は短大卒を自称していたが実際には通っていなかったらしい。しかし彼女の運営する売春組織(愛人バン -
[Q&A]自分は結婚したいのかしたくないのか本心を知りたい(2,367字)
2024-10-09 06:00110pt[質問]
結婚について質問です。30代半ばの女性ですが、結婚したい気持ちと結婚したくない気持ち、それも強い思いではなく、そこまで無理して結婚したくもないかな、という中途半端な気持ちがあり、正直自分自身が分からなくなっています。今の問題は、結婚するかしないかよりこの中途半端な気持ちについてです。一体どっちが本当の自分なのか。どうすれば後になって後悔しないのか。自分の本当の気持ちが分かる方法があったら教えてください。
[回答]
ぼく自身は、「自分の本当の気持ちを知る」ということについてあまり深く考えたことはありません。なぜかというと、自分の本当の気持ちが分からない、と思ったことがほとんどないからです。
ただ昔、高校生の頃にある人を好きになったような気がして、本当に好きかどうか、自分の気持ちについてよくよく考えた記憶はかすかにあります。
そのときは、結論からいうと「本当に好き」だったのです。しか -
本質的に生きる方法:その2(1,533字)
2024-10-08 06:00110ptイズムを捨てて生きるにはどうすればいいか? あるいは、イズムと反対の生き方とはどういうものか?
実は、それを表現する言葉はいくつもある。虚心坦懐、是々非々、現実主義的。どれも「理想に囚われない」という意味である。「現実を見る」ということだ。見るだけではなく、受け止めることが重要である。もっというと、積極的に肯定することが必要だ。
勝間和代氏が「起きていることはすべて正しい」と言ったが、ぼくはそれくらいの心構えを持つ必要があると思う。例えば大災害が襲ってきて愛する人が突然亡くなったとしても、それを正しいと思える力――それがイズムを捨てるという生き方である。
こういう生き方は、現代人のほとんどができないだろう。しかしかつてはできていた。なぜなら、かつては死が間近にあったからだ。多くの人が不条理な形で死んだ。そういう社会では、いちいち現実を否定していては身が持たない。勢い、現実主義的にならざるを -
石原莞爾と東條英機:その56(1,737字)
2024-10-07 06:00110pt東條英機は久留米で電報を受け取った。そこに永田鉄山の訃報が載っていた。ただちに東京へのキップを取り、鉄道で一昼夜をかけて上京した。そうして永田邸を訪れ、その亡骸と対面した。
東條英機にとって永田鉄山とは何だったのか?
それは「全て」といっていい。永田鉄山こそ東條英機の生きる理由のようなものだった。師匠であり兄貴であり友人であった。私淑するメンターで、憧れのアイドルのような存在でもあった。実父の英教亡き後、心の父のような存在でもあった。
その永田鉄山が殺されたのだ。ここで東條英機も死んだといっていいだろう。東條英機はここで死んだのだ。彼は、永田夫人から殺されていたときに着ていた血染めの軍服を受け取った。そうして自宅に持ち帰ると、深夜家族が寝静まった後にそれに着替え、一人涙に暮れていたという。血染めで何カ所も指された穴があるその軍服を着て、亡き永田を思いながら、その胸に復讐と、それ以上の何かを -
庭について:その83(1,689字)
2024-10-04 06:00110ptここまで82回にわたって庭について書いてきた。最初の記事が2022年9月30日なのでちょうど2年である。思えばこのメルマガで一番長い連載となった。
今回が「庭について」の最終回である。そこでここでは、少し雑感というか、今思っていることなどを書いてみたい。
まず、この連載を通して発見したのは、庭というのは総合芸術であるということだ。しかも、あらゆるジャンルの上位に位置する。
この「総合芸術」という呼び方は通常建築、あるいは映画に対してなされるが、庭にはそれ以上の重要性があるように思う。また、実際にそう考えている人も少なからずいる。
庭は建築とは違う。そこには自然――取り分け植物が不可欠だからだ。例外的に枯山水という植物を用いない庭もあるものの、これもたいてい遠景には木々があるし、そもそも岩を山に見立てたりもしているので、植物と全く無関係というわけではない。
そんなふうに、庭は植物と共にある。
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