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石原莞爾と東條英機:その65(1,934字)
1936年12月、石原莞爾のはしごが武藤章によって密かに下ろされ始める。そうしてこれ以降の数年間が、石原にとって一つの「受難の時代」となっていく。その石原の受難を見る前に、まず当時の内閣の動きから確認したい。石原と武藤の一件から3ヶ月後の1937年2月、時の広田内閣が総辞職した。広田内閣は、二・二六事件の責任を取って解散した岡田内閣に代わり、11ヶ月前の1936年3月に組閣された内閣だった。首相は外務省出身の元外務大臣、広田弘毅である。岡田内閣解散後、最後の「元老」(明治以来の「元老制度」はまだ残っていたが、在任者が亡くなると新任は決めず、元老が全て亡くなったら制度そのものを廃止するというのが既定路線だった。ちなみに山懸有朋も元老の一人だった)として、天皇のブレーンを務めていた西園寺公望に、新しい首相の任命が託される。そこで西園寺は、貴族院議長であった近衛文麿を推挙する。ところ -
野球道とは負けることと見つけたり:その8(1,735字)
蔦文也は1923年の生まれだが、よくよく考えるとぼくの母方の祖母が1923年の生まれであった。祖母の苦労はなんとなく知っているので、蔦文也の苦労もまた実感できるようになった。戦争は1941年に始まり1945年に終わった。この4年間は、文也にとって18歳から22歳という最も多感な時期だった。しかも特攻隊員だったのだ。これ以上の「地獄」はなかなかないだろう。1945年8月15日、文也は特攻隊員として玉音放送を聞く。最後は奈良の大和海軍航空隊「神風特別攻撃隊千早隊」に所属していた。先述のように、終戦するとすぐに同志社に復学している。それから1年後の1846年9月、文也は晴れて同志社大学を卒業。ただし、終戦直後で世の中は混乱して、経済は逼迫しており、先行きは全く見通せなかった。それでも、世の中は明るい空気に満ちていた。それは、戦争の4年間があまりにも暗かったからだ。それに比べれば、混乱 -
1994:その32(1,794字)
大学生のとき、中央線の武蔵小金井駅近くの祖父母の家に下宿していた。大学は上野にあったので、そこから40分くらいをかけて通学していた。ぼくは大学は現役で国立に入ったし、下宿先は祖父母の家なので、その点では全くお金のかからない子供だった。時代はバブルだからなおさらお金がかからなかった。大学時代のぼくは、アルバイトはしていなかったが、以前にも書いたようにパチンコで利益が年間で100万円くらいあった。一方、支出は全くなかったので(両親と祖父母に養ってもらっていた)、それなりに贅沢な暮らしをしていた。20万円くらいする29インチの巨大なブラウン管のテレビと、ベータの最高級ビデオデッキを買った。後にVHSのビデオデッキも買い足した。レンタルビデオ店にVHSのソフトしか置いていないケースもあったからだ。これも前に書いたが10万円のトヨタスプリンターも持っていた。当時はまだ高かったCDデッキも
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