• このエントリーをはてなブックマークに追加

記事 21件
  • 1994:その3(1,594字)

    2024-02-15 06:00  
    110pt
    1994年最大のヒット曲はMr.Childrenの『innocent world』で、売上げ枚数は193.6万枚となっている。リリースは6月1日で、「アクエリアス ネオ/アクエリアス イオシス」のCMソングだった。ミスチルは同年11月10日に出した『Tomorrow never knows』もミリオンヒットさせている。この曲は翌年にかけて276.6万枚も売れた。
    アクエリアスはコカ・コーラ社の製品だが、CMは今見ると安っぽく、また古くさくて80年代っぽい。天下のコカ・コーラもそれほどのヒットを期待せずにおざなりに作ったという感じだが、それでも大量出校でテレビの視聴率も良かったので、当時の日本人でこのCMを見なかったという人はほとんどいないだろう。見れば「懐かしい」という気分になれる。
    1994年というのはバブルはとうに弾けているが、面白いことに当時の人々や世相にまだ「弾けた」という実感はな

    記事を読む»

  • [Q&A]世界最高峰以外色褪せて見える経験は?(2,344字)

    2024-02-14 06:00  
    110pt
    4
    先日、テーラー・スウィフトのコンサートに行ってきました。地味な歌であろうが一曲一曲に見せ場があり、ショーとしての完成度は非常に高いものでした。
    東京ドーム以上のスタジアムクラス会場が目白押しで、どれだけセットに凝っても、どれだけ派手な演出をして予算をかけても、回収してお釣りがくるからこそお金のかけ方もハンパないのです。
    マドンナのコンサートを見た時はここまで思いませんでしたが、今回はさすがに世界最高峰のエンタメだと感じました。
    一度そういうものを見てしまうと大概のライブは寂しく感じてしまいます。自分の一番好きなミュージシャンと言えども色褪せて感じてしまうのです。
    岩崎さんは、こういうような差を感じて愕然とするようなご経験はありますでしょうか? あったら教えてください。
    [回答]
    世界最高峰以外色褪せて見える経験といったら、やはり今のテレビでしょうか。ぼくは1991年にテレビ業界に入りました

    記事を読む»

  • 劣化する人:その10(1,708字)

    2024-02-13 06:00  
    110pt
    ケチな人は劣化しやすい。なぜなら「意志が強い」からだ。
    意志が強いと、若いうちは成功する。しかしその反動が40歳以降に来るので、「劣化」したように見えるのだ。
    逆に、意志の弱い人は劣化しない。最初から意志の弱さがハンデとしてあるため、天賦の才能がなければ成功できない。だから、40歳以降に活躍できなくても、「劣化した」とはならないのである。
    こうしてみると、「劣化する人」の反対の「劣化しない人」というのは、「才能があるのに意志が弱い人」ということができるだろう。才能があるのに意志が弱い人は、若い頃からほどほどの努力で能力を発揮できる。だから、40歳を越えて教育効果が切れたり体力が衰えたりしても、才能だけでなんとかやっていけるのだ。
    また、意思の強い人には隠された重大なハンデもある。それは、心が頑なになって「自信過剰」に陥りやすいということである。
    なぜ自信過剰になるかというと、若い頃からちや

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その35(2,481字)

    2024-02-12 06:00  
    110pt
    満州事変は、実に不思議な「歴史の綾」の中で、ほとんど偶発的に起こった。まるでジャズのアドリブのように、先が見えないまま目の前のできごとに、ほとんどの者が条件反射で動いた果て、奇跡的に成立したのだ。
    しかし一方で、「こちらに行きたい」という意思と方向性は確実にあった。特に石原莞爾にそれがあり、しかも彼はそれを前々から練りに練っていた。だから、この事変の主導者(あるいは首謀者)は、間違いなく石原莞爾であるといえる。
    とはいっても、全てが石原の思惑通りに動いたわけではなかった。その途中、何度か大きな不成立の危機があったのはもちろん、何より事変の成立後、数年を経て予想だにしない方向へと「結果」そのものが動いていった。
    そうしてついには、陸軍――引いては日本そのものが巨大な悲劇へと突き落とされる、最大のきっかけとなったのだ。それは、石原が望んだどころか最も望まなかった最悪の結果であった。
    だから、石

    記事を読む»

  • 庭について:その64(1,858字)

    2024-02-09 06:00  
    110pt
    茶の湯の目的は二つある。接待と瞑想だ。利休はそこに第三の目的を持ち込んだ。それは「闘い」である。利休は、茶の湯を一つの「闘いの場」としたのだ。
    実は、最初の茶の湯には「闘い」の要素があった。それは、出されたお茶の銘柄を当てるというゲームのようなものだった。これを「闘茶」という。
    この闘茶は、やがてギャンブルへと発展した。そのため、茶の湯にはギャンブル場的な華々しさ、派手派手しさが似合った。まさに北山文化である。
    しかし時代が移ろうに連れて、そうした派手さは好まれなくなった。そこへ村田珠光が侘び寂びを提唱し、これが大流行した。それによって闘茶は次第に廃れていった。替わって、接待と瞑想とに重きが置かれるようになったのだ。
    しかし利休は、そこに再び「闘い」の要素を取り戻した。しかし今度の闘いは、闘茶のように明確なルールのある闘いではなかった。もっと芸術的、あるいは美術的な、「侘び寂びをいかに理解

    記事を読む»

  • 1994:その2(1,745字)

    2024-02-08 06:00  
    110pt
    この連載を書くのにあたってなぜ「1994」年を選んだかというと、その次の「1995」年がなかなか印象深い年だからだ。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があった。音楽では小室やミスチルがブームで、CDは史上空前の売上げを記録した。出版界も盛り上がり、やはり史上最高の売上げを記録する。テレビもまだまだ上り調子で、新聞は元気だった。
    そんなふうにマスコミは隆盛を誇ったが、一方であの「Windows95」が発売された。今思うと、このOSの名前に「95」が入っているのも象徴的である。そんなふうに、1995年は世界中の人々にとって変わり目となった。
    それに比べると1994年は地味である。大きな災害や事件はなく、ヒット商品も1995年と比べると見劣りする。時代を俯瞰したとき、ここに「変わり目」といえる大きな断層があるわけではない。
    しかし、だからこそこの年は、重要なのではないかと考える。1995年という変

    記事を読む»

  • [Q&A]消防団に参加するときの注意点(1,954字)

    2024-02-07 06:00  
    110pt
    1
    [質問]
    東京で仕事をしていましたが、家庭の事情もあり地元に戻ってきた30代の男です。消防団に入らないかと誘われています。他に地元でのコミュニティに所属していないため入ろうと思っていますがあまり気乗りしません。都会暮らしが長かったためうまく馴染めるか心配です。何か心構え等あれば教えてください。
    [回答]
    ぼくには故郷がなくしたがって消防団に参加した経験もありません。それどころか消防団に参加したことのある知人も皆無ですので、正直心構えをアドバイスするのは難しいところがあります。
    それでも一般論として考えると……というよりぼくの経験から考えると、なんらかの組織に所属する際は、必ず「自分はその組織において特別な存在になる」ということを心がけています。これはぼくだけかもしれませんが、一兵卒というのはどうしたって性に合わないので、特別な存在になるしかないのです。
    ですから、子供時代はずっと「キチガイ

    記事を読む»

  • 劣化する人:その9(1,622字)

    2024-02-06 06:00  
    110pt
    「ケチ」というのは劣化する人の一典型だ。すなわち、劣化した人にケチが多い。
    ところで、「ケチ」とは何か?
    定義するなら、それは「一般より金離れの悪い人」ということになるだろう。松本人志氏や厚切りジェイソン氏などが、その代表格である。
    そして、ケチの大きな特徴は、それを規定するのが「他者」ということだ。松本人志氏も厚切りジェイソン氏も、自分がケチだという自覚はあっても、意識はそれほど強くないだろう。他者から指摘されて、はじめて意識するくらいである。
    なぜ意識しないかといえば、松本人志氏も厚切りジェイソン氏も、ケチであることに引け目を感じていないからだ。両氏に限らず、ケチであることに引け目を感じる人は、早晩ケチをやめる。だから、ケチというのはほとんどの場合で、そのことに引け目を感じていない。
    そのため、ケチというのは一般的には少数派である。なぜなら、やめるのは簡単な一方、続けるのはそれなりに難

    記事を読む»

  • 石原莞爾と東條英機:その34(1,711字)

    2024-02-05 06:00  
    110pt
    1929年に板垣征四郎は満州にある関東軍参謀に配属される。そうして、前から満州に赴任していた石原莞爾と再開する。
    ここで、一つのエピソードが起こる。関東軍参謀の将校たちが、満州の北側を視察旅行していたときのことだ。旅先のホテルで、石原莞爾が将校たちを相手に「戦争史大観」という演目で講演をした。
    当時、二葉会や木曜会、そして一夕会など勉強会からの流れで、将校が独自の研究を幹部相手に発表するというのが一種の通例となっていた。しかも石原は音に聞こえた理論派だったので、講演をする機会も多かった。だからこの日は、板垣を含む関東軍参謀の面々に、戦争についての話をしたのだ。
    講演が終わると、聴講した将校たちはそのままホテルの部屋に戻って床に就いた。ところが、熱弁を振るった石原だけは、興奮からなかなか寝つけずにいた。そこで、気晴らしに散歩をしようと部屋を出て廊下を歩いていた。すると、その途中一つだけ、明か

    記事を読む»

  • 庭について:その63(1,940字)

    2024-02-02 06:00  
    110pt
    千利休は日本芸術史におけるスーパースターだ。松尾芭蕉らと並んで、その名前を知らない者は現代でもいない。利休が完成させた茶の湯の一つである「佗び茶」は、現代にも受け継がれている。だから、利休といえばまず「お茶」の人である。
    しかし実は、それと同時に「建築」の人でもあった。なぜなら、茶の湯を完成させる上で、茶室というのはなくてはならないからだ。茶の湯に茶室はつきものである。その意匠を凝らすことは、茶の湯の重要な営みの一つだ。むしろ「茶室を作ることこそ茶の湯の本懐」といってもいい。
    従って、建築こそが茶の湯のメインなのである。実際、利休も茶の湯を究める過程で建築を極めていった。彼の作り出した茶室の意匠は、現代にも脈々と受け継がれる、世界に誇れる大芸術である。
    ただし、利休本人が作ったとされる茶室はほとんど現存していない。唯一「待庵」だけが確認されているのみだ。
    では、利休はどのように茶室の意匠を

    記事を読む»