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記事 28件
  • 1994:その18(1,722字)

    2024-06-06 06:00  
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    ユーミンは1954年の生まれだ。1946-1949年に生まれた団塊の世代より少し遅れてきた世代だ。遅れてきたからこそ、団塊の世代の喧噪を横目に、クールな生き方を選択、実践してきた。それが、団塊の世代以降の人々に圧倒的な支持を受けることになる。
    団塊の世代はあらゆる意味で特別なので、他の世代の共感はなかなか得られない。その意味で団塊の世代は孤立しているが、そもそもが圧倒的多数なので、その孤立に気づかない。
    このねじれた状況が、そのまま日本社会のねじれにもつながった。団塊の世代の常識は他の世代の非常識なのだが、その他の世代がマイノリティだから、ここ70年ほど、社会は団塊の世代の非常識を中心に回らざるを得なかった。
    しかし唯一音楽だけは、団塊の世代に対するカウンターがマジョリティになった。団塊の世代を魅了したグループサウンズやフォークソングはすぐに廃れ、その直後に始まったニューミュージックを始祖

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  • 1994:その17(1,536字)

    2024-05-30 06:00  
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    1994年は今から30年前である。1984年はそこからさらに10年遡った、今から40年前である。
    その時代に、ユーミンとサザンがシャーマニックな働きをなし、日本の文化の方向性を、ある種決定づけていった。あるいは、すでに方向づけられた社会の動きに、彼らが言葉を与えていったということもできよう。「歌は世に連れ世は歌に連れ」というが、当時、この言葉はまさに彼らのためにあった。
    変な話だが、ぼくの妻の岩間よいこは1985年4月の生まれである。つまり身ごもったのが1984年だ。そのため彼女の両親が、ユーミンやサザンが方向づけた世界線の中で恋愛をし、セックスをしていたのである。それで産み落とされた存在が岩間よいこである。さらにその岩間よいこが産み落とした竹という存在が、ぼくの子供にもなっている。なんとも不思議な話だ。
    そう考えると、1984年の時代の方向性は、今現在も、全ての日本人にとって無関係とはい

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  • 1994:その16(1,679字)

    2024-05-16 06:00  
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    桑田佳祐は1994年につながっている。彼がデビューした1978年からその数々の流行り歌を通じて紡いできた日本の恋愛における空気感が、そこから16年が経過した1994年においてもなお、男女の恋愛観に決定的な影響を与えている。
    では、桑田佳祐はどのような空気感を紡いできたのか? それは一言で言えば「撤退戦」である。恋愛市場における男性の決定的な敗北の、その被害を最小限に食い止めようとした。それが桑田佳祐だ。
    桑田佳祐の評価は、なんといってもサザンオールスターズのデビュー曲である『勝手にシンドバッド』において決定づけられた。同時に、ここに早くも、桑田佳祐の紡いできたスタイルが十全に湧き出している。
    そのスタイルとは「道化」である。そもそもこの曲は、タイトルが道化ている。前年の1977年に国民的なヒットを記録した沢田研二の『勝手にしやがれ』と、ピンクレディの『渚のシンドバッド』の2曲のタイトルをそ

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  • 1994:その15(1,737字)

    2024-05-09 06:00  
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    松任谷由実は1954年1月19日生まれ。団塊の世代から5歳ほど下である。東京都八王子市出身で、1971年、17歳でプロの作曲家としてデビューする。また、翌年の1972年に、今度は歌手としてもデビューする。
    最初はなかなか売れなかったが、一方で業界内での支持者も後を絶たなかった。秘めたる可能性を感じさせる強烈なカリスマ性を持っていたからだ。それは歌詞、楽曲、そして歌のどれもにである。ユーミンは、そのどれもが技術的に長けているというわけではなかったが、他にはない独特の個性を持っていたのだ。
    1975年に作曲した『「いちご白書」をもう一度』が大ヒット。また自身が歌った『あの日に帰りたい』も大ヒットし、名実ともに超一流のミュージシャンとなる。まだ21歳だったが、それでも4年間の下積みをした後だった。
    ただし、下積み時代のことはほとんどの人が知らないから、一般には「彗星の如く現れた若き大型新人」と思

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  • 1994:その14(1,728字)

    2024-05-02 06:00  
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    1980年代を語る上では、あらゆる意味でユーミンとサザンが欠かせない。荒井由実(松任谷由実)とサザンオールスターズだ。特に「時代を読み解く」ということにおいては、この二組が最重要となる。
    この二組……というより二人(荒井由実と桑田佳祐)は特別である。彼らはまさにシャーマンで、時代の空気をすくいあげ続けた。時代のガス抜きをし続けた。
    そうして、当時の人はまだ誰も意識できていなかった「時代の奔流」への対処法を、暗示的にではあったが人々に提示して見せたのだ。
    その価値に気づいている人は、いまだに一人もいないだろう。手前味噌で恐縮だが、これはぼくが先週気づいたことなのだ。
    この二人を研究すれば、シャーマンとは何か、あるいは時代の流れを汲み取るとは何かということが、かなり概念的、構造的に理解できるようになる。
    二人に共通するのは作詞・作曲をするということである。自分でも歌うが、他人にも歌を提供する。

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  • 1994:その13(1,737字)

    2024-04-25 06:00  
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    1994年を語る上では1980年代がだいじになってくる。
    ところで、ぼくは1980年に12歳になり、1989年に21歳になっているから、ティーンエイジャーの青春時代を丸々80年代で費やした。そして、当時は分からなかったが、そのときも歴史は動いていたのだ。抗いがたい力が社会に作用して、人々を右往左往させていた。
    当時ティーンエイジャーだったぼくには、そういう意識は全くなかった。自分が時代の流れに翻弄されている意識すらなく、ただ毎日をがむしゃらに乗り越えようとしていた。日々をどうにか耐えしのぐことで精一杯だった。
    だから、極めて近視眼的だった。俯瞰できていなかった。メタ的な視点がなかった。自分が今どこにいて、どこに向かおうとしているのか、分からないだけではなく、そういう考え方が存在するということすら知らなかった。
    井の中の蛙とはこのことだ。周囲を壁のようなもので目隠しされているので、そこが「時

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  • 1994:その12(1,602字)

    2024-04-18 06:00  
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    「恋愛」というのは、60年代には存在していたものの一般大衆からは遠い存在だった。映画の中だけで起こる憧れのようなものだった。
    それが70年代になると、一般大衆にもゆっくりと広がり始める。ところが多くの人にとって不慣れだったため、上手くいかないケースが多く、四畳半フォーク的な悲しい結末に終わることが多かった。
    80年代に、入ってその傾向に劇的な変化が見られる。それまでの暗さから、急に明るい存在になっていくのだ。理由はただ一つで、女性の地位向上である。恋愛において、女性が主導権を持ち始めるのだ。
    なぜ主導権を持ち始めたかの理由ははっきりしていて、1980年くらいから恋愛適齢期における男女の数が逆転するのだ。それまでは女性が多かったのだが、この頃から男性が多くなる。
    なぜ男性が増えたかというと、そもそも有史以来、男性は女性よりも5%多く生まれている。女性が100人生まれれば、男性は105人生まれ

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  • 1994:その11(1,790字)

    2024-04-11 06:00  
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    1994年の男女関係、男女交際はどうだったのか?
    男女の恋愛が大きく変化し始めたのは1980年代に入ってからで、柳沢きみおの『翔んだカップル』に、その傾向が象徴的に見られる。若者が恋愛に悩み、新たな形を模索し始めたのだ。
    それまでの恋愛は、面白いことに型が決まっていた。だから、新たな形を模索するということがなかった。決められた形の中で、どう上手くこなすかという勝負だった。
    『愛と誠』というマンガがあるが、これがまさに人々の間に共有されている理想とされた型をとことん追求するという話だった。
    ただし、この頃からすでに型の崩壊の予兆はあった。それが崩壊しかかり、風前の灯火だからこそ、惜しみ、残そうとする気持ちが、人々の間にあった。
    だから、それを愚直に追求する『愛と誠』がヒットしたのだ。この作品は、1973年から1976年まで連載されている。まさに「70年代」を代表する作品だ。それに対して『翔ん

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  • 1994:その10(1,721字)

    2024-04-04 06:00  
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    2024年の今年、株高になったが「庶民にはその実感がない」ということが話題となった。これと同じで、1994年当時、バブルはすでに崩壊していたが、庶民はまだそれを実感していなかった。
    それを実感――いや「痛感」するのは、1998年になってからだ。長銀や山一証券が破綻して、給料の目減り――というより「増えなさ」が顕著になっていく。ハンバーガーや牛丼の値段が際限なく下がりはじめ、本格的なデフレ社会へと突入していくのがこの辺りだ。
    そのため、1994年はまだまだ世の中は明るかった。バブルはとっくの昔に弾けていたが、庶民にその実感はゼロだった。
    おかげで、むしろバブルの延長戦ともいえるような文化が最後の一花を咲かせていた。1995年には阪神淡路大震災とオウム真理教事件によってその花も枯れてしまうので、燃え尽きる直前の線香花火のように、束の間パッと明るくなったのが1994年だった。
    話を80年代に戻す

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  • 1994:その9(1,551字)

    2024-03-28 06:00  
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    宇多田ヒカルは1983年生まれなので、1994年には11歳だった。人間にとってさまざまなものを吸収するとてもいい時期だ。
    それを1994年で過ごし、ミュージシャンとして大成したのだから、この年にも何か魔力があったのだろう。
    パッと思いつくのは、日本は音楽業界が空前のバブルを迎えていたので、その活況を肌身で感じたということだ。井上雄彦の11歳が、ちょうど『ドカベン』が一番盛り上がっていた時期だったようなものだ。
    一方、1994年にルーズソックスをはいていた1977年生まれは、11歳を1988年で過ごしている。
    1988年はどういう年か?
    バブルのちょうど真ん中ともいえるし、昭和の最終年ともいえる。
    1988は、毎日昭和天皇の芳しくない容態がニュースの速報で流れていた。そうしてプロ野球のビール掛けが中止になるなど「自粛」という言葉が流行語にもなった。バブルで浮かれる一方、表面的には自粛している

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