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なぜ勉強するのか?:その29(1,971字)
2018-07-19 06:00110ptそもそも、「夕方」というのはどういう言葉なのでしょうか?
地球には、天体の動きによって明るくなるときと暗くなるときがあります。いわゆる「昼」と「夜」です。太陽が見えているとこの世は明るくなり、太陽が地球の影に隠れると、暗くなっていろんなものが見えなくなります。
この二つの現象はとてもはっきりしているので、すぐに「昼」と「夜」という二つの言葉ができました。そして夕方は、そんな昼と夜の中間として位置づけられています。昼が夜に変わっていく、その境目を「夕方」というわけです。
ただし、その定義は必ずしもはっきりしているわけではありません。なぜなら、昼と夜は境界線がきっちりとは決まっていないからです。また「夕方」のあり方も、一年の中のそれぞれの季節によっても違ってきますし、天気によっても違ってきます。けっして極端な言い方ではなく、全く同じ夕方が二度以上起きることはありません。夕方は、無限に多様な姿を -
なぜ勉強するのか?:その28(1,884字)
2018-07-12 06:00110pt言語というのは、なかなかに奥が深いものです。そもそもは人間同士のコミュニケーションのために生まれましたが、そこから発展して例えば数式を表すようになりました。これも一つの言語です。
そこからさらに発展して化学式も表すようになったり、さらにコンピューターの時代になるとプログラムを表すようにもなったりもしたのです。プログラムは、日本語だと「機械語」などと訳されます。
こうして進化した言語は、総称して「記号」などとも呼ばれています。その意味で、言語は記号の一種です。事象や概念を記号に置き換える行為こそ、言葉を作る行為というものなのです。
そのため、20世紀にはそうした言語のあり方を総合的に学ぶ「記号論」が流行したりもしました。
さて、ここで本来の言語というものに立ち返ると、はじめは脳をトレースして曖昧な表現から始まったものの、そこから発展して厳密なものを表現する必要性も生じてきました。
そうしたと -
なぜ勉強するのか?:その27(1,751字)
2018-07-05 06:00110pt言葉というのは、そもそもはコミュニケーションの道具でしたが、それが発展する過程で脳にフィードバックするようになり、思考の道具としても機能するようになりました。人は、言葉を使って考えると、それまでよりものごとを論理的に、また深く考えられるようになったのです。
その結果、人類の知能は発達しました。人間は、脳のスペック自体は変わらないのに、その使い方を変えただけで、知能が上がったのです。
その意味では、「言葉が人間の知能を上げた」ということができるでしょう。コンピューターにたとえれば、脳はハードで言葉はOSです。そのOSが進化することによって、人間の脳はよりすぐれた使い方ができるようになったのです。
そういうふうに、言葉を使って知能を上げることで、人間は稲作というものを発明しました。その結果、集団生活を営むようになったのですが、今度はそれを成立させるための法律を作るようにもなりました。
すると、 -
なぜ勉強するのか?:その26(1,539字)
2018-06-21 06:00110pt言葉というものは、曖昧さを本質としています。それは、人間の脳がそもそも曖昧さを指向していて、言葉がそれをトレースしたからです。言葉のありようは、人間の脳のありようをそのままシミュレートしているのです。
しかしながら、そうしてできた言語には、脳にはない特殊な力がありました。それは、「厳密さをも指向できる」ということです。
言葉には、ある程度の厳密さを持たせることができます。そうして言葉は、人間の脳から生まれたにもかかわらず、一人歩きして独自の方向性を目指すようになりました。
つまり、言葉というのはある種、本来は意図していなかった使われ方をしていて、しかもそれが上手くいっているのです。こういう状態を「予期せぬ成功」といいますが、予期せぬ成功ほど人類に大きな恩恵をもたらすものはないともいわれています。経営学者のドラッカーは、予期せぬ成功こそイノベーションを生み出す最も大きなきっかけ――といってい -
なぜ勉強するのか?:その25(1,587字)
2018-06-14 06:00110pt人間の脳は、そもそも曖昧さに対応するよう作られています。そのため、厳密なものごとを処理するのは苦手なのですが、しかしそれは、逆に利点が多いことでもあるのです。例えば、曖昧な脳は人の顔を判別するときに役立ちます。そもそも、人間の顔というのは毎日少しずつ違っています。髪が伸びたり、体重の増減があったりするからです。そのため、もし人間の脳が厳密だったら、同じ人でも昨日と顔が少し違っているので、「違う人」と認識してしまう危険性があります。その意味で、厳密さは融通が利かないところがあるのです。しかし人間の脳は、ものごとを厳密に判断しません。それよりも、曖昧さを重視しています。ですから、昨日と多少違っていても、「似ている」という曖昧さを感知できるため、同じ人だと判断することができるのです。人間の脳は、そもそもキャパシティに限界があります。そのため、顔を正確には覚えられません。その人の顔にほくろがいくつ -
なぜ勉強するのか?:その24(1,988字)
2018-06-07 06:00110pt法律は、人間が集団生活を営むために生み出した一種の道具です。法律ができたことによって、人類は100人を超える規模でもなんとか集団生活を営めるようになりました。
しかしながら、ここで一つの矛盾が生じます。それは、法律というのは言葉で記す必要があるのですが、言葉には本質的に「曖昧さ」が宿っているので、法律もどうしても曖昧にならざるを得ない――ということです。しかしながら、法律そのものは厳密さを求めるので、そこで言葉の解釈を巡って議論や対立が生まれることとなりました。
その議論や対立を収めるために、裁判という制度が発達したのです。この問題は、実は今でも引きずられています。現在でも、法律は言葉によって記され、それがためにどうしても曖昧さが残ってしまい、人々が法律に厳密さを求めるとき、言葉の曖昧さを巡って裁判が行われているのです。
そういうふうに、言語の曖昧さは法律というものの不備を生み出すことにも -
なぜ勉強するのか?:その23(2,063字)
2018-05-31 06:00110pt学問というのは歴史から始まりました。歴史を学ぶこと自体は、自分のルーツを知りたいという人間の根源的欲求と重なるため、きわめて自然のことだったのですが、それを学ぶ過程で、「学ぶ」ということが人間の生活にさまざまな影響を及ぼすと言うことが次第に分かってきたのです。そうしてそこから派生して、どんどんと「学問」が生まれてきました。
その歴史から派生した学問のうちの一つが「言語学」です。違う言い方をすれば国語です。言葉について学んだり考えたりする分野です。
なぜ歴史から言語学が派生したかといえば、それは言語を学べば学ぶだけ歴史の語り方が豊かになるからです。正確にもなるし、人に伝わりやすくもなる。
そもそも、人は何かを語るときにとても苦労します。それは言葉が一筋縄ではいかないからです。何かの事実を言語に変換しなければならない。その変換作業に最初は誰でも戸惑うため、それをもっとスムーズにしようと、自然に -
なぜ勉強するのか?:その22(2,148字)
2018-05-24 06:00110pt人間が本来持っていた美的感覚を取り戻すための第三の方法は、「バランスを見極める」ということです。なぜなら、「美」というのもはバランスの中にしかないからです。違う言い方をすれば、美というのはバランスそのものです。バランスがいいものを人は美しいと思い、バランスが悪いものを人は醜いと思います。
ですから、バランスを見極めることによって人は、赤ん坊の頃に持っていた美的感覚を取り戻すことができるのです。
では、バランスを見極めるにはどうすればいいのか?
そこで重要なのは、「アシンメトリー」です。
人は、バランスというとえてして「シンメトリー」を想起します。「シンメトリー」は、違う言い方をすれば「五分五分」です。五分五分で均衡が取れている状態を、人はつい「バランスが取れているもの」と思い込む節があります。
しかしながら、五分五分というのは実はあまりいいバランスではありません。なぜかというと、五分五分の -
なぜ勉強するのか?:その21(1,889字)
2018-05-17 06:00110pt美的感覚を取り戻すためには、身体を危険にさらし、それまでの人生でこびりついた心の鎧を取り払う必要があります。
では、身体を危険にさらすにはどのようにすればいいのか?
それには大きく三つ、最適な方法があります。
第一は、高所に行くこと。
第二は、水中に潜ること。
第三は、空腹になること。
人は、これらの状態に置かれると、自動的に身体の危険を感じます。それによって、これまでの人生の中でこびりついてきた心の鎧がはがれ、神経が研ぎ澄まされて、本来の美的感覚を取り戻すことができるのです。
では、なぜ上記の三つが身体を危険にさらすのに最適なのか?
それは、これらの危険が常に人間の「そば」にあるからです。
例えば高所というのは、身の回りの至るところにあります。建物の上に登るのもそうですが、ちょっとした坂もそうですし、木に登るという方法もあります。
水や空腹もそうで、その気になれば、それらの危険には容易に -
なぜ勉強するのか?:その20(1,774字)
2018-05-10 06:00110pt美を学ぶ方法の第一は、自然から美しさの本質をくみ取る、ということでした。では、続く第二の方法は何か?それは、「危険に身を置く」ということです。どういうことかというと、そもそも美的感覚は自然に根ざしたものなので、自然の一部である我々人間もまた、本質的には美しいもの、ということです。あるいは、美しいものを美しいと感じる美的感覚は、どんな人間も先天的に持っています。ではなぜ、「美的感覚のあるなし」の差が生まれるか? それは、成長の過程でその能力が鈍ってしまうからです。そのピントが曇ってしまう。おかげで、その曇り具合の量によって、美的感覚にあるなしの差が生じるのです。いわゆる「美的感覚がない人」というのは、生まれて以降の来し方によってピントが曇ってしまった状態にある人――ということができるでしょう。ですので、美を学ぶには、その本来持っていたはずの感覚を取り戻す――という考え方が適切です。そこにこび
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