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マンガのはじまり:その2(1,434字)
2022-10-17 06:00110ptそんな世界的存在となった浮世絵の中で、取り分け人気を博したのが葛飾北斎と歌川広重でした。特に北斎の場合は、浮世絵と同時に『北斎漫画』も大流行し、これはヨーロッパ中の挿絵画家たちに多大な影響を与えます。
というのも、北斎が『北斎漫画』で展開した軽妙で洒脱な筆致は、当時ヨーロッパで広まり始めていた新聞や雑誌に欠かせない「風刺画」にぴったりだったからです。
そうして、北斎の画風を真似する挿絵画家が雨後の竹の子のように現れました。北斎の間接的な弟子ともいえるような画家たちが、ヨーロッパ中に誕生していったのです。
それから少し時代がくだった一八六八年、日本は明治維新を迎えました。いわゆる鎖国を解き、開国したのです。これによって、諸外国との交流が一気に盛んになり、さまざまな新しい文化が日本に雪崩のように流れ込んできました。
新生日本は、欧米の進歩的な文明にいち早く追いつこうと「富国強兵」をス -
庭について:その3(1,840字)
2022-10-14 06:00110pt1大学時代の京都研修旅行では、茶室にも行った。残念ながらどこの茶室かは全く覚えていないのだが、利休が作った茶室に行く予定だったのが、先方の都合で行けなくなり、他の茶室に行ったと記憶している。
ただ、そこへ行けて良かった。というのも、そこは庭が立派だったからだ。茶室の庭のことを「茶庭」という。また「露地」ともいう。
ぼくが行ったところではないが、ここで紹介されている露地は理想的なものだ。
「幻」の露地(茶庭) 其の壱
京都研修旅行に行ったとき、ぼくは茶室そのものにはそれほどの魅力を感じなかったが、しかし露地には強烈な魅力を感じた。たった一回で魅せられた。
魅力を感じた理由はいくつかあるが、まずは「飛び石」が面白いと思った。
「飛び石」とは、土に点々と石を埋めることで、そこを道とする意匠である。面白いことに、土に点々と石を埋めるだけで、そこに道ができるのだ。
これは「道とは何か?」という哲学的な -
マンガの80年代から90年代までを概観する:その72(1,657字)
2022-10-13 06:00110pt団塊世代の女子(団女)というものは、社会的にはそれほど注目を浴びていない。しかしながら、これが社会を変革した度合いは大きい。この層が日本の女性観、恋愛観、家族観、引いては社会観を一変させたといってもいいだろう。
団女は、言うまでもないが戦後生まれだ。いわゆる「戦争を知らない子供たち」である。そのため、がっつりと戦前の価値観を持っている親との間にはもちろん、少し上の「戦争を知っている子供たち」との間にも価値観のギャップがあった。それも強烈なギャップだ。
およそ団塊世代ほど巨大な価値ギャップの中で育った子供はいない。同時に、団塊世代ほど「多くの子供」に囲まれて育った子供もいない。
その意味で、団塊世代は弱点と同時に強さも持っている。その強さが、やがて上の世代に対する隠された反抗心――さらには「恨み」へとつながった。
この「隠された恨み」が、日本に独特の価値転換をもたらした。団塊世代が大人になっ -
[Q&A]地方移住はどうですか?(2,855字)
2022-10-12 06:00110pt[質問]
よいこさんが地方移住は失敗だったとvoicyで言ってましたが、同じ意見ですか?
[回答]
これですね。
【地方移住失敗】夢は東京の賃貸に住むこと
ぼくは全くの別意見です。ですのでこれは、よいこの個人的な意見ですね。
よいこは、自分の意見を持っています。そして、それを他者とすりあわせるということを、基本的にしません。ただ、それはぼくもそうなので、その意味では同じですね。
ぼくとよいこは17の年齢差があるので、そのギャップは大きいと思っています。また、価値観も大きく異なるので、意見が異なるのは、まあ仕方ないですね。
例えばぼくは、移動がそれほど苦ではありません。ですので、今も東京に月一で行っていおり、おかげで「東京不足」に陥ることもなく、楽しくやっています。あるときなどは、朝に海水浴をして、夜は東京のレストランで会食――などというちょっとバブリーなことを楽しんだりもしました。
ぼくは -
令和日本経済の行方:その16(1,614字)
2022-10-11 06:00110pt2日本の教育は昔は良かった。機能していた。だからみんな学校が大好きだった。学校に感謝こそすれ、その価値を疑う人はいなかった。
しかしその巨大な成功のおかげで、いまだにやめられないという弊害が生まれた。もうすっかり古くなったのに、止められない。それは、成功が巨大すぎたからだ。それゆえ、その失敗もまた大きくなった。傷口が際限なく膨らみ続けている。
では、日本の教育とは何か?
一言で説明するのは難しいが、まず江戸時代に「寺子屋」が根づいた。地域によって格差はあるが、特に都市部の子弟は寺子屋に通い、いわゆる「読み・書き・そろばん」を習った。そうして「子供が学習する」という風土が根づいた。
これは、江戸時代は基本的に戦争がなかったため、各藩の発展はほとんど知的労働に依拠していたからだ。藩の興廃は民の頭脳にかかっていた。
そのため、英才を育てようという機運がこの頃からあった。もちろん、戦争が禁止されてい -
マンガのはじまり:その1(2,023字)
2022-10-10 06:00110pt(突然ですが、今週から新しい月曜日の連載を始めます。それは「マンガの歴史がはじまったときの物語」です。今は木曜日に「昭和のマンガ」について連載をしていますが、一方でその最初期のできごとを一度整理したいと思ったので、ここに別に書かせていただきます)
「マンガのはじまり」は、とても印象的です。もともと葛飾北斎が一八一四年に『北斎漫画』という本を刊行し、これが大人気になったところから始まるのです。
ここで使われている「漫画」という言葉の意味は、「事物をとりとめもなく気の向くまま漫ろに描いた画」というものです。もっというと、「思いついたものを適当に描いたスケッチ」というような意味です。
これより前の一七九八年に、山東京伝という人が『四時交加』という本を出し、その中で「漫画」という言葉を使っています。これが、今のところ確認されている最も古くに使われた「漫画」という言葉です。
以降、漫画は「適当 -
庭について:その2(1,716字)
2022-10-07 06:00110pt2ぼく自身、他の多くの日本人と同様、庭とは縁遠い暮らしをしてきたのだが、大学3年生のときに研修旅行で京都へ行った。京都の建築を見学するためなのだが、そこで円通寺に行ったのである。円通寺の庭を見た。
圓通寺(円通寺) 平面の美学を打ち出した枯山水(京都府)
ここは、日本一有名な庭の一つである。だから知っている人も多いだろうが、しかし恥ずかしながらぼくは全く知らなかった。そうして、予備知識なしで見にいった。ネタバレなしで行ったのだ。だから、その衝撃はすさまじかった。
ぼくが衝撃を受けたことは2つあって、それは「枯山水」と「借景」である。円通寺の庭には、この2つが最高レベルで備わっていた。
まず枯山水だが、ぼくはいまだにその神髄を理解しているわけではないが、しかしその苔の魅力はたちどころに理解した。指導教官から「近くに寄って見てみろ」と促され、次いで「森に見えないか?」と言われた瞬間から、ぼくには -
マンガの80年代から90年代までを概観する:その71(1,485字)
2022-10-06 06:00110pt『月とスッポン』の登場人物・藤波正平のモデルは、作者である柳沢きみおの同級生だった。そう考えると、藤波が恋をする星野くんのモデルも、やはり柳沢きみおの同級生だったのではないだろうか。
そもそも、この『月とスッポン』を読み込むと、主人公の2人、土田新一と花岡世界にはリアリティがない。それは、作者の「読者の妄想を具現化した」という証言からも分かるように、空想の産物だからだろう。どこまでも人工的なのだ。
それに比べ、主人公ではないため気軽に作った藤波くんや星野くんのキャラは、戯画化されていない分リアリティがある。身近な人物をモデルにしたため、かえって深みを宿したのだ。
しかも、キャラが動きやすいために話も作りやすく、人気も出た。それでマンガが延命したのだから、なんとも皮肉な話だ。人気を取るために作った主人公より、手を抜いた脇役の方が活躍したのだ。
70年代は、そういう「価値の転換期」にあったと思 -
[Q&A]アントニオ猪木をどう思うか?(2,325字)
2022-10-05 06:00110pt2[質問]
アントニオ猪木さんが亡くなり、いろいろな映像や言葉が流れてきました。岩崎さんは、猪木さんに対してどのように思われていましたか?
[回答]
アントニオ猪木はぼくにとって理解が難しい人間でした。後年になってようやく「虚実皮膜だった」と分かるのですが、子供の頃は「虚実皮膜を作品でするのは分かるが自分でするのは分からない」という状態だったんです。アントニオ猪木にとっては、自分自身が「作品」でした。この感覚が、30代まで分かりませんでした。
ぼくにとって、作品とは外部にあるものです。そのため、絵とか作曲とか小説は分かりやすい。歌手は少し分かりにくいですが、レコードは外部になります。
しかしアントニオ猪木の場合は、自分自身の動きや声、それに生き方を作品としていた。それにはなかなか理解が及びませんでした。後年になって、いろんな人と接する中でぼく自身も自分を演じるような場面を持つようになり、「あ -
令和日本経済の行方:その15(1,673字)
2022-10-04 06:00110pt昭和の時代、日本では「機械革命」ともいうべきものが起こった。機械が格段に進歩したのだ。それが世の中を大きく変えた。
なぜ昭和の時代に日本で機械革命が起こったのか?
発端は、19世紀の産業革命にまで遡る。この「革命」は、列車や紡織機が「蒸気機関」と結びつくことによって、生産性を飛躍的に増大させる――というものであった。これがまず、人間社会を根底から覆した。
それに伴って、蒸気機関に使うための石炭を供給するインフラが構築された。そうして世界は一気に「石炭社会化」したのだが、そこでフォードが今度は「開発方式」による革命を起こす。その名も「フォード開発方式」を編み出し、また普及させることで、20世紀初頭、世界は一気に「産業社会化」した。
この産業社会は、やがて第一次世界大戦を引き起こす。産業社会が生み出した激烈な「格差」が、決定的な対立を引き起こしたからだ。
そうして第一次世界大戦が始まると、これ