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石原莞爾と東條英機:その53(2,039字)
2024-09-09 06:00110pt気のいいオッサンの荒木貞夫は1931年、満州事変の真っ只中で、永田鉄山らの後押しもあって陸相に就任する。しかし1932年から若手将校たちが荒木の元に参集するようになり、やがて「皇道派」を形成する。いい気になった荒木は盟友真崎甚三郎とともに自らを利する独裁的な人事を行う。
しかしこれが皇道派以外の反感を買い、やがて「統制派」の形成を促す。そもそも統制派という派閥はなかったのだが、皇道派があまりにも専横的なので、それを良く思わない者たちが一致団結したのだ。
しかもこの頃から若手将校たちが暴走し始め、荒木の手にも負えなくなった。さらに陸相としての能力にも国会や国民から疑問を持たれるようになり、急速に求心力を失っていった。
そうして1934年に、とうとう病気を理由に陸相を辞任する。表向きの理由は病気だが、周囲からの批判にとうとう耐えられなくなったのだ。
引退を決意した荒木は、陸相の後釜に真崎甚三郎 -
石原莞爾と東條英機:その52(1,800字)
2024-09-02 06:00110pt2荒木貞夫は陸軍を「天皇の軍」という意味で「皇軍」と呼び、その在り方=「道」を道徳に説いていた。だから、荒木の元に参集した若手将校たちは「皇道派」と呼ばれた。
その皇道派の行動理念は昭和恐慌、あるいは世界恐慌を機に始まった経済の混乱に対する「義憤」にある。彼らは猛烈に怒っていた。何に怒っていたかといえば、政治家と財界人である。政治家と財界人が私腹を肥やすから、多くの庶民が困窮し、貧乏のどん底に喘いでいるという構図を固く信じていた。
若手将校たちは必ず前線の部隊に配属される。するとそこには軍隊に入りたての二等兵たちがいる。二等兵はたいてい農家をはじめとする田舎の次男か三男である。彼らは、不況で失業率が高まり、他に仕事がないから仕方なく陸軍に入隊したのだ。
若手将校たちはそんな田舎者の次男三男を直接指導する。年は近いが自分たちはキャリア組の出世コースで彼らは最底辺の二等兵だから階級が三つも四つも -
石原莞爾と東條英機:その51(1,543字)
2024-08-26 06:00110pt3東條英機は1934年8月1日に久留米に赴任する。ちょうど50歳のときだから、これは完全に左遷だった。出世街道なら、いよいよ中央の主要なポストも伺おうかという年齢だ。これで東條は消えた、と多くの人に思われた。
しかし一方、東條は消えた、と思わない人も多かった。なんといってもあの永田鉄山の懐刀で、その永田自身は、相変わらず中央の最も重要なポストで周囲ににらみを利かせていた。だから、荒木や真崎がやがてなんらかの形で脇へ退くことになったとき、また復帰すると見る向きも多かったのである。
ところで、東條本人はどうだったか?
ここが東條の面白いところだが、彼はけっして「腐る」ということをしなかった。どんなポストでも、就けばそれなりに一生懸命やる。そうして、その中で最善を尽くす。
「置かれた場所で咲きなさい」を地で行くタイプが東條だった。もとより、彼はそこまで出世にこだわっていたわけではなかった。自分はと -
石原莞爾と東條英機:その50(1,817字)
2024-06-03 06:00110pt「国体」とは何か? それは「日本」という美しい国のことである。この我々が愛してやまない美しい日の本の国――自然ももちろん美しいが、何よりそこに住う人々が美しい。この日本の美しさこそが「国体」である。我々日本人の祖先が、古来より連綿と命懸けで守ってきたものだ。
この考えをナチュラルに持っている日本人は、今でも90パーセントはいるのではないか。今でも日本人の90パーセント以上が、この美しい国である日本を守り、伝えていきたいと、誰に教わったかは分からないが、ナチュラルに考えている。
今でさえそうなのだから、今から100年も前にそのことを疑えた人など1人もいない。この連載に出てくる人たちも、全員が全員(当時の日本人で最も頭のいい石原莞爾も含めて)、この「国体」という存在の価値を1ミリたりとも疑っていなかった。石原さえ疑えないものを、他の国民が疑えるはずもない。
ただ、その「信じ方」は人によってそれ -
石原莞爾と東條英機:その49(1,857字)
2024-05-27 06:00110pt皇道派の荒木貞夫は「気のいいおっさん」だった。気のいいおっさんで若者好きだったのだが、こういう人物はときどきいる。
そしてここからが少し複雑なのだが、荒木貞夫はやはり頭が少し悪かった。陸大を主席で卒業しながら「頭が悪い」とはどういうことか? それは「言われたことは苦もなくできるが自分の頭で考えるのが苦手」ということである。エリートや秀才には、このタイプが一定数いる。
また荒木の盟友・真崎甚三郎は自己顕示欲の塊だった。いうならば真性の「俗物」だ。荒木と真崎は、お坊ちゃんとその取り巻きの俗物という感じで相性がいいのである。
ちなみに真崎は昭和天皇とも非常に相性が良く、戦後においても何くれとなく引き立てられた。やはり、人の上に立つ育ちの良い人間にとって「俗物の側近」ほど助けになり、頼りになる人物はいないのである。ここが、育ちの良い人間が人の上に立つということの本当に難しいところだ。
また越境将軍 -
石原莞爾と東條英機:その48(1,581字)
2024-05-13 06:00110pt一夕会は宇垣一成や宇垣閥を牽制するために荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎を盛り上げた。実際、東條英機は荒木貞夫に相当な尊敬の念を抱いていた。
荒木貞夫はどのような人物か?
1877年生まれで旧一橋家の出身である。つまりバリバリの徳川だ。
1897年に陸軍士官学校を卒業し、1907年には陸大を首席で卒業する。そうして恩賜組となり、幹部候補生としてエリート街道を歩むことになった。
荒木貞夫は徳川家の矜持か、清廉な性格で、独特のカリスマ性があり、若手将校からの信頼と人気があった。先述のように東條も惚れ込んだくらいなのだが、それより下の無印の将校たちの間にはさらに熱狂的なファンが数多くいた。
それは、荒木が「若者好き」だったということもある。荒木は他の将軍とは違って若手と積極的に交わったので、若手もそんな荒木を好んだ。荒木は彼らを自宅に招き、毎晩のように酒席を交わした。そんなふうに、荒木は若手にとっ -
石原莞爾と東條英機:その47(1,652字)
2024-05-06 06:00110ptここで陸軍の「派閥史」を概観してみたい。
1873年に陸軍省が創設され、ここから山縣閥が始まる。山縣は1938年の生まれなので、スタート時はまだ35歳の若さであった。
1889年に、ドイツに留学した東條英機の父、英教が山縣に長州閥の弊害を直談判する。それが山縣の恨みを買って、英教は出世街道から脱落する。英教は34歳、山縣は51歳。英機は1984年の生まれなのでまだ5歳であった。
その山縣も、1918年に宮中某大事件を起こし、失脚する。80歳であった。ここで初めて山縣閥が崩れ、4年後の1922年に83歳で亡くなる。
山縣亡き後、陸軍の中で力を持ったのは長州閥ではない宇垣一成だった。宇垣は1868年に岡山県で生まれる。1900年に陸大を3位で卒業し、恩賜の軍刀を拝領する。いわゆる「恩賜組」だった。
彼は、若い頃に陸軍で第二の派閥だった薩摩閥の川上操六に気に入られ、出世する。川上は1899年に亡 -
石原莞爾と東條英機:その46(1,696字)
2024-04-29 06:00110pt1929年に歩兵連隊長になった東條英機は、部下の歩兵たちにとっては理想に近い上司だった。常に下々のことを気にかけてくれ、偉ぶったところが少しもなかった。
東條は、部下たち全員の顔や氏素性を覚え、何くれとなく声をかけたり、また気にかけてくれたりした。陸大を受ける将校がいたら、受験勉強に励めるよう、仕事の量を少なくするなど配慮した。これは、自分が陸大受験に苦労した経験によるものだ。
東條はとにかく人情にあつかった。人間味があったのだ。それが、エリート揃いの天保銭組の中ではいかにも異色であった。天保銭組のほとんどは、歩兵など歯牙にもかけないどころか、人間扱いすらしなかった。エリートたちにとって、歩兵は単なる駒、もっというと道具に過ぎなかった。道具としてのケアはしたが、人間扱いすることはなかったのだ。
しかし東條は違った。彼は歩兵たちを人間扱いし、あつい人情をかけた。それで、東條は「人情連隊長」な -
石原莞爾と東條英機:その45(1,708字)
2024-04-22 06:00110pt満州事変で石原莞爾が激動の中心にいた頃、東條英機は何をしていたのか?
彼は東京にいた。歩兵第一連隊長として、出世街道のほぼど真ん中を順調に歩んでいた。
一方で、東條は一夕会でもど真ん中を歩いている。一夕会のトップは押しも押されもしない永田鉄山だったが、東條はその直下のナンバーツーだった。そして、忙しい永田に代わって、一夕会の中心的な役割を担っていたのだ。いうならば「幹事役」だった。
ここまで見てきたように、一夕会は静かなるクーデターを目指した反逆者たちの集まりだ。彼らの目的は二つあって、一つは陸軍の合法的な乗っ取り(と改革)、もう一つは満蒙問題の解決である。
そうして一夕会のうち板垣・石原ラインが満蒙問題――すなわち満州事変の中心的役割を担っていたため、東京にいた永田・東條ラインが静かなるクーデター――すなわち陸軍の改革を担うようになっていった。
そこで東條は、歩兵第一連隊長という役職に就 -
石原莞爾と東條英機:その44(2,107字)
2024-04-15 06:00110pt石原莞爾はスイスから帰国した直後、仙台の歩兵第四連隊長に着任する。これは、心身の疲れから引退を申し出た石原を引きとどめるため、陸軍上層部が用意したポストだった。石原の故郷である山形に近い地で、石原の好きな歩兵たちとの仕事だ。そこで心身の疲れを癒してほしいという狙いがあった。
ここから分かるのは、このときの陸軍上層部は石原に対して破格の扱いをしていたということだ。それは、満州事変の成功を評価してのものだ。満州事変と満州国の成立は、陸軍としても強く望んでいた、心から嬉しいできごとだった。それを主導してくれた石原に対する感謝の気持ちもあって、この人事になった。
また、陸軍上層部は石原の「好み」もよく分かっていた。普通のエリートなら田舎の連隊長など絶対に望まない。もし配置されたら、「自分は左遷された」と大いに嘆くところだろう。
しかし石原は、陸軍に入ってから除隊するまで、一貫して出世を望まなかった
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