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マンガのはじまり:その23(1,776字)
2023-03-20 06:00110pt1近藤日出造というマンガ家がいた。今ではほとんど知る人のない存在だが、面白いことにこの人が、岡本一平を代表とする「戦前マンガ」と、手塚治虫を代表とする「戦後マンガ」をつなぐ、マンガ史上のマスターピースだ。
現在、多くの人がマンガを「手塚治虫が始めた」と思っている。それまで北澤楽天や岡本一平が営々と築き上げてきた戦前のマンガは、今ではすっかり忘却の彼方で、誰も読まないどころか存在さえなかったことにされている。
それは、手塚の存在やその影響があまりにも大きかったことや、彼のデビューが終戦直後でちょうど世の中が大きく変化していたことなどが相まって、そう見えているところも大きいだろう。しかしそれ以上に大きいのは、手塚のマンガが戦前のマンガとは大きく質を異にしていることだ。そこで、マンガの持っている遺伝子のようなものがガラリと入れ替わってしまったのだ。
もっとはっきりいうと、手塚がマンガを生まれ変わら -
マンガのはじまり:その22(1,473字)
2023-03-13 06:00110pt2一平がヨーロッパに移住したのは1929年(昭和4年)。そこから2年ほど在留し、1932年に帰国する。
その後、1936年に朝日新聞社を退き、仏教の研究に打ち込んだり、和歌や戯曲を書いたりするようになった。
この頃、かの子も川端康成の指導を仰ぎながら文学の道に突き進む。二人して芸術と格闘する時代に突入するのだ。
二人は、お金にこそ不自由することはなかったが、心は苦しかった。愛とは何か、また生きるとは何かということが分からず、もがき苦しんでいた。
長男の太郎はヨーロッパにとどまったままだったので、ずいぶんと疎遠になった。かの子は、小説を書きながら、一方では何人もの愛人たちと関係を持った。一平はそれらを全て許してはいたが、しかし自分の心の置き所というものがなかなか見つけられなかった。
それで一平は漫画の連載はほどほどに、仏教と文学にのめり込む。ところが1939年、その苦闘のパートナーであったかの -
マンガのはじまり:その21(1,741字)
2023-03-06 06:00110pt岡本一平は1929年5月(昭和4年)、『一平全集』を刊行する。これが予約だけで5万部も売れるほどの大ヒット。おかげで一挙にお金持ちになり、生活は一変する。一平43歳のときであった。
このすぐ後の同年12月にフランスに移住し、そこから約3年近く、ヨーロッパを周遊するのだ。しかもこのとき、一平は家族も連れていく。妻のかの子と息子の太郎に加え、かの子の愛人(しかも2人!)も連れていったので、計5人での移住となった。
このとき、一平は朝日新聞の記者でもあったから、フランスへは「特派員」という名目で行った。実際、1930年にロンドンで行われた海軍軍縮会議を取材するという目的もあった。
1929年は、ちょうど世界恐慌が起き、世界各国の経済が大混乱に陥っていた。そのため、どの国も戦争をするだけの余裕がなくなり、窮余の策として軍縮の調停を結ぶこととなったのだ。
恐慌は、もちろん日本にも襲いかかった。しかも -
マンガのはじまり:その20(1,721字)
2023-02-27 06:00110pt岡本一平は、朝日新聞で漫画記者を始めた頃はやはり美術学校出なだけあって。きっちり整った絵を描いていた。しかし性格もあってか、次第に簡素化、簡略化されていった。もっというと「イイカゲン」になっていった。
ただしそれは、文字通りの「良い加減」でもあった。マンガにとっては余計な情報がそぎ落とされ、多くの人が読みやすく、理解しやすくなっていったのだ。それで、すぐに広範な人気を獲得していった。
そもそも、岡本一平はフーテン気質で、良くも悪くも「芯」がなかった。美術学校時代から後に妻となるかの子との愛情に溺れ、勉強も仕事もそれほど一生懸命ではなかった。
しかし「不真面目」というのではない。子どもの頃から抜群に頭が良かったので、いろんなことを器用にこなせた。それで、なんでも「一生懸命」にやるのがバカらしくなるのだろう。すぐに結論が見えてしまって、忍耐が続かないのだ。
妻のかの子は、その逆であった。情熱的 -
マンガのはじまり:その19(1,551字)
2023-02-20 06:00110pt岡本一平は1912年(大正元年)にデビューすると、すぐに人気を博す。1914年(大正3年)には早くも初の単行本となる『探訪画趣』を出し、序文を漱石に書いてもらったこともあって、ヒットを記録する。
一平は1886年生まれだから、単行本を出したときは28歳だ。すでに妻子もおり、脂が乗っていた。以降は次々と単行本を出し、1929年(昭和4年)にはその名も『一平全集』という集大成を出す。これがなんと予約だけで5万部を記録し、一平の人気を決定づけた。このとき、一平43歳。
この印税で、一平は家族を連れてパリを拠点としたヨーロッパ漫遊の旅に出る。旅は3年にも及んだが、その間に日本は戦時体制が強まっていき、やがて一平も帰国を余儀なくされる。
帰国後も、一平は朝日新聞の記者として漫画を描き続けた。これは1936年(昭和11年)、一平50歳のときまで続けられる。
またこの間、小説や随筆、演劇作品などを手掛け -
マンガのはじまり:その18(1,692字)
2023-02-13 06:00110pt岡本一平は、今ではほとんど知る人がいない。しかし北澤楽天の後を継いで一大ムーブメントを生み出した、大正・昭和の大マンガ家である。マンガ史上のマスターピースだ。
そこでここでは、まずは岡本一平の生涯を簡単に概観してみたい。
岡本一平は1886年(明治19年)に、北海道函館で岡本家の長男として生まれる。北澤楽天は1876年(明治9年)の生まれなので、ちょうど10歳下だ。
父親は書家であり、その影響からか幼い頃から絵に親しむ。3歳のときに大阪、6歳のときに東京に移り住み、そこからずっと東京に暮らす。東京に移ってからは、狩野派の日本画を習っていた。
1903年(明治36年)に商工中学校を卒業後、西洋画を習い始める。1906年(明治39年)に東京美術学校西洋学科に進学し、本格的に絵の道に進んだ。
そこで同級生だった大貫カノ(岡本かの子)と知り合う。一平は1910年(明治43年)に東京美術学校を卒業し -
マンガのはじまり:その17(1,684字)
2023-02-06 06:00110pt『ノンキナトウサン』は1926年(大正15年)、作者の麻生豊がヨーロッパを歴訪するため、一旦連載終了になる。
――と、資料にはあるが、本当のところは執筆に行き詰まったからだろう。アイデアが枯れたのだ。そのことは、誰よりも作者の麻生豊が分かっていたはずだ。
麻生豊は1898年(明治31年)の生まれだ。だから、このとき28歳。ちょうど「ギャグが描きにくくなる年」でもある。
ずっと後の平成くらいになって、ようやく「消えたマンガ家」という概念が生まれる。若い頃にギャグマンガで超絶的なヒットを飛ばすと、その後さっぱりとマンガが描けなくなるケースが多いのだ。
これは、歌手やタレントにおける「一発屋」とは大きく意味が違う。歌手やタレントの場合、そのかかわったコンテンツがたまたま良かったということが多いのだが、「消えたマンガ家」の場合、そのヒットしているコンテンツが途中から面白くなくなっていくのだ。目に見 -
マンガのはじまり:その16(1,673字)
2023-01-30 06:00110pt『ノンキナトウサン』は、大正末期の関東大震災などに端を発する「不況」という世相にぴったりハマって、大ヒットとなった。それ以前の大正前半は、第一次世界大戦がもたらした輸出の拡大によって、維新以来の好況に沸いていた。そのいわば「大正バブル」の中でさまざまな文化が花開いた。
それは後に「大正元禄」と呼ばれるようになるのだが、その文化シーンをリードしていたのは当時の若者たち――モボ(モダンボーイ)とモガ(モダンガール)であった。彼らはアメリカ「狂騒の20年代」の影響を色濃く受けながら、あらゆるものを洒脱に、如才なく受け止めようとした。洗練された「ジョーク」で昇華しようとしたのだ。
だから、大正末期に訪れた不況においても、あたふたすることをよしとしなかった。軽く受け流し、虚勢を張った。『ノンキナトウサン』作者の麻生豊も、それを読んだ読者たちも、モボやモガであった。だから、『ノンキナトウサン』は不況を -
マンガのはじまり:その15(1,588字)
2023-01-23 06:00110pt北澤楽天が活躍したのは、25歳だった1901年(明治30年)から、55歳になった1930年(昭和5年)くらいまでの30年間だ。つまり明治末期から大正全部、そして昭和初期である。
こうしてみると、やはり「昭和不況」が、楽天のマンガ家人生にもとどめを刺したのだろう。ここは時代の大きな転換点で、50代の楽天はさすがに乗り越えられなかった。
それでも、30年間は第一線で活躍した。実に息の長いマンガ家であった。
ただ、例えば現代の人気マンガ家である井上雄彦や冨樫義博らも、すでにマンガ家生活30年以上だ。手塚治虫はちょうど40年くらいマンガの第一線で活躍した。
そう考えると、マンガ家というのは息の長い職業だ。老人になっても活躍できる、希有な表現媒体である。さいとう・たかをやみなもと太郎も死ぬまで現役だった。ちばてつやもまだ現役である。
楽天は、若くして福澤諭吉の時事新報で「時事漫画」を描き始め、人気を -
マンガのはじまり:その14(1,888字)
2023-01-16 06:00110pt宮武外骨という人がいる。
1867年(慶応3年)に香川県で生まれ、明治14年(1881年)、14歳のときに上京する。その後ジャーナリストを志し、新聞や雑誌を発行するようになる。
反骨精神に富んだ彼は、しきりに明治政府を批判した。特に1889年(明治22年)、22歳のとき、主宰する「頓知協会雑誌」という雑誌で、大日本帝国憲法発布式をパロディ化した戯画「頓知研法発布式」を掲載する。
頓知研法発布式
明治政府やそれが満を持して定めた日本最初の憲法はおろか、明治天皇まで文字通り「骸骨」に描いて茶化した過激な風刺画だ。これによって外骨は、不敬罪のかどで逮捕され、禁固3年の刑に処せられる。大変に重い処分だが、ここから約20年後の1910年(明治43年)に起きた大逆事件では、数多くの人が死刑になった。そのことを考えると、この頃はまだ時代が鷹揚だったといえよう。
この外骨は、1901年(明治34年)、34
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