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『山田孝之の東京都北区赤羽』が明らかにした〈映像表現〉の臨界点(松谷創一郎×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)
2018-06-04 07:00550pt
今回のPLANETSアーカイブスは、2015年に話題になったドラマ『山田孝之の東京都北区赤羽』をめぐる、松谷創一郎さんと宇野常寛の対談をお届けします。虚実ないまぜのフェイクドキュメンタリー的手法で話題となったこの作品の意義を、同時期にアメリカで話題となった映画『バードマン』などと比較しながら考えます。 ※この記事は2015年6月23日に配信した記事の再配信です。(初出:「サイゾー」2015年6月号(サイゾー))
▼作品紹介
『山田孝之の東京都北区赤羽』(Blu-ray BOX)
原作/清野とおる 監督/山下敦弘、松江哲明 構成/竹村武司 出演/山田孝之、清野とおるほか 放映/テレビ東京にて毎週金曜24:52~25:23(15年1~3月)
原作は、作者自身が生活する東京都北区赤羽で見聞きする出来事や、そこに住むクセの強い人々らを描いたコミックエッセイ。スランプに陥った山田孝之が、原作マンガを読んで感銘を受け、知人である山下敦弘に「赤羽に暮らす自分を撮影してほしい」と依頼する形で物語が始まる。
宇野 朝日新聞の連載コラムで、この作品について「フェイクドキュメンタリー最後の傑作」と書いたんですよ。それに対して、映像ディレクターの大根仁さんがテレビブロスの連載で「あれは果たしてフェイクだったのか?」と書いていた。それは「撮影に参加したら、山田孝之の様子がおかしかったから」ということだったんだけど、なんだか話が噛み合っていないと思った。ある程度まで作り込んで、ある程度はガチンコで生の反応を撮るのはフェイクドキュメンタリーの常套手段でしょう?
松谷 大根さんは「フェイク」という言葉に引っかかったんじゃないかな。『東京都北区赤羽』(以下『赤羽』)と同じく役者が主演しているフェイクドキュメンタリーで、『容疑者、ホアキン・フェニックス』【1】という映画がある。作中で主演のホアキンはぶくぶく太ってヒゲを生やして奇行に走ったりしているんだけど、演出があったにせよ、太ったことや奇行に走ったことは、事実として残る。山田孝之で言えば、現実にある北区赤羽に放り込まれ、そこで生きている生身の人たちと交流したのは紛れもない事実。そこはいくら山田孝之が芝居をしようとしても、ほころぶ瞬間が必ずあって、それこそが面白い。つまり、この手の作品を語るときに、嘘と本当がきっぱり分けられるようなイメージを持ってしまうこと自体がおかしい。ただそんなこと、大根さんは百も承知だと思うので、あえて内側の人間として番組のコンセプトに乗っかったのかもしれませんけどね。
【1】『容疑者、ホアキン・フェニックス』
監督/ケイシー・アフレック 出演/ホアキン・フェニックス 公開/2012年
『グラディエーター』などで知られる俳優ホアキン・フェニックスが、義弟と共に製作したフェイクドキュメンタリー作品。08年に突如歌手転向を宣言するところから始まり、ヒップホップに傾倒して髭面で奇行に走る姿を映し出す。
宇野 まぁ、とにかく僕が指摘したかったのはYouTubeで少し検索すれば世界中のリアルで面白い映像を無料で観賞できて、そしてその映像がどこまで真実かもわからない今にあって、作家が一生懸命どこまで“嘘”でどこまで“本当”かわからないものを作り上げて、そのグレーゾーンに面白さを見出すフェイクドキュメンタリー的な「映像」は明らかにその存在意義を後退させているってこと。そんな厳しい状況下で、山下・松江両監督はまだフェイクドキュメンタリーだからこそできるものを必死に探し当てようとしているわけなのだけど、要するにその答えとは、存在意義を失いつつある映像を撮ることの自意識を訴えることだったのだというのが僕の見解ですね。そしてこの作家たちの自意識は、作中で描かれる山田孝之の「演じる」ことをめぐる自意識の迷走と、その結果としての自分探しに重ね合わされている。「映像」というものが20世紀に持っていた魔力が解体されつつある時代に生きる、映像作家と映画俳優の迷いだけがリアルだという(笑)。
松谷 その点で、公開中の映画『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』【2】と『赤羽』は比較することができると思う。『バードマン』にはふたつの自己言及があって、ひとつはハリウッド文脈に対する俳優の自己言及。もうひとつは映画表現史への自己言及。僕は後者のほうが重要だと思う。この2年で、映画界には『ゼロ・グラビティ』と『インターステラー』という宇宙ものが2つあった。つまり、“現実”じゃないものを見せようと思うと、もう宇宙に行くしかなかった。もちろん宇宙は現実にあるんだけど、人が簡単には見られない究極として。さらに、ハリウッドではアメコミ大作やアニメが量産され、実際にディズニーは結果を出している。
【2】『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
監督/アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 出演/マイケル・キートンほか 公開中
かつてヒーロー映画『バードマン』で一世を風靡したが、現在は落ちぶれている俳優リーガン。自身が脚色した舞台で再起を図ろうとするが、そこに現れた才能ある男の存在や、家族との不仲に苦しみ、やがて彼は舞台の役柄に自己を投影し始める。アカデミー作品賞受賞。
映画表現にはリアリズムと非リアリズム(あるいは超リアリズム)のふたつの流れがあって、それが近寄ったり離れたりしながら進んできた。ここ最近は離れていたんだけど、今これを急速に結びつけようとする動きがあって、そのひとつが『ゼロ・グラビティ』の前半13分の長回し映像であり、同じ撮影監督のエマニュエル・ルベツキが撮った『バードマン』の、ワンカットで全部を撮り切る表現。非現実をリアリズムで表現しようとしていて、これは批評的だった。4K・8Kテレビの普及やそれに対応したカメラの低価格化で、映像の解像度の高さという映画の優位性すら崩れるときが近づいている。その中で映画は果たしてどうあるべきなのか、というときに、ハリウッドが出したひとつの回答が『バードマン』だとするなら、日本の回答は『赤羽』だったんじゃないか、と言ったら大げさすぎるかな。
宇野 そう、『バードマン』と『赤羽』はほぼ同じ問題意識に基づいていると思う。20世紀における「映像」は、リアリティの大規模共有装置だったわけじゃないですか。現実の、つまり三次元の体験は、特定の狭い共同体の中のコンテクストをわかっていないと共有できないけれど、映像という二次元に置き直した現実、リアルではなくリアリティであれば広い人間が共有できる。だからこそ映像は社会統合に利用されてきたし、劇映画はずっと自然主義的なリアリズムに基づいた作品を中心に展開されてきた。だけど現代の情報環境はこの前提を崩しつつある。インターネットの登場は、誰もが同じ映像を見ることで大規模な社会が文脈を共有する時代を終わらせつつあるし、作家が作り込んだ映像よりも、中学生がスマホで撮影してネットに上げた映像のほうがよっぽどリアルに感じることができる現実がある。だからこそ劇映画に対する大衆の欲望は現実には撮れないもの・存在しないものを映した表現に向かい、ハリウッドではアニメと特撮ばかりが作られるようになった。そしてアニメや特撮の持つファンタジー的なリアリティのほうが、国家や地域の壁を超えて広く共有されやすい現実が出現している。
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