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働き方改革とは、働く場を変えることでもない ──(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革 第3回〈リニューアル配信〉
2021-05-31 07:00550pt
(ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。この数年間の「働き方改革」ブームで盛り上がったのが、フリーアドレスオフィスやICT活用などの「働く環境」の改革でした。しかし、多くの現場で、必ずしもその試みが奏功したとは言えない状況があります。なぜ「働く場」を変えてもうまくいかないのか、鋭くメスを入れていきます。
(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第3回 働き方改革とは、働く場を変えることでもない
あらすじ
弊社の事業の一つは、ワークプレイスの改革によるワークスタイル改革を支援することです。 しかし、いえ、だからこそ、私はこう思います。「オフィスを変えただけで働き方は変わらない」と。 多くの企業で、「フリーアドレスを導入したけれど、使われない・成果が出ない」というお悩みを聞きます。さらに言えば、ICTツールを導入しただけでもなかなか働き方は変わらないというケースも多いようです。 本節では、「私の働き方改革」を推進する上で、物理的環境(場)の改革だけでは不足であることを事例で示していき、その理由についても考察したいと思います。
フリーアドレスブームの到来
長時間労働の是正とは別として、もう一つ、働き方改革ブームで熱を帯びるようになった取り組みがあります。すなわち、「フリーアドレスオフィス」の乱立です。「フリーアドレス」、つまり、デスクは個人に紐付けず、毎日自分の席を自由に選んで働けるというオフィス運用スタイルです。以前から営業部門など自席にいる時間が短い職種では、オフィススペースの効率化や賃料削減を目的として、フリーアドレスオフィスがちらほら導入されていました。 それがこの働き方改革ブームの中で、「新しい働き方」として脚光があたり、民間企業も自治体も「働き方改革といえばフリーアドレス」といった感じで、オフィスのデスクから引き出しを撤廃し、椅子の数は従業員数よりも少ない数に設定して、従業員は朝来ると空いている席を探して毎日席替えしながら働くことが「改革的」であるということで、一部でもてはやされるようになりました。 もちろん当社にとってはありがたいブームでした。従来型オフィスから脱皮してフリーアドレスオフィスへの改築が進むということは、オフィス家具の売り上げアップにつながるわけですから。
フリーアドレスオフィスが使われないというお悩みもブームに
しかしながら、そのブームに比例して私たちのところに、「フリーアドレスにしたのに、皆いつも同じ席に座るので困っている」「フリーアドレスにしたら、部下が管理職から離れて座るようになって、チームの会話が減って困っている」「フリーアドレスで期待した、チーム間のコミュニケーションが起こらない」というご相談も増えるようになりました。 最も多いご相談が「フリーアドレスオフィスなのにフリーアドレスな働き方にならなかった」というものです。フリーアドレスなオフィスになったはずなのにいつの間にか皆自分なりの「自分の席」を見つけ出して固定席になっていき、結果として集中エリアやコミュニケーションエリアが使われないままの状態になっているケースが多いです。 さらには、本来フリーアドレスなオフィスでは「自分の席」を持たないため、デスクの引き出しをなくして、書類などは個人ロッカーに都度片付ける働き方になるのですが、「毎回片付けをするのは生産性を下げる」と言い出す人が現れ、足元に引き出し代わりに段ボール箱を設置し、そこに書類が収納されていくケースもあります。 こうした「フリーアドレスの固定席化」はわかりやすい問題ですが、一見フリーアドレスな働き方ができていても、働き方改革視点で見ると「実は根っこは変わっていない」というケースもあります。
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Daily PLANETS 2021年5月第5週のハイライト
2021-05-29 09:00おはようございます、PLANETS編集部です。
今朝は今週のDaily PLANETSで配信した5記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの配信の概要をご紹介します。
5月も終わりに近づき、都内では暖かい陽気が続きましたがいかがお過ごしでしょうか。
初夏の陽射しの爽やかな季節、PLANETSのコンテンツでお楽しみいただければ幸いです。
今週のハイライト
5/24(月)【連載】(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第2回 働き方改革は、誰かがしてくれるものではない
(ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。現在の「働き方改革」の現場で、ほとんどのケース -
日本アニメのグローカリゼーション ── アジア国際共同製作の現場から(後編)| 三原龍太郎
2021-05-28 07:00550pt
中小企業の海外進出が専門の明治大学・奥山雅之教授とNPO法人ZESDAによるシリーズ連載「グローカルビジネスのすすめ」。地方が海外と直接ビジネスを展開していくための方法論を、さまざまな分野での実践から学ぶ研究会の成果を共有していきます。今回は、アジア地域を中心とした日本アニメのグローバルビジネス展開について、文化人類学者の三原龍太郎さんが、数々の国際共同製作プロジェクトへの参与調査を通じて得られた知見にもとづく分析と提言を、前後編に分けて行います。後編では、実際にアジア地域でのアニメ作品の国際共同製作プロジェクトにフィールドワーカーとして参与する中で見えてきた「ブローカー」役の重要性と、今後の海外での創造産業の振興に向けて必要なアプローチを展望します。 ※本記事は、去る2021年4月7日に誤配信した同名記事の完全版です。著者ならびに読者の皆様には、多大なご迷惑をおかけしましたことを改めてお詫び申し上げます。
本メールマガジンにて連載中の「グローカルビジネスのすすめ」の書籍が、紫洲書院より発売中です。各分野の第一線で活躍する人々の知識と経験とともに、グローカルビジネスの事例を豊富に収めた、日本初のグローカルビジネス実践マニュアルです。 ご注文はこちらから!
グローカルビジネスのすすめ#05 日本アニメのグローカリゼーション ── アジア国際共同製作の現場から(後編)
アニメのグローバル化を理解する視角
前編では、日本アニメのアジア地域へのグローカリゼーションに関する私自身の研究についてご紹介しました。それでは、このような研究は、アニメのグローバル化に関してどのような新しい視角を提供できるでしょうか? 未だ探究の途中ではありますが、現時点で暫定的に考えていることをご紹介したいと思います。
私の研究は、「誰が、どのようにしてアニメをグローバル化させたのか?」という文化人類学的な問いに対しては、以下の新しい視角を提供できるのではないか、と考えています。すなわち、前編でご紹介した通り、これまでの研究では、当該の問いに対して「ファンとクリエイターの利他的な情熱がアニメをグローバル化させた」という趣旨の議論を展開してきました。それに対して、私の研究──イケヤマさんのインド市場向けアニメマーチャンダイズベンチャーの奮闘や、日本のアニメ業界人が中国やインドをはじめとしたアジア諸国のパートナーと共同でアニメ作品を作ろうとしたときに生じる様々な軋轢とそれを解決しようとするプロデューサーの努力に関するフィールドワーク──は、「ビジネス主体が関係者の商業的利害を仲介し、対立を乗り越えることでアニメをグローバル化させた」という全く別の視角を提供できるのではないか、ということです。
これまで議論してきたこととの関連でもう少し別の言い方をすると、要は、アニメのグローバル化はブローカーの活動によって推進されるという構造があり、それはアニメのグローバル化のビジネス面に焦点を当てることで初めて見えてくるのではないか(逆に言えば、クリエイターやファンだけに焦点を当てていると見えにくくなってしまうのではないか)、ということです。そしてそのことを、アニメのアジア地域へのグローカリゼーションに係る私のフィールドワークが示している、と。
イケヤマさんのベンチャービジネスや、日本とアジアの国際共同製作プロジェクトにフィールドワーカーとして関わらせていただく中で実感(というか痛感)したのは、「アニメのグローバル化は、放っておいてもひとりでに起こるようなものではない」という、ある意味当たり前の事実です。
日本でのアニメビジネスのやり方と、ほかのアジア諸国におけるアニメ関連ビジネスのやり方は大きく異なるケースが多いので、日本のアニメ業界人はそういう「馴染みのない」海外の相手とは基本的にビジネスをやりたがりません。そういった相手と不用意に組んでしまえば、いくらアジア地域が有望と言っても、お互いの流儀が相容れないものであれば結局プロジェクトが空中分解してしまう可能性が大きいので、そんなリスキーなプロジェクトに時間とお金を費やすくらいなら、自分たちにとって「馴染みのある」国内の相手と日本国内でビジネスをやっておく方が無難だ、というわけです。お互いに異なる彼我のアニメの商習慣に関する「俺たち」対「奴ら」という二項対立的な軋轢がアニメのグローバル化を阻む障壁となっている、と言い換えることもできるかと思います。
アニメのグローバル化とは、誰かが汗をかいてこの軋轢を乗り越え、「俺たち」と「奴ら」との間を取り持ち、両者をつなぐことで初めて成立するものである、ということを私は自身のフィールドワークを通じて知ることができました。要は、アニメのグローバル化とは「起こっている」ものでなくて「起こす」ものだということです。 これはある意味(特に現場で日々アニメのグローバル化に取り組んでいる実務家の方々にとっては)言われるまでもないほど当たり前の話だろうと思いますが、これまでのアニメ研究のように、つながっていることが所与のインターネット空間におけるファンやクリエイターの和気藹々とした協働だけを見ていると、この「当たり前」には気づきにくいのかもしれません。お互いの利害がむき出しでぶつかるアニメのビジネス面を直視することで、初めて見えてくるものなのかもしれません。
実際、イケヤマさんのマーチャンダイジングベンチャービジネスも、日本とアジアのアニメ国際共同製作も、それを進めるにあたっては軋轢の連続でした。プロジェクトを進めるうえでのあらゆるマイルストーンで、商習慣上の軋轢が生じたと言っても過言ではないと思います。 例えば、何らかの売買契約を結ぶときに、まず最初に高い金額を吹っかけてから現実的な金額に落とし込んでいくという交渉スタイルは受け入れ可能でしょうか? また、金額を値切ろうとしたり、納期をどんどん遅らせたり、前もって計画を立てずに泥縄式にものごとを進めるような仕事の仕方はどうでしょうか? イケヤマさんのケースでは、インド側プレイヤーのこのようなビヘイビアが何度も問題になりました。これらの仕事の仕方は、日本のアニメ産業界の相場観からすると「信用ならない」し、場合によってはとても「無礼」なものに映ります。日本側とインド側が協力して日印間のアニメマーチャンダイジングプラットフォームを構築しようとする中で、インド側がこのような態度を取るたびに日本側との軋轢が生じ、決裂の危険にさらされましたし、実際に決裂したインド側プレイヤーも出ました。
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日本アニメのグローカリゼーション ── アジア国際共同製作の現場から(前編)| 三原龍太郎
2021-05-27 07:00550pt
中小企業の海外進出が専門の明治大学・奥山雅之教授とNPO法人ZESDAによるシリーズ連載「グローカルビジネスのすすめ」。地方が海外と直接ビジネスを展開していくための方法論を、さまざまな分野での実践から学ぶ研究会の成果を共有していきます。今回は、アジア地域を中心とした日本アニメのグローバルビジネス展開について、文化人類学者の三原龍太郎さんが、数々の国際共同製作プロジェクトへの参与調査を通じて得られた知見にもとづく分析と提言を、前後編に分けて行います。前編では、アニメをはじめとする日本のクリエイティブ産業の海外進出をめぐる研究が従来どのような観点からなされてきたのか、そこにどんな見落としが潜んでいたのかを検証していきます。 ※本記事は、去る2021年4月7日に誤配信した同名記事の完全版です。著者ならびに読者の皆様には、多大なご迷惑をおかけしましたことを改めてお詫び申し上げます。
本メールマガジンにて連載中の「グローカルビジネスのすすめ」の書籍が、紫洲書院より発売中です。各分野の第一線で活躍する人々の知識と経験とともに、グローカルビジネスの事例を豊富に収めた、日本初のグローカルビジネス実践マニュアルです。 ご注文はこちらから!
グローカルビジネスのすすめ#05 日本アニメのグローカリゼーション ── アジア国際共同製作の現場から(前編)
近年、新たな市場を求めて地方の企業が国外市場へ事業展開する動きが活発になっています。日本経済の成熟化もあり、各地域がグローバルな視点で「外から」稼いでいくことは地方創生を果たしていくうえでも重要です。しかし、地方の中小企業が国外市場を正確に捉えて持続可能な事業展開を行うことは、人材の制約、ITスキル、カントリーリスク等、一般的にはまだまだハードルが高いのが現実です。 本連載では、「地域資源を活用した製品・サービスによってグローバル市場へ展開するビジネス」を「グローカルビジネス」と呼び、地方が海外と直接ビジネスを展開していくための方法論を、さまざまな分野での実践の事例を通じて学ぶ研究会の成果を共有します。 (詳しくは第1回「序論:地方創生の鍵を握るグローカルビジネス」をご参照ください。)
今回は、アカデミアの立場からアニメの国際共同製作のエコシステムを研究する、三原龍太郎氏の登場です。海外でも人気の高い日本のアニメ作品ですが、そもそも「誰が、どのようにして」作品をグローバル化させたのでしょうか? これまでのアカデミアでは、ファンベースを基軸にアニメの海外展開を捉える姿勢が一般的でしたが、商業的な折衝を行うキーパーソンに注目すると見方が変わります。アニメの国際共同製作の現場を数多く見てきた経験を踏まえて、日本アニメの現状と未来のシナリオを考えます。 (明治大学 奥山雅之)
はじめに
本稿では、日本アニメのグローカリゼーション、とりわけそのアジア国際共同製作の現場というテーマについて論じたいと思います。アニメのグローバル化が現在どのような状況にあるのか、中でも特にアジアという地域(ローカル)との関係で見た場合、それを理解する視角としてどのようなものがあり、また今後の展望はどのようなものであり得るか、さらに私自身がそのテーマに対してどのように関わってきたのか等について議論します。
まずは簡単に自己紹介を。私自身のアカデミックバックグラウンドは文化人類学です。日本の創造産業(クリエイティブ産業)が海外に展開するときに何が起こるのかということを、フィールドワークといういわば現場密着取材の方法論で研究しています。創造産業には、アニメをはじめとして、映画、食、ファッション、デザインなど、いわゆるクリエイティビティ(創造性)というものが競争力の源泉になっている産業が幅広く含まれます。そのような日本の創造産業の海外展開はいかにして可能か? というのが自分の大きな研究トピックで、現在は創造産業の中でもアニメ、地域としてはアジアに焦点を当て、アニメがアジア地域へどのように展開しているかを調査しています。
その際の理論的着眼点は「ブローカー」です。何らかのビジネスが海外に展開する(グローバル化する)際にはさまざまな個人や組織が関わりますが、「ブローカー」とはその中でも特に立場の異なる人々の間を仲介する商社的・起業家的役割を果たすプレイヤーのことを指します。ビジネスが国境を超えて展開するような場合は、彼我の商習慣の違いが原因でものごとがスムーズに進まないといったことがしばしば起こります。そのようなときに両者の間に入って双方のやりとりをとりもつことでプロセスを円滑化するのがブローカーの役割のひとつです。そのような役割を果たす「主体」に注目した場合は「ブローカー」(broker)となり、「行為」に注目する場合は「ブローカレッジ」(brokerage)となります。このような主体・行為としてのブローカーについては、英語圏の文化人類学(や社会学)の分野では分厚い研究の蓄積がある一方、日本語としてしっくりくる訳はあまりないというのが現状なのではないかと思われます。訳すとすれば「仲介者」といった形になるかと思いますが、ここでは英語をそのままカタカナ化した「ブローカー」を使います。
アニメが海外に展開する際にもこのような「ブローカー」がカギとなる役割を果たしているのではないか、というのが自分の発想の出発点です。アニメのグローバル化においてブローカー的役割を果たしているのは誰で、そういった個人・組織は日々の海外展開実務の中で具体的にどういった仲介者的ふるまいをしているのか、そしてそれが実際の海外展開のパフォーマンスにどういったインパクトを与えているのか、といったことを明らかにしたいと思っており、そのために具体的なアニメの海外展開プロジェクトのフィールドワークを行っている、という格好です。この発想に基づき、博士論文ではアニメのマーチャンダイジングがインドに展開する現場のフィールドワークを行い、また現在では日本と中国及びそれ以外のアジア諸国との間の複数のアニメ作品の国際共同製作の現場に入っています。
グローバルにエンカウントするアニメ
アニメのグローバル化は現在どのような状況にあるのでしょうか? 私がアニメの海外展開に関心を持ち研究を開始してから10年ほどが経過しました。その間、世界各地のアニメの現場に足を運ぶ中で肌感覚として感じているのは、アニメが世界に発現する場が、各地で定期的に開催されるアニメ関連のイベントの会場の中という限定的なものから次第にその外に浸み出し、広く世界の日常風景の中に入り込みつつあるのではないか、ということです。
アニメ関連のイベントは世界各地で活況を呈しています。私が海外のアニメ関連イベントに参加するようになったのは、2007年に米国のコーネル大学(文化人類学修士課程)に留学してからです。留学期間中(2007年~2009年)に、修士論文のフィールドワークのためにアメリカ中のアニメ関連イベント(「アニメコンベンション」と呼ばれています)を回りました。ロサンゼルスのアニメエキスポ、ボルチモアのオタコン、ニューヨークのニューヨークアニメフェスティバル、ニュージャージーのアニメネクストなどです。特に2008年のオタコンで、現在も活躍するアニソン歌手グループのJAM Projectのライブに参加し、彼らの圧倒的なパフォーマンスと会場の熱狂を体感したことが強く印象に残っています。またサンディエゴで毎年開催されているコミコン(Comic-Con International)にも参加しました。コミコンはアメコミ中心のイベントであり、日本のアニメがメインというわけではないのですが、その中にあっても、会場でピカチュウの風船が大きく展示されていたのが印象的でした。
2013年に英国のオックスフォード大学(文化人類学博士課程)に留学してからは、欧州及び調査先のインドのアニメ関連イベントに参加する機会を得ました。2014年に、スイスのモントルーというレマン湖畔のリゾート地で、「ポリマンガ」というアニメ関連イベントに参加しました。ポリマンガはその年、アニメ監督の吉浦康裕さんを日本からゲストとして招待し、同監督の劇場アニメ『サカサマのパテマ』をはじめとした各作品の上映会や、彼のステージトークショーなどを開催したのですが、私は英国からスイス入りして、吉浦監督がポリマンガに参加する際の現地でのアテンドを担当しました。作品上映やトークショーは大きな会場がいっぱいになるほどの盛況で、スイスのこのような決して大都市とは言えない場所でも日本アニメに関する感度やアンテナがこれほどまでに高いのかと感銘を受けました。
ポリマンガでもう一つ印象に残っているのはトニー・ヴァレントさんというマンガ家と出会ったことです。彼は会場の物販エリアで自身のマンガ作品である『ラディアン』を販売していました。アートワークは完全に日本のマンガであるにもかかわらず、言語はフランス語でフランスの出版社から出版されており、フランス語圏で流通しているとのことでした。マンガの「本家」たる日本から遠く離れて、ある意味日本とは全く関係のないところでマンガのエコノミーが成立していることに強い衝撃を受けました。その場で第1巻を購入し(フランス語なので私には読めないのですが)、ヴァレントさんにその購入した第1巻の裏表紙に本作のヒロインであるメリのイラストを描いてもらいました。その後ヴァレントさんとは残念ながら交流の機会はなかったのですが(なので私が一方的に覚えているだけなのですが)、しばらくして『ラディアン』の邦訳が日本で出版され、また日本でのテレビアニメシリーズも開始されたというニュースに接したときは、「あのときの『ラディアン』が!」と一人で勝手に興奮してしまいました。メリのイラスト入りのフランス語版『ラディアン』は今でも私の宝物です。
▲トニー・ヴァレント『ラディアン』邦訳版
博士論文のためのフィールドワークでインドのアニメ事情について調査していた際も、現地の様々なアニメ関連イベントに参加する機会がありました。デリーやムンバイ、ベンガルール(旧バンガロール)といった主要都市だけでなく、一部の地方都市でもアニメイベントが活況を呈していたことに驚きました。 これは私自身が参加したわけではなく、実際に参加されたフィールドワーク先の方から伺った話なのですが、インド北東部にあるミゾラム州アイゾールというミャンマーとの国境地帯にある地方都市でもアニメイベントが開催され盛況だったそうです。この地域は民族・文化的にはむしろ東南アジアの方に近く、インド「中央」のいわばヒンドゥー的な文化圏からは「遠い」ところなのだそうですが、国民国家的枠組みの下では「インド」だが文化的には「中央」の影響が小さいこういった地域に、日本のアニメが、その「すきま」を満たすようにして当地の若者文化として浸透しているとのことでした。 同じくインド北東部のナガランド州の若者が当地でアニメイベントを開催するために奮闘するドキュメンタリー番組(『Japan in Nagaland』)も制作されたほどで(私も取材を受けました)、アニメのグローバル化にはこのような態様もあるのか、と非常に感銘を受けました。
このように、アメリカ、欧州、インドといった世界各地のアニメ関連イベントに焦点を絞ってみても、アニメのグローバル化という事象がいかに広く多様に進行しているかが浮き彫りになるかと思います。 ただ、前述の通り、現在のアニメはそういったイベント会場の枠を超えて、現地の日常生活空間の中にまで広がってきているのではないかというのが私自身の肌感覚です。わざわざアニメ関連イベントの会場まで足を運ばなくとも、海外で普通に生活していて、街角や公共交通機関、スーパーマーケットといった何気ない日常生活空間の中で、思いがけず唐突にアニメ(的なもの)と遭遇(エンカウント)する(してしまう)機会が増えてきたのではないか、と言い換えてもいいかもしれません。
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読書のつづき [二〇二〇年十二月]年の終り|大見崇晴
2021-05-26 07:00550pt
会社員生活のかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動する大見崇晴さんが、日々の読書からの随想をディープに綴っていく日記連載「読書のつづき」。世界が翻弄された一年も淡々と暮れてゆく二〇二〇年十二月。ひたすら残念感ばかりが伝えられる菅政権まわりの仕様も無さに嘆息する一方で、小松政夫、なかにし礼、林家こん平ら昭和の芸事師たちの物故を寂しく偲ぶ年の終り。正宗白鳥や橋本治、ピーター・ウィンチら十冊には絞れなかった年間ベストの読書を振り返りながら、歌うたいの地金が値踏みされる無観客の紅白で行く年を見送ります。
大見崇晴 読書のつづき[二〇二〇年十二月]年の終り
十二月三日(木)
菅政権の内閣参与がNHKのEテレ廃止を提言しているとのこと。この政権は教育を何だと思っているのか。呆れて物も言えない。それどころか、周波数帯を削減して何を実現するのか。BSCSといったデジタル放送は日本を含め世界的に求められていない。スポーツの放送ならDAZN、それ以外の映像コンテンツはNetflixやDisney+などインターネット配信が活況である。いまごろデジタル放送にこだわるような内閣参与がいる政権だと考えると、これから支持というのは下がり続けるだろう。どれだけトレンドに遅れているのだ。どうせ、NHKから国民を守る党が世間で話題になっているから、その調子で商材に使えると踏んだのだろう。浅はかにもほどがあるが、これがいまの政府の中枢を締めているのだから、愕然とせざるを得ない。
十二月四日(金)
大村愛知県知事へのリコール運動、その署名が「知事リコール署名に不正疑惑…「同一人物が複数書いた疑い」 住所に向かうと「書いていない」の声も」という記事が出てきている。これが事実であれば、運動に参加していた河村名古屋市長、高須克弥氏、その彼をマンガに描いていた西原理恵子氏にはちゃんと責任を負ってほしい。茶化して笑いにするのだけは勘弁してほしい。そういう子供じみたことを大人がするから、政治が停滞しているのだ。
十二月五日(土)
アメリカでは生活保護もなく、餓死しているひとが増えているとの報。
十二月六日(日)
「憲政の神様」咢堂尾崎行雄の洋館解体を回避させたのが山下和美先生だと知って、大いに驚くと同時に納得をする。山下和美先生のマンガは『摩天楼のバーディー』から読み始め、『天才 柳沢教授の生活』を愛読していたが、『数寄です! 』ではそれまでと打って変わってのエッセイコミックで、これが山下先生ご自身が終の棲家を数寄屋建築にするため建築家に相談して実現に取り組むというもので、題材自体が奇天烈かつ常識人である山下先生に突拍子もない決断を導くのが数奇な運命で、愉しく読んでいた。この連載(というか建築)を通じて山下先生は建築業界全般に明るくなっていたので、支援運動を踏み切りやすかったのだろう(それでも大変には間違いない)。
もとは少女マンガを執筆していたが、青年マンガに転向して成功を収めた山下先生は、そのコマの割り方が驚くほど理知的で、『BOY』に収録された短編だったと思うが、そのアクションシーンには関心させられたことがある。また、山下先生は後進のマンガ家さんへの視線が温かいと私は思っており、海野つなみ先生の『逃げるは恥だが役に立つ』が講談社漫画賞を受賞したときの講評が、とても慈愛に満ちたものだったように記憶している。
十二月七日(月)
ポリティカル・コレクトネスを主張するひとたちを批判するために、文化大革命やポル・ポトを持ち出しているひとたちがいるのをネット上で見掛けて、このひとたちがどれだけ文化大革命について知っているだろうと呆れてしまった。たとえば、岩波現代文庫で出ている『文化大革命十年史』、扶桑社から出ていた『毛沢東秘録』、文春文庫で出ている『周恩来秘録』などはちゃんと目を通したのだろうか。文化大革命というのはイデオロギー的な闘争という面よりも、「大躍進」で失脚した毛沢東が権力を奪還するために若者(紅衛兵)を利用した政治闘争だったというのが今日では一般的な理解であるように思うが、そのような最低限の知識を本当に持ち合わせているのだろうか。いるのであれば、ポリティカル・コレクトネスを用いて政治闘争で打ち勝とうとする首領の名前ぐらいは挙げてほしいが、そんな芸当はできないだろう。「なんだかわからないが、共産主義に結びつけて批判すれば、相手を黙らせることができる」程度の動物的反射で口にしているのだろうから、そうした風潮に乗るというのは、これぞわかりやすい日本の反知性主義だとは思う。こういう発言をするひとは、地雷を踏んでいって周囲を巻き込むので、できれば身近にいてほしくない。
十二月八日(火)
汚職が報じられていた西川公也元農水大臣が内閣官房参与を辞任。
ユニバーサル・ミュージックが、ボブ・ディランの版権を買い取ったとのこと。気づいてみれば、ユニバーサル・ミュージックはアメリカ企業ではなくフランスの企業になっていた。ノーベル文学賞授賞者の作品を管理するのが、文学の国フランスの企業だと考えると、なんだか納得をしてしまう。調べてみると、配信ビジネスがマネタイズできるようになったこともあり、近年ミュージシャンが版権を売ることが増えているらしい。
十二月九日(水)
高山《学魔》宏の翻訳となる『ガリヴァー旅行記』が刊行されるとの報。予定にはあったが、出ないままで終わるのではないかと思っていた。積ん読が多いから読む時間が取れるかわからないけれど、人に薦めたくなる本だ。
「CREA」が季刊誌になるとのこと。
サントリー文化財団から『別冊アステイオン それぞれの山崎正和』が出版されるとのこと。「日本のダニエル・ベル」山崎正和氏の仕事は振り返るに値すると思っている。私の世代は彼の多面的な仕事を軽視している気がする。
十二月一〇日(木)
読売新聞が今週、あえての自民党派閥特集を組んでいたので、これを味読させていただいた。読み甲斐がある記事というのは、こういうものだな。
NHKで放送されていた「浦沢直樹の漫勉neo」、今日はチェーザレ・ボルジアをマンガ化している惣領冬実先生の特集。惣領冬実先生の少女マンガは多く読んでいる私としては、小学館で「上がり」になりかかっていたころに連載していたマンガのスピンアウトものとして『天然の娘さん』を描いていたのだが、これがとても面白かったのだ。小学館は単行本にして六巻ぐらいのラブコメを描くようにマンガ家に連載を任せる傾向があるのだが、惣領冬実先生は破綻なく達成したあと、その脇役たちの人生が戦中・戦後の女性の自立に関わるものだったと三代記を描き出してしまうのである。こんなものを描いたら、ラブコメに戻れなくなってしまう。次に何を描くのだろうと思ったら、講談社に移籍をして『MARS』という大時代、古めかしい大ロマンみたいな少女マンガを描かれたので大変に驚いた。
その『MARS』のあとに、先生は何を描くのだろうと思ったら、どんどん大ロマンを追求していって、チェーザレ・ボルジアである。しかも「漫勉」によると、他にも描きたい大ロマンがあるという。読者としては嬉しい限りである。
十二月一一日(金)
小松政夫さん死去。近年、NHKが自伝をドラマ化するなどして、もしやという気がしていたが、ご本人が出演している場面ではお元気そうだったので油断をしていた。ショックが大きい。伊東四朗さんと刑事ドラマで共演したとき、犯人役を見事に演じていて、ちっとも演技が鈍っているようには見えなかった。闘病しながらの出演だったようで、どれだけ気を張ってカメラに向き合ってこられたのだろう。
十二月一二日(土)
第一作が出た頃から愛読している友田とんさんが、NHK総合でも名前が呼ばれたというので、喜ばしい。
十二月一三日(日)
iPhoneを不如意で落下させたところ、カメラが壊れてしまった。このCOVID-19の感染拡大と、五輪開催にまごつく政府のダブルパンチで、第五世代用のアンテナ設置や周波数帯の普及は来年の下半期から、ようやく本格的になるだろう。そう考えると、いまiPhoneを買い替えてもメリットはなさそうだから、当分は故障したまま使い続けるのがベターだろう。カメラが使えないのは難儀だが。やれやれ。
和田アキ子はなぜBIG3のことを「たけちゃん、さんまちゃん、タモちゃん」と「ちゃん付け」で呼ぶのに、所ジョージについては「所っち」と呼ぶのだろう。謎である。
十二月一四日(月)
北海道でCOVID-19の感染が拡大。また、神奈川で軽症と診断された患者の死亡が報道されている。これでもって、ちかぢか緊急事態宣言を発出することになるだろう。
読売新聞の各国でのデジタル規制法案特集が面白い。
紀平英作『ニュースクール』を読み直し。
「元TBSアナ・久保田智子さん、復職と特別養子縁組で母になったことを報告」というニュースがあって熟読した。女性に限らず大学に戻ったのちの復職、また養子を受け入れることなどは、少子化の日本ではこれから注目せざるを得ない。他人事ではないのである。
ジョン・ル・カレの死去のニュースを聴いて、何か本を買おうかと思う。バカン、アンブラー、モーム、グレアム・グリーン、リテルと大抵のスパイ物作家の小説を一作は読んでいるのに、ジョン・ル・カレだけ一冊も読んでないのである(明らかに少数派だと思うが)。
帰宅後、「THE W」を見る。Aマッソのネタは、奇を衒いすぎではないだろうか。感心はするのだが、笑いに繋がるかと言うと、遠回りしている気がする。吉住が面白かったので、そのまま優勝してほっとした。
十二月一五日(火)
スヌープ・ドギー・ドッグがコロナビールと巨額契約との報に大笑いしてしまう。このひとは大麻やジンや依存性が高い(彼が住む国では)合法の奢侈物のスポークスマンじみてきている。いやスポークスマンというよりは、それらにバッチリはまっているひとというか。
十二月一六日(水)
地頭力という単語を見かけるたびに「じとうりょく」と読んでしまう。「泣く子と地頭には勝てぬ」の、あの地頭である。
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『冒険少年』と大人を再生する装置としてのノスタルジー|碇本学
2021-05-25 07:00550pt
ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回は、「ビッグコミックオリジナル」で1998〜2005年の7年間にわたって掲載されたシリーズ連載をまとめたオムニバス短編集『冒険少年』を取り上げます。心のどこかに「少年」を引きずる男たちが、様々なシチュエーションで時を超えて過去の自分の思いと向き合う7篇の物語に描かれた「大人」像を辿ります。
碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第17回 『冒険少年』と大人を再生する装置としてのノスタルジー
『じんべえ』から始まった年1回連載という珍しい連載の形
今回取り上げるオムニバス短編集『冒険少年』は「ビッグコミックオリジナル」で連載されたものであるが、連載期間は1998年から2005年と連載期間としては長尺のものとなっている。実はあだち充はこの『冒険少年』の前にも「ビッグコミックオリジナル」で、1992年から1997年の間に不定期掲載という形で『じんべえ』を連載していた。
『じんべえ』については『みゆき』について書いた際に少しだけ紹介しているが、改めて連載の経緯を説明しておこう。 『みゆき』は「少年ビッグコミック」で1980年から1984年まで連載されたあだち充の初期大ヒットラブコメ作品であり、「血の繋がらない」兄と妹というシチュエーションはのちに多くのフォロワー作品や漫画だけではなく後世へも影響を与えることになった。その際の担当編集者は亀井修であり、彼は1995年には「週刊少年サンデー」編集部部長、2002年には小学館取締役、2006年からは小学館常務取締役となっている。 ちなみに2009年から発行された「ゲッサン」を創刊する際の企画者であり、創刊時より編集長代理を務めていた編集者の市原武法(二代目「ゲッサン」編集長、あだち充『KATSU!』『クロスゲーム』『QあんどA』『MIX』の担当編集者)は亀井から「『ゲッサン』を創刊するなら、あだち充の連載を取れ」と言われて頭を抱えたという話がある。当時のあだちは「少年サンデー」で『クロスゲーム』を連載中だったからだ。 亀井のその一言がなければ、現在「ゲッサン」で連載中の『MIX』も生まれていなかった可能性もあり、あだち充という漫画家の人生を大きく変えた編集者のひとりが亀井修と言える。
『みゆき』の大ヒットによって、一度は「週刊少年サンデー」を放逐されたあだちは呼び戻されるかたちとなり、連載が始まったのが国民的な大ヒットとなった野球ラブコメ漫画『タッチ』だった。それ以降あだち充は高橋留美子と共に同誌の二枚看板となって「少年サンデー」を代表する漫画家となっていったのは周知の事実だろう。そういう背景があったため、あだち充は「週刊少年サンデー」に主軸をおいて活動していたのでほぼ年に1回という不定期掲載とはいえ、『じんべえ』は数少ない他誌掲載連載作品という珍しいものだった。
読切を描くきっかけは、大抵義理で、恩返しです。ある程度売れて名前も出たので、だいたい元担当がいるところで描いてます。 元担当が異動するたびに、異動祝いで読切を描かされるという。亀井さんがやたらと異動してくれるんで大変でしたよ。〔参考文献1〕
あだち充が『タッチ』以降に「週刊少年サンデー」以外で漫画作品を掲載するときは基本的には上記引用にあるように元担当編集者が異動したか、その雑誌の何周年記念というお祝いの時だった。そして、『じんべえ』はあだちが名前を出している『みゆき』の元担当編集者である亀井が「ビッグコミックオリジナル」に異動したことが始まりだった。
『じんべえ』は雑に言ってしまえば、『みゆき』のバージョン違いであり、少年誌ではなく青年誌用に主人公の年齢を上げた作品だった。 『みゆき』は「血の繋がらない」兄と妹という設定だったが、『じんべえ』は「血の繋がらない」父と娘という設定になっていた。これに関してもあだちは「ビッグコミックオリジナル」の編集長として異動した亀井が言い出したのではないかと回顧している。『H2』連載中の5年間で7話が描かれており、1997年には全1巻のコミックスとして発売された。 あだち充作品の中ではかなり地味な作品であり、連載時やコミックスが発売された当時もあだち充ファンは知っていても、一般的な知名度はない作品だった。
『じんべえ』の知名度が上がるのは1998年の10月クールからフジテレビのドラマの王道枠である「月9」で田村正和と松たか子主演でドラマ化されたからだ。 あだち充作品の実写化は『じんべえ』以前では、同じくフジテレビ系列の「月曜ドラマランド」で単発ドラマとして1987年に放送された『タッチ』が最後となっていた。その際に上杉達也/和也の双子を一人二役で演じたのはジャニーズ事務所所属の「男闘呼組」の岡本健一だった。
『じんべえ』から7年後の2005年の1月クールから堤幸彦演出、山田孝之主演で『H2〜君といた日々』がTBS系で「木曜10時」枠で放送された。また、同年の2005年には東宝系で長澤まさみ主演の『タッチ』が映画公開され、翌年の2006年にも同様の枠組みで『ラフ ROUGH』が映画公開された。 『じんべえ』では主人公となる父親・高梨陣平が漫画では大学時代はサッカーをしており、名の知れたゴールキーパーであった設定もあったことからガタイの良い人物として描かれていたが、ドラマでは真逆に思える線が細いダンディな雰囲気の田村正和が演じたこともあり、原作を知っているとかなりの違和感を覚えた記憶がある。 また、今見返すと『H2〜君といた日々』は真面目なことをしようとするほどギャグやおふざけを入れたがる堤幸彦演出の名残が感じられることや、出演者に現在は大ブレイクして有名になっている役者も多数いるのでそこそこには楽しめる作品である。しかし、長澤まさみありきで作られた『タッチ』と『ラフ ROUGH』は原作をかなり改変してしまっているため、あだち充の世界観をほとんど表現できていないのでかなり残念な気持ちになる。そういう背景があり、あまりあだち充ファンからも一般からもウケがよくなかったからか、それ以降あだち充作品の実写化はされていない。
ちなみに、今年大ヒットした映画『花束みたいな恋をした』のラスト近くのシーンでは、主人公の二人が互いに「あだち去(ざり)」をしている場面があり、あだち充ファンとしてはうれしいシーンがあった。 「あだち去(ざり)」とはコマの中で登場人物が去り際で後ろ向きの状態で片手をあげている状態であり、もう片手を後ろポケットにいれていると完璧なあだち充的別れ方である。主人公格だけではなく、ヒロインから脇役までと幅広いキャラクターが「あだち去(ざり)」をしており、それだけを数えているブログもあったりするので、興味ある人は検索してみてほしい。 映像化ではないが、『虹色とうがらし』が「SF時代活劇 『虹色とうがらし』」として舞台化することが最近発表された。もともとチャンバラや時代劇や落語が好きだったあだち充が描いたのが『虹色とうがらし』だったので、「活劇」として舞台化されるともしかすると相性はよく、映像化のような失敗作にはならないかもと期待はできそうである。
さて、実写映像化の余談はこれくらいにして話を戻すと、『じんべえ』から始まった不定期連載という形だけがなぜか残ったまま、『H2』連載終盤(全34巻)にあたるコミックス27巻と28巻が出る間に「ビッグコミックオリジナル」に掲載された短編漫画が「扉のむこう」だった。この時期は『H2』の連載中で多忙を極めており、コミックスに関しては2ヶ月か3ヶ月に1冊は新刊が出ているハイペースな刊行状況だったが、あだち充は短編漫画を描いたのである。
オムニバス漫画『冒険少年』の最初の1作となる「扉のむこう」に関しては、おそらくであるが『タッチ』の終盤編集者であった有藤智文が「ビッグコミックオリジナル」に異動した際にあだちが描いた作品ではないかと思われる。
『少年サンデー』で担当した期間は短かったが、ふたりの関係は続く。最近、有藤はあだちに「短編はお前がいちばん取ってんじゃんねぇ!?」と言われている。『少年サンデー』の増刊で「チェンジ」、『スピリッツ』で「どこ吹く風」「ゆく春」、『ビッグコミックオリジナル』で「冒険少年」、『スペリオール』で「ゆく年くる年」など、有藤が担当した短編は数知れない。〔参考文献1〕
と『あだち充本』に書かれている。 だが、有藤は『タッチ』のほとんどラストである柏葉監督が手術を受けるエピソードが描かれた頃に「ビッグコミックオリジナル」へ異動となっている。そうすると『H2』の終盤時に「ビッグコミックオリジナル」への異動をきっかけに「扉のむこう」の原稿をあだちに描いてもらったというのは矛盾が生じてしまう。 有藤のツイッターアカウントを見てみると「from1983 少年サンデー→オリジナル→スピリッツ→オリジナル→ヤンサン→ビッグ→ヤンサン→スペリオール→そして今」とあるので、『タッチ』のあとに「ビッグコミックオリジナル」に異動し、その後には「ビッグコミックスピリッツ」へ、再び「ビッグコミックオリジナル」に戻ってきたのが1998年だったのではないだろうか。そして、そのときにあだちが異動祝いとして描いたのが『冒険少年』の1作目となる「扉のむこう」だったのだろう。
掲載誌となった「ビッグコミックオリジナル」が青年誌であったこともあり、「週刊少年サンデー」掲載のあだち充作品よりも大人に向けたものとなっており、内容もどちらかというと設定にビターさも感じるものとなっている。 「週刊少年サンデー」でのあだち充作品は『タッチ』『ラフ』『H2』を筆頭に高校三年生までを描いており、青春の終わり前までの季節の辺りで物語は終わっていくものが多かった。 「少年ビッグコミック」で連載された『みゆき』では、主人公の若松真人が一浪後に大学入学しキャンパスライフを過ごす時期までが描かれていた。「ビッグコミックオリジナル」で不定期連載された『じんべえ』では、じんべえの娘の美久が高校を卒業し、大学からは血の繋がった実父の家から通学するようになる時期までが描かれることになる。ただ、美久は娘としてではなく、ひとりの女性としてじんべえに会うために一緒に住んでいた家を出たことがわかるラストシーンになっていた。 では、『冒険少年』に収録された作品はどんなものであったのだろうか?
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働き方改革は、誰かがしてくれるものではない ──(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革 第2回〈リニューアル配信〉
2021-05-24 07:00550pt
(ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。現在の「働き方改革」の現場で、ほとんどのケースが上からの「働かせ方改革」一辺倒に陥ってしまうなか、何をターゲットにすればアウトプットの生産性を落とさずに、働く時間の充実度を高めていけるのか。まずは坂本さんが追求する「私の働き方改革」の条件を定義します。
(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第2回 働き方改革は、誰かがしてくれるものではない
あらすじ
働き方改革とは、やる事・やり方・やる力を見直し、生産性を高めながら、より充実した時間の使い方にシフトすることであると私は考えます。 では、そのやる事・やり方・やる力を見直すのはいったい誰なのでしょうか? 会社? 人事部? それとも上司? 答えは「自分」です。といっても、「会社や上司に言う前に自分でやれ!」という体育会系的な話ではありません。 経営者も管理職も一般社員も、それぞれの立場で自分の仕事の成果を改めて定義し、自分なりのやる事・やり方・やる力を高めていくとともに、個人でできる領域を超えた範囲については周囲に「働きかけていく」ことが重要ということです。 こうした働き方改革を、世の中一般で認識されている働き方改革(組織が推進し、従業員がそれに従う構図)と区別して、「私の働き方改革」と名付けたいと思います。
「働かせ方改革」によって自分の働き方を改革する仕方を忘れた私たち
そういえば2017年ごろ、「働き方改革より先に、働かせ改革をすべきだ。」という論調もありました。しかしこの論調は私から言わせれば「何を今さら」なのです。 日本企業はこれまでは「働かせ方改革」一辺倒でした。OA、ICT、制度改革などなど、会社側は色々な環境改革を行い、従業員の仕事内容、仕事方法を変えてきました。その流れに浸かった多くの働き手は、「働き方というのは、自分で変えるものではなく、上が変えるべきもの」という固定概念を抱くようになったのかもしれません。 以前は環境が変われば仕事が変わりました。もしくはそれら環境を使わないと仕事が進まないので、環境が変われば働き方も変わることが必然でした。 そうした中で、労働者は自らの働き方を自分で変えられるという意識は薄れ、次第にマニュアル化・標準化された仕事をこなすようになり、上司も、決められたプロセス通りに仕事をすることを管理する「現状維持管理人」になっていきました。
2020年に世界中の暮らし方を大きく変えたCOVID-19のパンデミック、通称「コロナ禍」によって、日本企業の働き方も大きく変わりました。しかしここにおいても、上(外)からの半ば強制的な環境変化とそれに従いマニュアル的にテレワークを取り入れる従業員や管理職たちという構図は変わりませんでした。 コロナ禍発生当初から自分たち自身で現状の環境をある意味「活かし」て、会社に言われるまでもなく進んでテレワークを導入し、そのやり方を考え、会社や上司に働きかけて自分の働き方を変えていった個人や組織は少なかったと思います。 しかし、今の時代、「自分たちで自分たちの働き方を変える」ことに着目することが必要だと感じています。
働き方改革の主語は「それぞれの私」
つまり、働き方改革とは、一人ひとりが「〇〇のため、自分の働き方をもっと良くしたい」というパッションのもと、自らが改革者となって自身や周囲「やる事・やり方・やる力」を変えていく(生産性を高めていく)活動であるべきと私は考えています。 言うなれば「私の働き方改革」です。決して「会社の働き方改革」ではなく。 これは「働き方改革は自己責任だ。文句言っていないで一人ひとりががんばれ!」という精神論や経営責任放棄の話ではありません。私はそうした「社畜的な考え」は大嫌いです。 「自分で自分の働き方を変える」というのは、部下への押し付けではありません。経営も管理職も従業員も、それぞれが自分自身でできる改革をして生産性を高める活動をするべきだし、自分自身でどうしようもないことについては、上の階層など然るべき部署・担当・経営層に働きかけるべきだと考えます。 つまり、「自分や組織がより充実することに時間を振り向けられるようになるために、各自が自分の職制に沿って自分や周囲へ働きかけ、生産性を高めていく活動」が働き方改革なのです。
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Daily PLANETS 2021年5月第4週のハイライト
2021-05-21 07:00おはようございます、PLANETS編集部です。
先週末、都内では雨風が強く不安定な天気が続きました。ややじめじめとした気候とともに、梅雨の訪れを感じます。
未だ先行きが不透明な新型コロナウイルスの影響もあり、なかなか外出しにくい時節が続きますが、室内でのひとときにPLANETSのコンテンツをお楽しみいただければ幸いです。
さて、今朝は今週のDaily PLANETSで配信した4本の記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの配信の概要をご紹介します。
今週のハイライト
5/17(月)【連載】(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第1回 働き方改革とは、労働時間の削減ではない|坂本崇博
大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改 -
「モダニズム」とは何か -『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』|山本寛
2021-05-20 07:00550pt
アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第20回。今回は、現在公開延期中の『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』で再び注目が集まる『逆襲のシャア』をめぐって。膨大な「ガンダム」シリーズの中でも、特に富野由悠季監督の作家性が鮮明に顕れた映画である本作について、「モダニズム」という観点から山本さんが切り込みます。
山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第20回 「モダニズム」とは何か -『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』
この連載を通じて僕が論じてきたアニメの「モダニズム」と「ポストモダン」であるが、まだいまいちピンと来ていない方もいるかもしれない。 そんな中、やはり毎度毎度お世話になっている岡田斗司夫氏が、非常に解りやすい解説をしてくれた。
「『えんとつ町のプペル』を見ない理由、話します / OTAKING talks about "POUPELLE OF CHIMNEY TOWN"」
この配信において彼は「思想性」について語っている。 「思想性」とは即ち「葛藤」である、と。 自分の考えに反するものに対しいかに真摯に向き合い、悩むかであると。
これを哲学的には「弁証法」と言う。 「テーゼ(正)=アンチテーゼ(反)=ジンテーゼ(合)」という仕組みの「葛藤(から止揚に至る)」こそが哲学なのだ、と提唱者のヘーゲルは説いた。
僕の言う「モダニズム」とは、まさにこのような「思想性」を有するものであると定義する。 それは必ずしも難しい概念やメッセージを必要としない。 いろいろな価値観や思想がぶつかり合い、その中で「真実とは?」と思惟する、その運動そのものこそが「モダニズム」なのだ。
さて、今回はその「モダニズム」を考えるに相応しい作品について考えてみよう。 ちょうどこの文章の執筆時、『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』の公開を控え「ガンダム」界隈が盛り上がっているので、せっかくなので『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988)を取り上げることにする。
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「1本5000円レンコン」から考えるグローカルビジネス|野口憲一
2021-05-19 07:00550pt
中小企業の海外進出が専門の明治大学・奥山雅之教授とNPO法人ZESDAによるシリーズ連載「グローカルビジネスのすすめ」。地方が海外と直接ビジネスを展開していくための方法論を、さまざまな分野での実践から学ぶ研究会の成果を共有していきます。今回は、農園経営者と民俗学者という二つの顔を持つ野口憲一さんが、自身の農園で育て上げた「1本5000円のレンコン」を大成功に導いた事例から、戦略的なブランディング手法としての海外進出について。日本における農業経営の実態を研究者の目で分析しつつ、ビジネスマンとして価値設定権を取り戻してみせたマインドと手法とは?
本メールマガジンにて連載中の「グローカルビジネスのすすめ」の書籍が、紫洲書院より発売中です。各分野の第一線で活躍する人々の知識と経験とともに、グローカルビジネスの事例を豊富に収めた、日本初のグローカルビジネス実践マニュアルです。 ご注文はこちらから!
グローカルビジネスのすすめ#07 「1本5000円レンコン」から考えるグローカルビジネス
近年、新たな市場を求めて地方の企業が国外市場へ事業展開する動きが活発になっています。日本経済の成熟化もあり、各地域がグローバルな視点で「外から」稼いでいくことは地方創生を果たしていくうえでも重要です。しかし、地方の中小企業が国外市場を正確に捉えて持続可能な事業展開を行うことは、人材の制約、ITスキル、カントリーリスク等、一般的にはまだまだハードルが高いのが現実です。 本連載では、「地域資源を活用した製品・サービスによってグローバル市場へ展開するビジネス」を「グローカルビジネス」と呼び、地方が海外と直接ビジネスを展開していくための方法論を、さまざまな分野での実践の事例を通じて学ぶ研究会の成果を共有します。 (詳しくは第1回「序論:地方創生の鍵を握るグローカルビジネス」をご参照ください。)
今回は、アカデミアにて民俗学を研究しつつ、自らの農園のレンコンを世界に展開する野口憲一氏にご登場いただきます。近年「ハイテク農業」をはじめとして、農業は注目を集めています。しかし、実際の市場には、その変革を長らく阻んできた、社会的な認識と流通システムが存在します。野口氏は農産物をブランド化することによりこの複雑な問題にメスを入れ、世界中のミシュラン星つきレストランに卸すほどの実績を残してきました。グローバルな競争力をもったモノを、ローカルはいかにして生み出すことができるのでしょうか。「1本5000円レンコン」のエピソードから、グローカルビジネスの成功につながるマインドと手法を学びます。 (明治大学 奥山雅之)
はじめに
肩書きが多くて紹介に困るということをよく言われますが、私は会社役員として実家のレンコン農園の経営に携わると共に、日本大学にて非常勤講師を務めております。社会学の博士号を有しており、専門は民俗学と食・農業の社会学です。実際に今でも大学でオンライン講義を担当しています。最近は経営コンサルタントも始めました。ここでは、自分の肩書を民俗学者と名乗ることにしましょう。 さて、本稿では、「1本5000円のレンコン」を販売するなかで得られた知見をもとに、ローカルからグローバルへの展開が、特にローカルにおいてどのような意味を持つのかについて説明しようと思います。 このレンコンは私が役員を務める株式会社野口農園のラグジュアリーレンコンです。レンコンの一般的な販売価格は1本当たり1000円程度、つまり「1本5000円レンコン」の価格は、相場の5倍です。 私は、この原稿の基になった第13回ZESDA×明治大学グローカル・ビジネス・セミナーを依頼されるにあたって、「グローカルビジネスについての苦労話を語ってください」との注文をいただきました。しかし私は即座にこの注文を断りました。なぜなら、端的に言って、海外進出の苦労は何一つなかったからです。いわば、「雪だるまが転がるようだった」、というのが率直な感想です。しかしその雪だるまの核となったのは、確かに私が作り上げた「1本5000円レンコン」でした。すなわち、「1本5000円レンコン」を日本(≒世界)で初めての、そして同時に日本一(≒世界一)のラグジュアリーブランドレンコンとして鍛え上げたことが、海外進出成功の鍵だったのです。 だからと言ってこのレンコンがそう簡単に売れたわけではありません。海外進出の苦労がなかったこととは異なり、ブランド化に至るまでの過程は、本当に悪戦苦闘の連続でした。しかし、結果としてこの破格値の高級レンコンは、多すぎる注文を断り続けなければならないような商品となりました。それでは、なぜ私はこのような常識はずれな価格のレンコンを売り始めたのか、まずその経緯について説明していこうと思います。
問題の所在 ―― 1本5000円レンコンの背景
「はじめに」でも述べたように、私は、会社役員としての立場の他に、研究者としての顔を持っています。長らく農業や農家についての民俗学・社会学的な観察を続けてきました。その中で、一般的には注目されにくい、農家や農業の状況が見えてきました。以下にその主な内容を四つのポイントにまとめてみました。
一つ目は、農業に対する社会的イメージの再生産です。あまりポジティブでないイメージがメディアを中心として再生産され、農家の実像はそこに入る余地がなく、メディアによって作られたイメージが広められているという状況がありました。 二つ目は社会的なやりがい搾取の構造です。これは2000年周辺に始まったと私はみています。それまでの農業に対する社会的なイメージは、単に儲からない仕事あるいは大変な仕事というものが主でした。しかし、1999年後半から2000年にかけて、TOKIOの「ザ!鉄腕!DASH!!」などの番組の登場により流れが変わってきます。 最近でいうと「金スマ ひとり農業」などです。例えば雨の日は家の中で蕎麦を打ったり、読書したりして、そして晴れの日には畑を耕すというようなイメージです。そこには、現代社会の早いスピードに取り残された人々、疲れてしまった人々が、癒しとして農村の暮らしを求め、消費するという構図が出てきます。 生活のスピードが遅いということは、ある意味の癒しになります。表面的にはポジティブに演出されているものの、本質的な価値観には変化はありません。 このことは、農産物の価格観が固定されているということと深い関係があると思います。車で例えると、ファミリーカーとスポーツカーは、同じ車という商品カテゴリーにあっても、常識的に価格が異なるものとして受け止められています。しかし農作物に関しては、そのような値段の違いが受け入れられていません。品質や栽培方法に違いがあっても、小松菜は小松菜、レンコンはレンコンだと捉えられてしまいます。この点が利益率の低さの根本的な原因になっています。 このような状況につながる原因としては、農家がこれまで価格交渉権をほとんど持たなかったということが挙げられます。現在は少しずつ改善される動きもありますが、大半の農作物はJAに全量出荷され、JAから市場に持ち込まれ、そこで仲卸が購入したものが量販店に分配されるという流れが一般的です。そのプロセスの中には、市場で付けられた価格をJAがそのまま表示するという慣例があり、農家の意思が価格に反映されることは一切ありませんでした。 要するに、実際に農業を経営している人とは異なる人々によって、販売価格が一方的に決定されることが長く続いたのです。一つ目のポイントと合わせて、都市部の人間が勝手に作り出した「儲からないけど、楽しい職業」というイメージが固定化されてしまい、その結果やりがい搾取の構造が生み出されていたのです。
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