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  • 第七章 海の象形文字――シェイクスピアからメルヴィルへ|福嶋亮大(後編)

    2023-11-28 07:00  
    550pt

    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    7、愚かさを拡大する新世界――デフォーの『モル・フランダーズ』
     シェイクスピア劇においては、しばしば二つの異質の世界が交差する。それを象徴するのが、地中海世界の中心であるヴェニスにアウトサイダーとしてやってくるアフリカの黒人オセローであり、ミラノから退出して新世界の支配者となったプロスペローである。そのなかで、ハムレットは旧世界の飽和を感じさせる人間である。  T・S・エリオットが、ハムレットの悩みは「客観的相関物」を欠くと批判したことはよく知られている[18]。ハムレットは自らの悩みに対応する客観的な現実をもたないため、その心は場違いの感覚にさいなまれ、とめどない内部分裂に向かわざるを得ない。この分裂はメタフィクション的な劇中劇――王の犯罪を告発する罠――において、きわめつけに複雑なものとなる[19]。ハムレットは芝居の脚本家となり、父の暗殺を再現し、自らの苦悩の原因を虚構として演じ直す。しかし、彼がどれだけ演技を積み重ねても、らせん状に迷宮化した自らの心から脱け出すことはできない。  ただ、「デンマークは牢獄だ」(第二幕第二場)と言い放つ閉塞的なハムレットの前には、本来は無限の海が広がっていた。この海との遭遇こそが、煮え切らなかったハムレットに政治的な決断を促す。彼が叔父である国王クローディアスに復讐するきっかけになったのは、デンマークからイギリスに出港したとき、海賊に襲撃されて(ちょうどロビンソン・クルーソーのように)捕虜になり、その際に自らを殺させようとする国王の陰謀に気づいたときである。海上のハムレットは再び陸地に戻って、復讐を決行する。しかし、もし海賊の捕虜となった彼がそのままデンマークを離れ、大西洋につながる「海的実存」に生まれ変わっていたとしたら、内部に向かってとぐろを巻くような彼の心には、別の解放の道筋が開けたに違いない[20]。  興味深いことに、シェイクスピアの活躍からおよそ一世紀後の一六八九年に、アメリカのカロライナ憲法の制定にも関わった哲学者のジョン・ロックは「最初の頃は、全世界がアメリカのような状態であった」(『統治二論』後篇・四九節)と述べながら、貨幣ももたずに「生存の必要」(同・四六節)だけで動いている初期状態の人間のモデルとしてアメリカ人を描いた。ロックがアメリカを自己流に理想化しているのは否めないとはいえ、飽和したヨーロッパ社会をまとめて初期化できるジョーカー的存在としてアメリカが現れたことは重要である。実際、シェイクスピア以降の近代小説の主人公は、ハムレットのように悩みを内的に自乗する代わりに、むしろその累積したエネルギーを外に振り向け、人生を新たに始め直すようにして大西洋を横断した。  例えば、ダニエル・デフォーはロビンソン・クルーソーを環大西洋的存在として造形した後、一七二二年のピカレスク・ロマン『有名なモル・フランダーズの運不運』で、新世界アメリカへの旅立ちを物語の核心に据えた。ロンドンのニューゲートの牢獄で生まれた女性主人公――本名を隠してモル・フランダーズという変名を名乗る――は、虚栄心にとりつかれ、自ら破滅への道を歩まずにはいられない。その美貌を駆使して結ばれた二人目の夫は、彼女をアメリカのヴァージニア州のプランテーションに連れてゆく。しかし、この夫が実の弟であったというショッキングな事実が判明し、彼女は一人で帰国するのである。  当時のヴァージニアは「ニューゲートやその他の牢獄」から流刑になった人間たちで溢れていた。イギリスでは罪人であった彼らは、うまくやればアメリカの植民地で出世することもできた。夫=弟の母(つまりモル・フランダーズの実母)が「ニューゲートにいた連中でえらぶつになっている人がたくさんいるよ。ここには治安判事や民兵団の将校や自分の住んでいる町の判事でも、腕に焼印のある人が何人もいるんですよ」と語るように[21]、ヴァージニア植民地はシェイクスピアのヴェニスにも似たアウトサイダーたちの「共和国」であり、モル・フランダーズも含めた悪人も、統治側の人間に生まれ変わる可能性をもった土地であった。  この小説のテーマは、犯罪者たちがお互いに秘密を隠しながら、騙し騙される関係を生き延びてゆくことにあった。西洋文学史を振り返っても、モル・フランダーズほど戦略的な女性はほとんどいない。ロビンソン・クルーソーが島を計算づくで経営するのに対して、彼女はむしろ人間関係を巧妙に計算して操作する。しかも、デフォーが画期的なのは、社会の下層のアウトサイダーが人間になろうとするシェイクスピア的なゲームの底面に「愚かさ」を据えたことである。  実際、モル・フランダーズは愚かしい虚栄心に導かれるままに、新世界の社会に滑り込もうとするが、結局は弟との近親相姦というこれまた愚かしい予想外のエラーによって、その企ては失敗に終わる[22]。新世界アメリカへの渡航は、理性のコントロールの及ばない領域を浮かび上がらせた。『テンペスト』が「眠り」や「夢」として描いた問題は、『モル・フランダーズ』では「愚行」に変換される。後のディドロと同じく、デフォーにとっても植民地の創設は、人間性のひび割れを拡大するものであった。
    8、世界文学は新世界文学である
     デフォーはショッキングな例外状態によって、読者を外部に連れ出す作家であった。彼の近代性の核は、ヨーロッパ社会を動かす法(プログラム)を強制停止し、別の法則を備えた世界へと人間を連行したことにある。『ロビンソン・クルーソー』の漂流、『疫病の年の日誌』のペスト、『モル・フランダーズ』のヴァージニア渡航と近親相姦――これらはいずれも、人間を人間たらしめる理性ではなく、人間をその安全な進路から突き落とすショッキングな不意打ちとして描かれた。  このデフォーの手法は、演劇から小説へという近代の枢軸のジャンルの変化とも関連する。ヴェニス、デンマーク、大西洋等を舞台としたシェイクスピアは、演劇的空間の弾力性の高さを存分に活用した。プロスペローが放逐された経緯は、彼の一つのセリフのなかに圧縮されるため、地中海から大西洋への移動もSF的なワープのように軽快に処理される。それに対して、ジャーナリストでもあった小説家デフォーは、このような気ままな省略を許さなかった。クルーソーやモル・フランダーズがヨーロッパから離れるプロセスは、動機や行動経路を含めて詳細に記録されるが、その移動の根幹には人間性そのものの揺らぎがある。シェイクスピアが世界を可変的なシアターに仕立てたとしたら、デフォーは世界を激変させるショックの力を利用したのだ。  では、デフォー以降のヨーロッパの作家は、アメリカにどのような意味を与えたのか。世界文学論の観点から言えば、デフォーからおよそ一世紀後の晩年のゲーテがやはり重要である。  ゲーテはアメリカを組織的・集団的な起業の場として描いた。彼の『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』(一八二九年)では、主役の一人であるレナルドがアメリカ移住を志す。レナルドは紡績工を募集し、「真に活動的な人間」たちとともに新天地アメリカに工場を設立しようと試みた。彼の長い演説によれば、その企ては土地所有を最善とするヨーロッパ的な価値観を乗り越えて、むしろ最高の理念を「動産」および「行動に富む生」を認めるものである[23]。新世界アメリカに適した人格は、デフォー的な犯罪者からゲーテ的な企業家へと移り変わったが、そのいずれも私的所有よりもオープンな「生」を求めるタイプであったことは注目に値する。  ゲーテはアメリカに、私的所有制を超克するアソシエーショニズムの理想を投影した(すでに前作の『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』でも、フリーメイソン的な「塔の結社」を主宰するロターリオにアメリカ経験があった)。この理想の背景には、全人類を結びつけるフリーメイソン的な「世界同盟」(Weltbund)のアイディアがあった。世界同盟とは遍歴=さすらい(Wandern)の人間たちの集うアナーキズム的な結社だが、レナルドがその樹立を試みるとき、ヨーロッパの土地所有制度から脱出することが必要であった[24]。  レナルドの壮大なプロジェクト(人類補完計画?)は、明らかにゲーテの世界文学論――各国が文学を所有するのではなく、活発な翻訳と相互浸透を通じて世界規模の文化的コモンズを創設しようとする企て――と通底している。ゲーテの世界文学論は、私的所有制を批判する一種のアソシエーショニズムとつながっていた。しかも、このアソシエーションが機能するには、ヨーロッパとは異なる人間的結合を実現する《新世界》が欠かせなかった。レナルドとその生みの親ゲーテは、ともに同じ問題を抱えていたと言えるだろう。  こうして、『ファウスト』でポストヒューマンの領域へと踏み込んだゲーテは、『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』および世界文学論では、ポストヨーロッパの時代の到来を予告した。すでに『テンペスト』というアメリカ文学の序論に先取りされていた問題が、ゲーテによってくっきりと輪郭づけられた。一七世紀のシェイクスピア、一八世紀のデフォー、一九世紀のゲーテの三人を並列するとき、そこには世界文学とは新世界文学であるというテーゼが浮かび上がってくるだろう。
     
  • シャフトアニメと演出(ミザンセーヌ)の力(後編)|石岡良治

    2023-11-21 07:00  
    550pt

    今回のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「シャフト」論をお届けします。 新房昭之作品や「シャフ度」などから独自の作風をみせる、シャフトアニメの「演出」的な美点とは何か。2024年公開予定の『劇場版 魔法少女まどか マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』への展望なども交えつつ考察しました。前編はこちら。 (初出:2023年8月24日放送「石岡良治の最強伝説 vol.65 テーマ:シャフトアニメ」、構成:徳田要太)
    「シャフト美学」の達成と挑戦
     私は『現代アニメ「超」講義』では批評的判断として意識的に「〈物語〉シリーズ」をほぼスルーしており、代わりに大沼心監督の『ef - a tale of memories.』(2007)を取り上げています。同作は個人的に大沼監督の最高傑作だと思いますし、新海誠と接点があるという点でも重要な作品です。尾石達也の美意識などがダイレクトにみられることから「〈物語〉シリーズ」のほうが「シャフト美学」を展開していると思うんですけれど、「作画」に頼らないモーショングラフィックス的な映像作りという点では『ef - a tale of memories.』のほうが優れています。ネタバレを恐れずに言うと、人工都市に関わる二つのロケーション同士の関係がギミックになっているというのがポイントです。ノベルゲームマニアに名高い『Ever17 -the out of infinity』(2002)のトリックをどこか思わせる仕掛けで、非現実的なスカスカな画面だからこそ生きる演出なんですね。かつ、私はシャフトのオープニング演出のギミックでは、『ef - a tale of memories.』をもっとも評価しています。最終回の特殊なモーションでエモーションを喚起するスタイルですね。  もう一つは『魔法少女まどか☆マギカ』(2011)[2]について。あらためて正直に言うと、同作は事前情報を知った時点ではかなり懸念がありました。蒼樹うめと虚淵玄のタッグで、新房昭之がまったく新しい魔法少女を作るということだが果たして大丈夫なんだろうか、と。『The Soul Taker』と同じく意欲作かもしれないが不発もあり得るだろうと思っていました。しかしじっさいは周知の通り斬新な作品になりましたね。結果的には2011年の1月から4月という放送期間がライブ感を高めたことも作品の魅力を底上げしたと思います。  さらに言うと劇場版『叛逆の物語』の達成は、シャフト成分と虚淵成分とが混ざっていることにあると思います。一度完結した物語をさらに転調していくスタイルでしたが、私が思うに虚淵玄抜きのシャフト成分について比較するのによいのがソーシャルゲーム原作の『マギアレコード 魔法少女まどか☆マギカ外伝』(2020)で、この作品と、虚淵玄が脚本をつとめた『叛逆の物語』との関係を考えると、近年数多くなっている「ユニバースもの」への回答になるのではないかと思っています。前提として私は『マギアレコード』のファイナルシーズンはそれなりに評価しているのですが、シリーズを通してのシナリオは正直二転三転しており、すっきりしていなかったと思っています。というのは「魔女」の設定を生かしきれていないところがあるからです。魔女は時代によっては女性のエンパワーメントとして機能したり、ときには端的な迫害対象になったりするわけですが、そのあたりを『マギアレコード』は「やや雑な相対主義」で片付けてしまっているきらいがあります。ジェンダー論的にいくらでも現代的な仕掛けを施せそうな「魔女」という設定を、存分に活用できていないのではないでしょうか。「ユニバースもの」への回答というのはそのことで、「それぞれの世界(宇宙)でいろいろあるよね」で終わらせてしまうところがあります。ここは虚淵玄が『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』で何をやってくれるかに期待したいと思います。  それでは虚淵玄成分はどこで測ればいいか。じつは、『シン・ゴジラ』(2016)の陰に埋もれてあまり評価されていない、アニメ版『GODZILLA』(2017〜)三部作が重要だと思っています。「現実の都市と結びつかないゴジラ」があまりわくわくさせないということが判明してしまった感もあり、あまり注目されなかったアニメですが、この作品には面白いところがちゃんとあると考えています。要は創世神話をやり直しているんですね。端的にいうと虚淵版の『古事記』の再話と言えます。主人公男性にはパートナー女性が二人いて、そのそれぞれが子供を産むことが示唆されたわけですが、これは言ってしまえばギリシャ神話のゼウスのようなものです。これと同じように、2024年に公開が予定されている『劇場版 魔法少女まどか マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』からかりに新たな単性生殖創世神話を作れたらなら、魔女ものの新機軸になるのではないかと思っています。 『マギアレコード』では本編のアイデアは一応全て使えるわけですが、まどかとほむらの関係という、作品世界の根幹に関わるような特大設定が存在するが故に、そこをあまり動かさない範囲内での外伝をやらざるを得ない。そこに限界があったと思います。そう考えると、結局「エヴァンゲリオン」はOPソング『残酷な天使のテーゼ』の歌詞に反して「神話」にはならなかったわけですが、『まどか』がそのチャレンジを超えて神話になることを個人的には期待しています。  私見では、シャフトには二つのチャレンジがあると考えています。一つは前編で述べたように『五等分の花嫁∽』が再確認させてくれた方向で、物語的には無に等しいマルチヒロインハーレムものなど、ジャンルとしてのルールやレギュレーションがある程度固まりきっている題材を用いつつ、「ブランコが揺れる」などの映像ギミックだけで不思議な感動を与えることができるという方向です。  もう一つは「世界そのものの悪」とは何かを問うような、世界の底が抜ける経験を掘り下げる方向です。私が過去に『叛逆の物語』について語った際、日本のポスト『デビルマン』コンテンツの良さと欠点に触れました。それは「根源悪」にかかわるものです。日本のコンテンツでは「正義なんかない」ということは描かれるけれど、おそらく「悪」は存在するということが前提になっていると思います。  しかし、優れた「世界底抜け型」のコンテンツというのは、どこかで黙示録の反作用成分として、ひそかに別の仕方で正義成分が導入されているんですね。『デビルマン』はよく読むとそうなっています。悪の原理を身にまとうダークヒーローは、単に善が気に食わないのではなく、善の名のもとに大きな悪をなす者を倒しているので、明示されない形で正義の代行者となっています。「正義の味方」というフレーズが意味しているのは大まかにはそういうことなのだろうと思います。要は単に正義がいなくなってしまうだけだと、悪もチンケなものになり、スケールが小さくなるということです。ここで序盤の話と結び付くんですけれども、黒澤明の『生きる』では、キリスト教的モチーフを薄めたことで特定宗教に縛られない普遍性を獲得した一方で、『素晴らしき哉人生』で示されたような「生きることが正義であって自殺は罪である」という道徳的な重みもまた薄れています。ここには良し悪しがあって、日本の陰謀論コンテンツの迫力が弱い理由かもしれません。基本的にアメリカで深刻な事件を起こすような陰謀論者の想像力に比べたら日本は概してスケールが小さいんですよ[3]。その辺りの問題圏を認識していると思われる虚淵玄が、このテーマに踏み込めるかどうかには期待しています。日本のエンタメコンテンツのうち優れたものは、結局アメリカの陰謀論的な要素を輸入している傾向があって、たとえば『真・女神転生』などは合衆国大統領が悪魔になるとかいう設定ですよね。多くは匂わせにとどまり迫力に乏しいのですが、時々面白いものが出てくるので、そこにも注目していきたいところです。 「日常系」と「セカイ系」は対立するとしばしば言われますけど、上述した2つの方向のチャレンジがそれぞれ「日常系」「セカイ系」に対応するものと言えるので、シャフトの「ミザンセーヌ」の力によって、どちらも実現できるのではないでしょうか。
     
  • シャフトアニメと演出(ミザンセーヌ)の力(前編)|石岡良治

    2023-11-14 07:00  
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    今回のメルマガは、批評家・石岡良治さんの「シャフト」論をお届けします。 数々のヒット作とともに現代のアニメシーンを牽引してきたアニメスタジオの一つ、シャフト。近作では『五等分の花嫁∽』を手がけたことで改めて注目が集まっている「シャフト演出」の魅力と底力について考察しました。 (初出:2023年8月24日放送「石岡良治の最強伝説 vol.65 テーマ:シャフトアニメ」、構成:徳田要太)
    「シャフトアニメと演出(ミザンセーヌ)の力」というテーマで、シャフト作品について分析してみようと思います。「演出」という言葉を「ミザンセーヌ」と読みたいと思いますが、フランス語で「セーヌ」というのは英語の「シーン(scene)」のことです。英語に直訳すると「put in scene」となり、映画における特定場面の演出のことを指します。マンガで例えれば、数ページ単位で展開する場面のことで、たとえば『SLUM DUNK』の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」のセリフが登場する一連の場面のように、そのシークエンスのユニットを切り取った部分のことを指します。いわゆる「切り抜き動画」で切り抜かれる部分がどのように作られているか。そういった視点からシャフトアニメを考えてみます。  分析にあたって『モーション・グラフィックスの歴史:アヴァンギャルドからアメリカの産業へ』(三元社、2019)という書籍を紹介しようと思います。「モーショングラフィックス」というのは一言で言えばテキストやイラストに動きや音声をつける手法のことで、言葉自体は多くの読者の方が聞いたことがあるでしょう。端的な例はソール・バス(1920-1996)が手がけた映画のタイトル画面などが挙げられると思います。
    ▲アルフレッド・ヒッチコック『めまい』(1958)のビジュアルポスター。タイトルバックでは映画史上で初めてコンピューター映像が取り入れられた。(出典)
     これまでの国内の映像研究は物語の分析に偏っていて、こうした視覚演出が見過ごされる傾向にあったのですが、近年の研究ではこのモーショングラフィックス的な表象の映像演出を改めて見直す機運が高まっているように感じます。 「映像演出」というとアニメファンの多くはいわゆる「作画アニメ」を思い浮かべるかもしれませんが、これは「モーショングラフィックス」的な演出とはやや別物であると考えています。つまり「すごい」作画アニメと言われてるものはじつは、実験映画のように演出手法そのものを発明するようなものではなく、あえていうとその大半は「身体」の描写が精緻だということに過ぎません。極論すればバトルアクションか、窃視のエロティシズムの二つに還元されるものだと言えます。ある意味では、内容は空虚かもしれない一連の「トム・クルーズ映画」において、彼が体を張っているだけで感動するような感性と同じなわけです。  そうした面白さだけではなく、実験映画でみられたような映像演出の遺産が、どのように昨今のアニメなどのエンタメ映像作品に落とし込まれているのかを考えるには、「モーショングラフィックス」を媒介として捉える必要があると思います。たとえばオスカー・フィッシンガー(1920-1947)は「ヴィジュアル・ミュージック」の始祖的な人物で、「映像の動きと音を同期させる」という、今日のMVなどでは当たり前にみられる手法を発展させたことで知られています。彼の影響の元にディズニー映画の名作『ファンタジア』(1940)などがあり、じっさい彼は同作の一部制作に参加した後方針の違いから離脱するということもありました。こうした映像作品は多くの作家が作りたがるもので、例えば大友克洋の『MEMORIES』(1995)、あるいは庵野秀明を中心に企画された「日本アニメ(ーター)見本市」(2014〜2018)もそれに含めていいでしょう。ああいったモーショングラフィックス的な映像美学を目指した作品はいくつか存在しますが、残念なことに「物語」が映像分析の前提となっている時代環境では、製作陣の技術力に比して十分な評価は得られませんでした。  しかし、今日の日本アニメーションのグローバルな達成においては、『モーション・グラフィックスの歴史』で分析されたような視点から映像演出について考えることの意義は大きいと思っています。
    2023年のシャフト再評価
     さて、私がシャフトに(再)注目したのは2023年に公開された映画『五等分の花嫁∽』がきっかけでした。同時期には『君たちはどう生きるか』も含めて話題のアニメ映画がいくつか公開されていましたが、自分でも驚いたことに最も惹かれた作品は『五等分の花嫁∽』でした(笑)。正直公開前は何も期待しておらず、同シリーズについてもいわゆる「マガジン」ハーレムラブコメの中では女性人気も相まって一番人気だった、という程度の認識です。内容的に言っても、夏休みに海とプールを連日ハシゴする場面をわざわざ映画化するという、どう考えてもおもしろくならない脚本でしょう。ところがじっさいに観てみるとどういうわけか感動してしまったんですね。  簡単に言うと「ウォータースライダー」と「ブランコ」がポイントです。あまり使いたくないミームですが、いわゆる「負けヒロイン」のことを「滑り台ヒロイン」と呼ぶことがあります。マルチヒロインものではメインヒロインになれなかった子が、滑り台とブランコなど公園の遊具で遊ぶシーンがしばしば描かれます(おそらくノベルゲームの演出が肥大化してそうなっているのではないかと思います)。一応名前は伏せますが、ヒロイン候補のうちあるキャラがブランコに乗っているというだけで感動してしまって、かなり驚きました。  ブランコというギミックについて考えたいのですが、過去のアニメ作品で有名な場面といえば、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997)において、幼少期のシンジを描いたシーンでブランコが使われていたと思います。また私が想起したのはやはり、黒澤明の最高傑作とも言われる『生きる』(1952)の有名なラストシーンです。胃がんによる余命宣告を受けた市役所勤めの中年男性が、ある女性との出会いから希望を取り戻していき、晩年は住民の希望だった公園の建設に奔走するという物語です。やがて彼は亡くなってしまうんですが、最期の瞬間をついに完成した公園のブランコの上で迎えるわけです。これはフランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』(1946)へのアンサーになっていると思います。現在でもクリスマス定番の古典となっているこの映画は、自殺願望を抱えた男が周囲の支えと天使の力によって自殺を踏みとどまる話なんですが、自殺はキリスト教では特に重い罪だという文脈で、生きることの希望を描いているわけです。『生きる』では、おそらくキリスト教的フレームワークはある程度外していて、クリスチャンでない人にも通じる普遍性を獲得したと思いますが、これは日本のアニメ、あるいは日本文化の「良さ」と「欠点」の両方に関わっていると思います。  この点については後述するとして、ここではひとまず、公園の遊具は両義的な意味を持つものとして機能するということを指摘しておこうと思います。つまり、戦後復興期には次世代の希望の象徴として、逆に現在ではその意味が完全に逆転して一種の産業遺構として機能します。産業遺構といえば強制労働などが問題になった軍艦島や富岡製糸場などの工場跡地など、近代から戦後復興期の遺産のことを指しますが、現存している公園もそれに含まれるわけです。現在は子供にとって危険ということで、立ち入り禁止になったり撤去されたりしている遊具が増えていますよね。  そういった「遊具」が揺さぶられるというだけで、未来を向いてようが過去志向であろうが、ある種のエモーションを掻き立てられるわけです。シャフトに関しては一時期は少し熱が冷めていたんですけれど、こうした経験から改めて再注目するきっかけを得ました。
     
  • 第七章 海の象形文字――シェイクスピアからメルヴィルへ|福嶋亮大(前編)

    2023-11-07 07:00  
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    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。国家/個人としての主権の存在を宣言したとして発明的な出来事だったアメリカ独立宣言。ある種の「文学」とも言えるこの文書に潜む、ヨーロッパ文学の財産とは?
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、世界文学としてのアメリカ独立宣言
     アメリカの生み出した最初の、そして最も強い衝撃力を備えた≪世界文学≫は、一七七六年に発せられたアメリカ独立宣言(United States Declaration of Independence)である。政治学者のデイヴィッド・アーミテイジが指摘するように、この宣言は「現在まで存続し続けている政治的著述の一ジャンル」の誕生を告げた[1]。そのユニークさは、主権国家としての対外的な独立のみならず、諸個人の「生命、自由、そして幸福の追求」の権利も強く主張したことにある。国家の権利と人間の権利の価値を、世界という法廷で高らかに「宣言」し、現実のものに変える創設的な言説――それこそがアメリカ建国の始祖たちの発明したものである。独立宣言というジャンルは、ちょうど一八世紀のヨーロッパ人が「小説」を飛躍させたことに匹敵するような、言説の歴史における驚くべき発明であったと言えるだろう。  しかも、この新しい政治的著述のジャンルは、強力な感染力を備えていた。アーミテイジによれば「アメリカ革命は、主権という名の伝染病の最初の大発生であり、この伝染病は一七七六年以降の数世紀の間、世界に大流行した」。この主権のパンデミックは「諸帝国が織りなす世界」から「諸国家が織りなす世界」への移行を決定づけた。この政治的疫病によって、世界じゅうに諸国家がひしめきあう新時代の扉が開かれた。一九世紀のヨーロッパが多極的な安定構造の時代であったのに対して(前章参照)、同時期の南北アメリカ大陸はむしろ国家の繁殖地となり、ハイチ、ベネズエラ、ブラジル等が相次いで独立を宣言し、二〇世紀になるとアジア、アフリカ、中東、バルカン半島、旧ソ連、東欧等で「主権という名の伝染病」が再燃した[2]。独立宣言という文書ジャンルは、この感染症の媒体になったのである。  私がアメリカ独立宣言という「ノンフィクション」の文書を≪世界文学≫に数え入れるのは、そこにヨーロッパ文学の財産が受け継がれているからである。そもそも、一八世紀後半まで、文学(literature)は現代ならばノンフィクションに分類される著述――歴史、旅行記、哲学、科学等――を含む多義的な言葉であった[3]。当時のイギリスの『ロビンソン・クルーソー』や『ガリヴァー旅行記』は、いずれもノンフィクションの体裁を利用した作品である。逆に、それ以降のロマン主義者たちは、「オリジナリティ」や「天才性」や「想像力」という概念を駆使し、literatureをむしろ現実から独立したフィクションに近づけた。一八世紀のクルーソーやガリヴァーが後に本格的な文学というより、しばしば児童文学のキャラクターとして扱われたのは、この大きな変化と関係している。一九世紀のliteratureの観念からすれば、一八世紀のliteratureは不純なテクストに映るだろう。  しかし、われわれはむしろここで、今で言うノンフィクションからフィクションまでを横断する一八世紀的な「文学」の概念を呼び戻そう。なぜなら、アメリカ独立宣言という第一級の政治的文書のなかにも、大西洋を横断する(transatlantic)文学の痕跡があるからだ。  現に、独立宣言の起草者の一人であるトマス・ジェファーソンは、ジョン・ロックの啓蒙思想に加えて、同時代のイギリスの小説家ローレンス・スターン、特にその最も実験的な『トリストラム・シャンディ』の愛読者でもあった。transatlanticな文学の研究者ポール・ジャイルズによれば、ジェファーソンがスターンの多面性――センティメンタルなモラリストにしてコスモポリタンな旅行者、下品な道化師にしてメタフィクション的なソフィスト――に魅了されていたのは、大いにありそうなことである。加えて、ジャイルズは独立宣言の掲げる有名な「幸福の追求」の権利も、スターンの思想と関連性があると推測した。  ふつう「幸福」の意味は、共和主義的な公共的参加か、あるいはジョン・ロック的な私的財産の獲得と結びつけられることが多い。しかし、ジェファーソンの好んだ文学を鑑みれば、彼の幸福概念には恐らく、身体と心が複雑に織り交ざったスターン的な「感覚の衝動」のテーマが入り込んでいた。たえず揺れ動きながら、人間を本来的な「自然」と結びつける感覚(sensibility)は、一八世紀の知的パラダイムにおいて高く評価されたものであり、ジェファーソンの主著『ヴァージニア覚え書』を読んでも、彼が民主政治の諸制度の根底に、アメリカの風土や気候を感じ取る能力を置いていたことが分かる。公共的な生と個人的な生をともに包み込む「感覚」の哲学者・文学者としてジェファーソンを理解しようとするジャイルズの見解は、十分な注目に値するだろう[4]。  その一方、アメリカがヨーロッパに及ぼした思想的影響も甚大であった。一八世紀の初期グローバリゼーションを背景として、当時のヨーロッパの思想家たちの観念は、環大西洋世界から強い作用を受けた。『カンディード』や『ロビンソン・クルーソー』の心象地理には、さも当然のように大西洋が組み込まれていたし、イギリスのデイヴィッド・ヒュームの哲学的著述も、環大西洋世界から得られる多くの情報によって支えられていた[5]。ジェファーソンもまた、アメリカの最も知的な政治家であり、かつ政治の前線に立つ一八世紀の大西洋人でもあるという二重性を備えていたと言えるだろう。
    2、すべてを変えてしまった革命
     では、独立宣言の切り開いたアメリカではいかなる《世界文学》が産出されたのだろうか。この本題に入る前に、ヨーロッパ人がアメリカへの進出をどう理解していたかというテーマを、もう少し掘り下げておこう。  独立宣言と同じ一七七六年に、イギリスでは経済学者アダム・スミスの『国富論』が刊行された。スミスはそこでヨーロッパ人の植民史を大きく取り上げている。彼によれば、古代のギリシア人やローマ人にとって植民地建設には居住空間の拡大という明快な目的があったのに対して、アメリカ大陸の植民地ははっきりしたニーズがないままに創設された。
    アメリカと西インド諸島における植民地の設立は、必要性から生じたものではなく、その結果生じた効用がきわめて大きなものであったとはいえ、それは、まったく明白かつ明瞭なものではなかった。それは最初に設立された時に理解されておらず、しかも、その設立の動機や、それを発生させることになった発見の動機でもなかったから、その効用の性質、程度や限界は、おそらく今日でも十分に理解されていないのである。[6]
     ヨーロッパ人は自らがなぜ植民地を欲するのか、植民地がいかなる効用をもつのか十分に理解しないうちに、アメリカと西インド諸島に植民地を創設した。しかも、このニーズを超えた過剰な集団行動こそが、世界を劇的に変化させたのである。ミクロな個人の利益追求がマクロな「意図せざる目的」を達成するという≪見えざる手≫に注目したアダム・スミスは、ヨーロッパの植民史にも人間の意図を超えた力を認めた。  さらに、フランスのディドロも同時代のスミスとよく似た認識を記していた。フランス革命前夜の一七七〇年に初版刊行されたギヨーム゠トマ・レーナルの大著『両インド史』に寄せた序文で、ディドロは新世界の発見を「革命」だと明言した。「新しい関係と新しい欲望によって、もっとも離れた国の人間同士が相互に近づいた」。経済圏が広がり、人間どうしの距離が縮まった結果として「いたるところで、人びとは意見や法律や慣習や病気や薬や美徳や悪徳をお互いに交換してきた」。ディドロはここで、あらゆるものが交換可能な商品になった、グローバルな商業ネットワークの到来を率直に認めていた。  そもそも、スミスやディドロが生きたのは、ヨーロッパの資本主義経済が急速に拡大した時代である。ウォーラーステインによれば、一七五〇年前後を境にして、インド亜大陸、オスマン帝国、ロシア、西アフリカといった諸地域が、世界経済に組み込まれた[7]。ディドロが気づいていたのは、それまで資本主義の外部にあった地域を内部化してゆく巨大な経済圏の出現が、前例のない「革命」であったということである。  しかも、ディドロの考えでは、自ら植民地を築いたにもかかわらず、ヨーロッパ人はこの全人類の接近の帰結を十全に理解していない。「ヨーロッパはいたるところに植民地を作ってきた。しかし、ヨーロッパは、植民地がどのような原理にもとづいて作られなければならないかを知っているだろうか」。このスミスにも似た問いかけは、人類の未来に対するディドロの懸念をいっそう深くした。
    すべてが変わってしまったし、今後も変わっていくに違いない。しかし、過去に生じた革命は、人間本性にとって有益なものであっただろうか。また、今後、まちがいなく起こると思われる革命は、人間本性にとって有益なものになるだろうか。いつの日か人間は、これらの革命のおかげで、よりいっそうの平安と幸福と快楽を得ることになるだろうか。人間の状態は、よりいっそうよくなるだろうか。それともただ変化していくだけなのだろうか。[8]
     ディドロは植民地の獲得が、ヨーロッパのすべてを根本的に変えてしまったことに驚いている。ヨーロッパ人はこの思いがけない革命が「人間本性」にとって、幸福な変化であったかを検証する術をもたなかった。  ヨーロッパ人が植民地事業によって、自らの根源的な自然=本性(nature)をも知らないうちに変えてしまったというディドロの考え方には、深い内省の跡が感じられる。それは、一八世紀文学の主人公像とも無関係ではない。例えば、ロビンソン・クルーソーは南米植民地の経営者、海賊の捕虜、さらに孤島の漂流者へと生まれ変わる。このめまぐるしい変身は、植民地の支配者であることによって、かえって不慮のアクシデントにさらされ、孤独な漂流者になったヨーロッパ人の姿を寓意している。『両インド史』に関わったディドロは、このクルーソー的な逆説を見事に捉えていたように思える。