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  • 『もののあはれ』の実装は可能か──「necomimi」作者・加賀谷友典が師・江藤淳から継承した思想(PLANETSアーカイブス)

    2020-12-24 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、脳波で動く猫耳「necomimi」を作った、加賀谷友典さんのインタビューです。一見キャッチーなプロジェクトの先に浮かび上がったのは「もののあはれ」という意外な言葉。そのルーツには師である文芸評論家・江藤淳から継承した思想がありました。(構成:稲葉ほたて・池田明季哉)※この記事は2014年7月9日に配信した記事の再配信です。※インタビュー内容は、2014年当時の状況に基づいたものです。
    necomimiの作者は何をつくろうとしているのか
    宇野 僕は加賀谷さんを人に紹介しようと思う時に、いつもどう紹介したらいいか悩んでしまうんですよ。加賀谷さんのような立場でものづくりに関わっている人って、僕の知る限りほとんどいない。効率化と最適化を行うコンサルティングだけでもないし、単に表層的なアイディアを出すのでもない。何か思想を含めた、トータルなビジョンを提案しているように感じるんです。
    加賀谷 そうですね。僕のやっていることは説明が難しいんです。最近自分のことを「新規事業開発専門のプランナー」と言えばなんとなく耳慣れていて納得してもらいやすい、ということを覚えたんですが……(笑)。もっと本質的なことですよね。
    僕は情報ジャンキーなんで、純粋に知りたい欲求で動いているんです。だからたまたま物事がメジャーになる手前でキャッチすることが多くて、それをプロジェクトにしていく感じです。例えばphonebookはまだガラケー全盛のスマホ黎明期に、タッチパネルを使って絵本を作ったプロジェクトでした。
     
    ▲phonebook
    その後はiButterflyという、ARとGPSを組み合わせて、ある場所にしかいない蝶を捕まえてクーポンをゲットするアプリケーションを作りました(参照)。
    それでスマホはだいたいやったな、と思ってシリコンバレーに遊びに行ったら、脳波テクノロジー・ベンチャーのニューロスカイ社と仲良くなり、それでnecomimiに繋がっていったわけなんです。
    ▲necomimi
    宇野 加賀谷さんのプロジェクトって、言ってしまえば全てコミュニケーションなんです。でもその捉え方が普通と少し違っているのが興味深い。
    そもそも情報機器によるコミュニケーションって、文字とハイパーリンクによって人間の内面を陶冶していくような話が多いじゃないですか。しかも、現在のネット空間を見ていると、その可能性を語るのはかなり厳しくなっている。ところが、加賀谷さんのプロジェクトはそんなふうに人間を文字で内面から陶冶する可能性なんて一度も検討したことがないような気さえする(笑)。
    加賀谷 まさに、そういうところからは距離をおいてますね……。だって、動物の生態系なんて、非言語的ではあっても、情報のやりとりはなされているわけでしょう。別に言語に拘る必要はないじゃないですか。

    文芸評論家・江藤淳がコンピュータ・サイエンスについて語った"予言"
    宇野 プロフィールを見て気になったのですが、加賀谷さんはSFCにいたときに、文芸評論家の江藤淳のゼミにいらっしゃっいましたよね。
    加賀谷 そこに目をつけますか(笑)。江藤先生のことを話すのは初めてですよ……。僕が先生と出会ったのは、ちょうど江藤さんが学部での講義を再開した頃でした。後継者として文芸評論家の福田和也さんを連れて来られる数年前ですね。
    僕の方は当時大学の一年生で、SFCに政治哲学をやりたくて入ったばかりだったのですが、あの頃は現実の政治体制の分析みたいなことしかやっていなくて……もう正直なところ、退学しようと思っていたんです。でも、そんなある日、ちょうど病気の療養から回復してきたばかりの江藤淳さんが、それでまでに一度も話したことがないという「現代思想」の講義をするという機会があったんです。
    じゃあ、それだけは聞いて辞めようと足を運んで……僕は人生で最も興奮する講義を聞いたんです。
    宇野 それは、とんでもなく貴重な機会に恵まれましたね。
    加賀谷 その講義で一つ忘れられないのが、江藤さんがコンピュータについて言及して、「おそらくコンピュータサイエンスから、言語を否定するような言語理論が生まれてくるだろう」と言ったことなんです。
    正直なところ、当時は何を言ってるのかわからなかった(笑)――でも、なぜかめちゃくちゃに興奮したんですね。
    その後、僕は彼の日本文学のゼミで、言語哲学のようなことを始めました。周囲が坪内逍遥の作品だとかを研究している中で、「言語という秩序体系が、なぜ非秩序である"心"を表現しうるのか」みたいな思想的問題を、一人で延々と考えていたんです。そこで興味を持ったのが本居宣長でした。彼は「漢字の輸入によって、言語を文字として定着させられるようになったけれども、"もののあはれ"が失われてしまった」と「漢意」を批判しているわけですね。
    宇野 それは、江藤淳という人が近代日本のニセモノ性に極めて自覚的だったことと大きく関係してると思います。一般的には戦後日本の文化空間が敗戦とその後のアメリカによる統治によってもたらされたニセモノである、ということを批判した人だと江藤さんは思われている。それは正しいのだけど、より正確にはそんなニセモノであることに自覚的であることによってしか、現代人は成熟できないし、その自覚にしか文学は生まれない、という考えがあったと思うんですよね。そして同時にそれは日本語という日本の近代化が生んだ装置の不完全性への対峙こそが、現代文学であるという理解にもつながっていたと思うんです。
    ところが、加賀谷さんのアプローチというのは、言語が世界を表せないのなら、最初から言語以外のツールを使えばいいという発想になっている。だからそもそも言語の不完全性に向き合う必要がない。
    加賀谷 まさにそうなんです!
    だから、そういう話を江藤先生にしたら、「さすがに日本文学の研究室は違うよね」と言われて「どうしますかねえ」となって、一緒にお酒を飲んでました(笑)。
    宇野 江藤淳の弟子筋からこういう人が生まれたのは、いい意味で歴史の皮肉だと思うんですよ。
    加賀谷 でもね、それから僕は大学を出たあとに大学院にも行かずぶらぶらしていたのですが、その頃に江藤さんにお会いしたら「とりあえず、生き延びろ」と言われたことがあるんです。「俺なんて初めて給料をもらったのは30歳を過ぎたときだ。君はまだ8年もあるだろう」と(笑)。
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  • ゲームAIは〈人間の心〉の夢を見るか(後編)|三宅陽一郎×中川大地(PLANETSアーカイブス)

    2020-12-11 07:00  
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    今回のPLANETSアーカイブスは、先週に引き続き、ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんと、評論家・編集者の中川大地さんの対談をお届けします。日本のゲームとゲーム批評は、なぜダメになってしまったのか。圧倒的な技術力と資金力で成長を続ける欧米のゲームに、日本のゲームが対抗しうる方策とは?『人工知能のための哲学塾』『人工知能が「生命」になるとき』の三宅さんと『現代ゲーム全史』の中川さんが、日本のゲームと人工知能に秘められたポテンシャルについて語ります。(構成:高橋ミレイ)※本記事は2016年10月18日に配信した記事の再配信です。
    本記事の前編はこちら

    ゲーム論壇の衰退とゲーム実況の登場
    三宅 近年、日本のゲームが衰退していると言われています。その責任はもちろん開発者自身にありますが、ゲームを批評する言論の力の弱さも、原因の一端にあると思います。ゲーム産業が盛り上がった時期には、ゲームを語る文化も同時に盛り上がるのが常で、そうした時代には、ゲーム批評を担うスターが現れます。当時、『ゲーム批評』という雑誌がありましたが、今の時代にもそういうメディアや批評家の存在は必要です。
    その点、中川さんの『現代ゲーム全史』は、コンピューターの黎明期から現代の『Pokemon GO』までを網羅した、ゲームの歴史を俯瞰するマップとして使うことができる。僕はこのマップを足がかりに、ゲーム批評を再興できるのではないかと期待しています。批評が盛り上がって言論が面白くなると、ゲーム開発の現場もエキサイティングになります。そうしてユーザーとゲーム開発者が高いレベルで応答できるようになれば、もう一度、「文化としてのゲーム」を取り戻せるかもしれません。今のメディアは売り上げばかりを報じていて、商業色が濃すぎますからね。
    中川 ありがとうございます。ゲームがコンテンツカルチャーとして伸びていった2000年前後は、批評の文脈でゲームを語る人たちが、テキストサイト界隈で記事を書いていました。ところが、ちょうど三宅さんがゲーム業界に入った頃から、そういった論壇がどんどん弱くなっていった。日本のゲーム産業の停滞と共に、ゲームを批評的に語るモチベーションも衰退していって、2000年代後半に、その隙間を埋めるものとして現れたのが「ゲーム実況」でした。ニコニコ動画内で、ゲームをプレイしている動画を実況付きで放送する。このゲーム実況の登場によって、かつて批評の対象だったゲームが、ネット上のおしゃべりのネタとして共有されていきました。
    ゲーム実況でプレイされるゲームは、すでに多くの人が共通体験を持っているレトロゲームとか、あるいは『青鬼』や『ゆめにっき』といった「RPGツクール」などで制作されたフリーゲームです。あの辺の作品は、スーパーファミコン時代のゲームシステムを踏襲しながら、ストーリーテリングの部分に工夫を加えたものです。基本的にファンコミュニティが有する共通のコミュニケーションコードに即したかたちでプレイヤーの心情を揺さぶる手法で、ゲームそのものの本質としては新しい体験が生み出されていないし、求められてもいないように見えます。
    三宅 批評の役割のひとつは、その分野を他の分野とつなぐことです。例えば、ゲームと16世紀頃の絵画、あるいはゲームと別の産業のプロダクト、といったように、開発者が気付いていないような、他分野の事柄と関連づけることで新しい可能性を開拓します。確かに、ゲーム実況もこれはこれで興味深い文化なのですが、内輪の盛り上がりだけで終わってしまうのが難点です。
    なぜ日本のゲームは衰退したのか
    三宅 日本のゲームの衰退の背景には、コンピューターサイエンティストの少なさがあるように思います。ゲームプログラマーとして一流の人はたくさんいますが、ハイパフォーマンスのマシンに向けたゲームを制作する際に、コンピューターサイエンスの土壌の弱さが露呈してしまいます。その結果、相対的に欧米のゲームが伸びて、国内のゲームとその批評が衰退してしまうという連鎖が起きています。
    中川 日本のゲーム文化がピークに達した2000年代初頭ぐらいまでは、それまで蓄積したシステムを使って、いかに先進的な表現ができるかを突き詰めていくような試みがありました。ところが本格的な3Dエンジンを使う時代に入ると、技術力の不足も相まって、日本のゲーム業界全体が目的や発想力を失ってしまい、語るべき新しさを持ったゲームが現れなくなってしまったように思います。

    【12/15(火)まで】オンライン講義全4回つき先行販売中!三宅陽一郎『人工知能が「生命」になるとき』ゲームAI開発の第一人者である三宅陽一郎さんが、東西の哲学や国内外のエンターテインメントからの触発をもとに、これからの人工知能開発を導く独自のビジョンを、さまざまな切り口から展望する1冊。詳細はこちらから。
     
  • ゲームAIは〈人間の心〉の夢を見るか(前編)|三宅陽一郎×中川大地(PLANETSアーカイブス)

    2020-12-04 07:00  
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    今回のPLANETSアーカイブスは、ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんと、評論家・編集者の中川大地さんの対談をお届けします。デカルト以降の近代西洋哲学はどのように人工知能を定義するのか。欧米と日本のゲームの背景にある思想的な差異とは。『人工知能のための哲学塾』『人工知能が「生命」になるとき』の三宅さんと『現代ゲーム全史』の中川さんが、ゲームとAIについて徹底的に論じ合います。(構成:高橋ミレイ)※本記事は2016年10月18日に配信した記事の再配信です。

    実験物理学の研究からゲームAIの世界へ
    中川 今回、三宅さんとの対談をお願いしたのは、『現代ゲーム全史』をまとめてみて、ゲームと人工知能(AI)は車の両輪のような関係にあるなと感じたからなんですね。拙著の序盤の章でも述べたように、ゲームの数学的解析から始まるデジタルゲームとAIは、同じ起源を共有しています。以来、基本的には何か実用的な目的のために使うのではなく、純粋に人間がコンピューターで何ができるかの可能性を追求していくジャンルとして発展してきました。それが2012年あたりからAIではディープラーニング(深層学習)のブレイクスルーがあり、ゲームではOculus Riftなどが出てきてVRへの流れが全面化して、2016年現在はそれぞれに大きな歴史的転機が訪れています。
     そんな時流の中で、三宅さんはまさにゲームに活用するAIの専門家として、『人工知能のための哲学塾』と森川幸人さんとの共著『絵でわかる人工知能』を立て続けに出版され、AIという概念についての非常に本質的な思索を展開されていたのが印象的で、ぜひ深くお話をうかがってみたいと思ったわけなんです。
     それで、もともと三宅さんは物理学の研究をされていたそうですが、そこからどういう関心を持ってAIの研究に進まれたのかを、まずはお聞きかせ願えますでしょうか。
    三宅 最初は京都大学で数学と理論物理を勉強していました。修士課程で大阪大学に移って地下にある半径数kmという巨大な加速器でデータを取るような研究をやっていたのですが、装置を自分で作ってみたくなって、博士課程で東京大学に移り電気工学を学びました。そのうちに装置を自律的に動かすことに興味が出てきて、そこが人工知能の研究のスタートですね。「ひとつの知能を丸ごと作る」というのが僕の目標で、そういった技術はゲーム業界でこそ必要とされているはずだと思って、2004年頃にゲーム業界に入ったんです。でも、当時のゲームで使われていた人工知能は完全なものではなかった。今でも世間で人工知能と呼ばれるものの90%は、人工知能の一部を利用したものです。たとえばAmazonのレコメンドシステムやGoogle検索、ディープラーニング、画像認識などで、こういった単機能のAIの方がサービスにしやすいんですね。でも、僕が作りたいのは、ゲームの世界で本当に生きている、完全な人工知能でした。完璧でなくていいですが、知能として最低限必要な一揃いが作っているという意味で完全な人工知能です。そのためには、ゲームの中に「世界」そのものが存在しなくてはいけない。
    中川 なるほど。2000年頃といえば、ゲーム史的には2Dのドット絵の時代から、プレステ革命を経てポリゴンを用いた3DCG表現への主流の移行が完了したくらいの時期ですね。ゲーム世界が3D化すると、物理演算エンジンによって、現実の三次元空間に近い世界を作れるようになる。理念としてのAIは、特定の専門分野での用途に特化したものではなく、人間のような汎用的な問題解決のできる知能を目指すわけだから、知能に対して課題を与える環境の性格が人間のそれに近づくことが大きな意味を持つわけですね。言うなれば、AIがAIとして活動するための最も純粋なフィールドを用意しうる分野が、「世界」や「環境」を生成するテクノロジーとしてのゲームだったと。
      
    三宅 おっしゃる通りです。人間も含め、知能というのは外部の環境に合わせて相対的に生成されるので、単純な世界では知能を複雑にする必要がない。ゲームデザインが複雑になれば、人工知能もゲームを理解するために高い知能を持たなければいけなくなります。僕がゲーム業界に入ったのは、森川幸人さんがプレステで『がんばれ森川くん2号』(1997年)や『アストロノーカ』(1998年)を出した、そのちょっと後くらいでした。

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  • 『ダンガンロンパ』は「バトルロワイヤル的想像力」をどう更新したのか?──西尾維新、ゲーム的リアリティ、“ダークナイト以降”のキャラ造形から考える (井上明人×中川大地)【PLANETSアーカイブス】

    2020-06-19 07:00  
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    ▲『ダンガンロンパ』生誕10周年記念トレーラー

    今朝のPLANETSアーカイブスは、第1作発売から10周年を記念し、ゲーム研究者の井上明人さんとPLANETS副編集長・中川大地が、人気ゲームシリーズ『ダンガンロンパ』を語った対談記事をお届けします。2010年の第1作『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』(以下『1』)、2012年発売の続編『スーパーダンガンロンパ2 さよなら絶望学園』(以下『2』)はともに20万本を超える堅調な売上を記録し、2013年にはテレビアニメ化。若い世代のコスプレや二次創作シーンにも定着し、2010年代の家庭用ゲーム発の国産IPとしては特異な存在感を誇るタイトルになった本作。「ゲーム」の範囲にとどまらないこの作品の文化史的/批評的ポテンシャルを改めて語り尽くします。※この記事は2014年10月10日に配信した記事の再配信です。

    ※ネタバレが重大なゲームですので、ゲーム未プレイ/アニメ未視聴の方は注意してお読みください。

    ※この記事は、2014年9月3日にPLANETSチャンネルで放送されたニコ生番組を加筆・再構成したものです。
     
    ▼『ダンガンロンパ』とは
    学級裁判の中で相手の矛盾を論破し、殺人事件の犯人を暴いていくゲーム。ハイスピードでテンポよく展開する学級裁判の中、捜査パートで集めてきた証言や証拠を弾丸としてトリガーにセットし、相手の主張の矛盾をアクションゲームのように撃ち抜くことで論破する。推理とアクションの融合により、これまでにない。まったく新しいエキサイティングなゲーム体験を表現。(公式サイトより)
     
    ▼ストーリー
    舞台は、あらゆる分野の超一流高校生を集めて育て上げる為に設立された、政府公認の特権的な学園「私立 希望ヶ峰学園」。国の将来を担う希望を育て上げるべく設立されたこの学園に、至極平凡な主人公、苗木誠もまた入学を許可されていた。 平均的な学生の中から、抽選によってただ1名選出された超高校級の幸運児として……。入学式当日、玄関ホールで気を失った誠が目を覚ましたのは、密室となった学園内と思われる場所だった。「希望ヶ峰学園」という名前にはほど遠い、陰鬱な雰囲気。薄汚れた廊下、窓には鉄格子、牢獄のような圧迫感。何かがおかしい。 
    入学式会場で、自らを学園長と称するクマのぬいぐるみ、モノクマは生徒たちへ語りはじめる。──今後一生をこの閉鎖空間である学園内で過ごすこと。外へ出たければ殺人をすること。──主人公の誠を含め、この絶望の学園に閉じこめられたのは、全国から集められた超高校級の学生15人。生徒の信頼関係を打ち砕く事件の数々。卑劣な学級裁判。黒幕は誰なのか。その真の目論見とは……。
    (『1』のAmazon商品説明より)

    ポスト「逆転裁判」の系譜と「西尾維新」的文芸センスの融合 
    中川 今回は、PLANETSチャンネルで連載中の「中川大地の現代ゲーム全史」の番外編として、新作『絶対絶望少女』が発売されたばかりの人気ゲームシリーズ『ダンガンロンパ』について、ゲーム研究者の井上明人さんをお招きして、いま改めて語ってみようという企画です。井上さん、よろしくお願いします。
    井上 よろしくお願いします。
    中川 この『ダンガンロンパ』シリーズですが、まず第1作が発売されたのは2010年末ですよね。2010年といえば、ソーシャルゲーム市場が急激に成長して、家庭用ゲームがどんどん不振に陥っていった時期です。つまり『怪盗ロワイヤル』などが登場して一般のゲームユーザーの可処分時間を圧迫していった時期に、この『ダンガンロンパ』はクラシックなパッケージゲームの新作シリーズとして登場しつつ、比較的若い世代のライトオタク層を掴んで健闘したタイトルだった点が特徴です。井上さんが最初に『ダンガンロンパ』に注目されたきっかけは何だったんですか?
    井上 実は体験版が出た最初の段階で、ちょっと話題になっていたのでやってみたんですよ。僕はプレイステーション・ネットワークのストアで体験版を漁る習性があるんです(笑)。それでプレイしてみたら「あっ、これは『逆転裁判』をすごく意識して、変種を打ち込んできたぞ」と思いました。体験版のときは難易度調整に若干失敗気味だったんですが、非常に野心的な試みだと思いましたね。
    中川 やっぱり僕らのような30代ゲーマーからすると、まず思い浮かぶのが『逆転裁判』からの脈絡ですね。あれは第1作が出たのが2001年ですが、ゲームボーイアドバンスを代表する最初のオリジナルヒットシリーズでした。殺人事件の聞き込みや証拠品集めなどをする捜査パートと、容疑者や証人の証言の矛盾を指摘したり証拠を突きつけあったりする論争を通じて真相がつまびらかになる裁判パートの繰り返しで進行していくという構成のルーツは、ここから来ています。実際には「裁判」というよりも、ミステリーの王道の真犯人当ての形式的な趣向を置き換えただけだったわけですが、推理アドベンチャーゲームの作劇と体感性を大きく変えました。
     

    ▲『逆転裁判123 成歩堂セレクション』(発売元:カプコン/ニンテンドー3DS)
     
    その後、『逆転裁判』のフォロワーがなかなか出てこなかった中で、10年を経てようやく新しい意匠とシステムで出てきたのがこの『ダンガンロンパ』シリーズなのかなと思うんですが。
    井上 いや、『逆転裁判』のフォロワー的なタイトルは、売れていなかっただけで実はあるにはあったんです。たとえば、『有罪×無罪』『遠隔捜査 真実への23日間』なんかですね。少し離れたところでは『銃声とダイヤモンド』なんかはすごく良かった。『銃声とダイヤモンド』は、『街 〜運命の交差点〜』『かまいたちの夜』の麻野一哉さんがシナリオを手掛けていて、ゲームシステム自体もよくできていたんだけど、主要登場人物がおっさんが多めというのもあり(笑)やや渋めで、あんまり売れなかった。でも、『銃声~』はほんとにすごい作品でした。そういう作品も過去にはあったんですが、それらと『ダンガンロンパ』が何が違ったかといえば、『ダンガンロンパ』はシステム、キャラ、シナリオ、グラフィックなど多面的にK点越えをしていてグイグイ引っ張れる要素が本当にたくさんあった。ほんとに、いい作品なので、売れてよかったなぁという感想を持ちましたね。
    中川 そんな中、『ダンガンロンパ』は推理パートと裁判パートで進むゲームシステムを『逆転裁判』から継承しつつ、そこに2000年代初頭から大きく盛り上がった講談社BOXや西尾維新の一連の作品のような、フリーキーなキャラクターたちが常識ではありえないフィクショナルな状況での推理を繰り広げる、いわゆる「新伝綺」と呼ばれるミステリーとライトノベルの中間領域のような文芸センスを導入してみせたことで、それまでのフォロワータイトルとは一線を画する支持を獲得した。
    井上 『ダンガンロンパ』ですごいなと思ったのは、非常にアイロニカルで批評性があって問題意識がグネグネしたものなのに、『1』『2』ともそれぞれよく売れて、マニアックなサブカルっ子以外にもちゃんと受け入れられたことですね。それは素晴らしいことだと思う一方で、『ダンガンロンパ』や、その先駆者である西尾維新もそうだけど、グネグネしたことをやっていそうでいて、実はそんな難しい問題意識を持っていなくても楽しめるようにもなっている。そこの両立の仕方というのがすごいな、と。
    中川 単純にキャラクターコンテンツとして秀逸です。男性と女性両方のファンがついていて、ノーマルなカップリングを喜ぶ層もいるし、男どうしあるいは百合カップルでの組み合わせの要素もあるし、全方位に向いていて、10代から20代までの若い層にも受けていますよね。それに加えて、ムダに豪華な声優陣の存在もありますよね。
    井上 これは本当に豪華ですよね。
    中川 やっぱりなんといっても特筆すべきは、マスコット兼悪役で、生徒どうしのコロシアイを操るモノクマ役への大山のぶ代さんの起用。ドラえもんの声に新たなイメージを付け加えたのは、この『ダンガンロンパ』シリーズの功績(?)ですよね。
    井上 今のドラえもんの声優は水田わさびさんに代わっていて、今の子どもたちは大山のぶ代のドラえもんを知らない可能性もあるぐらいですよね。
     

    ▲ゲームを操る「モノクマ」中川 そう。別格感あふれる大山さんをはじめ、声優陣は豪華は豪華ながら、実は懐かしい感じのラインナップだった。たとえば『1』の主人公の苗木誠くんを演じたのは『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジ役の緒方恵美さんだし、『2』の主人公の日向創役はコナンで有名な高山みなみさん、メインキャラの一人である十神白夜役は同じく『エヴァ』の渚カヲルとか『ガンダムSEED』のアスランで有名な石田彰さん等々、主に1990〜2000年代のヒットアニメを代表作とするベテラン勢が中心。かろうじて現役の声優ヲタの文脈に訴求する若手と言えるのは、霧切響子役の日笠陽子さんや『2』の七海千秋役の花澤香菜さんくらいですかね。
    でもこういった今時の深夜アニメ等での旬よりは一回り年齢層高めなレジェンドクラスが起用されたことで、われわれ団塊ジュニア世代のオタク教養的なものと、近年の10-20代のニコニコ世代というか、ジュブナイルライトオタク層との共通言語ができた側面もある気がします。かつてのアニメやマンガなどの小ネタを縦横無尽に引用して詰めこみながら、それを若い世代向けに届けることに成功しているという意味では、やはり西尾維新とも通ずるところがありますよね。
    「学級裁判」が体感させる“推理”と“理不尽”の詐術
    井上 『逆転裁判』との比較をさらに掘り下げてみましょうか。『逆転裁判』の場合は、単に選択肢を選ぶのではなくて、選択肢を選ぶことに対して「なぜこの選択肢の方がいいのか」という合理的推論をする仕組みが提供されてましたよね。これは、ものすごい発明だったわけです。
    まず第一に現実のコミュニケーションを簡単なゲームシステムに変換するということが難しいわけです。で、とりあえずアドベンチャーゲームは、選択肢で会話をするという方式をだいぶ初期につくりだしたわけです。ただ、その次にどの選択肢が正解か、ということについて、納得感をどう演出するか、というのが難しい。すごいゲームデザインというのは、ここの納得感の演出というのが神がかっているわけです。
    たとえば今僕はこうやって中川さんと話していますが、僕が「中川さん、最近どうですか」とか言ったときに中川さんからいきなり「ボンッ! 不正解だ!」みたいなことをバシッと言われたら困るわけです。中川さんがそれを言ったら「この中川さんって人はちょっと、イっちゃった人だな」って感じがしますよね?
    中川 なるほど(笑)。裁判ならそれを言ってもいい、という。
    ▲『ダンガンロンパ』の学級裁判パート
     
    井上 そうです。そこまでが『逆転裁判』が切り開いた地平です。
    さらにその上の第三の地平があるわけです。『逆転裁判』との違いは、『ダンガンロンパ』って学級裁判パートがリアルタイム制であることですね。リアルタイムで議論しているなかで議論の進め方のおかしな点を指摘しないといけなくて、それがゲームとしての緊張感を生んでいた。ちなみに『逆転裁判』も最初はリアルタイム制にしようとしていたらしいんですが、ただし、さすがにそれだと難易度が高すぎるということで実装しなかった。『ダンガンロンパ』はそれをある程度、なんとか遊べる形にしてしまった。
    中川 まあ、ミスをすれば同じ議論が再びループするので、厳密な一回性という意味でのリアルタイムではなく、静的な『逆転裁判』のテキストメッセージに比べ、『ダンガンロンパ』の方が、1ターンの中のタイミング演出が動的になったというだけのことではあるんですが、アクション性が大きく高められたのは間違いない。こういう難易度調整の考え方って、基本的にアクションRPG的だと思うんですよ。ターン制のRPGは静的なパラメータに規定されていて、レベル上げやアイテム収集などプレイヤー本人の腕前によらず根気があれば誰でもできる反面、臨場感に欠ける。対して、ただのアクションゲームの場合は本人にアクションの腕前がないとゲームを進められない。
    アクションRPGはその中間で、パラメータ管理とプレイヤー本人のアクションの腕前をミックスしたゲームデザインになっている。この折衷性が、2000年代以降は『モンハン』シリーズやオープンワールド系RPGでの標準になっていますよね。それと似たようなことを、ストーリーゲームの領域でやったのがこの『ダンガンロンパ』のシステムだったんじゃないのかな。
    捜査パートで他のキャラクターと親しくなると、学級裁判でのアクションを有利にできるアイテムをもらえたりするあたりとかも含め。
    井上 今まで混ざっていなかった「アクション」と「謎解き」のふたつの要素を混ぜて、何とかいい感じに納めたのは偉業と言っていいと思います。
    中川 あと学級裁判パートで面白いのは、推理のプロセスを別種のミニゲームで置き換えていることですね。つまり、いくらプレイヤーに自分の頭で推理するリアルタイム論争に近づけると言っても、所詮は与えられた選択肢から正解を選んで一定のストーリーをなぞっていくAVGとしての本質は変わらない。そのお仕着せ感を軽減すべく、本来なら主人公が能動的な思考をするところを、パズルゲームや音ゲーなどの異なるゲーム的障壁を乗り越えていく体感性で代替して疑似体験性を補っているわけです。
    コンシューマーゲームでは、『ファイナルファンタジー』シリーズぐらいから全体のゲームシステムと関係ないさまざまなミニゲームを入れ込む流れがあって、特に『レイトン教授』シリーズは、大きな推理ストーリーの骨格の中に「脳トレ」的なクイズを組み込むことで、自分が謎解きのプロになった気分を味わえるロールプレイングの詐術を使ったのは大きかった。ああやってゲーム内にミニゲームの多様性を入れ込み「体験を体験で置き換えていく」手法は、ストーリー演出のエフェクトとは無関係なゲーム的要素をすべて取り払っていく方向にAVGシステムを特化させていった1990〜2000年代のPCノベルゲームの台頭に対する、コンシューマーならではのリアクションでもあったのかなと。
    井上 あー、ただ学級裁判のミニゲームに関してはちょっと僕は悩ましい気持ちになりましたね。特に『2』で出てきた「ロジカルダイブ」と称したスノボゲーム(下図参照)とか、さすがに「これは推理のスキルと関係が何もないのでは?」というところがありますよね。
     

    ▲『ダンガンロンパ2』に登場するゲーム内ゲーム、「ロジカルダイブ」の画面
     
    ゲームデザインにおいて、プレイ中にずっと同じことをしていると飽きるので、刺激の多様性は必要なんだけど、そこの多様性の与え方って難しいポイントなんですよね。完全に別ゲームにすると、「関係ないことをやらされるストレス」が発生しやすくなってしまう。経験としては連続していて、かつ多様な展開というのが重要なわけですが、『ダンガンロンパ』に関しては、そこは少し振り切りすぎてしまって、もう完全に別のミニゲームになっているな、とは思いました。もちろんトータルで素晴らしいゲームであることは前提として、ですがこのゲーム設計はちょっとダメなストレスの与え方だな、と感じました。
    中川 なるほど。ただ、あのスノボゲームに関して無理やり深掘りすると(笑)、『FFⅦ』でヒロインのエアリスが死んだあと、ものすごい衝撃を受けて悲しい気分になっているときにスノボゲームをやらされましたよね。それを彷彿とさせるところがあって。で、『ダンガンロンパ』ってそもそも理不尽なゲームをやらされているゲームですよね。
    井上 ああ、なるほど、あれも含めてモノクマの陰謀であると。たしかにそれなら、一貫性がとれてますね(笑)。
    『ダンガンロンパ』に埋め込まれたゲーム史的な自己言及性
    中川 『ダンガンロンパ』って、ゲーム内で『ジョジョの奇妙な冒険』や『るろうに剣心』など、団塊ジュニア以降の世代が親しんできたサブカルネタをちょくちょくぶっこんできているわけですが、その中でゲーム自体の言及もすごくあったりするので、あのスノボゲームも『FFⅦ』のオマージュなんじゃないか、なんてことも思ったりするんですよね(笑)。
    これがあながち邪推すぎるわけでもないかと思うのは、『2』に『トワイライトシンドローム』っていう妙なサイドビュー画面のゲーム内ゲームが出てくるじゃないですか。実際、本作を制作したスパイクの前身の会社が同名のシリーズをちょうど1990年代後半にPSで出していて、さらに後には『夕闇通り探検隊』という伝説的な後継作品にもなっていますが、そういうセルフオマージュを入れてきているわけです。
     

    ▲ゲーム内ゲームとして登場する『トワイライトシンドローム』の画面。
     
    ここにはちょうど、『FFⅦ』までのPS第一世代的なローポリゴンの不気味の谷(3D表現の進化過程で人間の造形が中途半端に再現されると妙に不気味に感じられる段階があること)や構成のチグハグさ、操作系の未洗練さなどが結果的に恐怖や理不尽さの表現として独特の味わいを醸し出していた時代のゲーム史的な記憶を、意識的に埋め込む姿勢が感じられるんですよ。
    井上 『moon』(1997年にラブデリックが開発しアスキーが販売したPS用ゲームソフト。王道RPGやゲームそのものを批評的に捉え返した名作とされる)と同じく、ゲーム内ゲームを構築して、その中でゲームに対する批評性みたいなものをちゃんと獲得していくというやり方ですよね。
    中川 そもそも『ダンガンロンパ』という作品全体が、ゲーム内で登場人物たちが理不尽なデスゲームをやらされているという二重構造になっていて、それに対する言及が1作目のときからキモだったんだけど、それをさらにメタ視点で捉え返すかたちで2作目がつくられていますからね。
    プレイしていて思い出したのが『メタルギアソリッド』の1、2の関係です。メタルギアは第1作の主人公・スネークがシャドーモセス島事件でああいう経験をして、2作目の主人公の雷電はその1の体験のコピーを仕組まれたゲームとしてやらされていて、それを1の主人公だったスネークが最後に解き明かして導いていくという構造があった。これはまさに『ダンガンロンパ』の1、2作目の作劇構造と同じですよね。
    井上 なるほど。ただ僕としては、中川さんとは少し違う感想を持っていて。『ダンガンロンパ』は1作目の時点ですでにリアリティショー(台本や演出なしで素人の出演者がさまざまな状況に直面するさまをドキュメンタリー形式で放送するテレビ番組の一形態)として、中のコロシアイの様子が全世界に中継されていたわけですよね。続く『2』ではそのリアリティショーをさらにバーチャルリアリティに嵌め込んでいるというわけのわからないことをやっていて、これは「お約束をことごとく覆していく」という意味で、すごく西尾維新的な構造だなと思ったんですよ。
    中川 たしかにそうですね。『1』では、閉鎖空間でコロシアイをさせられている学園内がディストピアだと思っていたら、実は世界全体のほうがすでに絶望病に冒されていて『北斗の拳』みたいな終末的な世界になっていて、むしろ学園のなかのほうが守られていた、というどんでん返しがあるわけです。そこにさらにモノクマが登場して学園をコロシアイの舞台にしてリアリティショーとして外の世界に中継していた、という。
    『ダンガンロンパ』に結実した「バトルロワイヤル」な想像力の系譜
    井上 これは『ダンガンロンパ』に限らない話ですが、バトルロワイヤルとリアリティショーはなんでこんなに相性が良いのか、というのも論点の一つかもしれないですよね。
    中川 2000年代以降に台頭してきたバトルロワイヤル的な想像力って、学校やクラスの狭い人間関係の持つ日常の残酷さの表象として、クローズド・サークルのなかで疑心暗鬼になってコロシアイをさせられるというようなものですよね。で、そもそもバトルロワイヤル系の語源である『バトル・ロワイアル』(高見広春による小説。1999年刊で2000年に映画化され大ヒットした)がまさに、「少年たちがバトルする様子を大人たちが見て楽しむ」という構造でしたよね。僕の考えでは、00年代前半の時点ですでにゲームの体験がある程度、人々のリアリティに刷り込まれていたからこそ、殺し合いとリアリティーショーを結びつけるバトルロワイヤル系の想像力が出てきたのかな、と。その感覚が映画や小説に波及して、それをもう一回ゲームのほうに持ち帰ってきたのが『ダンガンロンパ』だったとも位置付けられるんじゃないでしょうか。
    井上 なるほど。ゲーム発だったどうかかは、はっきりと断言できないですけど、その説明は説得的だと思います。
    ちなみに僕の知り合いの20代前半の子が『ぼくらの』とか、バトルロワイヤルものがすごい好きで「こういうものにこそ人間の真実があると思うんですよ」ということをずっと言っていたんですよ。で、案の定『ダンガンロンパ』にはドハマりをしていました。20代前後の子が「ここにこそ人間の真実が!!」という感想を持つのは、頭では理解できなくはないけど、直感的には今ひとつピンとわからない。おそらく、僕が1990年に生まれていたら理解できたのかもしれませんけれど、そこの感覚が今ひとつ腑に落ちる感じがありません。中川さんはどうですか?
    中川 やっぱり1970年代生まれの自分自身のリアリティとして、そういう感覚はないですよ(笑)。でもそれこそ、宇野君が『ゼロ年代の想像力』で書いていたように、『新世紀エヴァンゲリオン』以降の世代にとっては、ある種のバトルロワイヤル的な想像力が身の周りの社会をイメージする上での前提的なリアリティになっていて、まだ引きこもる余裕のあった『エヴァ』以前に思春期を過ごした世代にはその感覚があんまりわからない、というのはあるんじゃないですか。
    80年代に実現された高度消費社会って、あくまで誰かに構築された偽物で、これはいつ壊れてもおかしくないものであるという感覚があり、それは『トゥルーマン・ショー』のような「この平和な日常は本当は存在しない、仕組まれたバーチャルなものなんだ」という想像力を生み出しましたよね。その一方で、旧ソ連が崩壊する前までは「核戦争が起こって世界が終わる」ということにリアリティがあって、そういった終末世界を描くフィクションもたくさんありました。
    つまり『ダンガンロンパ』を規定している構造として、子供たちの2000年代以降のリアリティ(教室内でのバトルロワイヤル)を、大人が構築した1980年代的リアリティ(トゥルーマン・ショーと終末的な世界)が取り巻いている、という重層的な構造があるとも言える。
    井上 ただ、今日び「終末後の世界」をそこまで気合を入れて描く気はないのだろうなっていう感じもしませんでした? 「人類史上最大最悪の絶望的事件」って、えらくざっくりとした表現ですし……。
    中川 まあ、そこにはリアリティはないですよね(笑)。ポスト『エヴァ』の想像力としてバトルロワイヤル系と比肩される、いわゆるセカイ系的な想像力の流行って、新海誠のアニメやノベルゲームのような個人レベルのミニマムな制作環境と親和性が高かったと思うんですよ。他方、集団制作を前提としたコンシューマーゲームだと、もうすこし大勢のキャラクターを表現できるという事情もあって、教室レベルのクローズドな人間関係を主題化するリアリティサイズが表現できた。
    しかし、その外側は後景としてボンヤリとせざるをえないあたりは共通している。それでも2000年の『高機動幻想ガンパレード・マーチ』なんかは、教室外のマクロな世界の戦争状況をうっすらとパラメータ化して関連させていたわけですけどね。
    井上 セカイ系という物語形式って、要は「世界が滅ぶ/滅ばない」という大きなスケールの話が、主人公の周りのローカルな人間関係と直結するというものでしたよね。で、同学年の同じ部活の友達だけで楽しく過ごす日常を描いた『けいおん!』のようなものを「空気系」というわけですが、実は近場の人間関係だけ選んでいるという意味ではバトルロワイヤルものもそうで、この二つは近い関係にあるのかなと思ったりするんですけど。
    中川 まさに、その二つは表裏一体ですよね。近場の人間関係のユートピア感だけを取り出すと空気系のぬるい世界になり、逆に残酷な面を戯画化して描くとバトルロワイヤル系になるという。『2』は最初に、(後でモノクマの妹という設定に無理やりされる)「モノミ」というキャラが出てきて、「みなさん、この南国の島で、修学旅行を永遠に楽しみまちょうね〜」って言っていて、実際に本編とは別にモノクマが登場しない平和な日常を楽しく過ごす「アイランドモード」というモードもありますが、それはまさに空気系的な世界観が表裏一体の構造として、この作品に埋め込まれているということの証左でもありますよね。
    2010年代的なキャラクター造形とゲームの形式的必然が生んだ「黒幕」
    井上 ……と、裏のほうから「キャラの話をしてくれ」というオーダーがきているので、すこし強引な振りになりますが(笑)、『ダンガンロンパ』が空気系的な構造すらも取り込んでいるとすると、空気系においてやっぱり重要なのはキャラ描写ですよね。『ダンガンロンパ』は本当にキャラづけが強いゲームだということがあると思いますが、
    中川 『逆転裁判』の頃から成歩堂くんとか真宵ちゃんみたいな感じで記号的かつフリーキーにキャラを立てていく流れがありましたが、『ダンガンロンパ』はその傾向をさらに押し進めつつ、2010年代のボカロ世代や「カゲロウプロジェクト」好きなどにも通ずる、ジュブナイルライトオタク層の感性に適した元ネタをぶちこんだキャラクター造形へとアップデートできた点に勝因がありました。ちなみに井上さんが一番好きなキャラは?
    井上 僕は『2』に登場する超高校級の飼育委員・田中眼蛇夢くんが、ペットであるハムスターを「破壊神暗黒四天王」と呼ぶ、あのパッケージングが好きですね。ハムスターだけ出されてもげんなりですが。
    中川 なるほど(笑)。まさに彼なんかは、「厨二病」という2000年代後半以降のライトオタク層が自嘲的に共有するに至った属性を取り込んだ典型例ですね。実際人気も高いですし。僕は男性キャラでは、やはり『2』の狛枝凪斗くんの造形に度肝を抜かれました。狛枝くんは名前が1作目の主人公の苗木誠のアナグラムで、声優も同じ緒方恵美さんだし「超高校級の幸運」というところも同じなのに、第1話でいきなり前作の記憶のあるプレイヤーの予期を覆してみせる攪乱者ぶりが見事すぎました。彼のクライマックスである第5話でもそうだけど、彼の能力をああいうかたちでトリックに活かすというのも狂っていたし。
    井上 たしかに狛枝くんのあのトリックは、本当にゲームデザインとシナリオを融合させた非常に素晴らしい、歴史に残したいトリックといってもいいですね。
    中川 シナリオ自体が強烈にキャラクター性を引っ張っていましたよね。このシリーズを手がけている小高和剛さんのシナリオライターとしての力をすごく感じさせられたキャラだった。
    一方、女性キャラでインパクトが強かったのは『1』の大神さくらちゃんですね。明らかに『北斗の拳』のラオウや『グラップラー刃牙』の範馬勇次郎みたいな格闘マンガのラスボスをムリヤリ女子高生化したネタキャラ枠なのに、それをシナリオの力で最後にはあれだけ可憐な乙女っぽく思わせたのも圧巻でした。
    井上 さくらちゃんはすごい露骨ですけど、超高校級のアイドルとか、超高校級の野球選手とか、超高校級の文学少女とか、全部マンガ違いのキャラですよね。そういうジャンル違いのキャラクターを一同に会させてバトルロワイヤルさせるというのがこのゲームのコンセプトでもあった。
    中川 キャラクターの話が出たので、重大なネタバレですが、ここからはあのキャラクターの話をしましょうか。
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  • 【特別寄稿】三宅陽一郎「解題『正解するカド』」【PLANETSアーカイブス】

    2020-06-12 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、2017年放送のアニメ『正解するカド』について、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんによる寄稿をお届けします。『2001年宇宙の旅』や『スタートレック』といったSF作品の系譜を継ぐ、正統的な「ファーストコンタクトもの」である本作。異方存在ヤハクィザシュニナの現代性、そして、この物語が最後に辿り着いた「正解」とは?(※注意:本記事には作品に関するネタバレがあります)※この記事は2017年7月12日に配信した記事の再配信です。
    カド
     『正解するカド』は、大ヒットとなったフル3D劇場アニメーション『楽園追放』(2014年)を放った東映アニメーションが、同作品の野口光一プロデューサーの指揮のもと、ユニークな作品群で注目を集める野崎まど氏を脚本に擁し、満を持して放つフル3Dテレビアニメーションである。ゲームエンジンUnity3Dを用いた計算による表現が「カド」の時間結晶運動の表現に用いられている。
     『正解するカド』は彼方からやってくる存在「異方」との出会いの物語である。それは極めて仕組まれた出会いであり、「ファーストコンタクト」と言ってもまったく一方的な出会いである。それは降臨と言ってもいいし「押しかける」と言ってもいいし、あるいは「取り立てる」と言うべきかもしれない。何百億年と異方から長らく宇宙を見守っていた存在が、満を持して会いに来た、そんな出会いなのである。

    図 「正解するカド」設定見取り図
     出現する異次元からの立方体は「カド」と呼ばれる、多次元の存在が幾重にも折りたたまれたフラクタル立方体である。第一話で飛行機をまるごと飲み込んでしまうが、乗客の安全は保障される。飛行機は一つの比喩であり、いつでも地球全体を飲み込めることを暗示している。「カド」は人類を超えた圧倒的な存在であることを証明したのだ。「カド」は3次元の空間ではなく、この宇宙とは異なる物理法則を持つより高次元の存在(3+37次元)である。「カド」によって「異方」より来たりしは「ヤハクィザシュニナ」一人である。その高次元の存在体は、人間の警戒心を抑えるために白い装束に身を包み、真っ白い髪を持つ男性として顕現する。人間の言語を一瞬で学習し、人間とのコンタクトを始める。物語はこのカドを代表する「ヤハクィザシュニナ」と、人類を代表して外務省 国連政策課の交渉官(ネゴシエーター)である「真道幸路朗(しんどう・こうじろう)」との交渉を軸として展開される。

    ヤハクィザシュニナ(1)
     ヤハクィザシュニナの東洋的な姿、そして彼がそこから来た場所である「異方」はその根底に東洋的神話を思わせる。一つの世界に、その世界に属さない客人(まろうど)、あるいは「まれびと」として現れる存在である。世界に新しい兆しをもたらし、去って行く存在である。
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  • 【緊急対談】石川善樹 × 安宅和人 人間は臨死体験せずに根性論を突破できるのか?(後編)【PLANETSアーカイブス】

    2020-06-05 07:00  
    550pt



    今朝のPLANETSアーカイブスは、本メルマガで連載していた「〈思想〉としての予防医学」著者の石川善樹さんと、『イシューからはじめよ』著者にしてヤフー・ジャパンCSO・安宅和人さんの対談記事の後編をお届けします。前編で、「根性論」の撲滅について一定の結論を得た安宅氏と石川氏。今回はその先にある、本当に〈効率的〉な物事の進め方とはどんなものかを語り合います。※この記事は2016年4月25日に配信した記事の再配信です。
    予防医学研究者・石川善樹さんが6月9日(火)開催のイベント「遅いインターネット会議」に出演されます! 【イベント概要】 6/9(火)石川善樹「予防医学者の考えるコロナ危機から学ぶべきこと」 パンデミックをインフォデミックが補完する悪夢はいつ終わるのか。予防医学者でありながら、組織論から幸福論まで広く社会に提言を続けてきた石川善樹さんをお招きし、コロナ危機からいま人類が学ぶべきことについて議論します。 イベント詳細・お申し込みはこちらから。
    本対談の前編はこちらから。
    研究結果が教える「効率のいい働き方」
    石川 最善の学習戦略とは何か。そんなことを研究した論文が2010年のサイエンス誌に出ていました。その研究は、複雑な環境を生き抜く上で、「外に新しい情報を取りに行く」のと「自分で実験・考察する」のを、どれくらいのバランスで行うとよいのかシミュレーションしたものです。
    すると、外に情報を取りに行くのを「9」、自分で試行錯誤するのを「1」くらいの比率でやるのがもっとも生存確率が高いというんです。
    正直、ちょっと意外な結果でした。一人でもんもんと悩むのはそんなに効率が悪いことなのかと(笑)。そんなことより、よい情報はもう十分外にあるから、それを取りにいけばいいのだと。
    安宅 ああ、これはマッキンゼーでもよく言われていた話です。「Don't reinvent the wheel」――すなわち「車輪を再発明するんじゃない」と。
    世界中の大企業の7割とかをクライアントに持っていて、広範な最先端の経営課題についてコンスタントに誰かが扱っているのだから、もうどこかに何か解答か、カギになるモノの見方が転がっている可能性が高い。「とにかくまずは聞いて回れ」というわけです。すると、実際、多くの場合、ある程度の方向性はわかってしまう(笑)。
    最初、向かうべき方向性が360度、すべての方向性にありえるように見えても、この30度の辺りに答えがあるなと見えてくる。この削ぎ落とされた330度のバリ取りのパワーというのはとてつもないです。
    石川 プロジェクトが始まる前に、本当にダメな手法の8~9割を知っている。
    安宅 そうなんです。
    まだ若かった頃に、社是的な考えである「DISTINCTIVEであれ」という言葉について、あるグローバルなトレーニングで世界中から集まった同僚とディスカッションしていたことがあります。すると北米オフィスのある男が「そんなのシンプルだよ」と言うんです。
    彼はDISTINCTIVEであるというのは”know the person who knows the stuff”だというのです。つまり、「それを知ってる人を知っているかどうか」が「DISTINCTIVE」の意味だと。その言葉に、そこにいたみんなシビレてしまいました。
    僕は一度会社をやめて、アメリカの大学で研究者に戻ったのですが、アメリカの大学の強さも半分ぐらいはそこにあると思いました。主要な研究大学では、関連する大半の分野で一流の研究者が揃っていて、しかも国内の近くの大学に世界レベルの専門家が普通にいるので、下のフロアに行ったり、それで無理でも、近くの町の別の大学に行けば、もう30分とか1時間で、そのテーマについての専門家に会え、フランクに話ができるんです。自分が知らないラボでも、「お前、Johnのところに行って習ってこい、言っておいてやるから」とか。あの感覚が、あまり語られないことですが、アメリカの研究を生み出す与件的なベースになっている……。これは大変に印象的でした。
    石川 しかし、そう聞くと「車輪の再発明をするな」というのは、先ほどの学習効率の研究と照らしあわせても、「根性論」に陥らない重要な手法ということになるのでしょうね。
    安宅 ですね。ただ僕はこれをストレートにやることには、心理的な抵抗がすごくあるんです(笑)。
    石川 なんと(笑)。その理由を詳しく教えてください!
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  • 【緊急対談】石川善樹 × 安宅和人 人間は臨死体験せずに根性論を突破できるのか?(前編)【PLANETSアーカイブス】

    2020-05-29 07:00  
    550pt



    今朝のPLANETSアーカイブスは、本メルマガで連載していた「〈思想〉としての予防医学」著者の石川善樹さんと、『イシューからはじめよ』著者にしてヤフー・ジャパンCSO・安宅和人さんの対談記事の前編をお届けします。ビジネスと学術を股にかけて活動する気鋭の二人が語り合うのは、日本社会にはびこる「根性論」の撲滅について。対談の前編では「そもそも私たちは根性が好きなのだ」という仮説から始めて、その具体的な解決策を論じていきます。※この記事は2016年4月11日に配信した記事の再配信です
    予防医学研究者・石川善樹さんが6月9日(火)開催のイベント「遅いインターネット会議」に出演されます! 【イベント概要】 6/9(火)石川善樹「予防医学者の考えるコロナ危機から学ぶべきこと」 パンデミックをインフォデミックが補完する悪夢はいつ終わるのか。予防医学者でありながら、組織論から幸福論まで広く社会に提言を続けてきた石川善樹さんをお招きし、コロナ危機からいま人類が学ぶべきことについて議論します。 イベント詳細・お申し込みはこちらから。
    宇野 今日は石川さんと安宅さんのお二人に「日本社会にとっていかに根性論が有害であり、いかに撲滅すべきか」を徹底的に討論していただきたいと思っています。きっかけはある新年会での雑談なのですが、僕はお二人の話を伺っていて、これは日本の起業社会批判であると同時に、知的生産の効率を突き詰めていくと、どうも僕達が前提にしている人間観や知のイメージ自体の大幅な修正を要求するような、大きな話につながるように感じました。
    そこで改めてお二人に対談をお願いした次第ですが、話の取っ掛かりにしたいのは、安宅さんが『イシューからはじめよ』の帯に「根性に逃げるな」と書いていることなんですよ。まず、安宅さんが「イシュー本」を書くときに、根性論をひとつ標的に定めようと思った理由を聞いてみたいんですね。
    安宅 こと仕事という観点で、なぜ根性論がそんなに嫌なのかという話をするなら、やっぱり労働時間で勝負しようとするようになるからですね。で、根性があったからアイツは成功したんだ、みたいな言い方が世の中にまかり通っている。
    これの何が良くないかというと、実際に根性出して頑張ると、成功してしまうんですよ(笑)。
    ただ、そういう人たちはだいたい一度は身体を壊している。で、身体を壊したところで、はたとマズかったと気づく(笑)。逆に気づかなかった人は成功していません。つまり、成長したのは根性でやっていたからではなくて、途中で「あれ、もしかして重要なのは根性じゃないのかな?」と気づくことにあるわけです。大事なのは、根性を出して頑張る過程で気づくことにあるんです。
    石川 なるほど。
    安宅 でも、それって実にバカバカしい話だと思うわけですよ。
    あともう一つ言うと、根性論というのがあんまり役に立たないというのもあるんですよ。例えば、この国の人は習い事が好きですよね。なんとか検定とか。
    石川 まさに資格なんて根性論の最たるものだと思いますけど、本当に日本人は好きですよね。休日にカフェに行くと、資格の勉強をしている社会人が実に多い。
    宇野 サラリーマン時代、勤めていた会社の近くにある本屋に、昼休みなんかに行くじゃないですか。そうすると、近所の金融機関に務めているOLたちが、制服を着たまま思いつめた表情で語学のコーナーにいるんですよ(笑)。
    たぶん彼女たちは、なにか変わった自分になりたくて、とりあえず価値のあることをやろうと思った結果、その語学勉強テキストのコーナーにいたんだと思うんです。でも、本当にそうだったら、そんな語学や資格のコーナーになんていないで、むしろその周囲にある本をもっと立ち読みすればいいのに、と当時の僕は思っていましたね。
    安宅 僕が出席している集まりでも、とにかく「データサイエンティストの資格化はできないだろうか」みたいな話が繰り返し出てきます。ただ、例えば10億単位のデータの環境を構築する、あるいはそのレベルのデータをキレイにする、これらを使って意味合いを出す、というようなスキルが、試験で分かると言うのはいくらなんでも難しい、と思うのです。そもそも能力を見るために、特別な環境とデータハンドリングにかなりの時間が必要なスキルですので……。
    石川 結局、資格の勉強って、いま自分が着実に前に進んでる感じがあるんじゃないですかね。
    安宅 ですね。それはわかります。
    人間はなぜ根性論が好きなのか
    宇野 でも、今の話は、今日の「根性論」の話の結構重要なポイントなんじゃないでしょうか。
    そもそも根性論を撲滅するためには、なぜそれが世の中にこれほどはびこっているのかを考えなければいけないと思うんです。それで言うと、どうも僕が見るに「根性論」には、独特の快楽があるんですよ。
    つまり、イシュー本で安宅さんが「犬の道」と呼んだような道を人々が歩くのは、適度に刺激や負荷がかかった状態で、ダラダラと同じことを反復するときの、あの“ぬるま湯”に浸かるような麻薬的な快楽があるというのが大きいんだろうと思うんです。まずは、そこから議論を始めるべきなんじゃないかと思いますね。
    安宅 そういう側面はあると思います。
    特に日本人にそういう傾向があるのは、一つは幼少時の教育ですね。結果じゃなくて努力を褒めるように指導する教育論があるでしょう。もちろん、教育学的に正しい面も多々あると思いますが、あれをやられすぎると「何かをやること自体に価値がある」という価値観に近づいていくんです。
    宇野 でも、それはいわば工業社会下において、そういう教育が最適解だったからという話でしかない気もしますね。むしろ、今後の社会に対応した教育をしていく中で自然に解消していくような気もします。
    石川 もう一つ、そこに「レールの議論」というのもあるんだと思います。
    日本という国は社会にレールを敷いているじゃないですか。そこに乗れば、20年学んで、40年働いて、その後20年休めばいい、という安全な人生が一つあるわけですよ。その世界観の中では、人生は一本の細いレールであって、その上で努力しさえすればいい。
    でも、そのレールから外れたらヤバイことになる。どのくらいヤバイかというと、Googleで「日本 レール」と調べると、サジェスチョンに「外れる」と出てくるんです(笑)。
    一同 (笑)
    宇野 鉄道関係を検索している人よりも、それを検索する人のほうが多いってことですよね(笑)。
    安宅 マシンラーニング(機械学習)の結果にそれが現れているというのは、実に暗い結果ですね(笑)。
    ところが、本当は色々なレールが人生にはあるわけですよ。
    よく僕は事業戦略の講義なんかをやるんですが、そこで「戦略なんて手段にすぎないのであって、目的地に行く方法なんていくらでもあるんだ」と言うと、みんなビックリする。
    でも、そんなのは当たり前の話でしょう。人生だって同じことだと思うのだけど、「目的地に向かうレールは何本もあってもいい」という発想が出てきにくい社会になっているんでしょうね。でも、これは(かつて10年あまり過ごした)マッキンゼーのような会社のヒトでも、そういうところがありましたからね……。
    石川 前に映像作家の蜷川実花さんと話したときに、「数学なんて0点だったし、勉強なんてしたくなかった」と言っていたんですよ。ところが、話している最中に彼女が「私、今日息子に怒っちゃったんです」と言うから、理由を聞いてみたら「公文式をちゃんとやってないから」と言うんです(笑)。
    安宅 あなた、自分が数学は0点だったと言ってたじゃないか、と(笑)! ちなみに僕、蜷川さんの写真、大好きです。
    石川 彼女はアーティストして大成功した人ですけど、その道がいかに険しい道であるかもよくわかるわけです。周りの人がどんどん落ちていった姿も見ていたわけですし。そのときに、子供には「やっぱ公文やらせた方がいいのかな」となったんだと思います(笑)。やっぱり蜷川さんほどの人でも、レールから外れてアーティストの道を行ったあげくに、そこで失敗してしまうことには怖さがあるということだと思うんです。そのとき、レールに上手く乗って、あとは根性で努力を積み重ねるのが確実だという発想になったのだと思うんですよ。
    安宅 まあ、人間は無意味な時間を過ごしたくないというのはあるんです。
    そういう意味では、ちょっとずつ確実に前に進んでいる幸せというのはありますよね。真剣に考えれば、この場所に真っ直ぐ向かうことに価値があるという場合でも、なんとなく目の前の遠回りの道をコツコツ歩む、あるいは実はゴールから離れていく道を、そのことを意識することなく進んでいくことを選んでしまう。
    石川 遠くに目標を置くのは、人間は苦手ですからね。
    「根性論」の歴史学
    石川 少し歴史的な話をすると、「根性」という概念が初めて登場したのは近代のイギリスなんです。
    というのも、19世紀までの世界はほとんどが田舎で。田舎では「根性」よりも「規範に従うこと」の方がよっぽど大事だったんですね。根性論に通ずるような努力の概念は、そういう場所では生まれないんです。ところが、産業革命が起こって、都市が生まれると状況は変わってくる。
    都市というのは「頑張った者勝ち」の世界なんですよ。そうなると、人間は「規範」から抜け出して、そこで相手を出し抜こうとする。そういう状況下で登場したのが、サミュエル・スマイルズの『自助論』という本です。この『自助論』には偉人たちが300人ぐらい出てくるのですが、彼らが偉人になった理由の説明は、すべて「頑張った」から(笑)。
    安宅 (笑)
    石川 例えば、「どうしても朝起きられなかった人が、召使いに毎朝水をバシャーっとかけて起こしてもらうようになって、それで朝活の勉強を頑張ることで偉くなった」とか、もうそんな話ばかり(笑)。ちなみに、この本は日本にも『西国立志編』という題名で訳されて、明治時代の『学問のすゝめ』と並ぶ二大ベストセラーになっています。これはいわば日本人の道徳の教科書になった本でもあって、スマイルズの根性論は直接的に日本にも届いているんですね。
    安宅 でも、それって平和な時代の思想でしょう。
    頑張ればなんとかなるように道が見えているときは、それでもいいですよ。正しいあり方が一個しかないときは、まさに「頑張れ」で行けるんだと思うんですよ。でもイノベーションが起きて、変化が起きていく時代には、そういう発想は通じないでしょう。万単位のデータ処理がスプレッドシートで一瞬ででき、人工知能が高速で情報の自動処理をしていく時に、丁寧に人手で頑張っても勝ちようがないというか。
    石川 まさに、そうなんです。その意味で、この「根性論」のマズさに最初に気づいたのは旧ソ連でした。
    ナチスドイツの「スポーツ」「セックス」「スクリーン」という3Sがあって、国家の威信のためにスポーツを頑張るという文化が国際的に広まってから、かなりの長いあいだ「長時間、一生懸命練習して、たくさん競争すれば強くなる」というパラダイムが続いていたんです。でも、それをやると、けが人や燃え尽きる人が続出するんですね。
    そこで旧ソ連では1950年代に「スポーツサイエンス」の分野を始めたんです。そこで彼らが発見したのは、トップアスリートとそうでない人の違いは、実は根性論でストレスをいかにかけるかにはなくて、むしろ「リカバリー」の仕方にあるという事実だったんです。
    たとえばテニスって、一試合のうち実際にプレイしている時間は35%ぐらいなんですよ。
    安宅 残りの65%はなにをやっているんですか?
    石川 ポイントとポイントの間で、次のプレイの準備をしてるんですよ。
    そして、その間が実は一番長いんですね。そして、トップランクとそうでない人の違いは、このポイントの間にうまくリカバリーできているかなんです。ポイントで一喜一憂するのは仕方ないとして、どうやって元に戻るのか。そこでリカバリーのルーティンを持っている人は強いんです。
    宇野 なるほど。
    石川 たぶん、これって仕事でも同じなんですよ。我々が実際に仕事をしている時間も短くて、実は次の仕事をするための準備の時間のほうが長いでしょう。だからこそ、仕事の疲れのリカバリーをそこできちんと取っている人はパフォーマンスが高くなっていく。
    安宅 実際のところ知的ワークだと、いっぱい休んでいて、何に時間を使ってるかわからないヒトの方が生産性が高かったりするのはザラですよね。逆に、朝から晩まで働き詰めのタイプのヒトが知的にプロダクティブなのは見たことないです。
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  • 【特別対談】古川健介×ドミニク・チェン 事業者から見たポスト〈検索〉時代(後編)【PLANETSアーカイブス】

    2020-05-01 07:00  
    550pt


    今朝のPLANETSアーカイブスは、先週に引き続き、古川健介さんとドミニク・チェンさんの二人の若手事業者による、インターネットの未来像についての対談をお届けします。後編では、コミュニティ運営が構造的に陥る閉塞的な隘路をいかにして抜け出すか。〈言葉〉の力に依らない外部性を備えたウェブの可能性について語り合います。※本記事は2016年5月9日に配信した記事の再配信です。

    ◎司会:宇野常寛
    ◎構成:長谷川リョー


    前回:【特別対談】古川健介×ドミニク・チェン 事業者から見たポスト〈検索〉時代 前編
    コミュニティ運営とメタメッセージ
    宇野 最近、ブックカフェとかオンラインサロンみたいなコミュニティ運営がトレンドじゃない? 要するに情報ではなくコミュニケーションを売ろう、ということでまあ、妥当な線というか、基本的にはそれしかないと思う。情報、つまりテキストや映像は供給可能かつコピー可能で、コミュニケーションというか体験はできない。
    僕は書店業界とも付き合いが深いんだけど、お世話になっている書店の店長さんが、お店が潰れたのをきっかけにブックカフェを出すわけ。本屋とコミュニティスペースを兼ねた、「ダイエット本や自己啓発本は一切置きません」みたいな雰囲気のね。
    もちろんそれが勝ち筋というか、短期的な最適化だとは思うんだけどさ。でも、それってテキストコミュニケーションが変貌する世の中で、反動的に20世紀までの本の形式や読書文化を継承してることを表明する、メタメッセージにしかなっていない。70年代生まれのオールドタイプとして気持ちは分かるよ。分かるけど、メタメッセージで勝負した瞬間、ろくなお客がつかなくなる。「本が読みたい人」じゃなくて「本が好きな自分が好きな人」しか集まらなくなる。それって最終的には自分たちの首を絞めると思う。ダメなお客を集めてしまうと、そこが「悪い場所」になって面白い人は寄り付かないしコンテンツも生まれなくなる。この国のブログ文化は10年前にそこで失敗した。
    古川 それはすごく分かります。ブログでウケるネタは、ブログに関するネタになってしまっている気がします。メタ的なコンテンツが増えてくると、その業界は排他的になってしまうのではないかと思いました。
    たとえば、「ブログ儲かるよね」というネタがウケると、それを言い続けないといけなくなってしまう。そうすると、ブログをマネタイズして、その結果を報告する、というのが増えてくる。自分が発したメタメッセージによって、逆に縛られていくんですよね。
    一般の人が、文章を発信できる、というブロガーの良かった部分がなくなっていってしまうのではないか、という懸念があります。
    ドミニク 個人がメディア化していくときの面白さって、プロにはない視点やスタイルにこそ価値があると思うんです。でも今は巧妙にアーキテクチャが用意されているから、誰でも最初からプロっぽくできちゃって、そこが今ひとつ持続的な盛り上がりに欠ける原因だと思うんですよね。
    あとは人気のあるものに、さらに人気が集中する構造。良いものの定義が依然、「人気」になっている。その一方で、情報のインデックス化の技術は、あまり進歩していない気がするんです。長大なテールの部分にまだ掘り起こされていない価値があって、マスとして見たらゴミかもしれないけど、誰かにとっては宝物かもしれない。
    たとえばAppStoreには数十万個のアプリがあるので、寡黙だけど良質なアプリを作る職人がいても、なかなか発見されないんですよね。見つけてもらうには一発芸をしなければならないし、それでウケると延々と一発芸をし続けなければならない。
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  • 【特別対談】古川健介×ドミニク・チェン 事業者から見たポスト〈検索〉時代(前編)【PLANETSアーカイブス】

    2020-04-24 07:00  
    550pt


    今朝のPLANETSアーカイブスは、古川健介さんとドミニク・チェンさんの二人の事業者による、インターネットの未来像についての対談をお届けします。 前編では「Snapchat」「MSQRD」「Slack」「Medium」など、ウェブサービス界隈にインパクトを与えたサービスを取り上げながら、テキスト情報よりも画像や動画が優位になりつつあるポストTwitter時代のコミュニケーションについて論じます。 ※本記事は2016年5月2日に配信した記事の再配信です。

    ◎司会:宇野常寛
    ◎構成:長谷川リョー


    動画のSNS化による新しいリアリティの誕生
    宇野 今回、お二人をお呼びしたのは、ウェブ事業者だからこそ見えるモノを、ちゃんと言語化してくれるのではないかという期待があったからなんですよね。
    「ウェブサービスから社会へ」が当たり前になって一段落ついたことで、その話を誰もしなくなった気がするんですよね。今はそれよりも「シェアリングエコノミー」や「IoT」の話題を出す方がアンテナが高く見えちゃうところがある。
    でも逆に、定着フェーズに入った今だからこそ、もう一度ウェブについて考えるべきではないのか。エッジの表明ではなく、定点観測的にやってみることに僕は意味があると思ったわけです。
    ドミニク たしかにウェブの事業を運営していて、ユーザーの動向を人間観察的に深い目線で追っていると、「これは人類学的に興味深いよね」というようなことが日常的に起きてますよね。
    宇野 普通の事業者は、それをビジネスに最適化することしか考えていないけど、もう少しジェネラルに照らし合わせたり、あるいは複数の人間で抽象化し、共有していくことに意味があると思うんだよね。
    この企画は「Snapchat」を中心にする予定だったんだけど、そこに囚われずに、「今はこれがキテる」みたいなサービスを見ていくところから始めていきましょうか。
    古川 最近の流行でいえば、「MSQRD(マスカレード)」というアプリが流行っていますよね。Facebookに買収されて話題になりましたが。カメラで顔を映すとマスクをつけた動画が撮れるというやつですね。

    ▲MSQRD(出典)
    宇野 仮面を被るから「マスカレード」ね。
    古川 二人でやるとお互いの顔が入れ替わるという機能もあって、これが異常にシェアされているんです。
    Instagramで写真のフィルターがブレイクして以降、ビデオで同じような処理をやろうとしたアプリはたくさんあるんですが、動画はフィルターをかけても面白くならないんですよね。そういった中でこのアプローチが一番ウケた。
    ドミニク Snapchatにしても、最初は「こんなものどうするんだ」と大人たちに言われていたものが、いつの間にかメディアになってますから。この先どうなっていくかは、分からないですよね。
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  • 池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第三章 ビーダマン(2)「炎の魔神」がビー玉に宿した魂

    2019-06-20 09:00  
    550pt

    デザイナーの池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。『スーパービーダマン』シリーズは、シリーズを重ねるごとにビーダマンに人格が付与され、『爆外伝』において完全なキャラクターとなりますが、同時に、物語からは人間が撤退します。そしてビーダマンは、鎧と人と機械の中間的存在から、それらの境界が完全に融解した存在へと深化します。
    『爆球連発!!スーパービーダマン』(以下『スーパービーダマン』)において、道具と人格の両義性を持つビーダマンというキャラクターは銃器のデザインと結びつき、不屈のフィジカルによって倫理を貫徹しようとするタマゴと、「軍人」あるいは「殺し屋」を彷彿とさせる20世紀的な男性の美学の体現者であるガンマというふたりのヒーローを生み出した。そしてその物語を通じて、ビー玉を発射する一種の銃器であるビーダマンがはらむ暴力を、倫理によって治める展開が描かれることになった。
    実はタマゴが得意とした「締め打ち」は、現実世界のビーダマンの玩具において大きな問題を引き起こしている。主人公であるタマゴの機体「フェニックス」シリーズは、パワーを重視しているという設定もあり、ビー玉発射の威力を増す方針で開発されていった。しかし硬く重いガラスでできたビー玉がプレイヤーの無茶な締め打ちによって撃ち出されることで威力が増し、競技中にプレイヤーが怪我をする事態が続出することになった。しかしビー玉の速度を限定することは、ただでさえ数少ないカスタマイズのパラメータを減らすことに繋がり、プレイバリューを大きく損なうことになる。そのため以降のビーダマンはパワーをどのように制御していくかを設計段階で考慮する必要に迫られ、締め打ちを構造上不可能にしたり、地面に設置しなければ発射できないような一種のセーフティを組み込むことで安全性を向上する工夫を余儀なくされていく。劇中で人間に向けてビー玉を撃つマダラがタマゴによって諌められるという物語は、相当に切実なものであったことは付記しておきたい。
    「人」の形をした「道具」
    『スーパービーダマン』において興味深いのは、ビーダマンに人格や魂を感じさせる描写がほとんどない点だ。初期にこそ、タマゴにとってビーダマンが「友達」であるという発言があるし、仮想空間内でビーダマンと一体化するというイベントも存在するのだが、ビーダマンに魂のようなものを感じる描写は基本的にはないといっていい。
    このことは『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』(以下『レッツ&ゴー』)において、豪がマグナムに魂を見出し、マグナムが豪の叫びに応えることと対照的だ。ミニ四駆とビーダマンは、自動車と銃というアメリカ的な表象を象った同時代のカスタムホビー玩具という非常に似た位置づけながら、この点において決定的に異なっている。それぞれの作品で描かれる美学も異なったものになったのはそれゆえだ。
    このことは、デザインという観点から見れば、実に奇妙に思える。というのも、ミニ四駆が自動車という乗り物をベースにそのデザインを発展させたのに対して、ビーダマンは自律的に行動するロボットであったボンバーマンのデザインを基礎としている。あくまで「乗り物である」ということにこだわり機能的には必要ないコックピットにこだわったミニ四駆がむしろ魂を宿し、目があり瞳がある人型ロボットの形をデザインに残したビーダマンの方がプレイヤーの道具に徹した、という事実は、デザインとそこに宿る想像力が逆転しているように見えるからだ。
    この興味深い逆転は、ミニ四駆とビーダマンの、玩具としての性質の違いに根ざしている。ミニ四駆はいったん手を離してしまえば、直接操作することができないところに大きな特徴がある。ミニ四駆が魂の器たりえたのは、この直接的には操作できないという性質によるものであることはすでに論じたとおりである。一方、ビーダマンはあくまでプレイヤーが直接ビーダマンを操作し、トリガーを引いてビー玉を発射する。そこにはミニ四駆にあるような間接性が入り込む余地はなく、すべての結果はプレイヤーの操作と直接結びつき、身体の延長となる。ミニ四駆が「魂を持った乗り物」としての想像力を宿し、ビーダマンが「軍人」の美学にこだわったのは、そのインターフェースデザインによる必然といっていいだろう。
    後に『スーパービーダマン』の系譜は、威力を減衰させて直接打ち合う対戦形式を採用した2002年〜2005年の「バトルビーダマン」、タワーを破壊する間接競技へと切り替えグリップとトリガーを設けてより銃器に近いデザインとなった2005年〜2007年の「クラッシュビーダマン」へと受け継がれていく。やがて2011年〜2013年の「クロスファイト ビーダマン」では、キャラクター性を全面に押し出し基本的にすべてのビーダマンが人格を持ち会話する設定を取り入れた。これはスーパービーダマンの系譜が宿した想像力からは例外的と言えるもので、おそらくは他の玩具シリーズなどからさまざまな影響を受けている点で大変興味深いが、逆に言えばスーパービーダマンは顔を持ったそのデザインにもかかわらず、魂を持つまでに実に誕生から10年以上の歳月がかかったと考えることもできるだろう。
    「爆外伝」が描いたボンバーマンしかいない世界
    ボンバーマンというキャラクターが持つ両義性のうち、機械であるという点は競技に注力したスーパービーダマンの系譜において強調されていった。一方、人格を持つ点について拡張し、フィギュアとして発展していったのが、もうひとつのビーダマンの系譜「爆外伝」シリーズだ。
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