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中心をもたない、現象としてのゲームについて 付記:全体の要約と質問に対する答え|井上明人
2024-11-13 07:00550pt
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。今回は最終回として、連載の各章を振り返りながら、その背景を深堀りしていきます。
井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて本連載はおよそ10年近く続けられ、また論点が多岐にわたっている。また後半にいくにつれ、筆者自身がかなり悩みながら書いた箇所も増えていくため、全体像が掴みづらいものになっていた。改めて、全体としてどのような議論構成となっていたのかを、なるべく手短にまとめると同時に、わかりにくかったであろう箇所についての補足として最後によくある質問に対する答えを付記して終わることとしたい。
第一章 「ゲーム」をめぐるいくつかの不連続な問
まず、ゲームについて考えるということが我々が世界をどのように理解するのか?ということと深く関わっているということを確認することからこの連載ははじまっている。たとえばビデオゲームというメディアは、体験したことのない未知の問題について文章という道具立てでは困難だった「戦場の不合理」を効率的に理解させることができるかもしれない。それは感覚的な臨場感という問題だけでなく、現場で発生するトレードオフの複雑さや、「合理的な愚か者」が生じるメカニズムを理解させるためのメディアとしてもかなり優秀なメディアとしての特質を持っている。こうした特質から、ゲームは社会的な批判(批評)のツールとしても大きな注目を浴びている。
一方で、ゲームに関わる「楽しみ」のようなものを社会的活動のどこまで持ち込むのが妥当なのか、ということは古代から議論になってきた。たとえば、受験勉強や、健康維持のための運動、面倒な単純労働などを遊ぶように楽しくできるのならば、それは多くの人が歓迎することだろう。しかし、楽しい労働ならば労働者が資本家に搾取されてもいいものなのか?また、社会の様々な活動に楽しみを持ち込むといっても、戦争や政治を「楽しく」やってみせることは果たしてどこまで許されるだろうか?
こうした特性もあり、思想史的にも、自由論、幸福論、労働思想、政治哲学といった多様な文脈において、ゲームや遊びの問題はクリティカルな論点として言及されることも少なくなかった。つまり、自由や幸福、労働、政治にまつわる重要問題であるという認識は実のところ数千年来存在していたものだと言っていい。
それにもかかわらず、ゲームや遊び、それにまつわる楽しみをめぐる研究は自由や労働といった問題に比べればその議論の蓄積は(無いわけではないが)相対的に薄い。
この概念は、自由や幸福の問題と同じように、複雑で、やっかいな側面をもっている。この概念について述べてきた、ヴィトゲンシュタインや、サットン・スミスらは、遊びに関わる概念が曖昧であり、相互に矛盾した側面があることを述べている。
この重要でありながらも、厄介な概念について考えていくことが本連載全体の重要なテーマであった。ただし、本連載はゲームの定義を行うことを目的とするものではない。定義のようなものを行うことの難しさを前提とした上で、ゲームという現象の厄介で捉えがたい特性について、少しでもその複雑性の構造を説明しようする試みである、「定義」は試みていない。
▼該当回
・〈ゲーム〉をめぐるいくつかの不連続な問(井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第1回)
・理性を喚び起こすもの――複数の合理性と向き合う(井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第2回)
・ルールのないゲームたち ――ゲームにルールはどのように必要なのだろうか?―― (井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第3回)
・「ゲームとは何か」をめぐる交わらない答えたち (井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第4回)
第二章 ゲームとはどのように論じられてきたか。何が論じられるべきなのか
第二章では、議論の大きな背景を確認した上で、詳細な議論をはじめる前の重要な前提ーーすなわち、一般的な論文でいうところの方法論に相当するーー点を確認してきた。
「ゲーム」や「遊び」の概念に関する研究は、ゲームや遊びの重要な特性がなんであるかという見解に類似点や共通的がありつつも、その曖昧さや多様さも同時に強調されることが多い。また、「ゲーム」や「遊び」がなんであるかという捉え方に異なったいくつかの方向性があり、それらがくっきりと(離散的に)分かれるわけではなく、グラデーション状に繋がっているということが示されている。この曖昧性を生じさせているポイントはいくつかの点から説明することができる。
第一は、「ゲーム」がHDMIのような技術規格用語や専門用語などではなく「日常言語」であるということである。日常言語は、歴史的、地理的に概念の指示する範囲に多様性があるのはごく一般的なことである。「ゲーム」の訳語となる語彙の意味範囲は、言語圏によって少しずつ異なっている。
第二は、ゲームが「日常行為」であるということだ。「ゲーム」というのは、一見、ひとつに繋がった行為であるかのように認識されがちだが、実際にはゴールやルール、自己決定、楽しみ……など様々な関連概念が連合したものが一つのパッケージとして流通しているものである。これが一つにまとまっているような状況は、人間の認知メカニズムから、自然環境、経済、社会システムといった多様なものに影響を受けている。複数の要素がまとまったときに、新たな性質を獲得することを「創発性がある」と言うが、ゲームという現象の成立はどうやら創発性があると見てよい。
日常言語であり、創発性のある日常行為でもあるものの特性を考えていくには、ゲームに関わる複数の要素間がどのようにネットワークを結んでいるのか、というその関係を見ていくことが順当なアプローチになるだろうということを確認した。そして、三章以後では、複数の概念や事象間の関係について詳細な検討を行っていく。
▼該当回
・議論手続きとリサーチクエスチョン (井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第5回)【不定期配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第6回 日常行為としての「ゲーム」を考えるということ【不定期配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第7回 概念の中心性――分けることとつなぐこと【不定期配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第8回 ゲームとは楽しいものでなければならないのだろうか?【不定期配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第9回 どこまでが「ゲーム」なのか?【不定期配信】
第三章 学習説のネットワーク−−積極的学習行為としてのゲーム−−
各要素間の関係を検討するにあたって、まずゲームの概念の特にコアな要素と思われるものから順に考えていくため、ゲームを積極的な学習のプロセスとして見なす立場を丁寧に取り上げて論じていく。このような立場は、フロー体験やラフコスターの議論に象徴されるが、このゲームを積極的な学習のプロセスとみなす立場を「学習説」と名付け、この説明の強力さを確認するのが三章全体の要点だった。ゲームを説明する説明は、さまざまなものがあるがこの立場からの説明は、近代以後のゲームの概念において、重要なものであり続けてきた。
なぜ、この立場からの説明が説得力を持つのか。端的に言えば、それは、ルール、駆け引き、非日常、楽しみなど、ゲームについての重要な様々な側面のほとんどに大きく関わってくる概念であるからだ。
ゲームを遊ぶ人々に特有の非日常的な環境(二次的現実)の成立は、ゲームを遊ぶ人々特有の世界の捉え方(二次的フレーム)を立ち上がらせる。非日常的な環境だけでなく、ルールやゴール、駆け引きやトレードオフのような要素を多く兼ね備えた行為の環境は、そのような独特の世界の捉え方を立ち上がらせる環境として効率的に機能するという特性をもっている。
これらのプロセス全体においては、様々な事象が同時並行的に巻き起こっている。ただ、これらのプロセスの大半は大まかに言ってしまえば、ヒトが環境へ適応する過程で生じている認知のクセのようなものに根ざしたものだと言うこともできる。人間の適応や学習のプロセスは、ゲームに関わる多彩な側面に、かなり一貫した説明を与えうる可能性がある。
第三章では、その一貫した特性を、複数の事象の成り立ちのネットワークを媒介するハブ的な特質として整理してきた。学習説は、ゲームに関わる主要な事象や概念の関係性に一応の説明を与えることができてしまう。それゆえ、三章までで、読むのに力尽きた読者は、学習説がゲームのほとんどを説明できてしまうかのような話だと思っただろう。
▼該当回
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第10回 学習説の世界――積極的学習行為としてのゲーム――【不定期配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第13回 プレイヤーのいないゲームは存在しうるか?【不定期配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第16回「非日常」をめぐる四つの中間の概念をつくる【不定期配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第17回 二次的フレームの形成【毎月第2木曜配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第18回 物語からゲームへ【毎月第2木曜配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第20回 ゲームから物語へ(1)【毎月第2木曜配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第21回:ゲームから物語へ(2)【毎月第2木曜配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第23回 駆け引き(学習説の他説との整合性④)【毎月第2木曜配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第24回 駆け引き(学習説の他説との整合性④-2)【毎月第2木曜配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第25回 ゲームは依存の仕組みなのだろうか?(学習説の他説との整合性⑤)【毎月第2木曜配信】
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第26回 ゲームにとって快楽とは何か――「快楽」説の検討(学習説の他説との整合性⑥)
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第27回 メタファーとしてのゲームーー「快楽」説の検討(2)(学習説の他説との整合性⑥)
・井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第28回 学習説はどこまで説明ができたのか
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“kakkoii”の誕生――世紀末ボーイズトイ列伝 勇者シリーズ(7)「黄金勇者ゴルドラン」中編
2024-11-06 07:00550pt
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。前回に引き続き、『黄金勇者ゴルドラン』について分析しています。成熟を拒否することで成熟する「逆説的な成長」とは?
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(7)「黄金勇者ゴルドラン」中編
■ワルター・ワルザックと「大人」になること
ワルター・ワルザックは、第一話から本作のヴィランとしてとして物語に登場し、主人公たちとパワーストーンの争奪戦を繰り広げる。ワルターはワルザック共和帝国(という架空の国家)の王子として、父親であるトレジャー・ワルザック皇帝の命を受け、黄金郷レジェンドラに至ることを目的とする。キャラクターデザインは容姿端麗な貴族を意図してデザインされており、またカーネル・サングロスという老齢の執事を常に従えている。そしてその名前が戯画的に描き出すように、ワルターは典型的な「悪のプリンス」として置かれている。年齢は20歳と設定されており、12歳である主人公タクヤたちからすれば、十分に「大人」と言うことができる。
▲ワルター・ワルザック。美青年としてデザインされている。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p167
ゴルドランにおける「冒険」とは、子供たちの想像力による遊びそのものを示していると本稿では考えた。そしてタクヤたちが無邪気に「遊び」として冒険を追い求めていくのに対して、ワルターは父親から認められるために――「成熟すること」を動機としてタクヤたちと対立する。主人公たちのカウンターに置かれたワルターは、設定だけ見ると、イマジネーションによる遊びを妨害する「大人」を象徴するかのように見える。
ところが実際のワルターは、そのように振る舞わない。それどころかワルターの存在が、むしろ作品のリアリティラインを下げ、タクヤたちの冒険を「遊び」たらしめている。そしてワルター自身は、タクヤたちの影響を受けてむしろ成熟を拒否することで成熟していくという逆説的な成長を見せる。そしてこのふたつは、密接に絡み合っている。
どういうことか説明していこう。まず本作品のリアリティの操作は、ワルターという「敵」を通じて行われる。主人公たちの遊びの世界が本当に命にかかわる危険なものなのか、それともおふざけで済んでしまうようなものなのかを襲いかかる脅威であるところの敵のトーンで表現するのは、作劇として順当な手法であるだろう。物語当初におけるワルターは、タクヤたちを「お子たち」と呼ぶ年上の存在でありながらも、むしろタクヤたちよりも情けない、ある意味で子供っぽいコミカルな悪役として描かれる。外見は二枚目だが、中身は三枚目というのがワルターのスタート位置だ。そしてワルターがこうした存在だからこそ、物語空間――ゴルドランにおいてあるべきおもちゃ遊びの空間は、リアリティを欠いた、いわゆる「ギャグ時空」として成立する。ワルターは敗北のたび「どっしぇ〜!」という台詞と共に退場していく。これまで基本的には真面目なトーンで進行してきた勇者シリーズの伝統からすると、こうしたヴィランの振る舞いはいささか例外的に映る。
■宇宙に出ても人が死なない世界
しかしゴルドランが特徴的なのは、そのリアリティラインが作中でダイナミックに変動することだ。たとえば一行が宇宙に出た際、宇宙空間に生身で出てしまったらどうなるのかという問いに対して「血液が沸騰し圧力の関係から全身が粉々になって死ぬ」と説明がなされる(これが科学的に正しいかどうかはひとまず置いておく)。しかし同じエピソードの後半で、ワルターは見栄を切るためだけに、生身で宇宙空間に出てしまう。そして長々と向上を述べたあとで、他のキャラクターから「そこは空気がない」と指摘される。それに対するワルターの反応は、次のようなものだ。
「ぎぇ〜! はやくなんとかして〜!」
そして息ができずに苦しそうな素振りをしながらも、宇宙船(厳密には勇者ロボの内部)に戻った次のカットでは、なにごともなかったように活動している。
重要なのは、この流れが同一のエピソードの中で行われることだ。ここではふたつの異なるリアリティが、意図的に混在させられている。より具体的に言うならば、「宇宙空間に生身で出たら死ぬ」というリアリティをいったん定義しておきながら、それを「ギャグ時空」で上書きしているのだ。
そしてこれは、単に作劇上のご都合主義以上の意味を持つ。ワルターは当初、父親に認められることを通じて成熟を試みる。しかしタクヤたちに巻き込まれ、これは一向にうまくいかない。それでも執念深くタクヤたちを追いかけ、ついにはすべてのパワーストーンを一度手中に収めることに成功する。勇者たちは一度パワーストーンに戻って主君が変われば、それまでのことをすべて忘れてしまう。ワルターは勇者たちを一度は我が物にしようとするが、葛藤の末それをあきらめ、パワーストーンをタクヤたちに返還する。なぜか。これまで父親に認められる以外の目的を持たなかったワルターは、タクヤたちとの争奪戦という冒険そのものに価値があったことを悟ったのだ。
つまりこういうことだ。マイトガインは旋風寺舞人の圧倒的な万能感によって、そしてジェイデッカーは人間となったロボットとの絆から父性と母性をバランスすることによって成熟を目指した。しかしこうした種類の成熟を目指したワルターは徹底的に失敗する。「大人」になろうとするワルターの試みは、タクヤたちの「遊び」に巻き込まれ、「子供」に引きずり降ろされ続ける。真面目な殺し合いは、常におふざけへとラインを変更される。勇者シリーズが開拓してきた成熟のイメージは、ゴルドランに至って、タクヤたちのように子供の遊び=冒険を続けることこそが成熟である、という逆説的な価値観にたどり着いているのである。
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