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記事 21件
  • Daily PLANETS 2021年4月第5週のハイライト

    2021-04-30 07:00  
    おはようございます、PLANETS編集部です。
    いよいよ4月も終わり、大型連休が始まりますが、国内の一部地域ではさらに厳しい緊急事態宣言が発令されています。PLANETSのコンテンツが、皆さんのステイホームを少しでも充実した時間にする一助になれば幸いです。
    さて、今朝は今週のDaily PLANETSで配信した3本の記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの配信の概要をご紹介します。
    今週のハイライト
    4/26(金)[特別無料公開]『いだてん』というニッポンの自画像|成馬零一

    いよいよAmazon・書店での一般発売が開始された成馬零一さんの新著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』からのピックアップをお届けしました。今回は宮藤官九郎脚本の大河ドラマ『いだてん』をめぐる論考の一部を特別無料公開! 『あまちゃん』スタッフと豪華俳優陣で臨んだ本作は、それまで「男の子たちの物
  • 国見比呂というヒーローの成長としての失恋を描いた『H2』| 碇本学

    2021-04-28 07:00  
    550pt

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。平成を代表する本格野球ラブコメ漫画『H2』の読み解きの完結編です。最後に考察するのは、主人公・国見比呂のヒーロー性について。『ナイン』や『タッチ』と異なり、ライバル役の橘英雄とともにプロ野球入団が視野に入る超高校生級の選手として描かれた比呂の回り道の成長劇には、あだち充の人生観やゼロ年代に向かう時代の変化への応答が、どんなふうに刻まれていたのでしょうか。
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第16回(4)国見比呂というヒーローの成長としての失恋を描いた『H2』
    あだち充野球漫画はスロースタートすることでラブコメを強化する
    『H2』はあだち充にとって『タッチ』以来の野球漫画であり、タイトルが示すように国見比呂と橘英雄のヒーロー二人と古賀春華と雨宮ひかりのヒロイン二人の関係性をメインにした青春群像劇で、好き放題に描かせてもらった前作『虹色とうがらし』では商業的な手応えがなかったため、必ずヒットさせるべき勝負作だった。 あだち充を国民的な漫画家にした『タッチ』は野球と恋愛のバランスにおいては後者の「恋愛」のほうに比重が置かれていた。そのため、野球がしっかり描かれていたのは作中では最後の試合となる地区大会決勝の須見工戦だけだったとも言えなくもない。『H2』では野球と恋愛ではどちらに比重が置かれていたかというと、このバランスはかなり拮抗しており、両者が鬩ぎ合うことで『タッチ』で描いた1980年代的な新しいスポ根とラブコメの融合をさらに深化させたものとなった。それもあってか、20年以上前に連載が終わった作品であるにも関わらず、今読んでも古びた感じがまったくしない。

     野球と恋愛のバランスがいいのは、「タッチ」より「H2」ですね。ラストはもうああするしかなくなっちゃったんです。比呂と英雄の直接対決、比呂と春華とひかりと英雄の恋の決着を描きたかったのであって、その後の甲子園の決勝について描くつもりはありませんでした。〔参考文献1〕

    あだちがインタビューで答えているように今作においては比呂と英雄の直接対決に向けての流れをどう演出するかということ、そしてヒーロー二人とヒロイン二人の四角関係となった恋愛の決着をいかに描くかということがこの作品のクライマックスとして考えられていた。
    『タッチ』では恋愛面において、主人公の上杉達也とヒロインの浅倉南の幼なじみの二人が上杉和也の突然の死を乗り越え、達也が南の気持ちを受け止めて自分の思いを伝えられるかという物語でもあった。 達也は和也と南の夢であった「甲子園に南を連れていく」という願いを叶えることで、ある種の通過儀礼を終えて本当の自分の気持ちを伝えることで、和也の空白を二人で受け入れて自ら決断ができる大人になっていく。終盤の上杉達也から朝倉南への告白が『タッチ』における最大の見せ所であり、語り継がれる名シーンとなった。 改めて読み返してみると『タッチ』はやはり恋愛面のラブコメ要素が物語全体を引っ張っていっていた。後半では野球の場面が多くなっていくが、物語は達也と南の関係性がどうなるかがメインなので、とてもわかりやすいストレートな展開だったとも言えるだろう。
    和也が交通事故で亡くなる一年生の夏までは、主人公である達也が野球を本格的に始めることはなく、物語のテンポがスロースタートだったこともあり、序盤で遊びの部分としてラブコメ的な展開やギャグを入れることで野球を描くことから逃れる可能性を残していた。それについては『みゆき』と同時連載していたことで、最初は力を抜いていたことも理由としてあだち本人が語っている。 同様に『H2』も物語の序盤では主人公の国見比呂は偽医者の誤診によって野球部のない千川高校に入学し、サッカー部に入っていたことでフルスロットルでのスタートにはならなかった。物語としては遠回りであるが、最初は野球愛好会に入会して野球部に昇格させるプロセスを置くなど、甲子園を目指す前にいくつかのハードルがあり、元々野球選手として高い資質を持つ比呂が本気で甲子園を目指すようになるまでの準備期間が設けられていた。『タッチ』も『H2』も共に主人公の達也と比呂は高校一年の夏は地区大会どころではなく、二年生になるまでは準備期間として描かれている。 あだち充は「僕の野球漫画は、主人公が、英雄の明和一高校みたいな強豪校に入ることはないです。そうしたら、本格的な野球漫画にしないといけないし、放課後でラブコメをやってる時間もないだろうし、野球漬けの青春なんて想像できないから。そのためには主人公が野球部のないような高校に行くほうが、漫画家としては描きやすい」とインタビューに答えているが、「本格的な野球漫画」「野球漬けの青春」にしないことでその時代ごとの少年たちに支持されてきた部分もあっただろう。自分もそうだったが、野球漫画は読みたいが、あまりにも真面目なものはどこか恥ずかしく、なにかに熱中していない自分と主人公の本気度を比べてしまうと手が伸びなくなってしまうことがあった。
    『H2』では当初は比呂と春華、英雄とひかりというカップリングで進んでおり、比呂と春華は互いに好意は持っているが彼氏彼女という恋人手前の関係を維持していた。 高校二年の夏の甲子園大会、比呂と英雄の直接対決の直前にあたる二回戦で、比呂率いる千川高校は伊羽商業高校に負けてしまう。その翌朝に比呂はひかりに自分の初恋の相手がひかりだったことを告げ、試合で足を痛めていた比呂がよろけた際にひかりが抱きとめた場面を、宿からいなくなった比呂を探していた春香が目撃してしまう。ここから二組のカップルの関係が四角関係になっていき、誰と誰がくっつくのかがわからなくなっていくのが物語における一番大きな転換点であり、方向性を完全に決めたものとなった。 物語としては比呂と英雄の直接対決がクライマックスになるのは予想できたが、そこに四角関係の行方も重なることで野球と恋愛の要素が互いに鬩ぎ合い、クライマックスの高校三年生の夏の甲子園大会に向けて物語の緊張感が高まっていき、目が離せなくなっていく。そのため、読み比べると『H2』のほうが『タッチ』よりも人間関係やそれぞれの想いが複雑になった人間ドラマになっている。
    また、『H2』はあだち充の漫画家としての描写の進化もあり、セリフなどで状況を語らずに描写とコマだけで表現するという省略の技術がより高度なものとなっていた。 「北・東京大会」決勝の千川対樟徳戦はコミックスでは17巻の最後に収録されている「ほんとですか!?」と「千川が勝つよ」の2回で描かれているが、この試合の最後の数ページがあだち充の省略の美学の真骨頂のような描写になっている。 「千川が勝つよ」の終わる10ページ前ぐらいからは試合中の比呂たちのセリフはほぼなく、ナインの攻守の活躍が1コマずつ描かれ、そこには英雄による「実際、強ぇんだよ千川は」「実績がねえから、ただの勢いみてぇにいわれてるけどな」というひかりに話した言葉がモノローグのようにコマに入っている。 4対1で千川が勝利した試合のラスト3ページでは、見開き2ページで球場での歓喜のシーンが見事な構図で描かれている。そして、最後の1ページであり、コミックスの最後のページとなる180ページ目には明和第一の校舎とセミの鳴き声、水道から勢いよく出る水に頭を差し込んで冷やしている練習の合間の英雄、そこに笑顔で走ってくるひかり、そして飛び立っていくセミという5コマが描かれている。 千川が甲子園出場を決めたあとの3ページにはセリフはなく、球場の歓声や熱闘への賛美などの熱さが感じられ、ラストは対照的に頭を水で冷やしている英雄と比呂たちのことを喜ぶひかりによって、物語はもう甲子園での戦いが始まるのだと読者にこの先の物語を感じさせるものとなっていた。この描写はもう見事としか言いようがなく、あだち充の技巧の素晴らしさを改めて感じることができる名シーンでもある。 比呂たちが三年になる前の春季高校野球大会で千川高校野球部が初優勝した際には、その優勝をテレビで見届けていた明和第一の監督は一緒に見ていた英雄に、前年の夏同様にひかりを夏限定で野球部のマネージャーになってくれるように頼んでくれと告げる。監督にとってひかりは甲子園で優勝させてくれる女神のように思えていたからだ。そして、比呂が優勝した甲子園のスタンドにはひかりもいた。英雄は比呂が優勝したのはひかりのおかげではなく、実力ですと告げると「実力だけで勝てないのも甲子園だ」と返される。その部屋から出ていった英雄は野球場にある水道を勢いよく出して頭を突っ込む。水が頭から滴る英雄の顔には、この夏にはついに親友である比呂と戦うことになるのだろうといううれしさとひかりはどちらを応援するのだろうかと考えているような、英雄にしてはどこか自信なさげな表情が浮かんでいた。
    もうひとつ『H2』でこれぞという名シーンを挙げるとすると、連載ではほとんど取り上げていないが千川高校野球のセンターである木根竜太郎が甲子園で比呂の代わりに一試合を投げ切って勝利を収めたコミックス32巻収録「本当の自分の限界よりも」だろう。 9回裏2点差で勝っていた千川高校だが、センターに入っていた比呂をなんとベンチに下げ、古賀監督は本来才能はありながらも不完全燃焼だった木根にすべてを託すという大胆すぎる決断をする。ベンチでは春華が「同点に追いつかれたら?」「延長戦は?」と兄である監督へ強めに問いただし、比呂には「なんでおとなしくベンチに下がったの」「この試合負けたら橘くんと戦えなくなるのよ」と感情的に言うシーンがある。比呂は「だとしたら、そういう運命だったんだろ」と言い、「運命を信じてるのさ」「絶対避けられないようになっているはずなんだよ。おれと英雄の勝負はな」と言うものの、木根は2アウトになってからヒットを打たれてしまう。そして、最後の打者が打った打球が大きく空へ飛んでいき、木根はスタンドの方をただ見ているコマが描かれる。 次のページでは1ページを使って新大阪駅の新幹線やキヨスク、新幹線の案内や時刻表や描かれる。その次のページでは喫茶店の入り口が描かれ、その奥にテレビがあるのが小さく描かれる。次のコマではズームアップし、3コマ目ではそのテレビ画面にアップでガッツポーズをしてうれし涙を流している木根が見え、最後の4コマ目はテレビの画面がさらに大きく描写される。その次の最後のページは木根がガッツポーズしているコマが半分近くを占め、その下のひとコマには「第16日 準決勝」「明和一(南東京) ― 千川(北東京)13:30」と日程が描かれる。千川が勝利し、ようやく比呂と英雄の直接対決が叶ったことが明かされてこの回とコミックスは終わる。そこにはセリフもモノローグもないのだが、コマと描写だけで見せるあだちの技術が感動を呼ぶ。
    超高校級の投手・国見比呂と橘英雄はかつてのあだち充だった?
    6年ぶりとなる野球漫画の主人公となる国見比呂はどんなヒーローだったのか、と考えていくと、1990年代的な新しいヒーロー像という感じは当時からあまりしていなかった。 『H2』連載時に「少年サンデー」で連載していた作品には、『うしおととら』『GS美神 極楽大作戦!!』『鬼切丸』『名探偵コナン』『烈火の炎』『犬夜叉』『ARMS』『からくりサーカス』などがあった。時代的にもミステリーやダークファンタジー的な要素が入った作品が多くなっていったこともあり、主人公がどこか闇の部分や秘密を抱えているものが多くなっていた。そうした中で、セリフやモノローグなどでできるだけ状況を説明せずに描写とコマによって見せるあだち充の技術は、他の作品とはかなり違った印象を与えていた。 他の作品が世紀末に向かっていくのに呼応するかのように、絵的にも暗く、スクリーントーンも重めのものを使っていたため、『H2』では描写されるものもシンプルに見え、抜けたような空が多く描かれることで対照的に明るい雰囲気を醸し出していた。

     キャラクター設定はそこまで細かくはしてなかったけど、主人公・国見比呂の成長が遅いということは決めてました。同じように成長が遅かった自分が投影されてますね。中学時代は、同級生の女の子を見ると「どう考えても見てる世界が違う」と思ってました。  比呂は中学時代、自分の初恋には気がつかなくて、気づいた頃には、幼なじみの雨宮ひかりと比呂の親友である橘英雄はもう付き合っています。  これまでの漫画は、主人公とヒロインがいて、なんだかんだあったとしても最後はふたりは一緒になるんだろうということはわかっていた。でも「H2」は四角関係という設定を作ったので、どうにでもできると思いました。最後の最後まで比呂とひかりはどっちにいくかわからない展開になります。〔参考文献1〕

    国見比呂のキャラクターを構成する大きな要素としては成長期と思春期が少しだけ周りよりも遅れていたというものがあった。このことはあだち充自身の体験が反映されている。
    『タッチ』における上杉達也と和也の双子の兄弟について、あだちの周りの人間たちからすれば「愚兄賢弟」としてあだち勉とあだち充の兄弟が反映されたものだとも言われていた。実際にそういう部分はあったのかもしれない。 上杉和也とは何者だったのかというのは以前の連載に書いているのでここでは詳細は省くが、弟の和也は1970年代的劇画ヒーローの要素を持ち合わせていたからこそ、死んでしまうキャラクターであり、最初から死ぬことが運命づけられていた。兄である達也は1980年代的な新しいヒーロー像を体現するキャラクターであり、それまでのスポ根的な主人公像を軸としながらも新しい時代に合わせたアップデートされたヒーローとして造形されていた。
    「愚兄賢弟」と思われていたあだち兄弟だが、それを地で行くように兄の勉は「飲む・打つ・買う」の三拍子揃った遊び人であり、漫画家の師匠でもある赤塚不二夫とも遊び歩いていた豪快な人物であり、多くの人から可愛がられ、慕われてもいた。そして、多くの人に漫画家としての才能もあると買われていたものの、そちらに関しては弟の充がヒット漫画家になっていくのに反比例して自分の漫画を描かなくなってしまい、歴史に残る漫画家にはなれなかった。その意味でもぐうたらでなにかに真剣になることがなかった上杉達也は、あだち勉に重なる部分がある。しかし、その潜在能力が天才肌だと思われていた(実は努力家だった)弟の和也を遥かに凌ぐものであったということは、弟の充があだち勉の漫画家としての能力に重ねて描いた部分もあったのではないかと思えるのだ。
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  • モノへの回路をひらき、ゆるくつながる | 丸若裕俊

    2021-04-27 07:00  
    550pt

    工芸品や茶のプロデュースを通して、日本の伝統的な文化や技術を現代にアップデートする取り組みをしている丸若裕俊さんの連載『ボーダレス&タイムレス──日本的なものたちの手触りについて』。今回は最近丸若さんが取り組み始めたInstagramライブや、新しくプロデュースされる茶筒についてお話を伺いました。SNS時代において、本当に良い「モノ」に出会うために必要な回路を探ります。(構成:石堂実花)
    丸若裕俊 ボーダレス&タイムレス──日本的なものたちの手触りについて第14回 モノへの回路をひらき、ゆるくつながる
    モノを中心としたゆるいつながりをつくりたい
    丸若 昨年コロナ渦に新たに試みたことの一つに、懇意にさせていただいている、素晴らしい茶屋の代表である櫻井さん(櫻井焙茶研究所)と徳淵さん(万yorozu)との、Instagramでのライブ配信があります。  まず僕たちが持っている共通の課題って、「お茶を飲む時間を用意してもらえるかどうか」なんです。昨年までは、皆さん「お茶をゆっくり飲めるような生活できたらいいのにね」と言いつつ、毎日忙しくてそれが実現しなかった。ところが世界中がステイホームになった今、これは今こそやらないでいつやるんだと。自分が尊敬する同世代のお茶屋さんたちとその気持ちを共有して伝えていきたいなと思ったのがきっかけでした。  ライブの配信内容についてはとことんマニアックにいこうと思っています。ただ同時に、それに対して純粋に僕たちが楽しんでいることや、それぞれのスタイルの違いを僕たち自身が受け入れている姿をちゃんと伝えることに意味があると思っています。
     うちと櫻井さん、徳淵さんは、はたからみると一見系統が異なって、そりの合わなそうな印象を持つ方もいると思うのですが、そこが逆に面白いと思っています。もともとの知り合いではあったんですが、僕はお茶のブランドを立ち上げるときに、櫻井さんとご飯に行って、「こういうことがしたい。だけど、僕は絶対にあなたの真似をしない。あなたのやっていることに対して敬意を持っているからこそ、軽率に表層を真似する意義を持つことができない。」と伝えたことを覚えています。あくまで個人的な感想ですが、彼らは所作も含めて美しい、まるで洗練されたなジャズのような存在です。それに対して、結果的に今、僕たちはガレージバンドみたいな存在になっているわけです(笑)。 この三者でのライブ配信では、マニアックなことから、改めて聞けないたわいもない会話まで、ものづくりの過程だけでなく考え方でも勉強になることが多くて、同じ業種間での交流や刺激はその業界の発展には不可欠だと毎回感じています。  1年近く配信を続けることで、お互いの理解や信頼関係は深まったと思います。こうした経験を踏まえて、これからの社会へどう発信していくか? その取り組みも三者で行うことができたらと願っています。茶、道具、時間の楽しみ方をそれぞれの美意識で表現出来る取り組みに繋がっていけたら最高です。 それぞれの世界観を大切にし、実際に道具を使うプロたちの選ぶ物。茶だけではなく職人さんや作家さんと実際に交流することで研ぎ澄まされた道具たち。こうした物に触れることも多くの人に体験してもらいたいです。
     Minimalさんや「Maison」の渥美シェフと一緒にお仕事ができるのも(第13回を参照)、お互いのやっていることに対してリスペクトがあって、お互いのお客さんを紹介しあいたい、という思いがあるからです。自分たちが本当に伝えたいことが伝わらない大多数のお客さんを作りに行くよりも、自分たちが信頼できるお客さんたちで、ひとつの緩やかな連合体を作っていこう、ということですね。 コラボレーションとは、お互いのお店を支えてくれる人たちに対しての自己紹介だと思うんです。だからうちはお客さんに対しても、ぜひ他のお茶屋さんにも行ってみてほしいと言っています。
    宇野 今は数を売ろうとすると、「流行っているから私も乗っかってみよう」とか「みんながこれを買っているから買ってみよう」とかそういった流れを作り上げないといけなくなる。こういった「他人の欲望」を欲望するのは人間の基本的な性質なんですが、今はSNSでそれが強化され過ぎてしまっている。それはモノそのものとのコミュニケーションを置き去りにする行為なんですよね。だから、お互いリスペクトしあえる作り手同士がつながって、「みんなに出遅れたくない」みたいな最高にくだらないことを考えている人間とのコミュニケーションじゃなくて、きちんとモノそれ自体とコミュニケーションが取れる世界を確保しておくことが、新しい価値を生み出すためにはすごく大事だと思います。
    丸若 そうなんですよ。最終的にリアルの場でもそういうことができればいいな、と思っています。架空の中で村を作るというか、サロンというか。同じ価値観を持っている人たちがいるから、ある意味安心してコメントができる、安心してなにかいいって言えるような場をつくりたいですね。
    宇野 そのときにそのサロンのメンバーは、誰かの顔じゃなくて、ちゃんと丸若さんの作るお茶や、Minimalのチョコレート、開化堂の茶筒といった、モノを見ることができていると思う。そのことによって「みんながこれを見ているから見よう」というところからちょっと距離が取れる。これはすごく大事なことだと思います。「これは何百リツイートされている。だからすごい」みたいな価値観から離れたところに、丸若さんたちの考えるいいものだけがひたすら並んでいるカタログがある。そんなイメージですね。
    丸若 最終的に僕たちが目指したいのはそういうことだと思います。やっぱり21世紀に走りきった人たちがどんなものを残したかっていうのを後世の人たちに伝えることが僕たちの使命であり、やりたいことだと思うんですよね。

    モノと出会い、チューニングされていく体験
    宇野 今の丸若さんのお話は、これから僕がどんな雑誌を作って、どんなウェブメディアを作っていくのかを考えるときに、大事なことでもあるなと思いました。僕もさすがに「とりあえずバズっている人を載せよう」とは思わないけれど、やはりどこかで「人」を基準に企画を考えている。要するに面白い人を探してきて、面白いことを話してもらったり、書いてもらったりすることを無意識に企画の中心に置いてきた。しかし、それは僕自身もSNSが代表する現在の情報環境に毒されていた結果かもしれないと反省しているんです。だから、いま僕は「人」ではなくて「モノ」や「コト」にフォーカスした企画を中心にできないか考えはじめています。だから、丸若さんがこの半年でこういうことを始めていたのは、すごくシンクロしているものを感じます。 こういう状態だからこそ、人じゃなくてモノが主役の場を作っていって、そこから結果的にコミュニティが立ち上がっていく……ということを僕らはもっと考えたほうがいいと思うんです。
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  • [特別無料公開]『いだてん』というニッポンの自画像|成馬零一

    2021-04-26 07:00  

    今朝のメルマガは、いよいよAmazon・書店での一般発売が開始された成馬零一さんの新著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』からのピックアップをお届けします。今回は宮藤官九郎脚本の大河ドラマ『いだてん』をめぐる論考の一部を特別無料公開! 『あまちゃん』スタッフと豪華俳優陣で臨んだ本作は、それまで「男の子たちの物語」を描き続けてきた宮藤が「大きな物語」に挑んだ集大成とも言える作品でした。
    2019年の『いだてん』
     2019年に宮藤が脚本を担当した大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(NHK)は、日本のテレビドラマ史、サブカルチャー史の金字塔と言える作品である。  主人公は1912年に日本人で初めてオリンピック(ストックホルム五輪)に出場した日本マラソンの父・金栗四三(中村勘九郎)と1964年の東京オリンピック招致に尽力した日本水泳の父・田畑政治(阿部サダヲ)の二人。  物
  • 読書のつづき [二〇二〇年十一月]時代は変わる|大見崇晴

    2021-04-24 13:00  
    550pt

    ※去る4/22配信の記事に誤りがありましたため、修正して再配信いたします。著者・読者の皆様にご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。

    会社員生活のかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動する大見崇晴さんが、日々の読書からの随想をディープに綴っていく日記連載「読書のつづき」。混迷を極めたアメリカ大統領選挙のニュースを、世界が固唾を呑んで見守った二〇二〇年十一月。オルタナ右翼やQアノンなど、ネット社会の負の側面をこれでもかというほどに助長したトランプ現象の背後には何があったのか、アメリカの政党政治史や現代哲学の思弁的実在論ブームなどの本をひもときながら、読書家としての考察を繰り広げます。

    大見崇晴 読書のつづき[二〇二〇年十一月]時代は変わる
    十一月一日(日)
     文化の日がまもなくである。そんなことを思っているうちにアメリカ大統領選挙である。よりにもよって(?)明治節にぶつかる日が今回のアメリカ大統領選挙の投票日である。バイデンが圧勝するという報道がなされたのが夏頃のことだったが、気づけば接戦の雰囲気がある。けれど、『シグナル・アンド・ノイズ』で有名な統計学者のネイト・シルバーが運営する「ファイブサーティーエイト」だと、従来共和党が強い選挙区や、前回トランプが奪い取ったラストベルト(五大湖付近の工業地帯)もバイデン支持の格好だ。これでも競ってくるのだから驚く。トランプはラストベルトを確保しようと遊説を繰り返しているが、これに付き従っているひとたちはCOVID-19の感染を広めるのではないか。そういったことが気がかりである。トランプの支持者はマスクすらしていないひとたちなのだから。
    十一月二日(月)
     そろそろ投票日間近である。そわそわするが、よく考えたらわたしが投票するわけでもない。わたしの国でもない。それでも興奮するというのが選挙の醍醐味という気もするが、さすがに前のめりすぎるだろう。
     とはいえ、わたし自身はトランプの敗戦を望んでいる。というのも、トランプだとGAFAの取締りは中途半端になってしまうと懸念をしているからだ。GAFAというのは、新しい独占様式を確立してしまったと、わたしは考えている。公正な競争というのが行われないのはよくない。YouTubeを見ると、アメリカは一層過激だが、日本ですらトランプに関連する陰謀論(いわゆるQアノン)を商材としたYouTuberがいる。彼らは収益を得ているが、その収益というのがデマだろうがなんだろうがページビューを確保して広告塔としての価値を見せつけようとする企業から支払われる広告料である。悪貨は良貨を駆逐するではないが、事実を軽視した情報が流れていく。その情報に踊らされるひとがいる。その踊ったひとのCookieなどを用いて広告が表示される。そうした広告や情報によって「検索したワードに最適化された」状態に囲われていくひとがいる。主義主張が異なるのはまだしも、客観的な事実すらも歪めた情報を商材として消費させられるひとたちがいる。これはどう考えてもいびつだ。このいびつさはアメリカの通信品位法230条が原因である。ユーザーの投稿によってコンテンツ制作のコストを極限まで下げたプラットフォーム(TwitterやFacebook)に、ユーザーが名誉毀損や事実を曲げた情報を記載しても、その責任の一切をプラットフォームが負わない。
     この場合SNSなどのプラットフォームは言論の自由を重視して責任を負わないできた。この場合の自由とは「思想の自由市場」というものに由来するものである。「思想の自由市場」とは、信教の自由に関してミルトンが説き、J・S・ミルが検討し広めたものだ。しかし、現状は健全な市場となっていないと言えよう。思想の売り買いの市場の場となるインターネット上のプラットフォームにとって、取引が多ければ多いほど、既存のプラットフォーム(新聞、テレビなどなど)よりも取引が活発であることから、コンテンツプロバイダーして魅力的となるためである。コンテンツプロバイダーの競争において、取引(情報の発信)量だけの競争となったとき、インターネット上のプラットフォームの圧倒的な優位がここに生まれる。しかし、取引量を活発にするために、そこで流通する商品(思想)の質が問われていない。ミルが考えていたのは、そうした市場ではない。既存の考えを乗り越えるものは打ち出されなくてはいけないが、それに説得力がなければ既存の考えを補強するものとして機能する。そのような思想のやりとりをミルは想定していた。
     だが、自由市場を形成することによって商品の質が維持ないし向上されるという期待はすでにして裏切られている(そうでなければ、どうしてトランプが繰り返した数々のデタラメがTwitterを介して流通しただろう)。というか、フィルターバブルやエコーチェンバー効果といった自分の考えを補強するものを追い求め、そして実際に見つけてしまうインターネットの検索性が現代の問題である。個々人の視野には自分に都合の悪い情報が入らないように技術的に最適化されるのであるが、これは「思想の自由市場」なるものが成立していない(少なくとも個々人は特定の思想しか供給されない不自由な市場に囲い込まれている)。
     こうなると、SNSは単なる思想の市場ではなく、特定傾向の思想を発信するコンテンツプロバイダーとしての側面を持ってしまう(が、顧客である個々人に最適化しているという建前で身構えている)わけで、新聞テレビといった旧メディア同様に発信情報に対して責任を持たすという枷をかける必要があるだろう。SNSは「思想の自由市場」の名のもとに個々人ごとに手に取りやすい思想という商品を売ることができるために、広告料を受益するという「やらずぶったくり」をしているわけである。トランプ以前からあった傾向が、トランプによって先鋭化したのだから、レイドバックしてGAFAのしかるべき分割ないし制約を課す観点からいっても、トランプ以外のアメリカの政権を期待する理由である。
    十一月三日(火)
     旗日である。明治節である。例年であれば、この時期が文学フリマだった気がする。今年の文学フリマは十一月二十二日の開催である。
     ラジオを聴いていたらTBSラジオの「たまむすび」で町山智浩氏がバイデンが圧勝かと思っていたがトランプの猛追がすごいと盛り上がっている。何もそんなに盛り上がらなくとも、と思うぐらいに盛り上がっている。氏はアメリカに在住しているのだから盛り上がって当然なのだが、それにしたって、というかんじである。曰く、アメリカは全国的に都市部と過疎地域で投票傾向が二分しているそうだ。都市部はバイデン、過疎地域はトランプを支持しているそうだ。
    十一月四日(水)
     ついにアメリカ大統領選挙の開票だが、当初の想定どおりバイデンがカリフォルニアを制したことでリードしているように見える。それでもトランプがじりじりと追い上げている。と思ったら夕刻ぐらいになったらトランプがリードしていた。これでもうバイデンに目がないと思ったら、「ファイブサーティーエイト」など各所がバイデン優勢は変わらないと報じている。どうやら郵便投票が未開票で、この大量の郵便投票のほとんどがバイデンだというのだ。バイデン支持者はCOVID-19を恐れて投票場に赴かず、郵便投票がほとんどなんだそうだ。それでも木村太郎は予想通りにトランプが勝つだろうと意気軒昂で、デーブ・スペクター(わたしは彼が共和党支持者だと思っていた)が沈んだ顔をしていた。デーブ・スペクターが真面目なことや沈んだ顔をするというのは、相当な世界的な危機以外にないので、これは大変なことになってしまったなと、今更に顔をしかめてしまった。
    十一月五日(木)
     なんだか気づいたらバイデンが辛くも勝利したようだ。「ファイブサーティーエイト」とFOXニュースが、バイデン勝利の報を伝えている。どうしてかと思ったら、アリゾナ州をバイデンが勝利していた。ここの票数を勝利の前提にしていたトランプはもはや勝ち目がないというのだ。たしかに開票作業が終了していない州の票数を手計算してみると、トランプが勝つ条件は厳しいものがある。現時点でバイデンが取りそうな票は以下の通りである。これに十五票を積み増せば勝利である。そこまで票数を伸ばせる州がバイデンにはある。トランプにはない。

    ネバダ    :6 アリゾナ   :11 ウィスコンシン:10 メイン    :4      合計:31

     トランプは敗戦の弁を述べてはいないが、圧勝の弁を述べていない。そのこと自体が彼が敗戦した証である。
    十一月九日(月)
     諸々。なにかと事が片付かない。日記を書く余裕もない。淡々と日々をすごしていきたい。
     シェーファーのフラットヘッドの万年筆を手に入れた。当分はこれを使っていきたい。新宿のキングダムノートまで足を運んでパイロットの竹林(深緑色)を注文。肩こりがひどいのでアスピリンを服用。「この恋あたためますか」(このドラマの森七菜は百ワットの笑顔でとてもいい)を先週見逃しているので、なんとかして今日中にTVerでおっかけ視聴をせねば。
     これを機に少しはアメリカの政治状況というのを知ったほうがいいかと思って、岡山裕『アメリカの政党政治』(中公新書)を買う。建国から現代に至るまで、二大政党制が確立して、それが何度かの変貌を遂げたことが記されていて、大変ためになった。宇佐美滋『アメリカ大統領を読む事典』をむかし読んでいたから、ジャクソニアン・デモクラシー、南北戦争、ニュー・ディール、偉大な社会と党勢が大きく変わった現象や政策を知ってはいたが、大統領中心ではなく政党を軸に見てみるとこうも景色が変わるのか。
     メディアを眺めてみると、ようやく「ローリング・ストーン」が民主党候補が勝利とご陽気な調子で報じていた。少しぐらいは前向きな報道があってもよいだろう。
     久しぶりに笙野頼子の小説を読んでみたが、こんなにも袋小路にはいったような、ハイコンテクストな小説だったろうかと戸惑ってしまった。彼女が小説を執筆するにあたって読んでいた小説家たち(筒井康隆などなど)を知らないと楽しめない部分が増えているのではないか。そうして、そうなってしまった彼女の小説は引用や借用の過剰さから、「なにもしてない」ようなものから、極めて社交的な小説へと変貌しているのではないか。それは本人の意に反しての結果かもしれないが。
     日記に以前ボーン・アゲイン・クリスチャンのことを書いたばっかりに、福音派などなどを調べなくてはいけなくなった。うろ覚えでものを書くのも考えものだ。
     イオンでヒアルロン酸が入った保湿液が大きなボトルで売られている。案外に安いのでこれを買って乾燥しやすい箇所を塗りたくる。これで毎年乾燥性湿疹に苦しめられそうな状況から脱せられるか。
     帰宅。トム・ウルフ『そしてみんな軽くなった トム・ウルフの一九七〇年代革命講座』が届いていた。やはりいい本だ。しかし、学生時代に読んでいたときは気づかなかったが、この書籍タイトルは、つかこうへいのパロディであったのか(元は『初級革命講座飛龍伝』である)。七〇年代のシラケを表現しているという意味では共通したものがあるから、納得である。
     オタクがフェミニズムが云々オタクカルチャーはという具体的な資料や事実を明かさない妄言が流れてきて、呆れる。
    十一月十日(火)
     『はじめてのジョナサン・エドワーズ』が届く。漫画がおどろおどろしい。それにしても十一月も三分の一が終了してしまった。月日が流れるのは早い。この分だと、あっという間に年越しだ。まあ、疲労なく一日を過ごしていければ、それで良し。
     2ちゃんねるの管理人だったひろゆきが、いまさらになってバイデンとトランプについて話題として取り上げているという。しかし、デマの温床であった2ちゃんねるを運営し、その手法が4chanなど海外にまで伝播させた人物が何を語るのだろう。これから黒歴史として2ちゃんねるは国際的にも語られ論じられ、否定的な評価を受けるのだとは思うが。むしろ何故ここまで能天気にやっていたのかが、ちょっとわからない。
     Makuakeというクラウドファウンディングで紹介されていたThink Lab Homeが面白そうだ。部屋の中に個室を作って雑音を遮り、集中をしたくなる気持ちはわからなくもない。
     ブックオフで大竹弘二『正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想』を買う。これは以前に荻窪のささま書店かどこかで買おうとしたが諦めたところ、二度と新刊書店などでも見つからなかったものだ。あとで調べてみるとAmazonのマーケットプレイスで四十万円近い値段になっている。こんなに高騰化する理由がにわかに思いつかなかったが、すこし落ち着いてみると最近評判がすこぶる良い蔭山宏『カール・シュミット』(中公新書)が、この本をもとにして進められた講義をまとめたものだと書いてあった気がする。してみると、それが原因だろうか。
     親族の入院。相変わらずドタバタしているとのこと。周囲も疲れている。
     菅政権、日本学術会議の件は一切何も進まず。河野大臣が何かを担当したらしいが、何を進めたかはさっぱりわからず。「旧弊打破」やら「人材に偏り」とまるで左翼のような言辞で日本学術会議に手を突っ込もうとしたのは保守の風下にも置けぬ。そして、こうした発言を言質にとられ首相自身が身動きがとれなくなるのは前政権と変わらず。まるで官邸周辺にミスリードを誘う人物がいるかのようである。
    【公式オンラインストアにて特別電子書籍つき限定販売中!】ドラマ評論家・成馬零一 最新刊『テレビドラマクロニクル 1990→2020』バブルの夢に浮かれた1990年からコロナ禍に揺れる2020年まで、480ページの大ボリュームで贈る、現代テレビドラマ批評の決定版。[カバーモデル:のん]詳細はこちらから。
     
  • Daily PLANETS 2021年4月第4週のハイライト

    2021-04-23 07:00  
    おはようございます、PLANETS編集部です。都内では一時期不安定な気候が続いていましたが、今週は春らしく穏やかな陽気を迎えられたのではないでしょうか。
    暖かな日々の中、PLANETSのコンテンツを楽しんでいただければ幸いです!
    さて、今朝は今週のDaily PLANETSで配信した4本の記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの配信の概要をご紹介します。
    今週のハイライト
    4/19(月)[特別無料公開]その後の『あまちゃん』|成馬零一

    現在好評発売中の成馬零一さんの新著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』からのピックアップをお届けしました。前回に引き続き本書の表紙を飾る女優・のんさん主演の『あまちゃん』をめぐる論考の一部を特別無料公開! 『あまちゃん』以降、現代を舞台としたドラマを描けなくなっていく朝の連続テレビドラマ小説。それは、震災以降の社会の空気とも無縁では
  • レタスの村のグローカルビジネス|西尾友宏

    2021-04-21 07:00  
    550pt

    中小企業の海外進出が専門の明治大学・奥山雅之教授とNPO法人ZESDAによるシリーズ連載「グローカルビジネスのすすめ」。地方が海外と直接ビジネスを展開していくための方法論を、さまざまな分野での実践から学ぶ研究会の成果を共有してゆきます。今回は、長野県川上村の副村長を務めた農林水産省の西尾友宏さんが、シビアなデータ分析に基づいた施策で村の課題に対処していった事例を紹介します。レタスの生産高日本一を誇りながらも、付加価値の低下と人口減少にあえいでいた村の苦境に対し、特に女性と外国人の労働環境にケアすることで新たな可能性を切り拓いていったプロデュースの手法とは?

    本メールマガジンにて連載中の「グローカルビジネスのすすめ」の書籍が、紫洲書院より発売中です。各分野の第一線で活躍する人々の知識と経験とともに、グローカルビジネスの事例を豊富に収めた、日本初のグローカルビジネス実践マニュアルです。 ご注文はこちらから!
    グローカルビジネスのすすめ#06  レタスの村のグローカルビジネス
     近年、新たな市場を求めて地方の企業が国外市場へ事業展開する動きが活発になっています。日本経済の成熟化もあり、各地域がグローバルな視点で「外から」稼いでいくことは地方創生を果たしていくうえでも重要です。しかし、地方の中小企業が国外市場を正確に捉えて持続可能な事業展開を行うことは、人材の制約、ITスキル、カントリーリスク等、一般的にはまだまだハードルが高いのが現実です。 本連載では、「地域資源を活用した製品・サービスによってグローバル市場へ展開するビジネス」を「グローカルビジネス」と呼び、地方が海外と直接ビジネスを展開していくための方法論を、さまざまな分野での実践の事例を通じて学ぶ研究会の成果を共有します。 (詳しくは第1回「序論:地方創生の鍵を握るグローカルビジネス」をご参照ください。)
     今回は、農林水産省の西尾友宏氏にご担当いただきます。西尾氏はレタスの生産で名高い川上村の副村長を務めるなかで、村のビジネスモデルや習慣が抱えていた問題を見抜き、グローカルビジネスをプロデュースしました。また女性活躍の筋道を立てることで、彼女らのニーズやポテンシャルを汲み取りながら従来型の産業に頼らないビジネスを構築するという方法は、他の地域にも十分応用が見込めるものでしょう。行政からグローカルビジネスの支援を行う成功例に注目します。 (明治大学 奥山雅之)
    「レタス日本一の村」の現実
     本稿では「レタスの村のグローカルビジネス」と題して、地方創生、多様性、女性活躍をテーマとしたグローカリゼーションの事例をご紹介させていただきます。 まずは簡単に自己紹介をさせていただきます。私は農林水産省に勤めており、平成27年から30年度にかけて長野県の川上村に赴任し、副村長を務めました。当時は安倍内閣の政策として地方創生に重点がおかれており、川上村のプロジェクトも地方創生政策の一つの事例をつくるという目的をもって立ち上げられました。実際に現場に入り、当事者の目線で地方創生施策を主導してきたというのが私の主な経歴です。 川上村は長野県の東の端に位置する小さな村です。長野県で唯一埼玉県の秩父の裏側に接しており、東京から直線距離だと100㎞も離れていない場所にあります。標高が非常に高く、年間の平均気温も8.5度と非常に低いため、夏場も涼しくてレタスや白菜などの高原野菜の生産が非常に盛んな地域です。人口はわずか4000人ほどで、農家の数は500軒ほどにも関わらず、野菜栽培で年間208億円もの年商をあげています。農家一軒あたりの平均年商が4000万円を超えているということなので、農業の分野では非常に成功している部類に入る村だと言われていました。 そもそも地方創生とは、全国の地方で人口の減少を止めるために多くの政策を考えて実行していきましょう、という施策の体系です。地方に稼げる仕事がないことから、若い人が大都市、特に東京に集中してしまいます。このローカル人材の流出を防ぐことが、地方創生の一つの大きな意義であると言えるでしょう。 その意味では、川上村は一見して特殊な状況にありました。川上村には、先にご紹介した通り、高原野菜の栽培という年商4000万円超を稼ぐことができる大きな仕事がありました。にもかかわらず、川上村の人口は着々と減少していました。地方創生という観点から見ると、川上村も例に漏れず人口が減少しており、何らかのアクションが必要な状態だったのです。
     私が赴任をして最初に行ったことは、川上村の人口減少の根底にある原因を探ることでした。人口減少のトレンドを表すいくつかのデータを見てみましょう。まず世帯増減の推移に注目すると、2009年〜2013年における平均転入数が88.4人であるのに対し、転出数は140人。すべての年で転出超過になっていることが分かりました。また、合計特殊出生率の推移をみると、バブルまでは2を超えていましたが、徐々に減ってしまい、現在は長野県の平均と比べても低くなっています(図表1)。
    図表1  合計特殊出生率の推移 出所: 人口動態保健所・市区町村別統計
     その理由は人口ピラミッドが物語っています。人口ピラミッドの女性の部分、とりわけ一般的に出産適齢期とされる20代から40代の人口が少なくなっていたのです。つまり、若い世代の女性が少ない。これは地方に典型的なことなのですが、村から出た女性が都会に移り住み、村の女性が少ない故に子供が生まれない、という分かりやすい状況です。
     しかし問題は人口の推移だけではありませんでした。図表2は川上村の主力産業であるレタスの収穫・出荷量の推移と、人口の推移とを横に並べたグラフです。レタスは保存が効かないという特徴があるため、その需要量は単純に胃袋の数に比例することになります。そのため、人口が多い時代には生産量も上がり、人口が横ばいになると生産量も落ち着いてきます。今後、日本は大きな人口減少時代を迎えます。そのときに、レタスの栽培面積がどうなるかというのは、火を見るより明らかです。
    図表2 相関するレタスの全国収穫・出荷量(左)と国内人口(右)の推移 出所: 農林水産省「農林水産統計年報」 / 国立社会保障・人口問題研究所「H18 日本の将来推計人口」
     しかし、レタスを生活の糧にする以上、結論としては量をさばくことでしか稼ぎは見込めません。そのため、個々の農家は収益を増やすために、レタスの生産量を増やすことになります。過去30年間、日本人一人当たりのレタスの消費量は横ばいで、年間1.9㎏であるとのデータがあります。しかし、日本で生産されたレタスの総量を日本の人口で割ると、およそ3.6㎏栽培しています。このことから、日本人は実際に消費する量にせまるレタスを廃棄していることが分かります。 レタスの需要量が減っていく一方で、レタスをつくらないとお金が稼げないというような産業構造を維持するというのは、非常に危ういと言わざるをえません。これが当時、川上村のおかれていた状況でした。
     加えて注目すべきは、川上村の「付加価値額順位」(人口一人あたりのGDP)です。これは一人あたりどれだけの付加価値を産み出しているかという指標です。この指標に関して、川上村の額は117万円となっています(図表3)。4000万円超売り上げているにも関わらず、付加価値額の順位を全国の市町村に並べると、全国約1700ある市町村の中で1467位になっています。つまり、GDPベースに換算すると、実はまったく稼げていないということになります。
    図表3 川上村の一人当たり付加価値額と全国市町村順位 出所: 環境省「地域産業連関表」、「地域経済計算」(株式会社価値総合研究所(日本政策投資銀行グループ)受託作成)
     売上高は多いけれども、収益の部分が実は非常に低いのです。117万円というと、社会保険における扶養の基準である130万円にも満たない額です。川上村の農業が成功していると言われていても、実際に一人当たりで稼いでいるのはアルバイトよりも少なかった、というのが川上村の経済の本質でした。高コスト構造であり、付加価値生産額が非常に少ないということです。また、地域経済の自立度が低いことも問題でした。これは多くの田舎に当てはまりますが、せっかく200億円稼いだとしても地域に商店などが少ないため、そのほとんどを自分の村の外で使ってしまっています。外で使ってしまっているが故に、地域の中での再生産がなかなか起きないというような低経済循環でした。 この経済の構造を整理してみましょう。まず川上村の産業構造の特徴として、巨大な生産シェアが挙げられます。真夏の期間、川上村のレタスは全国のレタスのシェアの8割に迫る場合もあります。みなさんが何気なく食べているレタスも、実は川上村のレタスだということが多いでしょう。 しかしこの巨大生産地は、労働あたりの生産性が低く、さらに生産の量に依存するという大きな課題を抱えていました。長期的に見ても需要量が減っていき、レタスの価格が低下していく分を、個々の農家ではその翌年の生産量の拡大で賄おうとします。需要量が減って、モノが余っていくのに、農家が生活を安定させるためにますます生産量を増やしていってしまうといういびつな構造があるということです。 また、労働集約型の農業であるが故に、外国人の労働者をたくさん確保しなければいけないという点もこの問題を助長していました。生産のピークを迎える時期には、外国人労働者の労働力は貴重な戦力になります。しかし農業という業種には、一年を通して一定の仕事量があるわけではなく、栽培に適さない「農閑期」と呼ばれる期間があります。一度外国人労働者を抱えてしまうと、その期間におけるコストを抑えるために、本来は農閑期であったはずの時期にもさらに生産を増やそうとしてしまいます。 私はこの現地の問題に対して、いわゆる減反政策などに代表されるような、計画的に生産をコントロールしていくというタイプの施策には未来がないと感じました。問題は、まさにモノカルチャーのレタスの栽培でしかお金を稼げていないことにあります。そこで、この村に他の産業を新しく創っていくことで、相対的にレタスに対する依存度を落としていこうということを策として掲げました。
    なぜ女性の幸福度は低いのか?
     経済の問題に加えて、人口減少の対策にも取り組まなければなりません。川上村では20代から40代の半分以上に配偶者がいないという状況で、配偶者がいなければ当然子供も生まれません。人口減少に拍車がかかるのも納得です。 農業の主役となる男性の配偶者は、村の外から来ることが多いのが現状です。この点がある以上、外から移り住んでくる女性が住み良いと思える地域でなければ、非婚率は下がらないのではないかと考えました。女性に川上村の生活を楽しんでもらい、川上村で生活をしたいと思ってもらえるような環境をつくらなければいけないということで、先ほどの経済の多角化とならんで、女性の活躍推進をもう一つの施策としてすすめました。 実際の子供の数と理想の子供の数を統計に照らし合わせて比較すると、川上村の暮らしに満足している人の方が、実際に満足していない人よりも、理想の子供の数が増えていることが分かりました。 地方創生のためによく行われている施策として、子供が生まれた時に自治体からお祝い金を支払うということが挙げられます。もちろん、それは一市民、一国民としてありがたいことですが、それがストレートに少子化対策につながるかというと、疑問が残ります。そのような一時的な措置ではなく、むしろその地域の生活に満足していることの方が、希望する子供の数、実際の子供の数ともの増加につながるということも、実際のアンケートデータとして出ていました。
     図表4は、結婚幸福度調査にもとづく川上村の位置付けです。これを見ると、男性と女性の間で川上村の生活に対する意識が分かりやすく異なっており、女性の幸福度が非常に低くなっています。女性の幸福度が低い状態が続けば、都会に出た村の女性は帰ってきませんし、外からの女性も来てくれないというのは当然の結果です。
    図表4 総合・男女別の結婚幸福度順位(括弧内はQOM指数) 出所: パートナーエージェント「全国QOMランキング」 川上村の数値は2016年時点での概算値(筆者提供)
    【明日4/22まで!】特別電子書籍+オンライン講義全3回つき先行販売中!ドラマ評論家・成馬零一 最新刊『テレビドラマクロニクル 1990→2020』バブルの夢に浮かれた1990年からコロナ禍に揺れる2020年まで、480ページの大ボリュームで贈る、現代テレビドラマ批評の決定版。[カバーモデル:のん]詳細はこちらから。
     
  • プリンストンで出会った3名が再会した会議と再会しなかった会議〜人工知能の誕生|小山虎

    2021-04-20 07:00  
    550pt

    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第15回。今ある情報社会の欠かせないインフラになっている人工知能(AI)技術。その確立の立役者となったアメリカ生まれの3名の科学者、ジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、アレン・ニューウェルもまた、中欧から落ちのびてきたフォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと同じく、1949年にプリンストンで出会っていました。第二次世界大戦後、軍産学複合体制によるコンピューター・サイエンスの発展基盤が整えられるなかで、世代と出身の異なる二つの三人組が交錯した軌跡を辿ります。
    小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ第15回 プリンストンで出会った3名が再会した会議と再会しなかった会議〜人工知能の誕生
     前回は、フォン・ノイマンがコンピューター開発に関わることになった経緯をたどった。フォン・ノイマンという高名な数学者が関わったことで、コンピューターの開発は計算機の性能向上にとどまらず、コンピューター・サイエンスという新たな科学の誕生につながったのだが、その背景にあったのは、第二次世界大戦であり、アメリカ軍部、加えて、戦争に積極的に関与したアメリカの大学の姿があったのだった。  ところで、こうしたアメリカの軍産学複合体によって産み出された科学はコンピューター・サイエンスだけではなかった。コンピューター・サイエンスと縁の深い人工知能はその代表例である。今回は人工知能の発展の中心人物のなかから、ジョン・マッカーシー、マーヴィン・ミンスキー、アレン・ニューウェルの3名に焦点を当てたい。同年代の彼らは1949年にプリンストンで初めて出会っている──そういえば、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキの3名もまた、1946年にプリンストンで初めて出会っていた。もしかするとこれは、偶然のことではないのかもしれない。
    1956年夏、ニューハンプシャー州ハノーヴァー

    「ダートマス会議」のオリジナル提案書の1ページ目。2行目に「人工知能(ARTIFICIAL INTELLIGENCE)」の文字が見える(ダートマス大学所蔵)。 AI Magazine 2006年冬号(Vol. 27, No. 4), p. 13(出典)
     「人工知能(Artificial Intelligence, AI)」という言葉を作ったのは、プログラミング言語LISPの開発者ジョン・マッカーシーである。マッカーシーがこの言葉を初めて用いたのは、1956年に開催された、のちに「ダートマス会議(Dartmouth conference)」という名で知れ渡ることになる会議だ。人工知能という分野は、このダートマス会議において誕生したとされているのだが、マッカーシーは、その中心人物だった。  1927年生まれのマッカーシーは、若い頃から数学の才能に秀でており、1944年にカリフォルニア工科大学の数学科に入学する。卒業前に第二次世界大戦に従軍することになるが、復帰後に彼の人生を変える出来事がある。フォン・ノイマンとの出会いである。  1948年、カリフォルニア工科大学を卒業し、同大学の大学院に進学したばかりのマッカーシーは、あるシンポジウムに出席する。そこで講演していたのは、フォン・ノイマンだった。フォン・ノイマンの講演を聞いたマッカーシーは、機械で人間の思考を実現するという構想を思いついたのだ。マッカーシーはすぐさま、プリンストン大学の大学院に移籍する。プリンストン高等研究所にいたフォン・ノイマンの教えを乞うためだった。  フォン・ノイマンは若き俊英の野望を大いに励ましたものの、進捗ははかばかしくなく、結局マッカーシーは違うテーマで博士号を取得する。マッカーシーが本格的に「人工知能」へと向かうようになったのは、1955年ダートマス大学に職を得てからのことである。
     ダートマス大学(Dartmouth College)は、アメリカで9番目に古い大学であり、その設立は、独立前の1769年にまで遡る。つまり、ダートマスもまた、ハーバード大学やプリンストン大学と同じく、植民地時代のアメリカで設立された「カレッジ(college)」の一つなのだ(本連載第9回参照)。ハーバードを始めとする植民地時代に設立された他の大学とは異なり「大学(University)」へと正式名称を変更していないことからもわかるように、ダートマス大学は研究大学ではあるが、かつての「カレッジ」が担当していた教養教育に力を入れた大学である。  「ダートマス」という名称は、イギリスのダートマス伯爵にちなんだものである。また、大学がある街は「ハノーヴァー(Hanover)」というのだが、当時のイギリス王家が、ドイツ(正確には、神聖ローマ帝国)のハノーファー(Hanover)選帝侯を兼任するハノーヴァー朝だったことに由来する。このように、ダートマス大学はイギリス植民地時代と縁が深いのだが、マッカーシー、および後の人工知能の発展にとっては、このことが大きく影響することになる。
     1955年、ダートマス大学の数学科は、4人の教授が一斉に退職してしまったために、4人分の後任を探していた。だが、優秀な人材を一度に何人も揃えるのは明らかに困難な作業だった。白羽の矢が建てられたのは、プリンストン大学である。当時、ヴェブレンの指導のもと、プリンストン大学数学科は全米でトップレベルの数学科として広く知られるようになっていたからだ(本連載第13回)。最初に雇われたのは、ジョン・ジョージ・ケメニーという数学者だった。  のちにプログラミング言語BASICを開発することになるケメニーは、フォン・ノイマンと同じくハンガリーからの移民であり、誕生時の名前は、ケメーニ・ヤーノシュ・ジェルジという(本連載第5回でも述べたように、ハンガリー語では姓が名の前に来る)。ユダヤ人でもあったケメニーは、1939年にポーランドがナチス・ドイツに侵攻されたため(本連載第6回)、ハンガリーも同様に危険があると考えた父とともに、13歳の時に一家でアメリカに移住する。他のユダヤ人同様、ニューヨークで育ったケメニーは数学の才能を発揮し、プリンストン大学に入学するが、第二次世界大戦中の終わり頃に陸軍に招集され、マンハッタン・プロジェクトに関わることになる。ここでケメニーは、同郷のフォン・ノイマンと出会うのである。戦後、プリンストン大学でチャーチの指導のもと博士号を取得したケメニーは、プリンストン高等研究所でアインシュタインの助手をしていたのだが、フォン・ノイマンとアインシュタインの推薦により、ダートマス大学の教授となる。なんと27歳の若さだった。
     一方マッカーシーはといえば、1951年に博士号を取得した後、いくつかの大学を点々としていた。ところが、ダートマス大学数学者の後任候補としてリストアップされる。ケメニーが、よく知っている後輩のマッカーシーを推薦したためだ。こうしてマッカーシーは、ダートマス大学に勤務することになるのである。  ダートマス大学で働き始めたマッカーシーに、さらに思いがけない出来事が生じる。1955年の夏、IBMがニューイングランド計算センター(New England Computation Center)を設立したのだ。このセンターはボストンにあるMITのキャンパス内にあったのだが、当時売り出し中だったIBM 704──IASコンピューターを元に設計されたIBM 701の後継機だ(本連載第14回)──が設置されており、ニューイングランド地域の大学の利用が許されていた。ニューイングランドとは旧イギリス植民地のことだ(本連載第11回)。ハーバード大学やMITのあるマサチューセッツ州もそうだが、マッカーシーにとって幸運なことに、ダートマス大学のあるニューハンプシャー州もニューイングランド地域の一部だったのだ。  ニューイングランド計算センターでマッカーシーには重要な出会いがあった。まずは、大学院時代の友人、マーヴィン・ミンスキーだ。ミンスキーはのちにマッカーシーとともにMIT人工知能研究所を作ることになる高名な人工知能および認知科学の研究者だ。  マッカーシーと同じ1927年生まれのミンスキーは、ユダヤ人であり、ユダヤ人の多いニューヨークで生まれ育つ。高校卒業時が第二次世界大戦まっただなかの1944年だったこともあり、卒業後にミンスキーは海軍に入隊する。終戦後、ハーバード大学に入学し、大学院はプリンストン大学に進学。ここでマッカーシーと出会うのだ。博士号を取得した後、ミンスキーは母校であるハーバード大学で働いていたのだが、彼もまた、IBM 704を求めてMITのニューイングランド計算センターにやってくるようになっていたのである。再会した彼らの友情は生涯のものとなる。  マッカーシーはニューイングランド計算センターで、IBM 701の設計者であるナサニエル・ロチェスターとも知り合う。彼ら3人に、マッカーシーが博士号取得後に一時的に働いていたベル研究所で知り合った、情報理論の生みの親クロード・シャノンを加えた4名が、ダートマス会議の発起人になるのである。
    【あと2日! 4/22(木)まで】特別電子書籍+オンライン講義全3回つき先行販売中!ドラマ評論家・成馬零一 最新刊『テレビドラマクロニクル 1990→2020』バブルの夢に浮かれた1990年からコロナ禍に揺れる2020年まで、480ページの大ボリュームで贈る、現代テレビドラマ批評の決定版。[カバーモデル:のん]詳細はこちらから。
     
  • [特別無料公開]その後の『あまちゃん』|成馬零一

    2021-04-19 07:00  

    今朝のメルマガは、現在先行発売中の成馬零一さんの新著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』からのピックアップをお届けします。前回に引き続き本書の表紙を飾る女優・のんさん主演の『あまちゃん』をめぐる論考の一部を特別無料公開!『あまちゃん』以降、現代を舞台としたドラマを描けなくなっていく朝の連続テレビドラマ小説。それは、震災以降の社会の空気とも無縁ではありませんでした。
     2000年の『池袋』がビッグバンとなり、その後、様々な場所で、ドラマに関わったスタッフや俳優が活躍するようになったように、『あまちゃん』も関わった人たちにとってビッグバンとなり、様々な作品を生み出していく。  まずは、言わずと知れた宮藤官九郎の作品。その後、宮藤は3本の連ドラを手掛け、2019年に再び『あまちゃん』のチームと、大河ドラマ『いだてん』を執筆することになる。これらのドラマを執筆することで宮藤の作風がどう
  • Daily PLANETS 2021年4月第3週のハイライト

    2021-04-16 07:00  
    おはようございます、PLANETS編集部です。
    さて、今朝は今週のDaily PLANETSで配信した4本の記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの配信の概要をご紹介します。
    女優ののんさんが表紙を飾る新刊『テレビドラマクロニクル 1990→2020』から、『あまちゃん』をめぐる一節を無料公開。さらに山本寛さんによる『シン・エヴァンゲリオン』論から、日本のゲームコンテンツも売買される地中海の非正規市場の探訪まで、さまざまな注目記事を発信しました。
    今週のハイライト
    4/12(月)[特別無料公開]『あまちゃん』という2010年代ドラマのビッグバン|成馬零一

    現在先行発売中の成馬零一さんの新著『テレビドラマクロニクル 1990→2020』からのピックアップをお届け。今回は本書の表紙を飾る女優・のんさん主演の2013年の作品『あまちゃん』をめぐる論考の一部を特別無料公開!クドカン