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  • 【特別掲載】ホモ・ルーデンスの夏休み、夏の夜の夢──アートとゲームの野生を解放する二つのドリームタイム|中川大地

    2023-08-22 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、PLANETS副編集長・中川大地がコンセプト監修を務める、現代アートとインディーゲームの今を発信する展覧会「art bit – Contemporary Art & Indie Game Culture- #3」(会期:2023年7月5日〜9月2日)の開催を記念し、前回につづき同展をめぐる解説論考をお届けします。 20世紀における現代アートとビデオゲームの発展をリマインドしながら、その歴史を打ち返すようなコンセプトを掲げて展示作品を選定してきた前2回のart bit展。その文脈を踏襲しながらも、2023年はコロナ禍による行動制限が緩和されたことを受け、〈ホモ・ルーデンスの夏休み、夏の夜の夢〉と題して、さらに多様かつダイナミックなキュレーションが試みられています。遊びやゲームの奥底にある「野生の思考」との再会を期した同展のコンセプトの模索過程とは? (初出:「art bit – Contemporary Art & Indie Game Culture- #3」展示フライヤー(ホテルアンテルーム京都、2023年))
    【告知】 ■art bit - Contemporary Art & Indie Game Culture - #3 会期:2023年7月5日(水)〜9月2日(土) 会場:ホテル アンテルーム 京都 GALLERY9.5 入場料:無料https://www.uds-hotels.com/anteroom/kyoto/news/17075/ 2011年の開業以来、「常に変化する京都のアート&カルチャーの今」を発信してきたホテル アンテルーム 京都と、2013年より続く日本最大級のインディーゲームの祭典「BitSummit」との出会いから生まれた本展では、現代アートのゲーム性とインディーゲームの芸術性という、合わせ鏡のような魅力とクリエイティビティのルーツに注目。互いのカルチャーの垣根や、アーティストやクリエイター、研究者といった立場を超えた人と人との交わりから、アートとゲームの新たな可能性を追求しています。 3年目となる本年は「ホモ・ルーデンスの夏休み、夏の夜の夢」をテーマに、わたしたち人間の持つクリエイティブな野生や遊び心を解き放つ多彩な作品を展示します。 ■ギャラリートーク&レセプション 「アート&ゲームの最前線 〜BitSummitとart bit から考える2025への道筋〜」 日時:2023年8月27日(日)19:00〜20:30 会場:ホテル アンテルーム 京都1F 出演(予定):村上雅彦、石川武志、尾鼻崇、中川大地、豊川泰行 11年目に踏み出したBitSummit Let’ GO、およびart bit #3の運営の舞台裏とゲームカルチャーをめぐる最新動向を振り返りつつ、大阪万博2025を控えた関西の地でアートとゲームに何ができるのかを展望します。
    ホモ・ルーデンスの夏休み、夏の夜の夢──アートとゲームの野生を解放する二つのドリームタイム|中川大地
     現代アートのゲーム性とインディーゲームの芸術性を合わせ鏡のように展示することをコンセプトに掲げた展覧会「art bit – Contemporary Art & Indie Game Culture- 」も、今年で3回目を迎える。新型コロナウイルスのやり過ごし方に日本社会が一応のガイドラインを示した2023年の展示テーマは、当初は〈再会(Reunion)〉を軸に検討されていた。人と人とが集うことの制限がおおむね緩和された現在の状況を意識しつつ、異なる文化ジャンルとして発展を遂げながら、今ふたたび呼応しあっているアートとゲームの関係を改めて見つめ直そうというわけである。  その底意をもうすこし展開するなら、アートとゲームそれぞれの営みの根源にある「遊び」という共通の因子に溯りながら、それが現代の情報環境のもとで再び強固に結びついているさまを炙り出そうということに他ならない。かつて歴史家ヨハン・ホイジンガが「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」という語で示したように、遊びこそが人間の文化や社会を形成する原動力をなしているという立論は今日でも遊び/ゲーム研究の古典として参照され続けているが、20世紀後半から始まった情報技術とビデオゲームの相互発展は、まさにそんな文明の遊戯史観を圧縮して現代人の目の前に差し出すかのような経験だった。  そしてビデオゲームを差し出された現代人の側はと言えば、最初期の『ポケットモンスター』に出会った当時の人類学者・中沢新一の洞察を信ずるなら、かつてクロード・レヴィ=ストロースが見出した「野生の思考」──すなわち、長らく近代社会が「未開」だと見做してきた世界各地の狩猟採集民をはじめとする自然民族の精神性に通底する、原初的な神話的・芸術的思考を再活性化させつつある。  このようにしてホモ・ルーデンスたる人間が、パンデミックや現在進行中の戦争、それにグローバル資本主義の帰結としての富と力の非対称化といった世界の様々な分断をいずれ乗りこえ、せめて想像的にでも遊びの因子と野生の創造力のもとに「再会」を果たすイメージを思い描こう──そのような契機としてアートとゲームが出会い直す祈りのかたちを、「art bit #3」では浮き彫りにしようと考えた。
    アートとゲームの「再会(Reunion)」をめぐって
     さらにその「再会」のモチーフをアート史の脈絡に求めるなら、一昨年の初回展でもリマインドしたように凄腕のチェス・プレイヤーでもあった現代アートの祖マルセル・デュシャンが、盟友の前衛音楽家ジョン・ケージとともに1968年にカナダ・トロントで行ったチェス対戦イベントでのコラボレーション・パフォーマンス《REUNION》こそが、より直接的なイメージ源となっている。ケージが企画したこの伝説的なライブは、二人の対局するチェス盤に音響装置が仕掛けられており、両者の駒の動きによって会場に設置されたスピーカーから即興的にサウンドが発生し、勝敗を競うゲームとしてのチェスのゲームプレイの境界を内破して、より高次元に展開する一回性のアート体験を現出させようというものだ。  そのコンセプト性は、ちょうど同時代にケージも呼応するかたちで展開していたジョージ・マチューナスの主宰による同時多発的な芸術運動フルクサスとも呼応するもので、同運動に参画していたナム・ジュン・パイクやオノ・ヨーコらが1960〜70年代の世界的なカウンターカルチャーの機運のもとに模索していた「境界のない世界」を指向するモーメントとも軌を一にしている。このように2度の世界大戦の戦禍とも密接にかかわりながら発展した写真や映像といった「網膜的」なテクノロジーとの対峙の中で、既存の芸術文化の制度に対する「頭脳的」な価値転倒ゲームを創始したデュシャンから、音楽ライブや演劇などより「身体的」な回路での前衛を追求したフルクサスまでに至る前世紀の戦後現代アートの史的展開は、「現代アートとビデオゲームの父と母に捧げる展覧会」を掲げた昨年の「art bit #2」の大テーマとしても強く意識していた文脈であった。
    《REUNION》と1968年の「革命」
     したがって、〈再会(Reunion)〉を起点に3年目のart bitのキュレーション・コンセプトを起草しようということになったとき、〈理想の時代〉(1945〜59年)の代表的なムーブメントだった抽象表現主義への応答として「規則性・ミニマル」を筆頭に四つのテーマで現代アートとインディーゲームを接続した1年目、〈夢の時代〉(1960〜74年)を体現するフルクサス的な祝祭性・体感性を中核に据えた2年目から続く流れとして、いよいよ本格的にコンピューターの一般普及やビデオゲーム産業が興り、社会・文化と直接的に切り結ぶようになった〈虚構の時代〉(1975〜89年)の精神性とそのアート的な脈絡を振り返ってみる過程が、まずは必要だった。  そこからすると、デュシャンとケージが《REUNION》を実演した1968年という年は〈夢の時代〉の折り返し点にあたり、アメリカでの黒人公民権運動やパリの五月革命、日本での全共闘運動など、主に若い世代が主体となって既存の政治体制を覆そうと志した世界的な反体制ムーブメントがピークを迎える、いわゆる「政治の季節」の転換点とされている。この年の挫折を境に、西側先進国ではイデオロギーに基づく革命闘争によって人々が現実をドラスティックに塗り変えようと志した〈理想〉は破れ、政治運動への大衆的機運が徐々に退潮して経済成長による繁栄を目指す〈夢〉に呑み込まれつつ、やがて人々は高度消費社会のもたらす様々な〈虚構〉に淫するようになった──というのが、かつて社会学者・見田宗介が批判的なトーンで素描した第二次世界大戦後の社会心性史をめぐる時代区分の要諦だ。  ただし、その一方で1968年はその年末、サンフランシスコで行われたコンピューター会議の場で、情報工学者ダグラス・エンゲルバートが当時のコンピューターにまつわる様々な発明を集積して先駆的なGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)システムのデモンストレーションが披露された年でもある。「すべてのデモの母」とも呼ばれるこのインパクトが、アラン・ケイなどを触発して1970年代のパーソナルコンピューターの登場や、その先のインターネットの普及といったIT革命につながっていく。その意味で、いわば現実社会の構造を変えていくための回路が政治革命から情報技術上の革命にシフトし、〈虚構の時代〉への変遷が始まる象徴的タイミングとして、1968年を捉え直すという見方も可能だろう。
    1980年代を再照射する出展アートたち
     そのように俯瞰してみると、ロジカルな完全情報ゲームとしてのチェスのゲーム性をテクノロジー・ガジェットの介入によって別種の遊びへと組み換えてみせた《REUNION》は、まさに先端的なコンピューター技術とプリミティブな遊びの感性とが結びつき、多種多様なビデオゲームが爆発的に世に出ていく〈虚構の時代〉の風景の本質を先取りしていた営みだったという構図が見えてくる。特にオイルショック後の日本では安定成長を背景に様々なポップカルチャーが開花し、バブル景気に向かって消費社会を謳歌する「遊び」のモードが全面化していたこともあり、そうした気分をインテリ層が知的に正当化するためのエクスキューズとして、当時のフランス現代思想を輸入したニューアカデミズムのようなムーブメントが起きたりもした。本展が依りどころにしているホモ・ルーデンスや野生の思考といったキーワードもまた、実のところは当時のそうした浮き足だった気分の中で広く知られるようになった概念でもある。  それゆえ、今回のキュレーション過程で現代アート側の出展作が具体化していくにつれ、しだいに1980年代的な玩具ガジェットをフィーチャーしながら、その行為性を現代的な観点や問題意識から組み換えようとするタイプの作品群が肩を並べるようになってきたのは必然だった。ともに1982年から発売されている動力付き自動車模型「ミニ四駆」を素材としつつ、片や資本主義的な速度と競争の原理への価値転倒を図ったやんツーの《遅いミニ四駆》、片や擬似プリミティブアート的な造形で直截に人類学的な土俗の現出に挑むFunny Dress-up Labの《Mask Series》の両作は、まさにそんな姿勢のストレートな顕れと言える。スケートボードにエレキギターの弦を張るなどの工夫を凝らした創作楽器《滑琴(かっきん) + 響筐(きょうきょう) + 擬似耳(ぎじじ)》および動力付き鉄道玩具「プラレール」の挙動を音源化する《ぼくのDTM》で生活空間との予測不能なインタラクションを可聴化するおおしまたくろうの2作品、かつてのファミコンがRF(高周波)変調方式で電波ジャックするかのようにテレビの映像に介入していた本質性を今日のゲーム実況のように可体験化する毛原大樹の《ビデオゲーム傍受者の受像機「Telephono Scope」》とあわせ、子供たちには愉しさを、大人たちには童心に立ち返る懐かしさを呼び起こすだろう、過年度に増してキャッチーかつ遊戯性の高いラインナップが固まってきたのである。
    やんツー《遅いミニ四駆》 Funny Dress-up Lab《Mask Series》 おおしまたくろう《滑琴 + 響筐》 おおしまたくろう《ぼくのDTM》 毛原大樹《ビデオゲーム傍受者の受像機「Telephono Scope」》 こうなってくると今回のart bit展には、もはやアートとゲーム、野生とテクノロジーの「再会(Reunion)」といった広漠とした描像よりも、さらに輪郭のはっきりしたアグレッシブなイメージが宿りつつあるのではないか。インディーゲームの祭典「BitSummit」の併催イベントとして恒例化し、日々の責務を離脱して毎年の夏ごろに泊まりがけで手ずから味わうことのできる、ノスタルジックなホビーや自由研究の工作のような遊びと創造性の解放。そう、多くの人々の記憶の奥底に原体験として刻まれる、「夏休み」のイメージが。
     
  • 【特別掲載】art bit展が投げかけるもの ──世紀をこえた「20年代」のリフレインに向き合うために|中川大地

    2023-08-15 07:00  
    550pt

    本日のメルマガは、PLANETS副編集長・中川大地がコンセプト監修を務める、現代アートとインディーゲームの今を発信する展覧会「art bit – Contemporary Art & Indie Game Culture- #3」(会期:2023年7月5日〜9月2日)の開催を記念し、同展をめぐる解説論考を2週連続でお届けします。 世界中のクリエイターが集う日本最大級のインディーゲームの祭典「BitSummit」の関連イベントとして、ホテルアンテルーム京都にて2021年から毎年開催されている「art bit」展。COVID-19のパンデミック下で延期された東京五輪2020とともにはじまった初回展につづき、ロシアによるウクライナ侵攻や安倍元首相の銃殺事件といった衝撃が社会を揺さぶる中で開催された翌2022年の第2回展では、何が問いかけられていたのか。 映像と戦争の世紀だった20世紀における現代アートとビデオゲームそのものの成り立ちに立ち返りながら、その展示キュレーションに込められたアクチュアルな文脈を読み解きます。 (初出:「art bit – Contemporary Art & Indie Game Culture- #2」展示フライヤー(ホテルアンテルーム京都、2022年))
    【告知】 ■art bit - Contemporary Art & Indie Game Culture - #3 会期:2023年7月5日(水)〜9月2日(土) 会場:ホテル アンテルーム 京都 GALLERY9.5 入場料:無料https://www.uds-hotels.com/anteroom/kyoto/news/17075/ 2011年の開業以来、「常に変化する京都のアート&カルチャーの今」を発信してきたホテル アンテルーム 京都と、2013年より続く日本最大級のインディーゲームの祭典「BitSummit」との出会いから生まれた本展では、現代アートのゲーム性とインディーゲームの芸術性という、合わせ鏡のような魅力とクリエイティビティのルーツに注目。互いのカルチャーの垣根や、アーティストやクリエイター、研究者といった立場を超えた人と人との交わりから、アートとゲームの新たな可能性を追求しています。 3年目となる本年は「ホモ・ルーデンスの夏休み、夏の夜の夢」をテーマに、わたしたち人間の持つクリエイティブな野生や遊び心を解き放つ多彩な作品を展示します。 ■ギャラリートーク&レセプション 「アート&ゲームの最前線 〜BitSummitとart bit から考える2025への道筋〜」 日時:2023年8月27日(日)19:00〜20:30 会場:ホテル アンテルーム 京都1F 出演(予定):村上雅彦、石川武志、尾鼻崇、中川大地、豊川泰行 11年目に踏み出したBitSummit Let’ GO、およびart bit #3の運営の舞台裏とゲームカルチャーをめぐる最新動向を振り返りつつ、大阪万博2025を控えた関西の地でアートとゲームに何ができるのかを展望します。
    art bit展が投げかけるもの ──世紀をこえた「20年代」のリフレインに向き合うために|中川大地
     「あれ、今って21世紀だよね……?」 2022年に入ってからの衝撃的な出来事の連続に、そのような思いにとらわれている人も少なくないのではないだろうか。およそ100余年前のスペイン風邪が2度の世界大戦をまたぐ20世紀の世界史ドミノの倒列の端緒近くにあったことと同様、COVID-19のパンデミックで幕を開けた2020年代の世界は、各国での対策をめぐる社会の分断、ロシアによるウクライナ侵攻、金融危機化を懸念されながら進む世界同時株安、そして日本社会を震撼させた先の安倍元首相の惨劇と、これでもかというほどに前世紀への先祖返りを志向しているかのようだ。  昨年、現代アートのゲーム性とインディーゲームの芸術性を合わせ鏡にするという趣旨で初めて開催されたart bit展では、マルセル・デュシャンが同時にチェス・プレイヤーでもあったという脈絡のリマインドから、そのコンセプトの図解きが始まっていた。そしてデュシャンがレディメイドの小便器を使った《泉》を1917年のニューヨーク・アンデパンダン展に出展しようとした騒動が現代アートのスタート地点となったこともまた、目下の情勢の変化から振り返ると、1世紀前の時代状況との奇妙な符合の一つだったようにも思えてくる。  とはいえ、一見「かつて来た陰惨な道」をリフレインしているかのようにもみえる現在の世界の展開も、螺旋を描くようにして未知のベクトルを進んでいる。未曾有の世界大戦に翻弄された人類の危機へのニヒリスティックな抵抗が、あらゆる権威や既成概念を疑うダダイスムにつながり、そして現代アートという価値転倒のゲームを産み出したように、いま世界を覆いつつある巨大な不安と無力感を受け止めながら、そこに少しでもハッキング余地を見つけていくという芸術表現の役割が、これよりは改めて切実化してゆくことになるだろう。そうした現在進行中の時代変化のベクトルの正体と、そこに付けいる隙を見つけていくための営みとして、2年目を踏み出すことにしたart bitに何が問われているのかを見定めていきたい。
    「現代アートのゲーム性」と「ビデオゲームの芸術性」
     デュシャンをメルクマールとする現代アートが何を成し遂げたかを改めて言い直せば、写真や映像技術、あるいは工業製品の氾濫といった産業革命以降の表現にまつわるテクノロジーの発展が、絵画や彫刻といった従来の伝統的な芸術表現の存在意義を脅かしていく中で、それでも人間が創造する「美」とは何かという規範を様々なイズムの更新闘争として展開してきた近代美術のモーメントを徹底させ、高純度の「文脈のゲーム」(落合陽一)を抽出したことだ。  そこでは、従来の「美」における自明の前提だった人の目に心地よく感じられる「網膜的」な快楽の要件は相対化され、むしろ不快や困惑すらもたらす認知負荷の高い「頭脳的」な鑑賞体験を通じて、従来の美をめぐる既成概念をいかに揺るがしたかという問題提起性こそが、作品価値の根幹となるシーンが現出していくことになる。  言い換えればこれは、それまでの美術史の脈絡や流通マーケットでの慣習というゆるやかな「ルール」の存在を前提に、個々の「プレイヤー」としての作家や鑑賞者がそれぞれに能動的な参加意識をもって制作や読み解きに「挑戦」し、コレクターやギャラリスト、批評家たちが形成するアートワールドの文脈での評価や影響力を勝ち取ることを「競う」という近代芸術の「ゲーム」としての側面が、デュシャン以降は特に先鋭化したことを意味する。とりわけ第二次世界大戦後のアメリカが発展の中心地となったことで、アートの流通価値の形成がグローバルな金融資本主義という定量的な評価システムと結びつき、現代に至るまで巨大化していったことが、「文脈のゲーム」としての現代アートの本質に他ならない。  他方、今日のビデオゲームのあり方が、現代アートの合わせ鏡のように位置づけられるとすれば、どのような意味においてか。そのルーツをやはり1世紀前に溯るのであれば、コンピューターゲームの最初の先駆例とされる、人間を相手にチェスのエンドゲーム(終盤局面)を指せる自動機械「エル・アヘドレシスタ」が1912年に発明されたことを思い起こさないわけにはいかない。これは奇しくもデュシャンが裸婦の連続写真から受けたインパクトのもとに人体運動のイマジナリーをキャンバスに定着させた絵画《階段を降りる裸体 No.2》を制作したのとも同年にあたり、彼が生涯をかけてチェスがもたらす「プレイ中に思考されている、不可視の方向へと広がる、実際には指されなかった局面の総体」(中尾拓哉)にインスパイアされた芸術制作を追求していったこととの見事な照応があるからである。  そして、このような「実際には指されなかった局面の総体」を数学的にシミュレートしていく知の追求こそが、第二次世界大戦期のコンピューター技術やゲーム理論の発展を促進。そうした論理機械の性能を検証するためのテストベッド・アプリケーションとして、ニムや三目並べといった相互手番制の論理ゲームがコンピューターに導入されていくことから、ディスプレイ装置を盤面表示に使うインタラクティブなビデオゲームの原型が生まれていくことになる。 このことは、デュシャンの芸術に始まる現代アートがテクノロジーとの対峙によって「網膜的」なものから「頭脳的」なものへと向かったのとは逆に、テクノロジーの側は、純然たる「頭脳的」な産物としての論理処理のエレメントを複合させていくことで、人間の認知と情緒に作用する「網膜的」な芸術としての原初性を獲得していったのだとも言えるだろう。