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☆号外特集②☆【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(後編)
2018-12-27 20:00
新著『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の刊行を記念し、文芸批評家・福嶋亮大さんの登場記事を3夜連続で特別再配信します! 第2夜は、張イクマンさんとの共著『辺境の思想 日本と香港から考える』をめぐる対談の後編。 新著で語られた20世紀映像史の原風景とも重なる〈東洋のアジール〉としての戦前の東京に言及しながら、近年顕著になりつつある昭和的な共同幻想への回帰願望、さらに、都市の「散歩」が持つ思想的な可能性について語り合います。(構成:佐藤賢二) ※前編はこちら
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☆号外特集①☆【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(前編)
2018-12-26 21:30
新著『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の刊行を記念し、文芸批評家・福嶋亮大さんの登場記事を3夜連続で特別再配信します! 第1夜は、張イクマンさんとの共著『辺境の思想 日本と香港から考える』をめぐる対談の前編。 日本と香港は歴史上、西欧や中国の「辺境」にあり、それは文化的・経済的な強みでもありました。東日本大震災(2011年)と雨傘運動(2014年)以降の、「二つの辺境」の思想状況を考えます。 新著でもウルトラマンシリーズの成立において沖縄という〈辺境〉の思想が重要な役割を果たしたことが掘り下げられていますが、その問題意識とも通底するアクチュアルな対話です。 (構成:佐藤賢二)
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【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(後編)
2018-07-21 17:47
6月1日に『辺境の思想 日本と香港から考える』を共著で上梓した、福嶋亮大さんと張イクマンさんの対談をお届けします。後編では、〈東洋のアジール〉としての戦前の東京に言及しながら、近年顕著になりつつある昭和的な共同幻想への回帰願望、さらに、都市の「散歩」が持つ思想的な可能性について語り合います。(構成:佐藤賢二) ※前編はこちら
※本記事は、配信時に編集部の手違いにより、一部不正確な記述がありましたことをお詫び申し上げます。【7月21日16:40訂正】
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「世界の誰もが知るアイコン」が示せない東京
宇野 ラディカルなナショナリズムを唱え香港の独立を目指す本土派は問題外としても、張さんの支持してる自決派も、北京政府に対して香港という疑似国家をアイデンティティとした政治的要求という運動の形をとっている限り、結局その問題は出てくると思います。アメリカでも、シリコンバレーやニューヨークのビジネスマンはまさに都市民で、自分たちはグローバルな世界経済のプレイヤーだから、アメリカという国に所属してるという意識も相対的に希薄なわけですね。これに対してトランプを支持したラストベルトの自動車工たちは、ナショナリスティックな保護貿易を発動してくれないと自分たちの生活が脅かされると思い込んでいる。この階層による認識の差は大きいです。香港でも、どれだけ自決派がリベラルに振る舞おうと彼らの運動の方法が対国家、行政府に対しての政治的なアプローチである限り、アメリカで起きているのと同じような問題が発生していまうと僕は思うわけです。
福嶋 トランプ自身はもともと不動産王で、80年代にはマンハッタンでテレヴィジョン・シティという開発プランを展開したりもしている。建築家のレム・コールハースが1970年代に『錯乱のニューヨーク』という都市論の奇書を書いて、古典的なアーバニズムを解体するマンハッタンの資本主義的な都市原理を称揚したけれども、トランプはその「マンハッタニズム」の鬼子のようなところがある。その意味でトランプは都市の申し子で、政治の現場にもテレビ的な本音主義と悪徳ディベロッパー的な恫喝を持ち込んだ。さらに、ピーター・ティールみたいな同性愛者のリバタリアンのシリコンバレー起業家がトランプを支持する、なんていうこともあるわけですからね。しかし、皮肉なことに、大統領選挙では都市部で支持されたヒラリーが敗北し、トランプが地方の怨念を引き受けるようにして勝利した。だから、リチャード・フロリダも新著で言うように、トランプの勝利とは都市の敗北でもある。 今は都市に対して逆風が吹いている状況だと思うんです。香港は香港で、都市的な性格が中国化によって脅かされている。だからといって、もう一度古いタイプの国民という統合装置に戻ろうとしてもうまくいかないんじゃないか。そこで、都市的な性格を評価するような形でグローバル時代の主体を構築していく必要があると思います。さっき言った「都市的アジア主義」はその一つのプランです。
宇野 ただ、都市的な価値観というのは基本的に少数派で、民主主義では負ける運命にあるので、他のアプローチを取ったほうが良いのではないかと僕は思うわけです。ひいてはそこに、雨傘運動の敗北の遠因もあったんじゃないでしょうか。
張 先ほど福嶋さんが言ったように、トランプ支持者のようなナショナリズムの正体はアンダークラスで、そういった階層対立は、香港の自決派と本土派の間にもあるわけです。香港という都市が中国化されつつグローバル化されている中、私のように家が買えないような、都会っ子になりきれない敗北者たちによるナショナリスティックな反発が本土派を支えている。周庭さんたち自決派は、団塊世代に向けて都市の中流層っぽい演出をしてるんですね。自分が良い大学出てるとか、海外の大学で講演してるといったアピールをして、天安門事件記念集会でも中流階級の親子たちに支持を集めています。本土派はアンダークラスでナショナリズム的、自決派は中流階級で都市的という演出の傾向があります。
福嶋 ナショナリズムは階層的分割を乗り越えるための装置ですね。張さんはイギリスの歴史的体験を重視しているけれども、要は貴族が権力を握っていた時代に抗して、そのような階層を想像的に打ち消す形で「われわれ皆同じ国民」というナショナリズムが出てきたというわけですね。香港でも今、似たようなことが起きている。これから先、豊かになれそうもない人たちがナショナリズムに自らの尊厳を求めていく。
張 確かに、この本でも述べている通り、ナショナリズムの起源はイギリスの平等主義ですね。出自の階層を越えられる機会的平等がもたらす尊厳の高揚こそが、ナショナリズムのエネルギー源です。この点、香港は政府、国家やネーションに依存しない、世界に開かれた商業都市だから、階層上昇の欲望がもっぱら都会的な個人主義で解消されるんです。香港では、日本と違って、集合的・民族的なナショナリズムを使って階層を乗り越える発想はあまり強くないと思います。また、成功した人間は自分で努力してお金を持っているといった、アメリカのような個人的・公民的なナショナリズムもないのです。香港では、個人の階級上昇も尊厳も、いかに世界経済の機運とチャンスをうまく掴めるかにかかっていて、それは時に生死に関わる問題です。香港ではナショナリズムはお金を稼ぐ道具に過ぎないんですよ。香港には民族的アイデンティティも中華愛国主義もありましたが、個人の生存に比べると二次的なものです。中国革命があって、香港では大陸本土のナショナリズムを煽りながら武器を転売するとか、中国本土が改革開放・経済成長していくと予測して国有企業の株や不動産をたくさん買うとか、火事場泥棒みたいに、世界が混乱・変革してるから香港の都市は成長していくわけです。普遍道徳を講じながら、株で稼ぐ。表は君子、裏は商人の模範。そういうものが階級を乗り越える手段ですね。
福嶋 しかし、ナショナリズムは尊厳を獲得する装置だというのが、この本での張さんの主張だと思うんですよ。僕も、近代のナショナリズムは集団的な尊厳を生み出す装置だったと思うんです。政治学者のベネディクト・アンダーソンも、宗教の黄昏の時代にナショナリズムが出てきたと述べています。要するに、人間の運命論的な不条理を引き受けることができるのが、ナショナリズムという疑似宗教だという主張です。ただ、今の日本のポストモダン化し表層化したナショナリズムはもはやそういうものではないですね。人間の運命を引き受けるほどの宗教的な力はない。だからこそ、たとえば西部邁のようなオーソドックスな保守主義者・伝統主義者は、今のナショナリズムの風潮には乗れず、一人の個人として自殺するしかないわけです。
張 問題は尊厳をどこに求めるかですね。それも空想的な根拠じゃなくて、自分はお金持ちであるとか、ロシアのように自国の軍隊は強いというのもひとつの尊厳の持ち方です。私から見ると、日本は世界各国からマナーがいいとか料理が美味しいと思われているし、日本のアニメはすごいと自慢するナショナリストもありうるけど(笑)、そういう自己認識が多数の人たちにはあまりないんじゃないですか? 観光客が日本に殺到してるのは、もちろん為替などの経済原因もあるけれど、そういうサブカル的な蓄積があることも確かです。問題は、自国の文化の特徴や長所をいかに世界からの目線で客観的に見ることができるか、これが大事です。逆に、さっき福嶋さんが仰ったように、今のグローバリズムや都市主義はすごく平面的で、文化的な特徴をなくすかもしれません。国家の特徴と長所をいかに都市の次元で表現するのかが、これからの日本の挑戦ではないかと思います。
福嶋 その通りだと思います。その点で言うと、東京はレム・コールハースも言うように「特徴がないのが特徴」という都市ですね。たとえば、シンガポールならマリーナベイサンズ、パリならエッフェル塔という具合に、都市を特徴づけるアイコンというものがあるでしょう。しかし、東京にはない。東京ではピクセル画で描いたような高層ビルがどんどん建っていくだけです(笑)。良くも悪くも、東京は都市を特徴づける努力をあまりしていない。張さんが言うように、食べ物が美味しいとか、コミケがあるとか言えるけど、少なくともシンボリックなアイコンはない。 20世紀後半の日本の思想では郊外化が問題で、それはアメリカナイゼーションと結びついていた。しかし、20世紀の郊外化は文明史的には寄り道であり、21世紀はもう一度郊外から都市への回帰が起こっているわけですね。だけど、日本の場合は、都市を特徴づける知恵もあまり蓄積されていない。そもそも、香港には、唐代の敦煌や清代の漢口のように「香港の先祖」と言えるハイブリッドな交通都市があるわけだけど、東京は過去に先祖のいない「歴史の孤児」のような都市です。だからこそ、東京を輪郭づけるためにも、他の都市と比較しないといけないと思うんですね。
「縁切り」と「縁結び」を同時に行うアジール
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【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(前編)
2018-07-13 07:00
6月1日に『辺境の思想 日本と香港から考える』を共著で上梓した、福嶋亮大さんと張イクマンさんの対談をお届けします。日本と香港は歴史上、西欧や中国の「辺境」にあり、それは文化的・経済的な強みでもありました。東日本大震災(2011年)と雨傘運動(2014年)以降の、「二つの辺境」の思想状況を考えます。(構成:佐藤賢二)
書誌情報『辺境の思想 日本と香港から考える』(Amazon) 頼れる確かなものが失われた中心なき世界。自由と民主が揺らぐカオスな時代。未来への道は辺境にある―。日本と香港。2つの辺境で交わされた往復書簡の記録。
政治なき時代のカギは「国ではなく都市単位」の視点
宇野 今回は『辺境の思想 日本と香港から考える』が無事に刊行されたことを記念して、著者のお二人にお話を聞きたいと思います。これは東京に住んでいる福嶋さんと、香港に住んでいる張さんの往復書簡という形で、2016年の後半から2018年の1月ごろまでの連載をまとめたものです。 この1年余りでは日本は、安倍政権で森友・加計問題や公文書のずさんな管理が注目を集め、安定政権であることが唯一のアドバンテージだったとすらいえる安倍政権がスキャンダルに振り回されながらも、選挙ではそれを上回る野党の自爆によって安倍政権が盤石になっていきました。一方、香港では、2014年に起きた「雨傘運動」以降の若者を中心とした民主化運動が、北京の中央政府による締めつけで衰退に追い込まれてゆく1年余りであり、そういう状況の中で、お二人は往復書簡を交わしていたわけですね。
福嶋 日本に関して言えば、森友・加計問題を典型として、昭和的なオポチュニズム(無原則の日和見主義)が再び前景化している。要は、山本七平や丸山眞男の批判した「空気の支配」と「無責任の体系」の問題ですが、それが高じて公文書の改竄なんていうとんでもない次元にまで行ってしまう。しかも、それを批判しようとしても、責任の所在があいまいなので暖簾に腕押しにしかならない。平成はもう終わりつつあるというのに、政治の週刊誌化も含めて、今はむしろ昭和の悪いところばかりを拡大したような政治状況が日本を覆っているわけですね。平成は日本の政治風土を何も更新できなかった。 ただ、だからといって日本国内だけで政治的な問題を考えていても、もう未来はないし、論壇的な世間話にしかならないと思うんです。それで日本と香港、つまり国民国家と都市を比較するという新しい枠組みを立てて、世界との別の繋がり方を模索しようと考えたわけです。それが僕の出発点でした。張さんはどういう感じで臨まれたでしょうか。
張 私としては、やはり香港の方が、日本よりも強く政治が終わっている感じがしますね。日本は思想的に平成がまだ終わってないし、戦後昭和的な雰囲気がまだ強く残っている。これに対し、香港は何より、まだ団塊世代の政治感覚が残っているんだけど、それと30代以下の若者の思想が決定的に違っていて、世代の断裂がはっきりしている形です。私なりには、そう見えているんですね。
福嶋 世代的分断は今の香港を考える鍵ですね。日本人は1970年代以降に金儲けにしか興味のない経済動物、つまり「エコノミックアニマル」と揶揄されたわけですが、かつての香港人もそれに近いところがあった。イギリスの植民地支配のもとで政治参加が閉ざされていたためです。しかし、張さん以下の世代は急速に政治化したように見える。香港はもはや一枚岩ではない。
宇野 そのように、異なる地域を対比して見えてくる視点が本書の特徴ですね。『辺境の思想』というタイトルが秀逸で「辺境とは何か?」ということが、この本で言いたいことの6割くらいを占めていると思います。日本人は夜郎自大なので、自分たちを辺境とは思ってないんですよ。ただ、歴史的に考えると、アジアの中でも、西洋から見ても端っこの辺境以外の何者でもない、近代日本は、いかにして自分たちが辺境であることを忘却するかというゲームをやってきた。 ところが、逆に辺境であることを思い出すことでしか、今の日本の社会的文化的な行き詰まりに対する抜け道を探すことはできないんじゃないか? というのが、この本における福嶋さんと張さんの基本的なスタンスだと思うわけです。 日本が辺境であるとはどういう意味か、究極的にひとことで言えば「国民国家未満」ということです。中国本土のような古代神話の時代から国そのものの枠組みが続いてるわけでもなければ、近代ヨーロッパの国民国家ともまったく違う、日本はどちらでもない存在なんですね。結果的に言ってしまえば、その枠組みを外したときに初めて、日本でものを考えることが可能になっている。
福嶋 歴史的に言えば、日本は常に「子供」の立場にあった。前近代であれば中国、近代以降であれば欧米というように、外部の大きな「父」を参照しながら我流に加工するのが基本的なプログラムだった。建築家の磯崎新氏の言い方を借りれば「和様化」(ジャパナイゼーション)ですね。しかし、今はそういう外部の超越的なモデルが弱体化してしまった時代だと思います。その結果、日本はこれまでの和様化のプログラムがうまくいかなくなり、外部への通路が閉ざされ、ガラパゴス的な状況に陥っている。千年単位で見れば、この「父の不在」が日本史の新しい局面を示すものであることが分かります。日本人は前例の少ない状況に置かれているのです。この困難から脱するために、隣の都市を参照しようというのが僕の基本的なスタンスです。
宇野 たぶん、いま国家の単位でものを考えているとトランプ的に、あるいはブレグジット的にグローバル化に対するアレルギーの受け皿になるしかない。そもそもばらばらのものを物語的に一つに統合している国民国家は定義的に閉じていてグローバル化と相性が良くないわけです。「グローバル化で国境がなくなる」と言ってるけど、そんなのは嘘で、グローバル化の実態とは情報化された大都市の経済的なネットワークですよ。 国境を単位とする領域的な国民国家というのは古い形の線引きで、それに対して、たとえば上海とドバイとパリの住人が直に結びつくような都市のネットワークが対抗しているのが、グローバル化の実態だと思います。だから、国家という枠組みにとらわれている限り、思想的にグローバル化を正面から受けとめることはできない、その可能性はむしろ日本や香港のような国家未満の辺境にあるというのがこの本の基本的なスタンスで、その視点から日本と香港の政治状況や文化状況を参照していると感じました。
中二病的なナショナリズム・政治化を超えて
福嶋 おっしゃるように、日本の知識人は基本的に国民国家の単位で考えている。たいていの日本論も国民性の比較によって作られているわけで、現に日中比較論や日韓比較論はたくさんある。しかし、そこには都市の比較という観点がほとんど存在していないのです。 たとえば、日本は「雑種文化」だという加藤周一の有名な定義がある。加藤氏はフランスとの比較でそう言っています。しかし、それを言うのなら、香港は日本以上に雑種的な都市です。なおかつ、日本はサブカルチャーが栄えていて「クールジャパン」などとナショナリスティックなお国自慢をしているけれども、それだって別に日本の固有性ではない。香港もそれは同じだからです。香港は武侠小説や推理小説が強いし、張愛玲や李碧華のような女性作家も目立つ。しかも、香港文学は映画とのメディアミックスも盛んにやっている。これらは日本の大衆消費文化とよく似ています。「怪力乱神を語らず」という中国の儒教的な建前からすればサブカルチャーでしかないものを、香港はたくさん生み出してきた。こういう辺境の都市と比較すれば、従来の日本特殊論を解除することができる。 加藤的なモデルは、最近の内田樹氏の議論にも受け継がれています。つまり、中心的な文明と辺境の日本を比較するという、いつもの分かりやすいモデルです。しかし、そのような認識の座標ではグローバル化には対応できないし、香港のようなすぐ隣にある「似て非なる存在」も見逃してしまう。香港を介して日本論の座標を組み替える――こういうアングルの提示はこれまでほぼ誰もやっていないと思います。
張 福嶋さんが言った通り、この本の狙いは認識のフレームです。日本の近代認識のフレームは、明治から平成までずっと国民国家、どうしてもナショナリズムのフレームで物事を考えている。この本で書いたように、私なりのナショナリズムの定義は、自分たちこそが世界の中心であるとか、自分の尊厳をかけて他人からの承認を得られるよう努力するとか、辺境発の中二病的なものです。そういう中二病的なナショナリズムを発病して成功した文明を持つ国家は、最初はイギリス、そしてフランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、西洋以外では近代の日本ですね。「自分たちこそが偉くて、尊敬に値する」ことを証明するために、物語を語る。ですから、ネイションは民族や文化伝統の発明に熱心で、国民文学と歴史のような近代の物語を重視するわけです。 逆に、香港の近代認識のフレームは都市です。思えば、香港は日本と同じく、19世紀中旬から西洋文化をいち早く取り入れて、約150年の近代社会史を織り成しましたが、香港の認識のフレームは日本・ネイションとは違ったかたちで、基本、都市ベースです。宇野さんが言ったように、都市は基本的にネットワークです。物語よりもお金と情報に依存します。文化の伝統より、その多様性を優先します。日本も香港も同じく辺境同士なのに、異なった道で、西洋近代化の歴史を歩んできました。 香港という成功例においては、そういう「自分が世界の中心」という発想はなかったんですね。自分が常にアジアにおいても西洋からも辺境にいることを自覚して、異なる発見の狭間で物事を考えて、いつもコンテクストに依存して、文化を自由に選べて、自由に動いていくのが得意なんです。日本が平成時代に入って、この10〜20年間、世界中がいわゆるグローバリゼーションに進んでいる状況で、私は香港の方が日本より活躍していると感じるようになったんですね。 東アジアにある辺境同士の日本と香港は、もともと比較できる文化心性はいくらでもありそうです。しかし、香港は日本への文化関心が高いが、日本から香港への視線はほとんど感じられません。たぶん、ネイションと都市という二つの近代心性の異なる影響のせいです。 やはり、この本に書いた中でも一番面白いのは、日本が都市化しているのに対して、香港はなぜナショナリズム化しているのかですね。実際に今の状況はこの本で書いた通りに進んでいます。
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