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  • 切通理作×宇野常寛 3万字対談 いま昭和仮面ライダーを問いなおす ――映画『平成ライダーVS昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』公開(勝手に)記念 (PLANETSアーカイブス)

    2019-08-16 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、「仮面ライダー」をめぐる切通理作さんと宇野常寛の対談です。平成ではなく「昭和」のライダーについて、昭和の特撮作品のスタッフを数多く取材してきた切通理作氏と平成ライダーの評論を手がけてきた宇野常寛が魅力を語り尽くします。(構成:葦原骸吉) ※本記事は2014年3月27日に配信された記事の再配信です。
    【告知】 切通理作さんが阿佐ヶ谷の古書店「ネオ書房」の新店長となりました。 お店を引き継いだ経緯についてはこちら。 切通さんの趣味を全開にした独自の書棚が展開されています。 ぜひお立ち寄りください!
    ■ 原点としての「旧1号編」宇野 今回は映画『平成ライダーVS昭和ライダー』を記念して、歴代の昭和『仮面ライダー』を順を追って語っていきたいと思います。しかし僕は1978年生まれなので、昭和仮面ライダーの第一期、つまり初代『仮面ライダー』から『仮面ライダーストロンガー』まではリアルタイムでは接していなくて、本やビデオの後追いで知った世代なんです。だからまず、なんと言っても初代『仮面ライダー』(1971年)をリアルタイムで目撃した世代の、ファーストインプレッションをまず伺ってみたいなと思うのですが。
    切通 僕は圧倒的に仮面ライダーそのものに魅力を感じます。ライダーのデザインって、石ノ森章太郎(当時は石森章太郎)さんの漫画と実写で微妙に違うんですよ。漫画では触覚がホントの昆虫みたいにしなやかなんですけど、実写の、当時エキスプロにいた三上陸男さんが造型したライダーは、触覚がラジオのアンテナを曲げたみたいで、まるで町の工場で造ったような工作的な感覚に、当時のラジカセや自転車とか僕らの身近にある機械のデザインを見た時のような、なんとも言えない味わいを感じます。大人になってからも、あの顔の写真を一目見ただけで気持ちが持っていかれてしまうんです。
     

    ▲仮面ライダー VOL.1 
     
    宇野 僕も初代『仮面ライダー』の何が一番好きかというと、デザインとスーツの造形なんです。同じ特撮ヒーローものでも石ノ森さんのデザインワークは『ウルトラマン』の成田亨さんのものとはまったく違う。たとえば成田さんの場合、ゼットンは水牛がモチーフで、レッドキングも恐竜がモデルだろうけど、どちらもモデルになった生物の進化したものではなく、あくまで実在のものとはまったく別種の生物になっている。つまり成田さんは現実にはこの世界に存在しない、あたらしい生物を産み出す天才だった。対して、石ノ森さんはすでに存在する二つのモノを組み合わせる天才だった。クモ+人間でクモ男、カニ+コウモリでガ二コウモル、そもそも仮面ライダーのバッタの仮面にライダースーツというデザインを考えついたというだけでもう確実に天才だと思うんです。要するにウルトラマンが世界の外側から来訪した超越者で、仮面ライダーは僕たちのこの世界の内側から産まれ落ちた存在だという物語上の設定がデザインコンセプトにも通底しているわけですね。
    切通 あのライダースーツと一体化したような、レザーのしなりが感じられるボディラインも、見ていてシビれるものがあります。
    宇野 僕はウルトラマンシリーズも大ファンで、昭和ウルトラマンと昭和仮面ライダーの物語のどちらが面白いかと言えばやっばりウルトラのほうなんですよ。もともと昭和仮面ライダーはストーリー重視の番組ではないですしね。しかし、大野剣友会のアクションは洗練されていて何度観ても飽きないし、デザインについても仮面ライダーの方に惹かれるんです。持っている玩具も子どもの頃から仮面ライダーの方が多い。仮面ライダーのキャラクターデザインに接していると、世界との関係について感覚がひらかれるようなところがある。
    切通 なるほど、だから宇野さんの本『リトル・ピープルの時代』の表紙は1号ライダーなんですね。「どちらかといえば平成ライダーを熱く語っているのに、なんで昭和ライダーが表紙なのかな?」って思っていました。
    宇野 あれは装丁家の鈴木成一さんのアイデアですね。僕も出版社の担当さんも、表紙では仮面ライダーがテーマの本であることはむしろ隠して、村上春樹論だと思い込んで買った読者を驚かせようと思っていました(笑)。でも、鈴木さんがここは仮面ライダーのフィギュアを使うべきだと主張して、僕の私物を提供したんです。ちなみに、このフィギュアは海洋堂が昔発売していた1/4スケールの旧1号ですね。原型師は木下隆志さんです。
     

    ▲宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)
     
    切通 そうだったんですね。初代仮面ライダーが始まったとき、僕は小学校二年生だったんですが、クラスで一番優等生だった、みんなと遊ばないような子から、「すごい変な番組が始まった。なんか暗い感じの、キチガイ博士みたいなのが出てきて、人間を改造してる、見たこともないような番組なんだ」って感じに紹介されて、僕も「見なきゃ! いつやってるの?」と初めて見たのが「人喰いサラセニアン」の回(第4話)でした。それ以来毎週見るようになりましたね。女性が植物園で地中に引きずり込まれるのが印象的で、ホラーなテイストで、戦闘員もまだ全頭マスクではなくて、顔にサイケな模様を直接塗ってるし、暗闇にライダーのCアイが光って……スカッとするヒーローものっていうより、怪奇ものって感じの印象を持っていましたね。
    宇野 当時は等身大の変身ヒーローという概念自体がなかったんですね。
    切通 変身シーンもまだバイクで加速して姿が変わるという段階だったし、新しいセンスの番組を見ているという感覚がありました。そもそも『仮面ライダー』って名前が独特じゃないですか。『ウルトラマン』は全部英語、『月光仮面』は全部漢字。後の「キカイダー」や「イナズマン」もそうですが、石ノ森章太郎独特の日本語と英語が混ざったセンス。「仮面」って言葉自体もちょっと復古調で、新しいものと見知ったものがミックスされてる感じ。僕は最初、仮面の人がバイクに乗っている状態を「仮面ライダー」って呼ぶのかと思ってたんですけど(笑)。
    宇野 旧1号編(1〜13話)の前半って、当時の東映+石ノ森だからできた怪奇テイストで、たぶん一番原作の雰囲気を残している。本郷猛は自分が改造人間になってしまったことでずっと苦しんでいるし、ショッカーの作戦も日常の生活風景の中に潜む恐怖として非常にミステリアスに描かれている。この旧1号編前半のシリアスなモードが好きな人って多いですよね。でも、僕が好きなのはむしろ旧1号編の後半なんです。第10話以降は藤岡弘さんが撮影中のケガで降板しちゃって本郷猛のシーンは全部バンク、ライダーの声はショッカー首領役の納谷悟朗さんの弟の納谷六朗さんが演じている。六朗さんは『クレヨンしんちゃん』の園長とか『幽遊白書』の仙水の声で有名ですね。僕はあのときにライダーって従来のヒーローから解放されたところがあったと思うんです。要するに、平成の『仮面ライダー555』や『仮面ライダーディケイド』に続くような、「ライダーの中身は誰でもいい」「誰がライダーに変身してもいい」という感覚が結果的にあのときに生まれたんじゃないか、と。
    切通 藤岡さんの事故は当時とても有名で、子どもの僕も知ってましたが、一方僕は迂闊な子だったので、藤岡さんが事故後の1号ライダー編の新規撮影分には出てないことには気付かなかった(笑)。映像の使い回しで、声だって違ったのに。
    宇野 旧1号編の後半はシナリオの工夫も面白くて、たとえばゲバコンドルの回(第11話)は、当時助監督だった長石多可男さんが適当にでっち上げたストーリーですね。
    切通 藤岡さんが新規に出ないでどういう話が成立するか、助監督さんに書いてもらったストーリーから急遽選ばれたっていう回ですね。ライダーの相棒役であるFBIの滝和也が初めて登場する。
    宇野 意外と好きなのは怪人ヤモゲラスの回(第12話)です。この回はほとんど緑川ルリ子が主役じゃないですか。当時の真樹千恵子(現:森川千恵子)さんってちょっとはっとするような美人で、僕なんかは単に彼女がたくさん映って活躍するのを見ているだけでも楽しいんですよ。
    切通 森川千恵子さんは『アイアンキング』でも、敵の不知火一族十番目の影を演じていて、明るく健康的な風情なのにどこか影を背負った役柄を演じさせられているんですよね。どちらも物語の中途でいなくなるし。彼女の活躍は確かにレア感があります。緑川ルリ子は原作にも登場するキャラクターですしね。
    宇野 この回は、デンジャー光線っていう兵器を開発した博士を、ヤモゲラスが無理矢理ショッカーに協力させようとしてライダーと戦う話なんですけど、最後にヤモゲラスはその博士に反撃されてデンジャー光線で倒されちゃう。この話ではライダーは本当に添え物にすぎなくて、ときどき助けに来て暴れて帰っていくっていう位置づけですよね(笑)。でも、その何でもアリな感じがいいんですよ。
    切通 滝和也登場と、本郷編ラストである13話の間に挟まって、埋もれた感じのヤモゲラス回が宇野さんからすると印象的だというのは、面白いですね。いま見ると、本郷猛の場面を新規撮影できないから、ライダーを添え物にせざるを得なかったんでしょうけどね。
    宇野 それでもちゃんと番組として成立しているのがすごいと思うんです。こうしたエピソードの積み重ねが、結果的にだけれども、ヒーローものの射程というか、『仮面ライダー』という作品で許されることを広げている気がするんですよね。
    切通 そういう見方もあるのか。僕は旧1号編の後半というとやっぱり滝和也の存在が大きいんですけど、生身であれだけ戦える滝がその後レギュラーとして定着していくということ自体が、宇野さんの言う、単体ヒーローものでありながら射程を広げている部分なのかもしれないですね。2号ライダー編以降は、完全に二人のコンビものになっていきます。子ども心に、滝が最後はライダーに怪人を倒す役を譲っているのが大人だなと思ったりして見てました。
    宇野 あとトカゲロンの話(第13話)も大好きですね。後に劇場版や最終決戦に引き継がれていく再生怪人がズラリと並ぶ、あのお祭り感はここで開発されたわけでしょう?
    切通 それまで出てきた怪人が総登場する最初ですよね。戦闘員並みに弱くなってるんだけど(笑)。
    宇野 ショッカーの頓珍漢な作戦も好きです。サッカー選手を改造人間(トカゲロン)にして、その強靭なキック力で爆弾をシュートしてターゲットの研究所のバリアー(なぜか作中では「バーリア」と呼ばれる)を破るのが目的(笑)。爆弾の威力が問題じゃないのかよ、と。
    切通 人間を改造するところから描くんですよね。でも視聴者に同情心を持たせないためか、チームメイトにやたらぞんざいな態度を取る、チンピラみたいなサッカー選手に描かれているところが東映っぽくていい(笑)。トカゲロンは、見てる僕が当時はまだ<怪獣>っていうものがカッコイイんだという概念だけに縛られていたから、怪獣みたいなデザインの怪人が出てきたのが単純に嬉しかったですね。
     後に『クウガ』のプロデューサーとなる高寺成紀さんは、ウルトラマンや怪獣が好きでありながら、いち早くライダー怪人ならではの良さに気づいていたということなんですが、僕はまだそこまで目覚めてなかったのをいまは恥じています。
     
     
    ■主役俳優の事故の生んだ「王道」の確立――「旧2号編」
     


    ▲仮面ライダー VOL.3
    宇野 僕は2号編(14〜39話)の初期も好きなんです。旧1号編って、まず石森色が強い状態で始まって、だんだん東映色に染まっていく過程だったと思うんですね。藤岡さんの事故でこの流れはぐっと加速して、主役交代後の2号編はもう完全に東映+シナリオの伊上勝さんが作った世界になっている。2号編になると「とにかくアクションをCM前と後の二回見せる」「そこから逆算してストーリーを組み立てて行く」という正しい娯楽活劇路線が完全に確立されているんですよね。
    切通 何か起こると一文字隼人が必ずバイクで通りかかるという。端的な導入でパッパッと進む。井上敏樹さんが父親の伊上勝さんを「親父の脚本は紙芝居だ」と言うゆえんですね。
    宇野 たとえば、怪人ピラザウルスの回(第16話&17話)なんてもう、すごいじゃないですか(笑)。ショッカーがプロレスラーを改造して、そのプロレスを見に来た政府要人を毒ガスで暗殺する、という謎の作戦を実行するんですよね。どう考えても、クライマックスにリングで仮面ライダーとピラザウルスが戦うシーンを撮るというアイデアが先にあって、そこに合わせてストーリーを強引にでっち上げている。
    切通 集まった観客の前でリング上の戦いを繰り広げるシーンはめちゃくちゃ興奮した! 先にライダーが倒れるところとかもドキドキしましたし。 
    宇野 最高に燃えるシュチュエーションを作るために、あそこまで強引なストーリーをでっち上げるイマジネーションって素晴らしいと思うんですよね。物語をアクションに正しく奉仕させている(笑)。
    切通 でも、あの話は2号ライダー編にしてはドラマがある方でしたよ。怪人にされたレスラーに弟がいて、最後に兄が元に戻って、弟が「お兄ちゃん怪人だったの!?」って言うと、一文字隼人が「怪人は死に、お兄さんは蘇ったんだ」って答える。一文字自身も改造人間なのに、その弟の前ではあえてそこを切り捨てて言い切っていますよね。そんな一文字に強さ、優しさを感じてジーンとなりました。
    宇野 一文字って終始明るいんですよね。本郷猛って、特に初期は孤独で暗いんだけどその分人間的な深みがあるキャラクターとして描かれていた。あれはあれで格好いいんだけれど、一文字隼人は、仲間や子どもの前でも、背負っているものを全部飲み込んで常に笑顔じゃないですか。あれがいいんですよね。
    切通 一文字のキャラクターには、あの頃の東映のテイストが入っていますよね。当時東映で、宮内洋さんも出てた『キイハンター』(1968〜73年)というアクションもののドラマがあって、ナレーションで「恋も夢も望みも捨てて」って言ってるのに、みんないつも遊んでるように冗談を言い合ってる。本当は、任務で個人の生活を犠牲にしてる部分もあるんだけど、表面は常に明るいっていう。一文字隼人もそんな感じですね。
    宇野 子ども心に疑問だったのが、第39話のクリスマスのエピソードでライダーが狼男を倒したあと、子どもたちへのクリスマスプレゼントとして自分で仮面ライダーグッズを配ってるんですよ。あれがちょっとおかしくて(笑)。今考えるとメタフィクションっぽいですよね。
    切通 当時からべつに感動したとかはないんだけど、でも妙に印象に残る場面ですね。ちゃんと憶えているし。
    宇野 あれって一文字だから配れるんですよね。本郷猛はキャラ的に配れないんですよ、たとえ新1号編の、少し明るくなった本郷でもちょっと無理がある。
    切通 なるほどね。しかもその翌週(第40話)に1号が帰って来る。
    宇野 当時は、いわゆるダブルライダー編ってすごく盛り上がったんじゃないですか?
    切通 やっぱりもうめちゃめちゃ期待して見ましたよ。お正月の放映だったし、お年玉もらったみたいな気持ちになるイベントでしたね。鹿児島ロケで、桜島が舞台でね。
    宇野 ダブルヒーローというもの自体がそれまであまりなかったんですよね。それだけで十分引きがあるのに、あのたった数話の中で、片方のピンチにもう片方が駆けつけたり、片方が一時洗脳されて敵に回ったりと、後の作品で踏襲されていくダブルヒーローものの脚本術がかなり開発されている。それが今観てもすごいなって思うんですよね。あとは、ライダーダブルキックですよね。あれはもう言葉の響きだけで感動します。僕、小学生の頃にレンタルビデオで観るまでは本でしか知らないんですよ。なのにもう、大好きでしたもん。
    切通 そうですよね。やっぱり、ドラマの『仮面ティーチャー』(2013年)や、『スケバン刑事2』(1987年)とかでダブルキックが出てくると妙に燃えるんですが、その原点はあそこでしょうね。ただ、あの回は見ていて「1号ってあんなに黒かったっけ? 最近は2号の方を見慣れてるからギャップ感じるのかな」って思ったんです。でもいま考えると、あれはあの時だけのマスクだったんですね。
    宇野 「桜島1号」と呼ばれるスーツですよね。フィギュアが発売されるときも必ず旧1号とは別のスタイルとして別個に商品化されていますからね。僕は旧1号のほうが好きな造形とカラーリングですけれど、旧2号と並べるのならやっぱり桜島1号じゃないとしっくり来ないものがあります。
     
     
    ■『V3』プロローグとしてのショッカーライダー編――「新1号編」
     

    ▲仮面ライダー VOL.16
     
    宇野 で、その後、本郷猛が本格的に復帰して新1号編(53〜98話)になるわけですね。
    切通 じつは、僕が一番好きなのは新1号編の後半(80〜98話)から、続く『仮面ライダーV3」前半の「26の秘密」編ですね。
    宇野 初代『仮面ライダー』は物語があってなきに等しいのですけれど、一番物語性があったのは初代から『V3』へ移りかわるこの時期ですよね。
    切通 ショッカーライダー編とかだよね。ショッカーに親兄弟を殺された人達が作ったアンチショッカー同盟っていう組織が出てくるんですが、それが、連合赤軍じゃないけど、立花藤兵衛やライダーとも立場が違って、組織としての規律を守るためには個人を犠牲にしようしたりする。三者三様の錯綜した対決の中で、しかも偽仮面ライダーが投入されて「8人の仮面ライダー」っていうタイトルも、敵味方入り乱れて8人っていう……あの辺りの感覚にもどこか興奮しましたね。
    宇野 ショッカーライダーが6人と、それに加えて1号と2号の8人ですね。ちなみに、ショッカーライダーって石ノ森さんの原作版の方が早く登場していますよね。しかも、本郷猛を殺してしまう役どころだった。
    切通 原作のテイストが少し入ってきた、っていう興奮もあったかもしれない。
    宇野 原作漫画だとショッカーが仮面ライダーを量産して、本郷猛が十二人の仮面ライダーに囲まれてフルボッコにされて死んじゃうじゃないですか。そのショッカーライダーの一人が一文字隼人で、戦闘中に脳に衝撃を受けて正気に戻り二代目の仮面ライダーになる。やっぱり仮面ライダーはウルトラマンと違って絶対の存在じゃないんですよね。あくまでショッカーが作った改造人間が一人脱走しただけの存在だから、量産も可能だし、条件さえ満たせば「誰でも仮面ライダーになれる」。この決してオンリーワン「ではない」ヒーローという設定は仮面ライダーならではのものだと思います。これは旧1号編の後半で藤岡弘さんが降板した結果生まれた「誰がライダーになっても構わない」というメタルールが、その後も適用されていると言えますよね。
    切通 だから「8人の仮面ライダー」というタイトルにぞわっとくるのかもしれない。同じライダーなのに敵味方入り乱れて8人いるあたりに、子どもながらにヒーロー性のゆらぎを感じていたのかもしれないですね。
     
     
    ■『仮面ライダー』第9クールとしての『V3』――『仮面ライダーV3』
     

    ▲仮面ライダーV3 
    宇野 当時の感覚だと『仮面ライダーV3』(1973年)は、新番組が始まったというより、『仮面ライダー』の第9クール目のように見えたということでいいんですか?
    切通 そう、だから『V3』の第2話「ダブルライダーの遺言状」が仮面ライダーの第100話なんです。『V3』の序盤には本郷猛と一文字隼人が当たり前のようにいて、V3こと風見志郎は彼らに改造されるわけですよね。で、本郷と一文字が大空に散るのが第2話。『仮面ライダー』の最終回はショッカーを追いつめるという意味での最終回で、『V3』の2話で1号と2号が最後を迎えるという意味での締めくくりになっている。つまり最終回と第1話がシンクロしてるわけですから、盛り上がらない方がおかしい(笑)。
    宇野 『V3』の初期のドラマは独特の緊張感がありますよね。V3はスペック的にはすごく強いんだけれど、風見志郎が経験不足のせいで初期は何かと苦戦するじゃないですか。色々教えてくれるはずの先輩1号と2号は生死不明になってしまうし。
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  • 2作目のハリウッド版ゴジラは「日本的怪獣映画」をどう再解釈したのか? ――切通理作と宇野常寛が語る映画『GODZILLA/ゴジラ』 (PLANETSアーカイブス)

    2019-06-21 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、映画『GODZILLA/ゴジラ』をめぐる切通理作さんとの対談をお届けします。これまで「特撮」についての数多の評論を世に問うてきた2人の批評家は、ハリウッドによるこの2度目のリメイク作をどう観たのでしょうか――?(構成:佐藤大志) ※初出:『サイゾー』2014年10月号 ※この記事は2015年10月24日に配信された記事の再配信です。
    切通 今回の『GODZILLA』、面白かったです。本作では、人間の目線の切り取り方がメインになっていて、ずっとゴジラが小出しにされているんですよね。従来の怪獣映画だと、出現の予兆は尻尾だけ映したりして小出しにするけれど、一度登場してしまうとあとはひたすら前面に映され続けていました。それが今回は、ゴジラは登場した後も霧の向こうやビルの陰にいて、少しずつしか見せない。一番すごいと思ったのは、ハワイでゴジラとムートー【1】が戦い始めたら場面が変わって、アメリカ本土の主人公の家庭で奥さんが子どもに「テレビを消しなさい」なんて言ってるのが映されるところ。今はCGでどんな場面も作れてしまいますよね。だからはっきり言って、ゴジラとムートーの戦いをずっとやっていても飽きてしまう。それが本作では、2者が戦い始めて「おっ」と思っている間に画面が変わって、それからまた、建物や空の隙間から戦いが垣間見える、という繰り返しにすることで解消されている。そうしたON/OFFの効いた見せ方は新鮮な感じがしました。これはギャレス・エドワーズ監督の前作『モンスターズ/地球外生命体』【2】でも用いられていた手法だったので、その監督を抜擢してゴジラでこの撮り方をするというのは正解だったと思います。
    それから、ラストシーンもよかったですね。海にゴジラが去っていって、その背中を見送った途端にあっさり映画が終わる。僕は平成ゴジラ【3】の、海の底で死んだと思われたゴジラが最後の最後で「ヤツはまだ生きていた!」と終わるエンディングには「またか」と思っていたので「これだよ!」と。
     

    【1】ムートー
    本作の敵怪獣。見た目は昆虫に似ている。フィリピンの炭鉱で発見された化石に繭の状態で寄生しており、一匹は日本へ、一匹は卵の状態でアメリカ本土に保管される。日本にやってきた雄は雀路羅市の原発を破壊し、そこで研究機関・モナークの管理のもと隔離されていた。目覚めた二匹は、生殖のためにアメリカ西海岸を目指す。
    【2】『モンスターズ/地球外生命体』
    監督・脚本/ギャレス・エドワーズ 公開/11年
    地球外生命体のサンプルを積んだ探査機がメキシコ上空で大破してから数年後、近辺に謎の生物が多数発生。危険地帯となったメキシコに、カメラマンがスクープを狙って乗り込む。
    【3】平成ゴジラ
    後述の84年版『ゴジラ』から『ゴジラVSデストロイア』までの7作を指す。

     
    宇野 僕は実際に観るまで、正直に言うとあまり期待していなかったんですね。だけど観てみたら意外とよかった。脚本はもう少し整理できたと思うし、手放しでは絶賛できないですが、全体としてはそれなりに満足している。
    今回の『GODZILLA』は、初代『ゴジラ』【4】でも84年版『ゴジラ』【5】でもなく、「VSシリーズ」【6】のリメイクになっていて、それが正解だった気がします。
    怪獣映画のルーツにはハリウッドで生まれたキング・コングがあるけれど、日本の怪獣はそこから隔世遺伝的に派生して、ほぼ別物になってしまっている。だからアメリカで再びゴジラを撮ろうとしたら、「怪獣とはなんなのか」を問い直す映画にならざるを得ない。
    日本において怪獣は、当初は戦争の比喩として誕生した。ゴジラは原爆や水爆といった国民国家の軍事力の比喩だったし、それが街を襲うのは空襲の比喩だった。戦後日本では直接的に戦争映画を描けなかったので、怪獣というファンタジーの存在を投入することでイマジネーションを進化させていったのが特撮映画だったわけです。それが70年代には戦争の記憶が薄れ社会が複雑化して、その比喩が説得力を持たなくなり、怪獣なのに正義の味方になってしまったり公害の比喩になったりと迷走してしまった。その後、90年代に、当時のリアリティを取り入れる形でゴジラを作り直そうとしてVSシリーズが作られ、そのコンセプトをより徹底させたものとして「平成ガメラ」【7】が生まれた。善でも悪でもなく、敵となる怪獣がやってきたら地球の生態系を守るために戦う「地球の白血球」的存在としてガメラを描こうとしたのだけど、さまざまな理由からスタッフはコンセプトを徹底できなかった。象徴的なのは『ガメラ2 レギオン襲来』のラストですね。瀕死のガメラが子どもたちの祈りによって復活し、結局ヒーローになってしまう。当時のスタッフは、そうしないと怪獣映画をまとめられなかったんだと思うんですね。物語的なカタルシスを、そうしないと作れなかった。だから90年代は日本の怪獣映画にとって、怪獣をシステムとして描こうとして失敗していった時期だった。
    そして本作では、ラストシーンで、去ってゆくゴジラを見て「神だ」と言うわけです。今作のゴジラは自然界のバランスを壊すムートーと戦うために現れて、自然の摂理そのもの=神として描かれている。これは日本人にはできない言い切りで、アメリカ人が怪獣というものを真正面から受け止めると、「神」という結論にならざるを得ないんだな、と思いました。だからこそ、ラストでただ去っていくゴジラを見て、VSシリーズを下敷きにした意味がよくわかった。一周回ってベタな設定になっているとは思うけれど、非常に説得力があった。システムとしての怪獣ではなく、「神」としての怪獣王としてゴジラを捉えることで、平成ガメラシリーズの罠を回避しているわけです。まあ、映画全体のつくりは、特に脚本がざっくりしすぎていて、全体的な完成度を考えると、VSシリーズはともかく、平成ガメラを超えたとはちょっと言い難いような気もしますが……。
     

    【4】『ゴジラ』
    1954年に公開された第一作目。日本の怪獣映画の始祖。海底に潜む太古の怪獣が水爆実験によって目を覚まし、東京を襲撃するという設定。今回の『GODZILLA』で渡辺謙が演じた芹沢猪四郎博士の名は、この作品のキーマン・芹沢大助博士の苗字と、監督・本多猪四郎の名前から付けられている。
    【5】84年版『ゴジラ』
    84年公開、ゴジラシリーズ16作目。54年版から時間軸が繋がっており、ゴジラは人類の敵として描かれる。
    【6】「VSシリーズ」
    89年『ゴジラVSビオランテ』を皮切りに、キングギドラ(91年)、モスラ(92年)、メカゴジラ(93年)、スペースゴジラ(94年)、デストロイアとゴジラが戦う一連シリーズ。
    【7】「平成ガメラ」
    『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95年)、『ガメラ2 レギオン襲来』(96年)、『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』(99年)の3部作。すべて金子修介監督、樋口真嗣特技監督、伊藤和典脚本。

     
    切通 僕は今作は、今までのすべてのゴジラシリーズを肯定していると思いましたね。初代から『ゴジラ対メガロ』、あるいは84年版『ゴジラ』まで、どれに繋がってもおかしくない。誕生の理由は大きく異なるけれど【8】、それ以外、実はゴジラという存在そのものはベールに包まれていていじってないんです。ムートーは放射能を食べているし、雌雄があって生殖もするけれど、ゴジラは何を食べているか、オスかメスかもわからない。人間に攻撃されるとムートーは反撃するけど、ゴジラは意に介さない。「スターさん」なんだな、と。
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  • Adobe以降の「特撮」と「怪獣」の可能性とは? ――15年の試行錯誤が辿り着いた 『ウルトラマンX』の達成(PLANETSアーカイブス)

    2019-02-01 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、『ウルトラマンX』をめぐる切通理作さんと宇野常寛の対談をお届けします。平成ウルトラマンシリーズの集大成的な作品となった『ウルトラマンX』。本作を成功に導いた「怪獣」そして「特撮」の、現代的な捉え直しについて論じます。(構成:隅田亜星/初出:「サイゾー」2016年3月号) ※この記事は2016年3月23日に配信した記事の再配信です
    ▲『ウルトラマンX』 切通 『ウルトラマンX』(以下『X』)は、平成ウルトラマンシリーズにおける『ウルトラマンコスモス』(01年)以降の集大成だったな、というのが全体の感想です。それから、今までウルトラマンって、特に平成になってからは、『ウルトラマンマックス』(05年)のように、エピソードごとに豊かなものを作る代わりにシリーズ構成をある程度緩くするか、反対に『ウルトラマンネクサス』(04年)のようにシリーズ構成をあくまで活かして連続性を重視するかのどちらかに寄っていた印象があったけれど、『X』は両方ちゃんと立っているという意味で、かなりうまくいったシリーズだと思った。全22話しかないのにシリーズ構成だけで4人いて、脚本家は10人もいる。最初はそれが不安だったんだけど、一話一話のテイストの違いとシリーズのうねりが連動していて、良い効果を生んでいた。
    宇野 平成ウルトラ3部作(『ウルトラマンティガ』96年、『ウルトラマンダイナ』97年、『ウルトラマンガイア』98年)以降のウルトラシリーズがやってきたことの総決算的に作られていましたね。『コスモス』からは怪獣との共存というテーマを持ってきて、『ネクサス』からは変身の再定義というところを持ってきていた。さらに『マックス』から始まって『大怪獣バトル』【1】(07年~)につながる昭和怪獣の再利用という要素も入っていて、『ウルトラマンギンガ』(13年)からはスパークドールズ【2】ものという流れが入っている。60~70年代の怪獣ブームの頃に比べて、今は決して放映枠も良くはないし、話数も半端な中ですごく健闘していたと思う。『X』があったおかげで、正直何をやっても中途半端な感じがあった「ポスト平成ウルトラ3部作」の作品たちの位置づけがようやくはっきりした。それも単に整理するためだけじゃなくて、しっかりエピソードとして、映像作品として昇華することによってまとめられていたのが良かったかなと。

    【1】『大怪獣バトル』(07年~):アーケードカードゲーム『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』を中心に展開されたメディアミックス作品。歴代のウルトラ怪獣同士のバトルが題材になっていた。
    【2】スパークドールズ:謎の太陽フレア「ウルトラ・フレア」によって眠りから覚め、怪獣に変化するオーパーツ。主人公・大地の父はこれを研究していた。なお、『ギンガ』にも同名のものが登場するが、設定が微妙に異なっている(『ギンガ』では自我を持たないが、『X』では感情を有するなど)。

    ■「怪獣」の捉え直しと「特撮」の捉え直しの成功
    宇野 ウルトラマンシリーズが苦戦している理由として、怪獣の意味合いがかつてと全然変わってしまったことがあると思う。まさしく切通さんが『怪獣使いと少年』で書いたように、かつて怪獣は社会のひずみのようなもの、なかなか言葉にならないし社会的なイデオロギーでも消化しきれないようなものが結晶化して出てきた存在だったけれど、そういう形ではもう機能しなくなっている。それには社会の変化や情報環境の変化とかいろんな理由があるけど、日本の怪獣映画はその中ですごく苦戦していた。円谷でいえば、この15年は怪獣とどう向き合っていいのかわからない15年だったと思う。
    切通 もともと怪獣ってお話の中では悪役でも、造形的には可愛いところがある。でも平成になると洋物のクリーチャー描写に影響され、可愛さを否定して、完全に怖い存在にしたほうがいいのかなという揺れが見えだした。その一方で、怪獣を保護動物として扱うことで、牙を抜いてしまうような方向性もあった。『X』はその間でバランスが取れている。保護動物みたいな扱いではなくて、主人公の大空大地【3】は怪獣と共存したいと第一には思っているんだけど、それは必ずしもうまくいかないというところを入れていて、お話の緊張感を手放さない。怪獣が害を与えるんだったら攻撃するという決断を主人公たちXio【4】のメンバーが引き受けないとならない形に落とし込んでいた。それが現代性を出していたと思う。

    【3】大空大地:本作の主人公・大空大地。Xioの研究開発セクション・ラボチームの研究員であり、特捜班の一員。15年前のウルトラ・フレアの影響で、考古学者の父と宇宙物理学者の母と生き別れになっており、2人を探すために研究員になった。
    【4】Xio:スパークドールズから目覚めた怪獣や、宇宙人に対抗する防衛部隊。

    宇野 平成3部作はすごい挑戦だったと思うけど、「怪獣とは何か」というのを問い直すところまでは行きそびれた。『ティガ』は「ウルトラマンとは何か」を問い直すのが主眼だった一方で、『ガイア』は「怪獣とは何か」をまさに問い直す作品として始まったのだけど、うまく描けずに人間ドラマにシフトした。それ以降は怪獣「保護」をテーマにした『コスモス』や、怪獣を中心に置かなかった『ネクサス』みたいな試行錯誤があった。その結果、商業的な要請から、つまり「ポケモン」要素の導入としてたどりついたのが「大怪獣バトル」だったと思うんです。これは「ポケモン」のルーツが「カプセル怪獣」にあることを考えると面白いですね。『大怪獣バトル』以降、昭和ウルトラシリーズの怪獣が持っていたある種の愛らしさ、単に怖いだけではない怪獣というものの意味を読み替えていくようになったのだけど、そうした流れと、新しいウルトラマンの物語を作ることをあまりうまく両立できていなかったのが、『X』でやっと昇華できたところがある。
    切通 『X』の9話「我ら星雲!」【5】では等身大の宇宙人をコミカルに描いていた一方で、16話の「激撮!Xio密着24時」【6】では彼らが“ヤバいもの”として出てくる。9話の時は笑わせてもらいながらも、そっちに行きすぎて大丈夫かなと思ったけど、16話では、これから移民の時代になっていく日本も思わせるドキュメント性があって、その振幅が良かった。

    【5】「我ら星雲!」:日本ラグビーフットボール協会とのコラボ企画としてつくられ、ババルウ星人やイカルス星人ほか有名星人が一堂に会してラグビーで戦うというパロディ色の強い回。星人と人間が共にチームを組んでまた別の星人たちとラグビーの試合をするという、本作のテーマ「共生」が通奏低音として流れている。タイトルは、74年のラグビードラマ『われら青春!』から。
    【6】「激撮!Xio密着24時」:タイトルからわかる通り、『激撮!密着警察24時!』の完全パロディ回。物質縮小機で女子大生を誘拐しようとした宇宙人が職質されて逮捕・取り調べされたり、ダダの潜む人間標本工場が突入を食らったりする。

    宇野 『大怪獣バトル』以降やってきた怪獣の意味論の捉え直しの中で拡大してきた怪獣というキャラクターの持つ表現の幅を、やっと『ウルトラマン』本編のシナリオワーク上で活用できるようになってきたんだと思うんですよね。この15年くらいの迷走は無駄ではなかったんだなと、初めて思えたようなところがあった。
    切通 各エピソードで「これが好きだ」といえるものになっていたのは大きいですよね。20話のネクサス客演回【7】は“神回”でした。

    【7】ネクサス客演回:ウルトラマンシリーズの常として、過去作の主役だったウルトラマンがポイントで登場することがよくある。一種のファンサービスでもあり、『X』ではネクサスのほかゼロやマックス、ギンガなど多くの過去の戦士たちが登場した。

    宇野 あれはこの先、傑作として語り継がれていくでしょうね。
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  • Adobe以降の「特撮」と「怪獣」の可能性とは? ――15年の試行錯誤が辿り着いた 『ウルトラマンX』の達成 【月刊カルチャー時評 毎月第4水曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.547 ☆

    2016-03-23 07:00  
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    Adobe以降の「特撮」と「怪獣」の可能性とは?――15年の試行錯誤が辿り着いた『ウルトラマンX』の達成【月刊カルチャー時評 毎月第4水曜配信】

    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2016.3.23 vol.547
    http://wakusei2nd.com


    今朝のメルマガは、『ウルトラマンX』をめぐる切通理作さんと宇野常寛の対談をお届けします。平成ウルトラマンシリーズの集大成的な作品となった『ウルトラマンX』。本作を成功に導いた「怪獣」そして「特撮」の、現代的な捉え直しについて論じます。(初出:「サイゾー」2016年3月号(サイゾー))

    (出典)公式サイト
    ▼作品紹介
    『ウルトラマンX』
    監督/田口清隆、坂本浩一ほか 脚本/小林雄次、小林弘利ほか 出演/高橋健介、坂ノ上茜ほか 放映/テレビ東京毎週火曜18:00~18:30(15年7月~12月)
    謎のオーパーツ「スパークドールズ」が怪獣化する怪事件が続き、対抗手段として特殊防衛チームXioが結成されてから15年。Xioの隊員であり、怪獣との共存を夢見る青年・大空大地は、怪獣との戦いのさなかに神秘の光=ウルトラマンXと出会い、一体化。怪獣化したスパークドールズや、宇宙や平行世界から襲来する異星人や怪獣と戦いを繰り広げる日々に身を投じていく──。3月12日からは劇場版が公開予定。
    ▼対談者プロフィール
    切通理作 (きりどおし・りさく)
    1964年生、東京出身。和光大学人文学部卒。編集者経験を経て1990年代前半から文筆活動に携わる。『ウルトラマン』『仮面ライダー』シリーズをはじめとする特撮作品、その他の映像作品のスタッフインタビューや作品解説をはじめ、幅広く世相やサブカルチャーを網羅し、「キネマ旬報」「特撮ニュータイプ」「宇宙船」「わしズム」など数多くの媒体で活動。代表的な著書に、歴代ウルトラシリーズの脚本家に取材した『怪獣使いと少年』(宝島社)、写真家・丸田祥三との共著『日本風景論』(春秋社)、『特撮黙示録1995‐2001』(太田出版)、『山田洋次の〈世界〉』(ちくま新書)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』(洋泉社)ほか。『宮崎駿の「世界」』(ちくま文庫)で第24回サントリー学芸賞を受賞。
    ◎構成:隅田亜星
    『月刊カルチャー時評』過去の配信記事一覧はこちらのリンクから。
    切通 『ウルトラマンX』(以下『X』)は、平成ウルトラマンシリーズにおける『ウルトラマンコスモス』(01年)以降の集大成だったな、というのが全体の感想です。それから、今までウルトラマンって、特に平成になってからは、『ウルトラマンマックス』(05年)のように、エピソードごとに豊かなものを作る代わりにシリーズ構成をある程度緩くするか、反対に『ウルトラマンネクサス』(04年)のようにシリーズ構成をあくまで活かして連続性を重視するかのどちらかに寄っていた印象があったけれど、『X』は両方ちゃんと立っているという意味で、かなりうまくいったシリーズだと思った。全22話しかないのにシリーズ構成だけで4人いて、脚本家は10人もいる。最初はそれが不安だったんだけど、一話一話のテイストの違いとシリーズのうねりが連動していて、良い効果を生んでいた。
    宇野 平成ウルトラ3部作(『ウルトラマンティガ』96年、『ウルトラマンダイナ』97年、『ウルトラマンガイア』98年)以降のウルトラシリーズがやってきたことの総決算的に作られていましたね。『コスモス』からは怪獣との共存というテーマを持ってきて、『ネクサス』からは変身の再定義というところを持ってきていた。さらに『マックス』から始まって『大怪獣バトル』【1】(07年~)につながる昭和怪獣の再利用という要素も入っていて、『ウルトラマンギンガ』(13年)からはスパークドールズ【2】ものという流れが入っている。60~70年代の怪獣ブームの頃に比べて、今は決して放映枠も良くはないし、話数も半端な中ですごく健闘していたと思う。『X』があったおかげで、正直何をやっても中途半端な感じがあった「ポスト平成ウルトラ3部作」の作品たちの位置づけがようやくはっきりした。それも単に整理するためだけじゃなくて、しっかりエピソードとして、映像作品として昇華することによってまとめられていたのが良かったかなと。

    【1】『大怪獣バトル』(07年~):アーケードカードゲーム『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』を中心に展開されたメディアミックス作品。歴代のウルトラ怪獣同士のバトルが題材になっていた。
    【2】スパークドールズ:謎の太陽フレア「ウルトラ・フレア」によって眠りから覚め、怪獣に変化するオーパーツ。主人公・大地の父はこれを研究していた。なお、『ギンガ』にも同名のものが登場するが、設定が微妙に異なっている(『ギンガ』では自我を持たないが、『X』では感情を有するなど)。

    ■「怪獣」の捉え直しと「特撮」の捉え直しの成功
    宇野 ウルトラマンシリーズが苦戦している理由として、怪獣の意味合いがかつてと全然変わってしまったことがあると思う。まさしく切通さんが『怪獣使いと少年』で書いたように、かつて怪獣は社会のひずみのようなもの、なかなか言葉にならないし社会的なイデオロギーでも消化しきれないようなものが結晶化して出てきた存在だったけれど、そういう形ではもう機能しなくなっている。それには社会の変化や情報環境の変化とかいろんな理由があるけど、日本の怪獣映画はその中ですごく苦戦していた。円谷でいえば、この15年は怪獣とどう向き合っていいのかわからない15年だったと思う。
    切通 もともと怪獣ってお話の中では悪役でも、造形的には可愛いところがある。でも平成になると洋物のクリーチャー描写に影響され、可愛さを否定して、完全に怖い存在にしたほうがいいのかなという揺れが見えだした。その一方で、怪獣を保護動物として扱うことで、牙を抜いてしまうような方向性もあった。『X』はその間でバランスが取れている。保護動物みたいな扱いではなくて、主人公の大空大地【3】は怪獣と共存したいと第一には思っているんだけど、それは必ずしもうまくいかないというところを入れていて、お話の緊張感を手放さない。怪獣が害を与えるんだったら攻撃するという決断を主人公たちXio【4】のメンバーが引き受けないとならない形に落とし込んでいた。それが現代性を出していたと思う。

    【3】大空大地:本作の主人公・大空大地。Xioの研究開発セクション・ラボチームの研究員であり、特捜班の一員。15年前のウルトラ・フレアの影響で、考古学者の父と宇宙物理学者の母と生き別れになっており、2人を探すために研究員になった。
    【4】Xio:スパークドールズから目覚めた怪獣や、宇宙人に対抗する防衛部隊。

    宇野 平成3部作はすごい挑戦だったと思うけど、「怪獣とは何か」というのを問い直すところまでは行きそびれた。『ティガ』は「ウルトラマンとは何か」を問い直すのが主眼だった一方で、『ガイア』は「怪獣とは何か」をまさに問い直す作品として始まったのだけど、うまく描けずに人間ドラマにシフトした。それ以降は怪獣「保護」をテーマにした『コスモス』や、怪獣を中心に置かなかった『ネクサス』みたいな試行錯誤があった。その結果、商業的な要請から、つまり「ポケモン」要素の導入としてたどりついたのが「大怪獣バトル」だったと思うんです。これは「ポケモン」のルーツが「カプセル怪獣」にあることを考えると面白いですね。『大怪獣バトル』以降、昭和ウルトラシリーズの怪獣が持っていたある種の愛らしさ、単に怖いだけではない怪獣というものの意味を読み替えていくようになったのだけど、そうした流れと、新しいウルトラマンの物語を作ることをあまりうまく両立できていなかったのが、『X』でやっと昇華できたところがある。
    切通 『X』の9話「我ら星雲!」【5】では等身大の宇宙人をコミカルに描いていた一方で、16話の「激撮!Xio密着24時」【6】では彼らが“ヤバいもの”として出てくる。9話の時は笑わせてもらいながらも、そっちに行きすぎて大丈夫かなと思ったけど、16話では、これから移民の時代になっていく日本も思わせるドキュメント性があって、その振幅が良かった。

    【5】「我ら星雲!」:日本ラグビーフットボール協会とのコラボ企画としてつくられ、ババルウ星人やイカルス星人ほか有名星人が一堂に会してラグビーで戦うというパロディ色の強い回。星人と人間が共にチームを組んでまた別の星人たちとラグビーの試合をするという、本作のテーマ「共生」が通奏低音として流れている。タイトルは、74年のラグビードラマ『われら青春!』から。
    【6】「激撮!Xio密着24時」:タイトルからわかる通り、『激撮!密着警察24時!』の完全パロディ回。物質縮小機で女子大生を誘拐しようとした宇宙人が職質されて逮捕・取り調べされたり、ダダの潜む人間標本工場が突入を食らったりする。

    宇野 『大怪獣バトル』以降やってきた怪獣の意味論の捉え直しの中で拡大してきた怪獣というキャラクターの持つ表現の幅を、やっと『ウルトラマン』本編のシナリオワーク上で活用できるようになってきたんだと思うんですよね。この15年くらいの迷走は無駄ではなかったんだなと、初めて思えたようなところがあった。
    切通 各エピソードで「これが好きだ」といえるものになっていたのは大きいですよね。20話のネクサス客演回【7】は“神回”でした。

    【7】ネクサス客演回:ウルトラマンシリーズの常として、過去作の主役だったウルトラマンがポイントで登場することがよくある。一種のファンサービスでもあり、『X』ではネクサスのほかゼロやマックス、ギンガなど多くの過去の戦士たちが登場した。

    宇野 あれはこの先、傑作として語り継がれていくでしょうね。

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  • 2作目のハリウッド版ゴジラは「日本的怪獣映画」をどう再解釈したのか? ――切通理作と宇野常寛が語る映画『GODZILLA/ゴジラ』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.186 ☆

    2014-10-24 07:00  
    220pt

    2作目のハリウッド版ゴジラは「日本的怪獣映画」をどう再解釈したのか?
    ――切通理作と宇野常寛が語る映画『GODZILLA/ゴジラ』
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.10.24 vol.186
    http://wakusei2nd.com


    本日のほぼ惑は、「サイゾー」10月号に掲載された、映画『GODZILLA/ゴジラ』をめぐる切通理作さんとの対談をお届けします。これまで「特撮」についての数多の評論を世に問うてきた2人の批評家は、ハリウッドによるこの2度目のリメイク作をどう観たのでしょうか――?
    初出:『サイゾー』2014年10月号(サイゾー) 


    ※上記Blu-rayは北米版です。
     
    映画の公式サイトはこちら。
     
    《作品紹介》
    『GODZILLA/ゴジラ』
    監督/ギャレス・エドワーズ 脚本/マックス・ボレンタインほか 出演/アーロン・テイラー=ジョンソン、渡辺謙ほか 配給/東宝 公開/7月25日(日本)
    1999年、日本の雀路羅市に建設された原子力発電所で働くジョーとサンドラ夫妻の間には、一人息子のフォードがいた。ある日突然原発付近で異常振動が起き、発電所が崩壊。サンドラは事故に巻き込まれて死んでしまう。そして15年後、軍の爆発物処理班に勤務する海軍大尉となったフォードは、家族を残して日本を訪れる。日本に残っていた父のジョーが、立入禁止地区に踏み行って逮捕されたためだった。サンドラの死の理由を探るべく、原発崩壊事故の深層を調べていたジョーと共に雀路羅市を訪れたフォードは、原発の跡地で研究機関・モナークによって囚われている怪獣ムートーの姿を見る。やがてムートーは縛めを解いて暴れ出し、海を渡ってハワイ経由でアメリカ本土を目指そうとする。そこに立ちはだかるのが、モナークの芹沢博士(渡辺謙)たちが長年調査してきた”生態系の王”ゴジラだった──。
     
    ▼プロフィール
    切通理作(きりどおし・りさく)
    1964年生まれ。90年代からアニメ、特撮含め文化時評の領域で活躍する。メルマガ『映画の友よ』主宰。10月、昭和ゴジラの監督に迫る『本多猪四郎 無冠の巨匠 MONSTER MASTER』刊行予定。
     
    ◎構成:佐藤大志
     
    切通 今回の『GODZILLA』、面白かったです。本作では、人間の目線の切り取り方がメインになっていて、ずっとゴジラが小出しにされているんですよね。従来の怪獣映画だと、出現の予兆は尻尾だけ映したりして小出しにするけれど、一度登場してしまうとあとはひたすら前面に映され続けていました。それが今回は、ゴジラは登場した後も霧の向こうやビルの陰にいて、少しずつしか見せない。一番すごいと思ったのは、ハワイでゴジラとムートー【1】が戦い始めたら場面が変わって、アメリカ本土の主人公の家庭で奥さんが子どもに「テレビを消しなさい」なんて言ってるのが映されるところ。今はCGでどんな場面も作れてしまいますよね。だからはっきり言って、ゴジラとムートーの戦いをずっとやっていても飽きてしまう。それが本作では、2者が戦い始めて「おっ」と思っている間に画面が変わって、それからまた、建物や空の隙間から戦いが垣間見える、という繰り返しにすることで解消されている。そうしたON/OFFの効いた見せ方は新鮮な感じがしました。これはギャレス・エドワーズ監督の前作『モンスターズ/地球外生命体』【2】でも用いられていた手法だったので、その監督を抜擢してゴジラでこの撮り方をするというのは正解だったと思います。
    それから、ラストシーンもよかったですね。海にゴジラが去っていって、その背中を見送った途端にあっさり映画が終わる。僕は平成ゴジラ【3】の、海の底で死んだと思われたゴジラが最後の最後で「ヤツはまだ生きていた!」と終わるエンディングには「またか」と思っていたので「これだよ!」と。
     
    【1】ムートー
    本作の敵怪獣。見た目は昆虫に似ている。フィリピンの炭鉱で発見された化石に繭の状態で寄生しており、一匹は日本へ、一匹は卵の状態でアメリカ本土に保管される。日本にやってきた雄は雀路羅市の原発を破壊し、そこで研究機関・モナークの管理のもと隔離されていた。目覚めた二匹は、生殖のためにアメリカ西海岸を目指す。
    【2】『モンスターズ/地球外生命体』
    監督・脚本/ギャレス・エドワーズ 公開/11年
    地球外生命体のサンプルを積んだ探査機がメキシコ上空で大破してから数年後、近辺に謎の生物が多数発生。危険地帯となったメキシコに、カメラマンがスクープを狙って乗り込む。
    【3】平成ゴジラ
    後述の84年版『ゴジラ』から『ゴジラVSデストロイア』までの7作を指す。
     
    宇野 僕は実際に観るまで、正直に言うとあまり期待していなかったんですね。だけど観てみたら意外とよかった。脚本はもう少し整理できたと思うし、手放しでは絶賛できないですが、全体としてはそれなりに満足している。
    今回の『GODZILLA』は、初代『ゴジラ』【4】でも84年版『ゴジラ』【5】でもなく、「VSシリーズ」【6】のリメイクになっていて、それが正解だった気がします。
    怪獣映画のルーツにはハリウッドで生まれたキング・コングがあるけれど、日本の怪獣はそこから隔世遺伝的に派生して、ほぼ別物になってしまっている。だからアメリカで再びゴジラを撮ろうとしたら、「怪獣とはなんなのか」を問い直す映画にならざるを得ない。
    日本において怪獣は、当初は戦争の比喩として誕生した。ゴジラは原爆や水爆といった国民国家の軍事力の比喩だったし、それが街を襲うのは空襲の比喩だった。戦後日本では直接的に戦争映画を描けなかったので、怪獣というファンタジーの存在を投入することでイマジネーションを進化させていったのが特撮映画だったわけです。それが70年代には戦争の記憶が薄れ社会が複雑化して、その比喩が説得力を持たなくなり、怪獣なのに正義の味方になってしまったり公害の比喩になったりと迷走してしまった。その後、90年代に、当時のリアリティを取り入れる形でゴジラを作り直そうとしてVSシリーズが作られ、そのコンセプトをより徹底させたものとして「平成ガメラ」【7】が生まれた。善でも悪でもなく、敵となる怪獣がやってきたら地球の生態系を守るために戦う「地球の白血球」的存在としてガメラを描こうとしたのだけど、さまざまな理由からスタッフはコンセプトを徹底できなかった。象徴的なのは『ガメラ2 レギオン襲来』のラストですね。瀕死のガメラが子どもたちの祈りによって復活し、結局ヒーローになってしまう。当時のスタッフは、そうしないと怪獣映画をまとめられなかったんだと思うんですね。物語的なカタルシスを、そうしないと作れなかった。だから90年代は日本の怪獣映画にとって、怪獣をシステムとして描こうとして失敗していった時期だった。
    そして本作では、ラストシーンで、去ってゆくゴジラを見て「神だ」と言うわけです。今作のゴジラは自然界のバランスを壊すムートーと戦うために現れて、自然の摂理そのもの=神として描かれている。これは日本人にはできない言い切りで、アメリカ人が怪獣というものを真正面から受け止めると、「神」という結論にならざるを得ないんだな、と思いました。だからこそ、ラストでただ去っていくゴジラを見て、VSシリーズを下敷きにした意味がよくわかった。一周回ってベタな設定になっているとは思うけれど、非常に説得力があった。システムとしての怪獣ではなく、「神」としての怪獣王としてゴジラを捉えることで、平成ガメラシリーズの罠を回避しているわけです。まあ、映画全体のつくりは、特に脚本がざっくりしすぎていて、全体的な完成度を考えると、VSシリーズはともかく、平成ガメラを超えたとはちょっと言い難いような気もしますが……。
     

    【4】『ゴジラ』
    1954年に公開された第一作目。日本の怪獣映画の始祖。海底に潜む太古の怪獣が水爆実験によって目を覚まし、東京を襲撃するという設定。今回の『GODZILLA』で渡辺謙が演じた芹沢猪四郎博士の名は、この作品のキーマン・芹沢大助博士の苗字と、監督・本多猪四郎の名前から付けられている。
    【5】84年版『ゴジラ』
    84年公開、ゴジラシリーズ16作目。54年版から時間軸が繋がっており、ゴジラは人類の敵として描かれる。
    【6】「VSシリーズ」
    89年『ゴジラVSビオランテ』を皮切りに、キングギドラ(91年)、モスラ(92年)、メカゴジラ(93年)、スペースゴジラ(94年)、デストロイアとゴジラが戦う一連シリーズ。
    【7】「平成ガメラ」
    『ガメラ 大怪獣空中決戦』(95年)、『ガメラ2 レギオン襲来』(96年)、『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒』(99年)の3部作。すべて金子修介監督、樋口真嗣特技監督、伊藤和典脚本。

     
    切通 僕は今作は、今までのすべてのゴジラシリーズを肯定していると思いましたね。初代から『ゴジラ対メガロ』、あるいは84年版『ゴジラ』まで、どれに繋がってもおかしくない。誕生の理由は大きく異なるけれど【8】、それ以外、実はゴジラという存在そのものはベールに包まれていていじってないんです。ムートーは放射能を食べているし、雌雄があって生殖もするけれど、ゴジラは何を食べているか、オスかメスかもわからない。人間に攻撃されるとムートーは反撃するけど、ゴジラは意に介さない。「スターさん」なんだな、と。 
  • 切通理作×宇野常寛3万字対談「いま昭和仮面ライダーを問いなおす」 ――映画『平成ライダーVS昭和ライダー 仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』公開(勝手に)記念 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.039 ☆

    2014-03-27 07:00  
    524pt

    切通理作×宇野常寛3万字対談「いま昭和仮面ライダーを問いなおす」
    映画『平成ライダーVS昭和ライダー仮面ライダー大戦 feat.スーパー戦隊』公開(勝手に)記念
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.3.27 vol.39
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    今朝のほぼ惑は「仮面ライダー」についての3万字対談。それも平成ではなく、「昭和」のライダーについてです。昭和の特撮作品のスタッフを数多く取材してきた切通理作氏と平成ライダーの評論を手がけてきた宇野常寛が魅力を語り尽くします。

     
    「変身!」のかけ声とともに、現在まで続くブームを起こした『仮面ライダー』とは何だったのか? 1970年代当時のヒーローとしての画期性、今も多くの人々の目を引くアイコンとなっているデザイン、スタッフの苦心が生んだアクションとドラマの化学反応、世界観や話作りのノウハウなど現代の「平成ライダーシリーズ」にも形を変えて引き継がれた要素……。ゼロ年代のあらゆるエンターテインメント作品を鋭く語ってきた評論家・宇野常寛と、昭和・平成の数々の特撮スタッフ取材を重ねてきた文筆家・切通理作が、昭和の『仮面ライダー』の魅力を語り尽くす!


    ▼プロフィール
    切通理作(きりどおし・りさく)
    1964年生、東京出身。和光大学人文学部卒。編集者経験を経て1990年代前半から文筆活動に携わる。『ウルトラマン』『仮面ライダー』シリーズをはじめとする特撮作品、その他の映像作品のスタッフインタビューや作品解説をはじめ、幅広く世相やサブカルチャーを網羅し、「キネマ旬報」「特撮ニュータイプ」「宇宙船」「わしズム」など数多くの媒体で活動。代表的な著書に、歴代ウルトラシリーズの脚本家に取材した『怪獣使いと少年』(宝島社)、写真家・丸田祥三との共著『日本風景論』(春秋社)、『特撮黙示録1995‐2001』(太田出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新書)ほか。『宮崎駿の「世界」』(ちくま文庫)で第24回サントリー学芸賞を受賞。
     
    ◎構成:葦原骸吉
     
    ■原点としての「旧1号編」
     

    ▲仮面ライダー VOL.1 
     
    宇野 今回は映画『平成ライダーVS昭和ライダー』を記念して、歴代の昭和『仮面ライダー』を順を追って語っていきたいと思います。しかし僕は1978年生まれなので、昭和仮面ライダーの第一期、つまり初代『仮面ライダー』から『仮面ライダーストロンガー』まではリアルタイムでは接していなくて、本やビデオの後追いで知った世代なんです。だからまず、なんと言っても初代『仮面ライダー』(1971年)をリアルタイムで目撃した世代の、ファーストインプレッションをまず伺ってみたいなと思うのですが。
    切通 僕は圧倒的に仮面ライダーそのものに魅力を感じます。ライダーのデザインって、石ノ森章太郎(当時は石森章太郎)さんの漫画と実写で微妙に違うんですよ。漫画では触覚がホントの昆虫みたいにしなやかなんですけど、実写の、当時エキスプロにいた三上陸男さんが造型したライダーは、触覚がラジオのアンテナを曲げたみたいで、まるで町の工場で造ったような工作的な感覚に、当時のラジカセや自転車とか僕らの身近にある機械のデザインを見た時のような、なんとも言えない味わいを感じます。大人になってからも、あの顔の写真を一目見ただけで気持ちが持っていかれてしまうんです。
    宇野 僕も初代『仮面ライダー』の何が一番好きかというと、デザインとスーツの造形なんです。同じ特撮ヒーローものでも石ノ森さんのデザインワークは『ウルトラマン』の成田亨さんのものとはまったく違う。たとえば成田さんの場合、ゼットンは水牛がモチーフで、レッドキングも恐竜がモデルだろうけど、どちらもモデルになった生物の進化したものではなく、あくまで実在のものとはまったく別種の生物になっている。つまり成田さんは現実にはこの世界に存在しない、あたらしい生物を産み出す天才だった。対して、石ノ森さんはすでに存在する二つのモノを組み合わせる天才だった。クモ+人間でクモ男、カニ+コウモリでガ二コウモル、そもそも仮面ライダーのバッタの仮面にライダースーツというデザインを考えついたというだけでもう確実に天才だと思うんです。要するにウルトラマンが世界の外側から来訪した超越者で、仮面ライダーは僕たちのこの世界の内側から産まれ落ちた存在だという物語上の設定がデザインコンセプトにも通底しているわけですね。
    切通 あのライダースーツと一体化したような、レザーのしなりが感じられるボディラインも、見ていてシビれるものがあります。
    宇野 僕はウルトラマンシリーズも大ファンで、昭和ウルトラマンと昭和仮面ライダーの物語のどちらが面白いかと言えばやっばりウルトラのほうなんですよ。もともと昭和仮面ライダーはストーリー重視の番組ではないですしね。しかし、大野剣友会のアクションは洗練されていて何度観ても飽きないし、デザインについても仮面ライダーの方に惹かれるんです。持っている玩具も子どもの頃から仮面ライダーの方が多い。仮面ライダーのキャラクターデザインに接していると、世界との関係について感覚がひらかれるようなところがある。
    切通 なるほど、だから宇野さんの本『リトル・ピープルの時代』の表紙は1号ライダーなんですね。「どちらかといえば平成ライダーを熱く語っているのに、なんで昭和ライダーが表紙なのかな?」って思っていました。
    宇野 あれは装丁家の鈴木成一さんのアイデアですね。僕も出版社の担当さんも、表紙では仮面ライダーがテーマの本であることはむしろ隠して、村上春樹論だと思い込んで買った読者を驚かせようと思っていました(笑)。でも、鈴木さんがここは仮面ライダーのフィギュアを使うべきだと主張して、僕の私物を提供したんです。ちなみに、このフィギュアは海洋堂が昔発売していた1/4スケールの旧1号ですね。原型師は木下隆志さんです。
     

    ▲宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)
     
    切通 そうだったんですね。初代仮面ライダーが始まったとき、僕は小学校二年生だったんですが、クラスで一番優等生だった、みんなと遊ばないような子から、「すごい変な番組が始まった。なんか暗い感じの、キチガイ博士みたいなのが出てきて、人間を改造してる、見たこともないような番組なんだ」って感じに紹介されて、僕も「見なきゃ! いつやってるの?」と初めて見たのが「人喰いサラセニアン」の回(第4話)でした。それ以来毎週見るようになりましたね。女性が植物園で地中に引きずり込まれるのが印象的で、ホラーなテイストで、戦闘員もまだ全頭マスクではなくて、顔にサイケな模様を直接塗ってるし、暗闇にライダーのCアイが光って……スカッとするヒーローものっていうより、怪奇ものって感じの印象を持っていましたね。
    宇野 当時は等身大の変身ヒーローという概念自体がなかったんですね。
    切通 変身シーンもまだバイクで加速して姿が変わるという段階だったし、新しいセンスの番組を見ているという感覚がありました。そもそも『仮面ライダー』って名前が独特じゃないですか。『ウルトラマン』は全部英語、『月光仮面』は全部漢字。後の「キカイダー」や「イナズマン」もそうですが、石ノ森章太郎独特の日本語と英語が混ざったセンス。「仮面」って言葉自体もちょっと復古調で、新しいものと見知ったものがミックスされてる感じ。僕は最初、仮面の人がバイクに乗っている状態を「仮面ライダー」って呼ぶのかと思ってたんですけど(笑)。
    宇野 旧1号編(1〜13話)の前半って、当時の東映+石ノ森だからできた怪奇テイストで、たぶん一番原作の雰囲気を残している。本郷猛は自分が改造人間になってしまったことでずっと苦しんでいるし、ショッカーの作戦も日常の生活風景の中に潜む恐怖として非常にミステリアスに描かれている。この旧1号編前半のシリアスなモードが好きな人って多いですよね。でも、僕が好きなのはむしろ旧1号編の後半なんです。第10話以降は藤岡弘さんが撮影中のケガで降板しちゃって本郷猛のシーンは全部バンク、ライダーの声はショッカー首領役の納谷悟朗さんの弟の納谷六朗さんが演じている。六朗さんは『クレヨンしんちゃん』の園長とか『幽遊白書』の仙水の声で有名ですね。僕はあのときにライダーって従来のヒーローから解放されたところがあったと思うんです。要するに、平成の『仮面ライダー555』や『仮面ライダーディケイド』に続くような、「ライダーの中身は誰でもいい」「誰がライダーに変身してもいい」という感覚が結果的にあのときに生まれたんじゃないか、と。
    切通 藤岡さんの事故は当時とても有名で、子どもの僕も知ってましたが、一方僕は迂闊な子だったので、藤岡さんが事故後の1号ライダー編の新規撮影分には出てないことには気付かなかった(笑)。映像の使い回しで、声だって違ったのに。
    宇野 旧1号編の後半はシナリオの工夫も面白くて、たとえばゲバコンドルの回(第11話)は、当時助監督だった長石多可男さんが適当にでっち上げたストーリーですね。
    切通 藤岡さんが新規に出ないでどういう話が成立するか、助監督さんに書いてもらったストーリーから急遽選ばれたっていう回ですね。ライダーの相棒役であるFBIの滝和也が初めて登場する。
    宇野 意外と好きなのは怪人ヤモゲラスの回(第12話)です。この回はほとんど緑川ルリ子が主役じゃないですか。当時の真樹千恵子(現:森川千恵子)さんってちょっとはっとするような美人で、僕なんかは単に彼女がたくさん映って活躍するのを見ているだけでも楽しいんですよ。
    切通 森川千恵子さんは『アイアンキング』でも、敵の不知火一族十番目の影を演じていて、明るく健康的な風情なのにどこか影を背負った役柄を演じさせられているんですよね。どちらも物語の中途でいなくなるし。彼女の活躍は確かにレア感があります。緑川ルリ子は原作にも登場するキャラクターですしね。
    宇野 この回は、デンジャー光線っていう兵器を開発した博士を、ヤモゲラスが無理矢理ショッカーに協力させようとしてライダーと戦う話なんですけど、最後にヤモゲラスはその博士に反撃されてデンジャー光線で倒されちゃう。この話ではライダーは本当に添え物にすぎなくて、ときどき助けに来て暴れて帰っていくっていう位置づけですよね(笑)。でも、その何でもアリな感じがいいんですよ。
    切通 滝和也登場と、本郷編ラストである13話の間に挟まって、埋もれた感じのヤモゲラス回が宇野さんからすると印象的だというのは、面白いですね。いま見ると、本郷猛の場面を新規撮影できないから、ライダーを添え物にせざるを得なかったんでしょうけどね。
    宇野 それでもちゃんと番組として成立しているのがすごいと思うんです。こうしたエピソードの積み重ねが、結果的にだけれども、ヒーローものの射程というか、『仮面ライダー』という作品で許されることを広げている気がするんですよね。
    切通 そういう見方もあるのか。僕は旧1号編の後半というとやっぱり滝和也の存在が大きいんですけど、生身であれだけ戦える滝がその後レギュラーとして定着していくということ自体が、宇野さんの言う、単体ヒーローものでありながら射程を広げている部分なのかもしれないですね。2号ライダー編以降は、完全に二人のコンビものになっていきます。子ども心に、滝が最後はライダーに怪人を倒す役を譲っているのが大人だなと思ったりして見てました。
    宇野 あとトカゲロンの話(第13話)も大好きですね。後に劇場版や最終決戦に引き継がれていく再生怪人がズラリと並ぶ、あのお祭り感はここで開発されたわけでしょう?
    切通 それまで出てきた怪人が総登場する最初ですよね。戦闘員並みに弱くなってるんだけど(笑)。
    宇野 ショッカーの頓珍漢な作戦も好きです。サッカー選手を改造人間(トカゲロン)にして、その強靭なキック力で爆弾をシュートしてターゲットの研究所のバリアー(なぜか作中では「バーリア」と呼ばれる)を破るのが目的(笑)。爆弾の威力が問題じゃないのかよ、と。
    切通 人間を改造するところから描くんですよね。でも視聴者に同情心を持たせないためか、チームメイトにやたらぞんざいな態度を取る、チンピラみたいなサッカー選手に描かれているところが東映っぽくていい(笑)。トカゲロンは、見てる僕が当時はまだ<怪獣>っていうものがカッコイイんだという概念だけに縛られていたから、怪獣みたいなデザインの怪人が出てきたのが単純に嬉しかったですね。
     後に『クウガ』のプロデューサーとなる高寺成紀さんは、ウルトラマンや怪獣が好きでありながら、いち早くライダー怪人ならではの良さに気づいていたということなんですが、僕はまだそこまで目覚めてなかったのをいまは恥じています。
     
     
    主役俳優の事故の生んだ「王道」の確立――「旧2号編」
     


    ▲仮面ライダー VOL.3
    宇野 僕は2号編(14〜39話)の初期も好きなんです。旧1号編って、まず石森色が強い状態で始まって、だんだん東映色に染まっていく過程だったと思うんですね。藤岡さんの事故でこの流れはぐっと加速して、主役交代後の2号編はもう完全に東映+シナリオの伊上勝さんが作った世界になっている。2号編になると「とにかくアクションをCM前と後の二回見せる」「そこから逆算してストーリーを組み立てて行く」という正しい娯楽活劇路線が完全に確立されているんですよね。
    切通 何か起こると一文字隼人が必ずバイクで通りかかるという。端的な導入でパッパッと進む。井上敏樹さんが父親の伊上勝さんを「親父の脚本は紙芝居だ」と言うゆえんですね。
    宇野 たとえば、怪人ピラザウルスの回(第16話&17話)なんてもう、すごいじゃないですか(笑)。ショッカーがプロレスラーを改造して、そのプロレスを見に来た政府要人を毒ガスで暗殺する、という謎の作戦を実行するんですよね。どう考えても、クライマックスにリングで仮面ライダーとピラザウルスが戦うシーンを撮るというアイデアが先にあって、そこに合わせてストーリーを強引にでっち上げている。
    切通 集まった観客の前でリング上の戦いを繰り広げるシーンはめちゃくちゃ興奮した! 先にライダーが倒れるところとかもドキドキしましたし。 
    宇野 最高に燃えるシュチュエーションを作るために、あそこまで強引なストーリーをでっち上げるイマジネーションって素晴らしいと思うんですよね。物語をアクションに正しく奉仕させている(笑)。
    切通 でも、あの話は2号ライダー編にしてはドラマがある方でしたよ。怪人にされたレスラーに弟がいて、最後に兄が元に戻って、弟が「お兄ちゃん怪人だったの!?」って言うと、一文字隼人が「怪人は死に、お兄さんは蘇ったんだ」って答える。一文字自身も改造人間なのに、その弟の前ではあえてそこを切り捨てて言い切っていますよね。そんな一文字に強さ、優しさを感じてジーンとなりました。
    宇野 一文字って終始明るいんですよね。本郷猛って、特に初期は孤独で暗いんだけどその分人間的な深みがあるキャラクターとして描かれていた。あれはあれで格好いいんだけれど、一文字隼人は、仲間や子どもの前でも、背負っているものを全部飲み込んで常に笑顔じゃないですか。あれがいいんですよね。
    切通 一文字のキャラクターには、あの頃の東映のテイストが入っていますよね。当時東映で、宮内洋さんも出てた『キイハンター』(1968〜73年)というアクションもののドラマがあって、ナレーションで「恋も夢も望みも捨てて」って言ってるのに、みんないつも遊んでるように冗談を言い合ってる。本当は、任務で個人の生活を犠牲にしてる部分もあるんだけど、表面は常に明るいっていう。一文字隼人もそんな感じですね。
    宇野 子ども心に疑問だったのが、第39話のクリスマスのエピソードでライダーが狼男を倒したあと、子どもたちへのクリスマスプレゼントとして自分で仮面ライダーグッズを配ってるんですよ。あれがちょっとおかしくて(笑)。今考えるとメタフィクションっぽいですよね。
    切通 当時からべつに感動したとかはないんだけど、でも妙に印象に残る場面ですね。ちゃんと憶えているし。
    宇野 あれって一文字だから配れるんですよね。本郷猛はキャラ的に配れないんですよ、たとえ新1号編の、少し明るくなった本郷でもちょっと無理がある。
    切通 なるほどね。しかもその翌週(第40話)に1号が帰って来る。
    宇野 当時は、いわゆるダブルライダー編ってすごく盛り上がったんじゃないですか?
    切通 やっぱりもうめちゃめちゃ期待して見ましたよ。お正月の放映だったし、お年玉もらったみたいな気持ちになるイベントでしたね。鹿児島ロケで、桜島が舞台でね。
    宇野 ダブルヒーローというもの自体がそれまであまりなかったんですよね。それだけで十分引きがあるのに、あのたった数話の中で、片方のピンチにもう片方が駆けつけたり、片方が一時洗脳されて敵に回ったりと、後の作品で踏襲されていくダブルヒーローものの脚本術がかなり開発されている。それが今観てもすごいなって思うんですよね。あとは、ライダーダブルキックですよね。あれはもう言葉の響きだけで感動します。僕、小学生の頃にレンタルビデオで観るまでは本でしか知らないんですよ。なのにもう、大好きでしたもん。
    切通 そうですよね。やっぱり、ドラマの『仮面ティーチャー』(2013年)や、『スケバン刑事2』(1987年)とかでダブルキックが出てくると妙に燃えるんですが、その原点はあそこでしょうね。ただ、あの回は見ていて「1号ってあんなに黒かったっけ? 最近は2号の方を見慣れてるからギャップ感じるのかな」って思ったんです。でもいま考えると、あれはあの時だけのマスクだったんですね。
    宇野 「桜島1号」と呼ばれるスーツですよね。フィギュアが発売されるときも必ず旧1号とは別のスタイルとして別個に商品化されていますからね。僕は旧1号のほうが好きな造形とカラーリングですけれど、旧2号と並べるのならやっぱり桜島1号じゃないとしっくり来ないものがあります。
     
     
    ■『V3』プロローグとしてのショッカーライダー編――「新1号編」
     

    ▲仮面ライダー VOL.16
     
    宇野 で、その後、本郷猛が本格的に復帰して新1号編(53〜98話)になるわけですね。
    切通 じつは、僕が一番好きなのは新1号編の後半(80〜98話)から、続く『仮面ライダーV3」前半の「26の秘密」編ですね。
    宇野 初代『仮面ライダー』は物語があってなきに等しいのですけれど、一番物語性があったのは初代から『V3』へ移りかわるこの時期ですよね。
    切通 ショッカーライダー編とかだよね。ショッカーに親兄弟を殺された人達が作ったアンチショッカー同盟っていう組織が出てくるんですが、それが、連合赤軍じゃないけど、立花藤兵衛やライダーとも立場が違って、組織としての規律を守るためには個人を犠牲にしようしたりする。三者三様の錯綜した対決の中で、しかも偽仮面ライダーが投入されて「8人の仮面ライダー」っていうタイトルも、敵味方入り乱れて8人っていう……あの辺りの感覚にもどこか興奮しましたね。
    宇野 ショッカーライダーが6人と、それに加えて1号と2号の8人ですね。ちなみに、ショッカーライダーって石ノ森さんの原作版の方が早く登場していますよね。しかも、本郷猛を殺してしまう役どころだった。
    切通 原作のテイストが少し入ってきた、っていう興奮もあったかもしれない。
    宇野 原作漫画だとショッカーが仮面ライダーを量産して、本郷猛が十二人の仮面ライダーに囲まれてフルボッコにされて死んじゃうじゃないですか。そのショッカーライダーの一人が一文字隼人で、戦闘中に脳に衝撃を受けて正気に戻り二代目の仮面ライダーになる。やっぱり仮面ライダーはウルトラマンと違って絶対の存在じゃないんですよね。あくまでショッカーが作った改造人間が一人脱走しただけの存在だから、量産も可能だし、条件さえ満たせば「誰でも仮面ライダーになれる」。この決してオンリーワン「ではない」ヒーローという設定は仮面ライダーならではのものだと思います。これは旧1号編の後半で藤岡弘さんが降板した結果生まれた「誰がライダーになっても構わない」というメタルールが、その後も適用されていると言えますよね。
    切通 だから「8人の仮面ライダー」というタイトルにぞわっとくるのかもしれない。同じライダーなのに敵味方入り乱れて8人いるあたりに、子どもながらにヒーロー性のゆらぎを感じていたのかもしれないですね。
     
     
    ■『仮面ライダー』第9クールとしての『V3』――『仮面ライダーV3』
     

    ▲仮面ライダーV3 
    宇野 当時の感覚だと『仮面ライダーV3』(1973年)は、新番組が始まったというより、『仮面ライダー』の第9クール目のように見えたということでいいんですか?
    切通 そう、だから『V3』の第2話「ダブルライダーの遺言状」が仮面ライダーの第100話なんです。『V3』の序盤には本郷猛と一文字隼人が当たり前のようにいて、V3こと風見志郎は彼らに改造されるわけですよね。で、本郷と一文字が大空に散るのが第2話。『仮面ライダー』の最終回はショッカーを追いつめるという意味での最終回で、『V3』の2話で1号と2号が最後を迎えるという意味での締めくくりになっている。つまり最終回と第1話がシンクロしてるわけですから、盛り上がらない方がおかしい(笑)。
    宇野 『V3』の初期のドラマは独特の緊張感がありますよね。V3はスペック的にはすごく強いんだけれど、風見志郎が経験不足のせいで初期は何かと苦戦するじゃないですか。色々教えてくれるはずの先輩1号と2号は生死不明になってしまうし。