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  • Cerevo岩佐琢磨インタビュー「ものづくり2.0――DMM.make AKIBAとメーカーズ・ムーブメントの現在」(後編) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.279 ☆

    2015-03-11 07:00  
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    Cerevo岩佐琢磨インタビュー「ものづくり2.0――DMM.make AKIBAとメーカーズ・ムーブメントの現在」(後編)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.3.11 vol.279
    http://wakusei2nd.com


    ハードウェアベンチャーCerevo代表の岩佐琢磨さんインタビュー後編は、知られざるハードウェア・スタートアップの歴史、そしてDMM.make AKIBAを中心としたメーカーズ・ムーブメントのこれからについて伺いました。前編はこちらのリンクから。
     
     
    ■ ハードウェア・スタートアップの歴史
     
    ――そろそろ、ハードウェアベンチャーの歴史について聞きたいんです。そもそも、家電のデジタル化はどこから始まったのでしょうか。
     
    岩佐 2000年代の頭に「デジタル家電革命」が起きたんですよ。例えば、ボイスレコーダーからカセットが不要になったのが、この時期です。アナログな部品の物理的機構がすべてシリコンに置き換わって、NAND型フラッシュメモリやSDメモリーカードみたいなものが入ることで、デジタルプロセッサで全て構築できるようになったんです。
     ちょうどその頃、電子機器の受託生産を行う「EMS」という業態が流行って、自社で工場設備を持たなくても、既存部品の組み合わせでモノがつくれるようになりました。
     そうなれば、もう自分たちで部品を設計しなくていいんです。実際、大手メーカーの安いボイスレコーダーなんて、自社部品はほとんど入っていないですよ。
     
    ――その背景にあったイノベーションは何だったのでしょうか。なんとなく、「ムーアの法則」でマイクロプロセッサが小型化していく波が、家電にも押し寄せてきたというくらいのイメージなのですが……。
     
    岩佐 いや、「小型化」は本質ではないです。家電メーカーは自社でアナログな部品を組み合わせて、テレビなどの表示機器を作っていて、その機能が小さなチップに収められるようになったのは、まさに仰るように「ムーアの法則」の賜物です。でも、別に「Intel 8086」のような汎用処理チップは、PC用として既にだいぶ前からあったわけです。
     だから一番重要なのは、90年代後半から家電に向けて専用のマイクロプロセッサ、いわゆるSoC(System on chip)を作る発想「それ自体」が登場したことです。家電の機能をチップに収めて、「全世界のテレビメーカーがこれを買ってくれたら、このチップへの初期投資数十億円がペイできる」なんて発想を抱く人たちが世界中で登場したわけです。当時は、かなりぶっ飛んだ発想でしたがその後当たり前になりました。
     
    ――IT産業の発想で家電ビジネスを捉える連中が登場したわけですね。
     
    岩佐 世界中のメーカーがアライアンスを組んで、共通規格を作り始めたのもこの90年代末のことです。
     例えば、SDカードの登場がこの時期でした。「SDアソシエーション」への入会を募って、スロットやカードの普及を頑張る人たちなどが出てきたんです。USBやBus共通化もこの時期ですよ。昔は、液晶や端末はもちろん、データの転送もエラーの訂正も独自方式だったんですね。それを、この時期にチップベンダーたちが、「そうした方が儲かるよね」という発想へと切り替えたんです。
     
    ――そうして自社工場を持つ必要がなくなった結果、2000年代に入ってハードウェアベンチャー企業が登場しはじめた、と。
     
    岩佐 僕らが始めるよりも3年くらい前、具体的には2002~2004年頃に、世界中で同時多発的に第一次ハードウェア・スタートアップの人たちが登場しました。
     そこで彼らが取った戦略は2通りです。「性能は多少低くても、デザインさえ格好良ければ売れる」という"デザイン派"と、「既成品より遥かに性能は低いけど、半額にしよう」みたいな"値下げ戦略派"の人たちです。安物のデジカメは、後者の流れから出てきたものです。一方で、いま主流のネットと接続するスマート家電のような戦略はありませんでした。
    その中で大成功したのが、海外勢の「Flip」ですね。ソニーが20年続けた全米ビデオカメラシェアを一つだけ蹴落としていた製品です。ただ、現在も生き残っているのはVIZIO社くらいかなあ。Flipを製造したPure Digital Technologies社も、最終的にCiSCO社に買収されてしまいました。
     ちなみに、iRobotの創業は1990年ですが、彼らはずっとBtoBの産業用ロボットを扱っていて、家庭用ロボットへの参入は2002年です。まさに、みんなが同時期に家庭向けに入ってきたわけですね。
     

    ▲Cerevoが企画・開発したスマート・スポーツ用品ブランド「XON(エクスオン)」の第1弾製品、スノーボード・バインディング「SNOW-1(スノウ ワン)」。
     


    ▲左右それぞれの足にかかった荷重やボードのしなりを計測し、そのデータをBluetooth連携したスマートフォンへリアルタイム転送することが可能。スノーボードのさまざまなテクニックを習得・上達することができる。
     
     
    ――結局、当時の新興企業が上手く残れなかった理由は何だったのでしょうか?
     
    岩佐 まず、デザイン派の人たちはコピーされてしまいました。デザインでの差別化なんて、せいぜい1年くらいしか持たないんです。実際、プラスマイナスゼロの加湿器デザインが発売された直後からウニョウニョした形の加湿器が増えてますよね。一時的にシェアを奪っても、すぐに形をパクられてしまうので、あとは価格勝負の持久戦です。そうなると、時価総額ウン兆円の大企業に勝つのは難しい。値下げ戦略派の人たちも同様の理由で、倒れていきました。
     だから、敗因は戦略ミスに尽きます。この辺の中小企業はもう2005、6年くらいにはだいぶ経営が厳しくなっていて、リーマン・ショックが起きた2008年くらいには倒産したり、再生ファンドに売られたりして、消えてしまいました。
     
    ――岩佐さんは、まさにその時期に登場したわけですが、勝算はどの辺りにあったのですか?
     
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  • Cerevo岩佐琢磨インタビュー「ものづくり2.0――DMM.make AKIBAとメーカーズ・ムーブメントの現在」(前編) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.278 ☆

    2015-03-10 07:00  
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    Cerevo岩佐琢磨インタビュー「ものづくり2.0――DMM.make AKIBAとメーカーズ・ムーブメントの現在」(前編)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.3.10 vol.278
    http://wakusei2nd.com


    「グローバルニッチ」な製品を発信し、世界中から注目を浴びるハードウェアベンチャーCerevo。今回のメルマガでは代表の岩佐琢磨さんに、起業のきっかけとなった原体験や、ハードウェア・スタートアップの歴史、そしてDMM.make AKIBAの抱く野望についてインタビューしました。
     

    ▼プロフィール
    岩佐琢磨(いわさ・たくま)
    1978年生まれ、立命館大学大学院理工学研究科修了。2003年から松下電器産業(現パナソニック)株式会社にてネット接続型家電の商品企画に従事。2007年12月より、ネットワーク接続型家電の開発・販売を行なう株式会社Cerevo(セレボ)を立ち上げ、代表取締役に就任。世界初となるインターネットライブ配信機能付きデジタルカメラ『CEREVO CAM live!』や、既存のビデオカメラをライブ配信機能付きに変えてしまう配信機器『LiveShell』シリーズなどを販売。
     
    ◎聞き手・構成:稲葉ほたて
     
     
    ■ DMM.make AKIBAの"裏"仕掛け人?
     
    ――岩佐さんがここ(取材場所のDMM.make AKIBA)に入居したのは、どんな経緯からですか?
     
    岩佐 いや、そもそも僕と小笠原さんとDMMで、この施設を仕掛けたようなものです。だから、機材のほとんどは僕が選定していますし、「秋葉原につくろうよ」と言い出したのも僕です。そこに自分で入らなくてどうする、という感じですね(笑)。
     
    ――そんなに深く関わっていたとは、知りませんでした。ITのイメージが強い渋谷や六本木ではなくて、秋葉原を選んだ理由は何ですか?
     
    岩佐 まさに、渋谷や六本木が、既に特定の業種の人間が集まる街になっているからですよ。
     もちろん、産業が特定の場所に集まっていることは大事です。例えば、iPhoneアプリを作っている会社が2つ営業に来て、所在地が葛飾区と六本木だったら、なぜか後者の方が信用度が高いと判断されそうでしょう?。あくまでもイメージですが、そういう現実があるのも事実です。
     僕たちハードウェアベンチャーには、そういう聖地的な場所がなかったんです。だから、僕は2007年に起業したときから、ずっと「そういう場所をつくろうぜ」と言ってきました。自分たちが旗を振って、「ハードウェアベンチャーといえば、やっぱアキバだよね」と思われるようにしたいんですね。
     
    ――大田区や品川区ではなくて、秋葉原でなければならない理由はありましたか?
     
    岩佐 販売店が多くて、部品も買える。店舗間のネットワークもあるので、テストマーケティングがやりやすい。その意味で、もう秋葉原はいきなり最適解です。しかも、日本でハードウェアといえば、ずっと秋葉原のイメージだから、とても自然です。
     あと、ハードウェアの場合は、海外戦略が重要になるのも大きかったです。「どこからお前は来たんだ?」と聞かれたときに、秋葉原なら「ああ! 知ってるぞ!」となりやすい。Tokyoのゲームやアニメを売っている街に、日本の最先端のハードウェア屋が集まっていると思われたら、なんだか良いじゃないですか。
     


    ▲Cerevoのライブ配信機能搭載スイッチャー「LiveWedge」(上)。ビデオカメラやパソコンをつなぐことでテレビ番組のようなカメラ切替やエフェクトに加えライブ配信が可能。高度な専門機材ではなく、タブレット端末から操作できる(下)。
     
     
    ■ 「ファミコンなんて薄っぺらくて、面白くない」
     
    ――今日は、岩佐さんに日本のハードウェアベンチャーの歴史を聞きたくて来たんです。
     
    岩佐 了解です。どこにもまとまっていない話ですが、大きな流れは語れると思います。
     
    ――……なのですが、取材のために調べながら、ビジネス系のメディアでの岩佐さんの発言の端々から、相当にガチなオタクであるとわかったので、少しその話をしたいな、と(笑)。実は、自作PCやパソコンゲームをかなり嗜まれてますよね?
     
    岩佐 ええ、そうですね(苦笑)。大阪にいた頃は、ずっと日本橋に通ってました。
     
    ……確か高1のときだったかなあ。当時は、自作PCじゃないとゲームが出来ない時代だったんですね。まだWindows 3.1で、Intel386からIntel486に移行するくらいの頃だったと思いますね。その頃にDOS/Vにハマって、洋ゲーの世界に行ったんです。
     
    ――早くから、パソコンゲームはやり込まれていたんですか?
     
    岩佐 最初は小学生のときです。友人の家に父親のPCがあって、それで『大戦略Ⅲ’90』をやったらドはまりしたんです。でも、その友人とは違う中学に進むことになってしまい、もう彼の家には入り浸れない。これは困ったと思って(笑)、両親にねだって中古のPC-286C(EPSON製PC98互換機)、と「大戦略III’90」を購入してもらったんです。
      当時は膨大な知識量がモノを言うゲームが好きで、だから一番最初にハマったのも、フライトシムと戦略シミュレーションゲームでした。「大戦略」は数百種類の兵器の情報が全て頭に入っているかで、戦略の組み立て方が全く変わってくるんです。その流れで「工画堂スタジオ」や「マイクロプローズ」の作品にハマって……ああいう当時のソフトハウスとともに育った人間ですね。フライトシムも500ページの辞書みたいな取扱説明書を読んで、プレイしていました。
     
    ――結構、ヤバい中学生ですよね。
     
    岩佐 逆にコンシューマーゲーム機のゲームなんて、中学にいってからは全然やらなかったですからね。「あんなのは薄っぺらくて、面白くないな」と思っている子供でした。結局、初代PlayStation(以下、PS)も買わなかったです。それどころか、セガサターンもスーパーファミコンも買ってない。ファミコン以降でPS2より前のゲーム専用機はひとつも買ってないですよ。そのPS2もほぼ『GranTurismo』シリーズ専用機でしたし。まあ、自動車が好きなだけなんですけど(笑)。家庭用ゲーム機は、どうしても深みがない気がして、嫌いだったんですね。
     
     
    ■ Cerevoの原体験はゲーマー活動にあり?
     
    ――それだけパソコンゲームをやっていたとなると、やはりパソコン通信もやってましたか?
     
    岩佐 中学生の頃には草の根ネットに入りびたってました。親が寝てからこっそり電話からモデムへと回線を繋ぎ変えて(笑)。でも、これが現在のCerevoでの事業の原体験なんですよ。
     もう若い人には想像がつかないかもしれないけど、インターネットがなかった時代には、学校は「箱庭」だったんです。学校の小さなクラスが世界そのもので、そこに自分と同じものを好きな人がいなければ、もうおしまい。しかも、僕はすっかり軍事オタクになっていたので、「どこのミサイルのフィンの高さが何ミリだ」みたいな話をしていて毎日楽しいという、実にイカれた、ダメな中学生になっていた(笑)。
     ところが、ある日そこにパソコン通信って世界が現れて、ネットに繋いだら見たこともない世界が広がっていた。フライトシムが好きな中学生や大人のおっちゃんたちと繋がれて――ああ、やっぱり日本には1億人がいて、オトンもオカンも学校の連中もみんな知らないけど、学校に縛られないもっと広い世界があるんだ――そんなふうに思えたんです。いちクラスの中では誰もほしいと思ってくれない超ニッチな商品であっても、実は日本だけでも1万人や10万人、世界に目を向ければ50万人や100万人がいる。中学生の頃にマニアックな草の根BBSの世界を覗いてそれを肌で感じたことは、やはり僕の原体験として鮮烈に残っているし、現在もなおその記憶を引っ張り続けています。
     
    ――つまり、Cerevoの「グローバルニッチ戦略」の原点には、パソコン通信でのオタク体験があったと。
     
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