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記事 23件
  • Daily PLANETS 2021年7月第5週のハイライト

    2021-07-30 07:00  
    おはようございます、PLANETS編集部です。
    今朝は今週のDaily PLANETSで配信した4記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの配信の概要をご紹介します。
    なし崩し的に始まったオリンピックで世論は揺れていますが、PLANETSはこれまで通り粛々とコンテンツを作り続けています。じっくりとお楽しみいただければ幸いです。
    今週のハイライト
    7/26(月)【連載】(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第11回 私の改革の動機付け=やりたいこと(志事)を持つ

    (ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。働き方を変えるには、まずは自分が変わることが大切
  • 選ばれた者と選ばれなかった者を描いた『KATSU!』| 碇本学

    2021-07-29 07:00  
    550pt

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回から、21世紀に入ってから連載されたボクシング漫画『KATSU!』を取り上げます。過去のあだち作品でサブエピソード的に取り上げられることの多かったボクシングに、ついに真正面から取り組んだ本作。連載中に兄・あだち勉の逝去も重なった「死と隣り合わせのスポーツ」に、あだち充はどんな思いで臨んだのか?
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第19回 ① 選ばれた者と選ばれなかった者を描いた『KATSU!』
    歴代担当編集者からのバトンを受け取り、「少年漫画家」としてのあだち充を再生させた編集者・市原武法

    「僕ら団塊ジュニア世代は、人がいっぱいいた。部活をやっても試合に勝つどころか、レギュラーにすらなれない。99.9%の人間が負けてきた。そこに現れたのが上杉達也だった。それまでのヒーローは、持てる才能や能力で、できうることすべてをやる。でも達也は、プロに行きたいからでも、甲子園優勝したいからでもなく、死んでしまった和也が果たそうとしていた夢を叶えようと思っただけで、その夢を叶えたら平然と『もういいよ』と手放せる。その才能、能力で大切なものを守ればいい。新しいヒーロー像にしびれたんです」〔参考文献1〕

    1974年生まれの市原武法は中学一年生だった1986年に『タッチ』の最終回をリアルタイムで読んだ読者のひとりだった。あだち充作品の登場人物の中でも上杉達也は彼にとって特別であり、「人生における大切なことは、すべて上杉達也に教わったと言ってもいい」というほどに思い入れがある。 市原は記念受験として小学館の入社試験を受けた。志望動機は「あだち充が好きなので、会ってみたいんです」というもので、それを言い続けていたら、なぜか入社試験に受かってしまう。会社には言えなかったが「週刊少年サンデー」以外の配属なら辞めようと決めていた。1997年に小学館に入社することになった市原は「週刊少年サンデー」配属となった。
    『タッチ』の二代目担当編集者だった三上信一は、『タッチ』が始まった1981年に小学館に入社し、希望する配属部署を聞かれるたびに、「『週刊少年サンデー』です! それ以外なら辞めます!」と言っていた。実際に希望通り「少年サンデー」に配属されており、市原の話と通じる部分がある。『タッチ』担当中に「ビッグコミック」へ異動となり、再び「少年サンデー」に戻ってきた三上は連載中だった『虹色とうがらし』の最後の時期を担当し、そのまま新連載となる『H2』を立ち上げる。
    1970年生まれの小暮義隆が「少年サンデー」編集部に正式配属されたのは新連載『H2』が始まってすぐの夏のことだった。少年時代からあだち充作品を愛読していた木暮は編集長に「誰の担当をしたい?」と聞かれて、「あだち充!」と答えた。木暮のその願いは叶わず、すでに「少年サンデー」の宝だったあだちの担当にはすぐにはなれなかったが、『H2』のコミックスが20巻近くまで連載が進んでいた頃に三上から担当編集を引き継ぐかたちとなった。 木暮は『H2』とその次に連載した『いつも美空』も担当するが、次作ボクシング漫画『KATSU!』の連載開始前にボクシングのプロライセンスを持つ彼は異動になってしまう。このことはあだち充にとっても誤算だった。そして、連載が始まってすぐにかつて『陽あたり良好!』や『スローステップ』を担当していた都築伸一郎に変わって三上信一が「週刊少年サンデー」編集長に昇格することになった。
    市原が「週刊少年サンデー」に配属されて、あだち充の担当となったのは入社してから8年後のことだった。編集者として新人漫画家育成のエースとなっていた彼にベテラン作家を任すような状況ではなかった。市原はそんな中でもずっとあだち充の連載を必ず読んでいた。 少年時代からずっとあだち作品を読み続けていた彼は『KATSU!』の連載が始まってすぐに、ある異変に気付く。どんなに遊びの回であってもあだちは登場人物の感情を追っていたのだが、それがまったくない回があったのだ。 当時のあだちは兄の勉の体調が悪かったこともあってかモチベーションがうまく上がらない状況だった。そのことを知らない市原は「こんな漫画を描く人じゃない、このままでは廃業してしまう」と心配するほどだったという。 また、小学館社内でも「あだち充少年誌限界説」が流れていた。このままではあだち充が少年誌で描き続けることができなくなってしまうと危機感を覚えた市原は、早く自分を担当につけてほしいと思うようになっていた。
    そして、2004年の秋に編集長である三上に市原は急遽呼び出される。 三上は「あだち先生、まだ担当したいか?」と聞き、市原は「永久にしたいですよ」と答えた。入社してから市原がずっと夢に見ていたあだち充の担当編集者となることがその時決まった。その2週間後に三上は「週刊ヤングサンデー」に異動することになる。ほんとうにギリギリのタイミングであだち充をめぐる編集者のバトンが渡されたと言ってもいいだろう。三上はおそらく異動することがわかっており、あだち充の状況がかなり悪いこともわかっていた。だからこそ、入社してからずっとあだち充を担当したいと言い続けていた市原に最後の可能性を託したのではないだろうか。この判断は間違いなく英断であり、「少年漫画家」としてのあだち充を再生させることに繋がった。
    市原は自分がどれほどあだち充作品に影響を受け、担当したかったかという思いを一回目の打ち合わせの際に伝えた。そして、三度目が勝負だと思った市原は本題に切り込んだ。

    「少年漫画家として死んでほしい。もしも、先生の葬儀があったら、『青年誌で連載中のあだち充』と報じるニュースを見たくない。『少年誌で連載中の少年漫画家あだち充』と報じられてほしい。そのためには『KATSU!』を終了させ、新連載に切り替えたい。僕は、すぐにでもと思っていますが、あとどのくらい描けば終わらせられますか?」〔参考文献1〕

    市原は1年という返答を予想していたが、あだちは「4話で」と答えた。編集部に帰って、そのことを三上の次の編集長に伝えると、「連載をやめるという話は聞いてない」と大喧嘩になってしまう。最終的にはあだちはそこから14話描いてコミックスの16巻を発行できる分の連載を続けて『KATSU!』は終了した。 そして、あだち充が不本意な終わり方をした『KATSU!』の次にどんな新連載をするべきか、市原は悩んでいた。何度もシミュレーションをしてから打ち合わせに行くと、あだちは思っていた通り、「次は何描きゃいいんだよ?」と聞いていた。市原はあだちがきっとそう聞いてくるだろうとシミュレーションしていた。彼は用意していた殺し文句を言った。「逆『タッチ』を描いてほしんです」と言うと、数秒の沈黙のあとであだちが「面白いな。それで行こう」と言った。そして、始まったのが『クロスゲーム』だった。
    以前にも連載で紹介したあだち充のデビュー以降を第四期まで分けたものがある。下記に第三期と第四期を引用する。
    第三期は『H2』(1992〜1999年)、『じんべえ』(1992〜1997年)、『冒険少年』(1998〜2005年)、『いつも美空』(2000〜2001年)、『KATSU!』(2001〜2005年)、『クロスゲーム』(2005〜2010年)。連載誌が「少年サンデー」と「ビッグコミックオリジナル」の二紙であり、『クロスゲーム』が現状では最後の「少年サンデー」で連載した野球漫画となっている。
    第四期が『アイドルA』(2005〜現在まで不定期連載中)、『QあんどA』(2009〜2012年)、『MIX』(2012年〜現在まで連載中)。『アイドルA』は当初は「ヤングサンデー」連載だったが、休刊になり「ゲッサン」に連載場所を移動した。また、他の二作品も「ゲッサン」での連載作である。
    市原は第三期の後期からあだち充の担当編集者となった。また、彼は創刊企画者として『月刊少年サンデー』を立ち上がるために奔走し、実際に『ゲッサン』が創刊されることになった。その『ゲッサン』では「死んだ兄貴が幽霊になって帰ってくる話」である『QあんどA』の連載を立ち上げる。そして、『QあんどA』の連載が終了したあとに打ち合わせで『クロスゲーム』が始まった時のように、次の連載であだち充に描いてほしいと思っていることを伝えようと決めていた。 あだちが「次は何描きゃいいんだよ?」と言うと、市原は「明青学園を、もう一度甲子園に連れていってください」と南っぽく言った。そして、『ゲッサン』2012年6月号から『タッチ』の舞台となった明青学園を再び舞台にした『MIX』の連載が開始され、現在も連載は続いている。
    2015年の初夏、市原は編集長として「週刊少年サンデー」に戻るように異動を告げられる。編集長になった市原は「サンデーを大革命する」という所信表明を紙面で発表し、大きな注目を集めることになった。 市原が歴代のあだち充の担当編集者から受け取った「少年漫画」のバトンは、次世代の漫画家と編集者たちに引き継がれている。
    ヒーローはいかに誕生したか
    1年ほどの連載で終了した『いつも美空』の連載が終わった2001年5月末からわずか2ヶ月少しで始まった新連載が『KATSU!』だった。連載は同年の8月から2005年2月までの3年7ヶ月続くことになった。

     木暮がボクシング漫画をやって欲しいと思っていたことは知っていたし、僕も一度ちゃんとボクシング漫画を描きたいという気持ちはずっとありました。ボクシングと野球は、少年漫画の王道ですから、過去に、読切では何度も描いてるし、長編の中でもボクシングを描いたことはあったけど、中心に捉えて書いたことはまだなかった。〔参考文献1〕
    結果的には、これまでのボクシング漫画の中でも、変なものができたかもしれない。望んだかたちではないけど、結果として「あだち充のボクシング漫画」になりました。『あしたのジョー』まではいかなくとも、僕の漫画で真っ白な灰になっちゃ困るんだけど、もう少しいきたかったですね。そこまでいったら、自分でもどんな漫画になったのかわからない。それは見てみたかった気もします。「KATSU!」の絵は今でも気に入ってます。絵の調子の良い時だったから、あの絵をもう少し描きたかったという気持ちもありますね。〔参考文献1〕

    私が熱心にボクシングを見ていた時期のスター選手は鬼塚勝也と辰吉丈一郎が全盛期の時であり、いつも父親と一緒に興奮しながらテレビで見ていた。 『KATSU!』はあだち充の兄・勉が連載中に亡くなったりしたことで、生死が関わるボクシングを描くこと、そして学生ボクシングの先のプロを描こうとしていたが、それができなくなった作品だった。もちろん、そこは大事な部分なので外せないのだが、上記の引用のようにあだち充にとってボクシングは「少年漫画」の王道であり、彼が若い頃にはボクシングのタイトルマッチが多く行われていた。 ということを踏まえれば、あだちがボクシングを描いたのは彼が戦後の復興に生まれ育ったことも大きいはずだ。私の父は戦後すぐ生まれの現在74歳で、あだち充は70歳、兄のあだち勉は弟の三つ半上だから父と同学年である。
    戦後生まれの団塊の世代である彼らの成長と敗戦後の日本の復興は重なり、そこに野球とボクシングとプロレスというスポーツも時代と共に発展していき、彼らにとって身近で楽しんでいた娯楽だったのは間違いがない。 野球で言えばやはり王貞治と長嶋茂雄、ボクシングではファイティング原田や輪島功一など世界王者が誕生し、プロレスでは力道山とその弟子だったジャイアント馬場とアントニオ猪木たちが活躍していたのをリアルタイムで見ているはずだ。その団塊の世代である彼らが20歳前後になると「安保闘争」や学生運動が始まる。
    1970年代に革命は頓挫し、学生運動と共に「劇画」も終焉していく。「劇画」における三大ヒーローは『巨人の星』の星飛雄馬であり、『あしたのジョー』の矢吹丈であり、『タイガーマスク』の伊達直人だったが、彼らは物語において「象徴的な死」を迎えた。勝つために己の信念を曲げたり、試合に負けるが相手が死んでしまったり、子供を救うために車に轢かれたりしてしまう。 学生運動の敗北をトレースするように劇画のヒーローたちは表舞台から退場していった。そのことは『タッチ』を取り扱った際にも取り上げたが、上杉達也の双子の弟である上杉和也は星飛雄馬や矢吹丈や伊達直人の末裔だった。だからこそ、彼は最初から死ぬことを運命づけられていたと言える。
    上杉和也は70年代の劇画ヒーローたちの亡霊であり、メタファだった。そして、伊達直人同様に子供を助けることで自らは死んでしまった。最初から和也を殺すことだけはあだち充は決めていたというが、無意識に上記のことがあだちの頭の中にあったのではないか。 和也と彼らのバトンを受け取ったのが80年代的ヒーロー像となる兄・上杉達也だった。ここで「劇画」から「ラブコメ」へとバトンは渡され、達也と和也の双子と共に育ったヒロインの浅倉南は和也の死によって、物語では野球部マネージャーをクビにされ、新体操に打ち込むことになった。和也が亡くなるまでの南は70年代的「劇画」における見守るヒロイン像の要素が強かったが、和也の死と彼の意志を引き継いだ達也が本格的に野球を始めることで、自らも新体操に打ち込み自らも表舞台に立つことで、成長していく主体性を持ったヒロインへと進化していった。 『タッチ』とは70年代的な「劇画」の敗れ去っていったヒーローやヒロインたちから受け取ったバトンを引き継ぎ、新しい時代を生きていくヒーローとヒロインを描いた「ラブコメ」だった。
    達也は野球部に入部しようとした際に、先に南がマネージャーになってしまったために入部届を出せずにいたところを同級生の原田に強引にボクシング部に入部させられた。また、『スローステップ』では主人公の中里美夏に好意を寄せる3人の男たちはボクサーであり、美夏の父親はプロレスラーだった。あだち充作品には脇役などにちょこちょこプロレスラーや元プロレスラーのような人物も登場している。 戦後生まれのあだち充にとって「少年漫画」の王道であった野球を描くのもボクシングを描くのも違和感はなかった。それを見て育ったのだから。高校三年の夏過ぎまでの「青春の終わり」をずっと描いているあだち充からしてみれば、プロレスは部活動では描きにくいが、野球とボクシングは部活動としては描けるものであり、しっかりと描きたいテーマだった。

     次はボクシングにしようというのは、自分で決めました。長編連載で何を描くのかは、いつも任せてもらっていましたから。まぁ、見切り発車は毎度のことで、気楽に始めちゃいました。  僕が若い頃は、ボクシングのタイトルマッチがすごい視聴率を稼いでいた時代だったし、ボクシング漫画の名作も数多くありました。そういう漫画もだいたい読んでますが、意識してもしょうがない。スタイルがまったく違う漫画家なんで。 「タッチ」「スローステップ」などでボクシングを扱ってきましたが、それまでは漫画の中でボクシングをおちゃらけて扱ってました。でも本来、ボクシングは死と隣り合わせだし、選手はみんな人生を賭けているというとんでもない世界です。そういうところも逃げずに描いていこうと、連載当初は思ってました。ボクシングが持ってる暗さ重い部分を、自分なりに描いてみたかった。〔参考文献1〕
    連載の途中でうちの兄貴が癌になって、人の生き死にだとか、親子だとか、そういうテーマを描くのがえらく辛くなっちゃった。自分でも、段々中途半端になってきたのが分かったんで、描けないんだったら描かなくていいや、と開き直って終らせたんです。〔参考文献2〕

    あだち充がこれまでずっと描きたかったが描くことができなかった死と隣り合わせのスポーツであるボクシング。今回は逃げずに描こうと決めていた。その思いはかつての担当編集者だった武居や兄の勉、そして高橋留美子にも伝えるほどに彼は本気だった。しかし、あだち充の才能を一番最初に見抜き、漫画業界に引っ張り込んで、ある時点からはマネージャー兼アシスタントを務めた兄の勉の癌がわかり、彼は漫画で生と死に向き合うボクシングを描くことはできなくなっていく。 そんな時に三上の置き土産のように担当編集者となった市原がやってきたことで連載を畳むことを決めた。そのため、あだち充作品では初となっていたかもしれない「プロ編」は描かれることなく、物語は終わりを迎えることになった。そして、連載中だった2004年6月18日に兄の勉は胃癌のため死去した。
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  • 読書のつづき [二〇二一年二月]この自信がよく育つことを希望する|大見崇晴

    2021-07-28 07:00  
    550pt


    会社員生活のかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動する大見崇晴さんが、日々の読書からの随想をディープに綴っていく日記連載「読書のつづき」。二度目の緊急事態宣言中の二〇二一年二月。弛緩した与党政治家が深夜会食問題で離党させられたり愛知県知事リコール署名の偽造問題が取り沙汰されたりの茶番で、世への虚無感が募るなか、ステイホーム環境で進む読書。現在まで続く「群像創作合評」の敗戦直後の記録から、三島由紀夫の運命と戦後日本の転回を予見したかのようなアイロニカルな一節が発見されます。

    大見崇晴 読書のつづき[二〇二一年二月]この自信がよく育つことを希望する
    ニ月一日(月)
     二月になったという実感がない。だがもう一ヶ月が過ぎてしまった。今年はもうあと十一ヶ月しか残っていない。少しは効率的に生活を送れないものか。
    ブックオフで以下を買った。
    橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』
    岡義武『近代日本の政治家』
    遠山美都男・関幸彦・山本博文『人事の日本史』
     『人はなぜ「美しい」がわかるのか』は部屋の何処にしまったか忘れてしまったので、ついつい買ってしまった。これで何冊目であろう。 岡義武『近代日本の政治家』は思いもよらず犬養毅の章が面白い。戦後の教科書で描かれているような清廉な政党政治家ではなく、狷介で、策謀家で、決して首相を目指すタイプの政治家ではなかったことが縷縷綴られている。そうしてみると頭山満や杉山茂丸のような民族主義者やアジア主義者(要するに今日で言う右翼)と密な交流を持っていたことも察せられようというものだ。 侠客という言葉は平成も過ぎた現在では輝きを失った言葉だが、犬養毅がこうした有象無象の浪人を手元に集めたがったのも、もとは漢籍に馴染んで文筆で身を立てたことに発したと知ると妙な説得力がある。漢籍と言えば中国の書物で、中国の書物と言えば膨大な歴史書と儒学の註釈と漢詩である。歴史書といえば『史記』で儒学といえば四書五経なのだろうがどちらも春秋戦国時代についての書籍である。描かれた中国は神話の時代を脱したばかりのころである。周が滅して秦が中原を制し、その秦が早々に滅して漢となるまでの時代には食客三千人を抱えた孟嘗君、主君よりも忠臣たちのほうが才長けていながら彼らを率いて国を統一した太祖(劉邦)のような政治家が活躍した時代なのだから、文章を通じてとはいえ、西洋近代が輸入される以前に自己を育成した人間ならではの政治観があったのだろう。 『近代日本の政治家』の内容は今上上皇に対して講義された内容でもあるそうで、人物中心であり講談的ともいえ、スムーズに頭に入っていったのではなかろうか。どうなのだろう。
     TBSテレビの日曜劇場で放送している『キワドい2人』は、主人公たちの人格が入れ替わるという題材を用いた際の定番の表現をベタに繰り返しているそうで、その中には映画『転校生』そのままに転がり直してみるというものもあるらしく、「ドラマのTBS」に珍しいキワモノとして愉しまれているとのこと。思わぬ評判を呼んでいる。 自民党政治家がCOVID-19流行のさなか深夜まで銀座で会食を催していたことが問題になっている。以前にもキャバクラに通っていた公明党議員が職を辞したこともあって、三人の議員に対して二階幹事長が離党勧告をせざるを得なくなった。果たして三人が離党届を提出した。問題を起こした議員には「魔の三回生」の議員もいた。この政治家たちが近づいている衆議院選挙に立候補するか否かまでを見届けるべきなのだろう。 河村たかし名古屋市市長を旗振り役にした愛知県知事リコール運動だが、リコール署名の八割が偽造だったと明らかになったが、河村たかしは知らぬ存ぜぬどころか自身も被害者だと居直った。県の選挙管理委員会は刑事告発を視野に入れて調査をしているとのこと。署名を集めた団体代表は維新の会関係者であることも明らかになっており、どこまで司直の手が及ぶのかが報道の焦点になっている。
     調べ物。山田風太郎をもっと読まなければ。とはいえわたしは山田風太郎の忍法帖ものをそれほど愛好できない。いつか味読することができるのだろうか。明治物は愛好していて、『明治波濤歌』の榎本武揚などには魅了された。というか榎本武揚という人物は、やはり興をそそらられる存在なのである。幕臣にあって北海道に五稜郭という近代的な城郭に構えて独立国家然とした空間を治めたという人物像は、どこかユートピアに迷い込んでしまった侍を思わせるところがある。その実際のところはわからないが、創作の題材にふさわしいのは間違いないだろう。安部公房が彼をして小説と戯曲も著したことは、その証左だろう。
    ようやく手にLAMY2000が慣れてきた。
    ニ月ニ日(火)
     寒さのためか気圧が変動したためかわからないが、身体を動かすのが億劫だ。そのうち錆取りにラジオ体操でも始めるべきだろうか。
     ブックオフで以下の本を買う。
    バイアット『抱擁I』
    福田恆存『人間・この劇的なるもの』
    山本昭宏『戦後民主主義 現代日本を創った思想と文化』
    田中拓道『リベラルとは何か 17世紀の自由主義から現代日本まで』
     バイアットがマーガレット・ドラブルの妹と知った。
    ニ月三日(水)
     体調は悪くないはずだが、眠気がとれない。倦怠感を伴ったまま一日を過ごす。これといった本も見繕えず、収穫もなく帰宅する。食事と入浴を早々に済ませ「水曜日のダウンタウン」を見て眠る。TBSラジオ、ライムスター宇多丸の「アフター6ジャンクション」のバラク・オバマ特集(その文化人としての役割)は良かった。
    ニ月四日(木)
     昼食は日高屋。自棄になって豚骨ラーメン大盛りを食す。 「アウト×デラックス」で真木よう子の常識に欠けた友人(映画ライター)を見ていたら、久しぶりに大声をあげて笑っていた。何か底が抜けた人物であった。 森喜朗の女性差別発言への取材映像だが、記者のいなしかたも含めて堂に入っていた。しっかりした質問ができた記者もいたのだが、全体の水準が低く逃げ切られてしまいがちだった。森喜朗の価値観が現代にそぐわないのは確かに問題なのだが、それ以上に内閣(および総務省)が特定企業と法的に問題がある癒着を見せていることのほうが、わたしには問題と感じている。 菊地成孔がTwitterを始めたらしいが腕が錆びついており、読める文章になっていないと評判。 東芝が製造している全録ビデオデッキが五万円とのこと。買ってみようかとも思うが、そんなにテレビを見ることがあるのだろうかとも自分を疑う。配信での再放送を見ることが多いのではないか。 上野アメ横のマルイ商店でピナイダーの万年筆が求めやすい価格で売られているとの噂が立つ。週末に足を運びたいものだ。
     ミャンマーの軍事クーデター、なかなか鎮静化しない。
    ニ月五日(金)
     明日は通院の予定であるので、その足でアメ横のマルイ商店に向い、そのまま石岡瑛子展も見に行きたいが、そもそもまだ展示していただろうか。
    ニ月六日(土)
     通院のち散歩。盛林堂と音羽館、古書ワルツで買い物。そのあとマルイ商店でピナイダーの万年筆(ラ・グランデ・ベレッザ・タイガーアイ)を買い求める。ご店主としばし談笑。このあと石岡瑛子展に向ったが、彼女の創作物よりも当時の広告文化の方に関心が向いてしまった。彼女が自身の才能を活かしたきったのが北京五輪だったということを考えると、この才能はどこか全体主義的なものに欠かせぬ要素である「宣伝」と相性がよかったのではあるまいかなどと考える。
     以下は買い物の記録。盛林堂では以下を買った。
    『群像創作合評』一、二、三、八巻
    石子順造・梶井順・菊地浅次郎・権藤普『現代漫画論集』
     音羽館で以下を買った。
    福田和也・坪内祐三『暴論 これでいいのだ!』、『革命的飲酒主義宣言』、『無礼講』
    橋本治『無意味な年 無意味な思想』
    上田閑照『私とは何か』
    岡田暁生『オペラの運命』
    舟橋聖一『相撲記』
    中村光夫『二葉亭四迷伝』
     古書ワルツで以下を買った。
    橋本治『さらに、ああでもなくこうでもなく 1999/10-2001/1』
    ジャン・セルヴィエ『ユートピアの歴史』
    ゴットフリード・マルティン『ソクラテス』
    大久保典夫『転向と浪漫主義』
    篠田一士『ヨーロッパの批評言語』
     石岡瑛子展から帰る途中の清澄白河にある古書店で以下を買った。
    川村二郎『文藝時評』
    美濃部達吉『憲法講話』
     「群像」にいまも掲載されている「創作合評」だが、戦後間もないころから始まった企画とは知らなかった。読んでみると「戦後」という非常時が過ぎ去ったことを文学者たちが極めて早い時点で触知し、それを言語化していることに驚かされた。たとえば中島健蔵と高見順のやりとり。

    中島 健康というか、つまり、たとえば、前ならば、小説を書くことについての疑いが問題になった。たとえば中野君(重治)のように小説の書けない小説家が問題になった。高見君の言うように、自分自身がどうにもこうにもおさまりがつかないという形が、そのまま小説のスタイルになったと思う。ところが、今のはどうも違うと思う。簡単にいうと、つまり、本気で小説を書きながら、結果として小手先の仕事になってしまうような気がするんだ。(『群像創作合評』一巻、p.101)

     中島健蔵の発言は戦時下という非常時が終わり、文学者にとって苦悩の題材がなくなってしまったことが、作品の衰弱に繋がっているのではないかという疑いである。この発言を承けて作家の高見順が口にすることも面白い。

    だから、そういう意味じゃあなたの言っているように前のもとは違うということが言えるね。もとの一種の混乱は、混乱しながらも、しかし、救済を求めつつの混乱だった。混乱の肯定でなくて、混乱は否定せねばならぬという憎しみなり、怒りなりがあって、そのうしろにはやはり理想の人生、あるべき人間に対する肯定的な愛情があった。そして、それが裏切られての苦悩があったわけでしょう。ところが今の作品には、そういう大いなる苦悩というようなものがいい作品ほどないような気がして、そこがわからなかった。(『群像創作合評』一巻、p.101)

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  • パキスタン人が活躍するインド洋のインフォーマルマーケット|佐藤翔

    2021-07-27 07:00  
    550pt

    国際コンサルタントの佐藤翔さんによる連載「インフォーマルマーケットから見る世界──七つの海をこえる非正規市場たち」。新興国や周縁国に暮らす人々の経済活動を支える場である非正規市場(インフォーマルマーケット)の実態を地域ごとにリポートしながら、グローバル資本主義のもうひとつの姿を浮き彫りにしていきます。今回は、アフリカ大陸からユーラシアにかけて、インド洋に面した国々を巡ります。大西洋ではレバノン人たちのネットワークが存在感を発揮していたのに対して、インド洋沿岸はパキスタン人の国際的な活躍がめざましい地域。アフリカ屈指の大国・南アフリカから、ケニアなどの東アフリカ諸国、さらに湾岸アラブからインド周辺まで、低所得者層が多いがゆえに大きく発展を遂げた各地のインフォーマルマーケットの多彩な実像に迫ります。
    佐藤翔 インフォーマルマーケットから見る世界──七つの海をこえる非正規市場たち第7回 パキスタン人が活躍するインド洋のインフォーマルマーケット
    インド洋で活躍するパキスタン人ネットワーク
     大西洋ではレバノン人のネットワークが重要な役割を果たしていたように、インド洋でもインフォーマルマーケットにおける重要なプレイヤーがいます。それはパキスタン人です。パキスタンという国は、国際社会においては核開発やテロリストの潜伏など、残念ながら、あまりポジティブなイメージを持たれてはいません。その一方で、パキスタン人はインド洋の国際貿易においては大きな活躍を見せています。
     かつてインドやパキスタン、バングラデシュを含む地域がイギリスの植民地であった時代、インド人やパキスタン人のような南アジアの人々は労働者や兵士として、南アフリカやケニアといったイギリスの他の植民地や中東諸国のような場所に移住していきました。戦前はペルシア湾湾岸諸国の貿易決済はルピーで行われていましたし、第一次世界大戦では多くのインド兵がイラクで戦いました。ネパールのグルカ兵は世界の様々な地域で活躍しています。また、アフリカのウガンダ鉄道はインド人の労働者が多数建設に携わったことで知られています。
     インド料理やインドの労働者由来の歌といったものは、インド洋各地で今でもしばしば見かけることがあります。また、インド建国の父であるガンジーは南アフリカで弁護士として働いていたとき、列車で受けた差別が後の社会改革運動の原体験となったと言われています。インドがパキスタンと別個に独立し、多くの国々がイギリスから独立を果たした後も、パキスタン人を中心に南アジアの人々はインド洋における商業ネットワークを発達させてきました。インド三大財閥の一つであるリライアンス財閥の創業者、ディルバイ・アンバニ氏は、若いころはイエメンのアデンで働いていたことで知られていますし、中東諸国には、パキスタン人やインド人が多数出稼ぎに行っています。
    ▲Relianceのスーパーマーケット、Reliance Smart。
     大西洋においてレバノン人が中国人と協力してビジネスを行っているように、インド洋のインフォーマルマーケットにおいても、パキスタン人と中国人が協力して事業を実施しているケースが目につきます。例えば、下図にあるのは南アフリカでも有名なIT系商品の卸市場です。
    ▲南アフリカ、ヨハネスブルグ郊外のIT商城。奥に中国語で「東方商城」と書かれている。
     このマーケットはヨハネスブルグの近郊にあり、スマートフォンなどが中国から湾岸諸国などを通って運ばれてくる場所です。現地で聞き込みをすると分かるのが、このショッピングモールのオーナーは中国人ですが、店主になっているのはパキスタン人が多いのです。つまり中国人とパキスタン人が協力して南アフリカで中国製のIT商品販売を行っているわけですね。国単位でも、パキスタンと中国は長い友好関係にあることが知られていますが、人単位でも、彼らはビジネスパートナーとしてインド洋で活動しているのです。
    ▲東方商城の中のDVDショップ。
     パキスタン人のビジネスとして有名なのが日本の中古車貿易です。日本の中古車貿易事業者のうち、オーナーの半分程度はパキスタン人であると言われているほどで、大きな売上高を出している企業もいくつかあります。自動車産業は自動車部品やゴム製品など、経済波及効果が大きいため、国の輸出入政策の影響を受けやすいビジネスです。パキスタン人はインド洋を中心に、世界中にコミュニティがあるため、そのコミュニティの持つ情報ネットワークを生かして、各国の自動車の流行だけではなく、中古車貿易に関する規制やクオータ(輸入制限)に関する情報を入手し、日本車の世界における販売で重要な役割を果たしてきたのです。
     インド洋の国々はどれも取り上げると面白い話が多くきりがないのですが、今回は南アフリカ、東アフリカ、アラブ諸国、南アジアの話と時計回りにインド洋周辺の地域を見ていき、それぞれの地域でインフォーマルマーケットにまつわる興味深いトピックについて取り上げていきます。
    民族間の対立構造が治安の悪さのイメージを生む南アフリカ
     南アフリカは、西アフリカのナイジェリアと並ぶアフリカ有数の経済大国です。ダイヤモンドや金などの産出で知られるほか、ベンツのような自動車の生産をはじめとして製造業もかなり発達しており、G20に加盟する国の一つでもあります。しかし、日本人の南アフリカに対するイメージは、そうした経済的な繁栄や成長より、「危ない」というものではないでしょうか。実際、ヨハネスブルクの住宅街を歩くと、頑丈な壁や鉄格子とともに、“Armed Response”(許可なく立ち入る場合は、武器で応じる)という物騒な注意書きの書かれたサインボードが目につきます。また、現地に駐在する日本人の家族が強盗に入られた、というケースも報告されており、日本と同じ感覚では歩けないのは間違いのない事実ですし、危険な事件が発生した場所もいくつかあります。
    ▲ヨハネスブルグの住宅街にある、警備会社による注意書き。
     私がヨハネスブルグのセントラル・ビジネス・ディストリクトの近くにある、DVD Highwayという、海賊版コンテンツが多数売られているインフォーマルマーケットへ訪問する予定だと現地人に話したときは、「絶対に行くな、お前のような中国人(私は日本人ですが)が行くと命の危険があるぞ」などと、強い警告を受けました。しかし、実際現地に行ってみると、目抜き通りにはパトカーが複数並んでいて、警察官がパトロールをしており(しかも賄賂を要求してこない!)、やや騒々しい場所ではあるものの、危害を加えられそうな場面や危険な状況に遭遇することは特にありませんでした。ここではハリウッド映画やボリウッド映画、以前取り上げたナイジェリアのノリウッド映画などのDVDがむき出しで売られていました。
    ▲ヨハネスブルグのダウンタウン。
     現地調査に協力をしてもらったジンバブエ人によると、この地域のインフォーマルマーケットで働いているのはジンバブエ人やモザンビーク人といった海外の労働者が多いため、南アフリカの主要民族であるハウサ人やズールー人からは、こうした海外からの労働者が商売をしているマーケットが嫌われている、とのことでした。どうも、ヨハネスブルグの危険なイメージの出元は日本人というよりも、海外労働者、特に不法移民の脅威を誇張したがる現地のハウサ系やズールー系の人々の吹聴によるところが大きいようです。
    ▲DVD Highwayの様子。ハリウッド映画やアフリカ映画など、様々な映画のDVDがむき出しで売られていた。
     こうしたアフリカ系民族間の分断の象徴になっているのがポンテタワーというタワーマンションです。このマンションはかつて、麻薬取引などが行われる治安の悪いビルとして知られ、今でも危険な場所という扱いを受けています。しかし、私が行った際には、普通に中まで入ることができて、特に危険を感じることはありませんでした。最近ではポンテタワーの住民に対する誤解を解くためのタワー内ツアーのようなものが組まれるようになっています。
    ▲ポンテタワーを下から見た様子。
    ▲ポンテタワー内部の共有スペース。アーケードゲーム機がいくつか置かれていた。
    インフォーマルマーケットの中の秩序を目指すトイ・マーケット
     東アフリカには、ナイジェリア、南アフリカのような経済大国はありません。強いて言えば、ケニア、タンザニア、エチオピアという三つの国が人口面で地域大国と言えるかもしれませんが、経済規模ではいずれもナイジェリアや南アフリカに劣ります。こうした地域ではインフォーマルマーケットの役割がとても大きく、公的機関もインフォーマルマーケットの存在を認め、商人との長年の関係の中で独自のローカルルールを生み出していることがあります。私は東アフリカでは、エチオピアのメルカト、ケニアのトイ・マーケットなどに訪問しましたが、今回はケニアのトイ・マーケットとそこに隣接するキベラ・スラムの話をしたいと思います。
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  • 私の改革の動機付け=やりたいこと(志事)を持つ ──(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革 第11回〈リニューアル配信〉

    2021-07-26 07:00  
    550pt

    (ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。働き方を変えるには、まずは自分が変わることが大切だと分析してきました。今回は自分を変えるための習慣づくりと、それを行うための動機づけについて考察します。
    (意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第11回 私の改革の動機付け=やりたいこと(志事)を持つ
    あらすじ
     私の働き方改革を実践する「働き方イノベーター」になるには、3つの行動特性(キャラクター)を身につけること、つまり「私の改革」が必要です。 その第一歩として私がまず提唱したいのは、自分が時間を注ぎたいこと(志事)を明確に抱くというものです。 今回は、その必要性や事例についてご紹介したいと思います。
    私の改革は「習慣」づくり
     前回までは、それまでの組織的な働き方改革推進を成功させる上での最後のピースとして「一人ひとりの性質」に着目しました。また、その性質(私の働き方改革の実践者としての行動特性)を3つのキャラクターで表現し、それらは誰もが今からでも身につけることができると解説しました。 そうした自分の行動特性の改革、すなわち「私の改革」が実現できれば、会社が整えてくれた型・場・技づくりの仕組みを活かし、もしくは会社の制度や環境をうまくハッキングして、自らのやる事・やり方・やる力をアップデートする「働き方イノベーター」として一歩を踏み出すことができるようになります。 この「私の改革」は、やろうと思えばすぐに変えることができる「やる事・やり方・やる力の見直し」による働き方改革の後押しとは異なり、一朝一夕では実現できません。 「私の改革」とは、ある意味ダイエットと同じです。ある程度の期間をかけて、特定の「習慣」を持つ(もしくは特定の習慣をやめる)ことが必要です。 例えば、間食という習慣を改めて毎食時に野菜から摂取するルーチンを定着させるように。毎朝軽く運動をする習慣を「当たり前」になるまで繰り返していくように。自分の人生のこれまでになかった、もしくは明確に意識して繰り返し実践してこなかった行動を実践し、習慣として定着させることが必要になります。 そうすることで徐々にですが確実に「私の改革」を進めることができると考えています。
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  • Daily PLANETS 2021年7月第4週のハイライト

    2021-07-23 07:00  
    おはようございます、PLANETS編集部です。
    今朝は今週のDaily PLANETSで配信した4記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの配信の概要をご紹介します。
    梅雨も明け、いよいよ夏本番の厳しい暑さが続いています。お身体に気をつけながら、PLANETSのコンテンツをお楽しみいただければ幸いです。
    今週のハイライト
    7/19(月)【連載】(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第10回  働き方改革者の性質(キャラクター)とは

    (ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。今回はリスクテイクの精神や、複数のコミュニティを横断することを参考にしながら、
  • シリアスレジャーとはなにか? ──「好きを仕事に」しない道をつくる|趣味研究者・杉山昂平

    2021-07-22 07:00  
    550pt

    「好きを仕事に」。こんな言葉を見かけることも、だいぶ増えましたよね。YouTubeやSNSなど、「好きなこと」を発信し、お金に変えていくためのプラットフォームもたくさんあります。しかし、本当に「仕事に」するだけが正解なのでしょうか? あえて仕事にせず、「趣味」として真剣に取り組む道だってあるはずです。休息や気晴らしではなく、自分のやりたいことを実現するために行われる趣味である「シリアスレジャー」について、余暇研究と学習科学の学際的な立場から趣味を研究している杉山昂平さんに寄稿してもらいました。趣味としてやっていく選択肢の意味から、楽しみ方の学習や学習環境デザインの必要性まで、シリアスレジャーの現在地と可能性に迫ります。
    シリアスレジャーとはなにか? ──「好きを仕事に」しない道をつくる|趣味研究者・杉山昂平
     私は余暇研究と学習科学の学際的な立場から趣味を研究している。余暇研究と学習科学、どちらの分野も読者の方にはあまり馴染みがないかもしれない。まして両者を越境して「趣味」を研究するとなると、一見したところでは何をするのか想像がつかないだろう。
     本稿では、そのような趣味研究とは何を考える試みであるのか、試論的に紹介したい。余暇研究と学習科学の考え方は、趣味のいかなる側面に光を当てるのか。それによって、趣味に関するいかなる問いが引き出されるのか。これらを論じることで、なぜ私は趣味研究が面白く、また必要だと考えているのか、その一端をお伝えできればと思う。
     その際に鍵となるのが、余暇研究における「シリアスレジャー」という概念である。私が「趣味」と言うとき、それは「シリアスレジャーとしての趣味」を指している。今年の4月に宮入恭平氏と出版した書籍『「趣味に生きる」の文化論──シリアスレジャーから考える』(ナカニシヤ出版)でも、副題としてこの言葉を用いた。まずはシリアスレジャーの意味内容を紹介し、そこから論点を敷衍していこう。
    シリアスレジャーとは何か
     シリアスレジャーは、趣味の「趣味らしさ」が一体どこにあるのかを教えてくれる概念である。
     もともと、カナダの余暇研究者ロバート・ステビンスが1982年の論文“Serious Leisure: A Conceptual Statement”において提唱した。アマチュアや趣味人(ホビイスト)、ボランティアといった人々の活動を表すための概念である。これらの活動は余暇に行われるが、労働のためのエネルギーを回復・再創造(re-creation = レクリエーション)するための休息や気晴らしではない。むしろ、自分のやりたいことを実現するために行われる活動である。そのような特徴を、ステビンスは「シリアス」(真剣な)という形容詞で表現し、休息や気晴らしとして行われる「カジュアル」な余暇活動と対比させた。
     ステビンスは『Serious Leisure: A Perspective for Our Time』(2015年、Routledge)において、シリアスレジャーを次のように定義している。「アマチュア、趣味人、ボランティアの中核的な活動を体系的に追求すること。彼・彼女らにとって、その活動はたいへん重要で、面白く、充実したものだと感じられる。そのため、典型的な場合では、専門的なスキル、知識、経験の組み合わせを習得し、発揮することを中心としたレジャーキャリアを歩み始める」。ここから、シリアスレジャーとしての趣味は「余暇活動としての継続性」と「専門的な楽しみ方の実践」という2つの特徴によって、カジュアルレジャーから区別されることが分かる。ここに趣味らしさの源泉がある。
     例えば、ぼーっとテレビを見ることと、趣味で漫画を描くことを比べてみよう。両者はともに余暇活動であるが、使われる知識やスキルの点では対照的である。ぼーっとテレビを見ることは、テレビの付け方さえ知っていれば誰にでもできる。後はその前に座っているだけでよい。それに対し、漫画を描くことは誰にでもできるものではない。私のように絵の描き方もストーリーのつくり方も知らない未経験者にとって、漫画は「描けない」ものである。未経験者に比べれば、趣味の漫画家はプロでなくとも「専門的」と言える。
     そのような専門的な楽しみ方は、一朝一夕でできるものではない。活動を続け、経歴(レジャーキャリア)を積み、漫画を読み描きする経験を蓄積するなかで、趣味としての漫画活動は形づくられてく。趣味がこのような特徴をもつことは、日常的な直観にも合うのではないだろうか。
     確かに、ぼーっとテレビを見ることも、私たちは人生の中で何度も行っている。だが、何度も見たからこそのテレビの見方をしているわけではない。ぼーっとテレビを見ることには、反復性はあっても継続性はないのである(逆に、何度も見たからこそ可能になるテレビの見方・楽しみ方をしていたとしたら、それは趣味になっている。ドラマの視聴などではそのようなケースもあるだろう)。
     これらの特徴は、ある余暇活動が、あらかじめシリアスレジャーかカジュアルレジャーに区別されるのではないことも示している。確かに漫画を描くことのように、スキルがなければ実践しようがないため、シリアスレジャーとして行う他ない活動もある(そのような活動は参入障壁が高いと感じられるだろう)。その一方で、テレビや映画を見ることのように、カジュアルにもシリアスにも行いうる活動も存在する。その場合、趣味として映画を観る人もいれば、気晴らしとして映画を観る人もいることになる。シネフィルと呼ばれる映画通と普通の観客の違いである。シリアスレジャーとしての趣味は、活動のジャンルを表すのではなく、活動への「取り組み方」を表すのである。
     なお、ステビンスは「プロが存在する分野」のシリアスレジャー実践者を「アマチュア」、「プロが存在しない分野」のシリアスレジャー実践者を「趣味人」(ホビイスト)と区別している。それに従うと、野球の世界にはプロがいるので、草野球を楽しむのはアマチュアとなる。一方で、切手収集の世界にはプロがいないので、切手収集を楽しむのは趣味人ということになる。私はこの区別の必要性を今のところ感じていないので、プロがいようがいなかろうが、シリアスレジャーの実践者を全て「趣味人」と呼んでいる。だが、eスポーツのようにプロが誕生しつつある分野の動態を捉えるには、アマチュアと趣味人の区別も役に立つかもしれない。
    趣味としてやっていく選択肢
     シリアスレジャーという概念を手にすると、「ある活動を趣味としてやっていくこと」を人生の一つの選択肢として積極的に位置づけられるようになる。
     活動を趣味として取り組むのは、考えようによっては、何の変哲もないことのようにも思える。だが、これまで見てきたように、趣味は余暇活動のなかでも、継続性と専門性を帯びた独特な取り組み方なのであった。それゆえ、趣味の実践には、活動をカジュアルにではなく「趣味として」やっていく選択が常に含まれている。もちろん、その選択は暗黙のうちになされることもあるだろう。だが、少なくとも、活動を趣味としてやっていく時点で、その人は自らの興味関心に従って、一つのライフスタイルを選び取ったのだと考えられる。
     また、趣味としてやっていくという選択は、活動をカジュアルなものに留めない選択であるのと同時に、仕事にしないという選択でもある。それは必ずしも消極的な選択とは限らない。もちろん、プロになれなかったから、稼げていないから、活動が「趣味にしかならない」場合もある(『「趣味に生きる」の文化論』第9章ではそのような事例として地下アイドルが論じられている)。だが、多くの趣味人は、プロとして稼ぐことをそもそも念頭に置いていないのではないだろうか。仕事にできないから趣味としてやっているというより、仕事にせず趣味としてやっているのである。
     例えば、私の場合、大学のサークルに入ってから10年間フラメンコを踊ってきた。10年間続けてきたのはフラメンコで食べていくことを目指してではない。趣味としてフラメンコの面白さを味わい続けるためである。時には「プロを目指さないの?」と聞かれることもあった。だが、そのたびに「プロを目指さないといけないの?」と聞き返したくなった。フラメンコは好きだが、仕事は仕事で別のことをやりたいのである。
     このような「ある活動を趣味としてやっていく」という選択肢の意味は、YouTuber全盛の現代社会だからこそ、改めて捉え直す価値があるだろう。ゲームからアウトドアまで、今や様々な分野にYouTuberがいる。彼・彼女らは動画を通して活動の魅力や面白さを伝える一方で、「好きなことで、生きていく」という価値観を体現している。ここでの「生きていく」とは、「好きなことを生涯にわたって楽しんでいく」という意味ではない。好きなことを収益化し、好きなことを仕事にする、という意味である。「プロを目指さないの?」という質問の派生形として、現代では「どうせならYouTubeもやらないの?」という問いかけがある。
     そのように問われて、実際にYouTuberを目指すのか目指さないのかは本人次第である。だが、少なくとも、YouTuberを目指さないからと言って、その人が何かから逃げていると考えるのはお門違いだろう。あくまで、好きなことを趣味としてやっていく道を選んだのである。実際、収益化を目指すのは活動に対する大きな制約となる。自分の楽しさと視聴者の需要を天秤にかけることにもなるだろう。それに比べれば、仕事で稼いだお金を使って自分の好きなように趣味を楽しむ方が、好きなことで生きていると言えるかもしれないのだ。
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  • 女性、イギリス、ホワイトカラー──野球というスポーツの起源|中野慧

    2021-07-21 07:00  
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    本日お届けするのは、ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の‌第‌11回‌「女性、イギリス、ホワイトカラー──野球というスポーツの起源」。アメリカから輸入されたものであるにもかかわらず、しばしば保守的なイメージを喚起させる日本野球の起源はどのようなものなのでしょうか。スポーツをめぐる人類史の概略と近代の欧米諸国民のライフスタイルから、「ベースボール以前」のベースボールを振り返ります。※アイキャッチ画像は、2019年6月、イギリスの首都ロンドンにあるロンドン・スタジアムでニューヨーク・ヤンキースとボストン・レッドソックスのMLB公式戦が開催された際のもの。アメリカ合衆国空軍がパブリック・ドメインで公開している(出典)。
    中野慧 文化系のための野球入門第11回 女性、イギリス、ホワイトカラー──野球というスポーツの起源
     前回までは、日本における高校野球の文化性について書いてきた。現代日本における野球の文化的位置は、これまでの人々の意識や社会の構造にかなり規定されている、というのが暫定的な結論であるが、では日本の野球文化はどのようにして構築されてきたのだろうか。  ここからは〈歴史編〉と題して、さまざまな要素と絡めながら野球史を批評的に記述していきたい。なお本連載ではこれまで「です・ます調」で執筆してきたが、批評的な叙述と馴染みにくいということを考慮し、編集部と相談の上、「だ・である調」に変更することとした。
    「旧日本軍」「武士」と結び付けられる日本野球
     高校野球について考えてきて改めて気付くことだが、日本の野球はなぜか「旧日本軍」や「武士」のイメージと結びつけられがちではないだろうか。  たとえば表層的な面だけとっても、高校球児たちがみな坊主頭にしていたり、甲子園の開会式で一糸乱れぬ軍隊式の行進をしていたり、終戦の日の正午に戦没者に黙祷を捧げていたり、9回2アウトで負けている側のチームの打者が内野ゴロを放ったら必ず一塁ベースにヘッドスライディングで「特攻」して「玉砕」する、という風習が堅持されていたり……などなど、見るものに何やら軍国主義的な印象を与える行動様式を維持している。こうしたことが「前近代的な非合理性の象徴」として、21世紀のネット空間では批判の槍玉に挙げられることが多い。  また、学生野球の練習着は、なぜかシャツとズボン、帽子ともに無地の白のものを着るというのがスタンダードになっている。これは柔道や空手の道着を想起させるデザインである。さらにいえば、野球日本代表の愛称は「侍ジャパン」であり、ユニフォームも武士の甲冑をイメージさせるものが採用されている。日本野球にはなぜか、このように復古的・保守的な要素が埋め込まれている。言い換えれば、それはある種の「右翼性」と言ってもいいものだろう。  なお「右翼」という言葉自体は非常に多義的である。もともとはフランス革命で議会ができた際に、比較的穏健な主張をしていた人々が議会の右側に陣取り、逆に急進的な主張を持つ人々が左側に陣取っていたことに端を発する。このふたつの言葉の定義を、評論家・浅羽通明の著書『右翼と左翼』から引いてみよう。

     「左」「左翼」は、人間は本来「自由」「平等」で「人権」があるという理性、知性で考えついた理念を、まだ知らない人にも広め(「啓蒙」)、世に実現しようと志します。これらの理念は、「国際的」で「普遍的」であって、その実現が人類の「進歩」であると考えられるからです。  ですから、現実に支配や抑圧、上下の身分、差別といった、「自由」と「平等」に反する制度があったら、それを批判し改革するのが「左、左翼」と自任する人の使命となります。ゆえに多くの場合、「改革派」「革命派」なのです。 (中略)  対するに「右」「右翼」は、「伝統」や「人間の感情、情緒」を重視します。「知性」や「理性」がさかしらにも生み出した「自由」「平等」「人権」では人は割り切れないと考えます(「反合理主義」「反知性主義」「反啓蒙主義」)。  ゆえに、たとえそれらに何ら合理性が認められないとしても、「長い間定着してきた世の中の仕組み(「秩序」)である以上は、多少の弊害があっても簡単に変えられないし、変えるべきでもない」と結論します。  こうした「伝統」的な世の中の仕組みには、近代以前に起源を有する王制、天皇制、身分制などが含まれ、それらは大方、「階層的秩序」「絶対的権威」を含んでいます。  「右、右翼」と称する人は、それら威厳に満ちた歴史あるものを貴く思って憧れる「伝統的感情」を重んじ(「歴史主義」「ロマン主義」)、そんなものは人権無視で抑圧的で差別の温床だなどとさかしら(「知性的」「合理的」「啓蒙的」)に批判する左翼らが企てる「革命」「改革」から、それらを「保守」しようと志します。(浅羽通明『右翼と左翼』幻冬舎新書より)

     この浅羽の定義に倣うならば、いわば右翼とは「歴史あるコミュニティに貢献し、昔ながらの伝統を守ることを重視する態度」だといえる。これは野球に関わる守旧派と一般的には目されている高野連や、昔ながらの体罰や罵声を伴う指導や文化を維持しようとする人々の行動様式とも重なっている。
     しかし、よく考えてみるとこれは奇妙なことである。というのも、もともと野球は、アメリカ由来のものであるはずだからだ。その「輸入された」ものに、なぜ「武士」や「旧日本軍」といった右翼的イメージが重ねられるのだろう。  多少は野球の歴史に詳しい人であればすぐに気付くことだが、戦前、特に日中戦争〜太平洋戦争の期間、野球は政府・軍部によって「敵性スポーツだ」ということで迫害されていた。「ストライク」が外来語だということで「ヨシ一本」などと言い換えさせられていたのだ。  それがなぜか、戦後から現在に至るなかで高校野球を中心とするアマチュア野球は「日本軍的」なイメージ、さらには日本古来の伝統的な価値観である「武士」のイメージを背負わされるようになった。たとえば戦前の軍国主義日本に肯定的な価値を認めている靖国神社の戦争博物館「遊就館」には、戦争で亡くなった「英霊」たちの名簿のすぐそばに「戦没野球人」たちの特別コーナーが設けられている。戦前の野球人たちは軍部から迫害され、徴兵された先の軍隊でも「敵性スポーツをやっているから」という理由でいじめにすら遭っていた人たちであるにもかかわらず、である。そう、野球という「アメリカ」的なものが、戦後の長い時間をかけていつの間にか「日本軍的」「武士的」なものに鋳直されてしまっているのである。  さらにいえば、アマチュア野球がそうした復古的な性格を持った一方で、なぜかプロ野球のほうには「自由」の文化性が宿っている。野茂英雄やイチローのような個性的なフォームの選手が活躍し、長嶋茂雄や新庄剛志のような奔放な選手が「スター」になりえた。投手・打者双方で高いレベルのパフォーマンスを発揮する大谷翔平の「二刀流」というプレースタイルも、日本プロ野球では許容された。「日本の野球」と一口に言っても、大きくこの二通りの文化性が生きているのである。  そこで、ここからは、スポーツの歴史、野球の歴史を追いながら、なぜ今の日本野球がこのような文化性を宿しているのかを、現代の事象とも照らし合わせながら考えていきたい。
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  • 西武新宿駅から歌舞伎町一丁目、花道通り、歌舞伎町二丁目まで|白土晴一

    2021-07-20 07:00  
    550pt

    リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回は眠らない街・新宿歌舞伎町を歩きます。関東大震災後と戦後の2度の復興計画を契機に生まれ変わり、日本を代表する歓楽街として発展を遂げてきた歌舞伎町は、コロナ禍を経て現在どんな素顔を見せているのか。白土さんがそのカオスな魅力に迫ります。※「東京そぞろ歩き」の第1回~第3回はPLANETSのWebマガジン「遅いインターネット」にて公開されています。今月よりメールマガジンでの先行配信がスタートしました。
    白土晴一 東京そぞろ歩き第4回 西武新宿駅から歌舞伎町一丁目、花道通り、歌舞伎町二丁目まで
     上京する前、地方都市に住む私の東京の新宿に対するイメージは、大沢在昌の小説『新宿鮫』の舞台であり、漫画『シティーハンター』の冴羽獠が住む街、そして何より菊池秀行の小説『魔界都市〈新宿〉』の怪人と暴力が蔓延る場所であった。  かなり偏ったイメージであったことは否めない。  しかし、お隣の中野区に住んでから数十年も経つと、新宿は一番近い繁華街なので、ちょっとした買い物や食事で気軽に出かける。 目的もなく暇潰しで新宿をフラつくこともある。  そうなると新宿は日常の一部になって、あんまり特別な場所とは感じなくなってしまった。  ただ、日本一の歓楽街と言われる新宿の歌舞伎町を歩く時だけは、少しだけ魔界都市を感じることがある。  私が上京したての1990年代よりよほど安全になったのだが、それでも夕方になれば開店前のホストクラブの前に女性たちが集まり、夜になればキャバクラやガールズバーに誘うスカウトが現れ、深夜になれば泥酔するサラリーマンが転がっている。  そういう風景を見ると、「おお、魔界都市はまだ生きているな!」とちょっと嬉しくなってしまう。  たぶん、10代の頃に小説や漫画で魔界都市新宿のイメージを膨らませていた自分が懐かしくなっているのかもしれない。
     新宿は江戸時代の頃は内藤新宿と呼ばれる甲州街道の宿場町であったが、幕府の度重なる規制にも関わらず、飯盛女や茶屋女が多数いる事実上の岡場所として栄え、昔からの歓楽街であった。
     新宿歴史博物館にはこの内藤新宿時代の模型が展示されている。
    ▲新宿歴史博物館(著者撮影)
     この模型を見ると、街道沿いに宿屋や茶屋が並んでいたのがわかるだろう。  しかし、宿場町があった場所は現在の甲州街道沿いであり、現在の歓楽街である歌舞伎町などが面する靖国通り付近は、畑や雑木林、湿地帯と田んぼなどの住居もまばらな閑散とした土地であったらしい。  新宿が今のような繁華街になっていくキッカケは、明治18年(1885年)に山手線の新宿駅の開業、次に大正12年(1923年)に関東大震災からの復興事業で計画された道路、当時は大正通りと呼ばれた現在の靖国通りの建設が大きいだろう。  そして、戦前から計画はあったが、終戦後の昭和23年(1948年)に高田馬場までであった西武村山線が延伸されて、仮営業ながら西武新宿駅が開業されたことによって、現在の新宿を形作る交通インフラが整ったと言える。  新宿は明治、大正、昭和に立て続けに、巨大なインフラがカンフル剤として注入されたことで、随時拡大した都市なのである。  なので、今回はそのカンフル剤の一つである西武新宿駅から降りて、新宿を歩いてみようと思う。  西武新宿駅から降りてすぐ目につくのは、何とも薄い駅ビル。

     昭和52年(1977年)に開業され、ショッピングセンター「西武新宿ぺぺ」と新宿プリンスホテルが入っているが、西武新宿駅を降りる度に、この薄さが気になってしまう。  先ほども書いたが、西武線の新宿乗り入れは昭和23年。戦争でこの一帯は焼け野原ではあったが、新宿はすでに閑散とした土地ではなく、住宅などがある多数の地権者が存在する土地になっており、大きな敷地を確保するのは難しかったのかもしれない。  限られた敷地と高さ制限を目一杯利用しようとすると、こうした薄いビルになってしまうのだろう。
     次に関東大震災からの復興道路であった靖国通り沿いを歌舞伎町一丁目方向に向かう。  靖国通りの左右の歩道で目につくのは、延々と続く有料駐輪場の列である。  新宿大ガード東口から新宿五丁目東交差点までの450メートルほどにびっしりと自転車のスタンドと料金支払いの機械が並んでいる。  なかなか壮観だと思う。


     東京都心を自転車で走っていると、大きな駅の周辺は駐輪する場所が少ない。行政や民間の駐輪場も設置されているが、やはり不足していると思う。  そのため、各地で放置自転車や違法駐輪が問題になっているが、西武新宿駅だけは駐輪場が充実しているので、自転車を止めるのにあまり困らない。  かつてはこの付近も放置自転車が非常に多かったが、平成7年(1995年)に施工された「新宿区自転車等の適正利用の推進及び自転車等駐輪場の整備に関する条例」などによって、公共施設、商業施設、娯楽施設などの管理者は、その規模に合わせた駐輪場の設置に努めることが明記され、格段に駐輪事情が良くなった。  これはあくまで噂でどこまで本当か分からないが、歌舞伎町で喧嘩、乱闘が起こった際は、道端に止められた自転車を持ち上げて振り回したり、相手に投げつけるという事例が多いとか。実際、私も何年か前に喧嘩で自転車を振り回しているのを大久保通りで見たことがある。  放置自転車は歩行者の邪魔になるので問題だが、こういう喧嘩で放置自転車が武器になるのを防ぐ目的もあるのかなと思う。
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  • 働き方改革者の性質(キャラクター)とは ──(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革 第10回〈リニューアル配信〉

    2021-07-19 07:00  
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    (意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第10回 働き方改革者の性質(キャラクター)とは
    あらすじ
     前回は私の働き方改革を実践する上で、本人の性質(キャラクター)がある程度影響していることに着目し、そしてそれは先天的なものではなく、自ら変えることができると宣言しました。 そこで今回は、「私の働き方改革を実践できている人はどういう性質があるのか?」について明らかにしていきます。 つまり、「どうやれば自分の性質を変えられるのか?」の前に「どのような性質に変わるとよいのか?」について定義しておくことで、この後の章で「ではその性質になるには何をすればよいか?」とより具体的な解説につなげたいと思います。
    働き方改革者は「中二病」?
     「私の働き方改革」を実践している働き方改革者に共通する行動特性の一つは「変わり者であろうとする」もしくは「変わり者となることを躊躇しない」という点です。 伝統的なやる事・やり方を見直し、自らの働き方を変えていくという行動の裏には、合理性とか正義感とは別の次元にある「変わったことがしたい」という熱情があるのかもしれません。 つまり、もし多くの人がAという道を選ぶなら、たとえリスクがあろうともBの道に進めないかと考える性質です。これはAという道を選んだ多くの人にとっては「変」な行動をする人だととらえられるでしょう。しかし本人は「皆がAを選んでいる」状態に違和感を抱いており、たとえ王道から外れた「外道」になろうとも、何か違う道はないものかと探すことのほうが「自然」なのです。 そして彼らは、周りから「変」と思われることにも快感を覚えるようになり、王道への違和感だけでなく「変人扱いされること」が半ば目的になって、道を選ぶ際の意思決定をするようになります。 そういえば私も昔から「変人」でした。 私は小学校のころ毎日の通学コースをころころと変えて学校に通っていました。実はこれは、人付き合いが苦手な私として、「少しでも人と会話せずに登下校ができる道で通学したい」という残念な欲求から生み出された行動なのですが、このころから「人と違うこと」を好む性格が形成されていったのではないかと振り返っています。 ある日利き腕の骨を折ってしまってギプス生活をするはめになったのですが、「クラスで一人、ギプスをしていること」に快感を覚えたものです。要は小学校時代から「中二病」だったんですね。ちょっと思い出すたびにおなかのあたりがキューっとなりいたたまれなくなる記憶ばかりです。 なぜそんな子になったのか? 自分なりの仮説としては、私が母子家庭で、かつ貧乏だったからかもしれないと考えています。皆と同じようにランドセルを買ってもらって背負うことなかったし、塾にも行っていませんでした。 こうした状況の中で、子供の私はあえて「人と違う」ことを受け入れ、自分の誇りとする必要があったのかもしれません。「人と違うことは自分のポリシーなんだ」と言い聞かせるように、人と違うこと、違うやり方を率先してやることにハマっていきました。
     会社に入ってからも、この中二病は治らず、それどころかどんどん症状が拡大していきました。 入社2年目のころ、当時の私の所属部署はフリーアドレスなオフィスではなく、一人ひとりに自分のデスクがありました。そこにガンダムのフィギュアを並べて悦に入っていました(まだ美少女フィギュアではないだけ、理性が働いているわけですが)。 また、会社から支給されているPCとは別途、やけにスタイリッシュなPCを購入し、とくに使うわけでもないのにそれを机上に置いて、「2台のPCを使いこなしている風」にしてみたり、LEDライト内蔵で光り輝くゲーミングマウスを使ってみたりしていました。 こうした中二病、すなわち「王道を外れて人と違う道を進む」、「周りから浮いている」ことへの憧れのような意識が、「伝統的なやり方とは違うやる事・やり方をしたい」というモチベーションにつながっているのかもしれません。
     それでは、この「中二病」という性質は、後天的に身につけることはできない「天賦の才」なのでしょうか? いえ、そんなことはありません。人はだれでも、そしてたとえ社会人になった今からでも、中二病になることができるのです。いえ、だれもが心の奥底に中二病の自分を抱いているはずであり、その解放の仕方を忘れてしまっているだけなのです。 その手法については、後の章で詳しく解説するとして、私の働き方改革実践者の共通している性質(キャラクター)は、中二病だけではありません。
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