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  • 脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第41回「男と食 12」【毎月末配信】

    2018-09-28 07:00  

    平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。友人たちと京都を訪れた敏樹先生。夏の京都の名物である鱧(ハモ)料理にまつわる薀蓄から、20代の頃、初めての京都旅行で、尿道結石を患いながら芸者遊びをした思い出が蘇ります。
    男 と 食  12      井上敏樹 
    先日、十円玉が立った。部屋で落とした十円が床に跳ね返って立ったのである。これは、茶柱が立つより稀れな現象ではあるまいか。きっと縁起がいいに違いない。さて、今年の夏も友人たちと京都に行った。京都は盆地なので、以前は東京よりずっと暑かったが、最近では様子が変わった。東京より涼しいくらいだ。これも異常気象のせいだろうか。今夏の京都で印象に残ったのは鱧料理が少なかった事だ。夏の京都と言えば鮎と並んで鱧、いや、鮎以上に鱧であり、どの店に行っても必ずと言っていいほど鱧が出る。それも、椀種にするか、湯引きにするか、大体どこも同じ料理。そしてまずい。お碗のひとつぐらいなら、『うむ、夏だな、京都だな』と新鮮に食えるがすぐに飽きる。それが、今回の京都では、二泊で四軒の割烹を回って一度だけ、鱧の湯引きだけであった。これは一体どういうわけか。たまたまいい鱧が入らなかったのか。料理人たちが鱧に倦んだのか。客たちが実はそれほど鱧を喜ばない事に気づいたのか。それはないだろ、と思われるかもしれないが、実際、私の友人たちにも鱧好きは皆無である。ただ、鱧にも魅力がないわけではない。料理人がどんっと鱧の身をまな板に広げ、専用の包丁でシャッシャッと骨を切っていく様子はなかなかのパフォーマンスだ。
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  • 『消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。』第6回 消極も積もれば積極となる(濱崎雅弘・消極性研究会 SIGSHY)

    2018-09-27 10:30  

    消極性研究会(SIGSHY)による連載『消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。』。今回はコミュニティ研究者の濱崎雅弘さんの寄稿です。濱崎さんがSNSブーム以前に開発した「学会支援システム」は、消極的な人でも紹介・被紹介による「出会い」を享受できる仕組みを目指したものでした。この試みで明らかにされた、「紹介」にまつわる意外な心理的負担とは……?
    はじめに
     皆さんこんにちは。緑豊かな学園都市つくばでインターネットとコミュニティ、さらにはニコニコ動画と初音ミクの研究をしている濱崎雅弘と申します。「ニコニコ動画と初音ミクの研究?」と思ったかもしれません。私はインターネットによって実現される新しいコミュニケーションとコラボレーション、そしてクリエーションに関心があり、そんな私にとって、ニコニコ動画上で初音ミク動画を中心として展開した派生作品文化は大変魅力的なものでした。2007年8月に初音ミクがインターネットの世界に颯爽と登場し、ニコニコ動画にて一大ムーブメントを起こしていた頃に、いったい何が起きているのかを明らかにしようとWebマイニング技術と社会ネットワーク分析技術を用いてデータ分析しました。
     そんな研究をしている私ですが、実は「消極性デザイン宣言」の著者の一人でもあります。こちらの連載で記事を書く予定になかったので、第1回の西田さんの記事にて紹介からは抜けていましたが、こっそり著者に入っていました。  本の中では、先述の初音ミク動画について、特に歌ってみた動画や踊ってみた動画と呼ばれる初音ミク動画の派生作品における消極性について書きました。動画を作ってインターネット上で公開するなんて、これぞ積極性と言わんばかりの行動ですが、そんな中にも消極性が垣間見えることを、拙著の中ではデータを交えて述べています。SHYHACKする道具や仕掛けを作っている他の4人と比べると、ちょっと異色な内容といえるかもしれません。それはそのはずで、初音ミク動画の分析は今から10年前の研究で、当時は消極性デザインやSHYHACKという観点でこの研究は行っていませんでした。その当時の研究を知っている方からは、以前聞いたときは派生作品がどんどん作られる積極的な現象として述べられていたのに、今回はそれが消極的な現象として述べられていて驚いた、とも言われました。  これだけ聞くとなんだか私が二枚舌みたいなエピソードですが、実はこれは大事なポイントで、作品が公開されたという結果そのものは「積極的な現象」なのですが、そのプロセスに「消極的な現象」が潜んでいた、ということが、あの本に書いた内容でした。
     本連載の第5回で、渡邊さんが「やる気は貴重な天然資源!」と指摘しましたが、ちゃんとした作品(動画)を作って公開するというのは、大変やる気が必要な作業です。動画は音も映像も作らなくてはいけないですし、作品を発表するというのはやはり勇気のいることです。つまり、投入しないといけない「やる気」は大量です。  しかし、初音ミク動画を中心とした派生作品のムーブメントにおいては、自分ができる部分だけ作って他は勝手に借用した「派生作品」が、「歌ってみた」「踊ってみた」といった「〇〇してみた」というやや及び腰なタグを添えて、大量に投稿されたのです。単体では投稿には至らなかったかもしれない作品が、他と足し合わせることで「やる気の壁」を越えて投稿に至ったわけです。  もちろん足し合わせるというコラボレーションだって本来は簡単ではなく、たくさんの「やる気」が必要になるわけですが、初音ミク現象が起きたその場所には、これを簡単にするいろいろな要因が詰まっていました。それが何か、ご興味のある方は消極性デザイン宣言の本をぜひ読んでみてください。また、初音ミク動画やその派生作品に興味を持ってしまった方は、この初音ミク現象をいろんな角度から可視化する音楽視聴支援サービス「Songrium」というものがあるので、ぜひお試しください。
     以上、私が「消極性デザイン宣言」に何を書いたのかという説明でした。ここまで話しておいてなんですが、実は私が消極性研究会に参加するきっかけとなったのは、これら初音ミク動画に関する研究ではありませんでした。初音ミク動画に関する研究は、消極性デザイン研究とはかけ離れた所からスタートしたもので、前述の話はSIGSHYに参加してから消極性デザインの文脈であの研究を見直してみて得られた知見でした。  では、どうしてSIGSHYに参加することになったのか。実はさらに昔に、まさに消極性デザインな研究をしていたのです。本ではこれについてはまったく触れていないのですが、良い機会ですのでお話したいと思います。昔話ばかりですみませんが、少々お付き合いください。
    学会支援システム
     学会や研究会は、研究者が自らの研究成果を発表するために集まるイベントですが、研究発表(プレゼン)だけでなく、研究者同士で情報交換したり議論したり、時には就職活動(若手研究者は任期付きがほとんど)したり、つまりはコミュニケーションすることも重要です。特に年次大会のようなたくさんの人が集まる学会は、むしろコミュニケーションの方が重要という研究者も少なくありません。  研究職といえば研究室にこもって良い成果が出るまで研究に没頭すれば十分でコミュ障向きの職業だと思いきや、ここでもコミュニケーション能力が求められるわけです。なんということでしょう。そこで消極性デザインの出番です。
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  • 本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉最終回 2018.9.26

    2018-09-26 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉最終回!
    21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
    既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
    今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「最終回」今週の1本「レッド 最終章 あさま山荘の10日間」アシナビコーナー「井本光俊、世界を語る」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日9月26日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:井本光俊(編集者)
    ▼ハッシュタグ
    Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
    ▼おたより募集中!
    番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へのご意見・ご感想、宇野
  • 【インタビュー】枝優花 日本映画は生き延びうるか――『少女邂逅』とポスト平成の映像クリエイション(後編)

    2018-09-26 07:00  

    今朝のメルマガは、映画監督・枝優花さんのインタビューの後編です。YouTubeで配信されている『少女邂逅』のスピンオフドラマ『放課後ソーダー日和』に込められた工夫や、日本映画が海外の市場で戦うために欠けているもの、次回作以降に取り組みたい試みなどについて、お話を伺いしました。(構成:米澤直史)※前編はこちらから
    ▼作品紹介 『少女邂逅』 監督・脚本・編集:枝優花 主演:保紫萌香、モトーラ世理奈 あらすじ:いじめをきかっけに声が出なくなった小原ミユリ(保紫萌香)。自己主張もできず、周囲にSOSを発信するためのリストカットをする勇気もない。そんなミユリの唯一の友達は、山の中で拾った蚕。ミユリは蚕に「紬(ツムギ)」と名付け、こっそり大切に飼っていた。「君は私が困っていたら助けてくれるよね、ツムギ」この窮屈で息が詰まるような現実から、いつか誰かがやってきて救い出してくれるーーとミユリはいつも願っていた。 ある日いじめっ子の清水に蚕の存在がバレ、捨てられてしまう。唯一の友達を失ったミユリは絶望する。その次の日、ミユリの通う学校に「富田紬(つむぎ)」という少女(モトーラ世理奈)が転校してくるーー。
    ▲『少女邂逅』予告編 ミレニアム世代の映像消費と映画の可能性
    ――『少女邂逅』と世界観を共有するスピンオフ的なミニドラマ『放課後ソーダー日和』がYouTubeに公開されています。この作品が作られた経緯はどのようなものでしょうか?
    枝 『放課後ソーダ日和』が公開されているYouTubeチャンネル「AlphaBoat Stories」は、住友商事とAsmic Acenの企画で、最初は『少女邂逅』とは特に関係なく、YouTubeでウェブドラマをやらないかというお話をいただいたところからスタートしました。ドラマは正直、全く興味がなかったのではぐらかしていたんですが、放映時期が『少女邂逅』の本格的な上映時期と近いことが分かって。また去年、『少女邂逅』を一部の劇場で先行公開したときに「クリームソーダが美味しそうだった」という感想が予想以上に多かったので、『少女邂逅』のプロモーションも兼ねて、クリームソーダが美味しい喫茶店を巡るというドラマになりました。一話10分なので観ても特に人生は変わらない。けれど「この店、行ってみたい!」という気持ちになれる作品を目指しました。
    ▲『放課後ソーダ日和』第1話
    ――『放課後ソーダ日和』はソーシャルメディアでもたくさん拡散されています。普段映画を観ない若い人たちへのアプローチとして、どのような工夫があったのでしょうか?
    枝 『少女邂逅』のプロモーションとしか考えていなかったので、とにかくわかりやすい作品にしました。例えば長回しはやってませんし、登場人物の心の声を全てセリフにしちゃっています。撮影監督は『少女邂逅』と同じ子なんですが、自分たちのやりたいことは押し殺して、若い子がスマホで見て飽きないものをつくろうという話をしました。全9話の中で、第5話くらいまでは観やすい内容にして、その後でだんだんカット割りを減らしていく。観ているうちに映画的な1カットの映像に慣れさせるという隠れた試みがあります(笑)。
    ――ストーリーも、途中から食レポのパートが減ってドラマが展開してきましたよね。
    枝 大人はこの作品を観て立ち止まって人生を考えることはないかもしれないけど、10代には刺さるものをつくりたいという思いはありました。作品の大きなテーマとしては「いつか終わってしまう時間」という結構残酷な主題を扱っていて、「この時間は永遠には続かないけれど、その上で君たちはどうするの?」ということを投げかけています。そのいつか終わってしまう時間を、いつか溶けてしまうクリームソーダと掛けているので、そこがうまく伝わるといいなというか。
    ――『放課後ソーダ日和』はコメディ調で、シリアスな『少女邂逅』と作品の方向性が全く違いますが、そのギャップに難しさはなかったのでしょうか?
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  • 【インタビュー】枝優花 日本映画は生き延びうるか――『少女邂逅』とポスト平成の映像クリエイション(前編)

    2018-09-25 07:00  

    今朝のメルマガは、映画監督・枝優花さんのインタビューです。24歳にして新進の映像作家として注目を集める枝さん。2017年公開の映画『少女邂逅』は若い世代の支持を集め、香港映画祭への異例の出品を果たしました。インタビューの前編では、枝さんが映画監督としてデビューするまでの経緯や、『少女邂逅』の撮影時の苦労について、お話を伺いました。(構成:米澤直史)
    ▼作品紹介 『少女邂逅』 監督・脚本・編集:枝優花 主演:保紫萌香、モトーラ世理奈 あらすじ:いじめをきかっけに声が出なくなった小原ミユリ(保紫萌香)。自己主張もできず、周囲にSOSを発信するためのリストカットをする勇気もない。そんなミユリの唯一の友達は、山の中で拾った蚕。ミユリは蚕に「紬(ツムギ)」と名付け、こっそり大切に飼っていた。「君は私が困っていたら助けてくれるよね、ツムギ」この窮屈で息が詰まるような現実から、いつか誰かがやってきて救い出してくれる――とミユリはいつも願っていた。 ある日いじめっ子の清水に蚕の存在がバレ、捨てられてしまう。唯一の友達を失ったミユリは絶望する。その次の日、ミユリの通う学校に「富田紬(つむぎ)」という少女(モトーラ世理奈)が転校してくる――。
    ▲『少女邂逅』予告編『少女邂逅』はどのように作られたのか
    ――『少女邂逅』のお話に入る前に、まずは映画監督を志されたきっかけからお伺いしてもよろしいでしょうか?
    枝 私は地元が群馬県なんですが、中高生の頃に役者ってほどではないのですが、ちょこっとだけお芝居を習っていて。そのとき「自分に芝居は向いていないな」と思ったんですが、映画はずっと好きだったので、何か映画に関わりたいということは悶々と思い続けていました。  それで、とりあえず進学を東京の大学にしましたが、まだ監督になりたいとは思っていなくて。新入生の頃に映画サークルで映画を作る機会があったのですが、そのときも「レフ板持ちます!」とか言ってました。  そんなとき、私の班の監督が撮影の一週間前に逃げてしまって(笑)。撮影日時とロケ地だけが決まっていて、脚本もないような状態から、残ったメンバーで必死に撮ろうとしたんです。そのとき、0から1を作るときは集団で考えてもいいものは生まれないことに気づいて、それで「私が監督をやります」と手を挙げたのが始まりです。  ただ、始めてみたはいいものの、映画の作り方なんて全く知らなかったので、最初は本当に手探りの状態でした。映像ソフトも監督になって初めて触ったくらいです。そのときに、すごくサポートしてくれた先輩がいて。いまはNHKでディレクターをやっている方なんですが、何も知らない私に「才能あるよ」って言ってくれて、褒めてくれる人もいるんだ......っていう。  それからも大学のサークルでいくつか映画を制作したのですが、自主制作をしていても、プロとして映画の仕事に就けるわけではないことに気付き始めて、とにかく映像に関することは何でもしらみつぶしにやりました。配給の仕事をしながら、CMの撮影の手伝いをしてみたり……様々な現場で勉強しました。でも、やっぱり映画の制作が一番難しいんです。関わる人数はCMやMVの比じゃないほど多いし、仲間とモノ作りをしている実感を一番感じられて。それで就職活動をせずに映画業界に飛び込もうと決めました。  ただ、両親からは映画業界に進むことを反対されていました。いまいち分かりにくい業界ですし、普通に定職について欲しかったんだと思います。そんな両親をはぐらかしつつも、確かに私が親だったとしても、まだ何者でもない子どもを映画業界に送り込むことはできないなと思ったので、両親を納得させるために何か賞を獲らないといけないと感じていました。  そんなときに早稲田映画まつりを通して、松居大悟監督や三浦大輔監督に気に入ってもらえて、そこで初めて両親に理解してもらえると思えたし、自分自身やっていけるかもという自信を得ることができました。
    ――映画監督として、強く影響を受けた作品はありますか?
    枝 14歳の頃に一番最初に観た岩井俊二監督作品『リリイシュシュのすべて』です。ただ、上京してからは、映画をたくさん観ている先輩が周りに増えて、映画館で映画を観る体験もグッと身近になったので、そこからはアジア映画を積極的に観始めました。特にポン・ジュノ監督からは刺激をもらっています。
    ――岩井監督やポン・ジュノ監督の作品の、どのような部分に惹かれたのでしょうか?
    枝 岩井監督の作品は、よくわからないけれどショックを受けたり、脳裏に焼きつくようなものが多く、そういう感覚的なところにヒントをもらいました。映画を撮り始めてから、岩井さんの映像は感覚的ではないということがわかってきたんですけどね。とにかく、それまで観てきたテレビドラマやハリウッド超大作のようなエンタメ作品の「楽しかった!」とは違う感覚があって。「わざわざDVDを借りて観たのに『わからない』って意味がわからない、なんて不親切なんだろう」とは思ったんですけれど、とにかく感覚的に好きな作品が岩井監督には多かったです。今でも、自分が視覚的に好きなものを自覚するために、岩井さんの映像はたびたび見返しています。  それに対してポン・ジュノ監督は、映画を作りはじめてからその凄さに気づいて、絵コンテの制作段階から計算し尽くされているであろう構成力に惹かれました。あの構成は現場でポンと思いつくことは不可能なので、事前に相当考えているんだと思います。あと、ポン・ジュノ監督の作品には、必ず社会風刺的なテーマが含まれていることが、個人的にはとても好きです。日本でこういう映画を撮れる方は少ない気がします。かなりカルチャーショックを受けて一気見した記憶があります。
    ――確かに『少女邂逅』には、岩井監督の『リリイシュシュのすべて』や『花とアリス』を思わせるシーンがいくつもありました。
    枝 観てくださった方からはよく言われます。ただ、スタッフとは「ここまで言われるとは思っていなかったね」と話していて。  私たちが目指していたのは岩井さんというよりも、岩井作品の映像を撮っていた篠田昇さんという撮影監督の方でした。2004年以前の、いわゆる「岩井カラー」と世間で認知されている映像は、岩井監督と篠田昇さんの相性で出来上がっていたもので、岩井さんの良い意味で地に足がついていない雰囲気を壊すことなくプラスαの魅力を生み出していた篠田さんのような映像を目指せたらと思っていました。『少女邂逅』のストーリーも岩井映画のようにどこかフワフワしているので、三脚を使ってカメラを固定して撮るのには適していないというところから始まっていて、篠田さんが撮影監督を務めた『世界の中心で愛を叫ぶ』はすごく参考にしました。この作品には現代と過去のパートでそれぞれ映像の色味を変えたり、印象的なカットを3つくらい入れるような「映像的な強み」があって、『少女邂逅』にもそういった他作品とは違う「映像的な強み」が必要だと思っていました。
    ――その「映像的な強み」というのは、『少女邂逅』のどの場面になりますか?
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  • 前田裕二『仮想ライブ文化創造試論 ー“n”中心の体験設計ー』第2回 世界中で始まった“可処分精神”の奪い合い

    2018-09-21 07:00  

    SHOWROOMを率いる前田裕二さんの連載「仮想ライブ文化創造試論 ―“n”中心の体験設計―」。第2回では、エンターテインメントビジネスが〈モノ〉や〈コト〉の消費から、〈ヒト〉が中心となる可処分精神の争奪戦へと至るまでの変遷を追いかけながら、大陸系ライブサービスと従来型のテレビの中間に位置するSHOWROOM独自のメディア戦略について語り合います。(構成:長谷川リョー)
    【お知らせ】大好評の本連載の第1回が、noteにてセール価格で販売中です! 10月20日までの期間限定で、100円の特別価格でご購入いただけます。 ご購入はこちらから
    分散した大衆が演者として輝ける「評価経済市場」
    前田 文化論としてライブ配信サービスを紐解く前に、ビジネス文脈でも少し議論させてください。まず外せないのが、エンターテインメント業界における稼ぎ方の変容についてです。SHOWROOMが目指したマネタイズの形は、エンターテインメント業界における第3世代の軸である、「直接支援モデル」です。
    第1世代の軸はご存知、パッケージによるCDやDVDの販売。DL販売もここに入ります。サブスクリプションモデルをこの軸に入れるかどうかは議論のあるところですが、あくまでユーザーが「楽曲を聴く」、「映像コンテンツを視る」という、コンテンツの対価としてお金を払っている以上、性質としては、第1世代の軸であるパッケージビジネスの延長線上にあると考えています。逆に当該市場参加者が皆パッケージを捨てて、「聞き放題/見放題」に完全移行すれば、パッケージの売上が綺麗にサブスクビジネスに乗り、更にスマホなど新デバイスの利を得て、既存パッケージ市場のリプレイス+αの成長を享受できるとも考えていますが、北米で起き始めているこの現象が、日本でも起きているとはまだ言えません。それは、アーティストをはじめ、コンテンツホルダーが依然、サブスクモデルに全体重をかけて乗り切らないから。逆に市場全体が戦略的にサブスクに移行できるのであれば、日本でもここが大きなビジネスチャンスになる可能性があります。とは言え、長期的視座に立つと、デジタルコピー可能なコンテンツの価値は、遅かれ早かれゼロに近づいていくというのが僕の仮説です。現状は著作権で守られていますが、漫画村の問題がイタチごっこになっていることをみても、体験価値やヒトが紐付いていない、純粋なコンテンツにお金を払うモデルは、長い目では縮小に向かっていく可能性が高い。そう思います。
    第2世代の軸は興行・ライブ・物販から成るビジネスモデル。日本を代表するエンタメ業界の上場企業、アミューズやエイベックスの収益構成を見ても、第2世代のビジネスモデルがもたらす営業収益の比率は、わかりやすく上がっています。アミューズの収益のうち9割弱を占めるアーティストマネジメント事業の中身を見ると、8割がライブ・物販ビジネスからの収益になっています。つまり、パッケージビジネスの落ち込みを、よりリアルな体験やコトにお金を払ってもらうビジネスで補填しているというわけです。もともとパッケージビジネスを通じて培ってきたコンテンツという強みを体験価値に転換して新市場を生み出す。これはとても合理的に思えます。ただし、このやり方にもやはり、限界があります。東京オリンピック開催に伴い、日本武道館、東京国際フォーラム、幕張メッセ、さいたまスーパーアリーナといった大バコが使えなくなる上に、改修に入る会場もある。このように、ライブをする場所自体が枯渇していくという「2020年問題」が危ぶまれている今、日本国内においてライブができる回数自体が限定的になってくる。加えて、売り上げが単価×客数×回転率であり、単価と回転率が一定であると仮定する以上、客数に限界があるこの第2世代のビジネスモデルは、スケーラビリティに限りがあるのです。アミューズとスタートトゥデイ(ZOZOTOWN)の時価総額を比べるとわかりやすいのですが、両社とも売上自体には大差はないのに、前者の時価総額が約600億円、後者が約1兆2000億円と企業価値に20倍もの開きがあると評価されるのは、市場から見た成長可能性の差だといえます。
    ここまで議論した2つの軸がどちらかと言えば資本市場を前提していたのに対し、第3の軸では、「評価経済市場」へ移行していきます。これまではアーティストとファンの間にさまざまなステークホルダーが入り、アーティストがコントロールできないところで、利益の線引きを行なっていました。それが障壁となって、才能のある演者が前に出られないこともあったろうし、仮に才能を活かせたとしても、稼ぎが限定されてしまう構造があったわけですが、今では流通、メーカー、パッケージなどの価値が改めて問われ、アップデートが求められる時代になりつつあります。演者がファンを喜ばせるために本当に必要なものだけが残り、洗練されつつある。最終的にはファンと演者が直接つながり、演者はエンターテインメントが必要なファンのためだけに作品を生み出すような、大昔に存在していたような有料ブティック型のビジネスモデルが次々に確立していくでしょう。音楽家が王様の前で演奏するために宮殿へ出向いていた中世の世界に近いかもしれない。エンターテインメントは、こうしたプリミティブな世界に戻っていくのではないかと直感しています。
    劇場という一般人が入場可能な娯楽施設、また、CDやDVDといった誰でも手に取れるパッケージを作ることで、特権階級に限定されていたエンターテインメントが大衆化されました。これは、オーエディエンス側の話です。今度は、アーティスト側で同様な変革が起きます。つまり、今では一部の階級に限定されていた、「表現する」、「見られる側に回る」という行為が、大衆化される。誰でも自分の劇場が持てるし、番組が持てる、楽曲が出せる時代に突入するのです。その前提として、規模は大きくなくても、全ての表現者にオーディエンスが紐付いていく必要があるのですが、それを可能にするのが「評価経済市場」です。評価経済という、昨日までは誰でもなかった一個人をエンパワーしていく仕組みが、自立分散するニッチコミュニティを無数に成立させ、演者が好きなことで生きる可能性を広げていきます。たとえば、SHOWROOMには、ちづるさんという50歳の主婦のアイドルがいます。彼女は数百人の濃いファンを抱えていて、そこで経済が回るコミュニティがある。こうしたコミュニティが1万個...10万個...と広がっていく未来を想像しているし、僕らの手で確実に作っていきたい。
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第28回 学習説はどこまで説明ができたのか

    2018-09-20 07:00  

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームの定義として最有力である「学習説」は、「ゲームという現象」を完全に説明するには至りません。中世の天動説的ともいえる学習説の合理性・説明性の高さを前提に、複数の動的システムの相互関係に基づいた、地動説的な仮説の構築を試みます。
    3.9 学習説はどこまで説明ができたのか
    3.9.1 複数の機序による説明:天動説から地動説へ
     学習説はゲームに関わる諸現象の多くを説明する。そしてそれは、学習説の有効性を示すものだ。しかし、同時にここまでの議論で明らかになったことは、学習説だけでゲームに関わる諸現象を説明しきることができない、ということでもある。  改めて、学習説はゲームに関わる主要な現象の「全て」を説明できるのだろうか、という問いを立てながら、この第三章で明らかになったことを確認したい。  たとえば、『ReZ』のような新奇なインターフェイスを触ることの楽しみを説明できるだろうか?あるいはオンラインゲームでコミュニケーションをとる人々の楽しさを説明できるだろうか?直接に説明できなくても、何らかの強い関連性を示すことができるだろうか?  答えはイエスとも、ノーとも言えるが、どちらかと言えばノーと言える側面のほうが強い。  イエスと言えるのは、ある程度の説明を与えることが可能だからだ。新奇性のある刺激について、人間の慣れや学習といった側面から説明してみせることは不可能ではない。コミュニケーションの快楽を、報酬系から説明を試みる立場もある。  ノーであるといえる根拠は、多い。  第一に、学習説には説明できないが他の説によって説明できてしまうような悩ましい境界例がある。たとえば、一回限り試合、パズル、プレイヤーのいないコンピュータ・チェスなどはルール/ゴール説からは説明できる。しかし、学習説の視点から説明しようと思うと、説明が困難になる。(むろん、三目並べなど学習説だからこそ説明できる事例もある)。それらを排除しようと思うのならば、議論の範囲を意図的に狭めたりしなくてはならなくなる。  第二に、学習プロセスと連続はしているものの、途中から学習プロセスの機序では説明できなくなってしまう関連現象が存在している。たとえば、物語的な認知や、依存プロセス、均衡の問題などは、学習と連続はしていても、学習説の機序だけで説明することは困難だ。  第三に、仮に関連性が論じられるにしても、関連性がどれだけあるか、難しいケースも多い。コミュニケーションやインターフェイスの問題に踏み入っていく場合、本当に学習説でクリアな説明ができるかと言われると、明快な説明を行うことは難しいからだ。「おそらく関連がある」とかそういった説明をしていくことになるはずだ。たとえば、他者との共在感覚は人間の発達過程のかなり初期から存在するものだ。そして、複数人で遊ぶときにこの共在感覚は少なくない機能を担っている。コミュニケーションとゲームの関係を論じる上では、学習説が何かの原因や結果として機能している側面はそれほど強くない可能性がある。また、インターフェイスについても、たとえば人間の空間認知や触覚の問題と切り離して論じることは難しい。学習説と関連付けることはできても、どこまで強い関係性を見出すことができるかというと、厳しいところがある。
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  • 本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.9.19

    2018-09-19 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
    21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
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  • 【新連載】碇本学「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」 第1回『あだち充の〈終わってしまう青春〉』

    2018-09-19 07:00  

    ライター・碇本学さんの新連載「ユートピアの終焉ーーあだち充と戦後日本の青春」が始まります。『タッチ』『H2』などのヒット作で知られる漫画家・あだち充。その50年にも及ぶキャリアは、戦後のアメリカの抑圧のもとで、日本の少年漫画が〈成熟〉を描こうとした試みでもありました。第1回では、戦後民主主義の落とし子としての3人の漫画家、手塚治虫・高橋留美子・あだち充について取り上げます。
    なぜ今、「あだち充」を読むべきなのか
    「2020年について何を想像するか?」と聞かれたとき、多くの人は「東京オリンピック」と答えるはずだ。  今から約80年前(1940年)に行われる予定だった「幻の東京オリンピック」は関東大震災からの復興と皇紀2600年記念行事として準備が進められていた。しかし、支那事変の勃発や軍部の反対から中止となり、その後、日本は太平洋戦争に突き進んでいくことになった。  1964年の「東京オリンピック」は、第二次世界大戦で敗戦した日本が焦土からの復興を成し遂げたことを全世界へアピールし、再び国際社会の中心に復帰したシンボルとして歴史的には認識されている。  そして、2020年開催予定の東京オリンピックは、東日本大地震の復興を掲げて招致されている。  日本で行われるオリンピックは、なぜか大災害や人災からの復興アピールを理由に立候補し、開催されるという流れがあるようだ。  来年2019年には、宮藤官九郎脚本のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』が放送される。ドラマでは、日本が初めて夏季オリンピックに参加した1912年ストックホルム大会から1964年の東京大会開催までの52年間を、三部構成で描くということが発表されている。
     この連載で取り上げるあだち充は、1970年(昭和45年)に漫画家デビューしており、次の東京オリンピックが開催される2020年は、画業50周年という記念すべき年でもあるということは、あまり知られていないかもしれない。  あだち充は1964年の東京オリンピックの翌年に連載が開始され、スポ根漫画ブームの元祖と言われる『巨人の星』(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)から始まったムーブメントに、終止符を打った漫画家でもある。スポ根の定義は「スポーツの世界で根性と努力によってライバルに打ち勝っていく主人公のドラマ」(米澤嘉博『戦後史大事典』より)であるが、あだち充は代表作『タッチ』において、それを乗り越えて過去のものとしたことで、少年誌だけではなく、漫画というジャンル全体の革新につながる新境地を切り開いていった。
     あだち充が描いてきた漫画とは何だったのか。それは一言でいえば「戦後日本社会の思春期」であった。  戦後日本社会は、軍事はアメリカに丸投げをして、彼らの核や軍事力によって庇護されながら経済発展を成し遂げた。一方、表向きには過去の戦争に向き合い、「二度と戦争のない世界を」という平和主義を謳った。その矛盾した「本音」と「建前」の二枚舌を使い分けた繁栄が続いていたが、バブル崩壊以後の長い不況によりそれを維持できなくなっているのが現在の日本である。  大人になることをできるだけ先延ばしして、責任を持ちたくないという「本音」と、自らの行動と発言に責任を持つ大人になることを対外的に表明する「建前」が当たり前のように、この日本社会には共存している。その「建前」の部分にあたる戦後日本社会の思春期の片側を、あだち充はずっと描き続けている。
     あるいは、1980年代の「ラブコメ」ブームは、「スポ根」や「劇画」の全共闘世代へのカウンターでもあったと言えるだろう。その中心となった『週刊少年サンデー』で大活躍していたのが、高橋留美子とあだち充という二人の若い漫画家である。 『うる星やつら』を大ヒットさせた高橋留美子が描いていたのは「終わらない思春期」であり、それに対して、あだち充が描いていたのは「終わってしまう思春期」だった。両者は相反し合いながら、同時に表裏一体の関係として『週刊少年サンデー』を躍進させる原動力となっていった。
     長く続いた昭和が終わり、構造改革に失敗し、先進国からも没落して、もはや経済大国ではなくなっていった日本の「平成」という元号がもうすぐ終わる。  昭和の20年間と、平成の30年間を通じて、絶え間なく作品を描き続けてきた漫画家・あだち充。これまで彼が描いてきた作品の要素がミックスされた、現在連載中の『MIX』は、おそらく次の元号まで連載が続いていくはずだ。『MIX』を読むということは、昭和、平成、そして次なる新しい元号の「三つの時代」を読むということになるのかもしれない。  あだち充のデビュー作から、最新作『MIX』までを読んでいくことで、かつてこの国にあった「青春時代」から、現在に持ち帰れるものはあるのだろうか。あるとすれば、それはどんなものなのだろうか。
    クール・ジャパンと「日本すごい」論の不毛
     バブル経済とその崩壊による、1991年からの約20年以上にわたる日本経済の低迷は「失われた20年」と呼ばれた。さらに構造改革が失敗したことで、「平成」という元号の期間は、そのまま「失われた30年」になった、という印象である。  21世紀に入ると、日本の漫画・アニメは国境を越えて海外にも熱狂的なファンがいることが一般的にも知られるようになり、それは国策として「クール・ジャパン」と謳われるようになった。  2010年に経済産業省が「クール・ジャパン室」を設置し、2013年には政府と電通など官民ファンドによる海外需要開拓支援機構(クール・ジャパン機構)が設立された。今年2018年のクールジャパン関連政府予算は459億円にのぼる(参照)。  しかし実際のところ、投資と宣伝には税金が投じられているが、国内の人材育成はまったくされていない。  国策というのならば、韓国映画のように海外でも戦えるようなレベルの人材を育てることが最重要の施策であり、海外の市場で日本とその国がどうコミットしていくかという部分に税金を使うべきだが、自国で売れているものをただ海外に持って行って、「日本の文化すごいでしょ!」という傲慢さは、かつての箱物行政の失敗を繰り返しているようにしか見えない。
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  • ショートヘアと政治運動|周庭

    2018-09-18 07:00  


    香港の社会運動家・周庭(アグネス・チョウ)さんの連載『御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記』。選挙活動を終えて、思い切って髪を短くした周庭さん。ショートヘアへの憧れはあったものの、選挙運動中はイメージ作りのために、思い通りの髪型や服装にはできなかったようです。(翻訳:伯川星矢)

    御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記第20回 ショートヘアと政治運動
    これまでの連載で、みなさんに香港の様々な社会問題や、政府による弾圧についてお話をしてきました。実はここ数カ月、わたし自身にもいろんな出来事と変化がありました。ここまで重く難しいお話が続いていたので、今回は少しリラックスしたお話をしましょう。 まず最初に、わたしが下した大きな決断についてです。 わたし、ショートヘアにしました(笑)。 前回、髪を切ったのは去年の年末。選挙への出馬に向けて準備を