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第八章 超‐感覚的なものの浮上――モダニズムの核心|福嶋亮大(後編)
2023-12-26 07:00
福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
6、感覚の雪崩――ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』
ヴァージニア・ウルフの一九一九年のマニフェスト的な評論「現代小説」には、その重要な手がかりが記されている。ちょっとの間、普通の一日の普通の心を調べてみよ。心は無数の印象を――些細な、とてつもない、はかない、あるいは鋼の鋭さで刻まれた印象を受け取っている。あらゆる面からその印象はやってくる。それはおびただしい原子のたえまないシャワーだ。そして、それらの印象のシャワーが落下し、月曜日ないし火曜日の生活へと自らを形成するにつれて、そのアクセントは以前とは変わる。重要な瞬間は、ここではなくあちらに訪れるのだ。[14]
何でもない日常の心を仔細に観察すると、そこには無数の原子化した印象が離合集散するさまが浮かんでくる――こう述べるウルフは自らの小説においても、五感に根ざしたリアリズムのプログラムを、その臨界点に推し進めた。彼女の狙いは、不定形のまま揺らめき続ける無数の印象の戯れを、「カメラ(部屋)」の図像として所有するのではなく、言語を超えた「ヴィジョン」として図示することにあり、絵画で言えばセザンヌら後期印象派に対応するこの手法は、『灯台へ』(To the Lighthouse)で頂点に達した[15]。 このそっけなく無造作なタイトルからは、ウルフが印象の戯れを妨害することのない、控えめで重量感のない目標物を求めたことがうかがえる。ディドロの『ラモーの甥』はあらゆる感覚を一人の音楽機械的男性に集中させ、メルヴィルの『白鯨』は超‐感覚的な鯨を「象形文字」に仕立てあげたが、ウルフの『灯台へ』は逆にそのような不動の重心からたえず逸れようとする。ウルフ自身「人生は、光まばゆい暈輪である。意識のはじめから終りまでわれわれをとり巻く、半透明の包被である」と述べ、人生そのものというより、そこから滲み出す半透明の暈(halo)の伝達こそが小説の任務ではないかと問いかけていた[16]。 このような脱中心化の志向は、ウルフが女性の生活を描こうとしたこととも深く関わっている。そもそも、彼女の評論で述べられたように、女性の担ってきた家事や育児は「試験され検討されることが男性よりはるかに少ない」。ゆえに「女性の生活は名なしという性格を帯びていて、極端に不可解で謎めいている。この暗黒の国がはじめて小説の中で探検され始めている」[17]。『灯台へ』でも名を与えられない女性の生活と感情を、どこか一点に収束させる代わりに、むしろ限界ぎりぎりまで微分しようとする戦略が貫かれている。ウルフは「不可解で謎めいた暗黒の国」としての女性の生活やコミュニケーションを、昼の光のもとで鮮明にするのではなく、むしろ感覚が波のように流動する「夕暮れ」の時空のなかで、いっそう増幅させたのだ[18]。 このようなウルフ流のモダニズムは、一家の精神的な支柱であったラムジー夫人の描き方によく示されている。第一部では彼女がいかにその細やかな神経によって周囲を支えてきたかが述べられるが、第三部では彼女がもう亡くなったことが前提となっている。彼女の死そのものには焦点があわされず、故意に脱中心化された。しかし、そのことによってラムジー夫人は、この一家を取り巻く半透明の「暈」の領野に静かに移行した。彼女が純粋な印象の束になったとき、その存在の本質は生き残ったひとびと、さらには読者においてかえってより強く感じられる。 ウルフにとっては、人生の「暈」における不定形の揺らぎ、その弱くはかない運動にこそむしろ強度なリアリティがあり、『灯台へ』はそれを手法のレベルで展開した。特に、ラムジー一家を観察する画家リリー・ブリスコウの感受性は、ウルフの手法そのものの見事な絵解きになっていた。リリーは知人のバンクスの誠実さや几帳面さに触れたとたん、強烈なショックを感じる。リリーがバンクス氏について密かに抱いてきた印象の山が少し傾いだかと思うと、彼女の思いのすべてが、大きな雪崩となって一気に溢れ出した。一方でそのような感覚に押し流されつつも、他方バンクス氏の存在のエッセンスが、そこに霧のように立ち昇るのを見届けた気もした。彼女は自らの知覚したものの激しさ、強さに圧倒されたが、それはバンクス氏のこの上なく厳格で善良な姿にほかならなかった。(四四頁/以下『灯台へ』の引用は御輿哲也訳[岩波文庫]に拠り、頁数を記す)
ウルフ的印象には明確な形が与えられず、たえず不可解なショックにさらされるために、いつでもインフレーションを起こす可能性がある。しかし、ウルフにとっては、この不意の「感覚の雪崩」こそが、存在のエッセンスを瞬間的に顕現させる。つまり、感覚や印象が人間のなかに留まらず、アンビエントな広がりをもったとき、それを地(ground)として存在の図(figure)が改めて描き直されるのだ。 ここで重要なのは、この感覚や印象のインフレーションが、語りによる評価や判断をも超えてしまうことである。リリーは次のような思考をめぐらせる。人を評価し判断するとはどういうことなのか?あれこれ考え合わせて、好き嫌いを決めるためには、どうすればよいのだろう。それに「好きだ」「嫌いだ」っていうのは、結局どういう意味なのか?梨の木のそばに釘づけにされて立ちつくしていると、二人の男性のさまざまな印象が降りかかってきて、目まぐるしく変わる自分の思いを追いかけることが、速すぎる話し声を鉛筆で書きとめようとするのにも似た、無理な行為に思われてくる。(四五頁)
語りとはまずは人間や出来事を評価し、それを他者に伝達する行為である(第二章参照)。特に、イギリスの近代リアリズム小説では、捉えがたい対象についての多面的な評価を累積するプロセスが、しばしば物語の中核となってきた。 例えば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は、未知の孤島の環境に関するアセスメントの記録そのものであり、『モル・フランダース』はその評価の対象を新世界にまで拡大した。あるいは、ジェイン・オースティンの代表作『高慢と偏見』(一八一三年)では、結婚相手の資質や性格を見定めようとする女性たちの評価が、会話や手紙のような複数のチャンネルでなされる。当初の低い評価が、さまざまなパラメータの加味によって次第に逆転してゆく――このような評価の揺らぎの緻密な再現にこそ、オースティンのリアリズムの本領があった。 それに対して、『灯台へ』はむしろ、そのような環境の評価や個体の識別そのものを不可能にする領域に肉薄しようとする。「人間の心も体もすっかり闇に包みこまれてしまい、「これは彼だ」「こっちは彼女だ」と言える手がかりすらなくなった」(二四〇頁)。しかも、この個体の消えた世界では第一次大戦のショックをはじめ、見えない爆発がたえず起こっているのだ(実際、ラムジー家の音楽家アンドリューが戦争で即死したことが、断片的なヴィジョンとして示される)。画家リリーは「神経の受ける衝撃そのもの、何かになる以前のものそれ自体」(三七六頁)をつかみたいと願うが、それはどこにも中心がない夕暮れの世界に身をさらすことに等しかった。 -
第八章 超‐感覚的なものの浮上――モダニズムの核心|福嶋亮大(前編)
2023-12-22 07:00
福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
1、五感に根ざしたリアリズム
小説の台頭は、それ自体が世界認識のパラダイムの変化と結びついている。私はここまで、それを初期グローバリゼーションと植民地の拡大という政治的な観点から説明してきたが、そこに心理的な次元での変革が関わっていたことも見逃せない。例えば、英文学者のイアン・ワットは名高い研究書『小説の勃興』のなかで、デカルトやジョン・ロックの哲学と、それに続くデフォーやリチャードソン、フィールディングら一八世紀イギリス小説のリアリズムの共通性について論じている。「近代のリアリズムは〔…〕真実は個人の五感を通じ、個人によって発見され得るという立場から始まっている」[1]。 近代以前の世界認識においては、神やイデアこそが不動の「リアル」であり、人間の移ろいやすい五感で捕捉された情報は、あてにならない不規則な現象として処理された。しかし、近代の文化はこの前提そのものを転倒させ、むしろ個人の感覚器官において時々刻々と受容されるデータこそをリアルなものと見なし、それを思考の出発点とした。ワットによれば、それは「新奇〔ノヴェル〕なるものを前例のないほど高く評価」する文化への転回であり、小説は「個人的な経験に対する忠実さ」によって、この新興のリアリズムの文化における中心的な地位を獲得した。 小説のリアリズムは、個人の束の間の感覚的反応の記録を「真実」の基盤として受け取ることから始まる。ここで興味深いのは、この新たな真実性のモデルが、当時の先端的な記録装置とも関連性をもったことである。 例えば、ジョン・ロックの『人間悟性論』(一六九〇年)やニュートンの『光学』(一七〇四年)は、知覚のモデルを当時の写真装置であるカメラ・オブスキュラ(「暗い部屋」の意)に求めた。これは外部から入力された刺激をノイズも歪曲もなく正確に記録する「暗い部屋」のようなものとして、人間の知覚の仕組みを理解するものである。もし人間の知覚がカメラ・オブスキュラのように外界を複写できるならば、そこで得られる無数の表象は世界に近似するものとして捉えてよい――このような機械的な透明性への信頼は、小説で言えば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の文体にも当てはまる。クルーソーはまるで帳簿をつけるように、自身の冒険の顛末や島での孤独な生活を詳細に記録した。クルーソーの島はいわば、さまざまな情報を取り込み整然と並び変えるカメラ・オブスキュラ、より現代的なメタファーを使えば、彼の行動履歴をビッグデータとして逐一保存する高性能の記録装置であった。 このように、小説のリアリズムの背景には、それまでは浮かんでは消えるばかりであったエフェメラルな個人的経験のデータにこそ価値を認めようとする新しい信念がある。加えて、ここで重要なのは、この新興のリアリズムが読者との共犯関係を必要としたことである。 読者は作中のデータを、自らの経験上のデータと照合しながら、架空のキャラクターに想像上の肉づけをおこなう。小説を読むとは、キャラクターの心や思考を、断片的な情報を手がかりとしていわば「即興」で創作する作業である。作者は独立した架空の人生をそっくりそのまま再現するというよりは、むしろ読者側で起こる即興的創作をあてにして、前後のつじつまがあうようにキャラクターの記述を編集する。ごく限られた記述で説明されるだけのキャラクターの心は、あくまでフラット(=表面しかない)だが、読者はそこに心の深みを創作する。小説のリアリズムは、薄い感覚的な記述に虚構の深みを与える、読者の心の動きに依存している[2]。つまり、小説における心を創作するのは、作者である以上に、実は読者なのである。 -
中心をもたない、現象としてのゲームについて 第38回 第5章-4-5循環のバリエーションを考える:4つの観察モデル|井上明人
2023-12-20 07:00
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。
「レベル上げ」や「素材集め」などの「作業」が一概に攻略のための「手段」とは言い切れないように、ビデオゲームにおける「目的ー手段」の関係は構造的に不安定さを抱えます。今回はゲームにおける「目的ー手段」関係の揺らぎを理論化し、ゲームを楽しむ体験がどのように構築されているか考察します。
井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて第38回 第5章-4-5 循環のバリエーションを考える:4つの観察モデル
5.4.5.1 共通の性質をもったものたちは、どこまで同じものか?
さて、少し話の論点が増えてきたので、話をあらためて整理していきたい。 ここまで大雑把に、逸脱と循環の双方があるようなプロセスについて述べてきたが、逸脱と循環の双方の側面を持ちうるようなプロセスとして、いままで挙げてきたものは次のようなものだった。 ・プロスポーツ選手による、上達戦略のメタ的再構築(意図的な再構築によるもの)を通した訓練[19]・プロスポーツ選手による、同じ訓練に「飽きる」ことを肯定した上での訓練[20]・組織における旧式の評価基準の見直しを伴う、組織の再構築や訓練[21]・社会における旧式の評価基準の見直しを伴う、社会制度の再構築や訓練[22] ・子供の砂場遊び[23] ・パフォーマンス芸術[24] ・意図せざる行為の自己目的化が起こり、行為自体が複雑化し、当初期待されていた範囲から抜け出ていくもの(やりこみなど)[25] このように並べてみると、これらは逸脱であると同時に適応であるような側面のある一連のリストになっているのかもしれないが、冷静に見つめ直してみると、本当に同じものだと言っていいのか不安になってくるリストでもある。共通する性質を見出すことはできるのかもしれないが、これらの中にはかなりの違いもある。 遊び-ゲームを循環としてみなす議論の類型について、なるべく基本的な概念からはじめて整理をしてみよう。
5.4.5.2 固定層モデルと可塑層モデル
循環をめぐる観察のバリエーションについて、上記のリストを眺めてみて思うのは、これらは安定と変化のようなものをどのように構造化し、どのようなバランスで共在させているかということのバリエーションだという印象を持つことができそうだ。 この、安定と変化というものを、もう少し丁寧に概念化していくための概念を導入しよう。 何かの力を加えられたとき元の構造を維持する力が強いものと、元のあり方自体が変化してしまうものを区分する概念として「可塑的(plastic)」という概念が、人間の認知について語る上でしばしば用いられる。 この概念を用いて遊び-ゲームをめぐる観察のモデルの差を、まずは二つに分けてみたい。 第一の観察のモデルは、ゲームの展開を生み出す前提自体は確固たる不変のものとして存在し、ゲームプレイヤーはそこから生成されるものと戯れているものがゲームであると考えるモデルである。この発想では、ゲームを遊ぶということは(1)固定されたゲームメカニクスの構造と、(2)そこから現象する活動、という複層構造を持つものとして記述することができる。あらかじめ設定されたゴールや勝利条件を達成する行為だけがゲームを遊ぶというものだと考えるものだ。こうしたゲーム観はビデオゲームにおいては一般的なものだといえるだろう。この発想からすると、ゲームプレイヤーは、もともとプログラムされたビデオゲームによって展開しうるバリエーションを実行するための媒介者に過ぎない。ビデオゲームの前提自体は固定されており、ゲームプレイヤーが何をしようともビデオゲームのプログラムに影響を与えることはない。この複層的だが、前提が固定されて変わることのないモデルを、固定層モデルとしてここでは名付けよう[26]。 第二は、ある程度まで安定的な構造があり、その構造から現象するものが循環的に構造を自己変容させていくという観察だ。ゲームプレイヤーは、ゲームの遊び方や上達の仕方に、しばしば変化を加えていく。コントローラーを変えたり、裏技を使ったり、縛りプレイもあれば、ズルとみなされる類のテクニックを使うプレイヤーは少なくない。遊ぶ活動を通して、ゲームメカニクス自体に変化をもたらしたいという欲求が生じ、その結果としてゲームのそもそもの構造自体を改変させていくという関わり方は遊び方としてかなり広範に観察される行為である(Consalvo 2009)[27]。この状況下では(1)ゲームメカニクスの構造は少しずつ変化を加えてよいものであり、(2)ゲームのメカニクスとゲームを遊ぶという二層の構造は、相互作用を起こすもの、という形で整理できる。この構図は「循環」という概念によって想起されうるモデルだろう。このモデルでは、もともと設定された勝利条件から離れた遊び方は、特殊なものではない。むしろ遊ぶという行為のごく標準的なあり方として捉えることができる。この可塑的で複層的なモデルを可塑層モデルと名付けよう。可塑層モデルと固定層モデル
5.4.5.2.1 可塑的なものと固定的なものの並列
固定層・可塑層という二つのモデルは、同じものを再生成しつづける構造と、何かを生成することを通じて生成の構造自体が変化するものという区別である。この固定層・可塑層といった二つの説明モデルを通じて、ここまで述べてきた議論――学習の仕方が固定されているものと学習の仕方自体を再構築されていくもの――という二つを考え直してみよう。 ざっくりと言えば、学習の仕方が固定されている前者が固定層モデルで、学習の仕方の再構築があるものが可塑層モデルにあてはまるように考えたくなるところだ。しかし、そのように直接的な当てはめをするのであれば、丁寧な概念化をする必要ない。 人間が学習し、上達するというプロセスはそれ自体が可塑的なものだ。人間の理解の枠組み自体は(脳の病気などが無い限りは)可塑的な柔軟性を持っている。つまり、学習や上達を含む一連のプロセスは、可塑的な側面を持つ。 一方で、「目標」については、目標自体が固定される場合と、固定されない場合とで分けてしまうことができる。目標の方向性が固定されていれば、シングル・ループの学習となり、飽きることや学び方の目標を変更することのできるものであればダブル・ループの学習に繋がりうるものだ。 すなわち学習の仕方が固定されている場合というのは、「認識は可塑的に変化しているが、目標は固定的」で、学習の方策自体が再帰的に変化するものは「認識が可塑的であると同時に、目標も可塑的である」という形をとる(下記の図を参照)。下部二層:シングルループ/ダブルループ これで、シングル・ループの学習と、ダブル・ループの学習の間の差は整理できそうだ。 しかし、これでもスポーツ選手の訓練と、ゲーマーが様々なモードを揺蕩うことの差は区別できない。 スポーツ選手など、自己の行為を律するタイプの人が行為のメタ認知を行いながら学習を再帰的に変化させていくのと、ゲーマーが思いがけず行為の自己目的化を行ってしまった結果として、どう評価すればよいのかわからないような複雑さを手にしていくようなプロセスはどちらも、行為の目標の水準で学習を再帰的に変化させていくという意味では同じものだ。 ゲームを遊ぶという行為のなかで、社会的評価が変わりやすい、これらの行為の違いはどこにあるのか。少し注意深く考えれば、この両者には「目標」の制御の内実に違いがある。 スポーツ選手による訓練方針の再構築では、行為のおおもとの大目標の部分はあまり変化しないことの方が多いだろう。スポーツ選手であれば、訓練の方針が変わったとしても、スポーツで良い結果を残すという基本的な方向性自体は変わらないはずだ。 一方で、自宅でゲームをする人が、うっかりゲームをやりこんでしまうときには守らなければならない大目標はそれほど固定的ではない。ゲームを楽しむとか、ラスボスを倒すとか、ゲームに上達するといった大目標が変化することを許容する性質をもっている。(下記の図を参照) 下部三層:目標だけが可塑性を持たないケース -
12/16(土)開催! 2023年をまるごと振り返るトークショー「PLANETS大忘年会2023」
2023-12-12 19:00
PLANETSと東急株式会社が共同で、 渋谷から新しい文化を発信することをテーマに開催している「渋谷セカンドステージ」、今回は年末恒例の年忘れイベントです。 今年も2023年の時事総括を、3部構成で行います。
第1部は2023年のカルチャーシーンについての、 第2部は23年からスタートした宇野常寛が主宰する「庭プロジェクト」 メンバーによるこれからの都市開発についてのセッションをお届けします。 そしてメインステージとなる第3部ではパレスチナからジャニーズまで、「23年のニッポン」を総括する座談会をお届けします。 政治からサブカルチャーまで、 1年をジャンル横断的に振り返るイベントにぜひお集まりください。ご参加はこちらから!
▼タイムテーブル
14:00〜15:00【第1部】2023年のカルチャーシーンを総括する座談会( PLANETS批評座談会 SPECIAL)明石ガクト/成馬零一/吉田 -
12/19(火)20:00~ 批評座談会〈鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎〉番組内容変更のお知らせ
2023-12-11 21:28 -
中心をもたない、現象としてのゲームについて 第37回 第5章-4 「循環」概念をめぐって|井上明人
2023-12-08 07:00
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。 「逸脱」としての「遊び」と「同化(洗練)」としての「ゲーム」、両者の「循環」がある種の理想として語られがちなゲーム研究において、その視点の妥当性を改めて検討し直します。
井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて第37回 第5章-4 「循環」概念をめぐって
5.4.1 遊ぶ/遊ばれる
「循環」概念は、遊び-ゲームをめぐるキー概念の一つである。 そして、おそらくこの、遊びの「循環」をめぐる現象は遊び-ゲームをめぐる多様な現象を、一つの現象のような形で統合させている主犯の一つであろう。 遊び-ゲームをめぐる循環の問題は、特にドイツ系の遊び-ゲームの論者(およびそれに影響を受けたドイツ哲学に強い研究者)においては強調される。 シラーの議論の後、20世紀前半にはボイデンディクが、シラーやフロイトへの批判を行う。ボイテンディクによれば、シラーやフロイトの議論が主観的な精神活動の内部の活動のみに注目しており、その外部との関係が意識されていないということに着目しはじめた。 ガダマーもボイテンディクの議論を読んだ上で「すべての遊びは遊ばれることだということである。」と述べる[1]。ガダマーは「遊び手」が状況を制御するという特権性を持たないということを述べるため、いくつかの例を挙げている。一つには、遊び相手の必要性である。ガダマーは次のように述べる。
「遊びであるためには、たしかに現実に他者が加わる必要はないにしても、遊ぶ者の遊び相手、すなわちその一手に対して自ら逆襲する別のものがいつも存在しなければならない。遊んでいる猫が毛糸の玉を選ぶのは、毛糸の糸が一緒に遊んでくれるからであり、ボール遊びが無限に続くのも、いわばそれ自身が思いもよらないことをしてくれるボールのまったく自由な動きによるのである」[2]
西村清和もガダマーやボイテンディクの視点に影響を受けつつ「遊びつつ、遊ばれる」[3]という視点を重視し、遊びに関わる広範な現象をこの視点から説明しようと試みている。 ガダマーの述べるとおり、遊ぶという行為は、遊び手が全てを制御できるものではない。遊ぶという一連のプロセスは遊び手の意図の外側にあるものによって遊ばれる現象でもある。 この循環的な側面は、かなり広範な説明力をもっている。 まずは、前回の最後で述べたとおり、循環的な概念の「理想化」の問題から議論をはじめることにしよう。
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