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  • 【ほぼ惑ベストセレクション2014:第9位】"走り屋"は時が止まった世界で戯れる――『頭文字D』の"D"とはなにか ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 号外 ☆

    2014-12-27 11:10  

    【ほぼ惑ベストセレクション2014:第9位】"走り屋"は時が止まった世界で戯れる――『頭文字D』の"D"とはなにか
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.12.27 号外
    http://wakusei2nd.com



    2014年2月より約1年にわたってお送りしてきたメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」。この年末は、200本以上の記事の中から編集長・宇野常寛が選んだ記事10本を、5日間に分けてランキング形式で再配信していきます。第9位は、『頭文字D』論です!(2014年3月6日配信)これまでのベストセレクションはコチラ!
     
    ▼編集長・宇野常寛のコメントこれは『楽器と武器だけが人を殺すことができる』収録の評論の中で、一番書いていて楽しかった回ですね。『イニD』では、今では「マイルドヤンキー」と呼ばれ、文化系からはちょっと蔑まれているような郊外のロウワークラスのライフスタイルが先取的に描かれています。それは見方を変えると、「父になるのかならないのか」という、戦後民主主義の中で捻れていった日本の男性的想像力の問題を、95年の時点で早々に片付けてしまったとも言える。
    僕がもし今『ゼロ年代の想像力』を書き直すとしたら、『エヴァンゲリオン』ではなく『頭文字D』と『クローズ』を中心に置くだろうと思うんです。都市のアーリーアダプターのエリーティズムよりも、地方のロウワークラスのポピュリズムのほうが時として新しいものを掴み出してしまう――そんなポップカルチャーの醍醐味をこの作品は体現しているんじゃないかな、と。




    ▲宇野常寛『楽器と武器だけが人を殺すことができる』 (ダ・ヴィンチBOOKS)

    雑誌『ダ・ヴィンチ』宇野常寛の連載がついに書籍化! イニDだけでなく、チームラボ、ドラ泣き、風立ちぬ、多崎つくる、UC…その他多くの論考を収録しています。また、発売を記念してこの一年半の連載を振り返る、宇野常寛によるメタコメンタリーも公開中です。

    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar687928

     正月休みに組み立てるレゴとプラモデルを買いに、池袋に出かけた。たぶん、大晦日のことだったと思う。僕は数時間後に大島優子が卒業を発表することも知らずに、混みあうビックカメラの6階でレゴ・アーキテクチャーのマリーナ・ベイ・サンズと、1/144スケールのガンダムF91を手にして浮かれていた。6人待ちのレジに並んで、8割の期待と2割の苛立ちを覚えていたとき、あの車と僕は再会したのだ。
     
     AE86 スプリンタートレノ、通称「ハチロク」。白黒のツートンカラーに塗り分けられたこのタイプ(パンダトレノ)は90年代に全国の「走り屋」たちに愛された名車にして、そんな走り屋たちの世界を題材に展開し、彼らのバイブルとなった漫画『頭文字D』の主人公・藤原拓海の愛車だ。
     
     僕が目にしたのはレジ前のトミカコーナーに積まれた「ハチロク」藤原拓海仕様のミニカーだった。そう、国内を代表する児童向けミニカーシリーズ「トミカ」には、漫画・アニメなどに登場する車を「ドリームトミカ」として発売しているのだが、この年の秋に『頭文字D』のハチロクがラインナップに追加されたのだ。
     
     思わず手に取りながら、そういえばこの漫画の連載も終わったんだな、と思い出していた。そう、この年の夏に18年続いた『頭文字D』の物語はようやく完結を迎えていたのだ。この漫画の連載がヤングマガジンではじまったとき、僕は高校2年生だった。自動車の運転に憧れていても、法律上免許を取ることが許されていない年齢だった。しかし連載が始まった1995年の夏、高校3年生という設定で既に18歳を迎えていた藤原拓海は、免許をとってはじめての夏を迎えていた。作中で物語の舞台は「90年代」としか明かされていないが、仮に連載開始時の1995年だと考えれば拓海は僕と同世代、ひとつ年上のお兄さんにあたる。そんな拓海は自動車の購入計画に胸を弾ませる級友を「何がそんなに楽しいのか」と冷ややかに眺めていた。その拓海の冷めた感想は、実は僕がこの漫画に出会ったときの、そして僕が自動車というものに対して抱いていた感想にそっくりだった。そう、当時の僕は自動車にも、その運転にもまるで興味がない17歳だった。
     
     
     一昨年(2012年)の秋、トヨタ自動車社長の豊田章男氏が「車を持てば、女性にもてると思う」と発言しインターネットの若者層から強い反発を浴びた。豊田社長のこの発言は「若者の車離れ」を食い止めることをテーマに設定したイベントでの発言だったという。しかし、豊田社長は分かっていない。「車を持てば、女性にもてる」という発想が過去のものになったからこそ、若者の「車離れ」は起ったのだ。
     
     戦後という長くて短い時間、自動車はアメリカ的な豊かな社会の象徴であり、それを実力で獲得できる「大人の男」の象徴だった。少年は安価で小回りの利くオートバイに憧れ、やがて自動車に乗り換えて大人の男になっていく。助手席に恋人を乗せるところからスタートして、やがて家族のためにファミリーカーに乗り換え、子育てを終えたあとは趣味の高級車に乗り換える……。そんな時代がこの国にも「あった」のだ。
     
     そして拓海や僕の世代は、そんな物語の重力が失われた最初の世代でもあったはずだ。僕からしてみると、まず、男が女を助手席に乗せて自分の優位を示す、というマッチョな発想についていけない。そして、高校に上がるころにはすっかりバブルも崩壊していた僕らが、いまさら自動車にアメリカ的な豊かな消費生活を見ることなんか、あるわけがない。僕らが思春期を迎えたのは、一度アメリカを追い越したはいいものの、調子に乗ってスピードを出しすぎた結果コーナーを曲りきれず、ガードレールを突き破って谷底に転落した後の時代だ。古本屋で見つけた片岡義男の小説をめくったときは、昔の日本はこうだったのかと文化史の教科書のつもりで読んだ。それがヒルクライムではなく、ダウンヒルの時代に思春期を送った僕ら世代のリアリティだ。僕らにとって自動車を運転することで重要なのは、速く、力強く坂を上がることではなく、ガードレールを突き破らないように器用に坂を下ることだった。
     
     だから僕も、そして藤原拓海もまた、そんな器用にやり遂げることだけを要求される世界=自動車の運転にまったく面白みを感じていなかったのだ。
     
     
     そう、藤原拓海はまったく自覚のないままに卓越したドライビングテクニックを身に付けていた。どうやらかつてプロのレーサーだったらしい父親によって、家業のとうふ屋の納品を代行するという名目で拓海は14歳の頃から自動車の運転を身に付けていた。毎朝、夜明け前に峠を全力疾走していた彼は自分でも気が付かない間にダウンヒルのスペシャリストになっていたのだ。しかし拓海にとってそれは単に効率よく家業の手伝いをこなすための技術であり、無味乾燥な作業だった。
     
     そしてこの『頭文字D』はそんな拓海少年が車の快楽に目覚め、成長していく物語として幕を開ける。少なくとも、物語の開始時はそう構想されていたはずだ。かつて『バリバリ伝説』でオートバイを題材に少年の成長物語を描いたしげの秀一は、おそらくオートバイや自動車がかつて背負っていた物語を失いつつあることを察知して、その回復をこの作品を通して描こうとしていたのではないかと僕は思う。
     
     だからこそ、拓海は父親から受け継いだハチロク(当時すでにレトロカーとして扱われていた)を愛車にしなければならなかったのだ。なぜならば本作は喪われた「車」の物語を回復するための作品としてはじまったのだから。
     
     そして拓海が好きなクラスメートの女子(なつき)は高級車を乗り回す中年男性と援助交際をしていなければならなかったのだ。なぜならば、拓海は強い大人の男に成長して、間違った歳の取り方をした大人の男から彼女の心を奪い取らなければいけなかったのだから。
     
     そして実際に、藤原拓海は走り屋の世界に触れることで、自動車の快楽に目覚めることで社会化し、やがて無難にやり過ごしていた自身の父子家庭や、なつきの問題に向き合っていく。
     
     そして、そんなアナクロな世界観が苦手で、僕は長い時間この漫画のいい読者ではなかった。拓海はやがていわゆる「ラスボス」としての父親と対決し、彼に勝利する。そして仲間たちに見守られながら、地元(群馬)を去り、レーサーになるために東京に発つのだろう。僕はこの物語の展開を勝手にそう決めつけて、そんなありきたりな、そしてアナクロな成長物語にリアリティを感じないと心の中で切り捨てたのだ。
     
     しかし、それは愚かな判断だった。
     
      
  • 月島花は坊屋春道を超えられたか――クローズ/WORSTが描いた男性性の臨界点 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.028 ☆

    2014-03-12 07:00  

    月島花は坊屋春道を超えられたかクローズ/WORSTが描いた男性性の臨界点
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.3.12 vol.028
    http://wakusei2nd.com


    傑作不良漫画『クローズ』の続編として描かれ、12年の歳月をかけて昨年完結した『WORST』。坊屋春道なきあとの鈴蘭を描いた本作を通じて見えてくる『クローズ』が描いた男性性の臨界点とは。(※ 昨日予告した内容は明日の配信に変更となりました)
    初出:ダ・ヴィンチ2013年11月号〈「オレはおまえらと同じで/よそを放り出されて鈴蘭へ来たただの勉強ぎらいさ/ただちょっと違うのは/オレはグレてもいねーしひねくれてもいねえ!/オレは不良なんかじゃねーし悪党でもねえ!!〉
     髙橋ヒロシによる90年代を代表するヤンキー漫画『クローズ』は、主人公・坊屋春道の自分は不良「ではない」という宣言ではじまった。引用したのはそんな彼=春道が物語の冒頭、転入してきたばかりの高校で貴様は何者だと問われたときの返答だ。舞台となる架空の高校・鈴蘭男子高校はとある街にあるいわゆる「底辺」高校だ。不良少年の巣窟である同校では、その社会の「覇権」をめぐって常に派閥抗争が繰り広げられている。しかし所属する生徒の大半が不良高校生である鈴蘭は常に群雄割拠の状態にあり、もう何世代にもわたり「統一政権」が生まれていないのだという。世代を超えて数えきれないほどの不良少年がその統一を夢見て入学し、3年間をケンカに明け暮れて過ごし、そして鈴蘭統一の志半ばで卒業していく……そんな無限ループが永遠に続く世界に、春道は転校してきたのだ。
     春道は圧倒的な戦闘力を見せつけ、彼に戦いを挑む鈴蘭内の各派閥の領袖たちをことごとく破ってゆく。その勇名はやがて彼を他校との抗争の中に導いてゆくが、春道はその挑戦者たちをもことごとくほぼ初戦でノックアウトしてゆく。なぜ春道は「強い」のか。
     答えは既に春道自身の口から語られている。春道は「グレてもい」なければ、「不良なんか」でもないからだ。
     坊屋春道は劇中でほとんど唯一、鈴蘭の統一など不良少年社会での権力の獲得に興味を「示さない」人物として描かれている。そう、「グレてもいない」し「不良でもない」春道は単に「勉強が嫌い」で「ケンカが好き」なだけで、決してアウトローであることに意味を見出していないのだ。したがって「鈴蘭のてっぺん」にも「大人社会への反抗」にも興味がない。彼が戦う理由はふたつ、仲間を守るためと自分の快楽、面白さのためだ。そんな春道に、鈴蘭の統一や不良少年社会での覇権を夢見る少年たちが次々と挑戦し、そして敗れていくことで物語は進行する。
     これが意味するところは何か。髙橋ヒロシがここで描いているのは、ヤンキー漫画がその数十年の歴史の中で育んできた男性ナルシシズムの更新、「カッコイイ男」のイメージの更新だ。春道は不良少年たちの世界──思春期の数年間だけそこに留まることができるモラトリアム空間、疑似的な社会──の中での自己実現に拘泥する少年たちを愛情をもって退ける。「不良」である彼らは一般の社会から疎外されたアウトローであるという自覚を持ち、それゆえにもうひとつの社会での自己実現を権力奪取というかたちで目論む。しかし、そんな自己実現に全く興味を示さない春道に敗れることで、彼らはことごとく転向してゆく。疑似社会での期間限定の自己実現ではなく、ケンカすることそれ自体を楽しみ、魂を燃焼させることに美的な達成を見るという春道の示したモデルに転向してゆくのだ。(劇中で春道と互角以上の戦いを展開することができたのは、同様に権力闘争に興味を持たない林田恵・通称リンダマンのみだ。)
     ここで髙橋が坊屋春道という男に託したのは、これまでのヤンキー漫画の美学の延長線上にありながらも、少なくとも従来の意味では「グレてもい」なければ、「不良なんか」でもない男の理想像、「大人社会への反抗」に意味を見出し、アウトローであることにアイデンティティを見出さ「ない」男の理想像に他ならない。だからこそ、この物語では従来のモデルの不良少年が春道の影響下に転向してゆくという物語が描かれたのだ。
     そんな坊屋春道の最後の戦いは、全国的な勢力を誇る不良少年グループ「萬侍帝國」の幹部・九頭神竜男とタイマンだ。不良少年社会=疑似社会の頂点に君臨する九頭神はまさにこの物語で描かれてきた古い、従来の「不良」を代表する存在だ。そう髙橋ヒロシは物語の結末に、春道のこれまでの戦いとは何だったかを総括し、改めて読者に示すエピソードを配置したのだ。
     タイマンの前半、春道は九頭神に対して劣勢を見せる。戦いを見守るのは春道の後輩・花澤(通称ゼットン)と九頭神の舎弟・トシオだ。呑気にタイマンを見守るゼットンに、トシオは問いかける。「おまえアニキ分がやられているのによくそんなもん食ってられるな!」と。しかしゼットンは動じない。それどころか「オレはあの人(春道)の子分でも舎弟でもない」と告げる。これは間違いなく、春道がその登場時に述べた自己規定の言葉と対応したものだ。「不良」でもなければ「グレて」もいない春道の後輩は「子分」でも「舎弟」でもないのだ。そしてゼットンはトシオに告げる。「九頭神竜男が最強の男なら坊屋春道は最高の男よ! たかが最強程度で最高に勝てるわけがねーだろうが!」と。
    「最強の男」とは何か。それはアウトローたちのもうひとつの世界での自己実現=権力奪取を夢見る少年たちの到達点だ。現実の社会と歴史に生きる証を見つけられなくなった代わりに、もうひとつの社会ともうひとつの歴史を生きることで自己実現を果たそうとするアウトローたちの到達点だ。対して「最高の男」とは何か。それは「最強の男」が目指す疑似社会での自己実現に背を向け、いま、ここの一瞬の魂のきらめきに美的な達成を見出す生き方だ。何かのために戦う(ケンカする)のではなく、戦うこと自体が目的なのだ。ある自己実現のモデルを追求し、その中で強弱を競い勝ち抜いた人間が「最強」だとするのなら、最初からそのモデルの限界を前提とし、別のモデルを追求している人間が「最高」なのだ。「最強」が「最高」に「勝てるわけがない」のはそのためだ。
    『クローズ』の世界にはたとえばほとんど「大人」と「女性」が登場しない。そう、彼らには乗り越えるべき「父」も、守るべき「女」も存在しないのだ。かつての男性的なもの=最強の男が通用しなくなった新しい世界の、あたらしい男性性のモデルを提示すること、それが『クローズ』の主題であり坊屋春道が体現した「最強から最高へ」の変化なのだ。(そして髙橋ヒロシの手を離れ、オリジナルのストーリーが展開する前日譚の映画「クローズZERO」シリーズはまさに、主人公が父を乗り越え、ヒロインを救い鈴蘭統一を目指す「最強の男」の物語として描かれ、春道の転入直前の春に主人公が鈴蘭を統一を果たせずに卒業するシーンで終わる。映画版の制作者たちは、髙橋ヒロシが坊屋春道という主人公を通して『クローズ』が提示した世界観の本質を正しく理解し、新旧の主人公を対照的に配置したのだろう。)
     そして物語は春道の影響下に「最強」から「最高」へとその生き方を変化させていった少年たちの卒業を描いて幕を下ろす。ある者は大工、ある者はボクサー、ある者はミュージシャン──それぞれの夢を現実社会の中に見出し、彼らは卒業していく。たとえその夢が実現できなくとも、夢を追うその過程に快楽を見出すことができれば、彼らは「最高」でいられるだろう。しかし、物語のエピローグは読者をあたらしい迷宮へといざなっていく。当の春道だけが、「最高の男」の頂点に立つ坊屋春道だけが「卒業」することができず、留年し鈴蘭高校に留まったことがエピローグでは描かれるのだ。
     そう、この物語では坊屋春道だけが「卒業」することができなかったのだ。もっと言ってしまえば春道だけが「成長」することができなかったのだ。なぜならば、『クローズ』における成長=卒業とは「最強の男」的な生き方からの「卒業」であり、登場した時点で既に「最高の男」である春道にはその必要がなかったからだ。
     では、春道はその後どこに向かっていけばいいのだろうか。この巨大な問いに立ち向かったのが、『クローズ』の続編である『WORST』だ。
     
  • "走り屋"は時が止まった世界で戯れる――『頭文字D』の"D"とはなにか ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.024 ☆

    2014-03-06 07:00  

    "走り屋"は時が止まった世界で戯れる
    『頭文字D』の"D"とはなにか
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.3.6 vol.024
    http://wakusei2nd.com

    【お蔵出し】「D」は〇〇〇〇の「D」
    (初出:「ダ・ヴィンチ」2014年3月号)



    昨年、18年にわたる連載が完結した『頭文字D』。成長物語を志向した当初の展開とは裏腹に地元での抗争に終始したこの漫画をサブカルチャー史の大きな流れから宇野が読み解きます。

      正月休みに組み立てるレゴとプラモデルを買いに、池袋に出かけた。たぶん、大晦日のことだったと思う。僕は数時間後に大島優子が卒業を発表することも知らずに、混みあうビックカメラの6階でレゴ・アーキテクチャーのマリーナ・ベイ・サンズと、1/144スケールのガンダムF91を手にして浮かれていた。6人待ちのレジに並んで、8割の期待と2割の苛立ちを覚えていたとき、あの車と僕は再会したのだ。
     
     AE86 スプリンタートレノ、通称「ハチロク」。白黒のツートンカラーに塗り分けられたこのタイプ(パンダトレノ)は90年代に全国の「走り屋」たちに愛された名車にして、そんな走り屋たちの世界を題材に展開し、彼らのバイブルとなった漫画『頭文字D』の主人公・藤原拓海の愛車だ。
     
     僕が目にしたのはレジ前のトミカコーナーに積まれた「ハチロク」藤原拓海仕様のミニカーだった。そう、国内を代表する児童向けミニカーシリーズ「トミカ」には、漫画・アニメなどに登場する車を「ドリームトミカ」として発売しているのだが、この年の秋に『頭文字D』のハチロクがラインナップに追加されたのだ。
     
     思わず手に取りながら、そういえばこの漫画の連載も終わったんだな、と思い出していた。そう、この年の夏に18年続いた『頭文字D』の物語はようやく完結を迎えていたのだ。この漫画の連載がヤングマガジンではじまったとき、僕は高校2年生だった。自動車の運転に憧れていても、法律上免許を取ることが許されていない年齢だった。しかし連載が始まった1995年の夏、高校3年生という設定で既に18歳を迎えていた藤原拓海は、免許をとってはじめての夏を迎えていた。作中で物語の舞台は「90年代」としか明かされていないが、仮に連載開始時の1995年だと考えれば拓海は僕と同世代、ひとつ年上のお兄さんにあたる。そんな拓海は自動車の購入計画に胸を弾ませる級友を「何がそんなに楽しいのか」と冷ややかに眺めていた。その拓海の冷めた感想は、実は僕がこの漫画に出会ったときの、そして僕が自動車というものに対して抱いていた感想にそっくりだった。そう、当時の僕は自動車にも、その運転にもまるで興味がない17歳だった。
     
     
     一昨年(2012年)の秋、トヨタ自動車社長の豊田章男氏が「車を持てば、女性にもてると思う」と発言しインターネットの若者層から強い反発を浴びた。豊田社長のこの発言は「若者の車離れ」を食い止めることをテーマに設定したイベントでの発言だったという。しかし、豊田社長は分かっていない。「車を持てば、女性にもてる」という発想が過去のものになったからこそ、若者の「車離れ」は起ったのだ。
     
     戦後という長くて短い時間、自動車はアメリカ的な豊かな社会の象徴であり、それを実力で獲得できる「大人の男」の象徴だった。少年は安価で小回りの利くオートバイに憧れ、やがて自動車に乗り換えて大人の男になっていく。助手席に恋人を乗せるところからスタートして、やがて家族のためにファミリーカーに乗り換え、子育てを終えたあとは趣味の高級車に乗り換える……。そんな時代がこの国にも「あった」のだ。
     
     そして拓海や僕の世代は、そんな物語の重力が失われた最初の世代でもあったはずだ。僕からしてみると、まず、男が女を助手席に乗せて自分の優位を示す、というマッチョな発想についていけない。そして、高校に上がるころにはすっかりバブルも崩壊していた僕らが、いまさら自動車にアメリカ的な豊かな消費生活を見ることなんか、あるわけがない。僕らが思春期を迎えたのは、一度アメリカを追い越したはいいものの、調子に乗ってスピードを出しすぎた結果コーナーを曲りきれず、ガードレールを突き破って谷底に転落した後の時代だ。古本屋で見つけた片岡義男の小説をめくったときは、昔の日本はこうだったのかと文化史の教科書のつもりで読んだ。それがヒルクライムではなく、ダウンヒルの時代に思春期を送った僕ら世代のリアリティだ。僕らにとって自動車を運転することで重要なのは、速く、力強く坂を上がることではなく、ガードレールを突き破らないように器用に坂を下ることだった。
     
     だから僕も、そして藤原拓海もまた、そんな器用にやり遂げることだけを要求される世界=自動車の運転にまったく面白みを感じていなかったのだ。
     
     
     そう、藤原拓海はまったく自覚のないままに卓越したドライビングテクニックを身に付けていた。どうやらかつてプロのレーサーだったらしい父親によって、家業のとうふ屋の納品を代行するという名目で拓海は14歳の頃から自動車の運転を身に付けていた。毎朝、夜明け前に峠を全力疾走していた彼は自分でも気が付かない間にダウンヒルのスペシャリストになっていたのだ。しかし拓海にとってそれは単に効率よく家業の手伝いをこなすための技術であり、無味乾燥な作業だった。
     
     そしてこの『頭文字D』はそんな拓海少年が車の快楽に目覚め、成長していく物語として幕を開ける。少なくとも、物語の開始時はそう構想されていたはずだ。かつて『バリバリ伝説』でオートバイを題材に少年の成長物語を描いたしげの秀一は、おそらくオートバイや自動車がかつて背負っていた物語を失いつつあることを察知して、その回復をこの作品を通して描こうとしていたのではないかと僕は思う。
     
     だからこそ、拓海は父親から受け継いだハチロク(当時すでにレトロカーとして扱われていた)を愛車にしなければならなかったのだ。なぜならば本作は喪われた「車」の物語を回復するための作品としてはじまったのだから。
     
     そして拓海が好きなクラスメートの女子(なつき)は高級車を乗り回す中年男性と援助交際をしていなければならなかったのだ。なぜならば、拓海は強い大人の男に成長して、間違った歳の取り方をした大人の男から彼女の心を奪い取らなければいけなかったのだから。
     
     そして実際に、藤原拓海は走り屋の世界に触れることで、自動車の快楽に目覚めることで社会化し、やがて無難にやり過ごしていた自身の父子家庭や、なつきの問題に向き合っていく。
     
     そして、そんなアナクロな世界観が苦手で、僕は長い時間この漫画のいい読者ではなかった。拓海はやがていわゆる「ラスボス」としての父親と対決し、彼に勝利する。そして仲間たちに見守られながら、地元(群馬)を去り、レーサーになるために東京に発つのだろう。僕はこの物語の展開を勝手にそう決めつけて、そんなありきたりな、そしてアナクロな成長物語にリアリティを感じないと心の中で切り捨てたのだ。
     
     しかし、それは愚かな判断だった。
     
      
  • これで土曜の新作公開への備えはバッチリ!?――大長編ドラえもん漫画を宇野常寛が全作レビューしてみた ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.023 ☆

    2014-03-05 07:00  

    これで土曜の新作公開への備えはバッチリ!?大長編ドラえもん漫画を宇野常寛が全作レビューしてみた
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.3.5 vol.023
    http://wakusei2nd.com


    今週土曜に新作映画『のび太の大魔境』が公開されるドラえもん。そこで今朝は、宇野常寛が大長編ドラえもん漫画・全24巻を全作レビュー。藤子・F・不二雄の作家的挑戦とその格闘の果ての"壊死"に刮目せよ!

    「大長編ドラえもん」は藤子・F・不二雄の遺した極めて巨大な知的格闘の産物である。いまその成果を読み返すと、藤子が単行本一冊というごく少ない分量の中に児童のあらゆる憧れを詰め込み、その上で二転三転する物語をしっかりと展開させる離れ業を毎年自らに課していたことがわかる。
    そしてもっとも特筆すべきは、藤子が日常を舞台としたギャグ漫画としての『ドラえもん』本編を破壊しないように、あくまで主人公(のび太)の成長を拒否し続けていたことだろう。ジュブナイルにおいてもっとも簡易に物語を成立させることができる主人公の成長という構成要素を、藤子は最大の禁じ手にし、あくまで成長しない主人公=のび太が、他力=ドラえもんのひみつ道具で事態を解決するという作品の基本構造を崩さないまま、冒険活劇を描き続けようとしたのだ。そのため「大長編ドラえもん」シリーズはかなり初期の段階で「ドラえもん」世界観の根底を問い直すテーマ(のび太はドラえもんに頼ってばかりでいいのか、という問い)や、児童漫画とは思えない高度なメタフィクション要素を内包することになった。そしてこうした高度な知的格闘の連続はやがて、作家としての藤子の壊死をもたらしていくのだ。
     
     
    ■のび太の恐竜
     

    ★★★★
    児童の知的好奇心を煽る素材(恐竜)、食事シーンに代表される同世代の仲間たちとの楽しいピクニック気分、そしてそこから非日常の大冒険に巻き込まれて行く緊張感……第一作にして、「大長編ドラえもん」の基本要素が出そろっている。しかし、もっとも重要なのは第一作にしてのび太たちが自力で困難を乗り越えることができない(大人が助けに来る)という結末だろう。のび太を成長させないまま物語にカタルシスを発生させるため、藤子は他力解決という「ドラえもん」の本質的な問題が露呈した展開をゲストキャラクターとの悲しい別れがもたらす「感動」で誤摩化すという手法を採用した。そしてこの手法が成功したことが、藤子を以降20年に渡る困難な戦場に導くことになる。
    (Wikipedia)
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93_%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA%E3%81%AE%E6%81%90%E7%AB%9C
     
     
    ■のび太の宇宙開拓史
     

    ★★★のび太を成長させるのではなく、「低重力の異星にいる間だけはスーパーマンになれる」という設定を用いることで前作の問題を回避している。超人願望に直接訴えかける設定と展開は魅力的だが、このとき導入した「実はのび太は射撃が得意」だという設定は作品世界を根底から崩しかねないものだったと言える。そのせいか以降、藤子はこの手法を封印する。(Wikipedia)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93_%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA%E3%81%AE%E5%AE%87%E5%AE%99%E9%96%8B%E6%8B%93%E5%8F%B2
     
     
    ■のび太の大魔境
     

    ★★★★★
    「探索されつくされた地上にはもはや魔境は存在しないのではないか」という物語の端緒となる問いかけは、藤子の児童漫画家として問題意識そのものでもあるだろう。このメタ的な問題意識が中盤の「冒険気分を維持するために意図的にひみつ道具の使用を禁じる」という展開を生じさせ、メタフィクション的なからくりでのび太たちが事態を打開するという結末につながっている。前者は物語自体を成立させるため、後者はのび太を成長させることなくカタルシスを発生させるための手法として、以降の「大長編ドラえもん」を支える黄金パターンとして洗練されていく。他にも「大長編では急にいいヤツになるジャイアン(のび太以外は一時的に成長させても作品世界は壊れないことの発見)」も「恐竜」からのアップデートというかたちで本作で確立されたと言える。シリーズの方向性を決定づけた初期の傑作。
    (Wikipedia)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93_%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%AD%94%E5%A2%83 
     
    ■のび太の海底鬼岩城
     

    ★★★
    前半の「児童の考える夢のピクニック」を手際よく叶えていく展開は完璧だが、後半のスペクタクルがやや淡白。「大魔境」のメタフィクション的なアプローチを封印し、バギーの自己犠牲で物語を収束させることで、つまり結末でのゲストキャラクターとの別れの生む感動に自己犠牲の要素を加えることで読者の感動をを増大させたものの、その反面「大長編ドラえもん」の最大の魅力であったはずの結末のどんでん返しとそれに伴う知的ギミックの生むカタルシスが失われている。
    (Wikipedia)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93_%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA%E3%81%AE%E6%B5%B7%E5%BA%95%E9%AC%BC%E5%B2%A9%E5%9F%8E
     
     
    ■のび太の魔界大冒険
     

    ★★★★★
    「大魔境」のアップデート版として、本格的なメタフィクションを展開した野心作。その結果、設定にいくつか矛盾が生じているが、未来からの介入であっさりと訪れた解決(エンドマーク)をのび太が拒否するという終盤の驚愕の展開は、「大長編ドラえもん」を通じて藤子が洗練させてきた脚本術の真骨頂だろう。「なんでもあり」のドラえもんの設定を逆手に取って、のび太にわざわざ可能世界の仲間たちを助けに行くことを選ばせることでカタルシスを発生させる、という発想には脱帽させられる。また、ここで示されている倫理観は主人公の成長を描くことを自らに禁じて来た作者だからこそたどりついたものであり、この確信が作品世界を強く支えている。
    (Wikipedia)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93_%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA%E3%81%AE%E9%AD%94%E7%95%8C%E5%A4%A7%E5%86%92%E9%99%BA 
     
    ■のび太の宇宙小戦争
     

    ★★★★
    アクロバティックな前作とは対称的に児童の願望(プラモデル少年の夢)を充足する物語を極めて直接的に、しかしこれまで培ったノウハウを総動員して過不足なく展開している。設定的に成長させることのできないのび太の代わりに、スネ夫の成長物語を後半の基軸に据えた結果、本作は主人公たちがほぼ独力かつ自力で事態を解決している珍しい作品になっている。作者のストーリーテーリングの円熟を感じさせるが、ここまで読み続けて来た(舌の肥えた)読者は恐るべきことに、アクロバティックなメタフィクション的仕掛けのない事態の解決に物足りなさを感ざるを得ない。
    (Wikipedia)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93_%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA%E3%81%AE%E5%AE%87%E5%AE%99%E5%B0%8F%E6%88%A6%E4%BA%89 
     
    ■のび太と鉄人兵団
     

    ★★★★★ 
  • いま読むべき面白い漫画とは?~現役漫画編集者匿名座談会 2014 Spring~ ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.019 ☆

    2014-02-27 07:00  

    いま読むべき面白い漫画とは?~現役漫画編集者匿名座談会 2014 SPRING~
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.2.27 vol.019
    http://wakusei2nd.com


    いま、本当に読まれるべきはどの作品なのか。業界の第一線で常に締め切りと校了日のはざまに生きるアラサー編集者トリオが、深夜の宇野事務所にひっそりと集結。普段は絶対口にできない、他誌と他社の傑作&問題作を、嫉妬と羨望を込めて語り尽くす!
    《目次》
    ■『リピートアフターミー』に見る、“ループもの”ストーリーの到達点
    ■実録ものをフィクションとして描くということ――『「ガンダム」を創った男たち。』
    ■なぜいくえみ綾は不倫のリアリティを描けるのか?――『あなたのことはそれほど』
    ■漫画のなかの「いじめ」――大今良時『聲の形』から
    ■46巻にして絶頂期を迎えた『Q.E.D.証明終了』
    ■『キングダム』こそネ申である!!
    ■ミステリー漫画の最新型、『僕だけがいない街』『ミュージアム』
    ■『亜人』は次なる『進撃の巨人』の位置を狙えるか?
    ■いまあらためて読むべきは古参作家の新連載!?――平野耕太、あだち充、小畑健、ハロルド作石
    ■『さよならソルシエ』とは何だったのか
    ■「ごはん食べる系」漫画が全盛となった2014年
    ■漫画で「天才」をどう描くのか?
    ■描線に宿る快楽――『きぐるみ防衛隊』、『おひとり様物語』
    ■キミは、『失恋ショコラティエ』を読んで傷つくことができるか
    ■いま、岡本倫のオフサイド具合が面白い!――『極黒のブリュンヒルデ』『君は淫らな僕の女王』 
    《座談会参加者》
    A夫:青年誌の編集者。20代。Kindleでの漫画購入用にiPad miniを買う必要を感じている。
    B子:少女誌の編集者。30代。一見クールビューティ系だが、実は非モテの心を持つ。
    C太:少年誌の編集者。30代。バトル漫画を担当中。生涯ベスト漫画は松本大洋「ピンポン」。
     
    ◎構成:佐藤雄+中野慧
     
     
    ■『リピートアフターミー』に見る、“ループもの”ストーリーの到達点
     
    宇野 今回は「漫画編集者匿名座談会」ということでみなさんに集まってもらいました。『この漫画がすごい!』や『フリースタイル』を始めとした漫画ジャーナリズムや、漫画批評の視点とはまた異なったかたちで、現場で実際に漫画を作っている側の編集者がどんな漫画に注目しているかを今日は伺いたいと思います。ルールとしてゴシップやディスはなるべくしない方向で、ただし「こうしたほうが面白かったかも」といった、愛のあるツッコミは大歓迎! ということにしたいと思います。それではどうぞよろしくお願いします。
    A夫・B子・C太 よろしくお願いします。
    宇野 それでは、さっそく皆さんが最近気になっている作品を、どんどん挙げていってもらえますか?
    A夫 最近でいうと、ヤマモトマナブ『リピートアフターミー』(月刊コミックブレイド)が面白かったですね。内容はノベル系ゲームの系譜にある、タイムループもの。良いことするのが好きな女の子が、善行の回数でギネスを狙ってるんですよ。それで良いことをしたときにその相手から半強制的にサインをもらうんです。お婆さんに席譲ったら「あたし席譲って、今あなた幸せになりましたよね?」という感じで(笑)。
    C太 超イヤな女の子だな(笑)。
    B子 私もこの作品は好きですね。C太さんの言うとおり、クソみたいな女の子なんですけど、ちゃんとそのクソな自分に気づいていくのがこの話の良いところですね。
    A夫 B子さんはキャラが成長する部分が好きなんですよね。
     この作品は主人公の女の子が殺人事件に巻き込まれて、一緒にループに巻き込まれた男キャラと2人で事件を解決するっていう展開なんですけど、その2人の出会い方が最悪なんです。でも話が進むごとにお互いに対する好感度が高くなっていくのが良かった。
    B子 その最悪な出会いが、冒頭で一番おもしろい部分ですね。主人公の女の子が銀行強盗に出くわして、殺されそうになる……んだけど、その被害者と加害者だったはずの2人が仲良くなりつつ、ループしていく、という。この作品はとても面白かったので、もっとみんなに知ってほしいですよね。どうすれば広められるかな……。
    A夫 ちなみに僕がハマったのは、書店での試し読みがきっかけなんだよね。あの手のものって読むと続きが気になるんです。きっちりとした設定があるなら曖昧なオチはないだろうっていう期待感もあるし。
    B子 全2巻で、コンパクトにまとめ切っている作品ですよね。ただ、もう少し読みたかったから長くやって欲しかった……!!
    A夫 でもループものって読み切りに向いているスタイルだから、そんなに長くはできないよね。コンパクトにまとまっているから人に勧めるには最適…なんだけどKindle化してないのが非常に残念。
     漫画喫茶に行く人にオススメしたい、3巻から5巻くらいのコミックスって実はあまりないんだけど、『リピートアフターミー』は珍しくそういうタイプの作品です。

     
     
    ■実録ものをフィクションとして描くということ――『「ガンダム」を創った男たち。』
     
    C太 俺は『ムダヅモ無き改革』(近代麻雀)でもおなじみの大和田秀樹さんの『「ガンダム」を創った男たち。』を挙げたい。監督の富野由悠季さんが主人公で、アニメ『機動戦士ガンダム』の企画段階から映画公開までの話を描いている。
    B子 宮崎克、吉本浩二『ブラックジャック創作秘話~手塚治虫の仕事場から~』(週刊少年チャンピオン)のような感じですか?
    C太 いや、この作品のすごいところは、嘘ばっかりなの(笑)。たとえば最初、主人公アムロの声優である古谷徹さんが「殴ったな! オヤジにもぶたれたことないのに!」とアフレコしているシーンから始まるんだよ。
     最初は古谷さんがなかなかいい演技ができない。でも、富野監督が乱入してきていきなり古谷さんをぶん殴るんだ。そこで「もう1回今のセリフ言ってみろ」と言い、もう1度アフレコを行うと古谷さんの演技が「馬鹿な! 良くなってる!」っていう(笑)。
     とにかく実録ものなのに「絶対嘘だろ!」っていうシーンが多いんだけど、登場人物のキャラクターの強さが、話のリアリティのなさをどうでもいいや!と思わせてくれるので、すごくおもしろい。キャラクターデザイナーの安彦良和さんが王子さまキャラで、メカニックデザイナーの大河原邦男さんが町工場のオッサンで、いつも何か工具を手にしていたり(笑)。
    B子 ……どういうノリで作ってるんだろう(笑)。編集は怒られないんですかね?
    C太 富野さんから「好きにやりなさい」って許可はもらってるらしい。
    宇野 『ブラックジャック創作秘話』の「これっていい話だろ、ほら感動しろよ」的な感動の押し売りアプローチに対する強烈なアンチで、たとえどれだけ嘘で、どれだけ二次創作的であったとしても、漫画は魅力的な作り話を描くべきだって思想がここにはあるんだと思うよね。
    C太 漫画として面白ければ、本当の話かどうかはどうでもいい。俺は「ガンダム」自体はほとんど見てない人間で、特に思い入れもない。そういう自分がおもしろいと思えるのはキャラが良いからで、この作品を読むとフィクションの力のすごさを感じる。

     
     
    ■なぜいくえみ綾は不倫のリアリティを描けるのか?――『あなたのことはそれほど』
     
    B子 私はいくえみ綾『あなたのことはそれほど』(FEEL YOUNG)がすごく良いですね。内容はダブル不倫ものなんですが、いくえみ綾さんって、現実的できれいごとだけじゃないのに、ちゃんと読者が憧れちゃう世界を描くのがうまいと思うんです。不倫相手が初恋の男の子でちゃんと格好良くなっているところとか。でも、その初恋の相手の奥さんは美人じゃないところとかはリアルで(笑)。
     なぜ北海道にいて、猫に囲まれ、素敵な結婚生活を送っているいくえみ先生がこんなバランスを描けるんだろうって思うんですけど、最高です。でも、この作品を好きっていう女子はモテない気がします(笑)。
    A夫 僕もこれ読んでるんですけど、おもしろいのは、ダブル不倫なので主要人物が4人いるんですが、この4人の心理描写になにひとつ無理がないってところですね。「ストーリー上、仕方なくキャラを曲げたな」っていう部分がない。なにかの取材なんじゃないかって思います。身近に実例があるような。
    B子 主人公の女性は「結婚っていうのは1番好きな人じゃない人とするほうが良いんだよね」みたいな価値観で、冴えないけどいい旦那となる編集者の男と結婚します。そしてその後、初恋の人と再会するのがダブル不倫の始まりです。
     その初恋の男は、そこそこモテるのに誰にも本気になったことがないタイプで。学校の同級生の冴えない女の子を怖いと思いながらも、その冴えない女のことがなぜか気になる。なんなら癪に障るなとすら思っていたのに、気づいたら結婚しているという。
    A夫 その奥さんである女性っていうのは、一重瞼のあまりぱっとしない人で、女子女子した感じではないんですけど、頭の良さと独特のしたたかさがあって食えない人ですね。奥さんは旦那が浮気にしていることに気づいています。たとえば主人の持ち物を見て、「これ、あなたの趣味じゃないわよね~」とか言いながら他の女からもらったことがわかってるんです。
    C太 いくえみ綾さんはそういう情景や心理を描く才能がありすぎて、たまに読んでいてつらいんだよね。
    B子 でもそれは女子の大好物なんですよね。男性はそういった女性の心理を怖いと思うかもしれませんが、女には、あるあるだと思います!
    A夫 あれほどのキャラを描いていて、破綻しないのが本当にすごいですね。男子の嫉妬が湧いてくるポイントも的確で、「奥さんが寝言で別の男の名前を言うときの声が聞いたことのない甘い声だった!」みたいな(笑)。
    B子 そしてそのときに初めて旦那さんは奥さんの携帯を見ちゃって、それ以来見るのを止められくなり、それが僕にとってすごく悲しいことだ、みたいなモノローグが入るんですよ。
    C太 いくえみ綾さんのモノローグのセンスは業界3本の指に入ると思う。あれは編集者にはつくれないよ。作家でなければ描けない。それとやっぱり、『あなたのことはそれほど』ってタイトルワークもすごいなと思う。
    A夫 いくえみ綾さんのすごいところは、4人のキャラをデザインの被りもなく描き分けできるところです。登場人物たちの過去と現在の絵がちゃんと誰が誰かわかるんですよ。こういった力を持っている作家って、なかなかいないです。
    宇野 「モテない人の漫画」ではなく、「モテるんだけど、本命には愛されない人の漫画」って感じだね。
    A夫 みんなそうなんじゃないかな、っていうスタンスですね(笑)。結婚を決断をする流れになるとき、みんないろいろあると思うんですけど、そのあたりの描き方がやたらリアルです。外圧に負けた感とか、自分の気持ちが盛り上がったとか、そのあたりの気持ちの変化に無理がないのがなによりすごい作品ですね。
    B子 外圧に負けただけじゃなくて、どこか自分のなかで真実だと思って結婚したんだろうな、という描き方ですよね。
    A夫 漫画を読んでいて白けるところって、リアリティを感じなくなる部分なんですよね。ファンタジーでも現実世界の話でも。「なぜこのキャラはこういう風になってしまったのか」という疑問を読者に抱かせたらアウト。作家の都合でストーリーに合わせてキャラをねじ曲げた瞬間に魅力が減ってしまう。
    B子 『あなたのことはそれほど』にはそれが微塵もない。すごい。という結論しか出ないですね(笑)。

     
     
    ■漫画のなかの「いじめ」――大今良時『聲の形』から
     
    B子 ストーリー都合でキャラを曲げていない自然さで言うと、大今良時『聲の形』(週刊少年マガジン)も同じく良いですね。
    C太 うーん、あの漫画は、毎週追いかける気が起きない。読み切り版は好きだったけど、完成された話にそれほど付け足さずにやっている印象なので。
    A夫 読み切りでちゃんと完結してる話を連載にして続けるのってやっぱり難しくて、その意味で編集者としてすごく気になる作品ですね。部数も2冊で40万部以上出ているので強い支持を受けているのが伺えますが、あまり長く続けられる漫画ではないから、どう締めるのかという点にすごく注目してます。
    C太 読み切りの、これからこの2人どうなっていくのかなっていう後味がおもしろかったから、その後の展開を具体的に描かれると意外としんどいなって思う。あと、「この漫画がすごい!」のランキングに入りそうだよね。「この漫画をつまらない」っていう人は「人として大事なものが欠けている」っていうカテゴリーじゃない?
    B子 そうかもしれないですね(笑)。あの作品のすごいところは、いじめが出来上がる瞬間をものすごくリアルに描いていることだと思います。単なる勧善懲悪な話じゃない。いじめっ子が「俺はこいつをいじめていいんだ」って思っても仕方なかったんじゃないかって、思わず感情移入しちゃうんですよ。そういう空気を作った担任やクラスメートが1番無責任で悪人な感じがする。もちろんいじめられた方はたまらないし、いじめた主人公はそのあとちゃんと罪をつぐなっていくことになるんですけどね。私はこういった人間関係の機微をきちんと描いた作品は好きです。「いじめっ子は悪人、いじめられたほうはかわいそう」っていうだけじゃない『聲の形』はおもしろいと思います。
    A夫 この漫画の間違いなく良いところってなによりキンドルで出てることですよ。
    宇野 いま僕もキンドルで2冊買った。
    A夫 これは大事です、非常に(笑)!
     

     
    C太 いろいろグダグダ言ってるけど要するに俺、漫画編集者ながら、漫画でいじめネタ読めないんだよね、つらくて。羽海野チカ『3月のライオン』(ヤングアニマル)もいじめの話になった瞬間に読めなくなったくらい。
    宇野 羽海野さんって、秀才タイプであって天才ではないと思うんだよ。天才じゃないからこそ、天才の話を描こうとする。しかし、結局「天才」それ自体は描けない。そしてそのことで自分を追い詰めながら描いている。すごく技術は高いんだけど、自分の描きたいものが描けてない感が伝わってきてきちゃって、読んでてつらくなってくる。そしてそのやるせなさがあの漫画を良くも悪くも特徴づけている。
    B子 『ハチミツとクローバー』でできなかった、「描ききる」ということに挑んでいる感じがします。そして、一緒に最後までやりきれる編集者と出会ったんだと思います。
    A夫 『3月のライオン』の初代担当編集者が異動して、今「花とゆめ」の編集長なんだよね。ただ担当は続けているっていうイレギュラーな状態です。おそらく羽海野さんは次は「花とゆめ」でやるんだろうな、と。そういう意味で次回作に期待もできますね。
     
     
    ■46巻にして絶頂期を迎えた『Q.E.D.証明終了』
     
    C太 それと、連載が長期に渡っている漫画ってランキングとかにランクインしないだろうという意味で、俺は『Q.E.D. 証明終了』を推したい。今最新刊が46巻なんだけど、基本的に「こち亀」みたいな1話完結の推理もので、どこから読んでも入れるから、ぜひ手に取ってほしいんだよね。
     この46巻には「巡礼」っていう100ページくらいの読み切りがあるんだけど、個人的にはQ.E.D史上最高傑作だった。しかも連載十数年経って最高傑作が出るところに感動した。特にミステリーものの1話完結なんてハードルが高いものを、ハイレベルで安定供給しているので、個人的に漫画界で1番頭良いのは加藤元浩さんじゃないかと思ってて。出てくる人間がモブではなく、血が通っているところもすごくて、俺はかなり尊敬している作家さんだなぁ。