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記事 26件
  • 脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第39回「男と食 10」【毎月末配信】

    2018-07-31 07:00  

    平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。鮑(あわび)をこよなく愛する敏樹先生。「鮑は長時間蒸すと味が薄くなる」という北大路魯山人の言が本当なのかを確かめるために、蒸し時間に差を付けた鮑の食べ比べに挑戦します。
    男 と 食  10   井上敏樹
    前回、夏と言えば鮎、と書いたが、鮑もまた心くすぐる夏の素晴らしき食材である。
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  • 音楽フェス、都市型バーベキュー、フリークライミング――〈アウトドア〉は社会をどう変えたのか(アウトドアカルチャーサイト「Akimama」滝沢守生インタビュー・前編)(PLANETSアーカイブス)

    2018-07-30 07:00  

    今朝のPLANETSアーカイブスは、音楽フェスからアウトドアまでを幅広く扱う情報サイト『Akimama(アキママ)』を運営する株式会社ヨンロクニ代表・滝沢守生さんのインタビューです。日本にアウトドアカルチャーが定着するまでの過程や、2000年代以降のアウトドアシーンで野外音楽フェスが果たした役割について、お話を伺いました。 ※この記事は2016年5月19日に配信した記事の再配信です。
    《これまでの本シリーズのダイジェスト》
     近年、都市住民を中心としてランニングやヨガやフリークライミング(ボルダリング)、登山などのアウトドア・アクティビティを生活やレジャーに取り入れる動きが活発化しています。かつてはスポーツといえば学校の球技系部活が中心となっていましたが、個人でも取り組めて、かつ「競う」のではなく「楽しむ」趣味の一貫として、または運動不足に悩むデスクワーカーたちが健康維持のために行うものとしてのスポーツが存在感を増しています。水面下で起こっているこの巨大な変化を私たちはどう捉えればいいのだろう――そんな問題意識から、このシリーズはスタートしました。
     最初にPLANETS編集部は、「ライフスタイル化するスポーツとアウトドア」の様々なギアをパッケージングして販売し、好評を博しているスポーツセレクトショップ「オッシュマンズ」の営業計画・販売促進担当マネージャー・角田浩紀さんにお話を伺うことにしました。

    都市生活とスポーツの融合が生み出す”新たなライフスタイル”とは!? ――「アメリカ生まれのスポーツショップ」オッシュマンズを取材してみた
     角田さんによれば、「今の東京の都市生活者たちのライフスタイル・スポーツの文化は、アメリカの東海岸と西海岸の文化を融合させた独自のものだ」とのこと。さらに、アウトドアウェアのような機能性の高い服を日常着として着る文化はアメリカ発であるものの、そこにさらに「ファッションとしての文脈」を加えたのは、80年代の日本のファッション業界だったようです。
     そこで今度は、アウトドア&スポーツウェアが日常着として日本社会で受容された経緯について「ファッション」の側から明らかにすべく、BEAMSの中田慎介さんにお話を伺いました。

    「日常着としてのアウトドアウェア」はなぜ定着したのか? ――アメカジの日本受容と「90年代リバイバル」から考える(BEAMSメンズディレクター・中田慎介インタビュー)
     中田さんによれば、カウンターカルチャー全盛の60年代アメリカでは、スーツをはじめとしたビジネススタイルへの反発からワークウェアがヒッピーたちの支持を得た、とのことでした。「文脈の読み替え」として、機能的な服がファッション文化において意味を持つようになったのでした。
     さらに、アウトドアウェアの日本受容が進むなかで、日本の80年代以降の「DCブランド」的な感覚の延長線上で「ファッションアイテム的なモノ」として位置付けられたことが、文化の拡大において大きな役割を果たしたそうです。
     一方で、純粋なアクティビティとしての「アウトドア」の側面からは、現在までの状況をどう捉えられるのだろうか、という疑問も浮かびます。そこで今度は、アウトドア誌「ランドネ」(エイ出版社刊)の朝比奈耕太編集長にお話を伺いました。

    「山スカート」はなぜ生まれたのか? アウトドア誌「ランドネ」編集長・朝比奈耕太に聞くファッションとライフスタイルの接近
     かつては男性の趣味と思われていたアウトドアが女性に人気となり、メディア上で「山ガール」と名付けられ話題になったのは2009〜2010年ごろのこと。もともと運動に無縁の「文化系女子」たちがカラフルなウェアに身を包み、続々とアウトドアに参入していくようになりました。その結果、昔ながらの登山者たちとの対立構図なども生まれつつ、アウトドア・アクティビティの楽しみ方は多様性を増していっている、とのことでした。
     ここまで3人の方に取材を重ね、なかでもオッシュマンズの角田さん、「ランドネ」の朝比奈さんが口を揃えて語っていたのは「アウトドアブームの拡大にはフジロックが大きな役割を果たした」ということでした。
     そもそも「文化系」のものである音楽フェスがきっかけとなってアウトドアへの入口が大きく開いたとすると、「フェスを中心としたアウトドアの歴史」も描くことができるのではないか。そんな関心から、今回は音楽フェスからアウトドアまで幅広く扱う情報サイト『Akimama(アキママ)』を運営する株式会社ヨンロクニ代表・滝沢守生さんにインタビューをお願いすることにしました。

     『Akimama』は、フェスや登山、キャンプなど、アウトドアに関する情報を網羅するウェブメディアとして2013年よりスタートしました。運営は、これまで20年以上アウトドア業界に携わってきた編集者、ライター、カメラマンなど、その道のエキスパートたちによって行われています。自らの視点と自らの足で入手した一次情報をいち早くニュースとして配信、ビギナーからベテランまで幅広いアウトドアユーザーに、オンリーワンな情報ツールとして親しまれています。
     サイトを立ち上げた代表の滝沢さんは、山岳専門誌を出版する「山と溪谷社」に勤務、その間、1976年に創刊された月刊誌『Outdoor』にて6年間編集デスクを務め、その後、独立。これまで数多くのアウトドアメディアに携わるだけでなく、フジロックのキャンプサイトの運営責任者を10年務めるなど、野外イベントの制作・運営などもを行うアウトドア業界の第一任者として広く活躍されています。そこで、アウトドアカルチャーの歴史と変遷を熟知する滝沢さんに、1970年代に日本にはじめて到来したアウトドアムーヴメントから2000年代のフェスの隆盛までを振り返っていただきながら、これからのフェスやキャンプ、アウトドアブームはどう変化していくのかについて、お話を伺いました。
    ◎聞き手・構成:小野田弥恵、中野慧

    ▲Akimama アウトドアカルチャーのニュースサイト
    思想と分離された70年代のアウトドアファッション
    ――『Akimama』は、アウトドアのなかでは気軽なフェスから、登山、クライミング、バックカントリー、女子も気になる “アウトドアごはん”に“ファッション”など、アウトドアカルチャー全体の旬な情報を発信していますよね。「なんとなくアウトドアに興味がある」という人でもとっつきやすい一方で、山岳ガイドや専門店のスタッフによる寄稿など、読み応えのある記事も多い充実したメディアだと感じています。
    滝沢 ありがとうございます。もともとは、僕がアウトドア雑誌で編集をしていたときから一緒に仕事をしていた仲間のライターやカメラマンらと「ウェブで自分たちのアウトドアのメディアを作れないか」とよく話していたのがきっかけです。「出版不況だし、紙ではなく、自分たちの拾ってきたリアルな情報をニュースとして伝えるウェブメディアを作ってみよう」というようなノリで始めました。
      誰もやっていないことをやりたかったので、今のところは非常に手応えを感じています。ただ、しっかりとお金を使って綺麗なデザインにしたり、SEO対策をしたりと、ウェブの世界で常套手段とされているようなことは、まだまだあんまりできていないんです。月に2回、編集会議と称して勉強会のような形で、いろいろな専門家の方を招き、サイトについての意見を聞きながら、ちょっとずつ自分たちも学びながらやっています。今も試行錯誤中、という感じですね。
    ――今日は「フェスを中心としたアウトドアの歴史」をテーマにお話を伺っていきたいのですが、まず滝沢さんが長年アウトドアメディアに携わってきたなかで、ご自身の印象としてアウトドア誌が最も盛んだったのはいつごろなんでしょう?
    滝沢 雑誌『Outdoor』(山と溪谷社刊)が創刊されたのが1976年、『BE-PAL』(小学館刊)は81年ですから、70年後半から80年ぐらいが、日本のアウトドアの草創期ではないでしょうか。そもそも日本のアウトドアって1970年代のアメリカ西海岸のライフスタイルやグッズを紹介した『Made In USA Catalog』(マガジンハウス刊)の刊行をきっかけに、アウトドアグッズを組み合わせたファッションスタイル「ヘビーデューティー」の流行、つまりファッションの輸入によってもたらされたものなんです。
      当時のカリフォルニアはカウンターカルチャーの絶頂期でした。もともと、1950~1960年代中盤のアメリカ西海岸では、ビートジェネレーションを背景に、資本主義やベトナム戦争に異を唱える学生や反体制運動家によって自然回帰を求める「バックパッキング革命」が起こっていました。東海岸のエスタブリッシュな人間が、自然への回帰やエコロジーの思想を求め、バックパックに荷物を詰めて都市から荒野へ旅に出よう、というものです。そういった思想を背景に広がったのがアメリカのアウトドアムーヴメントだったんです。
      しかし1970年代に日本に輸入されたのは、アウトドアのなかのファッションやギアのみで、思想は二の次、ともいうべきものでした。アウトドアのアイテムは、当初は「新しいファッションアイテム」という側面が注目されたんですね。一方で、フライ・フィッシングやバックパッキングなどの目新しいアクティビティは、輸入されると同時に、スタイルとともに、その思想もしだいに広まっていきました。

    ▲Akimamaを運営する株式会社ヨンロクニ代表・滝沢守生さん(撮影:編集部)
    日本の元祖山ガールは、戦前の女学校登山?
    ――日本におけるアウトドア文化の受容の初期段階において、「ファッション」の部分が先行していたわけですね。独特でとても面白い現象のように思います。そもそも70年代まで、「アウトドア」という言葉は日本にはなかったということなんでしょうか?
    滝沢 そうですね。1978年に出版された子ども用のキャンプ読本などを読んでも、「アウトドア」の「ア」の字も出ていないんですよ。ただ、「アウトドア」という言葉がなくても、すでに行為そのものは成立していました。今でこそ、山に登る女性を「山ガール」と呼んだりしてちょっと特別な現象のように言いますけど、実はそのルーツは戦前の「高等女学校【1】」なんですよ。今でも地方の学校で、年に一度、“学校登山”を行事として行っている学校もありますが、あれはもともと戦前の女学校でちょっとしたブームになって定着したものなんです。

    【1】高等女学校:戦前の日本で、女子に対して中等教育(現在の日本の学校制度における中学校・高等学校の教育課程)を行っていた教育機関。主に12〜17歳の5年間を修業年限としていた学校が多い。

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  • 『消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。』第4回 串カツ盛り合わせにあって、Netflixに足りない消極性デザイン!?(渡邊恵太・消極性研究会 SIGSHY)

    2018-07-27 07:00  

    消極性研究会(SIGSHY)による連載『消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。』、今回は工学者の渡邊恵太さんの寄稿です。積極性が、貴重なリソースになりつつある現在。それはゲームや映像といった娯楽も例外ではありません。消極的ユーザーをいかに取り込むかの工夫を、Nintendo SwitchやNetflixから考えます。

    消極性デザインの連載も4回目となりました。
    明治大学でインタラクションデザインの研究をしている渡邊恵太からのお話です。
    私は「融けるデザイン ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論」という本を2015年に出版し、iPhoneの操作感がなぜ心地よいのか?を自己帰属感という認知科学のキーワードを用いて説明したり、生活に融け込み、自然と情報技術を利用可能にするIoTのあり方について紹介してきました。この本は、出版以来、デザイナーやエンジニア、ビジネスマンなど多岐に渡り読まれ続けていまして、現在6刷目となっています。大学では、この本もあって、三菱電機さんやクックパッドさん、KDDI総合研究所さんなど、複数の企業と共同研究を行ってもいます。
    さて今回は、串カツ盛り合わせの話から、話題のNintendo Switch、Netflixまで。これらを消極性デザインという切り口で、考察していきたいと思います。
    「串カツ盛り合わせ」は消極性メニュー
    先日、消極性デザイン研究会のメンバーで、PLANETSさんのオフィスに行き打ち合わせをしました。その帰りに居酒屋に行きました。簗瀬さん「串カツ盛り合わせでいいですかね」ということで、盛り合わせを頼みました。ここであること気づきました。これは「消極性メニューだ」と。串カツは1本1本注文できるわけですが、積極的に1本ごとに決めていると意思決定に時間がかかります。居酒屋ではできるだけ早く乾杯に行きたいわけですから、ここでは意思決定のコストを最小化したいわけです。
    そういったときに、「盛り合わせメニュー」は店の串カツの定番的なものを入れつつ、バリエーションの豊かさの絵的メリットと試食的な満足度を提供しながら、複数人での意思決定のコストを最小化してくれるのです。このように人が積極性を発揮せず、消極的選択をしたとしても、残念にならない対象の「仕組み」が消極性デザインです。
    多くの飲食店、盛り合わせやセットメニューという消極性デザインされたメニューを用意することによって、メニューの選びやすさやを提供しています。さらに同じ商品であってもセットになることによる新しい名前付によって、新しい価値を生み出し提供メニューのユーザ体験を高めるUXデザインとも言えるでしょう。また、これはセットメニュー化によってお金を落としやすく仕組みにもなっていることは大事なことです。
    「人は弱い存在である」
    串カツ盛り合わせを選ぶという行為は、あまりに日常的でこれが消極性とはあまり感じないかもしれません。ですが、この感じないことこそ大事な現象です。自然に、無意識そちらに流れていく設計こそ大事だと思うのです。私の専門はインタラクションデザインです。日々こういった人間の認知の観点から、人の無意識や行為、活動を考えながら、道具やサービス、新しい情報技術でどうやって人間の日常生活に融け込ませる方法があるか研究しています。
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  • 本日20:00から生放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉公開生放送!2018.7.26

    2018-07-26 07:30  

    本日20:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!


    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、 既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。今回はいつものスタジオを飛び出して、渋谷から公開生放送を行います!一般チケットを発売しているほか、PLANETSチャンネル会員の方は、無料でご参加いただけます。下記リンク先より、無料チケットをご購入ください。残席少なくなってきました。お早めに!https://peatix.com/event/389362/viewPLANETSの活動を編集者視点で振り返る「今週のPLANETS」、そして皆さんからのメールなど、盛りだくさんの内容でお届けします。

    ★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「アシナビに聞きたいこと」アシナビコーナー「井本光俊、世界を語る」        「加藤るみの映画館の女神
  • 長谷川リョー『考えるを考える』 第9回 文鳥社・牧野圭太 「人を人らしくする」文化を生み出す、ブランドデザインのための思考

    2018-07-26 07:00  

    編集者・ライターの僕・長谷川リョーが(ある情報を持っている)専門家ではなく深く思考をしている人々に話を伺っていくシリーズ『考えるを考える』。今回は株式会社文鳥社代表で、「文鳥文庫」や「旬八青果店」など、事業開発とクリエイティブを掛け合わせる業態を目指す牧野圭太さんにお話を伺います。ブランドデザインや組織づくりの手法、旧態依然とした広告業界の構造などを幅広く辿りつつ、あえて中断する“肉体的思考”の可能性に迫っていきます。
    パッケージではなく、プロジェクト、そしてブランドをデザインする
    長谷川 牧野さんは早稲田の理工から博報堂でコピーライター、そして現在はデザイン会社の経営をされています。いい意味でキャリアに一貫性がないのが興味深いですよね。まずはじめに、現在の手がけられている仕事の全体像について伺えますか?
    牧野 全体像がややこしいのですが、当初は博報堂を辞めて作った「文鳥社」だけでした。この会社では全て16ページ以内の作品からなる「文鳥文庫」という、蛇腹形式の文庫シリーズを展開しています。ただ、事業を継続するなかで、もともと継続してやりたいと思っていた「デザイン」や「ブランド作り」と「文鳥文庫の販売」は分けた方がいいのではと考えたんです。そこで、文鳥社は出版社に、デザイン・ブランディングをやる会社として「カラス」を立ち上げました。
    このカラスはエードットという会社の100%子会社として作っているので、僕はエードットの役員として会社の経営もみながら、カラスと文鳥社それぞれの社長、つまり三足のわらじを履いている状態ですね。
    長谷川 たとえば、カラスではどんな企業のブランディングを手掛けられているんですか?
    牧野 ローソンさんのデザイン仕事などを行っています。「おにぎり屋」のパッケージなどは弊社で担当しています。こうした大企業の仕事に加えて、旬八青果店のブランドデザインも当初から手掛けているので、クライアントは大小さまざまです。
    長谷川 デザイン系の会社は数多くあるなかで、カラスならではの強みや特徴はどの辺りにあるのでしょうか?
    牧野 カラスは単に広告やパッケージを作ることのみならず、「BRAND STUDIO」を掲げています。プロジェクト全体をしっかりみながら、デザインをして世の中に出していく。先ほど例に挙げた旬八青果店なんかもゼロから始めて、これまで5年間継続して仕事をしてきました。店舗設計から、出店地選び、コンセプトやコミュニケーション設計まで、プロジェクト全体の作り込みをお手伝いしています。プロジェクト全体をデザインできる会社は意外と少ないんです。本来のデザイナーの役割はそこにあると思うんですけどね。そして今後に関しては、プロジェクトというよりも「ブランド」を育てていくデザイン会社として標榜し、仕事に取り組んでいこうと考えています。
    長谷川 アプローチや内実は違うかもしれませんが、近年経営コンサルティングの会社がデザイン系の買収を盛んに行なっています。やはりそういった潮流もマクロには連動しているのですか?
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  • 【インタビュー】AR三兄弟・川田十夢 〈芸能〉を拡張する――笑いの更新としての『テクノコント』(後編)

    2018-07-25 07:00  

    テクノロジーによってお笑いを拡張した舞台『テクノコント』を企画した、AR三兄弟の川田十夢さんへのインタビューです。後編では、初めて「死」というテーマを扱った意図や、舞台からのシングルカットとしての社会実装の可能性、他ジャンルの作家とのコラボから得ているものについて、お話を聞きました(構成:米澤直史/菊池俊輔)。 ※前編はこちら
    捨てられた技術によって「死」を描く―『捨てスマートスピーカー』
    ――いまのお笑いは、テクノロジーの領域をネタとして上手く扱えていないと感じるのですが、『捨てスマートスピーカー』では、テクノロジーと人間との新しい距離感が描かれています。
    『捨てスマートスピーカー』:スマートスピーカーをペットのように可愛がっていた少年だが、機種が古く勉強の邪魔になるという理由で、母親から捨てるように命じられる。道端に捨てられたスマートスピーカーは大人たちに改造されそうになるが、その状況を知った少年は、大人たちに立ち向かうことを決意する。スマートスピーカーが固有の人格を持つかのように描かれる独特の世界観が魅力的なコント。
    川田 時代が進んでも、コントで使われる音の演出はあまり変わっていません。たとえば、どこかに入るときの効果音は、今でも「ウィーン」とか「カランコロンカラン」ですよね。だから全く新しい音の環境としてスマートスピーカーがある状況をやっておきたかったんです。  筒井康隆の短編で、オリンピックが廃れた後の世界でマラソンを走る選手を描いた『走る男』という作品があります(『佇むひとーリリカル短編集』収録)。その世界では、オリンピックでマラソン選手が走っていても、誰も気に留めない。そういった、すでにある価値が失われることによっても、ギャップは生まれる。  スマートスピーカーは、現時点で既に定価の半額以下の値段で売られていいます。最初は期待されていたのに、安売りされて、最後には捨てられる。この一連の消費行動には物語が潜んでいて、それを明確に出せた作品だと思います。日本人は、姥捨山や犬を捨てるといった、何かを捨てるときの感情をよく物語にします。また、八百万の神をはじめ、モノに何かが宿るというのも、神話や小説などでよく描かれる、日本人とは切っても切り離せない表現としてありますよね。  今回の『テクノコント』の公演は『Mellow Yellow Magic Orchestra』と題していますが、これはYMOのデビューアルバム『Yellow Magic Orchestra』になぞらえています。
    ▲YMO『Yellow Magic Orchestra』
     このアルバムでは、最初と最後にゲームオーバーをモチーフにした曲(『COMPUTER GAME』)が収録されていて、それによって「死」と「テクノロジー」が結びつけられている。それと同じように、今回の公演でも最初と最後を「死」にまつわる作品にしたいと考えていました。  今はみんな新しいテクノロジーに簡単に飛びつきますが、新品を使うときは、誰も「死」のことを考えませんよね。キラキラしたものだけでなく、捨てられるものにも望みを託せるように、「老い」や「死」を作品にしたかった。  これまでAR三兄弟は「死」というテーマを扱ってこなかったんです。どちらかといえば80年代的なノリで「できたよ!」「面白いでしょ!」みたいなことをやってきたけど、物語として立体的な表現をするにあたって「死」を扱いたいと考えた。そして、「死」を扱いながらウケるのは実はすごく難しい。だからこそチャレンジしたかったんです。  いいSFには人間が描かれています。『テクノコント』でも、やはり人間を描かねば、というのはあって。だから『捨てスマートスピーカー』はスマートスピーカーを巡る人間の物語なんです。人生を共にしたスマートスピーカーに「カンタロウ」って名前をつけたりね。なんで「カンタロウ」なのかはわからないけど。これはラブレターズ塚本くんのセンスです(笑)。
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  • 2018年の返還記念日デモで考えたこと|周庭

    2018-07-24 07:00  

    香港の社会運動家・周庭(アグネス・チョウ)さんの連載『御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記』。 7月1日は、香港の主権がイギリスから中国に返還された記念すべき日でした。2003年と2014年の激動の返還記念日デモを振り返りながら、新しい熱気が生まれつつある2018年のデモの様子を報告します。(翻訳:伯川星矢)
    御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記第18回 2018年の返還記念日デモで考えたこと
     7月に入りました。今月、最も重要なのが返還記念日デモへの参加です。
     1997年7月1日、香港の主権がイギリスから中国に移りました。この日は、その後の香港の多くの変化を象徴することになります。以降の十数年間で、多くの香港人は民主、自由、法治などの普遍的な価値が、だんだんと衰退していくのを実感することになりました。  1997年以降、香港の団体「
  • いま再編されつつある「フィクションと人間の関係」とは?――成馬零一、宇野常寛の語る『ど根性ガエル』(PLANETSアーカイブス)

    2018-07-23 07:00  

    今朝のPLANETSアーカイブスは、ドラマ『ど根性ガエル』をめぐる成馬零一さんと宇野常寛の対談をお届けします。現代におけるファンタジーの機能・役割とは? 過去作『銭ゲバ』『最後から二番目の恋』『泣くな、はらちゃん』を経て、脚本の岡田惠和がこの『ど根性ガエル』の劇中で出した「結論」について語りました。初出:『サイゾー』2015年11月号 ※この記事は2015年11月24日に配信した記事の再配信です。
    Amazon.co.jp:ど根性ガエル
    成馬 まずは何をおいても、脚本・岡田惠和【1】×河野英裕【2】プロデューサー(日本テレビ)というコンビについて語らないわけにはいかないですよね。この2人は2009年に『銭ゲバ』【3】を、13年に『泣くな、はらちゃん』【4】を作っている。そして、最新作がこの『ど根性ガエル』です。
     技術的な評価から触れると、なんといってもピョン吉の描写が秀逸でした。VFXによる合成でアニメの動きを再現していたのはもちろんですが、実際に役者が現場で演技をしているときはピョン吉は存在しないわけで、そんな中で、さもいるかのように皆が信じないと成立しないわけです。役者が作り上げた“ピョン吉のいる日常”をどう映像に落とし込むのか、その手腕に感心しました。同時に、葛飾区の実在の風景の取り入れ方も面白かった。例えばピョン吉が干してある屋上からは、背景にスカイツリーやタワーマンションが見える。それが寂れつつある下町の風景と対比されていて、これから日本がどこに向かっていくんだろうか、という不穏さを醸し出していた。そういう風景の使い方はすごく見事だったと思います。こういった描写のひとつひとつは『Q10』【5】や『妖怪人間ベム』【6】の頃から河野プロデューサーを中心とするドラマスタッフが積み上げてきたひとつの成果だと思います。

    【1】 岡田惠和:1959年生まれ。脚本家。90年代前半から活躍し、『イグアナの娘』、『ビーチボーイズ』、『彼女たちの時代』ほか代表作多数。
    【2】 河野英裕:1968年生まれ。日本テレビプロデューサー。『すいか』『野ブタ。をプロデュース』『マイ☆ボスマイ☆ヒーロー』『妖怪人間ベム』『Q10』など。
    【3】『銭ゲバ』放映/日テレ(09年1~3月):河野P×岡田惠和タッグの1作目。ジョージ秋山のマンガ『銭ゲバ』を現代に舞台を移してドラマ化。
    【4】『泣くな、はらちゃん』放映/日テレ(13年1~3月):三崎のかまぼこ工場で働く地味で薄幸な女性・越前さんが、心の叫びを自作のマンガに描きつける生活と、そのマンガの中で生きるキャラクターたちの動きが同時に進行し、やがてその2つの世界が交わるようになったことから始まる現実と虚構の狭間を描く。
    【5】『Q10』放映/日テレ(10年10~12月):『野ブタ。』等でコンビを組んだ河野P+木皿泉脚本作品。佐藤健演じる男子高校生とロボットQ10(前田敦子)と周囲の人々の物語。
    【6】『妖怪人間ベム』放映/日テレ(11年10~12月):河野プロデューサー×脚本・西田征史で、往年のアニメを実写ドラマ化。『ど根性ガエル』同様当初は危ぶまれたが、結果として主演の亀梨和也の評価も高めた。

    宇野 脚本の岡田惠和さんはここ数年、テレビドラマの中で横綱相撲とでもいうべき仕事をしてきた人だよね。テレビ自体が斜陽であることは間違いないけど、実はここ数年はドラマファン的には素晴らしい作品が目白押しだった。それを代表するプレイヤーが岡田さんで、この時期の代表作が『最後から二番目の恋』【7】と『はらちゃん』の2つだといっていいと思う。
     岡田さんは一度、09年の『銭ゲバ』で“壊れて”いる。それまでの代表作だった『ちゅらさん』【8】のような、戦後的な日常性をユートピアとして描くために、それを掘り下げてその成立条件を問うということを彼はずっとやってきた。それを『銭ゲバ』では自分でぶち壊してしまった。松山ケンイチ演じる、孤独で共同体を持たない主人公が、そういうものをお金の力で壊していって、最後は自殺する。あるいは、その後に書いた『小公女セイラ』【9】はその裏面というべき作品で、そういうヌルい共同体を必要としない高貴な少女がいかに生きるか、を描いていた。この2つは岡田さんにとって自己否定だったと言っていいはずで、だからそこからしばらくは代表作といわれるものが生まれなかった。それが『最後から二番目の恋』で、華麗に復活を遂げるわけです。
     あの作品は、登場人物のほとんどが中年以上でそれも難病だったり引きこもりだったり、半分死んでいるような人ばかりが出てくる。主人公と相手役のどちらも50代で、子どもを作るどころかセックスもしない中距離の関係を保っている。かつての岡田作品のようなユートピアを描いているんだけど、死の匂いが色濃く漂っている奇妙さがあった。終わりが見えているのに気持ちのいいユートピア像というものを、鎌倉を舞台に再獲得していく。そこからは快進撃が続いて、次にドラマファンをうならせたのが『泣くな、はらちゃん』だった。
     『はらちゃん』は、岡田惠和が描いてきたユートピア論をフィクション論に置き換えることで、また世界が拡大していったんだと思うんですよ。ヒロインの越前さん(麻生久美子)は、友達もいなくて寂しく暮らす工場勤務の女性で、自分でノートに描いていたマンガのキャラクターと交流を持って生きていくようになる。つまり『銭ゲバ』の風太郎や『小公女』のセイラのようには激しく生きられない人のために物語がどうしても必要なんだという、自己言及的というかメタフィクショナルな展開になっていた。ユートピアものを得意としていた岡田惠和が、『最後から二番目の恋』を経由することで人間と物語の関係を描くというところに変わっていった時期があって、その中で傑作が生み出されていた。
     そして今回の『ど根性ガエル』は、そのストレートな続編になっている。平面ガエルがいる世界で人々は暮らしていて、でもピョン吉は消えかかっている=その物語が成立しなくなりつつある。フィクションというものが世界から消滅しかかっている状態を描いているのが本作だった。まず最初に思ったのは、舞台になっている立石が、どう見てもゆっくり終わっていく世界なんだよね。この先、この世界がすごく発展したり、いきいきとした活力を取り戻すことは絶対なくて、むしろ不吉な予感すら漂っている。だけどそこには非常に温かい共同体がある。『最後から二番目の恋』の鎌倉のアップデート版というか、アレンジバージョンだと思うんだけど、その世界にまずはアテられた。そして主要キャラクターは、ひろし(松山ケンイチ)はニート、京子ちゃん(前田敦子)はバツイチ、ゴリライモ(新井浩文)は社会的には成功しているけどコミュニティの中心に入っていけなくてコンプレックスを抱えて鬱屈している。あの微妙さみたいなものがすごく魅力的で、「これはとんでもないものが始まったな」と思わされた。

    【7】『最後から二番目の恋』放映/フジテレビ(12年1~3月):古都・鎌倉の街を舞台にした、アラフィフ男女の恋愛劇。小泉今日子と中井貴一のダブル主演。
    【8】『ちゅらさん』放映/NHK(01年4~9月):NHK連続テレビ小説枠。沖縄と東京の2つの土地を舞台に、国仲涼子演じるヒロインの成長を描く。
    【9】『小公女セイラ』放映/TBS(09年10~12月):フランシス・バーネットの『小公女』を原作に、全寮制女子高校での生活を描く。主演は志田未来。


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  • 【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(後編)

    2018-07-21 17:47  

    6月1日に『辺境の思想 日本と香港から考える』を共著で上梓した、福嶋亮大さんと張イクマンさんの対談をお届けします。後編では、〈東洋のアジール〉としての戦前の東京に言及しながら、近年顕著になりつつある昭和的な共同幻想への回帰願望、さらに、都市の「散歩」が持つ思想的な可能性について語り合います。(構成:佐藤賢二) ※前編はこちら
    ※本記事は、配信時に編集部の手違いにより、一部不正確な記述がありましたことをお詫び申し上げます。【7月21日16:40訂正】
    書誌情報『辺境の思想 日本と香港から考える』(Amazon) 頼れる確かなものが失われた中心なき世界。自由と民主が揺らぐカオスな時代。未来への道は辺境にある―。日本と香港。2つの辺境で交わされた往復書簡の記録。
    「世界の誰もが知るアイコン」が示せない東京
    宇野 ラディカルなナショナリズムを唱え香港の独立を目指す本土派は問題外としても、張さんの支持してる自決派も、北京政府に対して香港という疑似国家をアイデンティティとした政治的要求という運動の形をとっている限り、結局その問題は出てくると思います。アメリカでも、シリコンバレーやニューヨークのビジネスマンはまさに都市民で、自分たちはグローバルな世界経済のプレイヤーだから、アメリカという国に所属してるという意識も相対的に希薄なわけですね。これに対してトランプを支持したラストベルトの自動車工たちは、ナショナリスティックな保護貿易を発動してくれないと自分たちの生活が脅かされると思い込んでいる。この階層による認識の差は大きいです。香港でも、どれだけ自決派がリベラルに振る舞おうと彼らの運動の方法が対国家、行政府に対しての政治的なアプローチである限り、アメリカで起きているのと同じような問題が発生していまうと僕は思うわけです。
    福嶋 トランプ自身はもともと不動産王で、80年代にはマンハッタンでテレヴィジョン・シティという開発プランを展開したりもしている。建築家のレム・コールハースが1970年代に『錯乱のニューヨーク』という都市論の奇書を書いて、古典的なアーバニズムを解体するマンハッタンの資本主義的な都市原理を称揚したけれども、トランプはその「マンハッタニズム」の鬼子のようなところがある。その意味でトランプは都市の申し子で、政治の現場にもテレビ的な本音主義と悪徳ディベロッパー的な恫喝を持ち込んだ。さらに、ピーター・ティールみたいな同性愛者のリバタリアンのシリコンバレー起業家がトランプを支持する、なんていうこともあるわけですからね。しかし、皮肉なことに、大統領選挙では都市部で支持されたヒラリーが敗北し、トランプが地方の怨念を引き受けるようにして勝利した。だから、リチャード・フロリダも新著で言うように、トランプの勝利とは都市の敗北でもある。 今は都市に対して逆風が吹いている状況だと思うんです。香港は香港で、都市的な性格が中国化によって脅かされている。だからといって、もう一度古いタイプの国民という統合装置に戻ろうとしてもうまくいかないんじゃないか。そこで、都市的な性格を評価するような形でグローバル時代の主体を構築していく必要があると思います。さっき言った「都市的アジア主義」はその一つのプランです。
    宇野 ただ、都市的な価値観というのは基本的に少数派で、民主主義では負ける運命にあるので、他のアプローチを取ったほうが良いのではないかと僕は思うわけです。ひいてはそこに、雨傘運動の敗北の遠因もあったんじゃないでしょうか。
    張 先ほど福嶋さんが言ったように、トランプ支持者のようなナショナリズムの正体はアンダークラスで、そういった階層対立は、香港の自決派と本土派の間にもあるわけです。香港という都市が中国化されつつグローバル化されている中、私のように家が買えないような、都会っ子になりきれない敗北者たちによるナショナリスティックな反発が本土派を支えている。周庭さんたち自決派は、団塊世代に向けて都市の中流層っぽい演出をしてるんですね。自分が良い大学出てるとか、海外の大学で講演してるといったアピールをして、天安門事件記念集会でも中流階級の親子たちに支持を集めています。本土派はアンダークラスでナショナリズム的、自決派は中流階級で都市的という演出の傾向があります。
    福嶋 ナショナリズムは階層的分割を乗り越えるための装置ですね。張さんはイギリスの歴史的体験を重視しているけれども、要は貴族が権力を握っていた時代に抗して、そのような階層を想像的に打ち消す形で「われわれ皆同じ国民」というナショナリズムが出てきたというわけですね。香港でも今、似たようなことが起きている。これから先、豊かになれそうもない人たちがナショナリズムに自らの尊厳を求めていく。
    張 確かに、この本でも述べている通り、ナショナリズムの起源はイギリスの平等主義ですね。出自の階層を越えられる機会的平等がもたらす尊厳の高揚こそが、ナショナリズムのエネルギー源です。この点、香港は政府、国家やネーションに依存しない、世界に開かれた商業都市だから、階層上昇の欲望がもっぱら都会的な個人主義で解消されるんです。香港では、日本と違って、集合的・民族的なナショナリズムを使って階層を乗り越える発想はあまり強くないと思います。また、成功した人間は自分で努力してお金を持っているといった、アメリカのような個人的・公民的なナショナリズムもないのです。香港では、個人の階級上昇も尊厳も、いかに世界経済の機運とチャンスをうまく掴めるかにかかっていて、それは時に生死に関わる問題です。香港ではナショナリズムはお金を稼ぐ道具に過ぎないんですよ。香港には民族的アイデンティティも中華愛国主義もありましたが、個人の生存に比べると二次的なものです。中国革命があって、香港では大陸本土のナショナリズムを煽りながら武器を転売するとか、中国本土が改革開放・経済成長していくと予測して国有企業の株や不動産をたくさん買うとか、火事場泥棒みたいに、世界が混乱・変革してるから香港の都市は成長していくわけです。普遍道徳を講じながら、株で稼ぐ。表は君子、裏は商人の模範。そういうものが階級を乗り越える手段ですね。
    福嶋 しかし、ナショナリズムは尊厳を獲得する装置だというのが、この本での張さんの主張だと思うんですよ。僕も、近代のナショナリズムは集団的な尊厳を生み出す装置だったと思うんです。政治学者のベネディクト・アンダーソンも、宗教の黄昏の時代にナショナリズムが出てきたと述べています。要するに、人間の運命論的な不条理を引き受けることができるのが、ナショナリズムという疑似宗教だという主張です。ただ、今の日本のポストモダン化し表層化したナショナリズムはもはやそういうものではないですね。人間の運命を引き受けるほどの宗教的な力はない。だからこそ、たとえば西部邁のようなオーソドックスな保守主義者・伝統主義者は、今のナショナリズムの風潮には乗れず、一人の個人として自殺するしかないわけです。
    張 問題は尊厳をどこに求めるかですね。それも空想的な根拠じゃなくて、自分はお金持ちであるとか、ロシアのように自国の軍隊は強いというのもひとつの尊厳の持ち方です。私から見ると、日本は世界各国からマナーがいいとか料理が美味しいと思われているし、日本のアニメはすごいと自慢するナショナリストもありうるけど(笑)、そういう自己認識が多数の人たちにはあまりないんじゃないですか? 観光客が日本に殺到してるのは、もちろん為替などの経済原因もあるけれど、そういうサブカル的な蓄積があることも確かです。問題は、自国の文化の特徴や長所をいかに世界からの目線で客観的に見ることができるか、これが大事です。逆に、さっき福嶋さんが仰ったように、今のグローバリズムや都市主義はすごく平面的で、文化的な特徴をなくすかもしれません。国家の特徴と長所をいかに都市の次元で表現するのかが、これからの日本の挑戦ではないかと思います。
    福嶋 その通りだと思います。その点で言うと、東京はレム・コールハースも言うように「特徴がないのが特徴」という都市ですね。たとえば、シンガポールならマリーナベイサンズ、パリならエッフェル塔という具合に、都市を特徴づけるアイコンというものがあるでしょう。しかし、東京にはない。東京ではピクセル画で描いたような高層ビルがどんどん建っていくだけです(笑)。良くも悪くも、東京は都市を特徴づける努力をあまりしていない。張さんが言うように、食べ物が美味しいとか、コミケがあるとか言えるけど、少なくともシンボリックなアイコンはない。 20世紀後半の日本の思想では郊外化が問題で、それはアメリカナイゼーションと結びついていた。しかし、20世紀の郊外化は文明史的には寄り道であり、21世紀はもう一度郊外から都市への回帰が起こっているわけですね。だけど、日本の場合は、都市を特徴づける知恵もあまり蓄積されていない。そもそも、香港には、唐代の敦煌や清代の漢口のように「香港の先祖」と言えるハイブリッドな交通都市があるわけだけど、東京は過去に先祖のいない「歴史の孤児」のような都市です。だからこそ、東京を輪郭づけるためにも、他の都市と比較しないといけないと思うんですね。
    「縁切り」と「縁結び」を同時に行うアジール
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  • 【インタビュー】AR三兄弟・川田十夢 〈芸能〉を拡張する――笑いの更新としての『テクノコント』(前編)

    2018-07-19 07:00  

    テクノロジーによってお笑いを拡張した舞台『テクノコント』を企画・開発した、AR三兄弟の川田十夢さんへのインタビューです。『テクノコント』で、メディアアート的な枠組みを超えて「芸能」を志向した理由や、各演目に込められた意図、テクノロジーを通じた「お笑い」の表現の可能性など、さまざまなお話をうかがいました(構成:米澤直史/菊池俊輔)
    『テクノコント vol.1 mellow Yellow Magic Orchestra』 原案・企画:川田十夢 構成・制作:おぐらりゅうじ 作・出演:ラブレターズ / 男性ブランコ / ワクサカソウヘイ 開発:AR三兄弟 実施:2018年5月25日・26日 渋谷ユーロライブ
 テクノロジーによる演出で「お笑い」の拡張を試みたコントライブ。舞台の小道具としてセルフィー、VRヘッドセット、スマートスピーカーなどのガジェットが登場するほか、芸人による寸劇とARを組み合わせることで、「お笑い」の新しい可能性を提示した。劇場の観客が手元のスマートフォンから公演に参加する新しい試みも行われている。演者には、ラブレターズ、男性ブランコ、ワクサカソウヘイら、コントに定評のあるお笑い芸人たちが出演している。
    「メディアアート」から「芸能」へ
    ――『テクノコント vol.1 mellow Yellow Magic Orchestra』、大変面白く観させていただきました。まずは企画のきっかけからお聞かせください。
    川田 AR三兄弟という開発ユニットで活動をはじめて、来年で10年目くらいになります。これまで一貫してくだらないことしかやってこなかったのですが、10年も続けると立場ができてきて、間違って「メディアアート」と言われることも増えてきた。僕らはあくまでお客さんにウケたり面白いと思われたくてやっているだけなんですけどね。  そこでよく引き合いに出されるのが、チームラボやライゾマティクスなのですが、彼らの表現はあくまでアートの方向にテクノロジーのクリエイティブを発揮するもの。対して、僕が興味があるのは「アート(芸術)」というよりも「芸能」で、10年の節目を迎える前に、彼らとは違う「芸能」の分野で作品をつくりたかったという思いがありました。  また、僕の小学校の同級生で、今でも仲がいい友人に、ピン芸人のマツモトクラブがいます。彼を見ていると、今の芸人の置かれている状況は、お笑い番組や賞レースといった活躍の場がたくさんあるようでいて、実はけっこう厳しいということを感じます。そこで、テクノロジーの要素を加えることで構造のレベルから更新を試みたお笑いの公演をやってみることが重要になるのではという考えもありました。
    ――たしかに、これまでのAR三兄弟の作品を見ても、「お笑い」と非常に親和性が高いという印象があります。
    川田 Media Ambition Tokyoなど、お笑いの要素を求められていない場所で、笑いを取ろうとしてきましたからね(笑)。AR三兄弟として、ちゃんとお笑いの要素が求められる場所で、笑いを提供する作品をつくってみたかったという思いはずっとありました。
    ――その一方で、AR三兄弟の作品はメディア芸術祭をはじめ、メディアアートの領域で高い評価を得ていますが、「メディアアート」と「芸能」の違いはどのようなところにあると考えているのでしょうか?
    川田 先日、中国の厦門で開かれた文化庁メディア芸術祭に出展したときに、ちょうどライゾマが隣りだったんです。そのときに真鍋大度くんと話をしたんですが、彼はアートにしか興味がないんですよね。商売には興味がないし、もちろん「お笑い」にも興味がない(笑)。  以前、真鍋くんと飲んだときに、「僕は〈点〉の人ですが、川田さんは〈物語〉の人ですね」と言われたんです。彼は技術を〈点〉で表現することだけを考えていて。たとえば、Perfumeとライゾマが組んだプロジェクトでは、真鍋くんが〈点〉としての技術を担当し、振り付けのMIKIKOさんがダンスによって〈物語〉をつくる。そういう関係性が真鍋くんは好きみたいです。  芸能と違って、アートはモヤモヤしたものでいい。鑑賞時間が1秒でも1分でも、観客の心に何か引っかるものがあればそれでいいんです。でも芸能、特にお笑いは観客にウケないといけないし、舞台であれば二時間、笑わせ続けなければならない。  アートは時代に対して「垂直に立つ」表現ですが、僕らは時代に対して「水平に寄り添う」ことを目指していて、それを舞台の上での笑いに変換したい、ということですね。  これまで僕らが手がけてきたメディアアート的な作品は、長くても5分程度だったのですが、2013年に、ヨーロッパ企画の上田誠くんと一緒に「プライマリースクール・ウォーズ」という約20分ほどの演劇を作ったことがひとつ大きな転換点になりました。学校の教室で、誰もいない黒板に、勝手にチョークで文字が書かれていくという作品です。
    プライマリースクール・ウォーズ(動画)
     種明かしをすると、掃除箱に仕込んだプロジェクターから黒板に向けて映像を投影し、チョークの音は黒板の後ろのスピーカーから出しています。  この作品の持ち時間は20分だったんですが、そのときに〈物語〉の力はすごいと思った。それで、自分たちで舞台を作ったりもしたんですが、舞台での表現は、運動選手と同じで演じる側に瞬発力が求められるんです。そこで今回のテクノコントでは、芸人さんの助けを借りながらネタからつくるというやり方を選んでいます。
    ――人間が演じるコントにARを実装する処理は、技術的にもハードルが高かったのではないでしょうか?
    川田 難しかったです。芸人さんたちもテクノロジーを相手にコントするのは初めてですからね。ただ、彼らには、同じ舞台上の仲間をフォローするという素敵な文化があるんです。実際にARの演出が上手くいかない回があって、勢いよく飛ぶはずの元気玉がゆっくり飛んでしまった。そのときに「ゆっくり飛んできたからー、ゆっくり倒れるー」という対応を即興でやってくれた。テクノロジーを新人芸人のようにフォローしてくれて、凄くありがたかったですね。芸人はスポーツ選手みたいなところがあって、スプリンターのような瞬発力、反応と対応力が身体に叩き込まれているんです。  今回、芸人のお客さんから、陣内智則さんの映像を使ったコントを引き合いに出して、その進化系だということを言われたんですが、僕らからすると別物なんですよね。陣内さんのネタは、映像相手にあらかじめ決まった内容を演じている。それをアドリブのように演じている陣内さんが凄いんです。  それに対して『テクノコント』では、段取りを固めておく必要はなくて、お客さんのリアクションを見ながら、その場で呼吸を微妙に変えたり、アドリブを挟んだりする余地があります。この両者を同じように言われてしまうのは、ちょっと課題だと思っていて、次はもっと明確に違いが分かるような見せ方をしたいです。
    点線としての想像力を「線」にするー『数学泥棒』
    ――ここからは具体的な演目についてお聞きしたいと思います。公演序盤の「数学泥棒」は、2人組のコンビによる正統的なコントをAR技術で拡張した、『テクノコント』を象徴するような作品でした。
    『数学泥棒』:数学の授業中、先生が描いた三角形の中から、「点A」を取り出し、持ち去ろうとする生徒。そこから先生と生徒との、数学記号を駆使した追いかけっこがはじまる。生徒は「点X」をまきびしのように撒いて授業を邪魔し、先生は「√」を使って生徒を捕まえようとする。お笑いコンビ・男性ブランコの代表的なネタのひとつだが、今回、ARによって拡張されたことで、より視覚的に分かりやすい作品となった。■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。