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凡庸な服は、いかに捉え得るか?──私的な身体技法をめぐる試論的考察|藤嶋陽子(後編)
2022-12-27 07:00
本日のお届けするのは、ファッション研究者・藤嶋陽子さんの特別寄稿(後編)です。否応なく他者の視線に晒される衣服を、人はどのように選んでしまっているのか、現代の情報環境を踏まえながら思索します。(初出:『モノノメ #2』(PLANETS、2022))前編はこちら!※2022年の配信は本日が最終日です。来年もPLANETSをよろしくお願いします!
凡庸な服は、いかに捉え得るか?──私的な身体技法をめぐる試論的考察|藤嶋陽子(後編)
服に、願いを。
自分の衣服に関する情報を積極的に発信するインフルエンサーたちに対して、これまで述べてきたような情報に触れながら服を選び、服を纏う私たちの実践は、どのように考えることができるのだろうか。 SNSにおいては自分と似た体型や属性のユーザーの投稿画像を眺めて服の情報を得るわけだが、今日ではECサイトでも同様の体験がもたらされている。モノとしての商品そのものよりも、その衣服を纏ったときのイメージを強調するような写真を中心に置くファッションECサイトが特に韓国系通販サイトなどを中心にして増えており、まるでSNS上の投稿のような写真が商品紹介として掲載されている。*6 服に合う雰囲気のカフェや家で、まるで友達や自ら撮影したかのようなものだ。これらを見ながら服選びをするということは、その服を纏ったときに自分はどのような姿になるかという想像を搔き立てることにもなるだろう。SNSにおいても、ECサイトにおいても、他人が「みられている」姿を通じて、自分が「みられる」ことを想像しながら服を選んでいるわけだ。 それでも、誰もがインフルエンサーになりたいわけではない。「みられる」ことを強く意識する環境下にあるからといって、「みせる」という自己提示の実践と直結しているのかというと、そうではないだろう。SNSという舞台が用意されたことでみせる自分/みせない自分の線引き、投稿するもの/しないものの線引きがそれぞれにある。他者からは「みせている」のと変わらないようであっても、自分のなかでは「みせている」積極的な意図がない場合もあるだろう。「みられる」対象である一方で、必ずしも「みせる」対象ではない。このことが、今日の私たちにとっての衣服というものを考えるうえで示唆を与えてくれるように思う。そもそも、どんな衣服を手にするか、纏うかという選択は私的な行為でもある。同じような服ばかり買っているように見えても、それでも欲しくなる。他人からみて大して変わらないものであるかもしれない、わかりやすい違いなどないのかもしれない、それでも新しい服を手にしてしまう、それは服というものに自らの期待が託されているからではないだろうか。 私たちは生活のなかで、短時間しか裸にはならない。だからこそ、衣服を纏った身体こそが自分そのものとなり、見た目も中身も、衣服は望む自分自身を「装う」ことを通じて手助けしてくれるものでもある。私自身の思春期を振り返ると、何かに特化した才能もない自分の凡庸さが怖くなり、「変わった人」だと思われたくてロリータからパンクスといった周囲では見かけない奇抜なファッションに手を出していた。この場合は、他者からどうみられたいかという願望だ。だが、衣服に込める願いは必ずしも他人からのまなざしを前提としたものだけではない。自分を鼓舞するために華やかな服、自分だけのジンクスとしての験担ぎのアイテムもあるだろう。もしくは、体型のコンプレックスのある部分を「細見え」させてくれることを期待して服を選ぶこともある。ここでは間接的に他者が意識されているものの、この段階では実際にどうみられるかということよりも、自分自身が自らのコンプレックスを少しでも受け止めるためのものとなっている。容易には変え難い自分という存在を受け入れる手段のひとつとなっているわけだ。衣服には数多の願いが込められている。衣服は手軽に、わかりやすく、自己像への願いを叶えてくれるーーと、少なくとも購入時には思わせてくれる手段だ。私たちは服を選ぶとき、単にモノを手にしようとしているだけではなく、自分の可能性を手に入れようとしているとも言えるだろう。まだ見ぬ、まだ得ぬ、私。だからこそ、他人からみてどれだけ手持ちの服と似ているものでも、その人にとって新たな可能性を導くものであれば手にする意味のあるものとなるわけだ。これは見た目だけではない。肌に触れる感触、洗濯のしやすさ、そうしたものが自分にもたらすことを期待して手にしている。そこに込められた願いを他人と相対化することはできず、この強度はあくまで自分の身体や自分の生活への意識のなかで決まるものだ。それゆえ、服を選ぶ、身につけるという実践は、他者から「みられる」自分に想像を巡らせながらも、極めて私的な領域での実践と位置づけられるのではないだろうか。
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凡庸な服は、いかに捉え得るか?──私的な身体技法をめぐる試論的考察|藤嶋陽子(前編)
2022-12-20 07:00
本日のメルマガは、ファッション研究者・藤嶋陽子さんの特別寄稿をお届けします。SNSでの自己表現として用いられる「ファッション」。その一方にある、普段何気なく着る「凡庸」な服からファッションを捉え直します。(初出:『モノノメ #2』(PLANETS、2022))
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凡庸な服は、いかに捉え得るか?──私的な身体技法をめぐる試論的考察|藤嶋陽子(前編)
凡庸さを捉える術を模索する
どんなに生活スタイルが変わっても、私たちは服を着る。服というものは常に私たちの生活のなかに存在して、たとえファッションに興味がないと言う人がいても、それは裸で暮らしているということを意味するわけではない。積極的に流行を追い求めて服を買うわけではなくても、みな何かしらの服を纏い、その服は何かしらの理由で購入して、何かしらの理由で今日、袖を通すことを決めたものだ。それでも服を選ぶということはなぜか、積極的な興味関心に基づいて為されなければ、行為として意識されない、透明なものとなってしまう。あるとき、大学で授業をした際に服の選び方を聞いてみたことがある。印象的な回答として、「必ずInstagram に投稿する友達と遊ぶときは、そのことを意識して服を選ぶ。それ以外のときは、適当に楽なスウェット」というものがあった。こういう行為を論じる場合、大半は前者のInstagram の投稿と紐づいたコーディネートに焦点を当てるだろう。そちらが公開の場で他者と共有されるものとなり、当人にも選んだ意図があるからだ。一方で、後者は当人も「適当な」と表現するように極めて捉え難いものだ。しかしながら、実際の着用回数が多いのは適当なスウェットの方で、行為として明確に意識されない領域に追いやられていても生活のなかで割と重要なものであったりもする。 このように、凡庸な衣服との関係性を記述することは難しい。また、凡庸なスタイルというのも同様だ。もしかすると、「ファッション」という枠組みで捉えること自体から見直さなければならないのかもしれない。実際にファッションをめぐる記述においては、服装を通じた社会への抵抗、ブランド品の購入を通じた自己実現、特定の都市文化と結びついたスタイルといった特徴的な部分が切り取られる一方で、その裏で毎日、多くの人が積み重ねている「なんとなく適当な」衣服との関わりというのは、あまり光の当たらない部分となる。もしくは、スタイルが均質化してファッションへの関心が低下しているだとか、周りと同じことに安心感を抱くだとか、ほんのりと批判的なニュアンスを含みつつ考察されることも多い。けれども、日常的な衣服の着用実践を「ファッション」ではないとしてしまうことは極めて限定的で、日常生活に根付いた衣服というモノが提示する論点の豊かさを見落としてしまうように思える。とりわけECサイトやファストファッションの影響によって、ファッションが均質化したとも言われる現代においては、これまで「ファッション」として中心的に捉えてきた実践からは、こぼれ落ちてしまうものが多くなってしまうのではないだろうか。 今、多くのクローゼットにはたくさんのシンプルなスウェットやノーブランドのスカートが詰まっている。私たちは誰もみていない自分の部屋でも服を着て過ごし、たとえ誰にもみせない服でも自分のために一着を選ぶ。服を選ぶこと/纏うことは他者とのインターフェースを考える行為であると同時に、自分の身体と対峙する私的な実践でもあるはずだ。SNSで何を「みせている」のかを問う一方で、意識されない、「みせる」意識のない日常的な衣服との関わり。こうした実践に着目しながら、「ファッション」には興味がない、ブランドにはあまり縁がない、そう口にする人々が纏っている衣服を捉える術を考えてみたいと思う。
衣服に託されていた、自己表現
服装というものは自己を表現するものという風に捉えられ、特に1980年代の消費社会論において、記号の差異化を通じた欲望の生成をめぐる議論が展開されてきた。この時代に衣服やファッションをめぐる代表的な論者であった鷲田清一は『ひとはなぜ服を着るのか』のなかで以下のように述べている。
ファッションはしかし、他のひとびととの距離感覚でもあるから──同じ趣味のひとに出会うのはうれしいものだが、細部までまったく一緒というのは逆にもっともさけたいことである──、ひとは他人との微妙な差異にひどくこだわる。感受性の固有のスタイルこそ、ひとが他のだれでもないそのひとであるために不可欠のものだからだ。こうしてスタイルの差異を記号として他者たちにたえず発信していないと不安になる。じぶんになりえないような気分になる
単にファッションが他者との違いを提示するための手段となり得るというだけでなく、そうすべきもの、そうしないと不安を感じてしまうもの、そのように捉えられていたことがわかる。ファッション研究者の井上雅人も、こうした鷲田の議論に対し「日本の社会の人々は、みな他人と違っていたいと思っていると、素朴に信じていることが伝わってくる」*2 と評し、異なる角度から現代のファッションを捉えていく必要性を提示している。 このように服装の選択に積極性があることを前提とする捉え方が、「ファッションなんて、自分には無関係だ」と距離を置く態度の根底にあるのではないだろうか。つまり、自分自身の服装が他者からみられること、そこから自分自身について推測をめぐらされることの怖さのようなものだ。凡庸さというのは、時として否定的なものとなる。街や職場で同じ服を着た人と遭遇し、恥ずかしい、気まずいと感じた経験はないだろうか。同じ服を纏う人が多いということは、それだけ多くの人にとって素敵な服や使いやすい服であったことを意味するはずなのに、時としてネガティブなものとなってしまう。このことは同時に、他人の服装への捉え方に滲み出ている場合もあるだろう。2015年にTwitter 上にて、海外ユーザーが日本の女子大生の集合写真とキノコのシメジの株の写真を並べて「Japanese girls party be like」と投稿し、数万件のリツイートがされた。日本国内でも、茶色く染めたロングヘアにミニ丈のワンピースといった女性たちのスタイルの類似性に、「個性がない」と揶揄するような声がインターネット上で見受けられた。このように、私たちは似通ったファッションスタイルを否定的に捉え、内面も含めて自我がないかのような言い方をする。これは今、モノだけではなく、体験(コト)にも同様のことが生じていると言えるだろう。Instagramで話題のパンケーキ屋に並ぶ人々を笑ったり、TikTok でナチョステーブルを楽しむ高校生を貶めるようなコメントが書かれたりと、人は他人の流行りへの態度に厳しい。そういった流行への厳しい視点が自分にも埋め込まれているからこそ、自分自身にも恥ずかしさや怖さを背負ってしまうのだろう。だからこそ、「ファッションに興味がない」という態度は、ある種の防衛手段になるのだ。 しかしながら、流行がどんなに嘲笑の対象となっても、絶えず流行は生み出され、人々を惹きつける。とりわけファッションアイテムを売る側にとっては、ビジネスサイクルを駆動する核だ。食べものとは異なり、衣服は一度買うとデザインを問わなければ、また劣化を気にしなければ、何年も使いつづけることができるもの。自らの身体で消化することはできず、使いきるということも難しい。それでも何か新しいものが求められなければ、ビジネスとして存続していくことは不可能だ。ましてや今日、一着の服は一杯のタピオカドリンクよりも安く買える場合もある。だからこそ、ファッションは価値観のすり替えを繰り返してモノを売りつづける。今はこのデザインが最先端、そのブランドはもう古いといった具合に。そして、この服はもっとあなたを素敵にすると期待を抱かせる。こういった差異をめぐるゲームから逃れる術のひとつとして登場したのが、2000年代初頭に登場したノームコアだった。「通常」を意味するnormal と「強硬さ」を意味するhardcore から成る造語のノームコアは、個性的であることを過剰に強いたうえで、それもまた新たな流行として売り出していくマーケットへの対抗手段として、見た目による記号的な区別を拒み、規範やカテゴライズから逃れた自由さを追求する態度であった。しかしながら結局、ファストファッションの広まりと相まって、こういったノームコアすらもシンプルなスタイリングの流行として──それが当初のノームコアの本質と異なるとしても──消費してしまうところに、ファッションの図太さがある。ノームコアだけではない、カウンターカルチャーも、エシカルもサステナビリティも、同様の危うさを抱えている。
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【トークイベント】「論破しない」で総括する激動の2022年|宇野常寛×乙武洋匡×菅野志桜里×駒崎弘樹×若新雄純×吉田尚記(渋谷セカンドステージSPECIAL)
2022-12-16 18:00
PLANETSよりトークイベント開催のお知らせです!
「渋谷セカンドステージ」では、渋谷ヒカリエ 8/COURTを舞台に、PLANETSと東急株式会社が共同で、渋谷から新しい文化を発信することをテーマに様々なトークショーを開催しています。今回は激動の2022年について、ゲストの方と議論します。
ゲストは、作家の乙武洋匡さん。 弁護士の菅野志桜里さん。 認定NPO法人フローレンス会長の駒崎弘樹さん。 株式会社NEWYOUTH 代表取締役の若新雄純さん。 司会にニッポン放送アナウンサーの吉田尚記さんをお迎えします。
参加チケットのお申し込みはこちらから。
▼イベント概要
「論破しない」で総括する激動の2022年(Hikarie +PLANETS 渋谷セカンドステージSPECIAL)
今回は2022年の時事総括を行います。
ウクライナ戦争の勃発や、国内では安倍晋三元首相の暗殺など、政治的には激 -
「平和マーケティング」と21世紀の戦争をめぐる諸問題|藤井宏一郎(後編)
2022-12-13 07:00
本日のメルマガは、パブリックアフェアーズジャパン代表・藤井宏一郎さんの特別インタビューをお届けします。企業や個人が市場での活動を通じて平和を目指す「平和マーケティング」。企業が平和マーケティングをおこなうための動機の作り方、テロの時代以降の平和の形とは何か、じっくりと議論しました。(初出:『PLANETS vol.10』「[インタビュー] 藤井宏一郎 企業はマーケティングを通じて世界平和に貢献できるか」(PLANETS、2018))前編はこちら!
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「平和マーケティング」と21世紀の戦争をめぐる諸問題|藤井宏一郎(後編)
平和マーケティングが機能する局面を考える
――「積極的平和論」の観点に立つと、とりあえず「SDGsをがんばりましょう」的なところに落ち着くのは仕方ないと思うわけです。それはまったくバカにした話ではなくて、政治よりも経済、国家よりも市場にパワーバランスが「相対的に」傾きつつある今、政治的ではなく経済的なアプローチで戦争を誘発する構造的な問題に何ができるか、という問いへのアクチュアルな回答なので。ただ、ここではもう少し別のボールを投げる可能性を考えてみたい。平和マーケティングというある種のユニークな発想を使って具体的に何ができるのか。 例えば、Google やFacebook が広報以上の動機で動くとは到底思えませんが、それでも「今変な法律を作られたら困る」とか「ここで武力衝突が起こると大きな損失が出る」とか「新しい市場があるのに進出できない」といった動機があれば、何らかの戦力になるかもしれないということですね。 そういった理由で彼らが国家に牽制球を投げるシナリオはあり得るのかは、考えてみてもいいはずです。平和マーケティングはこうしたマクロなパワーバランスを前提にしたとき、初めて機能するように思うんですね。
藤井 今でもそういった動きはあると思います。例えばTPPは経団連も強く推していましたが、あれには広い集団安全保障的なインプリケーションというか、地政学的な配慮があったことは明らかです。軍産複合体が政治を誘導して戦争を起こすという意見もあるけれど、平和なほうが儲かる企業が圧倒的に多いんですよね。全体的な株価の指数は戦争リスクが上がる度に下がっていくから、戦争で得する企業というのはほとんどない。 その延長でいうと、戦争の前触れはやはり保護主義で、自由貿易がうまくいっているときに戦争が起きることはあまりない。保護主義に対して政治的に抵抗する経済団体はいっぱいあります。確かに、トランプに言われてトヨタが工場をメキシコからアメリカ国内に戻すような政府に対する脆弱性はありますが、アメリカの企業だって保護主義でやられたら困るほうが相対的には多いはずです。そのことが、政治的な抑止力として働くとは思います。 具体的な動きでいえば、現在のNGOには3種類あるんですが、企業もそれらの役割を引き受けることができると考えています。第一に、現地支援型のマイクロファイナンスや保健衛生。これは企業でもできるわけで、BOPビジネス、フェアトレード、インフラファイナンスといった、いわゆるSDGs活動がそれに該当します。第二に、政策提言型NGOがあって、武器禁止条約を成立させようとしたり反核運動をしたりしているNGOがあります。その経済版がいわゆる経済団体が行う政策提言活動で、経済団体が政府に対して力を増せばここは当然強くなっていく。第三に、見過ごされがちだけど大きいのは、国際親善型のNGOで、人々の相互理解を深めたり2ヶ国間交流を広めようとしている団体。これもコンテンツ産業、メディア産業、観光産業、教育産業などが肩代わりできる。この領域で企業に何ができるかはもっとハイライトされていいと思うんですよね。特にメディアが平和に対して持つ力はすごく大きいと思います。 この中では政策提言型が、これからさらに大きくなると思うんですが、しかし程度問題だという気はしていて、次のフェーズに変わるところまで行けるのかは、ちょっと見えないですね。
国内経済の安定化が「新しい戦争」を未然に防ぐ
――少し視点を変えると、国家間の領土問題で衝突するとか、政情不安定な地域が内戦になるとか、こうした旧世紀的な「戦争」と、今の西ヨーロッパで起こっているイスラム原理主義勢力のテロのようなものの連鎖では、また対応が違うと思うんですよ。
藤井 それは、イスラム原理主義の根底にあるのは経済の不安定化よりも、もうちょっと宗教的、文化的なコンフリクトのほうが大きいんじゃないかという、そういう議論ですか?
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「平和マーケティング」と21世紀の戦争をめぐる諸問題|藤井宏一郎(前編)
2022-12-06 07:00
本日のメルマガは、パブリックアフェアーズジャパン代表・藤井宏一郎さんの特別インタビューをお届けします。企業や個人など、国家ではない主体が市場での活動を通じて平和創出にコミットしうる「平和マーケティング」。私たちの「戦争」に対する距離感が急激に変化した2022年のいま、改めてその意義を振り返ります。(初出:『PLANETS vol.10』「[インタビュー] 藤井宏一郎 企業はマーケティングを通じて世界平和に貢献できるか」(PLANETS、2018))
「平和マーケティング」と21世紀の戦争をめぐる諸問題|藤井宏一郎(前編)
「平和マーケティング」とは何か
――今回は、2016年に広島で行われた「国際平和のための世界経済人会議」で藤井さんが紹介した「平和マーケティング」についてお話を伺いたいと思います。これは企業活動や市場原理を活かすことで、現代において、いかに非国家的な主体が平和の創出にコミットできるのかについての問題提起ですね。民間の市場のプレイヤーが「戦争」という国家のアイデンティティに関わるような領域にどう踏み込みうるかという意味で、ものすごく興味深い思想的な実験だと思いました。
藤井 最初に経緯を説明すると、「国際平和のための世界経済人会議」というのは、広島県が提唱している「広島平和拠点構想」の一環で、広島を世界的な平和の拠点のひとつにすることを目指して、毎年行われている会議です。広島市が被爆の実相を伝えることを中心に核兵器廃絶への取組を進める一方、県としては核兵器廃絶を含むより広い平和の観点から、国際政治や外交の専門家だけでなく、社会の様々なプレイヤーを巻き込んだ新しい平和の運動を主導していきたいという思いがあったわけです。 もちろん、従来のような反核・反戦運動も重要ですが、今(2018年当時)起きている戦争は冷戦時代のように、いつなんどき核戦争が起きるかという状況ではなく、非国家的な主体を含んだ小規模紛争が地域を不安定化させていることが、現実的なリスクだったりするわけです。そういうことも射程に入れながら新しい平和像を考え、なおかつ民間企業や社会起業家、あるいはNPO市民セクターといった、いわゆる外交の専門家や国際NGO以外のアクターやビジネスセクターを参加させることにもこだわっていた。 その第1回目の会議で、テーマを何にしようかと考えたときに、近代マーケティングの父と言われるフィリップ・コトラーが掲げた「平和のためのマーケティング」という言葉があった。マーケティングとは、単に物やサービスを売り込むだけではなく、非営利的で目に見えない抽象的な価値やそれに伴う行動変容を顧客に浸透させることまでを含む、というのが彼のマーケティング論の革命のひとつだったわけです。例えば、節電運動や禁煙運動のような公益的な価値もマーケティングの対象になる、と。 その中で最も解決すべき問題が、戦争をなくして世界平和を作ることだとすれば、平和だってマーケティングできるのではないか? しかし、その段階では萌芽的な発想に過ぎず、きちんとした理論のフレームワークがあったわけではなかった。ただ、「平和のためのマーケティング」という発想は興味を引くし、企業も参加しやすいだろうからぜひやってみようという話になって、そこだけが決まったんですよね。しかし、決まったはいいが、「そもそも平和のためのマーケティングって何なんだろう?」という問題に突き当たり、2日間のプログラムでいろんな関係者がこのテーマについて話すにあたって、フレームワークがまったくなく、言葉だけが踊っていたんですね。 そこで、私がコトラー先生の孫弟子に当たる縁もあって、普段から公共政策的なキャンペーンをプランニングしたりコンサルティングしたりしている我々マカイラとして企画運営をお手伝いすることになり、平和のためのマーケティングとは何かを概念的に整理するフレームワークを作ってセッションを設計し、それに沿った人たちを呼んできた、というのが経緯です。
平和マーケティングが直面する困難
――最初の会議からの2年間で、平和マーケティングに関する論理方面と実践方面の双方のアップデートは、藤井さんの中でどんなふうに進んでいったんでしょうか?
藤井 最終的には平和をどう定義するかというところに関わってくるのですが、平和には二つの考え方があって、単に戦争がない状態を平和と捉える「消極的平和」に対して、「平和学の父」と言われるヨハン・ガルトゥング博士が提唱した「積極的平和」という概念があります。これは戦闘の有無が問題ではなく、人間が人間として尊厳のある安全な環境が保障されていることが重要であるという、人間の安全保障論にもつながる考え方です。 しかし、平和マーケティングにビジネスセクターを巻き込もうとしたときに陥りやすい問題が、ここにあります。彼らと話をしていると、どうしても積極的平和論のほうにばかり話が流れていくんですね。なぜかというと消極的平和論、つまり端的に戦争をなくすための反戦運動・平和運動に企業が参加するのは、さまざまな理由でものすごく難しい。 まず第一に、平和運動は本業のビジネスに貢献しにくい。企業の社会活動について、株主は通常、ブランディングなどで本業につながることを求めますが、戦争と平和の問題はほとんどの企業にとって本業から遠すぎる。第二に、政治的リスクを伴う。多くの国で、平和運動=反体制運動とみなされます。第三に、既存のビジネスに抵触する可能性がある。製造業であれ金融業であれ、サプライチェーンや事業展開のどこかで軍需産業に接点を持ってしまっている企業は多いです。 だから「戦争と平和」の問題を正面から取り上げるのはやりにくいけど、「貧困をなくそう」とか「地球環境を救おう」みたいな話ならば、普通のCSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)をめぐる議論の延長でできてしまうんです。だからそちらに流れやすい。特に、2017年の第2回では、「SDGs(Sastinable Development Goals:持続可能な開発目標)」をテーマにしたのですが、私はこの方向性に少し躊躇がありました。SDGsにフォーカスしすぎると、貧困や教育、福祉や地球環境の話が中心になって、肝心の平和についての議論が置いてけぼりになる危険性を感じたのです。実際、昨年の会議はSDGsやCSRのような企業にとって理解しやすいテーマが増えましたが、一番難しい、消極的平和をどう実現していくのか、その議論をいかに置き去りにしないかという部分については、語りつくせなかった印象があります。私としては、もうちょっと平和の部分を話したかったのですが、そこのバランスが難しいのです。 今年、2018年は「2030年の世界からのバックキャスト」がテーマになると聞いています。2030年の地球で起こりうる地域の不安定化や紛争、さまざまな国家や人間に関する安全保障やそのリスクへの対策などを議論していくのですが、やはりその距離感が難しい。「いかに戦争をなくすか?」という部分には、どこかで真正面から取り組まなくてはならないし、この会議の仕掛け人である広島県の湯崎英彦知事も、個々のテーマがいかに平和実現につながるか、ということは常にご関心が高いです。
――どうしても議論がCSRの延長線上の企業ブランディングのほうに流れてしまうということですね。では、この流れに違和感を覚える藤井さんが、平和マーケティングによる消極的平和論に焦点を当てたとき、どのような発展の可能性があると考えていますか?
藤井 企業がSDGsで「貧困がなくなりました」というのは素晴らしいことなんですが、その先にどういうルートを経て平和が実現するのかという部分が描ききれていない。そこをきちんと描き切らなくちゃいけないというのが僕の考えなんですね。紛争のリスクがあって、そのリスクに対する解決がある。その解決をみんなに促すために、マーケティングがあるはずなんです。そもそもマーケティングとは、「特定の行動」を特定のターゲットグループに促す手法なんですね。この「特定の行動」こそが解決手段です。でも、その「特定の行動」が何なのかがわからないと、マーケティングはできない。解決のための手段を探すことについては、マーケティングは解を持たないんですよ。それを考えるのは平和学であってマーケティングの役割ではない。そこを一足飛びにやろうとしてもうまくいかないんです。 よく平和学は医学に例えられますが、健康になるためには、毎日柔軟体操をやったりバナナを食べたりといった健康法がある。その手段が決まった上で、厚生労働省や文部科学省はラジオ体操や食生活の改善など、人々の行動の変化を促すキャンペーンを行います。このフレームワークで考えると、解決手段の検討をすっ飛ばして平和を叫ぶのは、健康になる方法を考えないまま、ただ「健康になろう」とキャンペーンを始めるのと一緒なんですね。手段を無視したマーケティングにはおよそほとんど意味はなくて、これはいわゆる情緒的な平和運動。「平和!」と叫べば平和が来るという情熱論と同じです。 本当にやるべきことは、今の世界にどういったリスクがあり、どの地域で紛争が起きたり不安定化するのかをリストアップすること。そしてその原因が何なのか、民族間紛争か、資源争奪戦か、環境破壊による移民の流入か、と全部洗い出す。その上で、政府ができることと民間企業が貢献できることを見極め、後者に民間企業を当てはめていく。本当はこれをロジカルにやるべきだったんです。しかし、その議論がビジネスセクターに共有されないまま、うわべだけSDGsやCSRが流行ってしまった感じはある。今年の会議では、そのバランスがうまく取れるといいなと思います。 とはいえ、「平和のためのマーケティング」と呼ぶかはともかく、平和論とサステナビリティ論のブリッジングをきちんとビジネス文脈で考えている人がいないわけではない。例えば、「気候変動と脆弱性」という議論がありますが、これはすごくちゃんとやられていると思います。「脆弱性」というのは安全保障上のリスクも含めた各種リスクですが、気候変動によって戦争が起きる可能性の議論を、外務省がG7の枠組みの中で取り組んでいて、外務省の気候変動課がものすごく頑張っている。外交官やシンクタンクだけでなく、実際にソリューションを持ちうる企業を巻き込みながらワークショップを展開したりしています。 ほかにも、あまり日本では流行らないんですが、難民問題がどうやって戦争につながりうるかも極めて重要な問題で、こういった議論は最近進んできていますね。サステナビリティと安全保障の研究をしているAdelphi というドイツのシンクタンクが気候変動による戦争リスクについて「A New Climatefor Peace」という報告書を出していて、ローカルリソースコンペティション、つまり地域資源の争奪戦によって移民が出ると警告しています。例えば大洋州の島が台風の頻発によって、水資源が潮に浸かって飲み水がなくなったり食べ物が不足したりしたとき、貧しい島からどんどん人が移住してくる。すると元の住民と新しく入ってきた人たちの間で紛争が起きる。特に水資源のマネジメントは紛争につながりやすくて、川の上流側が水を堰き止めて自分たちだけで使い下流側と戦争になるというのは、人類史上で何度も起きていることで、気候変動が具体的に戦争につながるというわかりやすい例です。 これは冷戦下の米ソの構造とは全然違う状況ですよね。現代の紛争がどうして起きているのか、きちんと考えなくてはいけない。ジョン・レノンではダメなんです。もちろんジョン・レノンも重要だけど、どういうときに平和が訪れるのかを実証的に検証していくことが重要だと思います。
――たとえば少し前までは、戦後西ヨーロッパ的な「金持ち喧嘩せず」の状態が拡大するという考え方がそれなりに支持されていたと思うんですね。つまり、マクドナルドがある国同士は、絶対に戦争しないといったような考え方です。
藤井 民主的平和論みたいなものですね。
――ところがそれが近年のウクライナなどの情勢悪化で崩れるわけです。現代においてはさすがに、戦後西ヨーロッパ的な経済の安定と民主政治と集団的安全保障の3点セットがあればとりあえず大丈夫ではないか、という議論にはもうならないと思うんですね。ならないことはわかっているのだけど、やはり戦後の国際社会の延長線上でやっていくしかないんだ、戦後西ヨーロッパ的な世界を少しでも拡大していくしかないんだ、という人たちもいれば、そもそもこういう発想自体がテロリズムの連鎖の遠因となる戦後先進国たちの驕りだと批判する人たちもいる。平和学はこうした現状に対して平和を再定義するには至っていないと思うし、そもそもそういう性質のものでもないと思うんですよね。
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「分断」から「瓦解」へ――変質する民主主義の危機 ~中間選挙を読み解く3つの視座~|橘宏樹
2022-12-02 07:00
現役官僚である橘宏樹さんが、「中の人」ならではの視点で日米の行政・社会構造を比較分析していく連載「現役官僚のニューヨーク駐在日記」。今回は11月におこなわれたアメリカ中間選挙のポイントを解説するとともに、ニューヨーク市民と日本国民の選挙に対する姿勢の違いについて分析します。
橘宏樹 現役官僚のニューヨーク駐在日記第7回 「分断」から「瓦解」へ――変質する民主主義の危機 ~中間選挙を読み解く3つの視座~
おはようございます。橘宏樹です。ニューヨークでは、11月24日にサンクス・ギビング・デイ(感謝祭)を迎えました。去年に続き今年もアメリカ人の友人宅にお招きいただき、大きな骨付きハムを分け合って楽しい時間を過ごしました。感謝祭の料理と言えば七面鳥がおなじみですが、ハムの流派も多いのだとか。
▲手製のサンクス・ギビング・ハム。グランベリーなど甘めのソースをかけて食べるのがセオリー。
▲アラビア文字の書かれたお皿がハムと餃子と団らんを待つ多文化な食卓。
▲手製のチョコチップ入りピーカンナッツ・パイ。使われたメープルシロップは庭で採れたものだそう。めちゃくちゃ美味しかった...…
▲大きな家と薪の暖炉。これぞアメリカの冬って感じ。
翌25日のブラック・フライデーのセールには人々が殺到し、ロックフェラーセンター前の有名な巨大クリスマスツリーはいそいそと装飾を始めています。クリスマス休暇の始まりまでは少し間があるものの、なんかもう、ニューヨーク市内からビジネスのやる気は感じられず、仕事納めに向かっている雰囲気です。
さて、11月8日は中間選挙の投票日でした。連邦上院、下院、州知事、州議会等の選挙が一気に行われました。インフレへの不満が強いことやトランプ派の候補者が勢いづいていると見られていたことから、民主党は大敗するだろう、共和党のシンボルカラーが上下両院を席捲する「赤い波(Red Wave)」がやってくるだろう、との声がもっぱらの前評判でした。 しかし、蓋を開けてみると、民主党が上院の過半数をギリギリながらもキープし、下院も共和党220に対し民主党213(過半数は218。2議席未決着。執筆時点(11月27日)。)と踏みとどまりました。大統領の党が負けやすい選挙にしては、バイデン民主党はかなり善戦したと言ってよいでしょう。
日本でも、共和党が大勝しなかった原因分析(米最高裁の中絶権認める判例破棄への反発と2020年大統領選挙結果を否定するトランプ派の行き過ぎた台頭に対する嫌悪感等)、上下両院内での両党の激しい拮抗、民主党内の世代交代(ペロシ下院議長退任)やプログレッシブ派の伸長、トランプ前大統領の2024年大統領選出馬表明や脱税疑惑への訴追、バイデン政権への支持率の低さ、バイデン大統領の次回大統領選不出馬との憶測、共和党内でのフロリダ州デサンティス知事の台頭とトランプ前大統領との闘争、などなど、主要論点については既に様々な論考が出回っております。
時事的・政治的な分析はそれらに譲るとして、今号では、この度の中間選挙で、日本社会と比較して、僕が個人的に面白いな、重要だなと思ったポイントを3つ挙げたいと思います。それは、①選挙管理の危機、②分断を助長する予備選挙、③司法の政治化です。選挙における競争が苛烈過ぎるあまり、アメリカ民主主義の土台までをも破壊しかねない様相を呈しているように見えます。アメリカ民主主義の危機は「分断」からもう一歩深まって制度それ自体の「瓦解」の域にまで踏み込みつつあるかもしれません。ある意味、危機の変質が見られると言ってもよいのかもしれません。一方で、アメリカ民主主義の希望というか、さすがのバランス感覚というか、行き過ぎを踏み止まらせる良心の底力のようなものも感じ取れます。何が起きているのか。なぜそうなっていくのか。僕なりの中間選挙の観察記録を書いてみたいと思います。
▲ニューヨーク・マラソンを走る参加者
① 選挙管理の危機
・「選挙管理」という論点の存在
連載第2回でも触れましたが、今のアメリカでは「選挙の5W1H(①誰が(who)②なぜ(why)③いつ(when)④どこで(where)⑤何に(what)⑥どうやって(how)投票するのか)」のうち、「③いつ(when)」以外の全てのステージで政治闘争が繰り広げられています(逆に日本では、総理の解散権③いつ(when)が最も争点になるところと対照的ですね。)。特に「⑥どうやって(how)投票するのか」について、郵便投票の是非をめぐる議論が過熱しています。アメリカの選挙は、支持者獲得競争の域を超え、選挙のインフラ部分にまで闘争の領域が広がっているのです。
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