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“kakkoii”の誕生――世紀末ボーイズトイ列伝 勇者シリーズ(7)「黄金勇者ゴルドラン」中編
2024-11-06 07:00550pt
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。前回に引き続き、『黄金勇者ゴルドラン』について分析しています。成熟を拒否することで成熟する「逆説的な成長」とは?
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(7)「黄金勇者ゴルドラン」中編
■ワルター・ワルザックと「大人」になること
ワルター・ワルザックは、第一話から本作のヴィランとしてとして物語に登場し、主人公たちとパワーストーンの争奪戦を繰り広げる。ワルターはワルザック共和帝国(という架空の国家)の王子として、父親であるトレジャー・ワルザック皇帝の命を受け、黄金郷レジェンドラに至ることを目的とする。キャラクターデザインは容姿端麗な貴族を意図してデザインされており、またカーネル・サングロスという老齢の執事を常に従えている。そしてその名前が戯画的に描き出すように、ワルターは典型的な「悪のプリンス」として置かれている。年齢は20歳と設定されており、12歳である主人公タクヤたちからすれば、十分に「大人」と言うことができる。
▲ワルター・ワルザック。美青年としてデザインされている。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p167
ゴルドランにおける「冒険」とは、子供たちの想像力による遊びそのものを示していると本稿では考えた。そしてタクヤたちが無邪気に「遊び」として冒険を追い求めていくのに対して、ワルターは父親から認められるために――「成熟すること」を動機としてタクヤたちと対立する。主人公たちのカウンターに置かれたワルターは、設定だけ見ると、イマジネーションによる遊びを妨害する「大人」を象徴するかのように見える。
ところが実際のワルターは、そのように振る舞わない。それどころかワルターの存在が、むしろ作品のリアリティラインを下げ、タクヤたちの冒険を「遊び」たらしめている。そしてワルター自身は、タクヤたちの影響を受けてむしろ成熟を拒否することで成熟していくという逆説的な成長を見せる。そしてこのふたつは、密接に絡み合っている。
どういうことか説明していこう。まず本作品のリアリティの操作は、ワルターという「敵」を通じて行われる。主人公たちの遊びの世界が本当に命にかかわる危険なものなのか、それともおふざけで済んでしまうようなものなのかを襲いかかる脅威であるところの敵のトーンで表現するのは、作劇として順当な手法であるだろう。物語当初におけるワルターは、タクヤたちを「お子たち」と呼ぶ年上の存在でありながらも、むしろタクヤたちよりも情けない、ある意味で子供っぽいコミカルな悪役として描かれる。外見は二枚目だが、中身は三枚目というのがワルターのスタート位置だ。そしてワルターがこうした存在だからこそ、物語空間――ゴルドランにおいてあるべきおもちゃ遊びの空間は、リアリティを欠いた、いわゆる「ギャグ時空」として成立する。ワルターは敗北のたび「どっしぇ〜!」という台詞と共に退場していく。これまで基本的には真面目なトーンで進行してきた勇者シリーズの伝統からすると、こうしたヴィランの振る舞いはいささか例外的に映る。
■宇宙に出ても人が死なない世界
しかしゴルドランが特徴的なのは、そのリアリティラインが作中でダイナミックに変動することだ。たとえば一行が宇宙に出た際、宇宙空間に生身で出てしまったらどうなるのかという問いに対して「血液が沸騰し圧力の関係から全身が粉々になって死ぬ」と説明がなされる(これが科学的に正しいかどうかはひとまず置いておく)。しかし同じエピソードの後半で、ワルターは見栄を切るためだけに、生身で宇宙空間に出てしまう。そして長々と向上を述べたあとで、他のキャラクターから「そこは空気がない」と指摘される。それに対するワルターの反応は、次のようなものだ。
「ぎぇ〜! はやくなんとかして〜!」
そして息ができずに苦しそうな素振りをしながらも、宇宙船(厳密には勇者ロボの内部)に戻った次のカットでは、なにごともなかったように活動している。
重要なのは、この流れが同一のエピソードの中で行われることだ。ここではふたつの異なるリアリティが、意図的に混在させられている。より具体的に言うならば、「宇宙空間に生身で出たら死ぬ」というリアリティをいったん定義しておきながら、それを「ギャグ時空」で上書きしているのだ。
そしてこれは、単に作劇上のご都合主義以上の意味を持つ。ワルターは当初、父親に認められることを通じて成熟を試みる。しかしタクヤたちに巻き込まれ、これは一向にうまくいかない。それでも執念深くタクヤたちを追いかけ、ついにはすべてのパワーストーンを一度手中に収めることに成功する。勇者たちは一度パワーストーンに戻って主君が変われば、それまでのことをすべて忘れてしまう。ワルターは勇者たちを一度は我が物にしようとするが、葛藤の末それをあきらめ、パワーストーンをタクヤたちに返還する。なぜか。これまで父親に認められる以外の目的を持たなかったワルターは、タクヤたちとの争奪戦という冒険そのものに価値があったことを悟ったのだ。
つまりこういうことだ。マイトガインは旋風寺舞人の圧倒的な万能感によって、そしてジェイデッカーは人間となったロボットとの絆から父性と母性をバランスすることによって成熟を目指した。しかしこうした種類の成熟を目指したワルターは徹底的に失敗する。「大人」になろうとするワルターの試みは、タクヤたちの「遊び」に巻き込まれ、「子供」に引きずり降ろされ続ける。真面目な殺し合いは、常におふざけへとラインを変更される。勇者シリーズが開拓してきた成熟のイメージは、ゴルドランに至って、タクヤたちのように子供の遊び=冒険を続けることこそが成熟である、という逆説的な価値観にたどり着いているのである。
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勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」|池田明季哉(後編)
2024-08-27 21:00550pt
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は『勇者警察ジェイデッカー』について分析します。女性性の強いキャラクターデザインの主人公・勇太のビジュアルを引き合いに、戦後ロボットアニメが提示してきた「父性」「母性」のあり方を本作がどのように更新したのか考察しました。
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」
母なる勇太、父たるレジーナ
ファイヤージェイデッカー誕生は、次のような展開を通じて行われる。
かつてデッカードを倒したチーフテンは、紆余曲折を経て再びブレイブポリスの前に立ちはだかる。もともとは相棒を失ったことを悲しむ心を持っていたチーフテンは、しかし創造主たるビクティムが「強い者が全てを手にする」という「悪の心」を徹底させたことで、片方が片方を殺害し、そのパーツを吸収するかたちで一種の「グレート合体」を果たす。
これに対抗するためにデッカードとデュークもまた合体しようとする。しかしここで、合体してしまうとどちらか一方の人格が消えてしまうという問題が発生する。そこにはさまざまな設定的理由があるのだが、物語世界においてドラマを成立させるためのエクスキューズにすぎないため、いったん置いておこう。重要なのは、象徴的なレベルにおいて、この対立がいかなるものであるのかだ。
結論から言えば、ファイヤージェイデッカーは「母」であった勇太が「父」となり、そして「父」であったレジーナが「母」となることによって完成する。
どういうことか、順番に見ていこう。まず、デッカードが「人間の心」を得るきっかけとなったのは勇太その人であった。そして勇太はデッカードに、そしてブレイブポリスのロボットたちに、無条件といえるような承認を与えていく。勇太は常に、心を持ったブレイブポリスたちを丸ごと受け入れる。その一方で、そのあまりの愛情の深さゆえに、しばしば警察組織たるブレイブポリスのボスとして正しくない判断をすることもある。レジーナが勇太のことを「悪い手本」と指摘するのは、勇太にロボットたちを正しい方向に導き、上司として職務を遂行させようという父性が欠如しているからだ。
実際、これまで主人公を務めてきた少年たちに比して、勇太には際立って女性的なキャラクターデザインが与えられている。眉の太さなどいくぶんか男性的な記号も入っているものの、基本的にはふたりの姉にそっくりな顔立ちで、美少女の文法としてデザインされていると見てよいだろう。また女子中学校への潜入捜査のために女装するエピソードがあるのだが、これは劇中で似合っているともてはやされ、実際に違和感なく潜入を成功させる。こうしたデザインが物語に先立っていたのか、それとも物語に対して適切なデザインがこうであったのかを論じることは難しい。しかしいずれにせよ結果として、勇太は勇者シリーズにおいて、かつてない母性的な側面を持った主人公だといってもよいだろう。
一方でより「成熟した」デザインを与えられたレジーナが、警察組織におけるロボットの理想像を徹底しようとしてきたことはすでに論じてきた。デュークが「人間の心」を持つことを認めず、あくまで「善の心」だけを持つよう厳しく求めてきたレジーナは、強い父性を持ったキャラクターとして配置されているといえる。
ファイヤージェイデッカーへの合体は、勇太とレジーナが、その欠落した部分――勇太にとっては父性、レジーナにとっては母性を獲得することによって、はじめて成立する。
先にレジーナの側から見ていこう。超AIから悪の心を取り去り善の心のみを持たせたいというレジーナの動機は、その過去に由来していることが明かされる。ロボット研究者であったレジーナの母親は、違法ロボット兵器にかかわったことで犯罪者となってしまった。そして警察官であった父親は、情に流され母親を逃がしてしまったことで職を追われていた。レジーナはそんな自分の両親に対する悲しみと憎しみ――すなわち「悪の心」を封じ込め、かつて遂行されなかった「父性」を貫徹しようとしてきたのだった。レジーナを想うデュークは、次のように問いかける。「人間には、自分を作った者に対する愛情はないのか?」。この言葉をきっかけに、レジーナは自分自身もまた思っていたほど成熟した存在でなかったこと、自らも「善の心」と「悪の心」、愛と憎しみが複雑に絡み合った「人間の心」を持つことを受け入れる。これによって、デュークが「人間の心」を持つこともまた肯定される。すなわち自分の過去に向き合うことで、デュークを丸ごと受け入れる愛情を認めていくことになっていくのだ。
一方、勇太はデッカードあるいはデュークが消えてしまうことから、当初は合体を躊躇する。しかしレジーナの指摘を真摯に受け止めることで勇太は成長し、ときにリスクをおかしてでも犯罪を止めなくてはならないと覚悟する。
ゆえに、勇太は人格消滅のリスクを飲み込んだ上で、ファイヤージェイデッカーへの合体を命じる。そしてレジーナはデュークを失いたくない愛情ゆえに、一度これを止める。ここに至って、母性からスタートした勇太と父性からスタートしたレジーナは、それぞれ父性と母性を得てその立場を逆転させているのだ。
合体に際して、デッカードとデュークは次のように誓いを立てる。デッカードが消えた場合は、デュークが勇太を守る。デュークが消えた場合は、デッカードがレジーナを守る。憎しみの裏側にあるこうした思いやり――デュークの言葉を借りれば「愛情」――を持ったことによって、人格消滅のリスクを彼らは奇跡的に乗り越えるのである。
「母性」をまとうジェイデッカー
ファイヤージェイデッカーをめぐる想像力が、勇者シリーズにもたらした画期はふたつある。ひとつは親子の関係が逆転していること。もうひとつはそこに「母性」の論理が持ち込まれたことだ。
勇者シリーズの前身となるトランスフォーマーVは、スターセイバーという「父」とジャン少年という「子」の物語からはじまっていたのだった。これまで理想の成熟を体現していたロボットは、象徴的な意味では「父」として存在してきた。勇者シリーズはそうした理想像であるロボットに対して命令する権利を与えることで、子供たちの地位をロボットと対等なものに格上げし、命じる者/行う者として相補的に機能させることで、「父子」から「兄弟」へとその関係を対等なものとして描き直してきた。ジェイデッカーにおける勇太少年とデッカードの関係も、当初はこうした構造を確認している。
一方で、デュークのレジーナに対する想いは、レジーナの両親に対する想いと「自らを生み出した者」という条件によって重ね合わされている。これまで「大人」として描かれてきたロボットは、ここではむしろ「子供」の立ち位置を与えられている。ジェイデッカーにおいて、人間とロボットは単なる対等な友人なのではない。それは創造主と被造物の関係であり、この物語における「愛情」とは、創造主から被造物へと与えられる無条件にして無限のものなのだ。
ファイヤージェイデッカーは、パトカー・トレーラーと、救急車・消防車のグレート合体であった。犯罪を取り締まる警察は父性を、命を救わんとする救急・消防は母性を象徴しているということができる。グレート合体が対立するふたつの要素を統合することによって成立するのなら、ファイヤージェイデッカーの誕生は、男性的・父性的成熟を目指してきたサイボーグの美学が、その半身に女性的・母性的成熟を取り入れた瞬間なのだ。
▲「大警察合体ファイヤージェイデッカー」。その象徴的存在感に見合う威容。勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p37
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勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」|池田明季哉(中編)
2024-05-07 07:00550pt
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は『勇者警察ジェイデッカー』について分析します。人間と同じ「心」を持つ、デッカードをはじめとしたブレイブポリスたち。もはや人が「乗り込む」ロボットとして存在する必然性が薄れた結果、本作が直面した課題とは──?
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」
「人間」になっていくロボットたち
ダ・ガーンは地球の意志ともいえるような超存在にその人格の根拠を置いていた。しかしジェイデッカーのブレイブポリスは、あくまで超AIという人間が生み出したテクノロジーである。これ自体はマイトガインの勇者特急隊にも存在した設定だったが、それはあくまで旋風寺舞人が所有する旋風寺コンツェルンのテクノロジーのひとつにすぎず、超存在「ではない」意志の根拠として設定されただけで、掘り下げられることはなかった。
しかしジェイデッカーは超AIによって生まれた人格そのものを主題にしていく。デッカードをはじめとしたブレイブポリスは、主に人間たちとの絆を通じて「心」を獲得していく。単なるAIではなく、人間と同じ「心」を持つがゆえに、ブレイブポリスはスペックを超えた能力を発揮する。「心」を獲得することで、デッカードたちは「成熟」していくのだ。
ところがこれは難しい問題を呼び込んでしまう。「心」は勇気や愛といったポジティブな感情を通じて力を与えるが、同時に怒りや嫉妬といったネガティブな感情ももたらす。となれば、警察組織に所属するロボットという暴力装置が、そうしたネガティブな感情を持ってしまうことになる。実際に、ビクティムやフォルツォイクロンといった敵となる犯罪者たちは、超AIを持ちながら悪の心を持ったロボットを創り出す。デッカードたちは自らと同じ、心を持ったロボットたちと戦っていくことになるのである。
ロボットが心を持つとき、そこには人間と同じように善悪が生まれる――サイエンス・フィクションとしては、これは論理的で正当な展開といえる。ジェイデッカーはこの主題をベースにして、これまでの勇者シリーズと比較してもシリアスで重厚なエピソードを多く展開している。このような物語構成が玩具の販促としてどれほど効果的であったかを正確に検証することはほとんどできない。しかし少なくとも玩具を契機にしたアニメーション作品としては、シリーズの中でももっとも完成度が高いシナリオを持つもののひとつであるといって差し支えないだろう。
スコットランドヤードからの使者
そしてジェイデッカーは、デュークという「2号ロボ」、そしてレジーナというヒロインの存在を通じて、この問いを深く掘り下げていく。
▲「救急合体デュークファイヤー」。伝統的なイギリス警官の卵型の帽子、梯子を鞘とした長大な剣、消防車と救急車による赤と白、そして赤十字をイングランドと結びつけた優れた象徴的デザイン。勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p35
再び物語を見ていこう。勇太と絆を育み「心」を得たデッカードはブレイブポリスとして活躍するが、やがて強敵「チーフテン」と対峙することになる。チーフテンは2体1組のロボットで、デッカードたちブレイブポリスと同様、超AIに心を宿している。しかし異なるのは、彼らが宿しているのが「悪の心」であるという点だ。本作では、心を宿すゆえにブレイブポリスはそのスペック以上の性能を発揮すると説明されてきた。同様に心を持った敵は、同格の強敵として――むしろ「悪の心」によって純粋に戦いを好むゆえに、ブレイブポリスを上回る力を持った存在として立ちはだかるのである。デッカードたちは敵が心を持つ自分たちと同じ存在であるがゆえに、戦うことを躊躇する。しかしチーフテンは「ブレイブポリスを倒して最強になりたい」という競争心・闘争心から戦い、ゆえに投降することはない。そしてデッカードは戦いの末チーフテンたちに敗北し、殉職してしまう。デッカードを倒されたブレイブポリスたちは怒りと悲しみを抱き、冷静さを失っていく。
自らが心を持つゆえに、同様に心を持った相手を思いやってしまうこと。そして怒りや悲しみゆえに、ときに判断を誤ること。それはデッカードたちブレイブポリスの脆弱性――「未成熟さ」として描かれる。
「2号ロボ」となるデューク、およびそのパートナーとなるレジーナ・アルジーンは、そのことを鋭く指摘する存在として現れる。デューク(と、その強化形態であるデュークファイヤー)は、デッカードを破ったチーフテンをあっさりと破壊し勝利する。
レジーナは12歳にして博士号を持ち、デュークを開発した天才研究者として現れる。ショートカットにイヤリング、勇太より高い身長、肩が出たタイトなボディスーツというデザイン――明らかに勇太と比較して「大人っぽさ」を与えられたレジーナは、勇太とブレイブポリスを正面から否定する。曰く、人間は怒りや悲しみなど、ネガティブな心を持ち合わせるがゆえに、不完全な存在である。暴力装置であるブレイブポリスは、そうした悪しき心を持たない完全な存在であるべきだ。そして勇太やレジーナといった人間はその手本となるべきであるから、怒りや悲しみを表に出してはならない。これを聞いた勇太はこう悲鳴をあげる。「じゃ、じゃあ、僕がデュークの悪い見本だっていうの!」
▲友永勇太。未成熟な部分に焦点が当てられ、半ばヒロインとしても機能する。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p139
▲レジーナ・アルジーン。友永勇太とのデザインの対比に注目したい。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p140
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勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」|池田明季哉(前編)
2024-03-08 07:00550pt
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。勇者シリーズ初期3部作「谷田部勇者」にみられる、少年とロボットの対等な関係性を再び持ち出した『勇者警察ジェイデッカー』。一方で前シリーズまでは深く掘り下げ切れていなかった「超AI」の設定は、本作において勇者シリーズにどのような解釈をもたらしたのか──?
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(7)「勇者警察ジェイデッカー」
反動としての『勇者警察ジェイデッカー』
「高松勇者」の一作目となった『勇者特急マイトガイン』は、「谷田部勇者」が確立した少年とロボットの関係性を大幅に再解釈し、少年のナルシシズムを強化した。結果としてマイトガインはむしろ搭乗型ロボットの美学へと傾くことになった。
こうした美学の変化に、制作側はおそらく自覚的であったと思われる。なぜならそれに続く『勇者特急ジェイデッカー』は、少年とロボットの関係に明確に立ち返っているからだ。
▲『勇者警察ジェイデッカー』ポスター。勇太少年の手にした警察手帳が、後ろの勇者ロボたちとの関係を象徴している。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p117
『勇者警察ジェイデッカー』(1994年)は、そのタイトル通り警察がモチーフとなっている。増加する凶悪犯罪に対し、警視庁が超AIを搭載したロボット刑事を開発。そのロボット刑事が「勇者」としてさまざまな犯罪者に立ち向かっていく――というのが大まかな設定である。
我々はここで、『勇者エクスカイザー』が宇宙警察であり、『太陽の勇者ファイバード』もまた宇宙警備隊であったことを思い起こすことができる。警察という組織に立ち返ったのは、やはり原点回帰的なニュアンスを感じるところである。
エクスカイザーやファイバードが警察あるいは警備隊そのものを必ずしもモチーフにしなかった一方で、ジェイデッカーにおけるこのモチーフは単なる回帰に留まらず、より具体的に展開される。『勇者特急マイトガイン』が無国籍映画をモチーフにしていたのと同様、本作は(昭和の)刑事ドラマのパロディとしての側面を持ち合わせている。オープニングテーマに合わせられた映像は、キャラクターの活躍の姿に肩書と名前を大きなフォントで出すことで登場人物の紹介を兼ねたものになっている。これは昭和期からテレビドラマでよく見られた演出で、タイトルに夕日の映像が重ねられるイメージは明らかに人気刑事ドラマ『太陽にほえろ』を踏襲したものだ。また同じく人気を博した刑事ドラマである『七人の刑事』のタイトルは、そのまま第24話のサブタイトルにも使われている。「ジェイデッカー」も、「ジェイ=J」は日本、「デッカー=デカ=刑事」から取られていると見てよいだろう。
それでは改めて設定された警察というモチーフを通じて、勇者シリーズはどのような成熟のイメージを育んだのだろうか。
注目したい象徴的な点はふたつある。ひとつは主人公である友永勇太の立ち位置。そしてもうひとつは、超AIというモチーフを大きく展開したことだ。この二点は密接に関係しながら、『勇者特急マイトガイン』とはまた別のルートで勇者シリーズという存在を批評的に継承し捉え直す。そしてその結果、ひとつの限界に到達してしまった。そのようにこの連載では考えたい。
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勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」|池田明季哉(後編)
2024-01-16 07:00550pt
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。『勇者特急マイトガイン』において強調される主人公・舞人自身の「男性性」や「成熟」のイメージ。「勇者シリーズ」前作までの美学とは一見相反するこのモチーフが、本作のメタフィクショナルな結末にもたらした意義とは?
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」
■搭乗型ロボットとしてのマイトガイン
これまでの勇者シリーズでは、自らは戦う力を持たない地球の少年と高い戦闘力を持つ異邦人のロボットが相補的に機能する構造となっていた。玩具においても戦闘は勇者ロボの領分であるからこそ、小ロボをストレートに拡張していくかたちが採用されていた。ゆえに谷田部勇者は、少年がロボットに指示を行うことで戦いを進める――指示する主体と戦う主体を分離・協調させる構図に到達した。そしてそれは、結果として無力な少年=遊び手の子どもと、戦うロボット=玩具の関係を正確に記述することになった。
しかしマイトガインはこの構造を大きく変革する。谷田部勇者において少年がロボットに対して指示を行う構図にたどり着いたのは、戦うことができない少年と、戦うことしかできない(それを主任務にしており日常生活への溶け込みには困難があるという意味で)ロボットという構図を維持しながら、少年の主体を反映させるためのギミックであった。もし少年――舞人が自ら戦うのなら、その主体は旋風寺舞人が担うことになる。旋風寺コンツェルンの主体が究極的にはその総帥である舞人であるように、勇者特急隊の主体もまた、舞人に集約されている。
こうした特徴は、マイトガインをマジンガーZやガンダムといった搭乗型のロボットに限りなく接近させる。本連載では「魂を持った乗り物」という概念を通じて、20世紀末のボーイズトイが21世紀的な想像力を先取りしていると分析してきた。確かにマイトガインもまたガインという存在を宿している以上、「魂を持った乗り物」の一種であると言うことができるだろう。しかしガインが舞人の意思決定に影響を与える度合いは高くない。たとえばダ・ガーンは命令を受けるまで行動できないという欠点と、単純な命令を複雑な行動にブレイクダウンして判断したことが強調して描かれていた。そう考えると、ガインは勇者特急隊という組織――あるいは旋風寺コンツェルンの構成員と同列の立場として捉えることができるだろう。指示に基づいて勇者ロボが戦闘するとしても、それは執事や秘書が業務をこなすのと本質的に変わらない、トップダウンにしてウォーターフォール的な主体拡張といえる。
「乗り物」と「魂を持った乗り物」を区別したのは、「乗り物」が身体をストレートに拡張することでマスキュリニティを表現するのに対し、「魂を持った乗り物」は、精神をダイレクトに物理的現実に反映する精神と肉体の短絡に対して、別の主体が挟まれることによって生まれる中間性を指し示すために必要な概念であった。
そう考えれば、マイトガインは「魂を持った乗り物」でありながらも、「乗り物」に近い美学を宿しているということができる。たとえば勇者シリーズの先祖と位置付けたGIジョーについての議論では、軍隊という組織をそのリーダーというひとつの主体を拡張する巨大な身体として捉え、アメリカのヒーローたちもこの系譜に位置づけた。マイトガインが描く美学も、勇者シリーズとしては最大限にこうした美学に寄っている。
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勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」|池田明季哉(前編)
2024-01-09 07:00550pt
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。勇者シリーズのうち「谷田部勇者」3部作を経て登場した『勇者特急マイトガイン』。谷田部勝義がシリーズを通して確立した成熟のイメージに、本作がもたらした新たな解釈とは?
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」
■谷田部勇者から高松勇者へ
前回の連載では、勇者シリーズが『勇者エクスカイザー』『太陽の勇者ファイバード』『伝説の勇者ダ・ガーン』から構成される「谷田部勇者」を通じて、ロボットを通じた少年の成熟についてひとつの美学を完成させたこと、そしてそれが玩具と子どもの遊びを正確に言い表したことを整理した。
今回は第4作『勇者特急マイトガイン』について考えていく。このタイミングで谷田部勝義から監督を引き継いだのが高松信司である。勇者シリーズは玩具と手を組んだ物語であり、その制約は依然として引き継がれている。監督の交代によって「少年とロボット」という基礎構造や、前提となる玩具の商品配置が大きく変化したわけではない。もともと高松も谷田部勇者の時点でスタッフとしてクレジットされており、基本的な路線も継承されている。玩具シリーズという枠組みで考えれば、アニメーション担当監督の交代は根本的な変化をもたらす要因ではなかった。そのため担当監督を中心とした区分はあくまで便宜的なものであることはすでに述べたとおりである。
しかし同時に、高松信司が監督を担当した時期の勇者シリーズが、その美学にさまざまな新しい解釈をもたらしたことも事実である。改めて言うまでもないことだが、玩具そのものは主に樹脂と金属の塊にすぎないのであって、その造形が持つ意味はアニメーションを含めた文脈によって定義される。映像による物語が玩具の販促に有効なのは、玩具が描き出す成熟のイメージを意味づけする作用があるからだ。
改めてこうした前提を確認するのは、谷田部勇者がいったん完成させた成熟のイメージを、高松勇者が自己言及的に再解釈していったと考えるためである。谷田部勇者が玩具を用いた遊びの構造を物語によって正確に定義したとするならば、高松勇者はその構造を変奏しながら、そこで描きうる男性的なナルシシズムをさまざまなかたちで追求したといえる。もちろんそれは玩具というハードウェアあるいは美術的彫刻のデザインとも密接に関係しているのだが、どちらかといえば勇者シリーズを題材にした自己批評の側面が強く、ソフトウェアあるいは評論的なところに重心がある。そのため本連載もやや玩具本体から離れた議論をしていくことになるが、できるだけ物語論ではなく玩具論として、ユーザーとプロダクトの関係に注目していきたいと思う。
▲『勇者特急マイトガイン』ポスター。主人公がヒロインを庇いながら拳銃を構えている構図は、本作を象徴する。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p89
■昭和125年を生きる「12歳の少年」
それでは具体的に見ていこう。勇者シリーズは少年とロボットの絆を中心に据えるところにその特徴があった。『勇者特急マイトガイン』もその基本的な構造は踏襲しているが、その美学はこれまでと一線を画する。
その象徴となるのが主人公・旋風寺舞人の造形と、彼の相棒となる小型勇者ロボ・ガイン、および大型ロボ・マイトガインの関係である。しかし主人公の独自性について語るためには、まずは本作の世界観設定から説明しなくてはならない。
本作の舞台は化石燃料が枯渇したことで飛行機や自動車など既存の乗り物が運用不可能になってから50年が経過した時代、昭和125年と設定されている。そのような状況から電動の列車によって交通を再生したのが旋風寺コンツェルンであり、その本拠が置かれる東京は「ヌーベルトキオシティ」という名の近未来大都市に生まれ変わっている。
主人公・旋風寺舞人は15歳にして、行方不明となった親から旋風寺コンツェルンを引き継いだ若き総帥である。そして同時に、その資本力と技術力を背景にして独自開発したロボットチームを率いて、ヌーベルトキオシティにはびこる犯罪に立ち向かうヴィジランテでもある。アメリカのヒーローを参照するなら、バットマンやアイアンマンのような立場といえばわかりやすいだろう。バットマンがさまざまなガジェットで、アイアンマンがハイテクスーツで戦うとするならば、その代わりにロボットチームを率いるのが旋風寺舞人、というわけだ。
そしてこうしたアナロジーが可能なことからわかるように、旋風寺舞人は彼らに通じるマスキュリニティの担い手として描かれる。旋風寺舞人は勇者シリーズにおけるこれまでの登場人物とはまったく異なる主人公である。勇者ロボたちの部隊を率いて敵と戦う構図そのものは、一見すると前作『伝説の勇者ダ・ガーン』における星史少年と立場を同じくするように見える。しかし星史少年があくまで未成熟でやんちゃな、等身大でどこにでもいそうな、基本的には戦う力を持たない「少年」として描かれていたのに対し、旋風寺舞人ははじめから成熟した、完璧な存在として現れる。
舞人は15歳と設定されているだけでもはや「少年」ではなく、自らが男性的なナルシシズムを強烈に体現している。彼はヌーベルトキオシティの中心にそびえたつ(それが本当に中心かどうかは定かではないが、少なくともそのような印象を与えることを意図したデザインとなっている)自社ビルに住み、秘書と執事を従え優雅な生活を営み、作中に登場するあらゆる女性(敵を含めた)がその魅力に頬を赤らめる。
特に秘書である松原いずみは、舞人のナルシシズムを支える重要な存在だ。常に胸の谷間を強調した服に短いタイトスカートで仕え、15歳の上司から繰り出される恋人の有無や結婚についてのセクハラとしか言いようのない質問にはポーズとして憤慨しながらも最後は照れを見せ、スケジュールの無茶な変更などの事務仕事を的確にこなしていく。舞人の社長としての立場がそうした母性に支えられる一方で、物語のヒロインとなるのは吉永サリーである。彼女は貧しさからさまざまなアルバイトに精を出しており、それゆえにさまざまな事件に巻き込まれる。そこにさっそうと現れた舞人に、身分違いと知りながら惹かれていく――という構図がとられている。女性キャラクターだけではなく、たとえばライバルとなる雷張ジョーをはじめとした男性キャラクターも、不屈の正義を貫く舞人の男気に魅せられていく。「嵐を呼ぶナイスガイ」「不死身のタフガイ」と自ら名乗る舞人の仕草は、何者にも傷つけられない自信にあふれている。
もちろん本連載の目的は、こうした描写を批判することではない。重要なのは、旋風寺舞人がこれまでの勇者シリーズでは(少なくとも表面的には)あまり見られなかった、性的な回路によるナルシシズムを強力に体現する存在として描かれていることだ。一度崩壊した東京を列車という工業技術によって再生し、その身体を未成熟に留めたまま、美少女とロボットによって担保されたヴィジランテとしての全能感を生きる昭和125年の「12歳の少年」――それが旋風寺舞人なのである。
▲旋風寺舞人。ヒーロー然としたコスチュームと佇まい。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)113
▲吉永サリー。セーラー服の美少女。勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)113
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勇者シリーズ(5)「伝説の勇者ダ・ガーン」(後編)|池田明季哉
2023-10-31 07:00550pt
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は「谷田部勇者」シリーズ最終作にあたる『伝説の勇者ダ・ガーン』について分析します。近代的国家観への反省とグローバリズムが進行した1990年代に登場した、同作のロボットたちが提示した21世紀的モチーフとは?
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(5)「伝説の勇者ダ・ガーン」
■空と陸、そして文明の外側
原点から自身を相対化しながら拡張していく形式は、この後に加わる勇者について考えることでより鮮明となる。セイバーズに後に加わるホークセイバーは、その名前通り鳥の姿をモチーフとしている。旅客機・戦闘機・スペースシャトルの並びに鳥が加わることは、一見不統一なように思われる。ところが自己の生活空間を基準とした世界の拡張と考えれば、これは別の理解ができる。すなわちホークセイバーが象徴しているのは鳥の世界だ。スペースシャトルは宇宙の領域までを射程に収めるが、ダ・ガーンは地球を単なる空間としてではなく、さまざまな存在を内包する「世界」として描く。それはこの世界に生きる人間である自身を相対化し、鳥もまたこの空に暮らしている――という星史少年の認識そのものの拡張だ。ホークセイバーはスカイセイバーと合体し、背中に翼を備えた人馬の姿を持ったペガサスセイバーとなる。玩具としても珍しい傑作ギミックであるが、人と鳥が一体となったその姿は、まさにこうした想像力の象徴として適切だろう。
さらにこれはガ・オーンへと至る。ガ・オーンは本作における「2号ロボ」であるが、そのモチーフは独特かつ複雑である。まず、第一のモチーフは見るからにライオンであり、物語上もガ・オーンが眠っていたのはアフリカのキリマンジャロと設定されている。ホークセイバーが星史少年の鳥への思いやりから復活したのに対して、ガ・オーンはアフリカの大地に生きる獣たち――具体的にはゾウやキリンなど――の祈りを受けて目覚める。百獣の王たるライオンというモチーフは、獣の守護者として神格化されるにぴったりだろう。黒・赤・白・黄・緑というコントラストがはっきりしたカラーリングもアフリカ的だ。
一方で驚くべきことに、ロボット形態のデザインは明らかに「インディアン」をモチーフとしている。アメリカン・インディアンあるいはネイティブ・アメリカンと呼ばずにこの言葉をあえて使うのは、ガ・オーンのデザインは明らかにそうした認識のアップデート前、「インディアン」という言葉でしか表せない旧い概念を参照しているからだ。大きく広がったライオンのたてがみはウォーボンネットを思わせるし、顔に施された二列一対のペイントは戯画化された古典的な「インディアン」のそれである。さらに武器には「ガ・オーントマホーク」が含まれ、単語を並べて片言で喋り、挙げ句の果てには星史のことを「酋長」と呼ぶのである。
▲「獣王合体ガ・オーン」。特徴的なフェイスペイントが見て取れる。玩具としては電動ギミックが組み込まれた野心的な作品。 勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p20
このことはどう考えればいいのだろうか。こうした描写が現代では差別的と扱われるようになったことに異論はないが、それは本題でないためいったん議論から外すとして、ガ・オーンを通じて描かれようとした想像力はどのようなものだったのだろう。
『伝説の勇者ダ・ガーン』という作品自体が、90年代的なエコ思想を背景としていることはすでに述べたし、それが20世紀的な文明社会の野放図な発展とマスキュリニティを批判する性質を持っていたことも議論してきた。
その観点から見れば、ガ・オーンのモチーフが持つ奇妙な複合――アフリカの動物とインディアンの文化は同じカテゴリに入れることができる。アフリカの大自然は人間の活動によっていまだ破壊されざる聖域であるし、自然と深く結びついたインディアンの文化はアメリカの開拓によって民族ごと破壊された。つまりそれは20世紀的なもの――ダ・ガーンが象徴する「都市=文明」と対置される「自然」の概念なのだ。
この連載では、谷多部勇者においてグレート合体は対立するふたつの概念の統合を意味していると読み解いてきた。グレートエクスカイザーが「西洋と東洋」、グレートファイバードが「地球と宇宙」の統合だとするのなら、ダ・ガーンとガ・オーンの合体によって構成されるグレートダ・ガーンGXは「文明と自然」の統合と見ることができる。
▲「伝説合体グレートダ・ガーンGX」。ダ・ガーンをベースにした整ったプロポーション。この形態でも電動ギミックは生きている。 勇者シリーズトイクロニクル(ホビージャパン)p22
遡ってダ・ガーンにおいて戦闘機と新幹線をモチーフにしていたことも、より一段掘り下げて考えられるようになる。上半身を構成するのが単なる航空機ではなく戦闘機でなくてはならなかったのは、それが暴力装置としての「銃」のニュアンスを含んでいなければならなかったからだし、アメリカにおいては「トラック」に象徴されたような都市の生活を支える交通・ロジスティクスは、日本においては鉄道が、そしてその最先端の形式としての新幹線が当てられる。
我々はここで、勇者シリーズがトランスフォーマーの日本的ローカライズから出発していたことを思い起こすことができるだろう。トランスフォーマーが追求したアメリカン・マスキュリニティのルートが、21世紀において行き詰まってしまったことはすでに分析した。そのアメリカン・マスキュリニティを批判的に捉えながらも独自に発展させ、玩具と子供の関係を追求することによって中間性の美学に至ったルートが、勇者シリーズとして90年代の時点で確立されていたのである。
■20世紀における悪とその相対性
そう考えると、敵についても興味深い読み解きができるようになる。オーボス軍には4人の幹部(最終盤に5人)が存在するのだが、技術至上主義の軍人であるレッドロンはドイツを、サーカス団の団長にして巨体のレスラーであるデ・ブッチョはロシアを思わせる。レディ・ピンキーが搭乗する人形をモチーフにしたロボットはフランスのハイファッションブランドをモチーフにした名前が与えられている。ビオレッツェは少々手がかりに乏しいが、名前の響きや猫との結びつき(『ゴッドファーザー』におけるマーロン・ブランドなど)を考えれば、イタリアのイメージで見ることもできなくはない。一方でオーボス最大の部下として現れ、UFOの姿からドラゴンの姿へと変化するシアンは、ほとんど暴力性そのものの具現化であって、こうした枠組みに収めることは難しいだろう。
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勇者シリーズ(5)「伝説の勇者ダ・ガーン」(前編)|池田明季哉
2023-10-24 07:00550pt
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回は「谷田部勇者」シリーズ最終作にあたる『伝説の勇者ダ・ガーン』について分析します。ある意味ではChatGPTをはじめとするAIモチーフの先駆けとも考えられる、ダ・ガーンの新規性とは?
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(5)「伝説の勇者ダ・ガーン」
■憧れの器となった「隊長」
『勇者エクスカイザー』『太陽の勇者ファイバード』に続く勇者シリーズの3作目となるのが『伝説の勇者ダ・ガーン』(1992年)である。勇者シリーズ全8作品のうち最初の3作品を、アニメーションを担当した監督の名前から「谷田部勇者」と分類できることはすでに述べた通りだが、『伝説の勇者ダ・ガーン』はその最終作品ということになる。
▲『伝説の勇者ダ・ガーン』のポスター。地球が背景に置かれている。 勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p59
本稿では、トランスフォーマーを日本的にローカライズさせた「トランスフォーマーV」から勇者シリーズの基礎構造を確立した「エクスカイザー」に対して、「ファイバード」はそれを引き継ぐかたちでその想像力を深化させたと考えた。スターセイバーとジャン少年の関係は「父子」であり、エクスカイザーは戦うロボットと少年に相補的な役割を持たせていた。ファイバードにおいてそれが「兄弟」と定義されたことから遡って、エクスカイザーも構造的には兄弟的な関係性と言えるだろう。
一方、ダ・ガーンではこの構造が変化する。主人公の星史少年は、オーリンと呼ばれる不思議な宝玉に選ばれた存在である。そして本作の勇者ロボであるダ・ガーンは、古代から地球にある「勇者の石」に眠っていた超常的な(「伝説の」)存在であり、それがたまたま近くにあったパトカーと融合した結果、ロボットの姿を得る。星史少年は地球の生命力「プラネットエナジー」を吸い尽くそうとする侵略宇宙人オーボス軍と戦うことになり、そのために世界中に眠る勇者の石を見つけ、そこに眠る勇者たちを目覚めさせていく使命を帯びる。
星史少年は勇者たちを率いる「隊長」であり、勇者たちに命令しながら戦うことになる。ここに至って、ロボットと少年の上下関係は逆転する。星史少年は指揮官であり、勇者たちはその指示に従って戦う。星史少年の采配のまずさによって勇者たちがピンチに陥るエピソードもあれば、星史少年が成長していくことによってチームはその能力を高めていくこともある。このことは勇者たちが「キャプテン」「大将」「隊長」「酋長」と異なる呼び方をすることによってことさら強調される(「酋長」という意外な言葉選びについては後述する)。
「ダ・ガーン」は、ロボットが主体的な任務を帯び、それを少年がサポートするという構造を脱却している。もちろん地球を救うという使命そのものはダ・ガーンも共有しているが、少年の側に主体があり、ロボットはそれを拡張する存在として従属している。
これは星史の造形にも見てとることができる。「エクスカイザー」のコウタ少年は「子供」として描かれていたし、「ファイバード」のケンタ少年が「火鳥兄ちゃん」と対置されていたことはすでに述べた。これまで少年たちが「身近さ」を、そしてロボットたちが理想像として「憧れ」を担ってきた。しかし星史少年は違う。親のいない家にひとりで暮らし、鏡に向かって身だしなみを整え、「よし!」と笑顔を作りさえする。少々やんちゃで軽はずみな性格ゆえにヒロインに世話を焼かれてはいるが、危機となれば自らヒロインを抱きかかえ救い出す。勇者シリーズにおいて星史は、少年そのものが憧れの器となったはじめての主人公なのだ。このことは、ウルトラマンを思わせるヒーローらしい戦闘スーツのデザインや、ひかる・蛍・ピンクといったタイプの違う美少女たちがヒロインとして現れてくることからも補強されるだろう。
これは想像力の問題である以前に、商品企画の対象年齢の問題と不可分であることは述べておかなくてはならないだろう。一般に子供の成長は速く、従って興味も移ろいやすい。そのため子供向けのシリーズはふたつの選択を迫られる。ひとつは対象年齢を固定し、同じテイストの内容を繰り返すことでユーザーを入れ替えていく方法。もうひとつは対象世代を固定し、子供たちの成長に伴って対象年齢を挙げていく方法である。勇者シリーズは(少なくとも谷田部勇者の時点では)明確に後者の戦略を選択していた。実際物語の中においても、コウタ少年が小学3年生だったのに対し、ケンタ少年は小学4年生。対して星史少年は小学5年生と設定されている。星史少年はユーザーの成長とシンクロし、「身近さ」と「憧れ」を同時に宿した、より成熟した存在として置かれているのである。
■プロンプトを待つ生成AIとしてのダ・ガーン
しかし商業的な背景から出発したその設定は、単なる設定を越えて玩具における想像力の記述を更新してもいる。第一話において、覚醒したダ・ガーンを星史は警戒する。ダ・ガーンはそんな星史に命令することを求める。星史はそれを無視するが、結局はダ・ガーンに助けを求める。ダ・ガーンは助けに応じ、敵の状況に対して柔軟に対応、敵を撃破しふたりを救助する。
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勇者シリーズ(4)「太陽の勇者ファイバード」(後編)
2023-09-12 07:00550pt
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。シリーズ前作にあたる『勇者エクスカイザー』に対し、物語の舞台が国内から地球全体へと広がっていった『太陽の勇者ファイバード』。世紀末的グローバリズム精神を見出せる本作において、「火の鳥」のモチーフは何を表していたのでしょうか。 前編はこちら。
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(4)「太陽の勇者ファイバード」
■「武装」するロボットと脱税
さて、それではモチーフについても論じていこう。今作において、ファイバードたち宇宙警備隊が身を寄せるのは「天野平和科学研究所」である。これは天野博士(ひろし、という人名であるが、おそらく学術博士でもあるだろう)によって設立された民間の研究所である。宇宙のマイナスエネルギーを観測した天野博士が、その災いから人類を守ることを目的として設立されたものだ。ファイアージェットも元はレスキュー用の航空機として開発されたものと設定されており、戦う際は武装を搭載した別の支援戦闘機フレイムブレスターと合体する。これは玩具にも反映されており、頭部と胸部のデザインが大きく変わることでパワーアップした印象を与えるギミックとなっている。航空機という「鳥」が「炎」をまとうことで、戦う存在へと変わるわけだ。ファイバードとチームを組むサンダーバロンは特殊作業ビークル群の合体ロボットであるし、同様にガーディオンはパトカー・救急車・消防車という緊急救助車両の合体ロボットである。ファイバードは一応「武装」前にもいくつかの武器を搭載しているものの、そのすべてを折りたたんだり格納することを徹底している。こうしたギミックは、「本来は非戦闘用のマシン」が、危機に際して「やむを得ず武装する」という構図を強調する表現であると見ることもできるだろう。
こうした手続きの意味は、敵対勢力と突き合わせるとよりその色彩を明確にする。敵は宇宙皇帝を名乗り地球を支配しようとするマイナスエネルギー生命体ドライアスと、Dr.ジャンゴという悪の科学者のタッグである。つまり一種の帝国主義と、それを支援する科学技術の組み合わせ――政治と科学の短絡が争いを呼ぶ悪しき存在として設定されているわけだ。一方で、天野平和科学研究所は民間の研究施設であり、ファイバードたち宇宙警備隊もあくまで侵略という「犯罪」に抵抗するために戦う警察組織ということになっている。
そしてこの政治からの分離という価値観は徹底されている。天野平和科学研究所の財源は先祖の山々を売却した資産であるのだが、驚くべきことに天野博士は巨額の脱税を行うことでその資産を研究に費やしたことが語られる。もちろんDr.ジャンゴのように破壊と侵略に加担するのは悪だろうが、脱税も犯罪である。しかしファイバードの美学においては、税金を収めることはある政府に肩入れすることであり、それは科学の純粋性を損ね、政治との短絡というドライアス側の価値観に接近することなのである。
また『勇者エクスカイザー』が主に日本を舞台にしていたのに対して、『太陽の勇者ファイバード』では世界を舞台にした国際色豊かなエピソードが見られることも重要だ。ドライアスは、ときに地震兵器や気象兵器を使って、「地球」を単位に侵略を行う。Dr.ジャンゴは自分がノーベル賞を得られないことに憤慨するし、ケンタ少年が想いを寄せるクラスメイトはニューヨークに引っ越す。さらにはアメリカがドライアスに支配され、それを宇宙警備隊が開放、大統領に感謝されるエピソードさえ描かれる。
こうした設定は「お宝を奪う」という目的を持った「海賊」と戦う『勇者エクスカイザー』を継承しつつも、かなり踏み込んだものである。20世紀に対する反省からグローバリズムの文脈で平和を求める方向性が、世紀末の同時代的なトレンドであったことはすでに何度か述べた。グローバリズムにおける警察的な役割とは、戦後の世界秩序においてアメリカが果たそうとしたものであり、それはむしろ政治的な力を持った科学――強大な軍事力によって実現され、そしてそれゆえにさまざまな軋轢を生んだ。そして日本もまた、戦争の放棄という日本国憲法の理念と、日米安保という現実の間で揺れ動くことになった。その立場に対して脱税を描いてまで「政治的でないこと」を貫く美学、そして科学や技術に対する礼賛は、日本の戦後民主主義的な色合いを強く感じさせるものだ。天野平和科学研究所の掲げる「平和」とは、政治からの分離を意味する。そしてその美学が、玩具のデザインとも手を取り合っているのである。
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勇者シリーズ(4)「太陽の勇者ファイバード」(前編)
2023-09-05 07:00550pt
デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。今回取り上げるのは、「勇者シリーズ」2作目にあたる『太陽の勇者ファイバード』です。本作で掲げられる「脱政治的な平和」は、戦後民主主義的なメンタリティからはどのように読み解かれるのでしょうか。
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(4)「太陽の勇者ファイバード」
前回はエクスカイザーが確立した勇者シリーズの基礎構造について次のように整理した。前身となる『トランスフォーマーV』においてジャン少年とスターセイバーが「子」と「父」の関係であったのに対して、コウタ少年とエクスカイザーは相補的な関係にある。本稿では、「魂を持った乗り物」という想像力の特徴を、その主体の曖昧さ、中間性・相互性に見出してきた。勇者シリーズは、完全に人間から分離した「魂を持った乗り物」が、人間と相互作用しながら互いに成熟していく構造を持った。これは子供がおもちゃを率いて遊び、一方でおもちゃに理想像を見出すことで成熟していく遊びの構造と対応することで、子供が子供のまま成熟のイメージへと接近することを可能にしている。ゆえに勇者シリーズは、単に物語としてだけではなく、玩具として高い強度を持つ想像力を提示したのである。
それでは「谷田部勇者」の残りの作品についても、この構造を基準に見ていこう。
■「兄」を導入した『太陽の勇者ファイバード』
『勇者エクスカイザー』に続いたのは、『太陽の勇者ファイバード』(1991年)だ。本作は世界観を『勇者エクスカイザー』と同じくし、その9年後を描いた作品とされている。これは後の勇者シリーズが基本的に世界観の繋がりを持たないことを考えると例外的である。とはいえ、いくつかの設定にその名残はあるものの、これは映像作品中ではっきりと名言されない。玩具それ自体にも特に連動する要素がないこともあるし、そもそもこうした年表的世界観設定が玩具の想像力に与える影響は限定的である。そのためこの設定は本稿ではさほど重要なものと見なさないことにする。
では本作の玩具とそれにまつわる想像力について、順を追って見ていこう。まずエネルギー生命体である宇宙警備隊が地球のマシンに宿った結果が主役ロボット・ファイバードであり、これは『勇者エクスカイザー』と同様の構造である。しかし最大の特徴は、ファイバードが宿ったのが、人型――成人男性型のアンドロイドであったことだ。「火鳥勇太郎」と人間の名前を与えられたファイバードは、主人公となるケンタ少年と生活を共にすることになる。ケンタ少年は火鳥勇太郎を「火鳥兄ちゃん」と呼び慕う一方、高い知性でさまざまなことを驚異的な速度で吸収しながらも地球の常識を持たない彼を指導していくことにもなる。そして危機が訪れれば、「火鳥兄ちゃん」はファイヤージェットと呼ばれる航空機と合体し、巨大ロボットの肉体を得て、敵と戦うことが可能になるのである。
▲『太陽の勇者ファイバード』のポスター。火鳥勇太郎が加わっている。 勇者シリーズデザインワークスDX(玄光社)p33
注目すべきなのは、やはり「勇者」に成人男性の姿が与えられたことだろう。『勇者エクスカイザー』において、「勇者」はあくまで家のスポーツカーか巨大ロボットであったため、日常において少年とロボットの活動範囲は限定された領域でしか重ならない。しかし「勇者」が人間の姿であれば、少年とロボットの生活範囲はほぼ完全に一致する。これはドラマの選択肢を飛躍的に拡げる、作劇上たいへん優れたアイディアであった。想像力のレベルでは、『勇者エクスカイザー』で示された少年とロボットの関係性を、「(擬似的な)兄弟」というかたちでより直接的に提示する効果があっただろう。実際に賢く勇ましいながら、どこか常識外れなところを持ち合わせる火鳥勇太郎は、魅力的なキャラクターとして人気を博した。
ここで火鳥勇太郎が「父」ではなく「兄」と設定されたことは重要である。「親子」の垂直的な構造から「兄弟」という水平的な構造へのシフトについては、『爆走兄弟レッツ&ゴー!』への分析を通じてすでに触れた。スターセイバーが明確に「父」であったことを考えれば、たとえば父を失ったケンタ少年に火鳥勇太郎という擬似的な父を与えることもできただろう。しかし勇者シリーズはそうすることを選ばず、火鳥勇太郎を「兄」と設定し、地球の常識を持たないゆえにケンタ少年の助けを必要とする相補的な存在と置いた。ここから逆算して、コウタ少年と相補的な関係を気づいてきたエクスカイザーもまた「父」というよりは「兄」であったと考えることができる。本稿が「魂を持った乗り物」という概念で説明しようとしているもの――ヒトとモノが相補的に成熟していくビジョンは、勇者シリーズの構造的特徴であり、世紀末、あるいは平成の同時代的な感性でもあるのだ。
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