-
第十二章 制作――ハードウェアの探究|福嶋亮大(後編)
2024-04-30 07:00550pt
6、制作の哲学――他者性のオン/オフ
制作者は、素材=ハードウェアとしての他者を象る。これは他者性の創設である。しかし、この被造物が制作者と合一するとき、他者性はむしろ打ち消される。制作者にとって、素材の他者性はときにオンになり、ときにオフになる。さらに、制作者自身も自らの制作物の魅力や恐怖に屈するとき、自己がオンの状態とオフの状態が重なりあう。『フランケンシュタイン』と「ピュグマリオン」が示すのは、まさにこの量子状態である。
ここで議論の補強のために、哲学的な観点も導入しておこう。「制作的態度」を現象学的に分析したハイデガーは、およそ次の二点を指摘している。
(α)制作的態度において、制作されるものはそれ自身に引き渡される。材料や素材がそれ自体として自立したものとして了解されるのは、作るという態度によってである。「材料や素材といった概念の起源はまさに、制作に定位した存在了解にあるのです」[13]。もう一歩進んで言えば、制作的態度こそが制作を必要としないもの、制作不可能なもの、つまり「自然」を浮上させる。
(β)制作者の狙いにおいては、制作物は「できあがれば自由に使用されるもの」として把握される。この態度において、制作物は「引き離して置かれるもの」ではなく「こちらへ招き立てられるもの」[14]、つまり手元で自由に扱える存在となる。ここには、技術の本質を自然の駆り立て=徴発(Gestell)と見なしたハイデガーの見解の反響が認められる。
ハイデガーによれば、制作者は素材=ハードウェアをそれ自身の権利において確立し、自立的なものとして了解する。つまり、自己とは異なる他者が創設される。その一方、制作物は完成したとたん、使用者の手元へと招き立てられる。つまり、隔たった他者ではなく、むしろ自己に近接的な他者として現れ直すのだ。他者を創設する一方、その他者と自己が限りなく近づいてゆくというパラドックスがここにはある。ルソーとシェリーはこの制作のパラドックスを的確に把握していたように思える。
ただ、一八世紀半ばの「ピュグマリオン」からおよそ半世紀後の『フランケンシュタイン』に到ったとき、制作のテーマがより厄介な問題を含むようになったことも見逃せない。フランケンシュタインと彼の制作物は、ピュグマリオンとその彫像が和解するのと違って、お互いを最大最強の敵と見なす。呪われたカップルとなった二人には、もはや相手を殲滅する選択肢しか残されていなかった。制作物が制作者を圧倒するような怪物として現れること――それがシェリーのつかんだ新たな問題なのである。
7、社会に先行する悪夢へのアクセス
イギリスのメアリー・シェリーとフランスのルソーはともに神話的な制作者(プロメテウス/ピュグマリオン)を参照しながら、散文的な現実に回収されない素材=ハードウェアの制作をテーマとしたが、『フランケンシュタイン』が示すように、その制作物は制作者自身を破局に追いやる怪物へと変身した。この制作物の怪物化という問題を探究するには、ヨーロッパだけでなくアメリカ大陸の文学も考慮に入れなければならない。
もとより、アメリカという国家そのものが、フランケンシュタインの怪物のような合成物である。アメリカの作家たちは総じて、自らの社会的現実が、稠密に組織されたヨーロッパとは異質だと考えていた。アメリカ的現実には穴があいていて、あちこちに飛躍や断絶がある。そのため、アメリカ文学は安定的な居住ではなく、踏破(メルヴィル、ジョン・ミューア)、探索(ヘンリー・ソロー、レイモンド・チャンドラー)、放浪(ナボコフ、ジャック・ケルアック)のような落ち着かない心情に由来する行為に導かれてきた。二〇世紀半ば以降は、これらのモチーフはSFに受け継がれる。特にロシア系移民のアイザック・アシモフの作品には、銀河帝国のファウンデーション(創設)からロボットまで、既存の社会や人間の限界を超え出る「制作」のテーマが息づいていた。
この安息を振り切ったアメリカ文学の系譜のなかで、一八〇四年生まれのナサニエル・ホーソーンは枢要な位置を占める。彼はE・A・ポーと並んで、ゴシック小説の陰鬱な想像力を駆使しながら、人工物の「制作」の問題に取り組んだ作家である。クリス・ボルディックが言うように、ホーソーンの一連の芸術家小説――「イーサン・ブランド」「美の芸術家」等――では「被造物は、きまって自律的な力を持つようになり、やがては自らを生み出した創造者を圧倒するに至るのである」[15]。ホーソーンには、制作者が制作物に食いつぶされるというモチーフがある。
ただ、これだけならば、ホーソーンの小説は、およそ半世紀前の『フランケンシュタイン』の亜流に留まるだろう。ホーソーンやポーの創意は「制作されたもの」に過去の悪夢的な重さを与えたことにある。ゴシック小説研究者のデイヴィッド・パンターによれば「ヨーロッパの過去の重圧は、美であると同時に恐怖を意味した。この過去の重圧によってヨーロッパは窒息死する危険にさらされていたのだ。ホーソーンやポーの全体にわたって存在しているのは、この窒息状態である」[16]。ホーソーンとポーの「制作」は、過去の呪縛のせいで「窒息」しかかっている社会や人間を浮かび上がらせる。そのため、彼らの小説はたいてい陰鬱で安らぎを与えない。
特に、マサチューセッツ州のセイラムを拠点としたホーソーンは、散文的な「ノヴェル」を希求しつつも、それ以前の古い文学形態である「ロマンス」をあえて戦略的に選び取った作家である。彼の企ては、散文的な現実との和解を拒み、社会に先行する悪夢にアクセスすることにあった。しかも、そのあらゆる安息を奪う悪夢を、制作された物質=ハードウェアに結びつけたところに、彼の真骨頂がある。
-
第十二章 制作――ハードウェアの探究|福嶋亮大(前編)
2024-04-23 07:00550pt
1、読むこと、見ること、作ること
私は前章で、近代小説の主体性の源泉が「読むこと」の累積にあることを示した。一八世紀の書簡体小説では、登場人物たちが大量の手紙を送受信し、相手のテクストにエントリーし続ける。手紙はいわば瞑想用のアプリケーションであり、心(主観)の状態をその揺らぎも含めて、きわめて詳細に書き込むことができた。さらに、近況を報告しながら、知識や感情を親しい相手とシェアする手紙は、速報性と共同性を兼ね備えた媒体でもある。書簡体小説はこのアプリケーションに支援されながら、主観とコミュニケーションを文学の中心に据えた。
この文学的発明によって「読むこと」はたんなる情報の獲得ではなく、相手の心を深く了解するための没入的なコミュニケーション行為となる。他者の書いたテクストへの反復的なエントリー(学習)によって、書簡体小説の主人公たちは、心的な一貫性をもつ主体として組織された。しかも、彼らのプライヴェートな送受信の記録は、なぜか読者に漏洩し、覗き見されることになる。ゆえに、書簡体小説には「読むこと」そのものがテクストの内から外に転移するという構図がある[1]。
書簡体小説を含め、近代小説は『ドン・キホーテ』から二〇世紀のハードボイルド探偵小説に到るまで、《読む主体》を核として進化してきた。日本文学でも、ダンテやセルバンテス、ポーを読み解く大江健三郎からレイモンド・チャンドラーを翻訳した村上春樹まで、このタイプの主体性が継承された。村上の『街とその不確かな壁』(二〇二三年)という曖昧模糊とした小説になると、読む行為が何のてらいもなくロマンティックに美化されている。
もともと、ヨーロッパ小説で「読むこと」の進化を促したのは、宗教的権威からの離脱の動きであった。メキシコの作家カルロス・フエンテスによれば、『ドン・キホーテ』の母胎となったのは「ローマ教会とその一義的な世界の読みとりに背を向けたヨーロッパ」である[2]。世界の解読の方法がもはや一つの絶対的な規範=信仰に従属しなくなったとき、セルバンテスは「読むこと」を小説の中心的問題に引き上げた。一義的な読みへの圧力が弱まれば、読むことはいつなんどきエラーや暴走を起こし、主体=読者を狂気や誤解に導くか分からなくなる――それが二一世紀のインターネット時代にも通じる『ドン・キホーテ』の教えにほかならない。セルバンテスにとって「読むこと」は、信仰とも理性とも異なるやり方で世界を学習する行為であり、それゆえに危険かつ魅惑的であった。
ただ、《読む主体》を抽出するだけでは、小説のアーキテクチャを解明するにはまだ不十分だろう。われわれは「読むこと」に回収されない問題を把握せねばならない。例えば、ゲーテは『若きウェルテルの悩み』で書簡体小説の時代の終わりを告げる一方、自然科学者として「見ること」の価値を高めた。彼にとって、科学は深遠な自然にアクセスし、感覚を豊富化する学問的アプリケーションであった。自然のもつ無尽蔵の生成力に沿いながら、文学者ゲーテは『イタリア紀行』では火山の測量のような調査を含めて、自らの視覚的体験を詳しく再現した(第九章参照)。
言うまでもなく、自然の旺盛な生成力は凶暴な破壊力にも転じる。少年時代にリスボン大地震の惨状を何度も聞かされたゲーテは、自然の過剰さに心を揺るがされた作家であった。リスボン大地震は哲学者や神学者による世界の説明を疑わしいものとし、前例のないスピードで恐怖を蔓延させた。彼の自伝『詩と真実』によれば「恐怖の悪霊がかくも迅速に、かつ強力に、その戦慄を地上にくり広げたことは、おそらくかつてないことであった」[3]。このメフィストフェレスのような悪魔じみた自然に対しては、もはやテクストを「読む」だけでは太刀打ちできない。ゲーテの《見る主体》は、科学というアプリケーションに支援されながら、生成=震動する自然にアクセスしようと試みた。
さらに、「読むこと」のちょうど対になる行為として、「作ること」や「書くこと」が挙げられるだろう。私はそれを「ハードウェアの制作」というテーマとして論じたい。まずは、このテーマが浮上してくる文学史的背景を整理しよう。
2、フィクションとノンフィクションを区別しない言説
ヘーゲルは『美学』の叙事詩を論じたくだりで、近代的な小説(Roman)の前提となるのは「すでに散文的世界として秩序づけられた現実」だと述べた。散文と化した現実は、神々や英雄の非凡な業績ではなく、取るに足らない日常的・偶然的な事柄によって構成される。ヘーゲルによれば、小説家の個性はこの平凡で、散発的で、とりとめのない現実の「捉え方」に現れるが、そこには二つの手法があった。一つは散文化した現実を承認し、それと和解すること、もう一つは平凡な現実をより美的・芸術的な現実に置き換えることである[4]。ごく大雑把に言えば、これは「日常系」と「非日常系」の差異に対応する。
近代小説はまず、前者に力点を置いたジャンルとして現れた。「散文」となった現実を承認した小説は、平凡な人間の心理および社会の状況を描くことに、エネルギーを注いだ。小説家が関心を向けるのは、前もって何が起こるか予測できない、社会という偶然の場である。イギリスの古典的な文学や批評(とりわけシェイクスピアやジョン・ドライデン)を吸収した明治日本の坪内逍遥が「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」(『小説神髄』)と的確に評したことも、ここで思い返しておこう。
特に書簡体小説は、まさに坪内逍遥の言う「人情」(心)と「世態風俗」(社会)を記述する散文的なリアリズムを前進させた。サミュエル・リチャードソンやモンテスキューに始まり、ルソーの『新エロイーズ』やゲーテの『若きウェルテルの悩み』に到るまで、手紙の記述はもっぱら身辺の出来事の報告に向けられ、超自然的な現象は排除された。加えて、書簡体小説は自らが本物の手紙の集まりであり、創作されたフィクションでないことを強調した。現に、ルソーやゲーテは創作家ではなく、ジュリやサン゠プルー、ウェルテルの書いた実在の手紙の編集者として自己演出したのである。
ゆえに、一八世紀の書簡体小説は自らを「フィクション」として規定しない――というより、当時はフィクションとノンフィクションの区別そのものが厳密ではなかった。テリー・イーグルトンによれば「リチャードソンの特異な文学生産様式は、言説を「フィクション」と「ノンフィクション」に厳密に分節化しない社会、つまり私たち自身の社会とは異なる社会において、はじめて可能な様式であった」[5]。現代のわれわれは、小説とはフィクションであると無造作に考える。しかし、一八世紀ヨーロッパの作家たちにとって、小説はむしろ「人情」や「世態」を高精度で再現するハイパーリアルな書式であり、その言説をわざわざ虚構の文書と宣言する意味はなかった。同じく、中国でも小説は歴史書、つまり事実の文書を擬態して書かれたのである(第四章参照)。
フィクションとノンフィクションをボーダーレスにつなぐ言説の形態は、書簡体小説に限ったものではない。リチャードソンより約三〇歳年上のデフォーは『ロビンソン・クルーソー』や『ペスト』を、出来事を忠実かつ詳細に記録したfactual(事実的)な文書として読者に差し出した。デフォーにとって、文書の価値は巧みな虚構の創作にではなく、いわばfactfulness(事実に満ちていること)にあった。二〇世紀のヴァージニア・ウルフが『ロビンソン・クルーソー』について「この本は個人の労作というよりはむしろ、民族が生み出した作者不明の所産の一つに似ている」と評したように[6]、作家デフォーはクルーソーの島を覆う無数の「事実」の影に隠れている。一八世紀の作家は、ノヴェルという新しい高精細の記録装置によって、散文化=日常化した世界と和解したのである。
-
老骨に自ら入れる鞭の驚くべき強さ~バイデン大統領一般教書演説~|橘宏樹
2024-04-19 07:00550pt
現役官僚である橘宏樹さんが、「中の人」ならではの視点で日米の行政・社会構造を比較分析していく連載「現役官僚のニューヨーク駐在日記」。今回は11月のアメリカ大統領選挙に向けての展望をお届けします。民主・共和両党の代表がそれぞれバイデンとトランプに決まったなかでおこなわれたバイデンの一般教書演説からは、何が読み取れるのか。「現役官僚」ならではの視点で語っていただきました。
橘宏樹 現役官僚のニューヨーク駐在日記第12回 老骨に自ら入れる鞭の驚くべき強さ~バイデン大統領一般教書演説~
お久しぶりです。橘宏樹です。だいぶ間が開いてしまって申し訳ありませんでした。仕事が忙しいことに加えて、1歳数ヶ月となる子供の世話で毎日ドタバタです。子育てあるあるですが、お風呂に入れて、添い寝しながら寝かしつけると、日中の疲れもあいまって、いつの間にか自分も寝入ってしまいます。すんでのところで睡魔に打ち勝ち、ようやく自分の時間ができたとしても、そこから何か文章を書く気力はやはり残っていない……という日々の連続です。
さて、今年のアメリカは何と言っても、大統領選挙の年です。先日、両党の候補者がそれぞれバイデン大統領、トランプ前大統領に決まりました。
そんななか、当地時間3月7日(木)昼のバイデン大統領の一般教書演説(今年1年の所信表明演説)のニュースをご覧になった人はおられることと思います。僕は、仕事をしながらではありますが、CNNで一部始終を視聴していました。
政策的に何が語られたかについては、他の記事に詳しいのでそちらに譲るとして、本稿では、僕の興味を惹いたポイントを2つ述べたいと思います。
【詳細】バイデン大統領 2024 一般教書演説で何を語った?NHK 2024年3月8日
バイデン米大統領、ウクライナやガザのほか自分の年齢にも言及 一般教書演説
2024年3月8日 BBC News Japan
1つ目は、CNNの演説映像それ自体の作品性です。まず、カメラワークが凄いです。バイデン大統領を、前から上から横から後ろから、と、目まぐるしく視点を変えながら映し出します。ロックスターのライブフィルムさながらです。生放送とはいえ毎年の定例行事ですから、だいたい段取りも決まっているので、飽きさせないような工夫が積み上げられてきているのかもしれません。
また、演説は上院議会で行われ、上下両院の議員と特別ゲストが議場に集まってびっしりと埋め尽くされているのですが、彼らのリアクションが非常に面白いです。特に、上下両院議長の「顔芸合戦」は見応えがあります。バイデン大統領の真後ろ、向かって左には、カマラ・ハリス副大統領兼上院議長(民主党)が、右には、マイク・ジョンソン下院議長(共和党)が座っているのですが、大統領が政権の実績を強調すれば、ハリス副大統領は、いちいち立ち上がって、拍手します。大きな笑顔で口元も賞賛の言葉を発しているように見えます。対して、ジョンソン下院議長は、その都度、白けたような不機嫌顔をつくったり、いやいやいや、と顔をしかめて首を小さく横に振ったりします。トランプ前大統領への批判が展開する際も同様です。面白いのは、プーチン批判など、共和党として、また、自身の政治スタンスとして、それほど反対ではない話では、ほんの少しだけ肯定的に頷いてみたりするところです。顔芸がいちいち細やかです。
▲バイデン大統領の2024年一般教書演説の映像(CNN)後ろに座る上下院議長の「顔芸合戦」は要注目。
議場も同様です。大統領が実績を強調すれば、民主党員が陣取っている辺りは、みな立ち上がって拍手喝采。共和党員が陣取っている辺りは、しらーっとノーリアクションです。そうした様子をCNNのカメラは天井付近のカメラでしっかり捉えています。民主党員は、本当に、いちいち立ち上がって拍手喝采してはまた座り、を繰り返すので、もう演説中ずっと立ってたらいいんじゃないか、とすら思います。
こうした政治家らのオーバーリアクションについては、さすがはコミュ力高いアメリカ人という見方もあるかもしれませんが、僕は、むしろ、彼らがさらされている視線の厳しさの方に思いが至ります。雇用、投資、トランプ、中東、ウクライナ等々、それぞれのトピックでバイデン大統領の意見に対してどのようなリアクションを取るか、地元支援者や利益団体が厳しく見つめています。カメラ越しの彼らに向けて、自分のスタンスをはっきりかつ細やかにアピールしているのだと思います。いつカメラで抜かれてもよいように、というよりもむしろ、あわよくば抜いてもらいたいという前のめりな姿勢で大統領の演説に「参加」しているように見えます。そう、議場の政治家らはお笑い番組のひな段に並ぶガヤ芸人なのです。大統領という指揮者が振るタクトに呼応するオーケストラの団員なのです。議場の全員が「演者」なのであって、実はあの場に演説の純粋な「聴衆」は1人もいないのです。
転じて、日本の首相の所信表明演説の国会中継はどうでしょうか。カメラワークは普段の国会中継も含めて、ひと昔前より多角性が増している印象もありますが、野次る議員をアップで抜いたりするでしょうか。また、「演者」の方々は、地元支援者や利益団体の目線をカメラ越しにビキビキに意識しているでしょうか。国会議員の議場での居眠りがよく批判されていますが(あんな長時間ただ椅子に座らされているのは、普通に酷だとは思います。)もしカメラが、居眠り監視の域を超えて、国会議員のリアクションをこまめに拾い、おまけに実況中継や解説もつくようになれば、彼らのカメラを意識したジェスチャーも増えて、民主主義的なコミュニケーションはより豊かになるかもしれません。
-
【新刊のお知らせ】三宅香帆『娘が母を殺すには?』 5/15(水)発売!
2024-04-16 19:00本メールマガジンで連載していた、三宅香帆さんによる「母と娘の物語」がついに書籍化します!
店頭発売日は5/15(水)、AmazonほかECサイトでは、ご予約受付を開始しております! ご予約はこちら→▲Amazonでの予約注文はこちら。
「母」の呪いに、小説・漫画・ドラマ・映画等のフィクションはどう向き合ってきたのか?
『人生を狂わす名著50』『文芸オタクの私が教えるバズる文章教室』の三宅香帆が、「母」との関係に悩むすべての「娘」たちに贈る、渾身の本格文芸評論!「毒母」「呪い」「母がしんどい」「母が重い」――いまや社会現象となっている「母と娘の葛藤」は、フィクション作品の中でも繰り返し描かれ、その解法が探られてきた。本書では、注目の若手批評家・三宅香帆の視点をもとに、「母と娘の物語」を描いた作品の分析し、「母娘問題」のひとつの「解」――「母殺し」の具体的方法を提示する。「あまりに物騒なタイト
1 / 1