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記事 22件
  • 男と贈り物|井上敏樹

    2021-06-30 07:00  
    550pt

    平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。今回は「贈り物」について。物を「贈る」ときには、その相手への理解度が問われているのだと敏樹先生は語ります。
    「平成仮面ライダー」シリーズなどで知られる脚本家・井上敏樹先生による、初のエッセイ集『男と遊び』、好評発売中です! PLANETS公式オンラインストアでご購入いただくと、著者・井上敏樹が特撮ドラマ脚本家としての半生を振り返る特別インタビュー冊子『男と男たち』が付属します。  詳細・ご購入はこちらから。
    脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第65回 男 と 贈 り 物     井上敏樹 
    友人から連絡があった。前々から行きたかった割烹の予約が取れたのだが、店の主人に手土産など、持参するべきだろうか、と言うのである。私は即座に返答した。やめなされ、と。もちろん、色々な考え方があるだろうが、よほど相手に対する理解がないかぎり、物を贈るのは危険である。この世に迷惑な事はあまたあるが、いらない物を貰う事ほど迷惑なものはない。先日も知り合いの知り合いの知り合いと会食があり、その知り合いの知り合いの知り合いが私に手土産を持って来た。帰宅して開けてみると鳩サブレである。これには困った。無論、鳩サブレに罪はない。寧ろお菓子の中では傑作の部類に入るであろう。だが、私は甘い物が大の苦手なのだ。甘味でなんとか食べられるのは愛だけだ。試しに渋茶を入れて食べてみたがやはり腹におさまらない。しかし、敵は食べ物だ。捨てるわけにはいかない。今、鳩サブレは私の部屋の片隅で眠っている。時が解決してくれる、それが私の答えである。鳩サブレは時が流れ、賞味期限が切れ、捨てるという行為に私が罪悪感を抱かなくなるまで眠らねばならない。
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  • ネット社会を予見させる「超能力」を描いていた『いつも美空』|碇本学

    2021-06-29 07:00  
    550pt

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回は、世紀の変わり目の短めの連載作品『いつも美空』を分析します。SF×時代劇だった『虹色とうがらし』に続き、超能力少女たちを主役に据えた異色のSF×現代活劇として、あだち充としては息抜き的に描かれたとされる本作。荒唐無稽な作風ながら、のちのネット社会の問題への洞察を孕んだその予見性とは?
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第18回 ネット社会を予見させる「超能力」を描いていた『いつも美空』
    あだち充の息抜きとしての短期連載作品
    第16回で論じた『H2』はあだち充にとって7年を越える過去最長の連載(現在連載中の『MIX』は月刊誌連載ながら9年目に突入し、この記録を更新している)となり、「少年サンデーコミックス」では全34巻(2018年時点でシリーズ累計発行部数が5500万部を突破)となったが、その連載終了後に始まったのが『いつも美空』(2000年−2001年)だった。今作は『H2』の担当編集者だった小暮義隆が引き続き担当することになった。
    プロボクサーのライセンスを持ち、プロのリングに2度立っている小暮は『H2』連載終了後に、あだちに「新連載はボクシングでどうですか?」と提案しているが、その時には「今は描く気がない」と断られている。この辺りはタイミングの問題だったのだろう。 小暮は『いつも美空』終盤になって異動してしまうが、『いつも美空』のあとにあだちはいなくなった小暮の期待に応えるかのようにボクシング漫画『KATSU!』を始めることになる。そちらは次回以降に取り上げる。

    「『H2』でしっかり野球を描いたんで、次はスポーツから離れたほうがいいんだろうなと。先生の作品の長い連載で女子が単独で主人公だったことはない。そして当時、僕が頻繁に映画記事でライターの方と仕事をしていたんですが、その人が『映画記事は、以前書いていた事件記事やゴシップ記事と違い、書いた人全員に喜んでもらえる。なんて素敵な仕事だろう』と言っていたことを思い出し、『アカデミー賞を獲る女のコ、みんなを幸せにするスーパーヒロインはどうでしょう?』と提案したところ、『やってみようか』と始まったのが、『いつも美空』でした。」〔参考文献1〕
     登場人物たちは超能力の持ち主で、ヒロインは大女優になるかもしれないと話は振ってるけど、女優の話にしようなんて全然思ってませんでした。遊ばせて好きに描かせると、こんな話を描く漫画家です。  猫がしゃべり始めたり、そういうデタラメな話が好きなんです。長いこと連載をやらされると、いろいろと溜まってくるってことだね。この時は、僕の中のデタラメなギャグの部分が、きっと溜まってたんでしょう。「H2」では遊び切れなかったからね。最初から短いものだと思ってると、いくらでも遊べるんです。 「いつも美空」は、どう考えても読者の反応はイマイチでしょう。それもある程度は覚悟の上でした。〔参考文献1〕

    ボクシング漫画を執筆してもらうことを早々に諦めた小暮は上記のような提案をあだちにした。それをあだちは受けつつも、ある種デタラメな漫画にしようと決めていたようだ。このパターンは『ラフ』と『H2』という長期連載作品の間に連載されていた『虹色とうがらし』を彷彿させる。 『虹色とうがらし』は「SF×時代劇」だったが、『いつも美空』は「SF×現代劇」という形になっている。そして、『虹色とうがらし』の時と同じように読者の反応はイマイチであり、大ヒットを見込めないので長期連載にならないことをあだちはわかった上で描いていたことも本人の発言からわかる。 長期連載をしたあとの息抜きとして、読者ではなく著者である漫画家のあだちにとって漫画を描く楽しみを再認識させるような大切なものが『虹色とうがらし』や『いつも美空』という作品だった。これはあだちにとっては真面目に連載をやりきった自分へのご褒美のようなものとしても考えることができる。
    『いつも美空』は、本連載で以前、あだち充がデビューしてから現在までの作品歴を四期に分けたうちの第三期にあたる。 『H2』(1992〜1999年)、『じんべえ』(1992〜1997年)、『冒険少年』(1998〜2005年)、『いつも美空』(2000〜2001年)、『KATSU!』(2001〜2005年)、『クロスゲーム』(2005〜2010年)の頃である。『じんべえ』と『冒険少年』は「ビッグコミックオリジナル」掲載作であり、「少年サンデー」連載作品ではなく、ほかはすべて「少年サンデー」連載作品である。 『H2』と『KATSU!』の間で一息していたのが『いつも美空』だったことがわかる。『KATSU!』は連載中に兄のあだち勉が亡くなったこともあり、あだちが描きたい生死が関わることになるプロ編が描けずに終わってしまった作品だ。その『KATASU!』をできるだけ早めに終わらせて、次の新連載となる『クロスゲーム』を立ち上げたのが編集者の市原武法だった。もしかすると、市原がいなければ、あだち充は少年漫画がそれ以降描けなくなっていた可能性もあった。その『KATSU!』『クロスゲーム』の連載期間を合わせるとちょうど10年となり、『H2』の7年とその10年を繋ぐのが『いつも美空』だった。
    あだち充作品の中では『虹色とうがらし』同様に影が薄く、人気作品の上位に入ることはないという共通点もある。ただ、あだち充が幼少期から楽しんできた少年漫画らしさを楽しんで描いているのは間違いなくこの2作だった。そして、悲しいかな、あだち充は自分が大好きなデタラメな漫画は読者受けが悪いことも知っていた。しかし、そうわかっていても「少年サンデー」の二枚看板であり、功労者であるあだち充だからこそ、許される連載漫画でもあった。そして、あだちもこのくらいでやめないとヤバいなと思うと連載を終わらせていくというプロ意識もあってか、1年(実際は13ヶ月)で物語は終わる。 『虹色とうがらし』の連載は2年4ヶ月だったので、期間としてはほぼ半分であるが、「デタラメだけど、手は抜いてないですよ。こういう作品を間に挟んでいるから、長生きできた漫画家なんです」とあだちも『いつも美空』について語っている。

    環境問題や、自分の中で「違うんじゃないか」ということも自然に言葉にしています。「得るものの大きさはわかっても、失うものの大きさは失ってからじゃないとわからない」というセリフなんて、結構自分の本音を言わせてます。現代劇じゃないし、「地球じゃない」と言っているから、もう言いたい放題。 世の中を皮肉な目を見るクセは変わらないですね。今はスマホ全盛になってるのが気に食わない。どこを目指しているのかまったくわからない。最終的に目指しているところが、「それって幸せなの?」と思ってしまう。人と関わる必要がなくなっちゃうんじゃないかと……はい、基本的には古き良きモノを愛する保守的なひねくれ者です。〔参考文献1〕

    上記は『虹色とうがらし』に関してのあだちのインタビューからだが、『いつも美空』でも環境問題に関するセリフが出てくる。

    「拾っても、拾っても。あっという間にまた元どおりだ。エコロジー…か。地球にやさしい人間なんているのかね。船にしろ飛行機にしろ車にしろ、人は移動するだけで空気を汚し、水を汚し、海を汚す。木を切り倒し森をつぶし生態系をぶち壊して、繁殖してきた生き物じゃねえか。キリがねえんだよ、こんなことしてても… 捨てるヤツを減らしゃいいのさ。もともとこんな大勢の人間を養うようにはできてねえんだよ。この地球(ほし)は──な。」『いつも美空』5巻「キリがねえんだよ」より

    これは『いつも美空』の主人公の坂上美空のライバルとなる野神篤史が作中で言ったセリフである。弟の剛志と共に海岸のゴミ拾いをしている時に篤史は弟に向けてというよりも、他にボランティアでゴミ拾いしている地域の人たちや偽善者に向けて言い放っているようなシーンだ。 また、篤史は能力者である弟の剛志の超能力を使って、中学の陸上男子100mや走り幅跳び、水泳男子100mと200mで日本新記録を更新し、そのルックスのよさもあり一躍全国区のヒーローとなる。そんな全能感を持った篤史の上記のセリフは悪役にはピッタリであり、どこかガイア説すら感じさせる。そのガイアからの使者として、邪魔な人間を排除し、自分にとって都合のいい世界を作ろうと企んでいるかのようである。それを阻止しようとするのが13歳の誕生日に神さまからそれぞれ超能力を授けられた主人公の美空たち6人と人の言葉を話せる美空の飼い猫のバケだ。 『虹色とうがらし』でも悪役がわかりやすく描かれていたが、今作『いつも美空』も同様に悪役がわかりやすく描かれた作品だった。あだちが少年時代に影響を受けた作品に回帰すると勧善懲悪的な物語になりやすく、ほかのあだち充作品の人間の微細な感情の変化をコマ運び屋風景描写によって描いているものに慣れていると少し子供っぽさも感じる。おそらく、人気ランキング上位に上がってこない理由もその辺りにあるのだろう。
    あだち充劇団のプチリニューアル
    ここで『いつも美空』のキャラクターと物語の展開についておさらいしておきたい。
    「──これは日本人として初めてアカデミー主演女優賞に輝いた、一人の女の子のドラマ…… ──に、なればいいなァ……」というモノローグから始まる。冒頭では横転したトラックの荷台から10頭の豚が浅見台中学校に逃げ込んでしまったのだが、入学したばかりの坂上美空と三橋竜堂と村田十四郎の3人が9頭までを退治してその潜在能力を見せつける。しかし、残りの1頭が見当たらずに業者が探していると豚料理の本を読んでいる小久保都と豚の前足と後足を棒に結んで担いで歩いている春日千代之介と北島光太の3人がいた。その6人全員に一斉に呼び出しがかかる。彼らを呼び出したのは「レンタルクラブ」顧問の船村正だった。 過去に有名スポーツ選手を輩出している浅見台中学だが、少子化の影響で試合のたびにあちこちから頭数をそろえて、なんとかその場をしのいでいる部も少なくなかった。6人の優れた身体能力に目をつけていた船村は、彼らを責任もってスケジュール調整して、必要とする部に派遣したいと語るものの、彼らは強制ではないならと帰ってしまう。 美空たち3人は4年前に小学生限定の「緑の自然教室」に3日間参加していた。そして、美空たちの近所の小学校から参加していたのが都たち3人だった。そこで都たちからスイカ泥棒の汚名を着せられた美空たちは、一番楽しみにしていた花火大会の日に決闘をしようと社に集まった。ところが、打ち上げを失敗した花火が飛んできてしまったことで火事になって社が燃え上ってしまう。そんな中、美空が偶然社のご神体を持ち出したことでご神体は難を逃れるが、まさかの2発目が飛んできて、6人は気を失ってしまう。しかし、その意識が遠のく瞬間に美空は杖を持ったハゲで白い眉とひげの老人が現れたのを見たのだが、他の二人は見ていなかった。 美空が13歳の誕生日を迎えた4月10日の深夜、その杖を持った老人が部屋に現れ、「ありがとう、少年少女諸君。お礼として勇気あるきみ達に──それぞれが13歳を迎えた日にひとつずつの力を授けよう。わしからの誕生日プレゼントとしてな。」と言って消えてしまう。 美空が起きてから学校に行くと6人の中では一番誕生日が遅い北島光太が美空に元にやってきて、「13歳になったんだろ? 何か変わったことあった?」「──だよな、そんなバカな話あるわけないもんな。やっぱりあれは夢だったのかァ」と告げる。光太も美空同様にあの老人をあの時に見ていたことが判明する。その夜に美空は自身に授けられた超能力が「念動力」であり、離れた物体を少しだけだが動かすことができることを知る。しかし、その様子を見ていた愛猫のバケがなぜか煙草を吸いながら、人の言葉で美空に話しかけてくる。「驚いたよなァ、実際── まさかあいつが本当に神さまだったとは…… なァ美空」と。 バケは「緑の自然教室」で美空についてきた猫であり、その時に連れて帰って飼いだした坂上家のペットだった。バケの口から自分は美空と1日違いの誕生日で「13歳」になったと語る。猫の13歳なのでかなりのおじいさんであるためか、口調が年寄りくさい。 6人は結局レンタルクラブに入ることになる。それぞれの特技を活かして様々な部をヘルプする6人だったが、もちろん彼らのことが気にくわない他の部活動の部員たちもおり、その学生との対決や物語が進んでいく中で、都、千代之介、竜堂、十四郎、光太がそれぞれ誕生日を迎えて超能力を得て、6人は次第にそれぞれを認め合い、仲間として一緒に成長していくことになる。
    美空の死んだ父の慎太郎を大作映画の準主役に抜擢しようとしていた大物監督の別荘に母と招かれた美空。彼女はその大物監督の前で台本を読みながら演技を披露するハメになる。その大物映画監督である北島圭一郎は北島光太の祖父であることがわかる。美空の魅力に気づいた圭一郎は彼女を主演にして最後の一本を撮ろうと決めるが、その夜に眠ったまま安らかな笑顔で亡くなってしまう。そのまま物語は大きな展開をみせることなく、美空は平凡な学生生活を過ごしていくはずだった。 光太の祖父の別荘で夏合宿をしていた美空たちは、近くでドラマ「化け猫ワトソンと美少女探偵シリーズ」を撮影している撮影クルーと出会う。主演のアイドル・西野ちはるの代わりに危険なスタントを美空が担当することになり、そこで彼女の魅力にドラマのスタッフや関係者たちも徐々に気づいていく。そんな演技力の凄まじい美空を見た光太は彼女を主演にした映画をいつか撮ろうと決めるのだった。 別荘近くには6人と1匹が特殊な能力を授かった社にそっくりなものがあり、そこも3年前に打ち上げ花火の火が飛び込んできたため、燃えてしまったが、一人の少年がご神体を運び出してくれたという話を撮影クルーたちがしていたのを美空たちは聞いてしまう。 人気者のちはるのストーカーらしき瓶底眼鏡の少年に、スタント役だった美空は間違ってさらわれてしまうが、すんでのところの念動力を使ってそこから逃げ出すことに成功する。バケが光太に頼んでご神体を運び出した人物の写真を探してもらうと、やはり彼は美空をちはると間違えてさらった少年・野神剛志だった。
    2001年になり、6人の中で最後の誕生日を迎えた光太の能力は「瞬間移動」だった。他の5人も授けられた能力が以前よりも強化されていることがわかる。そして、新世紀の幕開けに一人の天才少年・野神篤史が現れる。その年の春、中学三年生になる彼は水泳や陸上の10種目で中学記録を更新し、さらにその半分は日本記録をも塗り替えるものだった。そのビジュアルのよさも相まって国民的な大騒ぎとなっていった。 美空はそんな男のことはまったく興味がなかったが、ある雑誌で野神篤史と一緒に、美空をさらった超能力者の剛志が映っているのを発見。二人は兄弟だったのだ。篤史は剛志の超能力を使って、自分の欲望のために邪魔になる人間をどんどん潰していっていた。 そんな巨大な相手に美空を中心としたレンタルクラブの面々は、スポーツでの篤史の記録を塗り替えることで、野神兄弟へ宣戦布告をすることになる。レンタルクラブメンバーが塗り替えた記録を再度塗り替えたのち、タレント活動を始めた篤史は、スポーツと同じように裏で剛志を使ってライバル俳優にケガをさせたりして蹴落としながら、そのポジションを奪い取っていき日本中が注目する新たなスターとなっていく。芸能人として圧倒的な人気を誇るようになって、さらに影響力も増していく篤史と勝負できるのは美空しかいないと、彼女も女優として芸能界デビューする。そして、篤史と美空が共演することになった映画の雪山での撮影において、彼の野望を食い止めるために美空とレンタルクラブの面々が対峙することになる。
    以下、主要人物について詳述する。
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  • 「私の働き方改革」を組織的に進めるための手法 ──(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革 第7回〈リニューアル配信〉

    2021-06-28 07:00  
    550pt

    (ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。実際に個々人の人生の充実につながる「私の働き方改革」を組織的に進めていくためには、どんなところから始めればよいのか。何かしようとするとすぐに「変わりたくない」ムードに覆われてしまいがちな日本企業の特徴をふまえつつ、「政治的」「論理的」「心理的」の3つのアプローチから、有効な改革推進の手法を筋道立てて提案します。
    (意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第7回 「私の働き方改革」を組織的に進めるための手法
    あらすじ
     「私の働き方改革」を組織的に進める上では、やはり一人ひとりの意識と行動の変容を後押しすることが不可欠です。 自らの成果を再定義し、やる事・やり方・やる力を自ら見直し、働きかけるという意識行動を促すためには、どういった施策が求められるのでしょうか? 今回は、これまで私が経験してきた働き方改革推進プロジェクトの成功例・失敗例を踏まえつつ、その成功の鍵として、「政治力」「論理力」「心理力」の3つのアプローチに着目し、解説していきます。
    私の働き方改革を後押しするためには、「型」「場」「技」の三位一体改革が必要
     前回述べたように、これから企業は生き残りをかけて、過去の伝統によって培われた価値観や行動原理(不動の根っこ)の変化スピードを高めていくことが求められます。 集団の指示に従い、周りと合わせて「変化しない」ことを選択するのではなく、一人ひとりが自らの成果を再定義し、自分自身のやる事・やり方・やる力を見直し、周囲に働きかけてそれらを実際に変えていくこと、すなわち「私の働き方改革」ができるように、後押しをしなければなりません。  しかし、これまで紹介した失敗事例のように、単に「型(制度)」や「場(環境)」を変えるだけでは、なかなか私の働き方改革は進みません。なぜなら、型や場が変わっても、一人ひとりの意識・価値観・行動原理にダイレクトに変化をもたらすには不足があるからです。 私はこの「意識・価値観・行動原理」のことを「技(わざ)」と表現して、働き方改革推進には、「型、場、技の三位一体改革が必要」と考えています。
    そもそも「型」と「場」の両立も難しい
     「技」の改革については後述するとして、実は三位一体以前に、「型」と「場」を一体的に推進することも多くの企業でなかなか実現できていません。すなわち、制度だけの改革や、オフィスなど環境だけの改革でとどまっていたり、制度改革と環境改革が連動していないというケースも多いのです。  その理由は「管轄が違う」からです。多くの大手企業では「型」すなわち制度や会社の仕組みを作る役割は、人事部や経営管理部といったセクションが担っています。働き方改革に関連する就業規則の見直しや評価制度改革、採用育成の仕組みの変更などは、それらの部門が企画し、経営層に上申して、労働組合とも協議し合意形成を図りながら現場に展開していきます。
     一方、「場」つまりICT環境やオフィス環境については、それぞれ情報システム部門と総務部門が担うことが慣例的です。そうです、「場」の改革だけでも管轄が二つに分かれるのです。例えばフリーアドレスな環境を構築する上では、オフィスの内装や什器備品を入れ替えるだけでなく、どこにいてもコミュニケーションがとりやすいチャットツールの導入や無線LANの構築などICT環境改革が欠かせません。しかし、両者の管轄が異なっていると、そもそも何のためにフリーアドレスにするのかから意識合わせができていなかったり、目指す状態にズレがあるまま環境構築を進めてしまい、いずれかに不足が発生したり、逆に過剰スペックになってしまうということもあります。  そして、オフィスとICT環境が完成し、現場に活用してもらおうにも、オフィスの物理的環境は総務部から、ICTは情報システム部からそれぞれ説明会やマニュアル発信がされ、現場社員としては情報が錯綜しているように感じてしまい、次第に疲れて無関心になってしまうこともままあります。 場の改革だけでも足並みが揃いにくい中で、さらに型の改革も一体的に進めるとなるとますます難易度があがります。例えば、フリーアドレスな環境では、一人ひとりが自律的に最も生産性の高い環境を選択し働こうとすると、「上司や同僚から離れて静かに集中して働く」という選択に偏りがちになります。これでは偶発的な情報共有や課題発見が起こりづらくなり、長期的には組織の生産性・創造性の低下につながるおそれがあります。 これを防ぐには、各部署が「この環境を生かしてうちの部署はどのように働くべきか?」を考え、対話し、何らかのローカルな「型」を作ることが肝要です。そして、各部署が自らの型を作ってもらうには、組織評価制度や管理職の360度評価制度を生かして、部署長が率先してそうした型づくりを進めることを制度的に後押しすることも重要です。 しかし、総務部にも情報システム部にもそうした後押しをするには経験値と権限が不足しており、人事部や経営管理部が登場して、フリーアドレスのメリット最大化とリスク防止に向けたマネジメント改革を進めていくことが求められます。
     このように、一つの働き方改革施策においても、総務や情報システム、人事、経営管理、さらには各現場の部門長といった「セクション」を超えた一体的な推進が必要になるわけです。しかしながら、そもそも各セクションは「決められた仕事を最も効率的・継続的に進めるために役割分担する」ことを目指して設立されているので、その枠を超えて変化のために共同するという経験が少なく、どうしてもぎこちなさが生まれてしまいます。 そしてそのぎこちなさは、確実に現場にも伝わります。それは、「会社の本気度が伝わらない」という結果につながり、「技(意識・価値観・行動)」の変化の後押しにならずに、「うまくやり過ごして、今の働き方を維持しておくほうが安全だ」と無意識的に動いてしまう原因にもなってしまいます。
    働き方改革の推進手法 ①政治的アプローチ
     こうしたセクションを超えた一体的な改革において、「足並みが揃わない」というリスクを防いでうまく進めるためには、「政治的アプローチ」が必要であると考えます。 「政治」というキーワードを耳にすると、今の日本の政治ニュースでよく見るような、組織間の利害調整や「顔を立てる」ことを主眼として、能力を度外視した体制づくりをしたり、姑息な根回しや権力闘争の構図が頭に浮かぶかもしれません。しかしここでいう「政治」とは、その言葉の本来の意味合い、つまり「より良い状況を目指し、仕組みやルールを作る意思決定を、責任をもって行う」ということを指します。 すなわち、政(まつりごと)を司る経営トップらが大きな意思決定をして、今の組織体制を超えた新たな体制を作り上げるとともに、従来組織のトップらのベクトルを合わせる目標を定義することが重要です。 これは単に新たに「働き方改革推進部」を作ればよいというものではありません。誰をどのポストに置いてどの部署の誰をメンバーとして参画させればうまく連携が進むかを必死に考え、「人」に着目し、適材適所を企むことが重要になります。
     具体的には、型づくりを担う人事部門や経営管理部門、そして場づくりを担う総務部門や情報システム部門から中堅かつ意思決定力のある人材を登用し、専任に近い形で推進プロジェクトメンバーとしてアサインすることが必要となります。このとき、プロジェクトリーダーは、各部門を統括し、一つ上のレイヤーで意思決定ができる役員や社長本人が担うことが望ましいと思います。 さらに大手メーカー企業の場合は、本社部門とは別途、各事業部内にも型づくりや場づくりを担う企画管理部門や品質管理部門、営業企画部門といった業務運営部門が存在するので、そこからも兼務メンバーとしてアサインし、意思決定や現場へのプロモーション推進を担ってもらう体制にできれば進めやすいでしょう。 また、型・場づくりだけでなく、一人ひとりの意識・価値観の変化を促す「技」づくりも重要であり、社内広報担当として広報部門が参加し、かなり高い頻度で社内全体への情報発信を行っていくことが望ましいと考えます。
     また、政治的アプローチのもう一つの柱は「大義名分」を定めることです。 「とにかく働き方改革をせよ」という指示では、混成集団である働き方改革推進プロジェクトは一枚岩になって動きづらく、各所属部門として「できそうなこと」や「やってきたこと」の延長で施策を立案しようとしてしまいます。 そうならないようにトップ自ら方向性を示し、単に制度づくりや場づくりで留めず、一人ひとりの社員が「私の働き方改革」に意識をやり、やる事・やり方・やる力の見直しや周囲への働きかけが実践できるようにプロジェクトのゴールを設定することが重要です。
    働き方改革の推進手法 ②論理的アプローチ
     こうして、経営トップが指針をしっかり示して適切な推進体制を整備した後は、論理的アプローチで進めていく必要があります。
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  • Daily PLANETS 2021年6月第4週のハイライト

    2021-06-25 07:00  
    おはようございます、PLANETS編集部です。
    夏至も過ぎ、いよいよ夏本番のような季節が近づいてきました。
    今週から国内一部地域での緊急事態宣言も解除され、少しずつではありますが夏に向けてリアルイベントも開催していこうと計画しているので、これからもPLANETSをよろしくお願いします!
    今朝は今週のDaily PLANETSで配信した4記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの配信の概要をご紹介します。
    今週のハイライト
    6/21(月)【連載】(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第6回 働き方改革が進まないワケ

    (ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信してい
  • 読書のつづき [二〇二一年一月]麒麟がくる|大見崇晴

    2021-06-24 07:00  
    550pt


    会社員生活のかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動する大見崇晴さんが、日々の読書からの随想をディープに綴っていく日記連載「読書のつづき」。依然コロナ禍の収まる見通しが立たないまま明けた二〇二一年一月。年明け早々、SNSで拡散される「紅白歌合戦」をめぐる誤情報への脊髄反射的な反応や、政治家たちの衆院解散に向けたきな臭い政略ばかりが目に付くなか、挫折の結末が約束されている歴史の敗者に新たな光を当てた『麒麟がくる』における「麒麟」とは何だったのかを、不条理劇の傑作『ゴドーを待ちながら』と対比させながら論じます。

    大見崇晴 読書のつづき[二〇二一年一月]麒麟がくる
    一月一日(金)
     昨晩の紅白歌合戦は演目から演歌がなくなったと言い張るツイートが出回っていたのだが、それに「いいね」が一万近くあるのに驚いた。昨晩わたしが堪能した五木ひろしは演歌歌手ではなかったのか。石川さゆりが歌う「天城越え」は演歌ではなかったのか。明らかに間違いの記述なのだが、それに釣られて裏取りもせずに、している人からの返信も読まずに、「いいね」を押す人が一万人近くもいることに呆れてしまう。「テレビは見ない」という態度が問題なのではなく、異論や批評、さまざまな経路からの情報を吟味できないひとが大量にいて、それでいて自己発信したがっているから「いいね」をクリックしてしまうわけではないか。年明け早々から暗澹たる気持ちになる。
     自民党・藤丸衆議院議員、二〇人と飲酒のある会食に事務所で参加とのこと。もう総選挙対策である。
     焦点:電通関連法人、突出する政府からの事業委託 運営の不透明感に批判も | ロイターという記事が年末に話題になっていたことを知る。
     毎年の恒例、「格付けチェック」。司会の伊東四朗は大事を取って参加しないとのこと。今年は悪問が多く、若干興が削がれる。「ドリーム東西ネタ合戦」で、友近とハリセンボン春菜の「それもわたし、それもおれ」のコントを見る。これを見ないと年を越した気がしなくなってきた。
    一月二日(土)
     遅く起きた朝だが、まだ箱根駅伝は始まっていなかった。母校・國學院大學の調子が気になる。東京から神奈川へ向かう道路が立ち見の観客で混み合っていることに、否応なしに気付かされる。これはどうしたってCOVID-19の感染が広まる原因になるだろう。コースの主要な地域にあたる東京・神奈川の知事からは観戦を控えるように、もっと強く通知されるべきだった。
     夕方近くになると、小池都知事が主導して関東の各知事が政府に緊急事態宣言を求める運動が報じられていた。
     伊東四朗さんがラジオで「坊主めくりで一番いけないのは蝉丸」と話しているのを聴いて、わたしも中学校時代からそう思っていたので共感したが、なぜ一番いけなかったかを思い出せなくなっていた。わたしの中学校は荒れていたので、バカラだけでなく、花札・チンチロリン・坊主めくりといった古風な遊びも授業中に行われていたのだが、チンチロリンはともかく、バカラも花札のルールも忘れてしまった。年は取りたくないものだ。
     夜。楽しみにしていた『逃げるは恥だが役に立つ』の特番を見る。「ねほりんぱほりん」(NHK教育)とのコラボとのシーンがあって、冒頭から大いに笑わされた。育児や労働(それもCOVID-19最中)が描かれているのは、非常に興味深かった。ちなみに、新規感染者が増えたとテレビが報じるシーンがあったのだが、そのシーンに「Nスタ」赤荻歩TBSアナが映されていたということは、当日は日曜日になる(赤荻アナは日曜のみの担当である)わけだが、それだとドラマとして辻褄が怪しい気がする。このドラマらしからぬツメの甘さではないかと、本筋ではないところに意識を一部奪われもしたが、平成だけでなく、令和にも記憶に残るドラマとなったのではないか。
     特にドラマで重要なテーマとして取り上げられていた「夫婦別姓」は、今後大事な問題になると思われる。日本というのは諸外国より、この点で何と言おうと、遅れている。夫婦別姓をしづらい法制度だと、このデータベースの「検索性」が重要視されている社会では、どちらかの戸籍に移った際に名字が変わることで「検索性」が落ち、キャリアを一からやりなおさなくてはいけなくなるのである。キャリアを一からやりなおしたほうが好都合というひともいるかと思うが、それはそれとして、どちらも選択しやすい法制度になっていれば、どちらにとっても損はないのである。「検索性」の向上と並行して、男女平等が世界中で進むということは、男女ともにキャリアの形成と維持が重要になるわけで、そうした世界情勢に日本という国は、明確に立ち遅れているのである。
     例年であればオーストラリアで正月を過ごす明石家さんまが、暇を明かして正月から生放送でフジテレビの「お笑い向上委員会」に出演しているのだが、M-1を制したマヂカルラブリー野田が「(M-1のネタを)漫才じゃないって言っているのは、(プロでは)オセロの松島さんだけ!」と指摘しているので、不意を突かれて大笑いしてしまった。わたしはもう、オセロのネタが漫才だったかすら思い出せなくなっているのだが、さて。
    一月三日(日)
     正月だがレギュラー番組が意外と放送されている。「安住紳一郎の日曜天国」を聴いていたら、正月休みとCOVID-19もあって出社人数が制限されていることもあって、録音を主とした放送。安住アナがTBSの最終面接でしたスピーチも放送されるなど、リスナーへのお年玉のような内容だったが、同時に安住アナの決意表明のような内容だったようにも思う。そう思いながら聴いていたところ(あの大沢悠里さんが絶賛したころ)の音声で、甲子園で高校生ながら司会を務めた興津和幸くんは、とあって驚いた。若いころの安住アナが読んだニュースに登場した興津和幸は、のちにジョナサン・ジョースターを演じる声優となるわけで、高校生のころから声に関わる仕事をしていたのだなと驚かされた(そうしたエピソードを丁寧な安住アナは拾いながら放送していた)。
     昼になって読書。今年は笙野頼子であるとか阿部和重といった九〇年代後半から活躍が目立った作家たちについて歴史的な位置づけをしたいと思っているのだが、彼らの最近の仕事を読んでいないので、こういうときにでも、と思って読んでいる。出歩かない盆暮れ正月というのは本当に珍しい。
     夜半から部屋の照明が壊れて、本を読むところではなくなった。不貞寝である。
    一月四日(月)
     ソニーがクランチロールの買収を完了しそう(したのか?)だが、今後数年間のCGM媒体というのは、ほかの配信事業者と同じ扱いになって、これまでコストにしていなかった「コンテンツの吟味」がコストとしてかさむので、ビジネスとして不確定要素が増えてしまうと考えている。EUが成立させようとしているデジタル法は、問題ある内容を発信した場合には、SNS事業者の全売上のうち最大一〇%を罰金として支払うことになるし、Twitterで扇動を繰り返したトランプのような存在を再登場させないためにもアメリカはいくつか法律を制定していくだろう。そう考えると、コンテンツの配給網として人気がある企業を購入するというのは、リスクが少なく、堅実な投資に思える。
     CNNなどで人気の番組司会者だったラリー・キングがCOVID-19で入院とのこと。
     箱根駅伝で母校國學院大學は、なんとか9位に滑り込み、来年のシード権を獲得した。
     菅首相が「秋のどこか」とした衆院解散に関する発言について「秋までのどこか」と訂正発表したとのこと。一年の計は元旦にあるというが、解散という首相権限の行使時期を明らかにするというのは、たしかに本人とっては不利益だから当然なのだろうが、こういう発言は独り歩きしていく。いまの衆議院議員の任期は今年の一〇月二一日までである。であれば、遅くとも一〇月二一日までには選挙があり投票がある。衆議院は法律で投票日の一二日前には選挙を公示しなくてはいけない。ということは一〇月九日までには確実に選挙が公示される。
     戦後日本で、衆議院が解散しないで満期まで達したというのは、三木内閣のロッキード選挙だけである。開票日当日に当選者が決まらないこともあることなどの備えもあって、ロッキード選挙の公示日は投票日の二〇日前になった。事務的な都合を考えると、この二〇日前というのがギリギリもギリギリの公示日となるだろう。ということは、一〇月一日が事実上の公示日締め切りである。そして、ここに暦の妙があって、自民党の役職というのは総裁以外は一年ごとに変わるが、現執行部は九月一五日までの任期である。つまり、仮に新執行部が取り仕切るとしても、半月しか選挙準備の期間がないのである。この半月を充分と考えるか、短いと考えるか。この日取りを巡って、はや大人の駆け引きが始まっている。それが「秋までのどこか」という言葉に集約されている。
    一月五日(火)
     NHKを国営放送と勘違いしているひとが多くて困る。NHKというのは公共放送である。国営放送は時の政府に不利な放送はしない(もしくはしにくい)ため、国民に不利な放送をするかもしれない。というか、戦前は、そういう国民に不利益な放送がなされたのだった。それを是正する面もあって公共放送となったわけで、国営放送と勘違いしたり、国営放送になればいいと思ったり、スクランブル放送にして契約者にしか見れない(公共の放送でなくしてしまう)と考えているひとは、放送というものも民主主義というものも公共というものもわからない未熟な人間である。どちらかといえば、そういう未熟な人間は、中国のような報道規制がなされる国家のほうが住みやすいのではないか。権威への従属と盲信というのは実に恐ろしいものだと思うが、案外に自由な国で不自由を望む人間も多いのだなと思わされる。しかし、不自由を嫌う大多数として、わたしは何としても、中国に憧れるひとたちから日本を守らなくてはいけないと思わされる昨今が続いている。
     そんなNHKの「ファミリーヒストリー」を見ていたのだが、終幕が近づいている大河ドラマ『麒麟がくる』主演・長谷川博己の家系を辿っていた。これまで、どちらかといえば線が細いか、陰険な性格の人物として描かれる傾向にあった明智光秀が、長谷川博己によって偉丈夫で肉体的で裏表が少ない人物として演じられたことは画期的で、大変興味深く且つ魅力的で毎週を楽しみに視聴している(陰険な面が強調されたのは、戦後映画とテレビドラマで、悪人を演じることに定評があったろう佐藤慶が原因ではなかろうか)。
     その長谷川博己という俳優を、わたしはほとんど知らないままでいた。なんとなく、CMの印象からマダムキラー然としている俳優だなと思っていて、『MOZU』の印象もないし、『シン・ゴジラ』は見ていない。『まんぷく』の安藤百福役は、立志伝中の人物が意固地で聞き分けのない人物だと気づかせてくれる不思議に魅力ある演技だったが、それもこれも明智光秀と結びつかないでいたし、俳優としてのバックグラウンドにも思い馳せないできた。
     それが「ファミリーヒストリー」でイメージが一新した。長谷川博己の父親が黒川紀章らと同時代人の評論家で、その筆一本の生活から大学の研究者になる間には歌舞伎の評論をものにしており、それが坂東玉三郎と父親との交友に繋がっていたなどとは知らなかった。それも、これまで演じられてきた天皇のなかでも、もっとも雅な天皇と思える正親町天皇を坂東玉三郎が演じるきっかけになったとは想像だにしなかった。そして、父親のゼミに参加して彼に憧れる若い女学生の姿に驚かされた。のちの長谷川夫人となるそのひとの面影は、ほとんど鈴木京香だったのである。
    一月六日(水)
     最近の自民党では、「昼飯食ったか?」と昼飯をおごるセリフを口にするのが流行ってるらしいのだが、これは二階氏の口癖なのがきっかけらしい。だが、これの元をたどると桂太郎(ニコポン宰相!)あたりにたどり着く。社会科の教科書に西園寺公望とともに特記される叩き上げの宰相がニコポンと呼ばれたのは、ニコニコ笑いながら肩をポンと叩いて「今度昼飯でも」と誰とも構わず交流をを持ったためである。その敵を作らない桂の政治スタイルは急進右派からは「言葉のクロロホルム」とも揶揄されたそうだが、民主主義というのは武器によらず言葉でもって政治を進めるものであるから、そう考えると普遍的な政治スタイルではあるのだろう。
     ネットを久しぶりに時間をかけて見ていたら、上念司がDHCなどの排外主義・差別主義の放送局のレギュラー番組を一斉降板していた。Qアノン批判をしたのが原因らしいのだが、そんなにまで日本の排外主義者・差別主義者の間でQアノンの陰謀説が人気を博しているのかと驚かされた。しかし、Qアノン支持者が差別する対象には、わたしたち日本人(アジア系)も含まれると思うのだが。
     初競りでのマグロの価格が下がったのは、すしざんまいが入札しなかったためらしい。
     アメリカの議会選挙、トランプが応援に行ったことが祟って、敗北したらしい。これで上院下院大統領と全部が民主党優勢だ。わたしが共和党の政治家なら、急進右派には静かにしてほしいと思うだろう。そうしないと、上下院・大統領とすべてで優位にある民主党が、現在は保守派が数的優位を保っている最高裁判事の定数を変更する動議を始めかねない、と。
     神奈川県の重症患者病床が残り7.5%しかないことが話題になっている。
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  • 高校野球は「教育の一環」であり続けるべきか|中野慧

    2021-06-23 07:00  
    550pt

    本日お届けするのは、ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第‌9回‌「‌高校野球は『教育の一環』であり続けるべきか」です。‌ 高校野球を「教育の一環」として捉えるのは、果たしてどの程度妥当なものなのでしょうか。トーナメントで争われる公式試合や部活動という構造に潜む課題、そのオルタナティブについて考察します。
    中野慧 文化系のための野球入門第9回 高校野球は「教育の一環」であり続けるべきか
    高校野球における大会の仕組み
     前回私は、「子供たち自身での大会運営」「全国大会にこだわる必要はない」という二つを述べました。一方、近年の様々な野球改革論において、「高校野球では一戦必勝のトーナメントだから勝利至上主義に陥ってしまう」「リーグ戦の導入を」ということがしばしば言われるようになってきています。  高校野球においては1年間に秋、春、夏の3つの大会が行われています。大まかなスケジュールとしては、7月に夏の甲子園出場を争う都道府県予選が行われ、8月の夏休み期間に夏の甲子園が行われます。しかし7月の都道府県予選で敗退したチームは、その時点で最上級生である高校三年生が引退し、その時点で高校二年生が中心となる「新チーム」に移行します。そして8月の下旬から、各都道府県では秋の大会が行われます。この大会で上位に進出すると、近県の代表校が集まる地区大会(関東大会、四国大会などの形式で行われる)に進むことができ、そこで優勝すると東京で11月に行われる全国大会「明治神宮野球大会」に出場することができます。そう、実は、あまりマスメディアでは取り上げられませんが、高校野球の全国大会は毎年秋に東京でも行われているのです。  さて、前述の地区大会で好成績を残すと、3月に行われる選抜高校野球(春の甲子園)に出場できます。選抜の場合は「21世紀枠」というものがあり、都道府県大会にベスト32またはベスト16以上に進出していて、文武両道を推進していたり、野球部が積極的に地域でのボランティア活動などに参加していたり、公立校のため練習場所や時間が十分に確保できない、災害被災地であるといったハンディキャップを工夫して克服していたりするとこの枠に選ばれ、選抜高校野球への出場切符を手にすることも可能です。  また、あまり一般に知られていることではないかもしれませんが、春の地方大会というものもあります。ここでは都道府県大会を勝ち抜くとやはり地区大会が行われ、この大会での成績をもとに、夏の都道府県予選でのシードが決定されます。要するに、春の大会は高校野球の華である「夏」の大会のシード権争い、という性格が強いわけです。  なお、秋と春の大会では、都道府県によってはリーグ戦が導入されているところもあります。たとえば神奈川県と愛知県では、県大会の前に「ブロック予選」というかたちで、近隣の高校で集まってリーグ戦が行われています。
    トーナメントは教育に良くない?
     トーナメント形式の負の側面というと、「一戦必勝のため、勝利至上主義が蔓延し、チャレンジングなプレーができない」「勝ち進むほど連戦が続くため、選手の疲労、怪我のリスク、連投問題などが出てくる」といったことが言われます。  しかし私が本当に問題だと考えるのは、「機会」の問題です。秋・春・夏の大会がすべてトーナメントだった場合、どれも1回戦で敗退したチームは、1年で3試合しか公式戦を経験できないのです。  私が長年、野球をやってきて感じたのは、「公式戦などの真剣勝負の場を経験すればするほど、上手くなるチャンスが増える」ということです。しかしトーナメント制では、強いチームはたくさんの真剣勝負を経験できる一方で、弱いチームは強くなる機会すら得られないことになります。  高校野球漫画などで、よく「相手校同士でのライバル関係」などが描かれますが、それはあくまでもごく一部のトップレベルの人たちの話であり、大半の「裾野」のレベルでは、チーム同士での交流などほぼ皆無です。公式戦でも練習試合でもほとんど一度きりの対戦のため、違うチームの選手同士で人的交流が行われる、ということはほとんどありません。  ではどのようなリーグ戦を行えばいいかというと、やはり近隣のチームを6〜8チームほど集めて毎週リーグ戦を行うのがよいでしょう。遠方に対戦に行く交通費も必要なくなり、費用を圧縮できます。また、会場はスタジアムではなく、各学校で試合を開催可能なグラウンドにて開催します。グラウンドの手配やスケジューリングなども生徒たち自身の手で行うわけです。近隣の高校同士で試合を行うことにより人的交流も生まれていくはずです。  前回述べたように、高校野球では一発勝負を勝ち抜くために、「偵察」「県外遠征」といった「ブルシット・ジョブ」が生まれていますが、リーグ戦であれば対戦相手がほぼ決まっているため、偵察も「県内のできるだけ多くの学校をマークしよう」という発想にはならず、対戦相手の偵察のみにとどめることができます。  私の経験で言うと、高校野球の最後の大会に負けた時にはやはり高校球児らしく泣いてしまいましたが、そのあと夏休みに入りすぐに大学受験の勉強をしなければならないのにもかかわらず、数週間は「負けたこと」の感傷に浸ってしまい、勉強が手につきませんでした。  その後、大学野球に入ってリーグ戦を本格的に戦ってみて初めて思ったのは、「負けて浸っている暇はない」ということでした。大事な一戦を落としてしまっても、翌週には否応なく次の試合が待っているため、チーム全体で気持ちを切り替えなくてはいけません。「負けたから次はない」のではなく、「負けても否応なく次の試合はやってくる」のです。ちょっと大げさかもしれませんが、その時に感じたのは「リーグ戦は人生と同じ」で、「Life Goes On」なのです。むしろトーナメント制のほうが極度に単純化された体験であり、教育に良くないとすら言ってもいいのかもしれません。  高校野球がもし本当に「教育の一環」を目指すのであれば、「人生と同じ」であるリーグ戦をやはりやるべき、ということになります。
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  • 「モダニズム」はこうして崩壊した -『もののけ姫』|山本寛

    2021-06-22 07:00  
    550pt

    アニメーション監督の山本寛さんによる、アニメの深奥にある「意志」を浮き彫りにする連載の第21回。今回は、宮崎駿監督の転回作となった『もののけ姫』を再考します。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』と同じ1997年に公開された本作は、どんなかたちで日本アニメの「モダニズム」の限界を垣間見せたのでしょうか?
    山本寛 アニメを愛するためのいくつかの方法第21回 「モダニズム」はこうして崩壊した -『もののけ姫』
    前回「モダニズム」とは何か、について語ったが、では「モダニズム」が「ポストモダン」へと変化した、そんな境目のようなものは探せば見つかるのだろうか。 もちろん時代の流れは一瞬で切り替わる訳がなく、漸次的な移行があって当然だと思うのだが、僕は長年、どう考えてもこの「一瞬」をある年に見定めてしまう。 1997年だ。
    この年、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』と並んで、もう一本の劇場アニメが公開された。 『もののけ姫』である。
    たびたび僕の学生時代、特に大学時代の話をして恐縮だが、僕のアニメに対する思考の原点でかつ「終着点」がここにある、と今も思っているので、どうかご理解いただきたい。 大学4年生だった僕は、この2作を観て、「アニメは終わった」と直感した。 今思えばそれはアニメの「モダニズム」の終焉だった、と換言できるだろう。
    『エヴァ』については過去(連載第8回)に言及したのでそれを参照してもらいたいが、僕はまずアニメの「ポストモダン」化を『エヴァ』に見て取った。 しかし、当時の僕は既に薄々感づいていた。 『エヴァ』シリーズ監督・庵野秀明の、事実上の師匠とも言える宮崎駿はどうするのだろう? 結論は、まさに同じ年、1997年に『もののけ姫』という形で出た。
    これは至る所で述べているが、僕は卒業論文にて、『エヴァ』と『もののけ姫』、この2作を軸として、日本アニメ史を美学的に読み解くということを試行した。 教授陣の反応は案の定「???」なものだったが、この論文は今も意義あるものだと思っている。 内容は要約するとズバリ、「『エヴァ』と『もののけ姫』でアニメのモダニズムは終局を迎え、ポストモダンへと移行するだろう」というものだ。 『エヴァ』『もののけ姫』2作によって、アニメはほぼ一瞬にしてポストモダンへの扉を蹴破ったのだ。
    さて、恐らく読者の方々も『エヴァ』は何となくイメージできるだろう。しかし『もののけ姫』とは? 多くの方がピンと来ないかも知れない。 今回は公開当時から議論百出し、難解だと話題になった本作を、「モダニズムの終焉」の観点から改めて考えてみたい。
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  • 働き方改革が進まないワケ ──(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革 第6回〈リニューアル配信〉

    2021-06-21 07:00  
    550pt

    (ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。2010年代後半からコロナ禍にかけて、上からのスローガンで進められてきた働き方改革ブームは、一人ひとりの人生を充実させる「私の働き方改革」の成果には、必ずしも結びつきませんでした。そうした改革の機運を有名無実化させてしまう日本の土壌とは何なのか、それを組織として変えていくためには何が必要なのか、改めて考えていきます。
    (意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第6回 働き方改革が進まないワケ
    あらすじ
     「場」の改革や「型」の改革だけではなかなか「私の働き方改革」は進まない。それではどうすれば私の働き方改革は進められるのでしょうか? そもそも「私の働き方改革」とは、自分が自分自身の成果(働く時間も含めた人生全体の充実)を高めるために、自分のやる事・やり方・やる力を見直して周囲にも働きかけていくことである以上、組織としてそうしたことを後押しすることは不可能で、個々人に任せるしかないのでしょうか? 今回は、その問いに答えるべく、なぜそう簡単には「私の働き方改革」が進まないのか、その原因をひもときながら、「ではどうすればよいのか?」についても考察を進めていきたいと思います。
    原因はホメオスタシス(恒常性)?
     ここまで、働き方改革を目指して導入されたオフィス空間やICT、制度がうまく機能せず、本質的に働き方を変える、すなわち、一人ひとりが自分のやる事・やり方・やる力の見直しを始め、周囲に働きかけ、より充実した仕事・人生になったと感じるるようになるには至らなかった事例をご紹介しました。 なぜこうした事態が起こってしまうのでしょうか? 私としては、理性や理論では太刀打ちできない「本能」のようなものが「変わることを拒絶している」ように思えてなりません。つまり、個人としても組織としても、環境が変わっても今の自分たちの状態を保とうという、生物学で言われる「恒常性(ホメオスタシス)」のようなものが、働き方についても機能しているのではないでしょうか。 例えば、海外では業務改革ツールとして広く活用されているERP(企業統合管理)と言われるシステムを、日本企業が導入するときにもそうしたホメオスタシスが機能しがちです。本来ERPとは、そのシステムに自分たちの仕事のプロセス(会計処理や決裁、など)を当てはめながら、プロセスを見直していくものであり、いわば「働き方改革強制ギブス」のような役割を果たすツールです。しかし、日本企業のERP導入においては「ERPのほうを自分たちの働き方に無理やり合わせようとして、膨大なカスタマイズが発生して大変」という状況がシステム導入部門の嘆きの声としてよく聞かれます。 オフィス改革も制度改革も同様で、「今の働き方ありき」で変化した環境をその働き方に合わせようと工夫する性質があるように思います。コロナ禍においても、テレワークやハンコレスという大きな「やり方」の変化はありつつも、「やる事」としては基本的には従来の踏襲でした。オンラインツールを駆使してこれまで同様に週次の定例ミーティングが開催され、上位階層の定例会議で交わされた情報の伝言ゲームが行われ、権限移譲しきれないまま数万円の決裁まで部長クラスが電子上でチェックを行い、チャットにはスマホではとても読み切れない長文の文章がポストされています。 そうして、テレワークでも、「今まで通りに働ける」ことに安心しているのです。 この、現状維持に対する「執着」と言っても過言ではないレベルの状況は、もはや「日本企業はそれが本能だから」と思考放棄をしたくなるほど、枚挙にいとまがありません。
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  • Daily PLANETS 2021年6月第3週のハイライト

    2021-06-18 07:00  
    おはようございます、PLANETS編集部です。
    都内では30℃を超える日も続き、エアコンが必要な気候になってきました。今年も厳しい夏の暑さを感じられる時期となりましたがいかがお過ごしでしょうか?
    今朝は今週のDaily PLANETSで配信した4記事のハイライトと、これから配信予定の動画コンテンツの配信の概要をご紹介します。
    今週のハイライト
    6/14(月)【連載】(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革〈リニューアル配信〉第5回 コロナ禍でも、「私の働き方改革」は進んでいない|坂本崇博

    (ほぼ)毎週月曜日は、大手文具メーカー・コクヨに勤めながら「働き方改革アドバイザー」として活躍する坂本崇博さんの好評連載「(意識が高くない僕たちのための)ゼロからはじめる働き方改革」を大幅に加筆再構成してリニューアル配信しています。2020年からのコロナ禍という危機をバネに、強制的に働
  • 社会運動において遅いインターネットは可能か :「速すぎる」ハッシュタグ・アクティヴィズムを弛めるオンライン・プラットフォーム|富永京子

    2021-06-17 07:00  
    550pt

    SNSの普及に伴って、「声を上げる」という行為がより一層広がっていった2010年代。オンラインと組み合わさったかたちでの「社会運動」は、いかにして世界を変えてきたのでしょうか? SNS活用を前提とした2010年代の社会運動の成果と課題について、社会運動研究者の富永京子さんが総括します。最新の社会運動研究の成果にも目配せしながら、ソーシャルメディア型社会運動の困難を乗り越える、「手間」と「面倒くささ」ありきのプラットフォーム型活動の可能性に迫る試論を寄せてもらいました。
    社会運動において遅いインターネットは可能か :「速すぎる」ハッシュタグ・アクティヴィズムを弛めるオンライン・プラットフォーム
    社会運動における「出来事」と「日常」
     ここ数年で定着した社会運動と言えば、日本と海外とを問わずやはり「ハッシュタグ・アクティヴィズム」に代表されるようなインターネット、とりわけSNS上の活動ではないだろうか。2014年のアイス・バケツ・チャレンジに遡るまでもなく、2015年の安保法制に対する抗議行動などでも盛んにSNSは用いられてきたし、近年でも「検察庁法改正案」「入管法案」に対してTwitter上で行われてきた。#MeTooや#FridaysforFuture といった形で、インターナショナルな連帯を喚起する際にも有効とされており、多くの先行研究がハッシュタグ・アクティヴィズムの研究に取り組んでいる。  筆者は10年と少しの間、日本の社会運動を中心に研究を続けてきたが、これまで、どちらかと言えばオフラインに重きをおいた社会運動を検討してきた(富永 2016, 2017, Tominaga 2017など)。社会運動と言うと多くの方が組織による集合行動、例えばデモや集会、あるいはアドボカシーやロビイングなどをイメージすると考えられるが、筆者は社会運動に従事する人々が個人的に営む「日常」もまた、運動の理念が反映された一行動として捉える。例えば、エネルギーの消費に反対する人々が自動車の利用を避け自転車で移動したり、菜食主義を貫いたりといった活動が例としてよく挙げられる(Haenfler et al. 2012)。どのような形の日常を社会運動として意味づけるかは、普段その人がしている活動や関心のある政治課題によって大きく異なるが、例えば選択的夫婦別姓制度を推進したい立場の人であれば、議員に陳情する、署名する、SNSでハッシュタグをつけてメッセージを書くなどが組織による集合行動(筆者の用語法では「出来事」)となるが、例えば法律婚でなく事実婚を選ぶ、場合によっては男女の既婚パートナーに対して「旦那」や「主人」といった呼称を避け、「パートナー」や「連れ合い」といった呼び方を選ぶ(筆者の用語法では「日常」)といったものがあるだろうか。  こうした枠組は、筆者が修士課程に進学し社会運動の研究を始めた2009年以降、G8サミット抗議行動(現在はG7)に参加した社会運動従事者の方々とやりとりを続けていて思いついたものだ(関連する研究にHaug 2013などがある)。サミット抗議行動とは、G7やG20サミット、WTO閣僚会議などが行われる現地に集まって世界中から参加した社会運動従事者がともにサミット抗議のためのデモやワークショップを行う活動を指す。しかし、数日行われるサミットに抗議するために遠方から来た参加者が多数いるということは、彼らが滞在する宿舎を用意しなくてはならないということでもある。そのため、抗議行動の中で社会運動従事者がともに暮らす「プロテスト・キャンプ」が生まれる。このプロテスト・キャンプは、ただの宿舎ではなく、社会運動の理念を反映した「オルタナティヴ・ヴィレッジ」と呼ばれることがある(McCurdy, Frenzel, Feigenbaum 2013など)。そこでは、例えば電力を使わないソーラークッカーなどが用いられたり、身体障害を持つ人々や子供でも楽しめるオリジナル・ルールのサッカーが楽しまれるようになる。つまり、サミット抗議行動は、集団で行う、環境問題や途上国開発に関するワークショップやサミット抗議のためのデモという「出来事」に加え、プロテスト・キャンプにおいて振る舞われるヴィーガン食や、部屋を男女で分けない、誰でも使える寝室やトイレといった「日常」によって支えられていたのだ。  少し前置きが長くなってしまったが、冒頭でも書いたとおり、2010年代以降、オンライン社会運動の存在感はますます高まってきた。2011年の東日本大震災後、原発再稼働に反対する官邸前行動や激化するヘイトスピーチに対する反レイシズム運動、2014年に生じた特定秘密保護法案に対する抗議行動や2015年の安保法制反対運動など、オンライン上での社会運動の戦略は、オフラインでの抗議行動と絡み合う形でより洗練されてきた。そして2020年初頭より、コロナ禍のために外出できない状況からハッシュタグ・アクティヴィズムのみならずオンライン署名やクラウドファンディングといった活動もより顕著となってくる。 では、筆者の提示した分析枠組である「出来事」と「日常」を通じて、オンライン上の運動はどのように考察でき、またどういった課題点や革新性を見出すことができるのか。本格的にデータを収集し、最新の研究を渉猟した上での論文ではないため、あくまで「試論」に過ぎない試みではあるが、これを読んでいる読者の方が現代の社会運動を考える上で、何か補助的な役割ができたなら幸いである。
    2010年代の社会運動とソーシャル・メディア
     東日本大震災から10年が経つが、近年の日本の社会運動はインターネットとどのように付き合ってきたのか。日本でも代表的なものとして、伊藤昌亮(2012)の研究が参考になる。 伊藤は2012年時点でのデモにおけるソーシャルメディアの役割を、告知、実況、振り返りのツールとして捉えている。また、仮にオフラインでのデモが一段落しても、なおネット上で「祭り」が続くこともあるという。この典型例として、東日本大震災以後の反原発デモが挙げられているが、海外の事例として当時の代表的事例に「オキュパイ・ウォールストリート」「アラブの春」が挙げられるだろう。伊藤はこれらの事例にも触れており、オキュパイ・ウォールストリートでは「#occupywallstreet」というハッシュタグが用いられたことにも言及している。アラブの春においてもまたFacebookやTwitter、ブログで情報共有が大規模になされ、一部地域ではTwitterのハッシュタグを利用したムーブメントも見られたという(ちなみに「アラブの春」については、総務省のサイトがきわめて詳しい分析を掲載しており、興味深く読むことができる )。 しかしこうした活動は、あくまでオフラインの活動を下支えするオンラインの活動という位置づけがなされている点で、現在見られるハッシュタグ・アクティヴィズムとはやや異なる。伊藤と同様にMario Gerbaudoも、ソーシャルメディアに見られるこの効用を、オフラインの活動に対する「動員」の面から説明している。ソーシャルメディアにおけるデモや「集まり」の映像は、それを観ている側の「孤立」を煽ることになる。だからこそ、孤立を解消させるためにデモの現場に向かうのだというのが、Gerbaudoの議論である(Gerbaudo 2012)。両者の議論は、オフラインとオンラインの相互作用に重きをおいて説明していると考えられるだろう。 Tufekci(2017=2018)もまた、オフラインとオンラインの相互作用による活動「アラブの春」を検討しているが、過去の社会運動との対比のもとでオンライン社会運動の特性を議論した点で、伊藤やGerbaudoの研究とはやや位相が異なる。Tufekciによれば、オンラインの運動は、準備組織におけるロジスティクスの過程をオフラインの活動ほど必要としない点に特徴を持つ。この点では有効だが、しかし設営の期間がないために持続性が短く、短期的な盛り上がりを特徴としている。またソーシャルメディアを中心とした社会運動には、個人的参加が多く見られるが、他者や他組織とのつながりが弱いため運動全体が継続しにくい点もある(Tufekci 2017)。こうした解決策として、Einwohner and Rochfordは、イベントの後に運動の運営組織や参加者が継続的に発信することを挙げている(Einwohner and Rochford 2019)。この点では、ソーシャルメディアでの活動もまた継続するには組織性がある程度必要だということになるだろう。 このように先行研究の議論を踏まえると、ソーシャルメディアを通じた運動は、持続的に生活を通じて続く「日常」というより、短期性・集中性といった性質を強調される「出来事」として捉えたほうが実態にかなっていると言えるのではないかと考えられる。しかし、その後の先行研究では、ソーシャルメディアの「日常」的側面もまたクローズアップされていく。 ソーシャル・メディア自体が、私的な語りと公的な宣伝や宣言の重なる場所であり、両者の分離は使っている当人にすら意識的に不可能なときがある。実際に、例えば#KuToo や#MeTooといったハッシュタグによって生み出される多数の書き込みは、単純に性被害・セクシャルハラスメントへの賛否や学術的考察を交えた議論だけではなく、当人たちの体験談とともに語られる場合も少なくない。こうした「個人的な話」は、それぞれの話し手の日常から生み出されたものだが、かといってデモの現場やシンポジウムの登壇中といった「出来事」の中で語られるかと言うと難しく、ソーシャルメディアという媒体で、個人で発言しているからこそ可能になる「日常」の運動ということもできるだろう。しかし、そこで語られることは確かに他者とつながっており、一つのハッシュタグをつけ、そのタグのもとで繋がるからこそ、個人的な語であっても他者との間に連帯が生じるのである(Papacharissi 2015)。 かつこうした「ハッシュタグを通じた連帯」と「ソーシャル・メディアを通じた個人語り」の関連は、発言者全員に共有され、内面化されるものである。Wahl-Jorgensen(2019)は、この個人語りの他者への共有とその内面化を「パフォーマンス」という概念から位置づけ直している。自分語りを含む投稿は、「見えない」観客に向けて行われているため、すべての投稿がある種のパフォーマンスになるのである(Wahl-Jorgensen 2019)。つまりソーシャル・メディアで行われる日常の個人的な語りは、「見られる」ことを前提とした出来事の語りなのである。これもまた、ソーシャルメディアにおける「出来事」と「日常」の連関を難しくしているといえる。
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