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  • 芦原妃奈子――なぞる娘|三宅香帆

    2022-06-28 07:00  


    今朝のメルマガは、書評家の三宅香帆さんによる連載「母と娘の物語」をお届けします。今回取り上げるのは芦原妃奈子の作品。少女漫画における母による娘の支配と、その克服はどのように描かれていたのかを考察します。
    ※7月から、リニューアル準備のためメールマガジンの配信日を「月曜日と金曜日」に変更とさせていただきます。今後とも各媒体での記事・動画の配信や書籍刊行を含め、さらなるコンテンツの充実に務めてまいりますので、引きつづきPLANETSをよろしくお願いいたします。

    三宅香帆 母と娘の物語第九章 芦原妃奈子――なぞる娘|三宅香帆
    はじめに―芦原作品のテーマ
    芦原妃奈子の作品の主題は「少女の成熟」である。少女はどうしたら大人になることができるのか。その主題をさまざまな角度から描いているのが作風となっている。たとえば『砂時計』においては母の呪いを解くこと、『Piece』においては父の呪いを解くこと、『Bread & Butter』においては家族をつくることによって、少女の成熟は達成される。芦原作品において、少女が大人になるためには家族という通過儀礼を通らなければならなかった。 特に母親という主題について切り込む『砂時計』の連載が開始されたのが、2003年。よしながふみの『愛すべき娘たち』の刊行と同年のことだった。2000年代前半のほぼ同時期に、両作家によって母との絆を断ち切る物語が描かれているのは注目すべき事象だろう。 本章では芦原作品にみる母娘像から、2000年代に描かれた母娘の主題を読み解きたい。
    1.『砂時計』の母娘像
    『砂時計』は母の自死から始まる物語である。 主人公の杏は、12歳のとき母の離婚をきっかけに島根の田舎へ引っ越してきた。最初は厳しい祖母や田舎の空気に馴染めなかった杏だが、同い年の大悟、藤、藤の妹・椎香と出会い、仲良くなってゆく。そしてとくに大悟との仲を深めてゆくが、ある日突然母親が自殺してしまう。 大悟は杏を支え続けると言い、ふたりは一緒に成長することを誓う。しかし杏が父に引き取られ東京に引っ越すことになり、ふたりの距離は離れることになる。 杏の母は、もともと精神的に不安定なところがあった。とくに東京で鬱病になり、アルコール依存症にもなっていたという。故郷に帰ってからも、過労で倒れ、精神的にもさらに疲れ切ってしまう。娘の存在を見て自分を奮起させようともするが、母親に「情けない、しゃんとせえ」と言われたことをきっかけに、発作的に自殺してしまう。 杏の祖母は、母について以下のように杏に伝える。

    「…昔っから 弱い子だったけん 気ばっか強いくせに どっかもろくて  だから心配で ずっと手元においておきたかったんよう…私が殺した…! 言っちゃいけんのわかっとって はがゆくて…!  “がんばれ”て…!」 (『砂時計』1巻)

    杏は祖母の発言を「おばあちゃんのせいじゃない」と否定するが、祖母の罪悪感は杏にうつることになる。杏は過去に母親へ「がんばれ」と言ってしまった経緯もあり、「ママはきっと最初からこうするつもりだったんだ この村に戻ると決めた日から きっと」「あたしはとめられなかった」と思うようになる。 『砂時計』において、杏は母の死をトラウマとして何度も反芻するが、中でもとくに顕著なのが、杏は母の死に対して罪悪感を持つ点である。たとえば偶然出会ったシングルマザーが「この子たちは私の希望だわ」と言うのに対し、杏は「あたしは母の希望になれなかった」と発言する。母の死を止められなかったという罪悪感から、杏は母の存在に囚われ続けて生きることになるのである。 そんな杏に対して、幼馴染であり恋人である大悟は何度も支えようとするが、うまくいかずに二人は別れてしまう……というストーリーが『砂時計』の概要となっている。
    2.『砂時計』と『成熟と喪失』の主張の相似
    実は『砂時計』のテーマは、1988年に出版された江藤淳の批評集『成熟と喪失 ―“母”の崩壊―』の主張と似通うところがある。 江藤は戦後文学を批評しながら、「今後、日本は前近代的な『母性』の庇護も失い、同時に欧米的で個人主義の規律である『父性』を得ることもできないままになるだろう」という主張を行う。女性は母性を引き受けることを拒否し、そのような母性に逃げ込む場も喪失される。かといって代わりに父性が台頭するわけでもないまま、子供は成熟できずにさまようのだろう、と。 『砂時計』のタイトルにもある「砂」のモチーフとは、杏たちの住んでいた島根県に砂丘があることに由来する。大悟は砂丘に足を踏み入れた時のことを以下のように話す。

    「オレさ 昨日一人で行ったんだ 小雪がちらついてシーズン・オフで人もおらんで   なんちゅーか 砂丘の真ん中に立ってるとすげー不安になるんだよ  目指す指針が何も見えなくて 自分がどこに立ってるのかもわからない  足元砂にさらわれておぼつかんし」 「答えが見えなくて 目的も見えなくて 本当にこっちに進んでいいんか道を間違ったんじゃねえかとか 焦って 迷って 結局どこにも行けなくて 訳もなく不安になって どつぼに陥って ああ こぎゃん状態の時ってあるよなって 杏は多分ずっとこぎゃん状態なんだろうなって 12の冬からずっと」 (『砂時計』7巻)

    砂に足をとらわれ、どこに向かっていいかわからない。杏は母を喪失してから、ずっとそのような状態にある。かといって父が新たな指針になるわけでもなく、ただ砂丘をさまよっているのではないか、と大悟は言う。 これはまさしく江藤の主張する「母性が喪失された後の状態」そのものであった。 とくに杏の母が、思春期のころから前近代的な田舎からずっと出たがっており、しかし離婚を契機に田舎に帰ることになったことが自殺のトリガーだったことは注目すべき点である。杏の母にとって、田舎の閉鎖的で情緒的な、つまり前近代の日本的な空気がなによりも耐え難いものであった。しかし杏の母として、田舎で母親として生きることを選ばざるをえない。それは江藤の言う「女性が前近代的な母を引き受ける」ことそのものだった。 杏の母は、田舎で母の役割を担うことを拒否する。前述したように杏は「ママはきっと最初からこうするつもりだったんだ この村に戻ると決めた日から きっと」と述べており、まさしく江藤の言う拒否の構造を直感的に理解している。杏の母が拒否したのは、『成熟と喪失』で説明された「母性」そのものだった。 杏と母は距離の近しい母娘だった。母が自殺しに行く前日、出かける際に杏が「私も一緒に行っていい?」と言ったことが象徴的である。しかし母は杏が一緒に来ることを拒否する。そして杏は母を喪失することになる。 また江藤は母を喪失した子のことを以下のように表現する。

    「母」の拒否は子のなかにかならず深い罪悪感を生まずにはおかない。つまり自分が「母」にあたいしない「悪」の要素を持っているからこそ、「母」は自分を拒んだと思うのである。 (『成熟と喪失』)

    これもまた『成熟と喪失』の主張と『砂時計』が同じ話をしている点である。前述したように杏は母が自分の母であることを拒否し、自ら命を絶ったことに、自分に原因があると罪悪感を持ち続けていた。母の希望になれなかったことにずっと罪悪感を抱えているのである。『成熟と喪失』は俊介を、その罪悪感から「彼のなかにほとんど処罰されたい欲求がある」と評するが、『砂時計』の杏もまた母への罪悪感から自らの幸福を許さない傾向がある。 そして杏は、罪悪感を抱えたまま、母の人生をなぞることになる。母と同じように結婚相手を見つけるが、結局結婚は破談となり、杏は無意識に自殺を図る。妻となろうとし、しかしそれを拒否する、という母のルートをなぞるのである。これは江藤が日本の女性たちについて説明した「母になることの拒否」という行動を杏は母と同じく実行したのだ、という点も強調したい。
    3.喪った母をなぞる「娘」と、その成熟
    しかし『成熟と喪失』と『砂時計』のもっとも異なる点は、ほかでもない子の性別だ。
     
  • 『タッチ』の明青学園を再び舞台とした『MIX』​​(後編・最終回)| 碇本学

    2022-06-27 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回がいよいよ最終回です。現在連載中のあだち充最新作『MIX』では、どのように「成熟」が描かれているのか、過去のあだち作品と比較しながら分析します。そして、愚直に「成熟」と向き合ってきたあだち作品を、いま私たちが見返す意味とはなんなのか、これまでの連載を総括します。(前編はこちら)
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第23回 『タッチ』の明青学園を再び舞台とした『MIX』​​(後編・最終回)
    立花投馬と立花音美はどんな大人になっていくのか?

     最初に決めたのは、主人公の立花投馬とヒロインで血の繋がらない妹・立花音美の家庭の人物関係だけです。投馬の父と音美の母が連れ子同士で結婚したことや、音美には投馬と同じ生年月日に生まれた兄・走一郎がいること。そしてピッチャー・投馬とキャッチャー・走一郎が明青学園野球部でバッテリーを組むということ。〔参考文献1〕


     血の繋がらない兄妹という「みゆき」の要素とか、もういろいろとぶち込んでおきました。「タッチ」と同じ空間の中で、果たしてどこまでいっていいのか。悩みながら、ブラブラしながら、今、13巻まで来ましたね。〔参考文献1〕

    あだち充がブレイクすることとなった『みゆき』からは血の繋がらない兄と妹が同じ家に住んでいるという部分を、そして国民的な漫画となりアニメも含めて野球漫画の代名詞のひとつとなった『タッチ』からは双子の兄弟を彷彿させるまったく誕生日が同じ兄弟という部分を掛け合わしたのが『MIX』という作品である。 『MIX』は『タッチ』で主人公の上杉達也とヒロインの浅倉南が通っていた明青学園が舞台になっている。そのためどうしても『タッチ』の登場人物たちがまったく出ないのは違和感があるため、野球関係者として違和感のない西村勇が、そして、立花兄妹が大人になっていく通過儀礼を手助けできるかもしれない存在として原田正平が登場することになったのではないかと思われる。 以降は連載中の作品の最新のネタバレを少し含んでいる。知りたくない方はぜひ19巻を読んでからお読みいただきたい。
    *      *      *      *

     週刊連載だったら、もうとっくに誰かを殺しているかもしれないね。月刊誌だとじっくり考える時間があるから……じっくり考えても良いことないんだよ。あだち充がデタラメな漫画家であるということを、もう一度自覚しないとね。もっと破綻させて、引っかき回しますよ。月刊連載をもう一度考え直します。〔参考文献1〕

    2022年6月の時点ではコミックスは18巻まで刊行されており、物語は高校二年生の地区大会準決勝まで進んでいる。そして、7月に刊行される19巻からは地区大会決勝戦が始まると思いきや、物語は大きな転換期を迎える。 それは『タッチ』でいうところの双子の弟である上杉和也が交通事故で死んでしまうというあの衝撃的な場面を彷彿させ、『H2』では雨宮ひかりの母が突然亡くなってしまったことで国見比呂と雨宮ひかりの幼馴染の関係性が変化して、橘英雄と古賀春華を含んだ四角関係に一気に進んでいくということを読者に思い出させるような出来事だ。

    野球はちゃんと描こうとしてますよ。その分まだラブストーリーが足りないから、これからかな。最近の連載では、「タッチ」の原田正平を登場させました。どっちに転がるかはわからないけど、どこかで動いてくれるんじゃないかな。〔参考文献1〕

    『MIX』初登場時の原田正平は記憶喪失者となっており、18巻まででは西村勇とはニアミスをしていたが、19巻で彼らは面と向かって再会することになる。 原田正平について、この連載で『タッチ』を取り上げた際に「単一神話論」や「英雄神話」構造における「贈与者」と「賢者」であり、ナビゲーター的な役割を果たしたと書いた。

    終始、原田は達也の側に立ち、同時に浅倉南のことを好きだったが自分は舞台に上がることではできないと早々に諦めていたため、二人が結びつくのを見守るという損な役割を演じることになった。そのため彼だけが物語において客観的な目線を持ちつつも、老成した賢者のように二人を導いていった。〔『タッチ』における「賢者」としての原田正平と「影(シャドウ)」としての柏葉英二郎(前編)〕

    というふうに『タッチ』におけるラブストーリーの面がそれ以前よりも強くなったのも和也が死んでからであり、原田が達也を鼓舞するようになったからである。 上杉達也は弟の和也が浅倉南のために叶えようとしていた甲子園出場を代わりに叶えることで、自分の本当の気持ちを南に伝えることができた。その際にずっと達也と南の近くにいて、二人を見守っていたのがまさに原田正平だった。 そして、『MIX』に原田正平が登場したのはあだち充が、「どっちに転がるかはわからないけど、どこかで動いてくれるんじゃないかな。」と語るように『MIX』における今後のラブストーリー展開に重要な役割を果たす存在が必要だったという本能からのものだったのではないだろうか。
    19巻に収録される第109話「あとひとつ」では、勢南高校に勝利した明青学園の関係者の試合終わりのあとのことが描かれる。誰もが試合の投馬は神がかっていたと言う凄さだった。しかし、まるで試合中に別人になったかのような投馬のピッチングを見ても次に対戦するはずの健丈高校の小宮山監督も赤井智仁も不思議と「まったく負ける気がしない」と口を揃えていた。 試合後の球場の外では間崎が英介の荷物を持ったまま立っていた。そこにやってきた原田に間崎は英介がトイレに行くといったまま荷物を自分に預けてから、試合が終わっても戻ってこないと告げる。また、家にスマホを忘れていたまま試合の観戦に出ていた英介のスマホを預かっていた音美のバッグの中でそのスマホが鳴る。大山監督が電話をかけてきていた。電話した大山は出たのが英介だと思っていたのに音美が出たことで双方が不思議がってこの回は終わる。英介は勢南高校戦が始まる前から一度も姿を見せていなかった。
    続く第110話「この時間だったな」ではトイレットペーパーを買いに外出した投馬がばったり原田正平と出くわす。原田自身も自分の名前が「原田正平」だと認識できるようになっていたが、過去の記憶はまだ戻っていなかった。 立花家に世話になっていた原田は「おれの家族らしい連中にも興味あるだろ?」と声をかけて強引に投馬を連れていく。その場面を車にガソリンを入れていた西村親子が偶然目撃する。父・勇が原田正平を見て、彼にまつわるいろいろな噂を息子に話す。「昔の知り合い?」と拓味に聞かれると新体操をしている浅倉南、そしてそれを並んで見ている西村勇と原田正平と新田明男というかつての記憶が勇の脳裏に蘇り、「失恋仲間だよ」と少しせつなそうに答える。 原田正平の実家に行くと投馬は原田の母からお世話になったお礼を言われる。出されたジュースを飲んでいると原田が壁時計を見ており、時刻は12時50分ごろを指していた。「ちょうど、この時間だったな。勢南戦でおまえが西村にホームランを打たれたのは…、──そして、親父さんが亡くなったのも…」と言われる。最終ページでは場面が立花家に戻る。ある部屋には立花英介の遺影と遺骨が置かれていた。そこでこの回は終わり、英介が亡くなったことが読者に明かされる。
    立花兄弟は決勝戦で健丈高校に敗れ、高校二年の夏が終わったこともその後描かれる。 インタビューであだちが「週刊連載だったら、もうとっくに誰かを殺しているかもしれないね」と第110話を描く数年前に語っていたが、ここで主人公の実父である立花英介が亡くなるという物語でも大きな転換点を迎えることになった。 3歳の時に実母を亡くしていた投馬は高校二年生の夏に実の両親をどちらも亡くしてしまうことになる。義母の真由美、義兄の走一郎、義妹の音美と一緒に住んでいる家族はいるが血のつながった者が立花家には誰もいなくなってしまう。 投馬は天涯孤独とは言えないものの、血のつながった家族が周りに誰もいないという状況であり、実は『みゆき』のヒロインの若松みゆきと同じ境遇になる。
    ここから最終回(高校三年の夏から秋)に向かって主人公の立花投馬はあだち充作品で通底しているテーマである、責任を取ることのできる大人へと成長していくことになると考えられる。 そのため投馬を導く存在として原田正平があだち充によって投入されていたのだろう。つまりあだち充は物語における細部は決めていなかったものの、原田を作品に出すということは主人公にとって乗り越えないといけない障害を近いうちに出さないといけないと考えていたはずだ。 たった一人の肉親を失い、血は繋がっていない家族と一緒にいるということで、投馬は走一郎と音美と真弓と以前よりも強い絆のある家族になって、父英介の死を乗り越えていくだろう。そして、投馬と音美はそれまでの兄と妹という関係性から、自分たちは血の繋がらないということを前よりも強く自覚し、異性として相手のことを考えるようになるのではないだろうか。ここから投馬が立花家を出ていくというのはあまり考えられないので、今まで通り立花家で投馬と音美は一緒に生活しながらも自分の思いを相手に伝えていいのか、と悩んでいくという展開になっていくと考えられる。その時に自分の気持ちに正直になること、英介の死によって落ち込んでいた彼を鼓舞する存在が原田正平のはずだ。と今までずっとあだち充作品を読んでいた読者としてはそれを期待してしまう。
    『MIX』は規格を立ち上げた担当編集者の市川が「明青学園を、もう一度甲子園に連れていってください」と言ってあだち充を口説いたことを考えると、やはり、投馬の最終目標は甲子園に出場することに改めて設定されるのではないだろうか。上杉達也が浅倉南に自分の気持ちを伝えるために、自分に課した目標が甲子園出場だったように。 この先は同じ家に住みながらも互いの気持ちに気付いた投馬と音美の二人が、一線を超えないためにも音美が「父さんたち(立花英介と澤井圭一という明青学園野球部OB)を甲子園に連れていってほしい」と伝え、それが叶えることができたら投馬が自分の気持ちを伝えるという展開が考えられる。そうなれば、1年後の高校三年の夏の東東京地区大会での甲子園予選大会は、投馬にとって自分の想いを音美に伝える最後のチャンスとなり、音美の実兄である走一郎も二人がうまくいってほしいと思うようになっていて、立花兄弟バッテリーが家族のためにも甲子園出場を目指すという大きなドラマが成立することになる。そして、やはり決勝戦では健丈高校の赤井智仁が明青学園の前に立ち塞がるものの、立花兄弟が二年次の決勝戦での借りを返すという展開になってほしい。 地区大会で優勝し甲子園出場が決まって、投馬が音美に気持ちを伝えることで物語が終わっていくというのが現状で考えられる展開のひとつである。 ただ、あだち充がもっと破綻させたいと言っていること、そしてこの連載でも何度も書いてきたように毎回連載は読み切りのような感じで描くというフリージャズスタイル手法を用いているため、ここから投馬たちの最後の夏が終わるまでの一年の間にどんな展開が起きるかはまったく予想がつかない。ただ、英介が亡くなったということは息子である投馬と走一郎と音美という子供たちの思春期が終わっていき、大人になるという段階に入ったと過去作品から見てもわかる部分ではある。
     
  • 『タッチ』の明青学園を再び舞台とした『MIX』​​(前編)| 碇本学

    2022-06-24 07:00  

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。今回は、いよいよ現在連載中の最新作『MIX』を扱います。長きにわたるあだち充の魔画家人生の中で『MIX』はどう位置づけられるのか、過去のインタビューも振り返りながら考察します。
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第23回 『タッチ』の明青学園を再び舞台とした『MIX』​​(前編)
    「明青学園を、もう一度甲子園に連れていってください」
    前作『QあんどA』終了から1ヶ月空けただけの『ゲッサン』2012年6月号から現在も連載中の『MIX』が開始されることになった。現在2022年6月時点ではコミックスは18巻まで発売中、7月に最新刊19巻が発売となる。 『KATSU!』からあだち充の担当編集者となり、この連載でも『KATSU!』『クロスゲーム』『アイドルA』『QあんどA』の回で名前が出てきた編集者の市原武法がいたからこそ、この『MIX』という作品の連載は始まったといえる。
    市原は「人生における大切なことは、すべて上杉達也に教わったと言ってもいい」というほどに『タッチ』の上杉達也が特別な存在であり、小学館に入社後に「少年サンデー」に配属されてからもずっとあだち充の担当になりたいと年度ごとに担当替えを編集部に訴えていた人物だった。そして、2004年に『タッチ』二代目担当編集者であり、当時の「少年サンデー」編集長だった三上信一から『KATSU!』連載中に担当編集者を任されることになる。 ちなみに『MIX』にも三上信一という名前の先生が登場し、彼が黒板に「市原武法」と書いて生徒に「何をした人物だ?」と聞くお遊びの場面があり、この二人のことをあだち充がいかに信頼しているのかがわかる。 『KATSU!』連載中のあだちは兄の勉の体調が悪かったこともあり、モチベーションが下がっていた時期だった。そのことを知らなかった市原は「あだち充はこんな漫画を描くような人ではない」という危機感を持っていたという。 実際に担当編集者となった市原は『KATSU!』を早く終わらせて、新連載を立ち上げようと動き出す。そして始まったのが逆『タッチ』ともいえるあだち充の集大成的な要素が詰まった『クロスゲーム』だった。少年漫画家としての限界も囁かれていたあだち充は『クロスゲーム』によって少年漫画家としての復活を果たすこととなった。
    「月刊少年サンデー」を立ち上げるために市原は社内でも動いており、実際に2009年にその尽力もあって『ゲッサン』が創刊されることになった。そこでは編集長代理を務めながらも新人発掘と新人育成に力を入れていた。また、引き続きあだち充の担当編集者でもあった。 長期連載の合間となる肩の力を抜いたあだち兄弟を彷彿させる『QあんどA』は創刊号から2012年4月号まで約3年間続いた。連載終了する際に、市原はずっと企画として温めていたテーマを次作としてあだちに提案することになる。

     市原は密かに計算していた。1986年、達也は18歳だった。ならば、彼らが大人になったのなら、2012年は、その子どもたちがちょうど高校生くらいの年齢に差し掛かるはず。「この企画は、今しかできない」と市原は確信した。ただ、あだち充は常々「続編は絶対に描かない」と宣言している。 「続編なんか描いて欲しくないんです。達也や南のその後を描く必要はない。ただ、僕らが愛したのは達也や南はもちろんですけど、明青学園の世界観をも愛していたはず。その明青学園を、もう一度描いて欲しかった」  新連載の打ち合わせ、喫茶店「アンデス」。雑談から始まり、あだちが頼んだ2杯目のアメリカンが運ばれると、あだちが切り出した。 「次は何描きゃいいんだよ?」  市原は「南っぽく言おう」と悩んだ末、決めていた。 「明青学園を、もう一度甲子園に連れていってください」  20秒か30秒、あだちはしばらく何も言わず黙った。開口一番、イエスでも、ノーでもなく、あだちは言った。 「前商(前橋商業)に行ってみねーと、なんとも言えねーな」  描いてくれるんですか? そんな野暮天はいけない。この時、担当になって既に8年の歳月が流れている。市原は即答した。 「そうですね。すぐ行きましょう」〔参考文献1〕


    「MIX」は市原のわがままで、「明青学園を、もう一度甲子園に連れていってください」という指定でした。「タッチ」の続編ではないけど、同じ時空間の中の話だから絶対やりにくくなるんじゃないかと思った。「タッチ」の人物に触れないわけにはいかなくなっちゃうぞって。  以前から僕は「続編は描かない」と言ってきました。だから最初は断ったんです。でも市原が、「一回だけ取材に行きましょう」としつこいから、明青学園の校舎のモデルとなった母校の前橋商業へ行ってみました。そしたら校舎から何もかも変わっていて、まったく新しい場所になってた。それを見ていたら、この時間の変化のようなものをなんとなく描けるかもしれないと思ってしまった。じゃあ、少しは自分が力になれる間は、やっておこうかなと思って始めました。〔参考文献1〕

    「描いてくれるんですか? そんな野暮天はいけない。」という部分はあだち充の性格を市原がよくわかっている描写に見える。おそらく、そこで「描いてくれるんですか?」と聞けば、あだちは『MIX』となる作品を描かなかっただろう。 粋であるかどうか、言わなくてもわかるという江戸っ子的な気質はあだち充が影響を受けている落語や好きな落語家である立川談志や三遊亭圓生や古今亭志ん生たちの振る舞いを思えば、聞かなくてまさに大正解と思ってしまうものだ。 本筋とは関係ないが、『MIX』において主人公の立花兄弟の両親がデートで落語を見にいくシーンがある。演芸場に置かれているめくりには「胡麻」とあり、頭を下げて舞台から下がっていく落語家の姿は『虹色とうがらし』の七兄弟の長男である落語家の胡麻と少し似ている、まさに「あだち充劇団」とも言える。そもそも「あだち充劇団」と揶揄もされるほとんど顔がかわらない登場人物たちは「漫画の神様」と呼ばれた手塚治虫が用いた「スターシステム」の系譜にあると考えた方が理解しやすい。
    上記の引用はどちらも『あだち充本』からだが、前者は市原武法へのインタビューの部分からの引用であり、後者はあだち充への全作品徹底解説の『MIX』部分からの引用である。 どちらとも読むとわずかな話のズレが感じられなくもないが、それぞれの人物の視点からの出来事であったり、記憶というものは当然ながらまったく同じではないし、見て聞いたものもまったく同じということはない。 たとえば、自分が話したと何十年も信じていたものが、当時の日記や書き残されているものやその場にいた人の証言から、実は他人が話したことを自分が言ったものだと思い込んでしまっていたということは起きうる。それはノンフィクションやドキュメンタリー作品ではよく出てくる事柄だろう。どちらが間違っているわけではなく、どちらも自分にとってはそれが正しいと覚えている当時の風景や記憶である。人は記憶を書き換えたり、忘却していく生き物でもある。世界は生きている(生きてきた)人たちそれぞれに存在すると言われるのもそれ故である。
    この連載でも資料として非常に参考にさせてもらっている『あだち充本』はあだち充が全作品についての解説という、当時のことを思い出して語っている証言がとても貴重な一冊になっている。そしてこの連載でも何度も名前を出してきた担当編集者たちもあだち充担当編集者時代や彼との関わりをインタビューされて掲載されている。そのことで漫画家と担当編集者それぞれに見て感じていたことがわかり、同時に同じ出来事でもそれぞれの考えや記憶にも多少の誤差のようなズレがいくつか見られる。一方だけではそれがある種の真実として信じられてしまうが、双方であれば重なる部分と重ならない部分が出てくる。私個人としてはその方がよりリアルだと感じるし、漫画史に残る重要な証言となっている。

     市原が様々なメディアのインタビューを受けてくれて、言葉を選んで、「タッチ」の続編とは一言も言っていないはずなんだけど。改めて、「タッチ」という漫画のすごさを思い知りました。「タッチ」で育った連中が騒いでくれる年齢になって、それぞれのメディアで偉くなって取り上げてくれたんですね。〔参考文献1〕

    『タッチ』の連載最終回を中学生一年の時に読んだ市原武法が、あだち充好きだからと記念受験とした小学館に受かって「少年サンデー」に配属され、三上信一からあだち充の担当編集者を任されたということがまさに運命だったとしか言いようがない。そして、思春期に自分に影響を最も与えた漫画『タッチ』と同じ舞台で、あだち充に「明青学園を、もう一度甲子園に連れていってください」と言えるほどの関係性と信頼を市原が得ていたことが非常に大きかった。
    漫画家や小説家で才能豊かで若い時期にデビューした作家がずっと第一線にいても、ある時期から仕事がなくなると言われることがある。それは共に戦ってきた同世代や上の世代の編集者たちが30代から40代にかけて編集長などの管理職となっていき、現場にいなくなってしまうことが大きく影響している。 もちろん第一線にいる作家には後任の担当者がついて作品を一緒に作っていくのだが、その辺りの関係性や同世代ではないとわからない皮膚(時代)感覚のようなもののズレも影響していき、徐々に第一線から離れていくということが起きうる。 だが、第一線級の作家がある時期から見なくなったり、ヒット作が出なくなっても何年か十数年のインターバルを置いて再び作品を見たり、名前を聞くようになって復活したと感じることが時折ある。それはかつての読者やファンだった世代が出版社などに就職して編集者となっていることが多い。かつて憧れていた作家と一緒に仕事をしたいと編集者が望むことがうまくプラスに作用して作家に新たな力を与えて再生させることで、第一線に戻ってくるというものだ。 あだち充と市原武法という関係はまさにこの影響を与えた作家と影響をかつて受けたファンが編集者になったという構図の大成功パターンだと言えるだろう。
    映画関連でいえば、何作もヒット作をプロデュースし、自身も小説を執筆して映画監督もするようになった東宝映画の川村元気が思い浮かぶ。川村元気原作の映画『世界から猫が消えたなら』の作中に出てくる映画館に岩井俊二監督『花とアリス』のポスターが貼られており、公開時に少し気になっていた。 その後、岩井俊二監督の初期の代表作『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』(ある世代の映画監督が作る作品において深夜のプールに忍び込むシーンを入れたがるのはこの作品の影響が大きい)のアニメ映画を川村元気が企画・プロデュースしている。そして、岩井俊二監督の名作『Love Letter』(韓流ブームに火をつけることになった『冬のソナタ』はかなり『Love Letter』の影響を受けたと思われる箇所が随所に見られる。また、岩井俊二監督は現在でも韓国と中国では圧倒的な人気を誇る日本の映画監督である)のアンサー的な要素を持つ『ラストレター』を川村元気が企画・プロデュースを行なっている。 川村は『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』が岩井俊二監督作品でいちばん好きで完璧な作品だとあるインタビューで語っていた。このようにかつて影響を受けた世代によって、影響を与えた側がフックアップされる(一緒に仕事をするようになる)ことで、彼らを知らない若い世代にもその名前や作品たちが知られ、当時のファンも戻ってくることの相乗効果が起きるということは漫画や小説や映画などでは度々起きており、リバイバルヒットもそういう中で起きやすくなる。その意味では同世代に圧倒的に受けるよりも、下の世代に影響を与えられる人はおのずとして活動期間が長くなっていくとも言える。 熱心なファンであり自分の作品を愛してくれていた相手との仕事は、やはり作家の心を鼓舞するはずだ。そこにはある程度の年齢差があることも重要になってくるのだろう。もちろん、それも諸刃の剣的な要素はあるので、思いが強すぎてぶつかってしまい作品が失敗する可能性もあるが、『MIX』はそれがうまく作用したからこそ実現した作品となっている。 そう考えると「続編は作らない」と宣言していたあだち充が『タッチ』と同じ明青学園を舞台にした『MIX』を描くことになった経緯自体がかつてのあだち充自身でもあると言っていいのではないだろうか。
     
  • ​​[特別無料公開]『知られざるコンピューターの思想史』序章 フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと一枚の写真|小山虎

    2022-06-21 07:00  

    本日のメルマガは、書籍化が決定した連載「知られざるコンピューターの思想史」より、連載時から大幅に加筆修正を加えた序章を全文無料公開します。フォン・ノイマンやゲーデル、タルスキら現代のコンピューターサイエンスの礎を築いた偉人たちの「知られざる」系譜を追う本書。序章では、ノイマン・ゲーデル・タルスキ3人が集ったとある学術会議から、コンピューターと思想史の重なりを明らかにします。
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    『知られざるコンピューターの思想史』序章 フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキと一枚の写真|小山虎
    1 1946年、プリンストン
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  • 【新連載】ものの茶話 心の安らぎとものの関係を考える|丸若裕俊×宇野常寛

    2022-06-20 07:00  

    本日のメルマガは、EN TEA代表・丸若裕俊さんとPLANETS編集長・宇野常寛との対談連載「ものの茶話」第1回をお届けします。「茶」や「工芸」といった日本の伝統文化のアップデートを志す丸若さん。この対談では丸若さんが出会った伝統的な「道具」の魅力を紹介、それらを現代人が使う意義について宇野常寛と語り合いました。(構成:徳田要太)
    丸若裕俊×宇野常寛 ものの茶話 #01 心の安らぎとものの関係を考える
    「もの」を通して日常の「間」を楽しむ
    宇野 これまで僕と丸若さんは対談連載「ボーダレス&タイムレス──日本的なものたちの手触りについて」を通して、「喫茶」というものの再定義についてずっと話してきています。そして昨年に創刊した雑誌「モノノメ」ではお気に入りの「もの」について語る連載もしてもらっています。これは、丸若さんが茶と工芸、ふたつの領域にまたがる活動をしていることの表れなのだけど、ここでは後者の「もの」について考えることを、これまでとはちょっと違ったかたちでやってみようと思っています。「モノノメ」の連載はコンセプトをかっちり固めてやっているのだけど、こちらは肩の力を抜いて、単に丸若さんが心惹かれたものについて、僕が聞き手になって深堀りしていくという形式でやってみたいと思います。
    丸若 改めて本日はよろしくお願いします。お相手が宇野さんなので、真面目なことをいろいろとお話ししようかと思ったんですけれど、今日は逆に宇野さんに甘えて、いつもの自分の感じを届けられたらいいかなと思っています。
    宇野 そうですね、普段着でいきましょう。ちなみに丸若さん今日はどんなことをされていたんですか?
    丸若 「お茶のメーカーを運営している」というと「普段何をやっているんだ」と気になると思うんですが、社長室にいてパソコン作業をこなしているのかというと、全然違っていて。今はコロナ禍だから控えめにはしていますが、基本日々どこかに移動しているんです。今日は高知県にいて、一日中銘水を探していました。
    宇野 探すって、水源を探して汲みにいくとかいうことですか?
    丸若 そうそう。湧き水がある場所を地元の詳しい人たちに聞いていました。なぜこんなことをするかというと、やっぱりお茶をおいしく飲むためには水が大切だからです。あるいは今日も道中でいろいろな人との出会いがあったわけですが、今日ご紹介する道具などは、やはり人との出会いを繰り返すなかで生まれた思い出が詰まっているものでもあります。 
    宇野 なるほど。当たり前のように東京にいるものだと思ってたから、まさか高知にいるなんて思わなかったですよ(笑)。
    丸若 EN TEAというプロジェクトをするなかで、お茶に表現をこめるために、いろいろな人に出会ったり、旅だったりをしてさまざまなことを吸収しています。今日お話しする「道具」というのも、自分の人生の中でいつも大切にしてるものです。そういった、普段EN TEAではなかなか伝える機会がないことを、この場でお話しできたらいいなと思っています。お茶でも飲みながら、茶話程度な雰囲気で、かなりニッチだと思うんですけれど、一緒に楽しんでもらえたらなと思います。
    宇野 本題に入ろうかなと思いますが、今日丸若さんには二つのものを持ってきてもらっています。一個ずつ紹介してもらって、そこからお話を広げていけたらなと思っています。
    丸若 では最初に紹介するものですが、これ何かわかります? 
    ▲出典
    宇野 曲げわっぱですか? 
    丸若 さすが宇野さん。
    宇野 一応、東北出身なので……。
    丸若 秋田県にある秋田杉でできた曲げわっぱで、これはお弁当箱なんです。多くの方が知っているお弁当箱の形は、「小判型」と言われるもう少し背が低いものをイメージすると思うんですけど、僕が今日ご紹介するのは「きこり弁当」というタイプのものです。もちろん宇野さんは持ってないですよね?
    宇野 持ってないですね。僕には弁当を家で作って持ち歩くという習慣がまったくないので。
    丸若 実は僕もそうで、弁当を持って出歩いたりはしないんです。じゃあなんで紹介したかというと、少し見方を変えるとこれはおひつとして使えるからなんです。今日はこのおひつの話からしたいなと思っています。もちろん僕は、昔の日本に良いものがたくさんあったと思っていますが、一方で今でも使えるものと使えないものはやはり明確にあると思っています。それはデザインの問題ということ以上に、用途の問題であると思うんですよね。そもそも生活習慣がその道具を前提とするものではなくなってしまったということです。たとえば現代では炊飯器を使えば簡単にお米を炊くことができますが、実は本当に美味しくご飯を食べるには炊いた後にもう一手間加える必要があって、そこで使われるのがおひつなんです。炊きあがった瞬間はもわっと湯気が立ってお米一粒一粒はつやつやしていますが、お米にとって本当に良い状態にするためには、その後でおひつの中に入れて温度を冷ましつつ、無駄な水分をならしていく必要があるんです。
    宇野 43年間生きてきていま初めて知ったんですけど、あのつやつやの状態がベストなわけではないんですね? 
    丸若 そうなんですよ。もちろん今の炊飯器の中にはそれに限りなく近い状態にできるものもあるんですけれど、やっぱり本来の状態はおひつでこそ出来あがります。ただおひつというと、お寿司屋さんでちらし寿司を作るときのようなものがイメージされますが、あれを所持するのはさすがに難しい。そうなったときに、同じ機能を果たせるのがこの曲げわっぱなんです。僕はまずごはんを炊いた後、この中にお米を入れておくんですよ。それで10分から20分くらい待っていると、この中でちょうどいい状態にしてくれます。木材でできているというのがポイントで、余分な水分を取って温度を一定にしてくれるんです。それを昔の人は生活の知恵で知っていたんですね。実際に食べてみるとびっくりしますが、冷めていてもお米がべちゃべちゃにならないで本当に美味しいんです。現代人は忙しくて毎日は使えないかもしれないけれど、こうして家の中で少しひと手間加えるだけで生活が楽しくなります。白米が好きな人にはこの柴田慶信商店さんというブランドがおすすめで、使っていて愛着が沸きますし、かれこれ20年近く愛用しています。
    宇野 20年はすごいですね。丸若さんはその曲げわっぱがおひつの代替品になるということを知ってて買ったんですか? 
    丸若 僕はやっぱりまず視覚的なものに惹かれるので、最初は見た目だけで選びました。後から、昔の使われ方と今の用途とでは明確に合致しないかもしれないということを考えたり調べたりするなかで知りました。
    宇野 おひつって、やはり昔の大家族の時代の、基本三世帯以上が住んでいて子供も複数いるような家庭で使われていたから、大きいサイズが多いですよね。だからたぶん曲げわっぱをおひつ替わりに使うとしたら、今の一人暮らしか二人暮らしの家庭が一番多いわけで、そうしたときに曲げわっぱを作っている職人たちは考えていないと思うんですけど、結果的にすごくちょうどいいサイズに収まってますよね。
    丸若 それが、現代と昔の用途を照らし合わせてもののとらえ方を変えていく楽しみですね。作り手の人たちと知り合ったことで、「こういう使い方もいいんだ」ということを知るようになりました。なぜこれを使っているかというと、やっぱりお茶を作っているので「お茶漬け」にすごく興味があるんですよ。「どうやって冷や飯を作るか」と考えたときに、やっぱりこのおひつで作った冷や飯でお茶漬けにすると、全然味が違うんです。
    宇野 ちなみに丸若さんはさっきデザインに惹かれたと言いましたけど、このデザインだったら現代のクリエイティブクラスに支持されがちな、シンプルなスタイルとも非常に調和しますよね。
    丸若 そうですね。そこがおもしろいんですよね。「きこり弁当」と言われるくらいなので、きこりの人たちが使っていた弁当箱なわけです。だからそこにデザイナーもいなかったし、ましてやトレンドもない。使いやすさと丈夫さだけが追求されていて、そしてそこに柴田慶信商店さんの美意識が乗っかって結果的にこういうデザインになっています。非常に偶然的、奇跡的に生まれているものだと思っているんです。
    宇野 この道具を使うことのポイントは、ひとつ「間を置く」ということじゃないかと思うんです。僕なんかは炊飯器からごはんを直接山盛りにしてがっつきがちなんだけれど、そこにあえて一回おひつに移すという工程を挟む。そこの一拍置く、一段階挟むことの豊かさをどう捉えるかが大切だと思います。
    丸若 最近禅が少しブームになっていますけど、僕もああいうものに触れるときに思うことがあります。現代の人たちは、あらゆる情報を頭(理性)で処理しようとしてしまっている。昔は、昔から日本語でも「腹を立てる」とか「腹を割って話す」「腹が座ってる」などと言うように、やっぱり感覚知的なものはおへその上あたりにあるというふうに考えていたから、理論知と感覚知は分離していたと思うんですよね。そこにはしっかり「間」が存在していた。だけど現代ではその間がぎゅっと潰されてしまっている。豊かさというものも、すごく表面的なところで得ようとしているけど、実はいろんなところに散らばっているものだと思います。
    宇野 ぜいたくな時間を過ごす、豊かな時間を過ごすといったときに、とりあえず効率よく何かを吸収するとか、手っ取り早く何かを片付けていくという方向に意識が向かいがちだと思います。でもそれは一見時間を節約しているように思えるけれど、結局切り詰めた時間でまたすぐにコストパフォーマンスの良い作業をこなしていこうとしてしまって、それを無限反復していくだけだと思うんですよね。だから豊かな時間を過ごそうと思うんだったら、そういった、手っ取り早く何かを時短的に処理していくということから背を向けなきゃいけないと思うんですよ。そう考えると、せいぜい口の中にごはんがある数十秒なんだけど、その数十秒を味わうために、一回おひつに移して冷やす・蒸らすといったことを考えることが、自分で自分の生活時間を豊かに演出するための最初の一歩になる気がするんですよね。
    丸若 そうなんです。結局一日というのはあっという間に終わってしまって、できることなんて限られている。人間の一日なんて無駄だらけだと思うんですよ。だから、たとえば一個二個手間を増やすことで何かが大きくロスをするかというと実は違っていて、「わざわざ」をすることによって、むしろ整理される。ちょっと隙間を与えると、脳は自動的に情報を整理しようと動いてくれるわけです。そういう実感を得られる時間が必要だと思います。
     たとえば道具選びもそういう感覚で選んでいいと思うんですよね。今日紹介するものは二つともそうなんですが、そのものが育っていくというか、時間の経過と共に変化する期間を感じられるものが良いと思います。ものがある種の魂を持っているようにも感じられて、それと触れ合っているといろいろな学びがあります。この弁当箱も最初買ったときの色とは変わってきていますけど、それがいい風合いだな、とか。
    宇野 この柴田慶信商店さんというブランドは、職人さんならではのアプローチで、曲げわっぱというものを、伝統を引き継ぎながらも現代の感性に合うように提供できていると思います。そのあたりの柴田さんのアプローチについて解説していただきたいのですが。
    丸若 僕が柴田さんとお付き合いするようになったのはけっこう前です。そのとき柴田さんたちがこの曲げわっぱを心から愛していて、本当に美しいものだと思って接してるんだということがわかったんですよね。丹念にひと手間加えることの積み重ねで、木の弁当箱がここまできれいになるんだな、と。具体的なポイントとしては、天板と側面の角度が少しだけ丸みを帯びているんです。これがあるかないかで表情ががらっと変わるので、今後柴田さんの品を見ることがあったら、ここの部分に注目してみてほしいです。個人的にはこの部分にかわいらしさを感じてすごく好きですね。
     でもこのデザインができるにあたって、何か若い感性が入っていたのかというと、実はこのスタイルを築いた方は、バリバリ昔の秋田弁を話す僕よりずっと年を重ねている方で、東京の文化がどういうものなのかということを想像すらしていないと思うんですよね。もちろん世界中から声がかかっていて、東京にも来る機会があったけど、どこであろうとスタイルは一貫している。どこのホテルでも同じように作業をしているし、やっぱりものと向き合っているんですよね。
     一般的な曲げわっぱとの違いがどこにあるかというと、言ってしまえば「曲げわっぱを曲げわっぱでなくした」というところです。たとえばさっきお話ししたように角を取ったり、目の細かい良い秋田杉を選んだりと、形だけ見れば至ってシンプルなんですが、よくよく見ると、柴田さんの品は「それ柴田さんのですよね」ということがみんなわかります。また、ほとんどの商品が木材に塗装をせず白木のまま作られているので、本当にごまかしがきかないというか、手触り的にも自然物のまま作られている。そういう細かいところの積み重ねで、柴田さんならではの曲げわっぱになっているんですね。
    生活様式に根付いた「もの」
    宇野 ありがとうございます。では次の品を紹介していただけますか?
    丸若 さっきは木材のものを紹介しましたが、今度は焼きものです。僕自身、お茶をはじめとする伝統工芸と言われるものに興味を持つようになったきっかけが焼きものなんです。日本って、本当に世界に誇る焼きもの大国で、これだけ多くの産地があって、これだけいっぱい湯呑みを見かけるところはない。少しわかりにくいかもしれないんですけど、画像を用意しました。
    ▲東屋さんのジューサー「恋ひとしずく」(出典)
    宇野 これは上から見た写真ですね。これだけ見るとZZガンダムの頭部に少し似ていますが……。
    丸若 さすがですね。宇野さんの見立ては(笑)。残念ながらこれはガンダムとは関係なく、ジューサーなんです。焼きものというとどうしてもやわらかいフォルムが多いんですが、これはすごくシャープなんですよねこの上部の突起物で半分に切った柑橘なんかを絞るわけです。
     
  • [特別無料公開]食べるチャンスは逃さない(「水曜日は働かない」第7話)|宇野常寛

    2022-06-17 07:00  

    本日のメルマガは、PLANETS編集長・宇野常寛の新著『水曜日は働かない』(ホーム社)から一部を特別無料公開してお届けします。第7話で綴られたのは「食」についてのとあるエピソード。宇野常寛が「食べる」ことに徹底的に執着するのはなぜなのか、高校時代の「思い出」と共にその秘密が明かされます。
    食べるチャンスは逃さない(「水曜日は働かない」第7話)|宇野常寛
     突然だが、僕は「食べる」ことが好きだ。T氏とは毎週水曜日にランニングの後に昼食を摂ることにしているのだけれど、昼間から飲酒できればどこでもよいというT氏とは異なり、僕はいつもギリギリまで、何を食べるか検討する。なぜならば僕は一食、一食をとても大切にしているからだ。「宇野さんは、本当に食べることに執着しますよね」と若干の批難を込めて、T氏はいつも僕に言う。彼はたぶん僕のことを年甲斐もなく意地汚い人間だと思っているのだろう。しかし、僕にも言
  • 福生駅から横田基地第二ゲートへ |白土晴一

    2022-06-14 07:00  

    リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回歩いたのは東京都福生駅周辺。都内としては珍しい在日米軍基地のあるこの土地の風景から、占領期以降のこの国の歴史に思いを馳せます。
    白土晴一 東京そぞろ歩き第15回 福生駅から横田基地第二ゲートへ
    地元から東京に出てきてもう数十年が経つが、上京当時に驚いたことの一つに聴取出来るラジオ局が多いことがある。 地元ではNHKかAMラジオ局一つくらいだったが、東京だとFMとAM、かなり選択肢があることに気づき、やたらいろいろな局の番組を聴いていた。まだネットでラジオが聴ける時代ではなかったので、ラジオのつまみを回して周波数を合わせていたのだが、神奈川や埼玉のラジオ局の電波も拾えることが面白かった。 しかし、一番驚いたのが、英語のラジオ局があったことだろう。FMだとDJが英語を交えた言葉で曲紹介をする番組もあったが、その局の番組はすべて完全に英語。それまでも、電波環境の具合で海外の短波ラジオ局が切れ切れで聞こえることもあったが、この英語のラジオ局はくっきりはっきり聴ける。 しばらくそのラジオ局を聴いていると、どうやらそれはAmerican Forces Network、アメリカ軍放送網という在日アメリカ軍のラジオ放送であるということが分かってきた。番組の内容はリスナーからのリクエストで音楽をかけたり、ニュースや基地内のイベント情報などで、日本の番組構成と大きく違っているとは感じなかったが、ときどき東京近辺の骨董市についての宣伝が入るのが印象に残っている。 骨董市のCMは、どうやら日本に駐留している軍人さんの中には、日本に来ているなら日本の古いものを購入したいと思う人も多いらしく、そういう人向けということが分かってきた。 ちなみにAFNはラジオ局だけではなく、本国から購入した番組などを流すケーブルTVのサービスなども行っているが、海外で働くアメリカ軍人やその家族などが本国に帰国した際の情報格差をなるべく無くすためのものでもあるとか。 現在ではネット経由でラジオも聴けるので、興味がある方は。 https://www.afnpacific.net/local-stations/tokyo/
    このANFの放送を聴くようになってから、東京は意外に近くにアメリカ軍が存在しているということを実感するようになった。沖縄や青森の三沢、神奈川の横須賀などが米軍基地と近い土地であることは知っていたが、それまで東京にそういうイメージがなかったのだ。 以来、西武新宿線に乗っているときに、あんまり旅行者っぽくない軽装のアメリカ人らしき集団を見かけると、「あれは軍の人たちが都心に遊びに来ているのかも」などと考えてしまう。 そのため、私の中では東京はアメリカ軍基地の街という意識がある。
    なので、今回は東京のアメリカ軍基地の本丸と言える在日米軍司令部のある横田基地周辺を歩いてみようと思い立ち、JR青梅線の福生駅に降りてみる。

    駅に併設されたカレー屋のCoCo 壱番屋だが、看板に「YOU CAN TAKE IT OUT」、カレーうどんの広告に「Please try our noodle!! They are delicious!!」とある。 こういうCoCo 壱の英語の表記はあまり都内で見たことがない。英語圏の人間が多い場所用のものだと思うが、駅のカレーチェーン店からも基地対応を読み取れるのが、福生という土地柄だろう。 実はこの日は土曜の午後だったのだが、短パン半袖の若いアメリカ人と思われる集団が何組も駅に入っていく。週末であるし、JR青梅線に乗って都心に遊びに出るために横田基地から出てきた兵士たちではないだろうか。 私はその反対に基地の方向に向かって歩いていく。 やなぎ通りを越えて都道165号伊奈福生線に入ると、右手に工場となにやら山小屋風の店がある。

    ここは福生の名物の一つと言える「大多摩ハム」の工場と、その直売店兼レストランの「シュトゥーベン・オータマ」。 「大多摩ハム」の創業者の小林榮次氏は、大正時代に来日したドイツ人マイスター、アウグスト・ローマイヤー氏に本格的なハム製造を学んで戦前から独立し、戦後にはいち早くGHQ指定工場に認められ、日本に進駐してきた軍人とその家族にハム、ベーコン、ソーセージなどを提供してきた。 2011年から福生市内で製造された材料を使ったホットドッグ、「福生ドッグ」という企画が商工会等によって進められているが(アメリカ軍基地の街でホットドッグということらしい)、ソーセージには福生ハムとこの大多摩ハムのものが使われている。 直売店の「シュトゥーベン・オータマ」でも、この福生ドッグは購入可能。 なので、一本購入してみる。


    ここから都道伊那福生線を外れ、多摩川によって作られた段丘の途中にある福生不動尊から基地西側の住宅地に入ってみる。

    そうすると、住宅地の中にちらほらと平屋で矩形(角が直角で長方形)の建物が目に入ってくる。


    そこまで新しい感じではなく、すっきりしたデザインで、屋根はコンクリート瓦、長方形の長い一辺側の真ん中に玄関が設置されているものが多い。 こういう住宅は横田基地周辺の福生からお隣の拝島や瑞穂町でもよく見かけるが、何か一つの規格に沿って作られている感じがする。


    これはアメリカ軍人家族向けに作られた「米軍ハウス」。英語では「Dependents house」(扶養家族住宅)や「Offbase house」(基地外住宅)などと呼ばれる住宅で、最初は第二次大戦後に進駐してきた軍人家族のために建てられ、多くのアメリカ軍人が基地に配置された朝鮮戦争当時には、基地ゲート周辺などはこうした住宅が隙間なく並んでいたらしい。むろん、基地内にも兵舎や家族向け住宅が建設されたが、それだけでは足りず、当時基地周辺に土地を持っていた日本人は米軍の住宅不足を見越し、畑があった土地などを利用し、米軍軍人向けの賃貸ビジネスに乗り出したため、こうした住宅が建設されていったのである。つまり、福生周辺の米軍ハウスは民間が不動産投機的に建設したものなのである。 その後、1970年代に入ると日本に駐留する米軍人の数が減って基地内居住が進むようになると、日本人にも貸し出しされるようになり、アメリカの生活を趣向する若者や音楽家、芸術家などが好んで移り住んだことでも知られている。
     
  • 『メタモルフォーゼの縁側』── BLが結ぶ女子高生と老婦人|加藤るみ

    2022-06-13 07:00  

    今朝のメルマガは、加藤るみさんの「映画館(シアター)の女神 3rd Stage」、第29回をお届けします。今回紹介するのはBL好きの女子高生と老婦人の不思議な絆を描いた『メタモルフォーゼの縁側』。「好きなことで繋がること」の美しさに、るみさんは何を感じたのでしょうか。
    加藤るみの映画館(シアター)の女神 3rd Stage第29回 『メタモルフォーゼの縁側』── BLが結ぶ女子高生と老婦人|加藤るみ
    おはようございます、加藤るみです。
    先日、佐賀県・唐津へ行ってきました。 もともと、一泊二日で福岡へ旅行する予定だったんですが、旅行前夜に唐津で行われる音楽フェスに好きなアーティストが出ると知り、急遽二泊三日に変更。 わたしも夫も、こういう時の行動力が半端ないのです。 終電間際に大阪を出発して、博多駅へ。 深夜に食べる博多ラーメンの美味しさったらもう格別でした。 そのまま博多でレンタカーを借りて、唐津へGO! 佐賀県ってめちゃくちゃ遠いイメージだったんですが、博多から1時間半ぐらいで着いたので、めちゃくちゃ近いんじゃないかという錯覚が……。 大阪からは、4時間位かかっているので充分遠いんですけどね(笑)。 その日のフェスは、唐津の波戸岬という海が見えるキャンプ場で行われたKaratsu Seaside Campというフェスで、今年が初めての開催なんだそう。 しかし、前日に深夜から行動していたせいで直前まで爆睡してしまい、開演ギリギリに会場についてしまったわたしたち。 好きなアーティストは1番手で出演するのに、超絶ピンチなわたしたちの目の前に、前日からフェスに参加していたフェス百戦錬磨顔の奥田民生ファンのおばさまが出現。 「民生が出るならどこでも行く」というおばさまにいろいろ事情を話すと、「大阪から来たの⁉️ 前行きな!」って、まさかの最前列まで行かせてくれるというミラクルが起きました。
    ありがとう、おばさま……。 ありがとう、奥田民生……。
    そのおばさまのおかげで、最高の経験をすることができました。 もはや、奥田民生さんが好きになりました(フェスの出番、見てないけど)。
    真っ青な海が広がる絶景をバックに聴く音楽は最高でした。 わたしは初めて佐賀県に降り立ったのですが、唐津って本当にいいところですね……。 海も山も綺麗すぎて涙が出そうでした。 また来年も楽しみです。
    さて、
    今回紹介する作品は、『メタモルフォーゼの縁側』です。
    原作は、「このマンガがすごい!」など数々の漫画賞を受賞した鶴谷香央理の傑作漫画です。 最近、立て続けに退屈な邦画を観て「ハマらんなぁ〜」と、ダメ出ししか出てこない口を塞ぎたいと思っていたわたしですが、やっと口を開くたびに「良い……良い……」しか出てこない映画に出会えました。 キッパリと言える、わたしの上半期ベスト級です。
    BLでつながる17歳の高校生と75歳の老婦人のお話で、「好きなものを好きと言えることは素晴らしい」「好きなものを誰かと共有できることは素晴らしい」と、あたたかなメッセージを伝えてくれる映画でした。 思いがけない出会いの尊さを過剰な演出に頼ることもなく、丁寧に描いていてそれがなんとも心地が良い。 これは、様々なコンテンツを愛するオタクに捧ぐ、ラブレターだと思いました。
    ©2022「メタモルフォーゼの縁側」製作委員会
    この物語には、ふたりの主人公がいます。 一人目は、書店員のバイトをしている女子高生、佐山うらら。 周りのクラスメイトのようにキラキラできない日々。 唯一の楽しみはこっそりBL漫画を読むこと。 二人目は、夫に先立たれ書道の先生をしている老婦人、市野井雪。 これといった趣味もなく、終活の準備がちらついている日々。 ある日、本屋さんでBL漫画に出会い人生の輝きを取り戻す……。
     
  • 草野球サークル、日露戦争中にアメリカへ行く――安部磯雄と早稲田野球部「チアフル倶楽部」の始動(後編)|中野慧

    2022-06-10 07:00  

    ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の‌‌‌第‌22回「草野球サークル、日露戦争中にアメリカへ行く――安部磯雄と早稲田野球部「チアフル倶楽部」の始動」(後編)をお届けします。早慶戦をはじめとして、今なお伝統を引き継ぎ続ける早稲田大学野球部。初の早慶戦と、日露戦争時のアメリカ遠征が「娯楽スポーツ」に果たした文化史的意義について考察します。(前編はこちら)
    中野慧 文化系のための野球入門第22回 草野球サークル、日露戦争中にアメリカへ行く――安部磯雄と早稲田野球部「チアフル倶楽部」の始動(後編)
    草野球サークル「チアフル倶楽部」の始動
     安部が尽力したいと考えた「スポーツを通じた国際交流、相互理解」はしかし、すぐに実行できるものではなかった。留学を終えて帰国し、1899年に東京専門学校(1902年に早稲田大学に改称)に講師としての職を得た安部は、留学中にテニスに熱中していた経験を買われ、1901年に運動部長を兼務することになった。  東京専門学校ではこれより以前に押川春浪によって野球チームが創られていたものの、その後は事実上消滅していた。しかし1901年に安部が運動部長になった当時、学生たちのなかで中学時代に野球経験のある者が比較的多かったという事情もあり、学生たちの間で自然発生的に野球チームが生まれていく。安部もそれを顧問のようなかたちでサポートをすることになった。  現代では「早稲田大学野球部」といえば学生野球界随一の名門であり、何か男らしさに圧倒されるような響きを持っている。しかし明治期には1880年代までに一高、慶應、学習院、明治学院などで野球部ができており、早稲田は創部当初は野球界では新興勢力で、決して上手な選手たちがいるチームではなかったという。が、草創期の早稲田野球部は「チアフル倶楽部」という、ややファンシーな名前であった。結成当初の早稲田野球部は近所の子どもたちにも馬鹿にされるほど弱いチームだったため「腕前はともかく元気だけはどこにも負けない」という意味が込められていた[1]。今とは違ってこのときの早稲田野球部は、牧歌的な草野球サークルのようなものであったと思われる。なお「元気」という言葉は、早稲田野球部に限らずこのあと生まれる天狗倶楽部にも共通したキーワードである。  草野球サークルは当然ながら活動場所が問題となる。チアフル倶楽部は、当初は早稲田のキャンパス内で練習したり、他校に出向いて試合を行ったりしていたが、やがて学生たちは「自前で広いグラウンドを持ちたい」と考えるようになった。そこで安部は大隈重信総長に掛け合って大隈の邸宅そばの田んぼを埋め立て中だった土地(大隈の所有地である)を融通してもらい、さらに部員たちと安部が一緒になって草むしり、整地などの肉体労働を行い、DIYで野球の試合ができるグラウンドへと整備していった。そこで安部自身も学生と寝食をともにし、ユニフォームを着て練習に打ち込んだ。このグラウンドはのちに戸塚球場と呼ばれるようになり、戦前期の学生野球の一大中心地となった[2]。  また、安部は部員の勧誘も熱心におこなった。なかでも、中学時代に名選手として鳴らしていた橋戸信(はしど・しん)を野球部に勧誘したのは後から見ると大きかったと思われる。橋戸は入学当初、知人の怖い先輩が野球部にいるのを恐れてテニス部に入部していたが、同じくテニスを嗜む安部が鎌倉で練習中の橋戸に出会って声をかけたのがきっかけとなり、野球部に入部した。さらにその後、中学で名選手として鳴らした押川清(おしかわ・きよし)、さらにピッチャーの河野安通志(こうの・あつし)も入部してきた。ちなみに押川清は、押川春浪の実弟である。  この時期に早稲田野球部に加入した橋戸、押川清、河野の3名はやがて天狗倶楽部のメンバーともなって、甲子園野球の前身「全国中等学校優勝野球大会」、日本初のプロ野球チーム「日本運動協会」、社会人野球の全国大会「都市対抗野球大会」の創設など、起業家精神に富んだ活動を次々と展開し、3人とも現在では野球殿堂入りしている。

    ▲橋戸信/橋戸頑鉄(1879-1936)。現在の都市対抗野球でMVPに贈られる「橋戸賞」の由来となった人物でもある。a Japanese baseball player, 橋戸頑鉄(Gantetsu Hashido),Public domain, via Wikimedia Commons, Link
    「早慶戦開始」の文化史的意義
     早稲田野球部が始動した1900年代初めは、まだ一高が野球界の覇権を握っていた時代だった。これまでも述べてきたように、日本の野球界には今も「一高的なるもの」を神聖視する向きが強い。ところが当時の一高野球部の実際の行状は、明らかにスポーツマンシップに反するものが多かった。「一高野球部は別に見習うべきものでも、伝統として重視すべきものでもない」ということが明確になるエピソードが幾つかあるので、ここで挙げておきたい。
     
  • [特別無料公開]マラソン大会は必要ない(「水曜日は働かない」第3話)|宇野常寛

    2022-06-07 07:00  

    本日のメルマガは、PLANETS編集長・宇野常寛の新著『水曜日は働かない』(ホーム社)から一部を特別無料公開してお届けします。「水曜日は働かない」という大胆なライフスタイルを、エッセイ集として提案する本書。今回お届けするのはマラソン「大会」にまつわるとあるエピソードです。「水曜日は働かない」でランニングに励む宇野常寛なりの、走ることを通してみえてくる暮らし方について綴ります。
    ※本日19:30開催のトークイベント「遅いインターネット会議」では、働き方改革PJアドバイザーの坂本崇博さんと、スキルのマーケットプレイス「ココナラ」代表・南章行さんをお招きして、「働き方」をテーマに議論します。ご視聴はこちらから。

    マラソン大会は必要ない(「水曜日は働かない」第3話)|宇野常寛
     気づいたときは既に手遅れだった。それも、決定的に。その連絡を受けたとき、僕は都内を走っていた。正確に述べれば、走り終