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  • 國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」 第4回テーマ:「恋人関係について」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.125 ☆

    2014-07-31 07:00  
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    國分功一郎「帰ってきた『哲学の先生と人生の話をしよう』」
    第4回テーマ:「恋人関係について」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.7.31 vol.125
    http://wakusei2nd.com

    國分功一郎の人生相談「哲学の先生と人生の話をしよう」最新記事が読めるのはPLANETSのメルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」だけ! 過去記事はこちらのリンクから。
    一昨年よりこのメルマガで連載され大人気コンテンツとなり、書籍化もされた哲学者・國分功一郎による人生相談シリーズ『哲学の先生と人生の話をしよう』。連載再開第4回となる今回のテーマは「恋人関係について」です。
    『哲学の先生と人生の話をしよう』第一期でも反響の大きかったこのテーマ。「ルールを決める」「フリをする」、「アニメキャラに恋している自分と向き合う」ーー國分先生ならではの切り口で、恋人関係に関するみなさんの悩みに答えていきます。
    ■【1】mさん 45歳 男性 埼玉 会社員
     
    恋人とはどういう関係なのでしょう。
    僕は一般的な恋人関係なつきあいかたも有りましたが
    彼女にもまた違うパートナーが居ることもしばしばで
    彼氏とも良好な関係でいてほしいと思っていました。
    恋人で無くなっても友人関係で時々デートする人もいます。
    仲の良い友達と、恋人の違いがよくわかりません。
    セックスの有無というのもザックリしすぎてイマイチしっくり来ません。
    何をもって友人と親友と恋人を分けるのか、どのくらいの関係の密さで分かつのでしょう。
    よろしくおねがいします。
     
     
    ■【2】ぽてりんさん 29歳 男性 東京都 会社員
     
    國分先生
     いつも楽しく拝見させていただいております。
    私は来年30になる男ですが、今まで女性と付き合ったことがありません。
    今まで一目惚れした経験はあるのですが、いざ行動に移る前に以下のように考えてしまいます。
    「人間は遺伝子に抗うことのできる唯一の生物だ。彼女への気持ちも、きっと私の中の遺伝子が子孫を残したいがために、生じさせているに違いない。この気持が遺伝子由来か、私自身から発しているものか精査しなければいけない。」
    などと考えているうちに、時間だけが過ぎ、現在に至ります。
    「恋愛関係について」とは少し議題が異なるかもしれませんが、恋愛状態において行動に至る契機、遺伝子ではなく、自分の意志で行動を起こしているという根拠、その行動が自分の意志から由来するものだと確実に分かる方法なないでしょうか。
    話が抽象的で申し訳ありません。ご意見をいただけると幸いです。
     
     
    ■【3】シュンさん 22歳 男性 北海道 大学生
     
    國分先生、初めまして。シュンと申します。
    僕は現在22歳、大学4年生で、付き合って9ヶ月になる3つ年下の彼女がいます。今日相談したいのは、彼女との関係、および僕の不可解な精神構造のことについてです。
    まず、僕が何を問題視しているかと言いますと、僕は心の底から他人を求めている一方で、心の底から他人を拒否していることです。僕はもともと寂しがりやで、常に他人が近くにいて欲しいと思っています。その一方、一定以上仲良くなろうとすると、なぜか拒否してしまうらしいのです。友達からは「なんか壁がある」と何度も言われたことがあります。
    前は友達との関係だったので、それほど悩んでもいなかったのですが、彼女と付き合い始めてから、深い関係になろうとしてもなれないことに愕然としました。彼女が本当にいて欲しいところ、心の深い部分にいないのです。精神的にもっと近くにいて欲しいのになぜかそれが叶わないのです。
    彼女の方に問題があるではないかと思われるかもしれませんが、彼女は僕を受け入れようとしてくれていますし、彼女には一切問題が見当たりません。そのことを彼女にも相談しましたが、「どうしたらいいのか分からないけど、できることがあるなら協力する」とのことでした。
    ちなみに原因を(國分先生オススメの)二村ヒトシさんの「心の穴」理論で考えてみたのですが、他人を拒否するほどの傷は思い当たりませんでした。単純に傷つくのが怖いとかそういうことなんでしょうか・・・。
    友達はまだしも、彼女と深いつながりを感じられないのは非常にツライです。何かアドバイスがあれば教えてください。よろしくお願いします。
     
     
    ■【4】イタイさん 20歳 女性 神奈川 学生
     
    はじめまして。私はアニメが好きなオタク女子です。
    突然ですが、私はとあるアニメのキャラクターと結婚したいと考えています。そのアニメは去年の夏、放送を終えましたが、その気持ちは収まっていません。
    彼の誕生日には愛妻弁当(という設定のもの)をつくったり、自分の誕生日に購入したデジタル一眼には彼の名前をつけました。彼との結婚生活を妄想するのも日課になり、その内容をTwitterのbotで垂れ流しています。
    そんななか、今年の夏にそのアニメの二期が始まることになりました。これは二期の放送前に書いていますが、二期に対して不安でしかありません。恐らくそれは、この一年の間に私が愛した彼と、二期のアニメに登場する彼は違う存在のような気がしてならないからだと思われます。
    彼に出会ってからは、彼氏がいないことになんの不安も抱えなくなっていました。私にとって彼は擬似彼氏的存在になっており、心の支えなのです。しかし、二期が始まることでその支えはとても不安定なものとなってきました。
    もし、この支えがなくなってしまったら私はどうすればいいのでしょうか。恋愛に対しての思考を全て彼に捧げてしまっているため、これから先自分がどうなってしまうか分かりません。私は彼にどう接していけば良いのでしょうか
    何かアドバイスがいただけると嬉しく思います。何卒、よろしくお願いいたします。
     
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
     
     皆さんこんにちは。暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。
     今回は「恋人関係について」というテーマで相談を募集しました。条件として、「結婚あるいは結婚に相当する関係の問題は除く」としておきました。
     このテーマを選んだのは、最近、学生に対して、「恋人関係は重要である。恋人関係は人生を大きく左右する」とお話しする機会が多くあったからです。
     結婚は公的な関係ですから、周囲がいろいろ言ってくれることもあるんですね。まぁ、口出ししやすい。
     けれども、いわゆる「付き合ってる」関係だと、全くもって私的な関係ですから、周囲はいろいろ言いにくい。しかし、それにもかかわらず恋人関係は生活に大きな影響を与えます。人生を左右することも稀ではありません。
     最近、恋人間のDVがきちんと問題として取り上げられるようになりました。とてもよいことだと思います。恋人同士であろうと、暴力が許されないのは当たり前です。
     でも、問題はそうした物理的な暴力だけではありません。言葉の暴力はもちろんですが、むしろ、そうしたDV的な関係の背景にある「心の支配」こそが最大の問題です。
     相手に心が支配されていると、ただ一方的に尽くすだけになってしまいます。周りから見ると恋人から搾取されているのは見え見えなのに、自分ではそれに気づかない。それどころか、「自分が頑張らなければだめなのだ」と自分に言い聞かせたりする。しかも、心のどこかで、搾取されているが見え見えであることも分かっているのでしょう、そうした関係を他人に対して隠すこともあります。
     二村ヒトシさんがこんなことを書いています。
     
    《「与えることが愛情だ」と思い込んで彼に尽くしまくった結果、ひどく傷ついている女性が、あなたの周りにもいませんか?/恋人を甘やかして、彼のムチャクチャな要求に応えつづけたり、侮辱されたのに彼が謝らなくても、許してしまったり。無理をして金品を貢いでいたり、肉体的・精神的な暴力を受け続けていたり。/それでも「いつか彼が変わってくれるのを信じている。彼を『まとも』に変えてあげられるのは私の愛だけ」と思ってしまう。/そういう女性は、自分が傷つけられることでしか「恋愛しているという実感」を得られなくなってしまっているのかもしれません。あなたも、自分がガマンすることが「彼を愛することだ」と勘違いしたり「彼を変えてあげられるのは、私だけ」と必死になった経験はないでしょうか。/でも、それは「相手を愛している」ことには、なりません》(『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』、p.31-32)。
     
     二村さんは「自分自身を受け入れていない人」がこうなる可能性が高いことを指摘しています。自分をきちんと肯定できていない人は、相手をきちんと肯定できないのでしょう。そして、きちんと自分を肯定できていない人を嗅ぎつける人間というのが世の中にはいて、近づいて来てその人間の心を支配するのです。
     二村さんの本は基本的に女性に向けて書かれているので、自分をきちんと肯定できていない女性のことが主に書かれているわけですが、こうしたことは男性にももちろん起こります。つまり、恋人関係において、男性が女性に心を支配される場合もあります。
     この「心の支配」の細かな分析はここではやりません。問題はそれに対処する方法です。僕はこれはそんなに難しくないと思います。周囲の人がきちんとそのことを指摘してあげればいいのです。
     「心の支配」とは何か?などと難しく考える必要はありません。見ていればすぐに分かるからです。それが見て取れたら、遠慮などしないで「お前さ、あいつとの付き合い方、ちょっとおかしいんじゃない?」とか言ってあげるのです。
     もしかしたら、そういうことを指摘されると怒り出す人がいるかもしれません。怒り出したら、その指摘が正しいということです。人は正しいことを指摘されると怒りだすのです。興奮が静まったら、そのことを言ってあげればいい。熱心にそれを否定し始める場合も同様ですね。
     ただ、分かってはいるのだが、なかなかその問題について切り出せないとか、別れられないという場合が一番面倒ですね。この場合は相当仲がよい友人でないと、根気よく話を続けることはできないかもしれません。それでも、周囲から一言でも指摘されることには意味があります。
     僕らは学校でいろいろなことを学びます。勉学はもちろんですが、それだけではない。クラスでの振る舞い方、対人関係なども学校で学んでいます。明らかに学校はそうした目的も考慮した上で設計されています。なぜならば、社会で生きていく上で、文章が読めたり、計算ができたりするのと同じように、対人関係が重要であるからです。学校制度はそのことを踏まえて作られているのです。
     ところが、学校は恋愛関係の学習をその目的から除外しています。学校には恋愛関係を教える機能はありません。そして、学校以外のところにも、恋愛関係について教えてくれる場はありません。不思議です。人間は生きていたらどうしたって恋愛を経験します。ところがそれについて教えてくれる場はないのです。
     僕は学校が恋愛を教えるべきだなどと言いたいのではありません(それは大変恐ろしいことです!)。学校が対人関係をも学ぶ場として機能していることの意味を考えれば、どこかで恋愛についても学べるようになっていて然るべきではないかと言いたいのです。
     二村さんの本などは大変その意味で有益です。恋愛について考える上で参考になる本を、もう一冊、紹介します。こちらは女性が書いたものです。綾屋紗月さんの『前略、離婚を決めました』(理論社、2009年)という本です。綾屋さんはご自身が幼い頃から抱えていた生きづらさから話を始めています。僕は、綾屋さんが、後に結婚し、そして離婚することになる彼氏との関係の中で感じていた楽しさとつらさの描写が心に刺さりました。
     また、これはとても勇気が要ることだったのではないかと思いますが、綾屋さんはセックスのことについてもお書きになっています。詳しくは説明しませんが、第五章「エッチと暴力」の「望まないセックスになだれこむ」という節はとても深く印象に残りました。 
  • 「ものづくり2.0――ハードウェアの思想が社会を変える」(8/1開催)のための覚書 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.124 ☆

    2014-07-30 07:00  

    「ものづくり2.0――ハードウェアの思想が社会を変える」(8/1開催)のための覚書
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.7.30 vol.124
    http://wakusei2nd.com

    PLANETSは8/1に、「ものづくり2.0――ハードウェアの思想が社会を変える」というイベントを、渋谷ヒカリエで開催する。今日はそのイベントにあたって、簡単に現在のメイカーズムーブメントや3Dプリンタ――すなわち、ものづくり2.0――を巡ってこれまでPLANETSがリリースしてきた記事の紹介も兼ねて、どういう興味から主催しているのかを紹介してみようと思う。◎文:稲葉ほたて
    ※イベントの詳細はこちらから
    http://peatix.com/event/44209/
     
     
    ■インターネット社会を背景に生まれた「ものづくり2.0」
     

    そもそも現在に至るメイカーズムーブメントが日本に紹介された
  • 2020年、押し寄せる大量の中国人観光客にどう対応するか? 6年後の東京に迫られる課題 ――社会学者・張彧暋(チョー・イクマン)インタビュー ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.123 ☆

    2014-07-29 07:00  

    2020年、押し寄せる大量の中国人観光客にどう対応するか?6年後の東京に迫られる課題
    ――社会学者・張彧暋(チョー・イクマン)インタビュー
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.7.29 vol.123
    http://wakusei2nd.com

    【PLANETS vol.9(P9)プロジェクトチーム連続インタビュー第11回】 

    本日のほぼ惑では、「PLANETS vol.9(特集:東京2020)」インタビューシリーズの特別編として、
    香港中文大学の張彧暋(チョー・イクマン)氏にお話を伺いました。「外国人にどう東京の・日本の魅力をアピールするか」ではなく、押し寄せる中国人観光客にどう対応するのか。そして日本ポップカルチャーの東アジアでの「実際の受け取られ方」とは――!?


    ▼プロフィール張彧暋(チョー・イクマン)1977年香港生まれ。香港中文大学社会学研究科卒、博士(社会学)。
  • 週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会~7月14日放送Podcast&ダイジェスト! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.122 ☆

    2014-07-28 07:00  
    220pt

    週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会~7月14日放送Podcast&ダイジェスト!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.7.28 vol.122
    http://wakusei2nd.com

    毎週月曜日のレギュラー放送をお届けしている「週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」。
    前回分の放送のPodcast&ダイジェストをお届けします。
    7月14日(月)21:00~放送※7月21日(月・祝)の放送はお休みでした
    「週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」■(宇野常寛海外渡航中につき)代打パーソナリティ
    濱野智史(情報環境研究者・アイドルプロデューサー)
    twitter
    http://twitter.com/hamano_satoshi
     
    ■ゲスト
    PIPメンバー
    「アイドルをつくるアイドル」をコンセプトとして、濱野智史さんがプロデュースするアイドルグループ「PIP:Platonics Idol Platform」のメンバーが登場!
    登場メンバー:石川野乃花・牛島千尋・空井美友・鈴木伶奈・豊栄真紀・羽月あずさ・濱野舞衣香・森崎恵・山下緑・柚木萌花
    PIP公式サイト
    http://platonics.jp/

     


    ▼7/14放送のダイジェスト
    ☆オープニングトーク☆
    今週は宇野常寛が海外渡航中につき、濱野智史さんが代打パーソナリティを担当! 濱野さんが「patagonia」の同じ柄のTシャツを8枚所有している理由とは!? そして、PIPのコンセプトとその狙いとは?
    ☆PIPメンバー紹介☆
    ラジ惑史上過去最大の10人ゲスト!PIPメンバーが各30秒で自己紹介していき、ニコ生アンケートで印象的だった3人を選抜してトークします。
    ☆ムチャぶりスケッチブック☆
    トミヤマDが考えた話題からニコ生アンケートでトークテーマを決定。今回は「集団的自衛権について」牛島千尋さん、森崎恵さん、山下緑さんにお話いただきます。どりーこと山下緑さんは、自身の政治的心情を明らかにします!
    ☆48開発委員会☆
    PIPのドルオタメンバー石川野乃花さん、豊栄真紀さん、濱野舞衣香さん、柚木萌花さんが、それぞれの推しメンの魅力を語ります。もかろんこと柚木さんNMB48薮下柊ちゃん論がアツい!
    ☆今週の一本☆
    空井美友さん、鈴木伶奈さん、羽月あずささんが、自分がいちばん語りたいものについて自由にトーク! 空井さんは千葉ロッテの魅力について熱弁をふるいます。
    ☆メール読み☆
    これまでのコーナーで活躍したメンバーでメール読みします。「PIPでやってみたいことは」という質問に、山下緑さんが児童養護施設をつくるという夢を語ります。
    ☆延長戦トーク☆
    メンバー全員登場で、今回の放送の感想トークをします。濱野Pからの公開ダメ出しも!?


     
  • ディズニー、ピクサー、ジブリ…『アナ雪』大ヒットから見えるヒロイン像の"後進性"ーー石岡良治×宇野常寛が語る『アナと雪の女王』 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.121 ☆

    2014-07-25 07:00  
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    ディズニー、ピクサー、ジブリ…『アナ雪』大ヒットから見えるヒロイン像の"後進性"――石岡良治×宇野常寛が語る『アナと雪の女王』
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.7.25 vol.121
    http://wakusei2nd.com

    本日のほぼ惑は、自宅警備塾でお馴染み批評家の石岡良治さんと宇野常寛の語る『アナと雪の女王』です。『アナ雪』の大ヒットから逆説的に見えてきたのは、ディズニーの遥か先を走っていたはずのピクサー、そしてジブリが直面する「テーマ的な行き詰まり」だった――?

    初出:サイゾー2014年7月号
     

    ▲アナと雪の女王 MovieNEX [Blu-ray]
     
    ◎構成:清田隆之
     
    ■ピクサー化するディズニー・アニメの象徴としての『アナ雪』
     

    宇野 『アナと雪の女王』はまず、予告編で「Let It Go」のシーンを観たときに、「ディズニーは、この作品にものすごい自信があるんだな」と思ったんですよ。それで実際に観てみたら、まぁやりたかったことはわかるのだけど、作品としての出来がいいとまでは思えなくて、予告編の期待は超えなかったですね。
    『アナ雪』の話をするにあたっては、前提として、ここ10年くらいのディズニー映画とピクサー映画の流れについて言及しておく必要があると思う。アニメファン的に見ると、ディズニーとピクサーって技術的にはそこまで差がないんだけど、ゼロ年代は特にシナリオは圧倒的にピクサーのほうが上だと言われていた。『モンスターズ・インク』(01年)、『ファインディング・ニモ』(03年)、『Mr.インクレディブル』(04年)など、圧倒的にシナリオワークの優れた作品を連発していたピクサーに対して、ディズニーはいまいちな作品ばかりだった。家族観・ジェンダー観にしても、旧来のディズニーは古典的なプリンセス・プリンスもの、ボーイ・ミーツ・ガールの話をベタに描いていたのに対し、ピクサー作品は、例えば『Mr.インクレディブル』だったら「古き良きアメリカの強い父」みたいなイメージがもう通用しないというところから出発していたように、時代の移り変わりや新しい家族観・ジェンダー観を取り込むことによって重層的な脚本を実現してきた。言い換えるとそれは親世代、つまり団塊ジュニア世代の記憶資源に訴えかけながら、子どもも楽しめる物語をどう作るか、ということ。一つのストーリーで大人にはイノセントなものの喪失の持つ悲しみを、子どもには古き良きアメリカのイメージを、その記憶を持たないことを利用して輝かしいものとして提示する、というのがピクサー的、ジョン・ラセター(※1)的なものの本質だと思うわけ。これは『トイ・ストーリー』から、最近のピクサー化しつつあるディズニーの『シュガー・ラッシュ』(※2)まで通底している。要するに、この流れはさまよえる現在の男性性をテーマにしてきた流れだとも言える。
     
    (※1)ジョン・ラセター…ピクサー設立当初からのアニメーターであり社内のカリスマ。06年にディズニーがピクサーを買収し、完全子会社化したことでディズニーのCCO(チーフ・クリエイティブ・オフィサー)に就任。ディズニー映画にも多大な影響を及ぼしているという見方がなされている。
     
    (※2)『シュガー・ラッシュ』…公開/ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ(13年/日本)。アクションゲームで何十年も敵キャラを演じることにうんざりしたラルフが、別のゲームの中でヒーローになろうとしたことから、複数のゲームの世界を舞台にした騒動が巻き起こる。
     
    じゃあ、『アナ雪』は何か、というと、ここでもう自信喪失したおじさんたちの話はやめよう、ってことなんだと思う。自信喪失したおじさんたちの回復物語はもうやりつくしたので、自分探し女子の物語に切り替えて新しいことをやろう、ってことなんでしょうね。この決断は良かったんじゃないかと思う。その結果、出てきたのが最終的に王子様のキスではなく、姉妹愛というか同性間の関係性で救済される新しいプリンセス・ストーリーだった、ってこと。ディズニーといえばおとぎ話的な「いつか白馬の王子様が……」的な世界観でやってきていて、まあ、現代的なそれとは到底相容れないアナクロな世界観が維持されている文化空間なわけで、そこからこの作品が出てきたので、みんなこれは新しい、感動した、って言っているわけだけど……。うーん、それって、あくまでディズニーの過去作と比べたら今時のジェンダー観に追いついているってことに過ぎないんじゃないかって思うんですよね。この作品に何か特別なものがあるとは思えない。
    石岡 僕はまず、歌のバズり方自体に興味を持ったんですよ。これは日本特有だと思うけど、「Let It Go」が「ありのままで」と訳されて、「意識高い」女性に大受けしてますよね。あの歌って、いろんなところで指摘されているように、いわば邪気眼というか厨二病の能力解放の歌だと思うんだけど、それを”自己啓発系”の歌として読んじゃうっていうのは、ある意味で痛快ですよね。つまり、普段は邪気眼的なものに共感を示さないような女性に、「これは私のことだ!」と感じさせているわけで、うまいといえばうまい(笑)。
     歌に関してはもう一つあって、これもいろんな人が指摘していることだけど、歌とストーリーの意味がズレまくっているというのが『アナ雪』の特徴ですよね。クライマックスでアナが凍る場面なんか、本来ならミュージカルナンバーを入れたら盛り上がるシーンなのに、すごく静かで引きの画になっている。そういうふうに、感情移入の操作をズラしている感じがした。ある意味では「Let It Go」が物語全体を食い破っているんだと思う。もともとはエルサがもっと悪役になる予定だったのが、歌があまりにもいいからナシにしたという説もあるくらいで、シナリオ全体にいびつなところが多い。ハンスやクリストフの背景の描き方も不十分だし、アナたちの両親である王と王妃も、あまりにあっさり亡くなってしまう。これは僕の推察だけど、おそらく一度シナリオが出来上がってから間引いてカットしていったんじゃないか。だけど省いた後の隙間を埋めきってなくて、ちょっとデコボコしたままで放り出しているところがあって。僕はこの作品を2回観たんですが、1回目に観たときにシナリオに完成度を感じなかった理由はそこかな、と。
    宇野 単純に考えれば、『アナ雪』って描写不足の作品だと思うんですよ。なんで姉が妹をうらやみ、妹が姉に憧れているのかも、あの描写からは好意的に想像を膨らませないと補完できない。はっきり言ってしまうと、後半のあの展開にもっていくためには前半のプロローグ部分の処理はすごく甘くて、細かい描写や芝居でキャラクターを立たせることに失敗している。それがこの作品の弱点なんだけど、むしろ興行的にはプラスになった側面もあると思う。描写不足によって歌のシーンが半分作品から遊離することで、観る人が逆に「これは私だ!」と自分の物語に没入させやすくなっていて、それが泣く女子を大量発生させた一因になっている。歌パートの出来の良さとドラマパートの描写不足が、結果的に功を奏してしまっているのも『アナ雪』の特徴だと思う。
    石岡 それとは別次元で、単純に映像が素晴らしかったというのもあると思う。雪や氷の表現を観ているだけで、わくわくする部分があった。「Let It Go」のシーンでの、雪を踏んだら氷が結晶の形にバーン!と広がるところとかね。ディズニーはこれまで技術的達成を見せつけるようなことをやってこなかったから、『アナ雪』の映像表現には意外性を感じた。「Let It Go」にはそれらが全部集まっているわけで、あの歌が圧勝するのは当然といえば当然なんですよ。
     
     
    ■ディズニーの無限更新とジブリが感じるべき脅威
     
    宇野 しかしこの映画で描かれている女性性って、現代の先進国のジェンダー観からすれば当たり前のものだし、確かにディズニー映画のような大作では初めてかもしれないけど、女の子の自分探しみたいな話は、日本のマンガやテレビドラマではずっと以前からやってきたわけで。そこを今さら「革命的だ!」とか言われても、「この人たちは国内のコンテンツをちゃんと見てこなかったんだな」って気分になってしまう。国内の少女マンガでもテレビドラマでも、この程度の「王子様幻想の相対化」って大前提でしょう? じゃあ、姉妹ものとして優れているかって言うと、むしろそこは粗い作りでスカスカに見えるんですよ。
    石岡 ディズニーにはウォルト(※3)の”超・家父長制”というか、保守オヤジみたいなイメージがあって、いまだにその観点から批判を受けているわけです。 
  • 【現代ゲーム全史】「ロマサガ」「メガテン」「オウガバトル」――オルタナティブを模索する準大作シリーズ群 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.120 ☆

    2014-07-24 07:00  
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    【現代ゲーム全史】「ロマサガ」「メガテン」「オウガバトル」――オルタナティブを模索する準大作シリーズ群
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.7.24 vol.120
    http://wakusei2nd.com

    今日のほぼ惑は、大好評の中川大地さんによるゲーム史連載。今回は「ロマサガ」「メガテン」「オウガバトル」などの準大作RPG、および18禁からの「恋愛ゲーム」の発生について解説します。
    ■オルタナティブを模索する準大作シリーズの爛熟

     
     『ドラクエ』系の流れを汲むチュンソフトが、「王道RPG」との差別化として物語を読ませる「シナリオ」とゲームとして遊ばせる「システム」の分化・特化に向かっていったのに対し、看板に『FF』を擁するスクウェア系の開発者たちからは、あくまでシナリオとシステムの高度な複合形態としてのRPGの総合性を徹底的に追求する中で、二大RPGとは異なる体験性を提供していこうとする数々のアプローチが見られた。
     その最たる存在が、河津秋敏らのチームが1992年にスーファミ向けに送り出した『ロマンシング サ・ガ』シリーズであろう。ゲームボーイ用RPG『魔界塔士Sa・Ga』(1989年)に始まる『サ・ガ』シリーズの第4作目として登場した本作は、正解となるストーリー進行の手順を固定せず、プレイヤーがラスボス攻略までのルートを幅広い行動自由度の中から任意に歩んでいける「フリーシナリオ」制を最大の特徴としていた。
     システム面でも、一般的なレベル制を排して、戦闘経験値の蓄積と各パラメーターの上昇をダイレクトに結びつけたり、使用する武器ごとの熟練度を設けたりするなど、より細かい能力強化システムを導入。展開の自由度とともに、RPGが英雄譚の構造を模するために大雑把に「レベル」という概念で不連続化していた約束事を見直し、よりシームレスな成長の在り方にすることで、プレイの体験性をより「現実」に近づけようという哲学で設計されていたのが、『ロマサガ』だったわけだ。
     自由度や現実性を導入しようとするシステム自体は、主に欧米のパソコンRPGで草創期から工夫されていたものだったが、主人公=プレイヤーという素朴な図式が貫かれ、物語自体の描写演出は無いに等しかった草創期RPGとは違って、美麗なイラストとデフォルトネームが付いた主人公キャラクター陣から一人を選んで「他人の物語」に寄り添っていくという構図は、あくまで『FF』以来のものだ。その意味で、チュンソフトの「サウンドノベル」シリーズと同じく、プレイヤーにはインタラクティブな操作を通じて多彩に分岐していく物語を享受者する視座も与えられており、行動の主体者と鑑賞者のあわいを衝く様々な中間形態が、この時期の物語ゲームでは積極的に追求されていたと言える。
     このように『ドラクエ』『FF』の二大「国民的」シリーズとの差別化を目指す対抗シリーズでは、プレイの自由度や複雑性を高める実験的な新機軸が模索され、相対的にコアなマニア層向けの作風にならざるをえなかった。そのため、ゲームシステム上の高度化にともない、必然的にシナリオや題材意匠の面でも、勧善懲悪式の単純な英雄物語を脱するようなハイターゲット向けの作品性に向かってゆく。
     そうした独自の方向性の追求の果てに、「第三勢力」とも呼べる規模で特に大きな系譜を築いたのが、アトラスが92年にリリースした『真・女神転生』シリーズであろう。『ロマサガ』が先行する「サガ」シリーズのリニューアル作だったように、『真・女神転生』もファミコン時代の『デジタル・デビル物語 女神転生』(ナムコ 1987年)を皮切りに継続していた『女神転生』シリーズを衣替えするタイトルとして登場した。
     もともと『メガテン』シリーズは、描画スペックの限界からRPGといえば「剣と魔法」のファンタジーと相場が決まっていた当時から、現代の東京などを舞台にしたサイバー伝奇ロマン風の世界観を採用し、永井豪の漫画『デビルマン』のように悪魔が人間の世界に介入していくというモチーフで異彩を放つ存在だった。とりわけシステム的には、敵モンスターを味方パーティに引き入れられる「仲魔」の要素や、仲魔同士を掛けあわせて強力化する「悪魔合体」といった仕組みをシリーズのアイデンティティとして確立し、『ドラクエV』のモンスター捕獲・育成システムをはじめ他のRPGにも広範な影響を与えていた。
     これらの基本システムを継承発展させつつ、スーファミの表現力によってイラストレーターの金子一馬によるスタイリッシュなキャラクターデザインへの漸近度や、同時代の吉祥寺というリアリスティックな舞台の再現度が向上したことで、『真』に至って『メガテン』シリーズのポテンシャルが従来以上の規模で受け入れられることになる。 
  • ゲームと物語のスイッチ ――ゲーム研究者・井上明人が考える『ゲーム的快楽』の原理 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.119 ☆

    2014-07-23 07:00  
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    ゲームと物語のスイッチ――ゲーム研究者・井上明人が考える『ゲーム的快楽』の原理
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.7.23 vol.119
    http://wakusei2nd.com

    (初出:『PLANETS vol.7』2010年)
    本日のほぼ惑は、ビジネスへの応用可能性でも注目を集めている「ゲーミフィケーション」研究の第一人者・井上明人さんの論考です。小説や映画のような「物語」と、「ゲーム」というジャンルの違い、そして、物語の快楽をときに凌駕する「ゲーム的な快楽」の正体について、哲学的に解き明かしていきます。

    ▼プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。国際大学GLOCOM客員研究員。ゲーム研究者および、ゲーミフィケーションの推進者。2010年日本デジタルゲーム学会第1回学会賞(若手奨励賞)受賞。2012年CEDEC AWARDSゲームデザイン部門優秀賞受賞。著書に『ゲーミフィケーション』(NHK出版)。

     
     
    ゲームと物語のスイッチ/井上明人
     
     「ゲーム」と「物語」という二つの相性の悪さは、コンピュータ・ゲームの歴史においてしばしば大きな問題となってきた。「映画的ゲーム」「一本道RPG」「自由度」「ゲーム性」といったゲームに関わる評価の形容が使われるとき、この二つの相性の「悪さ」について言及されることが極めて多い。
     本稿は、物語とゲームという二つの現象をどのように整理することができるのか。その問題についてささやかな整理を試みたい。物語とゲームという概念は思われているほどに相性が悪いものではなく、むしろ連続した概念である。そのことを、素描してみたいと思う。
     なお、本稿で「物語」という術語を使うとき、narrativeとよばれることの多い領域を意識している。storyやシナリオといった領域は本稿の範囲を超えていることを予め述べておく。*1(*1Jerome Bruner "Making Stories: Law, Literature, Life", Harvard   University Press (2003))
     
     
    I.物語(Narrative)と、ゲーム。二つの連続について。
     
     物語と、ゲームはしばしば、同じようなものとして語られることがある。たとえば、次のような二つの表現を考えてみよう。
     
    A お金持ちになって成功することが全て、という物語の中を生きている人
    B 資本主義の金儲けのゲームの構造の中で勝ち抜くことこそが全てだと考える人
     
    AとBの二つの表現から想像される人物像は、「物語」と「ゲーム」という二つの異なる表現を用いながら、ほとんど似たようなものを表現しているように思えるはずだ。何よりもお金を大切にしている人。お金を自分自身の人生にとって最も重要なものだと考えているような人。「物語」と「ゲーム」という別のものを介して表現されながらも、素描される人格は似たようなものだ。
     一方で、ゲームと物語は全く別の現象でもある。また別の二つの事例を挙げる。
     
    C ビル・ゲイツの伝記を読んで、マイクロソフトの成長プロセスを知ること
    D ビル・ゲイツの人生をモデルにしたゲームをプレイし、ゲームの中のマイクロソフトを成長させること
     
     この二つはビル・ゲイツとマイクロソフトに関わる知識を与える、という点では同様のことを可能にしているが、CとDでは様々な点が違っている。ビル・ゲイツの伝記を読めば、彼がどこの大学に入学していたのか、マイクロソフトが成功するまでのプロセスでどういった困難に直面したのか、といったことがわかるだろう。一方で、ビル・ゲイツのゲームを遊べば、どういった構造的な困難を持っていたかということが理解できたりもするだろうし、もしかしたらマイクロソフトがアップルを買収したり、Googleを買収したりすることもできるかもしれない。または、ゲームをスタートさせた初期にIBMに買収されてしまってゲームオーバーになるかもしれない。マイクロソフトがこの30年の間にどれだけスリリングな状態にあったのかを、構造的に理解するという点ではゲームの方が優れた理解を与えるかもしれない。ただし、現実に存在するマイクロソフトがどのような選択を実際に行ったのか、という確定した歴史を知るという意味ではビル・ゲイツの伝記を読んだ方がいいだろう。ニ〇〇九年現在のマイクロソフトは、Googleを買収していないし、IBMに買収もされていない。それは、歴史のifに過ぎない。
     「ゲーム」も「物語」も、ともに何かの対象を描き出すことのできる手段だと捉えられる。同じものを描き出すこともできるが、その描き出し方には大きな違いがある。その違いがほとんど問題にならないような場合もあれば、大きく問題になるような場合もある。
     いかなるときに、ゲームと物語は同一のものであり、いかなるときにゲームと物語は異なるものとなるのだろうか。
     
     
    II.出来事の連なり、繰り返す出来事の連なり
     
     整理してみよう。
     まず、先ほどと同じようにゲームと物語の差が問題にならなさそうな事例を考えてみる。
     
    E 自らのルールに世界を従わせるために、戦争を繰り返そうとする人の物語
    F 勝者のみが、ルールを決めることができるという戦争のゲームをする人
     
     (具体的な状況が頭に浮かびにくい人は『ゴッドファーザー』や『アドルフに告ぐ』などを思い浮かべてもらいたい)
     さて、ここで試しに「人」という要素を抜いてみよう。
     
    G  自らのルールに世界を従わせるために、戦争での勝利を繰り返す物語
    H  勝者のみが、ルールを決めることができるという戦争のゲーム
     
     この二つの文はE・Fと比較して、文意が変わってしまっている。しかしどのように変わってしまったのだろうか
     まず、共通する要素から考えてみよう。ここで対象とされている物語とゲームには共通して、「勝利したならばルール設定権を持つ」という順序が存在することが述べられている。
     ただし、G・Hでは、この順序の扱い方が決定的に違っている。G(物語)では、これは単なる一つの事柄の推移について述べたものだが、H(ゲーム)ではこれは因果性として規定されている。「勝利したならばルール設定権を持つ」を持つ、ということがG(物語)の記述では本当に妥当かどうかはわからない。勝利しても、ルールの設定権を持てないかもしれない。しかし、H(ゲーム)の記述では、勝利すれば、ルールの設定権が得られること自体が述べられている。「ある事柄Xがあり、そしてYという結果が得られた」という二つの物事の関係は、必ず起こることなのか、それともたまたまそのケースで起こることなのか。二つは別の事柄である。
     しかしE・Fのように、「勝利→ルール設定権を持つ」という構造を信じる「人」を対象として記述してしまえば、この違いはかなりの程度まで隠蔽してしまうことが可能になる。勝利すれば、ルール設定権が得られる筈だ、と考えて行動する人の行動はほとんど同じものになるはずだ。もっとも、「勝利→ルール設定権を持つ」ということが必ず起こると信じている人と、数ある可能性の一つとして考えている人とでは、色々な違いはあるかもしれない。だが、思考の結果として実行される、行動の記述としては、かなり近い振る舞いとして理解ができるだろう。
     ゲームと物語。両者ともに、二つ以上の事柄の推移について述べたものである。一方は、これを因果関係として規定し、一方はこれを一つの結果(先後関係)として規定する。
     別の例を考えてみよう。例えば、「努力する全ての人は、必ず報われる」ということを信じている人がいるとしよう。この人が、努力すれば報われる、ということを信じている理由は、
     
    I ある努力家が、ある成功を収める物語
     
     を読んだからだったとしよう。『キュリー夫人』でも『マハトマ・ガンジー伝記』でも何でもかまわないが、そういった偉人伝を沢山読んでいる人が、努力すれば報われる、と信じるとする。だが、実際には、全ての努力が必ず報われるわけではないかもしれない。物語は、ゲームの構造を推測させる手がかりとして機能させることはできるかもしれないが、努力家十人が、大きな成功を収めた物語を観察できたからと言って、
     
    J 全ての努力家が、必ず成功を収めるゲーム
     
     であることを保証できるわけではない。むしろ、成功した十人の裏側で、悲惨な目にあった一〇〇人の努力家と、特に成功したわけでも没落したわけでもない五〇〇人の努力家がいたとすれば、
     
    K 一定の条件を備えることのできた努力家ならば、成功を収めるゲーム
     
     かもしれない。
     さらに、これでコンピュータ・ゲームとして作ろうと思ったら「一定の条件」が何なのかを決めておく必要があるだろう。サイコロを降ったら決まるのか、それとも特定のキャラクターを選んだら決まるのか、あるいはキリスト教徒の英語話者であることを条件とするのか。ゲームスタート時の資金が一定以上、というのでもいい。
     ただし、物語では、それが細かく決定されていなくともかまわない。「ビル・ゲイツが成功した」物語を書くために、それがビル・ゲイツの頭が良かったからなのか、努力家だったからなのか、白人だったからなのか、たまたま子供の頃からコンピュータに触れる環境があったからなのか、周囲の友人や知人が彼を見限ることがなかったからなのか。ビル・ゲイツが成功した条件を細かく決めることができなくとも、ビル・ゲイツが成功した経緯について物語としてまとめることは可能だ。物語は、事柄の順序の推移を扱うことで成立することが許される。「ある人が、成功する物語」は成功に関する物語として読めるものになるだろう。しかし「ある人ならば、成功するゲーム」は成功に関するゲームとして遊べないはずだ。たまたま、ビル・ゲイツに生まれれば成功し、ビル・ゲイツに生まれなかった人は成功しないゲーム。ゲイツに生まれればそれでゲームクリアだし、ゲイツに生まれなかったら、ゲームオーバー。それは、五秒で終わる「ゲイツ出生ゲーム」になるかもしれないが、「成功」に関してはプレイしようがないゲームになる。
     ここまでの議論を整理しておこう。
     
    1.ゲームと物語は、ともに二つ以上の事柄の推移について述べたものである。(それゆえに、同じような概念として用いることが可能な場合がある)
    2.物語は、二つ以上の事柄が順序的に結びついた事例について扱う(Xがあり、Yがあった)。ゲームは、二つ以上の事柄が因果的に結びつく状態を扱う(XならばYとなる)
     
     
    III.ハリーポッターは物語ではない、ドラゴンクエストはゲームではない:純粋な物語/純粋なゲーム
     
     以上をふまえて、たとえば『ハリー・ポッター』シリーズは物語ではない。という主張をしてみたい。正確に言えば純粋な物語ではない。話がつまらない、などと言っているわけではない。
     『ハリー・ポッター』は、とても説明の多い話だ。魔法学校の規則、魔法の唱え方、魔法世界の歴史等々…。そのため、第一巻を読み飛ばして、二巻、三巻を読もうとすると少しわかりにくい。二巻、三巻から読み始めても、ある程度わかりにくそうな部分については少し説明はついているが、基本的には読み進めていった読者に対して重複する説明は行われない。
     そして、何度も魔法が使われ、何度も戦いがあり、何度も魔法学校での夜にベッドを抜け出すスリルを味わうという子供達の冒険の話だ。『ハリー・ポッター』では、こうした繰り返し構造が、多様されている。昨日の夜に壁として立ちはだかっていたものを翌日の夜に、別の手法を用いてクリアーする。最初の戦いでキーとなったものが、次の戦いではあたりまえのように使われたりする。これは『ハリー・ポッター』に限ったことではないだろう。
     読者は読み進めるにつれて、繰り返される出来事を覚えていくし、慣れていくし、全く同じ繰り返しでは、面白がらなくなる。そして、繰り返される部分のいくつかを覚えていなくては楽しむことが難しくなってくる。特に、五巻目、六巻目になってくると、はじめのほうのハリーと、敵の勢力とのそれまでのやりとりを忘れていると、ちょっと思い出さないことには厳しいこともあるだろう。
    また、あたりまえのことかもしれないが、起承転結が存在しているので、最後の10ページだけを読んでも、そこにたどり着くまでの話の流れを追っていないと、楽しむことはできない。
     ざっと、説明すると、『ハリー・ポッター』シリーズというのはこういうものだ。別にとりたてて、ものすごく変わった部分を見つけ出して話をしてみようとしているのではない。『ハリー・ポッター』を読んだことが無いのであれば、何か別のシリーズものの話を思い浮かべてもらってもいい。
     ここまでで区別しておきたいことは二つある。(1)順序による理解と、(2)定着による理解だ。「前を読んでいないと、次を読み進めてもわからない」ということ。「何度も出てきたことに慣れておかないと、次を読み進めてもわからない」ということ。この二つのことだ。
     もう少し形式的に整理すると、こういうことだ。
    ・Aという事柄が起こり、次にBが起こり、次にCが起こり、最後に結末Dが起こった、という起承転結の展開を持つ物語ABCDがあるときに、結末Dだけを読んでも、物語ABCDを理解できない。しかし、A.B.C.Dを読めば理解できる。(順序的理解)
    ・事柄X→Y→Z、X→Y→Z、X→Y→Z…と同じことが複数回繰り返されたとき、読み手はその繰り返しに慣れて事柄X→Zというショートカットをするようになる。そして、そのショートカットを前提として、事柄X→Z→結末Dという展開があるとき、物語XZDの結末Dだけを読んでも理解できないのはもちろん、X.Z.Dを通して読むだけでもYが欠落するため理解できない。X→Y→Zに慣れた上でX.Z.Dを通して読めば理解できる。(定着的理解)
     『ハリー・ポッター』は、小説なので、もちろん一般的な起承転結の構造を備えている。『ハリー・ポッター』シリーズの五巻の結末Dだけをいきなり読んでも、五巻の内容を理解できない。これは、五巻をはじめから読んでいないからだ。これは読む順序を無視したからだ。コンテクストがわからない。
     しかし、五巻の内容だけを読んでも、結末Dは十分に理解できない。『ハリー・ポッター』の第一巻~第四巻までの間で、読者の間に読み方のリテラシーが作られているからだ。X→Y→Zという展開から、Yが抜け落ちて、X→Zというショートカットがある。抜け落ちたYの存在を理解できなければ、わからない。
     こうした区分は将棋や囲碁、コンピューター・ゲームが作品世界内で重要な役割を担う場合に際立っている。
     囲碁や将棋は、一〇〇m走などと違って、世界トップクラスの達人の対戦を見ていても、さっぱり凄みがわからないものだが、『ヒカルの碁』『月下の棋士』『ハチワンダイバー』は囲碁や将棋を題材としながら、囲碁や将棋がわからなくてもどうにか楽しめるようにうまく話の内容を作っている。「歩が弱くて、飛車・角が強い」「王将を取られたら負け」程度の最低限のルールさえわかればどうにか楽しめる。
    一方で、『遊戯王』『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』といった漫画は、読者のほとんどが対象とするコンピュータ・ゲームを長時間にわたって遊んでいることを前提として描かれている。『遊戯王』の一部のセリフを切り取ってみるとこんな形だ。
     
      速攻魔法発動!バーサーカーソウル!(バーサーカーソウル!?)
      手札を全て捨て、効果発動!
      こいつはモンスター以外のカードが出るまで何枚でもドローし墓地に捨てるカードだ。
      そしてその数だけ、攻撃力1500以下のモンスターは
      追加攻撃できる!!(攻撃力1500以下!? ハッ……あの時……)
     
     『遊戯王』を遊んだことのない読者には、何を言っているか、ほとんど理解できないだろう。『遊戯王』を数十時間は遊んだことがあるが、その程度の『遊戯王』世代(一九八〇年代後半~九〇年代前半生まれ)でない人間にとっても、ほとんど何を言っているかわからない。最初から読んでいけば(一応)何を言っているのかわからなくない配慮が最低限はなされている(のだろう)が、これは読む「順序」だけでは、読み方の「定着」を覆すことができないということの、顕著な事例だ。少なくとも筆者はさっぱり理解できなかった。
     『遊戯王』は、読む順序を守っただけでは、ほとんど読むことができない。X→Y→Zを、X→Zというショートカットができなければ意味がわからない。『遊戯王』は、物語であると同時にゲームでもあることを了解した時に、はじめて読むことが可能になる。
     『ハリー・ポッター』は、第一巻から読めば、X→Y→Zを、ショートカットすることができる程度に、繰り返し登場する要素についての配慮を備えている。魔法学校や、魔法の世界の歴史が登場するとは言っても、そこまで複雑すぎず、覚えることが可能な程度のペースで配慮がなされている。だが、第五巻をいきなり読み、すべてを理解することはできない。『ハリー・ポッター』はシリーズとしての繰り返し構造を持っている。この繰り返し構造の中で、順序に沿った理解という以外に、この世界の決まり事を定着して理解しておくことが要請されている。『ハリー・ポッター』シリーズ全体を一つの小説とみなせば、『ハリー・ポッター』は順に読んでいくことで読むことができる。しかし、『ハリー・ポッター』シリーズのうちのどれか一つだけをランダムに抜き取っても、『ハリー・ポッター』を十分に読むことはできない。物語が物語でなくなる地点―――繰り返す事象への「慣れ」を前提とすることが『ハリー・ポッター』を理解することを可能にしている。
     そして、『ハリーポッター』に適用したこのロジックを裏返すことで、『ドラゴンクエスト』はゲームではない、という主張を作り出すことが出来る。正確に言えば純粋なゲームではない。すなわち、『ドラゴンクエスト』というゲームは「特定の順序」に関する理解を介さなければ、ゲームプレイの仕方の「定着」だけではプレイできないゲームだ、ということだ。
     これを理解するためには、「特定の順序をもたないドラゴンクエスト」というものを考えてみればわかりやすい。竜王、スライム、キメラが場所を問わずにランダムに出現し、竜王の城へとかかる虹の橋がかかっているかどうかもランダムに決まる……そのような「ドラゴンクエスト」を想像してみたとき、それは、おそらく『ドラゴンクエスト』とは別物、としてしか考えられないだろう。『ドラゴンクエスト』では、竜王はラストダンジョンの最後に構えているものでなければならず、虹の橋は虹のしずくを手に入れた結果としてきっちりと架かっているものでなければならない。
     その一方で、たとえば将棋はどうか。一つ一つの棋譜を見れば、特定の順序をもったものだが、特定の棋譜に従った理解をしなければ、今、勝負している将棋そのものが理解できないということはない。将棋は、特定の順序を理解していなくとも、将棋の規則についての理解が定着していれば、盤面を読み、楽しむことができる。その後の時系列の順序を思考する能力(定着的理解に基づいた思考)は必要だが、現在に至るまでの過去の順序/歴史(順序的理解に基づいた思考)というものを前提としなくても、楽しむことが可能だ。ある盤面に至るまでの経緯や、対戦者の固有名詞を知ることがなくとも。あるいはそれらが全くランダムに入れ替えられたとしても、将棋は、将棋として楽しむことができる。
     
     
    IV.物語が、物語ではなくなるとき。ゲームが、ゲームではなくなるとき
     
     もう一つ、ゲームと物語という現象がなだらかに連続する事例として、「歩いていたら、目の前で人が銃撃され、その場から逃げ出し、助かった」というケースについて考えてみよう。
     
    L 昨日、実家に帰って近所を歩いていたら、いきなり銃声が聞こえて前を歩いていた人が倒れてさ。すげー、怖くなったっていうか、驚いたって言うか、もうその瞬間、殺されると思って、その場から必死に逃げて、とりあえず実家まで逃げ帰って、ドアをがっちり閉めて震えてたんだけど。ラジオ聞いてたら、なんか銃を持ったヤク中のおっさんが、銃を乱射してたとかで。もう、乱射してからニ〇分ぐらいで捕まったらしいけど、まじで死ぬかと思った。まじ、いや、ありえないほど、やばかった。
     
     私がこのような体験をした、と友人に話したら、かなり驚かれるだろう。強烈な話だと思われるだろう。そして、その友人が気のいい人であれば、私のトラウマになっている経験か何かなのではないか、などと気を揉んでずっと覚えていてくれるかもしれない。
     だが、これがアフリカの激しい内戦地区に暮らす人が、同じ地域に暮らす人に話したら、どうだろうか。
     
    M 一昨日、隣町まで行ったとき、ゲリラ軍がちょうど攻め込んでこようとしてた時だったらしくて、目の前で銃撃戦がはじまって、怖かった。車乗ってたから、そのまま逃げ帰ってきたけど。最近、ゲリラ軍、戦線拡大してるね。
     
     こんな話は、その地域では、もしかすると、誰もが体験したことのあるような平凡な話かもしれない。銃撃を受けたこと自体に対して、「それは大変だったね」ぐらいの反応を示してくれるかもしれないが、とりわけ際立った不幸として記憶される可能性は低いだろう。「先日、祖母が他界しました」とか。その程度に誰もが経験する話として、受け止めてくれるかもしれない。身内が他界すると、身内が他界したことに対する悔やみを述べつつも、喪主となった場合の葬式の実際的なノウハウなどについて教えてくれる人もいる。それと同じように、アフリカの内戦地域であれば「荷物を持って、別の地域に逃げるべきか否か」ぐらいの会話もはじまるかもしれない。
     だが、この話の話し手と聞き手が供に、その地域の政府軍の兵士だったとしたらどうだろうか。
     
    N 一昨日、隣町まで行ったとき、ゲリラ軍がなんか攻め込んでこようとしてた時らしくて、目の前で銃撃戦がはじまってさ。そのとき、運悪く武器を携帯していなかったら、そのまま逃げ帰ってきたけど、隣町にもう少し兵力を置いとかないと、あの勢いだとゲリラ軍に占領されかねないね。
     
     こうなってくると。もはや、銃撃された個々の兵士の経験はほとんど問題にならなくなってきている。この話が記憶されるとしても、「私が銃撃を受けた」という劇的な経験として記憶されるのではなく、個別の経験は、ゲリラ軍との戦闘を考えて、どのように戦力を配置すべきか、という戦争に勝利するための参考情報として利用されるだろう。このあと、はじまる会話は攻撃してきたゲリラ軍の規模、装備、政府軍が割くことの可能な戦力などについての会話などだろう。
     さらに、別のバージョン。これが、戦闘訓練シミュレーションに関する会話ならばどうだろうか。 
  • 「2020年までに日本人が獲得すべき〈楽しみの哲学〉とは?」 哲学者・國分功一郎(+濱野智史)インタビュー ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.118 ☆

    2014-07-22 07:00  

    「2020年までに日本人が獲得すべき〈楽しみの哲学〉とは?」哲学者・國分功一郎(+濱野智史)インタビュー
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.7.22 vol.118
    http://wakusei2nd.com
    今回のPLANETS vol.9 (P9) プロジェクトチーム連続インタビューに登場するのは、哲学者の國分功一郎さん。「娯楽は多いが、楽しみを知らない国、日本」は、果たして2020年のオリンピックをどのように迎えればいいのでしょうか?
    【PLANETS vol.9(P9)プロジェクトチーム連続インタビュー第11回】 2011年に人文書としては異例の大ヒットとなった『暇と退屈の倫理学』の著者である哲学者・國分功一郎さん。2013年には自らが住む小平市の市民の一人として、都道328号線の建設計画の見直しを求める住民投票に積極的にコミットされました。そんな「行動する哲学者」が考え
  • アニメって、ラジオだ!——吉田尚記が企む「生アニメ」とミドルメディアの可能性 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.117 ☆

    2014-07-18 07:00  

    アニメって、ラジオだ!――吉田尚記が企む「生アニメ」とミドルメディアの可能性
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.7.18 vol.117
    http://wakusei2nd.com

    7/14より放送開始となる史上初の生アニメ、「みならいディーバ」。本日の「ほぼ惑」では、製作総指揮であるニッポン放送アナウンサーの吉田尚記さんに、お話を伺いました。さらに実際に生放送で行われたゲネプロにも潜入! ラジオに情熱を傾ける"よっぴー”さんが、アニメへ進出した意外な理由とは。そして前代未聞の生アニメのポテンシャルとは――?
    ▼「みならいディーバ」
    http://minaraidiva.jp
    「それは、史上初かもの生アニメ。
     そしてこれはもう、アニメじゃないッ!」
    音声合成ソフト「ヴァーチャルディーバ」シリーズの蒼井ルリと春音ウイ。まだ無名で誰にも曲を作ってもらえない2人が、大先輩・葉山シェ
  • 現代の魔術師・落合陽一連載『魔法の世紀』 第1回:「映像の世紀から、魔法の世紀へ」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.116 ☆

    2014-07-17 07:00  
    220pt

    メディアアーティスト・落合陽一連載『魔法の世紀』 第1回:「映像の世紀から、魔法の世紀へ」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.7.17 vol.116
    http://wakusei2nd.com

    今朝のほぼ惑は、大型連載の初回をお届け! PLANETSのイベント・生放送にもたびたび登場してくれているメディアアーティストの落合陽一さんが、テクノロジーでもアートでもない「魔法」の時代の到来を語っていきます。
     

    ▼プロフィール落合陽一(おちあい・よういち)
    1987年生まれ,メディアアーティスト,日本学術振興会特別研究員DC1,IPA認定スーパークリエータ.名前の由来はプラス(陽)とマイナス(一),父は作家・落合信彦.筑波大学でメディア芸術を学び,東京大学大学院学際情報学府修了.現在,同博士課程在学中.制作のコンセプトは変幻するメディア装置を用いた「コンピュータグラフィクスの実体化」と「事象の電気的再構成」.研究テーマは,HCI,ディスプレイ,メディアアートなど多岐に及び,実世界志向のコンピュータグラフィクスを専門とする.国内外の受賞歴多数.英国国営放送,ディスカバリーチャンネルなどで特集されるなどメディア露出多数.TEDxTokyo yzやTED@Tokyoではスピーカーを務め好評を博した.
     
    ▼落合陽一『魔法の世紀』連載記事一覧はこちらから。
     
     
    ■ 前書き――技術でも芸術でもなく
     
    おはようございます、落合陽一です。
    僕はコンピュータ研究者とメディア芸術家の、二足のわらじを履いて生きています。人とコンピュータとの関わりをどうやって変えていくかを日々研究しながらも、かたや文化の面からもどのような表現が可能になっていくかを日夜探求しています。コンピュータという知的装置の前で人間はどう関わるのか、そして、それを取り入れてどう生きるべきなのかを、モノを作りながら考え続けて今の年齢になりました。
    宇野さんから連載のお話をもらったとき、連載のテーマについてすごく悩みました。コンピュータやテクノロジーの話なのか、これからの文化の話なのか、それとも僕自身の興味ある未来世界のシナリオなのか――。
    それは、僕という人間が語るための基軸はどこにあるのかという問題についての悩みでもありました。単に自分の関わるプロジェクトを説明するだけなら、その文脈はいくつも持ち合わせているので困りません。しかし、自分自身について語るときには、やや困難があります。なぜなら僕は、コンピュータ技術と芸術の間で生きている人間で、自分のやっていることを人に説明するとき、自分のモチベーションや意義を、技術と芸術を俯瞰するある種のモノ作りの思想のようなメタの視点から語らないと、なかなか他人に理解されないし、伝わらないからです。
     
    だから、僕の視点から見える世界を語るには、アートでもテクノロジーでもない何か象徴的な言葉が必要だなと常々思っていました。それも、二つの領域を行き来するようなものではなく、そのどちらとも異質で俯瞰的な言葉です。技術でも芸術でもない言葉であり、しかもある種包括的で、世代のキーワードになるような言葉でなくてはならない。そう考えたとき、宇野さんとの対談で出て来た、「魔法の世紀」という言葉が一番しっくりくることに気がついたのでした。
     
     【参考】YouTube270万再生の"空中浮遊"動画で話題――アーティスト落合陽一氏にインタビューしてみた ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.013 ☆
    http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/ar463252
     
    20世紀は「映像の世紀」でした。文化の面でも、社会の面でも、テクノロジーの面でも、そうです。
    映像技術は、20世紀初頭にアニメーションテクノロジーを発端として生まれました。芸術と技術の両面で世界を変えてきた「映像文化」は、アートとテクノロジーこそが文化を織りなすという観点では、まさにその典型です。その発展は、まさにいくつもの領域にまたがり、映画産業を作り出し、テレビジョンはマスメディアの概念を拡大させ、コンピュータ領域も取り込み、映像をインタラクティブ技術に変えました。
    そして、フィルム技術、映写技術、通信技術という分野横断的なテクノロジーの進歩と、それに伴う様々な作家の表現。映像技術は時代のコンテクストとともに発展していったのです。
    『映像の世紀』という同名のNHKのドキュメンタリーもありましたが、そんな20世紀を振り返るのに「映像」というキーワードは欠かせません。つまり、映像は一つのパラダイムだったのです。そこには、時間と空間、人間同士のコミュニケーション、イメージの伝達ツール、インタラクティブなコンピュータ、虚構と現実などの多くのコンテクストが内包されています。
     
    しかし、それに対して、僕はここで「映像の世紀から魔法の世紀へ」という変革点を語りたいと思っています。僕にとって「魔法」とは、そんな20世紀に映像が持ったようなコンテクストを内包するような、次なる21世紀のパラダイムを表現した言葉なのです。
     
     
    ■「魔法の世紀」
     
    『充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない』――「映像の世紀」まっただ中の1973年に、SF作家アーサー・C・クラークは、こんな有名な言葉を残しています。魔法とテクノロジーについて考えたときに皆さんが最初に思い浮かべるのは、この言葉ではないでしょうか。
    研究者やエンジニアなど、科学やテクノロジー好きの人間は、この世界に文字通りの「魔法」なんて実現しないと端から信じているので、魔法をあり得ないものとして捉えています。だから、彼らはこの表現に巧妙さを見いだすのだと思います。しかし、この言葉には、有り得ないほどの超技術は文字通りの魔法になりえるのではないかという希望を見いだすことも出来るのです。
     
    実際、アーサー・C・クラークは、20世紀の映画を代表するS.キューブリックの名作『2001年宇宙の旅』の原作者として有名ですが、あの虚構に我々が垣間みた表現は、おそらく21世紀にはこの現実世界でも実現するようになるでしょう。映像で語られるような宇宙の旅の世界を、この地球上に実現するのはやや難しいですが、物体浮遊に関しては研究が進んでいますし、実は僕もそこに関わる一人です。また、政府主導や民間主導での宇宙の開発も進んでいます。
    つまり、クラークが描いた「魔法と区別がつかない超技術」の実現は、既に始まっているのです。
     
    ここで重要なのは、なぜそのような技術が実現したのかです。それを可能にしたものこそが、前世紀に戦争の道具として発明され、人類の知的生産からコミュニケーション、映像の中に魔法のような表現などあらゆる場所に革命を実現した「魔法の箱」――コンピュータです。
    これらの「超技術」を押し進めるテクノロジー文脈の一つは、間違いなくコンピュータの発展によるデジタルカルチャーです。現在、かつてSFを見て育った子ども達が、このデジタルカルチャーを引っ下げて、コンピュータというツールを多かれ少なかれ巧妙に使い、まさにSFをこの世界に実現しようとしているのです。そう、「魔法の世紀」において、その魔法の素(マナ)となるのは、まさしくコンピュータだと思います。
     
    この連載の目的は、そんなコンピュータとその周囲の文化が織りなすデジタルカルチャーの文脈とその基本的な原理から、コンピュータの特徴を「魔法の世紀」として捉え直すことで見えてくるものについて書いていくことです。
    それは、魔法をキーワードにして、デジタルカルチャーを主体に置いたテクノロジーの文脈、メディアアートやインタラクティブアートなどの表現活動、SNSやUGCを始めとしたインターネット文化などが向かう先を理解するために、前世紀的な「映像文化」との対比で読み解いていくということでもあります。
     
     
    ■「魔法」とはなにか
     
    しかし、魔法という言葉に聞き慣れなさを持たれる方もいらっしゃるかもしれません。実際、魔法という言葉は、どの辞書をたどってみても定義がなかなかに一致をみません。強いていえば「常人には不可能な手法や結果を実現する力のこと」と言ったところであると思います。
     
    では、僕たちが考える魔法のイメージはどこから来ているのでしょうか。
    例えば、「ハリーポッター」シリーズを思い浮かべてみてください。あの物語において、魔法使いたちは、ホグワーツで修練した魔法技術を用いて、この世界に奇跡を起こす存在として描かれます。
    そこでの魔法の描かれ方で僕が注目したいポイントは、魔法のイメージというものが、魔法によって具現化する実際に体感可能な現象として、ストーリーの中で描かれるところです。そして、その魔法の機序原理についてはあまり多くは語られず、そしてそれ自体は別の現実を描いたファンタジー作品ではあれども、その作品内では世界が完結していることです。これらの特徴は、他のファンタジー作品でも同じではないでしょうか。 以下に、それを定式化します。
     
    1.「現実性」:魔法使いの使う魔法は物理世界(現実)に影響をもたらす
    2.「非メディアコンシャス」:完全な動作機序(メディア)は明らかではないが使える。
    3.「虚構の消失」:魔法ファンタジーの中にもう一つのファンタジーは存在しない。
     
    もちろん、この連載が目的とするのは、そのようなファンタジーの中で魔法使いが駆使するようなものを語ることではありません。しかし、僕はテクノロジーがまるで魔法のように生活の隅々にまで行き渡った現代と、ファンタジーの魔法のそれには多数の共通点があると考えています。
     
    ここからは、そのことを上記3つの定式化に即して、説明していきます。前章で指摘したのがまさに「現実性」に当たりますから、ここからは「非メディアコンシャス」と「虚構の消失」を説明していきましょう。
     
     
    ■ 非メディアコンシャス――「何が充分なら魔法になり得るのか?」
     
    再び、先に挙げたアーサー・C・クラークの言葉に戻りましょう。充分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない(Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic)という言葉には、”sufficiently advanced(充分に発達した)”という表現があります。
    一体、何が十分に発達したもので、何が魔法を作るのでしょうか。それは、そこにある科学技術を人が意識しなくなったときです。テクノロジーに関する理屈は理解できても、高度に細分化され発達したテクノロジーが、そこにある技術についてユーザーが気に留めないほど高度に振る舞い、そこに技術があることを秘匿すれば、それは実質的に魔法となるわけです。
     
    テクノロジー自体の存在を意識しないほどテクノロジーが発達する。そして、テクノロジー自体は超常的な何かとして意識されなくなる――そのようなビジョンとして、例えば1993年に、Xeroxパロアルト研究所のマークワイザー博士が「21世紀のコンピュータ(The Computer for the 21st century)」の中で提唱した、ユビキタスコンピューティングがあります。
    「ユビキタスコンピュータ(世界にあまねく存在するコンピュータ)」は、まさしくそのような概念です。いつでもどこでも互いに接続されたコンピュータが、人間をサポートすることで、人間はテクノロジーを意識しなくなるというビジョンです。
    マーク・ワイザー博士の意に反して、この概念は「いつでもどこでも」が強調され、モバイル通信が盛んに行われる社会のことだと曲解されてしまっているように見えます。みなさんもユビキタスコンピューティングと聞くと、コンピュータの見えない世界というよりは、むしろコンピュータに対して意識的な、スマホなどのモバイル端末がたくさんある世界を想像するのではないでしょうか? それは、当初のマーク・ワイザー博士の意と正反対の世界です。
     
    空気みたいな、植物みたいな、そんなアンビエントなコンピュータを実現する。そうすればコンピュータの存在を意識することはなくなります。ハードウェア的にはまだ遠い世界かもしれません。しかし、我々の意識レベルではそれは遠い未来の話ではないと思います。それどころか、今ここで僕らの中で静かに進行中のことだと考えています。
    例えば、Twitterを「喫煙所みたいなもの」と表現したり、ネット回線がない場所で「息がしづらい」と言ってみたりしことはありませんでしょうか? 
    SNSにどっぷりはまったような人たちにとっては、そのメディアそれ自身は、普段からは意識されない状態になっているので、逆にネットから切断されたときに急にその存在を意識するようになるのです。
    僕は、これは既に空気みたいなメディアが実現されつつあるのではないかと思っています。