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記事 4件
  • ジブリ的「国民映画」の継承から考える新海誠|石岡良治

    2023-07-28 07:00  
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    本日のメルマガは、批評家・石岡良治さんの論考をお届けします。 スタジオジブリ最新作の公開や、近年の新海誠の評価などから、現代は「国民的」アニメ映画とは何かが問われる時期にあります。今回は改めて『君の名は。』時点での新海誠をどう評価すべきか、石岡さんが論じました。 (初出:石岡良治『現代アニメ「超」講義』(PLANETS、2019))
    細田守から新海誠へ
     あらためて、新海誠の『君の名は。』から現代のアニメを考えてみましょう。2016年の同作は、アニメ映画としては2001年の『千と千尋の神隠し』に次ぐ歴史的ヒットとなり、普段アニメを観ない人にまで届いた作品です。マイナーかつマニアックな作風で知られていた新海誠の作品が、これほどまで広範囲に受け入れられた理由を考えるうえで、『現代アニメ「超」講義』第1章で述べたことを繰り返すなら、作風をよりメジャーなものに寄せていく際に、いわゆる青春映画を強く意識したことが挙げられるでしょう。細田守監督の『時をかける少女』が直接の参照ですが、キャラクターデザインに田中将賀を起用したことで、『とらドラ!』以降の超平和バスターズ組(『あの花』『ここさけ』)の作風も取り入れられています。  『君の名は。』は「ポスト細田守」を意識した企画となっており、大林宣彦監督の『転校生』(1982)のモチーフ、すなわち原作の山中恒『おれがあいつであいつがおれで』によって広く知られるようになった男女の入れ替わりネタを、時空を隔てた男女の入れ替わりとして描きました。大林宣彦監督版『時をかける少女』(1983)の続編としての性格をもつ細田守作品とは別のタイプのオマージュとなっています。またタイトルも、戦後の混乱のなかでカップルがすれ違いまくるが最後には出会って結ばれるドラマ『君の名は』(ラジオドラマ版:1952~1954)から取られていることが有名です。  『現代アニメ「超」講義』の序章で少し考察した「ポストジブリ」という呼称が、細田守や新海誠の作風とそぐわないと感じる人は多いと思います。それはおそらく、ここで想定されているのがジブリアニメのすべてではなく、スタジオジブリが1990年代前半に、高畑勲監督の『おもひでぽろぽろ』(1991)、望月智充監督のテレビスペシャル『海がきこえる』(1993)や近藤喜文監督の『耳をすませば』で追求していた、ファンタジー要素が希薄な現代劇の系譜に位置付けられるからでしょう。当のスタジオジブリはこの路線を伸ばすことはせず、1997年の『もののけ姫』以後の国民映画路線へと舵を切り、代わりに細田が2006年に『時をかける少女』を成功させることで、『耳をすませば』が切り開いたポテンシャルを継承したわけです。  実のところ『君の名は。』は、このような参照項が加えられた以外、基本的にはこれまでの新海誠アニメと変わっていないところが興味深いのだと思います。なのでジブリアニメが担っていたような国民映画的な感触よりは、むしろ実写の青春映画的な要素がうまくハマったことで、中高生の圧倒的な支持が得られたことがヒットの大きな要因になったのだと思います。  近年の青春映画の雛形というと、一方には少女マンガ原作の『アオハライド』(2014)のような複数男女の恋愛群像劇があり、もう一方には『君の膵臓をたべたい』(2017)や『四月は君の嘘』(2016)のような難病ドラマがあります。後者は難病ヒロインの死を目の当たりにすることで、恋愛のロマンティックな展開が繰り広げられる。昔だったら結核として描かれていたもので、ジブリアニメでいうと『風立ちぬ』(2013)で展開されていたようなドラマになります。  難病ものには、死ぬまで恋人と添い遂げる甘美なファンタジー性と、性的な展開をそれほど入れずに済むメリットがあります。普通であればセックスよりも死のほうが重々しいはずなんですが、こと青春枠のフィクションにおいてはなぜかセックスのほうが重くみられているため、死というデバイスが便利に使われる傾向があるように思われます。その要素は『君の名は。』にも、大災害による三葉の死という形で入っていますね。  対して『君の名は。』には、口噛み酒や三葉が胸を揉むアクションといったセクシャルな要素も入っており、一部からは批判も浴びましたが、これは現在ではアニメだからこそできた描写だと思います。古くは実写のドラマにも、性的な要素を交えたコメディはたくさんありました。実写映画の『転校生』もまさにそうで、当時高校生すなわち18歳未満だった小林聡美が下着姿になったり、上半身裸になったりする描写が出てきます。現在の実写映画では、こうした描写はもはや倫理的に困難になっているように思われます。しかしアニメであれば、今なおそのような描写を入れることができるわけです。『君の名は。』はそこの強みをうまく活かしていたと思います。  また『君の名は。』はノスタルジーコンテンツとしての機能も巧みでした。たとえば、『君の名は。』には地方の伝統行事が描かれているなど聖地巡礼的・地域おこし的な要素が入っていますが、シナリオにおいては最終的に、メインの登場人物4人全員が上京してきてしまう。地域起こしものにありがちな、村落共同体礼賛どころか、その場所は災害によって失われ、新海誠が得意とする新宿近辺すなわち都心部の描写へと引き寄せられるわけです。一歩引いた視点で見るなら、地方から都市への一極集中は日本の未来の姿として見てもリアリティがあると思いますし、地域をノスタルジックに描く要素を備えつつも、『秒速5センチメートル』のような青春の喪失感に対するこだわりのような、後ろ向きな感じが消えているんですね。  また2018年の中国アニメ『詩季織々』も補助線になると思います。『詩季織々』は、『秒速』ファンの李豪凌総監督が、新海監督の所属するコミックス・ウェーブと共同で作った、“ジェネリック新海” スタイルのオムニバス映画です。この作品を観ると、新海スタイルを用いれば、世界中の様々な都市で、同じような青春アニメを作れるような気がしてきます。  つまり、地方と都市の格差、学園生活、そして初恋、別離、再会、そうしたモチーフをナルシスティックなモノローグと映像でアニメ化すれば、世界中どの地域でも青春アニメが作れるという普遍性のようなものが見出せるのではないか。そう考えると『君の名は。』の特異な点は、特殊アニメ的なものではないけれども、ユースカルチャーとしてのアニメのユースの部分をうまくすくい上げることに成功している点だ、というのが見えてくるわけです。  『ほしのこえ』におけるPHSを用いたメールコミュニケーション描写の頃から一貫してそうですが、『君の名は。』も2016年のディテールを描き込みまくっているため、後の時代に振り返ったときには、作品で描かれている世界は古びると思いますが、むしろそのことによって「2016年のリアリティ」を通じた普遍性を得られるタイプのものだと思います。
     
  • 中心をもたない、現象としてのゲームについて 第35回 第5章 ゲーム/遊びはなぜ分かれ、接続するのか|井上明人

    2023-07-18 07:00  
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    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う『中心をもたない、現象としてのゲームについて』。 連載本編としては実に4年ぶりとなる論考です。本章から「ゲーム(game)」と「遊び(play)」の定義を分析しながら、文化人類学的視点で「ゲーム」の本質を探ります。複数の言語での定義や、ホイジンガ、カイヨワといった古典を参照しながら、近年の研究において「ゲーム/遊び」の分節・重なりがどのようにみなされているか概説しました。
    井上明人 中心をもたない、現象としてのゲームについて第35回 第5章 ゲーム/遊びはなぜ分かれ、接続するのか
    5.1 gameとplayの分節と連結
     さて、学習、コミュニケーションの問題を扱ってきたが、最後の大きな論点として「プレイ≒遊び」の概念を考えたいと思う 。  「遊び」の概念は、「ゲーム」の概念を考える上で、しばしば重要な論
  • 第四章 オルタナティヴな近代性――中国小説の世界認識(後編)|福嶋亮大

    2023-07-12 07:00  
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    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。『水滸伝』や『三国志演義』といった作品がどのように読み解かれたのかを通じて、近世の中国文学と批評のあり方について分析します。前編はこちら。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    5、一六世紀のコミュニケーション革命
     以上のように、中国の「小説」はその周縁性ゆえに、オーソドックスな文化的分類体系を攪乱してきた。この文化のへりにあった小説が大きな飛躍を遂げたのが、明清時代――アメリカの学術界では「後期帝国中国」(Late Imperial China)とも呼ばれる――である。その背景には、出版物の爆発的増大という劇的なコミュニケーション革命があった。  印刷術そのものはすでに八世紀には存在していたが、それが出版という業態へと進むには相当の時間がかかった。唐までは、書物に記された知識は、手書きの書写本(鈔本)として一部の貴族に独占され、ごく狭い範囲で流通するだけであった[11]。例外は、仏教が布教のために印刷術を利用したことである。韓国で発見された「大陀羅尼経」や日本の「百万頭陀羅尼」が最初期の印刷物とされることからも分かるように、印刷の歴史は仏教と深い関係がある。中国文学者の大木康は「印刷術はほぼまちがいなく仏教の世界、あるいは少なくとも仏教にごく近いところで発明されたといってよいのではないかと思う」と述べている[12]。  唐の滅亡後、それまで社会から隔離されていた書物は、貴族階級の没落によって広く開放され始めた。それが中国出版史の事実上のファースト・ステップとなる。宋代(特に南宋)に入ると、出版業はめざましい広がりを見せて、書物の供給ルートが形成された。旺盛な知識欲をもった宋の知識人は、儒教以外の異端的な思想書(『韓非子』等)も含む多様な書物を望んだ。その結果、当時の著名な詩人・蘇軾(蘇東坡)に無断で、彼の詩集を刊行するようなケースすら生じたのである。しかも、この海賊版の詩集に朝廷を誹謗する箇所があったとされて、蘇軾はあやうく処刑されかける。これは営利出版がそのまま政治的な事件になり得ることを、よく示すエピソードだと言えるだろう。  しかし、当時の士大夫は書物があまりに広く開放されることを警戒し、営利出版の発展には無意識のうちにブレーキをかけた。そのため、出版がその潜在力を解き放てずにいるうちに、モンゴル族の支配する元の時代になり、出版物の多様性や品質は低下してしまう。いったん冬の時代に入った出版業は、なかなかそのトンネルから抜け出せなかった。それは元が滅んで、漢民族の明になっても変わらない。「出版の俗化と単調化は、漢族王朝が復活して明代となっても、とどまるどころか一層はなはだしく進行し、加えて量的にも衰退の様相を呈した」(井上進)[13]。  この質量ともに低調な状況が一変したのが、一六世紀半ば以降の明末の万暦年間のことである。この時期に出版文化は空前の活況を呈し、多くの印刷物が巷にあふれた。書物はもはや一部の知識人の独占物ではなくなり、各都市に広く流通するようになった。ちょうど一六世紀以降のヨーロッパでユマニストたちが出版と思想を結びつけ、新しいフォントであるローマン体やイタリック体が普及したように(前章参照)、だいたい同時期の中国でも、版木を彫るときに分業しやすい幾何学的な明朝体のフォントが誕生し、書物の拡大に大いに寄与した。  大木康は当時の「出版革命」の帰結として、書物の形態が大量生産に向いた線装本に変わり、明朝体が生まれ、図像入りの書物が氾濫するようになったことに加えて、小説の刊行点数が爆発的に増加したことを挙げている。それに伴って、出版や批評に積極的にコミットする「出版文化人」(陳継儒、李卓吾、馮夢龍、李漁ら)が台頭し始めた[14]。出版と小説を積極的に活用しながらときに社会の規範に挑戦した彼らを、中国版のユマニストと見なしても、さほど言い過ぎではないだろう。  すでに『三国志演義』や『水滸伝』は元末明初(一四世紀)の時点で、ある程度作品としてまとまりつつあったが、出版革命の起こった一六世紀以降、出版物として社会に定着する。例えば、『水滸伝』の刊本には複数の系統があるが、そのうち代表的な『李卓吾先生批評忠義水滸伝』(杭州の容与堂刊)は一七世紀初頭に刊行された。それとほぼ同時期の一六一〇年に、『水滸伝』の一つのエピソードを長編にふくらませた『金瓶梅』が出る。『三国志演義』の代表的な刊本である『李卓吾先生批評三国志』もだいたい同時期の刊行物である。  この『水滸伝』や『三国志』を筆頭に、当時の小説はしばしば出版文化人のコメント入りで刊行された。ここから分かるのは、著名な批評家のコメントが作品の付加価値を高めたこと、そして小説が批評=思想の新しい動向と密接に関わっていたことである。これらの小説はたんなる暇つぶしにはとどまらず、出版革命を背景とする先端的な思想運動のシンボルにもなった。  これらの小説の作者は名義上、羅貫中や施耐庵とされているが、彼らの実態は漠然としていて、ほとんど何も分からない。それに比べて、一六世紀後半を生きた李卓吾は、出版界では名高い思想家であった。そのため、彼の名義を借りて、実際には別人が批評を書くケースも多かった(例えば、『李卓吾先生批評忠義水滸伝』の批評家は、李卓吾ではなく葉昼という説が有力である)。後述するように、このパイオニアとしての李卓吾の思想に触発されて、『三国志演義』の改訂版を出した毛宗崗や『水滸伝』に独創的なコメントを付した金聖嘆のような一七世紀(明末清初)の批評家が、この批評=思想の運動を継承することになる。 
  • 第四章 オルタナティヴな近代性――中国小説の世界認識(前編)|福嶋亮大

    2023-07-07 07:00  
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    本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。歴史書を基礎とする古代の中国小説が、やがて一般化した「小説」とどのように異なるのかを分析し、近世の小説のあり方を捉え直します。
    福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
    1、二つの文学ウイルス
     本章および次章では、主に近世(early modern)の小説を中心として、中国文学および日本文学のあり方に照明を当てるが、それに先立って、中国小説の文化史的な位置づけを検討したい。少し回り道しながら考えていこう。  夏目漱石の『文学論』(一九〇七年)の序は、英文科出身の彼が英語の研究を命ぜられ、二〇世紀初頭のイギリスに留学したときの回想に始まる。彼はそこで文学を「社会学的心理学的」に研究するという巨大なテーマに取り組み、ついに神経衰弱に陥った。ここで重要なのは、彼をこの無謀な研究に駆り立てたのが「漢文学」および「英文学」との遭遇であったことである。
    余は少時好んで漢籍を学びたり。これを学ぶ事短かきにも関らず、文学はかくの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏に左国史漢より得たり。ひそかに思ふに英文学もかくの如きものなるべし、かくの如きものならば生涯を挙げてこれを学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。
     こうして、二つの文学の共通性を信じて、英文学研究に生涯をささげようとした漱石は、しかしいくら読書しても英文学を味わい得たという境地に到れず、大学の卒業時には「何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念」に駆られる。この不安が漱石を次の有名な見解へと導いた。「漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざるべからず」。つまり、漱石は漢文学と英文学をいったん「文学」の名のもとに同一化したが、それがかえって両者の差異を際立たせたのである。  私は前章で、小説の流行をパンデミックにたとえた。そのメタファーを再び用いて言えば、すでに漢文学ウイルスに感染していた漱石は、英文学ウイルスに遭遇し、しかもその特有の「症状」に強い違和感を覚えていたと言えるだろう。この二つの文学は同種に思えるが、いわばインフルエンザウイルスとコロナウイルスが似て非なるものであるように、それが読者の引き起こす反応は異なっていた。少なくとも、鋭敏な漱石はどうしてもその差異を看過できなかったのである。  同時代人の森鷗外は、ゲーテをはじめヨーロッパ文学の翻訳に熱心に取り組んだ。ゲーテが『西東詩集』でペルシア詩人の「精神」をドイツ語に変換したように、鷗外もヨーロッパ文学のエッセンスを日本語の表現に導入しようとした。特に、オムニバス形式で各国の短編小説を翻訳・収録した鷗外の『諸国物語』は、まさに世界文学の地図製作者の面目躍如という感がある。むろん、ドイツに留学した鷗外も漱石と同じく、二つの文学の差異を肌身で感じていたに違いない。それでも、彼はゲーテの翻訳者にふさわしく、世界文学を受容し得るだけの表現力や柔軟性をもつ日本語のプラットフォームを、入念に組織したのである。  それに対して、漱石は卓越した語学力をもっていたにもかかわらず、年上の鷗外や二葉亭四迷と違って、その能力を翻訳に向けることはなかった。彼がやろうとしたのは、いわば系統の異なる二つの文学ウイルスを生み出した共通の仕組みを、科学的なアプローチで解き明かすことである。F(認識的要素)とf(情緒的要素)の組み合わせであらゆる文学を説明しようとする漱石の力業は、そこから生み出された。  ただ、現代のわれわれのもつ文学イメージからすると、いささか奇妙に思えることがある。それは、漱石が「文学はかくの如き者なりとの定義」を得たのが「左国史漢」、つまり『春秋左氏伝』『国語』『史記』『漢書』という歴史書からであったという事実である。彼自身優れた漢詩人であったにもかかわらず、漱石はこの序文で詩人にまったく言及していない。『文学論』の本文では、イギリスと中国の詩が多く作例として挙げられるのだから、序文の態度はなおさら奇異に感じられる[1]。  しかし、中国文学の基礎を歴史書に求めるのは、決しておかしいことではない。それは中国文学の特性に関わっている。かつて吉川幸次郎は、近世に白話小説が流布するまで、中国文学の担い手たちが一貫して、虚構よりも事実を尊重してきたことに本質的な意味を認めた。
    非虚構の素材の尊重、言語表現の特別な尊重が、この文学史の二大特長と考えられる。二つはともに、この文明に普遍な方向である即物性によって説明されるであろう。歴史事実、日常の経験は、空想による事象よりも、より確実な存在である。表現された言語は表現する心象よりも、より確実に把握される。この国の哲学も、ひとしく即物的であり、神、超自然への関心を抑制し、地上の人間そのものへ視線を集中したが、おなじ精神が、文学をも支配したのである。[2]
     このような「即物性」を凝縮したのが、「地上の人間」の諸相を記録した歴史書というジャンルである。左国史漢に文学を代表させたとき、漱石は中国文学の急所を浮かび上がらせていたと言えるだろう。
    2、詩と小説――その評価の違い
     そもそも、事実の記録と伝承は、中国では歴史書に限らず文学的なエクリチュール全般――今はこういう大雑把な言い方をしておく――で要求されたものである。ホメロスの叙事詩が百科全書的な教育装置であったとするエリック・ハヴロックの説(第二章参照)は、ギリシアのみならず中国の文芸にも適用できる。例えば、詩を学ぶ効用について、孔子は次のように説明した。
    子曰く、小子何ぞかの詩を学ぶこと莫きや。詩は以て興すべく、以て観るべく、以て群すべく、以て怨むべし。邇くは父に事え、遠くは君に事え、多く鳥獣草木の名を識る。(『論語』陽貨)
     孔子の詩学によれば、詩は心を奮い立たせ(興)、ものを観る仕方を教え(観)、共同生活を営ませ(群)、うらみごとの感情もうまく吐露させる(怨)。のみならず、詩の学習者は父や君主に適切な仕方で仕え、鳥獣草木の知識を得ることもできる――つまり、詩は共同生活に必要な基礎教養や倫理を教える百科全書として、孔子には理解されていた。しかも、この百科全書はたんに自然の名称のみならず、自然の根源的な生命力(古代ギリシアで言う「ピュシス」)をも伝達する。「詩三百、一言以て之を蔽う、曰く思い邪なし」(『論語』為政)と力強く言い切った孔子は、邪念のないまっすぐでふくよかな生命力こそを、詩という教科書の核心と見なしていた。  現に、古代の歌謡を集めた『詩経』における自然物は、しばしば「徳」の文字を伴って歌われる[3]。徳とは英語のvirtueと同じく、万物そのものに内在し、人間や自然を動かす霊的な「力」を言い表した言葉である。ゆえに、詩を共有することは、たんなる知識の獲得にとどまらず、自然や人間のもつ根源的な生命力にアクセスする行為に等しかった。詩が共同体の基礎教養となったのも、この万物のもつ「徳」の力を了解するのに、詩が欠かせなかったためである。  孔子やその門弟は、しばしば『詩経』を倫理的生活のメタファーとして用いた。一例をあげると、孔子が「貧しくても学問を楽しみ、豊かでも礼を好むほうがよいだろう」と述べたところ、弟子の子貢が「『詩経』に「切するがごとく、磋するがごとく、琢するがごとく、磨するがごとく」とあるのがそれでしょうか」と答えて、孔子が絶賛したというエピソードがある(『論語』学而)。切磋琢磨とはもともと骨、象牙、玉、石の加工法を指す言葉だが、師弟はそれを修養のテクノロジーとして読み替えている。詩は自然と人為をメタファーでつなぐ、一種の翻訳装置であったと言えるだろう。  では、小説はどうだろうか。詩が歴代の知識人(士大夫)に高く評価されてきたのに対して、小説は総じて劣位に置かれてきた。ここで重要なのは、小説が文化と非文化のボーダーラインにあったことである。中国の小説の起源を考えるとき、紀元一世紀の歴史家・班固の『漢書』芸文志――漢代の書籍目録であり、古代学術史の基礎文献でもある――の次の記載は必ず参照されるが、そこにはすでに小説の位置づけの難しさが示されていた。
    小説家の流れは稗官に由来するのだろう。街談巷語(大通りや路地の話)、道聴塗説(道端で聞いたことを道端の他人に受け売りで話すこと)をこととする人間の造ったものである。
     班固はここで孔子の批評を念頭に置いている。孔子は「道聴塗説は、徳を之れ捨つるなり」(『論語』陽貨)と弟子に厳しく注意した。他人の言葉をすぐに受け売りしたり、街角のゴシップを不用意に垂れ流したりするのは、彼には徳を台無しにする悪行として映ったのである。これは、彼が詩を徳の向上と結びつけたこととちょうど対照的である。孔子の文芸批評は、詩を共同体の教師として評価しながら、後に「小説」の淵源となったゴシップの流通(道聴塗説)を批判するという両面戦略を示していた。  ならば、班固はこの孔子の考え方に従って「小説」には社会的価値がないと断定しているのだろうか。その答えはイエス・アンド・ノーである。この文章は確かに、国家の高級官僚の立場から、ストリートで交わされる不正確な言葉を見下している(実際、班固が具体的に「小説」の書名を挙げるとき、そこにはしばしば「内容が浅薄である」という短いコメントも付けられた)。しかし、ここで重要なのは、班固がその直後に次の孔子(実際には弟子の子夏)の言葉を引用したことである。
    小道といえども、必ず観るべき者あり。遠きを致すには泥まんことを恐る。是を以て君子は為さざるなり。(『論語』子張)
     つまらないことにも必ず見るべきものはある、ただ遠大なことをやろうとする君子はその小さなことにのめりこむのを恐れるから、それには手を出さない――班固はこの『論語』の考え方を「小道」を語る「小説」の批評に応用した。彼が認めたのは、街角のゴシップが、まともな人間には相手にされないとはいえ、社会の観察者にとっては一定の意義をもつということである。しかも、このサブカルチャーとしての「小説」が君子をものめりこませる怪しげな魅力を備えていることも、班固は認識していた。