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記事 4件
  • 消極的な人よ、身体を解放せよ──いや、そもそも身体なんていらない?|消極性研究会(前編)

    2023-02-28 07:00  
    550pt

    おはようございます。本日のメルマガは、消極性研究会のみなさんによる特別座談会をお届けします。「……ができるようになるにはどうするか」と捉えがちな「身体」拡張に対して、「……をしない」ことで得られる幸福というものもあるのではないか? そんな「消極的な身体」と社会との関係をテーマに、消極性研究会のみなさんに議論をしていただきました。(初出:『モノノメ#2』(PLANETS,2022))
    消極的な人よ、身体を解放せよ──いや、そもそも身体なんていらない?|消極性研究会(前編)
    消極性研究会にとって「身体」とはなにか
    ──今回、身体についての特集を組もうと思ったことのきっかけのひとつは、乙武洋匡さんの発言です。彼が言うには、「自分は生まれつき、足があった経験がないので、歩きたいと思ったことはない」そうです。つまり、移動さえできれば二足歩行である必要はなく、テレポートできればそれが理想なのだと。にもかかわらず、「OTOTAKEPROJECT」をやっているのは、あくまで社会に多様性の促進を訴えるためのプロパガンダであって、少なくともプロジェクト開始の時点では彼自身の「歩きたい」という欲望はゼロなんですね。  この問題は結構考えさせられることがありました。つまり、多くの身体障害者へのケアの現場やサイボーグ的な技術による身体拡張のアプローチの多くは「できないことを、できるようにする」ものなのではないかと思います。ただ、世の中には別に「できるようになりたくない」とか、むしろ「したくない」という人たちもいるのではないか。可能な限り「しなくていい」社会が理想だと考える消極的な人たちも多いはずで、消極性研究会[1]の皆さんはまさにそういった人々の立場に立って研究と発言を続けてきたユニットだと思います。消極的な人が消極的なままでいることを支援するという消極性デザインの発想からすると、もっと「できないままでいい」という方向での身体へのアプローチがありうるんじゃないか。たとえば、歩かない人が歩かないまま幸せになるという方法の方に、消極性研究会の皆さんの興味はあるのではないか。そう考えて、今回は「消極的な身体」から社会を眺めてみたらどんな課題が見えてくるかという議論をしていただけたらと思います。
    栗原 私は身体か精神かで言えば、どちらかというと精神に重きをおいて考えてきたタイプだと思います。ですが、今の世の中は精神の部分が肥大化してしまって、肉体とのバランスが悪くなっているのではないでしょうか。  たとえばSNSで繋がりすぎてしまっているけど、それに対するレスポンスがもはや人間の身体では対応できないくらい情報が流れてしまっているという問題をどうするか、 みたいな問題が顕在化していると思うんですね。  そういう状況に対して、今の宇野さんの問題提起にあった「人間を拡張して超人にするぞ」という方向性で技術を使ったり、ディスアビリティのある人を技術で補ったりするような方向性との間にあるような、もうすこし裾野の広いサイレントマジョリティ的な人々の日常のちょっとした場面で感じる精神的なストレスに対して、技術を使ってどうするかといったことを、私はずっとやってきたと思います。  というのは、「超人を作るぞ」的な方向と、「障害のある人を一般人のように戻すぞ」という方向は、いずれも手をもう一本生やすとか、無い足を作るとか、身体的な拡張になることが多いという印象です。対して我々の消極性デザインの場合は、あまり身体を直接的にケアしたり拡張したりという形式にはならないことが多いように思います。私の場合で言えば、主に道具という形で、どちらかというと人間にない身体機能を付加するというか、むしろ制限することによって人間の精神活動の調整を間接的に支援するといった性格のものをいろいろ作ってきました。  たとえばタクシーの中で運転手に話しかけられるのは嫌だというとき、人はヘッドホンをするわけですよね。そこで本当に耳に蓋をしてしまうと困るし角が立つので、外の音が聞こえている度合いが見た目的にも調節できる「OpennessadjustableHeadset」[2]というヘッドホンを開発しました。  こちらはなるべく日常に溶け込むようなデザインにして使いやすいものを目指したアプローチですが、またはちょっと攻撃的に「こんな身体を作ったらどうなる? とみんなで考えようぜ」と問題提起したいときは目立たせる方向にデザインすることもあります。  向けるとおしゃべりが過ぎる人の発言を聞こえにくくできる「Speech Jammer」[3]はそんな感じで、あえてピストルの形にすることで、「みんなうるさいと思ってるけど、どうする?」みたいなメタメッセージを冗談めかして伝えるという方向性ですね。  こうした精神的な問題を、ある種の身体的な異化作用につなげることで、現実空間で解決するというスタイルが、自分にとっての「身体」へのアプローチだったのかなと思いました。
    西田 いま精神と身体の調整という話が出てきましたけど、私にとっての「身体」は精神性みたいなものを強制的に周りに発信させられてしまう、不完全なインターフェースだなという印象が強いです。  たとえば私が太ってきたりすると、周囲の人に「西田さんは我慢強くないんだな」みたいに見られるのが嫌ですね。筋トレとか食事制限に耐えられない精神を強制的に発せられている面があります。逆にすごく鍛えている人が「俺は鍛えているぞ」みたいな精神を日常的に発しているのも嫌だなと思います(苦笑)。  でもマゾいトレーニングとか、食べたいものを食べないとか、耐える心みたいなものってそんなに大事なものかなあ、ともつねづね思っています。人間のテクノロジーって、耐えなきゃいけないこと、やりたくないことをやらなくて済むような世界を実現するために技術開発とか工夫とかが行われていますよね。  われわれ消極性研究会もその一部かなあと思っていて、「嫌なことに耐えられることこそが人間にとって大事だ」というような風潮を解消できればなと。身体性というテーマはそういうところが解決できていない最前線というか、象徴的なものかと思います。  たとえばインターネットがもつ重要性って、Zoomでカメラをオフしたりすることで身体を秘匿できる匿名性を確保できるところにある気がしてるんですね。栗原さんがおっしゃるように身体機能を積極的に拡張しようという方向の技術的アプローチは沢山ありますけど、消極的なままでいたい身体の欲求をかなえる技術がキラーアプリになる可能性はあるのかなあ……というのを今の話を聞いていて思いました。
    簗瀨 私がここのところ思うのは、身体のパラメーターが数値化されていないのが人間の生きにくさの一因なんじゃないかということです。  私は最近、頑張ってダイエットして26キロくらい痩せたんですけど、明らかにできることの限界が上がっているんですよね。体力がすごくある感じになって。単純に26キロのおもりを背負っていないから。たとえばこのメンバーの中でもっとも痩せている渡邊恵太さんがこれから毎日26キロのおもりを背負って生活するとしたらすごく大変だと思うんですけど、私は逆にその重りをずっと背負っていて急に離した状態になったので、すごく楽なんです。だからといって、すごく生活がアクティブになったりするわけじゃないんですけど、単純に今までやってきたことが楽にできたり、歩くことが楽しくなったりして、すごくモチベーションが上がるんですよね。ただ、その体験の楽しさは事前にはわからなくて、どれだけ身体に負荷をかければ辿りつけるのかも見当がつかない。これが、たとえば「あなたが歩ける距離の限界は1000ポイントです」みたいにパラメーター化できれば、600ポイント歩けるのはぜんぜん辛くないけど、1500ポイント歩かされるのはたぶん厳しい、といったことがわかるようになる。でもそれって限界を何回か計らないとなかなかわからなくて、その計測する何回かがつらいじゃないですか。  多くの場合、教育の過程で運動にチャレンジさせて、その人がどこまでできてどこまでできないのかを測ると思うんですけど、そこで最初に限界を越えさせようとする過程で、運動そのものにトラウマができてしまうというケースが多いと思います。なので、ゲーミフィケーション[4]に近い発想ですが、なんとかチャレンジを挫折させずに「このへんが限界だな」というパラメーターを常に見える状態にできると、もうちょっと頑張れたりとか、「本来は100できるんだけどいま70しかやってないから毎日が楽だ」みたいな感じでストレスなく過ごせるようになるんじゃないかと。
    渡邊 ここまでの話で出てきたような「精神的なものと身体的なものは別」とか「物質的な豊かさから精神的な豊かさへ」みたいなことは、20世紀の終わりごろからずっと言われてきていると思うんです。  そこで議論したいと思ったことは、人間の欲望処理の技術ですね。たとえば移動という手段で車や電車、馬車など、移動は疲れるからより早く遠くまで行きたいという欲望でそういう技術が出てきました。  しかし、今は移動せずともインターネットで多くの人と繋がれますよね。最近はVRにしてみたり、脳を繋いでみたりという話で、よく考えると全然人間が動く方向になってない。メタバースも身体的体験が欲しいだけで、別に身体が欲しいわけじゃない感じがするんですよね。  全体的にテクノロジーの流れを見ていると、身体的な疲労や制約を廃止したい感じがあります。そういうテクノロジーの探索の方向を見ると、「身体、いるのかね?」と。  IoTなどが出てくるのを見ていると、どうやら人間が植物のようなモデルに近づいていく感じのように見えなくもない。植物はセンサーネットワーク的な感じで他の虫たちに花粉を受粉させたりして、ネットワークを広げていきますよね。そういうことを考えると、みんな動きたい体験が欲しいだけで、実際は動きたくないとかそういうジレンマがあるなと感じたりしています。  あとはユーザーインターフェースの進化も、人間の進化の逆みたいな話があります。人間の学習段階はまず身体的に何かを感じ取って、次に視覚的に読み取って、次に記号的に感じ取るという発達順です。逆にユーザーインターフェースやコンピュータは、記号的なところから始まって、視覚的なGUIになり、さらにWiiとかKinect のように身体的なインターフェース[5]が出てきたという流れですね。  ただ、WiiやKinect のような全身運動型のコントローラーは決してゲームデバイスの主流にはならなくて、手指のコントローラーで最小限の動きで済ませよう、というものがほとんどです。結局、テクノロジーの進歩は人間の身体をなるべく疲れないようにする方向にしか向かっていかないのではないでしょうか。よく身体性を回復させようという話があるけど、なんだかんだでなるべく身体をなくしていく方向になっているのが面白いなあと思いました。
    コロナ禍は身体をとりまく環境を多層化した
    ──ここまでの皆さんの認識を伺うと、多くの人々は現実空間における身体と精神の関係に不全感を感じていて、渡邊さんがおっしゃったように基本的に情報技術は物理的な身体性をサイバースペースで無効化する方向に進歩してきたわけです。そして、2020年からのコロナ禍によって、それまではあまりその価値に気づいていなかった人たちまでもが物理的な身体が無効化された社会の快適さ、自由さに気づいていった。少なくとも消極的な人々にとってはより過ごしやすい社会の可能性が示されたとも言えるわけですが、その点については消極性デザインの観点からはいかがでしょうか。
    簗瀨 パンデミックの影響で、オンラインの良さというものは多くの人が体験しましたよね。同時に消極的な人の中にも、完全にオンラインになってしまうと窮屈さを感じてしまう人がいて、今は逆に「やっぱりオフラインがいいな」と言いにくくなっている逆の圧力がすごくあるのも予想できるんですよね。  私が必要だと思うのは、オフラインとオンラインに分かれた二つの世界があるという状態ではなく、オフラインとオンラインのグラデーション部分を埋めていく仕組みを作ることで、結局すべての人に対して何かしらプラスの状態を作れるんじゃないのかなということです。消えたい人は消えればいいし、交流したいけどオンラインでいい人はそれでいいし、オフラインを求めたい人はオフラインで交流してくださいという、いかにグラデーションを作るかが重要になってくると思うんですよね。  その意味でコロナ禍は消極勢のなかにも流派があるということをむしろ浮き彫りにしたのではないかという気がします。
     
  • ニューヨークのイノベーションシーンについて(前編)|橘宏樹

    2023-02-21 07:00  
    550pt

    現役官僚である橘宏樹さんが、「中の人」ならではの視点で日米の行政・社会構造を比較分析していく連載「現役官僚のニューヨーク駐在日記」。今回はジョンソン・エンド・ジョンソンの社内体制から、アメリカ企業のイノベーション・エコシステムについて分析します。
    橘宏樹 現役官僚のニューヨーク駐在日記第8回 ニューヨークのイノベーションシーンについて(前編)
    ▲トルコの国連代表部・在米トルコ人協会の前。被災した母国に物資を送る作業が昼夜問わず行われています。
     おはようございます。橘宏樹です。2023年も2月に入りました。昨年末は寒波に襲われたかと思えば、1月は雪ひとつふらない暖冬でした。そのくせ今月に入ると、体感マイナス20度級の極寒日が続きました。なんとも寒暖差が激しく、体調を崩しやすい日々です。
     年末年始は育休を取得しており、更新が少し滞りました。子育て経験がおありの方はよくご存知のとおり、毎日毎日、ミルク、おむつ替え、寝かしつけの無限ループが続き、夜中も2時間置きに対応せねばならず、慢性的な寝不足で毎日朦朧としていました。  妻の「手伝い」ではなく、父親として、当然子育てをしているという主体的な意識を持ちつつも、やはりこの局面では、父は母の指揮命令下に入った方が合理的ですし、夫としては、妻の基準で妻のやりたいようにできること、また彼女の負担を最大限減らすことが重要だと考えまして、なるべくサポート業務に従事するようにしました。例えば、赤ちゃんの風呂上がりにバスタオルを敷いて周りにパウダーやクリームやら蓋を開けておいて待ち構えるとか、次の次のミルクの下ごしらえをするとか。おむつ替えや授乳や寝かしつけといった「基幹業務」も妻の2/3くらいはできたかと思います。特に、心がけていたのは、判断を都度都度仰ぐのは鬱陶しかろうと思って(この涎掛けでよいか、とか、靴下は必要かとか。)、妻の望みを毎瞬先読みしつつ、自分の裁量で動くようにしていました。自分の生活リズムを完全に崩され、常に気忙しく、クタクタでした。日中も本当に朦朧としていて、役に立たない時間や、至らないことも多かったと思います。
     現在日本に一時帰国している妻からは、僕がおらず大変だ、育休期間は助かっていたんだなと今はよくわかる、という言葉をもらいまして、ちょっとは癒されている今日この頃です。ともかく、赤ちゃんは可愛いどころの騒ぎではない存在ですね。親になるとはどういうことか、こういうことだと言葉で言い表すのは難しいですが、なにかしら実感が胸の奥でふつふつと醸成されてきているのは感じます。
     さて、本題ですが、今号から3回に渡って、ニューヨークのイノベーションシーンについて取り上げたいと思います。
    1 ジョンソン・エンド・ジョンソン(JLABS@NYC)からの学び
     皆さんはジョンソン・エンド・ジョンソン(以下J&J)という会社をきっとご存知だと思います。バンドエイドやベビーパウダー、コンタクトレンズ、そしてコロナワクチンで有名ですよね。1886年創業の同社は、初期はもっぱらガーゼや包帯をつくっていましたが、約150年経った今、ご存知の通り、コロナワクチンをも製造する最先端の医薬品メーカーになっています。この成長力の秘密はどこにあるのでしょうか。それは、戦争のたびに売上を増やし、資本力をテコに買収を繰り返したからだ、と片づけてしまう方もおられるかもしれません。それはそれで否定されないと思いますが、先日、J&Jのインキュベーション施設「JLABS@NYC」を見学する機会を得まして、どのように買収の目利き力を養っているか、買収先との関係を築いているか、に関するあたり、もうちょっと高い解像度で、J&Jの発展の秘訣を見つけられたような気がしましたので、簡単に共有したいと思います。
    ▲JLABS @ NYCの紹介動画
    ▲JLABS玄関。白い箱は動画通話専用ルーム。
    ▲JLABSのコモンルーム。ヴェルヴェット生地のソファーが放つ光沢がゴージャスさを醸し出しつつも、華美過ぎず、リラックスできる雰囲気。入居しているベンチャー企業が打ち合わせやイベントに活用。
    ▲内部には研究設備が整う(JLABSウェブサイトより。僕が撮影した写真では机や棚の上などに置きっぱなしにされている入居各社の機密を含んでしまうので不使用)。
    ▲コワーキングスペース。入居した各社が事務作業するスペース(JLABSウェブサイトより。僕が撮影した写真では机や棚の上などに置きっぱなしにされている入居各社の機密を含んでしまうので不使用)。
     JLABSは、J&Jのライフサイエンス関係のインキュベーション組織です。米国を中心に欧州やアジアなど世界13カ所に拠点があり、JLABS@NYCはそのひとつです。残念ながら日本にはありません。これまでに、全世界で約800社以上のベンチャー企業がJLABSに所属・卒業し、そのうち約50社はIPOを実施、約40社をJ&Jが買収しました。また、日本を含む数えきれないほどの世界中の研究機関や医薬系関連会社や公的機関との連携ネットワークを有し、イノベーション・エコシステムを形成しています。
    対日投資成功事例サクセスストーリー Johnson & Johnson Innovation(JETRO 2021年8月)
    阪大と米J&J、健康・医療で連携事業展開(日刊工業新聞 2017年9月22日)
    京大とJ&J、医療機器・創薬で連携(日経新聞 2018年7月2日)
     JLABS@NYCはマンハッタンの南部の、ファッションやアート、フードなど、何かにつけイケてるエリアとして有名なSOHO(ソーホー)エリアのど真ん中にあります。新薬開発、MedTech等の分野で起業した約60社が所属しています。  上の写真のとおり、実験設備がひととおり用意されていて、事務作業するデスクもあるので、極端な話、入居しているベンチャー企業では鞄ひとつでこのオフィスに来て、研究や仕事をして帰ることができます。  もちろん研究や会社経営について助言をくれるJ&Jのスタッフが張り付いており、研修やマッチングイベントも提供されています。
     J&JのR&D(研究開発)への投資額は2021年で約150億ドルに達しており、医薬品業界ではトップ3に入っています。2010年には約70億ドルだったので10年で2倍以上になっています。また同社の2021年の総売上は約940億ドルなので売上の約1/6は投資に回っているということですね。(僕は収入の1/6を自己投資に使ってるかなあw)
    ▲ニューヨーク科学アカデミーの年次総会パーティー(Academy of Science in NY 2022 GALA)の模様。顕著な実績を上げた若手を表彰。
    ▲Academy of Science in NY 2022 GALAの宴席。11番の札の向こうに見える紳士はノーベル経済賞受賞者のスティグリッツ教授
    ・帝国としてのイノベーション・エコシステム
     さて、施設がある。たくさんの会社や研究所等とネットワークがある。ベンチャー企業には育成担当も張り付けている。エコシステムを形成している――。そういう話は日本でもたくさん聞きます。なんちゃらプラットフォーム事業といった国の政策もよく聞きます。それらの成否の評価についてはさておきつつ、今回JLABS@NYCを訪問し関係者のお話を聞いていて、圧倒的に悟った、非常にシンプルで当たり前な、普遍的な真実についてお話ししたいと思います。
     
  • すでにサイバースペースの半ば支配下にある実空間において、建築的アプローチの果たすべき役割とは|宇野常寛

    2023-02-14 07:00  
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    本日のメルマガは、PLANETS編集長・宇野常寛の情報社会論をお届けします。Web2.0の失敗は、実空間に対してどのような影響を与えたのか。情報社会が抱える諸問題に対して、サイバースペースと実空間の双方から取れる抵抗戦略を提示します。(初出:『建築と社会』誌2022年8月号)
    すでにサイバースペースの半ば支配下にある実空間において、建築的アプローチの果たすべき役割とは|宇野常寛
     編集部から2030年に考えられる社会と文化の変化について、というテーマを受け取ったのだが、これが悩ましい。もちろん、相応の説得力のある賢い文章をその回答に充てることはそれほど難しくない。データの羅列と、それを意味づける横文字によってその説得力を増すことも、手間はかかるがある種の語り口がテンプレートとして確立しているので精神的な労力はむしろ低くて済むだろう。しかし、私に求められているのは「そういうこと」ではないはずだ。文化批評に足場を置く私がここで述べるべきは、むしろ建築という領域から社会にアプローチする際につきまとう、目に見えない不安のような予感を門外漢だからこその視点で言語化することではないかと思うのだ。それは端的に述べれば、もはや建築的なアプローチは社会を得る力を持ちえない、という予感なのだと思う。
     
  • 勇者シリーズ(3)「勇者エクスカイザー」|池田明季哉

    2023-02-07 07:00  
    550pt

    デザイナー/ライター/小説家の池田明季哉さんによる連載『"kakkoii"の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝』。90年代に人気を博した「勇者シリーズ」。タカラ社が手がけた同シリーズの玩具商品群は、それ以前まで展開してきた「トランスフォーマー」シリーズの精神をどう受け継いだのでしょうか。
    池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝勇者シリーズ(3)「勇者エクスカイザー」
    『トランスフォーマーV』では、ジャン少年という「子供」にとって、スターセイバーという人格を持ったロボットが目指すべき「大人」である、という父子の関係が確立されたことを示した。言い換えれば、これは「未成熟な主体」が「魂を持った乗り物」にアクセスすることによって成熟を試みていく構造の確立でもある。
    この『トランスフォーマーV』に続いて制作されたのが、「勇者シリーズ」だ。「勇者シリーズ」という名称は、1990年に放送された『勇者エクスカイザー』から続く8年間に発表された8作品のおもちゃ/TVアニメシリーズのことを指す。タカラトミーが東映動画と日本テレビに代えてサンライズと名古屋テレビと組んだこの企画は、2020年代である現代においてなお商品が展開される大人気シリーズとなった。
    本稿では、勇者シリーズは、『トランスフォーマーV』が確立した人間の「子供」とロボットの「大人」という関係を拡張しながら、そこにさまざまなバリエーションを与えていったシリーズだと考える。その視点、つまり主人公となる「少年」とメインとなる「ロボット」の関係性と主体、そして彼らと対立する「敵」がどのように設定されたのか、さらにロボットが行う「グレート合体」がどのような要素を持っていたのかを整理していくことで、こうした構図が描き出す成熟のイメージがどのようなものであったのかを見ていきたい。
    「谷田部勇者」「高松勇者」「末期勇者」
    勇者シリーズは、アニメーションの制作時期と担当スタッフに注目しておおまかに3つに分類される。谷田部勝義が監督を担当した『勇者エクスカイザー』(1990年)、『太陽の勇者ファイバード』(1991年)、『伝説の勇者ダ・ガーン』(1992年)の3作。高松信司が監督を担当した『勇者特急マイトガイン』(1993年)、『勇者警察ジェイデッカー』(1994年)、『黄金勇者ゴルドラン』(1995年)の3作。そして望月智充に監督を交代した『勇者指令ダグオン』(1996年)、米たにヨシトモが手掛けた最終作『勇者王ガオガイガー』(1997年)の2作である。ここではそれぞれの区間を「谷田部勇者」「高松勇者」「末期勇者」と呼ぶことにしたい。
    ただし、本稿はあくまでおもちゃのデザインと、そこに宿された成熟のイメージについて扱う連載である。監督名による分類は一般的にファンのあいだで流通するものを踏襲した便宜的なもので、作家論に踏み込むことは本意ではない。たとえば谷田部勝義がサンライズロボットアニメを手掛けていく中で富野由悠季や高橋良輔から受け継いだ要素、高松信司による『新機動戦記ガンダムW』と『勇者特急マイトガイン』に共通する美学や『機動新世紀ガンダムX』で発露されたようなメタフィクショナルな要素が勇者シリーズにも見られること、そもそも谷田部と高松は共同作業で物語を作っていたこと、あるいは望月智充の『海がきこえる』と『勇者指令ダグオン』に共通する青春への眼差し、そして米たにヨシトモの『勇者王ガオガイガー』と裏表の関係にある『ベターマン』、大張正己の美学とシリーズに対する貢献――などについては掘り下げない。だとしても、アニメーションによって表現されるイメージと手を組むことを前提にしたおもちゃの想像力が、このまとまりでゆるやかに変化したと見ることにも一定の妥当性はあるだろう。
    エクスカイザーにおけるクルマと少年
    それでは第一作目となる『勇者エクスカイザー』から見ていこう。本作はこれから続く勇者シリーズの端緒として、基礎フォーマットを確立した重要な作品である。アニメーションにおける設定とおもちゃの仕様・商品構成を照らし合わせることで、勇者シリーズがどのような構造を基礎に置いたのかを確認していきたい。
    ▲『勇者エクスカイザー』のポスター。ロボット、自動車、少年という要素に注目してほしい。 『勇者シリーズデザインワークスDX』(玄光社)p7
    まずは物語の側から見ていこう。『エクスカイザー』の基本的なキャラクター配置は『トランスフォーマーV』とおおむね同じであるが、トランスフォーマーというブランドに積み重なった幾つもの作品が織りなす重層的な文脈を背負った『トランスフォーマーV』に対して、よりシンプルになるよう整理されている印象を受ける。
    物語の中心となる〈ロボット〉エクスカイザーは、「宇宙警察カイザーズ」のリーダーであり、仲間と共に地球にやってくる。目的は宝を求めて地球にやってきた〈敵〉「宇宙海賊ガイスター」を逮捕することだ。エクスカイザーは偶然自らの正体を知ってしまった〈少年〉――小学4年生の星川コウタの家にあるスポーツカーに融合し、地球の知識や常識を学びながら、ガイスターと戦っていくことになる。
    エクスカイザーをはじめとした宇宙警察カイザーズ、そして宇宙海賊ガイスターは、ともに宇宙のエネルギー生命体と設定されている。ゆえに地球ではさまざまなものに融合して活動することになり、カイザーズは主に乗り物に(エクスカイザーはコウタのスポーツカーと融合)、ガイスターは恐竜の実物大模型に融合する。ディティールは若干異なるものの、これは宇宙の機械生命体が地球の乗り物をスキャンすることで潜伏するトランスフォーマーと相似の設定である。
    しかしながら『トランスフォーマーV』と比べると、主人公である少年との関係性はやや変化している。スターセイバーは象徴的にも実際的にもジャン少年の「父」であったが、エクスカイザーとコウタ少年の関係は少々入り組んで見える。
    エクスカイザーはコウタ少年の家が所有するスポーツカーに宿っており、車に乗り込んだコウタ少年と会話する。この連載でも何度も扱ってきたように、自動車とは男性的な成熟のイメージだ。しかしポイントは、エクスカイザーが完璧な「父」ではない、ということだ。確かにエクスカイザーは宇宙警察に属する警察官であり、コウタ少年にとっての理想の成熟のイメージを色濃く反映する。しかしエクスカイザーは、地球についてはなにも知らず、人目に触れず自然に活動していくために、むしろコウタ少年が地球の文化を指導していくことになる。
    少年が少年のまま成熟するために
    さて、それではこうした設定と手を組んで発売されたおもちゃの構成は、どのようになっているだろうか。