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『大東亜論』はネトウヨに対抗できるか――歴史認識論争の情報戦を生きた小林よしのりの新展開 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.014 ☆
2014-02-20 07:00220pt
『大東亜論』はネトウヨに対抗できるか歴史認識論争の情報戦を生きた小林よしのりの新展開
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.2.20 vol.014
http://wakusei2nd.com
今日のメイン記事は宇野常寛のエッセイ二本立て。1本目は、昨年大ヒットした『あまちゃん』で若き日の小泉今日子を演じて話題を呼んだ有村架純についての小論。2本目は、幕張メッセで見かけた謎の政治学者・山口二郎似の男についての観察です。(※ 小林よしのり『大東亜論』は書評コーナーにあります)
■【お蔵出し1本目】有村架純――そこにいるはずなのに、いない存在。その不在感によって、受肉するとき。
(初出『女優美学III』)
有村架純を最初に意識したのはテレビドラマ「SPEC ~警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿~」だった。主人公たちの上司である熟年男性と不倫関係にある女子高生――。時折画面に現れては、ビターな笑いをもたらしてさらりと退場する。ときにはメタフィクション的な言及を行い、視聴者をどきりとさせる。親子ほど年の離れた男性との援助交際的な不倫関係結びながら、虚実の結び目を自由に往復するミステリアスな存在――今年で35歳になった僕には、有村の演じた「雅ちゃん」は90年代の女子高生ブームの折に男性サブカルチャーが過剰に仮託していた神秘的な「少女」性そのものに見えた。要するに、ひどく懐かしい感じがしたのだ。
次に気になったのは宮藤官九郎が脚本を手がけた「11人もいる!」だった。本作は「ビッグダディ」のブームに着想を得たかつての「大家族もの」テレビドラマのオマージュ的作品だったのだが、ここでの有村は意図的にテンプレートに従って設定されたであろう大家族の「しっかり者の長女」を演じていて、そしてビックリするくらいよくハマっていた。僕はいわゆる「大家族ドラマ」を見て育った世代ではないが、きっとある世代の人に彼女は「懐かしく」映ったのだろう。
そして、「あまちゃん」だ。クドカン以下の同作のスタッフもまた。彼女の「懐かしい」佇まいに気づいていたのだと思った。彼女が演じたのはヒロインの母親(春子)の少女時代だ。80年代にアイドルを目指して上京し、そして夢破れた東北の少女の「生霊」にして、この失われた20年の亡霊――それが劇中のキーパーソンであると同時に、有村架純という女優の存在感を体現する役柄だったように思える。
「あまちゃん」の春子役=幽霊とは、正反対のアプローチを試みているのが「スターマン」における臼井祥子役だ。「SPEC」と同じ堤幸彦監督の手掛けた同作における有村の役柄は、地方のスーパーマーケットの総菜コーナーにつとめる平凡な女性だ。代わり映えのしない日常に退屈し切った彼女は常に「ここではない、どこか」に思いをはせている(しかしそれが具体的にどこかは分からない)。そして等身大の、普通の自分の生活に彼女は常に苛立っている。否応なくこの世界に受肉させられてしまった有村の身体は常に違和感を抱えることになる。そしてその違和感を動力源に、有村演じる祥子もまた物語の世界観を体現する存在として機能していく。
そう、多くの作家たちがことごとくこの有村架純という女優を通して、失われてしまったものや、現実には存在しないもの、あるいはそれらのものへの憧れを描いてしまっているように僕には思える。 -
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.006 ☆ 「"絆"なんか、いらない――『半沢直樹』でも『あまちゃん』でも"炎上マーケ"でもなく」
2014-02-10 07:00220pt
【お蔵出し】"絆"なんか、いらない『半沢直樹』でも『あまちゃん』でも
"炎上マーケ"でもなく
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.2.10 vol.006
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"僕たちはまず正しく断絶すべきなのだ"中年層を中心に昨年大ヒットしたドラマから考える「繋がり」ではなく「断絶」から始めるインターネット社会論。(初出:「ダ・ヴィンチ」2013年 2月号)
昨年2013年は国内のテレビ放送開始から60年目の節目にあたる。そのため、この一年は各媒体でテレビ文化を総括する企画が数多く見られた。そしてテレビ文化に対しての批評をデビューから多く手掛けてきた僕は、その手の企画に呼ばれることの多い一年だった。新春に放送されたNHKの「朝ドラ」の歴史をさかのぼる番組から、『三田文學』誌のテレビの行く末を案じる座談会まで実にバラエティに富んだ企画に出席したが、そこで問われているものは本質的にはひとつしかないように思える。
それは、もはやテレビの役割は終わったという現実にどう対応していくのか、という問いだ。こう書いてしまうと、実際にこの手の企画で僕と同席することの多い研究者やもの言う制作者たちは不愉快に思うかもしれない。じっさいにこの種の企画の席上でも、僕は彼らとぶつかり合うことが多かった。曰く「とは言え、今はまだ国内最大メディアとしてのテレビの訴求力は大きい」「とは言え今はまだインターネットを情報収集の主な窓口とするライフスタイルは都市部のインテリ層に限られている」……もちろん、その通りだ。しかし、彼らの反論の「とはいえ今はまだ」という語り口が何より雄弁に近い将来にそうではなくなることを、誰もが予感していることを証明しているのではないか。
ある座談会でたぶん僕とは親子以上に年齢の離れた学者先生はこう言った。「とは言え、あの頃のように国民全体に共通の話題を提供するテレビのようなものは必要なのではないか」、と。僕はすぐにこう反論した。「いや、そんなものはもう要らない」と。
人間の想像力には限界がある。目の前で産気づいている妊婦を助けようと考える人も、遠い知らない街が災害に見舞われたと知ってもいまひとつピンと来ない、なんてことはそう珍しくない。この距離を埋めるためにマスメディアが機能したのが、20世紀の歴史だった。遠く離れたところに生きる人間同士をつないで、ひとつにすること。ばらばらのものをひとつにまとめること。こうして社会を成立させるために、マスメディアは有効活用された。そして、有効活用されすぎてファシズム(ラジオの産物と言われる)のようなものが発生し、世界大戦で危く人類が滅びかけたのが20世紀前半の歴史だ。そしてその反省から20世紀後半はマスメディアは政治から独立することを前提に運用されるようになった。しかし、その結果マスメディアは第四の権力として肥大し政治漂流やポピュリズムの温床と化している。
僕はこう考えている。もはやばらばらのものをひとつにまとめる装置としてのマスメディアの役割は、少なくともこの国においては終わっている。会社員男性の大半がプロ野球に興味を持ち、巨人ファンかアンチ巨人だという時代を回復しなくても、社会が破綻することはないだろう(現に破綻していない)。たしかに国家の、社会の成熟の過程でマスメディアが誰もが同じ話題に関心を持ち、重要だと考える「世間」を機能させることは有効だったに違いない。しかし、敗戦から70年に達しようとしているこの老境の近代国家・戦後日本はもはやその段階にはない。現に、インターネットを当たり前に存在するものとして受容している若い知識人層を中心に、「テレビ」の体現する公共性は大きく疑問視され始めている。
僕は社会人になってから一度も新聞を購読したことがない。そしてテレビのニュースはほぼ完全に、見ない。なぜならばそこで話題にされていることが、ほとんど自分の生きている社会のようには思えないからだ。政治報道は政局中心、経済報道は昔の「ものづくり」中心、科学と海外ニュースは割合自体が極端に低い。街頭インタビューで「市民の声」を拾えば、ねずみ色のスーツに身を包んだ新橋のサラリーマンと東京西部のベッドタウンの専業主婦を選ぶ。特にひどいのが文化面で、文化的存在感においても経済規模においても、ほとんど意味のないものになっている芥川賞を一生懸命報道するにもかかわらず、夏冬それぞれ50万人の動員をほこる世界最大級のイベントであるコミックマーケットは会場で事故が起きたときしか扱わない。
この人たちの頭の中は20年くらい前で時間が止まっているのではないかと本気で思う。彼らの頭の中ではまだ20世紀が、下手をしたら「昭和」がまだ続いているのだ。このニュースをつくっている人たちは、未だに郊外のベッドタウンに一軒家を買って、そこから正社員のお父さんが一時間半かけて都心の職場に通い、その家を専業主婦が守りながら子供を育てる、なんてライフスタイルが日本人の「標準」だと思っているのだろうか。どれだけオリコンと通信カラオケのヒットチャートをアイドルとV系バンドとアニメソング歌手とボーカロイドが席巻しようと「そんなものは一部のマニアックな人たちのもの」と切って捨てるのだろうか。(後者については、実際に対談の席で言われたことがあるが。)
私見では、これからのマスメディアが負うべき公共性はひとつしかない。それは、国民に対して知らなければ決定的に不利益になる情報を公開、周知することだ。重要法案のゆくえや、伝染病の予防接種まで──伝えるべきことは山のようにあるはずだ。マスメディアは限られた条件の中で、いかに効率よくこれらの物事を周知させるかだけを考えていればいい(それだけでも極めて困難なことだ)。
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