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2017年11月の記事 28件

長谷川リョー『考えるを考える』 第2回 21世紀の空海・石山洸が構想する新たなメディア・レボリューション「AIが色即是空を実現する」

編集者・ライターの長谷川リョーが(ある情報を持っている)専門家ではなく深く思考をしている人々に話を伺っていくシリーズ『考えるを考える』。前回は思想家の山口揚平さんに「意識をコントロールし、情報を有機化する方法」についてお伺いしました。今回登場いただくのは、僕のリクルート時代の大先輩である石山洸さんです。石山さんはリクルート時代にAI研究機関「RIT(Recruit Institute of Technology)を立ち上げるなど、リクルート社員であればその名を知らない人はいない人工知能のトップランナー。現在はエクサウィザーズの代表として、超高齢化社会に代表される数々の社会問題をAIの利活用によって解決することに取り組まれています。 「実は、人工知能の父であるマービン・ミンスキーも『考えるを考える』を考えていた」ーー。取材の冒頭でそう教えてくれた石山さんは、「シングルイシューは本質的に複雑系である」といいます。また、最近モデル化したという「4S理論(SENSE-SCIENCE FICTION-SHARE-SHIFT」のフレームワークもご説明いただきました。石山さんが”現代の空海”と呼ばれる所以に迫っていきます。 長谷川 この連載『考えるを考える』では、日本のような問題が複雑化した社会のなかで、「いかにシングルイシューを見定めるのか」、「そもそも思考とは何か」について探っています。まず初めに、石山さんにとっての「考える」とはどのような営為かお教えいただけますか? 石山 「人工知能の父」と呼ばれるマービン・ミンスキー先生が、実は私たちの会社の前身であるデジタル・センセーションで長らく顧問を務めていたんです。そしてミンスキー先生が人間の特徴としてよく言っていたのが、まさに「Thinking about thinking(考えることについて考える」。まさにこの連載と同じテーマですね。 長谷川 数ある社会問題のなかでも、石山さんが代表を務められる会社「エクサウィザーズ」ではAIの利活用を通じた超高齢化社会に付随する課題解決に取り組まれています。石山さんがなぜこのイシューを選んだのか、その背景から教えていただけますか? 石山 「超高齢化社会」は何も日本に固有の社会問題ではありません。時間軸として先に日本に来るのはたしかですが、やがて他の国にも訪れる現象です。そのため、先に日本でこの問題を解決しておけば、必ずグローバルでも役に立ちます。 それこそミンスキー先生が提唱されていた「ダンベル・セオリー」という概念にも通じることですが、人間の思考はすぐに「先進国/途上国」のように二元論でモノを捉えようとします。実際には、両者の間に共通する課題もあるでしょうし、もっと複雑な構造の場合もあります。 長谷川 石山さんが「超高齢化社会」を選ばれた理由は、解決したときのインパクトが大きいからでしょうか? 石山 「超高齢化社会」と一口にいっても、認知症の方の問題なのか、それを支える社会的な保険制度の課題なのか、イシューはシングルではないのです。個人がいかにケアされるのか、介護拒否をどうするのか、社会保障費をどうコントロールするのか。ミクロからマクロまで極めて複雑系の様相を呈するのが「超高齢化社会」に他なりません。 長谷川 一つの大きなイシューは複雑に枝分かれする問題群を内包しているということですね。 石山 その問題を捉える視点によっても見え方が変わるでしょう。例えば、ライフネット生命の出口治明会長と対談させて頂いた際に、出口さんが女性登用についておっしゃっていたことですが、消費を牽引しているのは女性なので、女性ウケする商品を開発するために、プロダクトマネージャーに女性を登用することが必要だと。女性が登用されないことには、そもそも消費が増えないので、マクロ経済が停滞する。ダイバーシティの問題よりもマクロ経済学的な視点で語られていました。一つの問題には必ず複数の視点があるという事例ですね。 長谷川 あるシングルイシュー一つをとっても、人それぞれで違う思考体系や認知の仕方で見え方が全く異なるということですね。 石山 あるシングルイシューも内実は、複数のイシューが重なりあっています。その重なり合ったイシュー同士の間にいかにコミュニケーション可能なトレーディングスペースを作り、全体として複雑な問題を解くのかが鍵になるということです。 マービン・ミンスキーは「考えるを考える」をどう考えたか ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

長谷川リョー『考えるを考える』 第2回 21世紀の空海・石山洸が構想する新たなメディア・レボリューション「AIが色即是空を実現する」

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第三章 オープンワールドと汎用人工知能(2)【不定期配信】

ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。一般的な人工知能は「問題に立脚して」作られていますが、三宅さんは問題に立脚しない、汎用人工知能に人類の「他者」となる可能性を見出します。 (2)人工知能の持つ虚無 問題特化型人工知能  「人工知能は稠密に作られる」というのは、人工知能は人間が設定した目標に達成するように、最適に作られていくことを意味しています。問題特化型の人工知能はその問題に向かって、というよりも、その問題を土台として築かれる人工知能です。つまり、問題特化型の人工知能は、問題を対象として構築されるというよりは、問題を立脚点として構築される、といった方が正しいでしょう(図3.2.1)。▲図3.2.1 問題の上に構築される人工知能 たとえば、工場のベルトコンベアでネジを締めるロボットを考えてみましょう。ロボットは目の前に来る部品のネジを締めるために、画像でネジを入れる位置を確認してアームでネジを締めるとします。このロボットアームはベルトコンベアで部品が流れて来る、という前提の上に固定されて設置されているわけですので、なぜ部品がそこに来るか、なぜネジを締めなければならないか、という問題は、人工知能が考える問題の外にあります。このロボットアームは問題の上で初めて成立する人工知能になっているのです。ベルトコンベアから外されればこのロボットは何者でもなくなってしまうのです。 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第三章 オープンワールドと汎用人工知能(2)【不定期配信】

京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第14回 ラブコメと架空年代記のはざまで――完全自殺マニュアルと地下鉄サリン事件(PLANETSアーカイブス)

今回のPLANETSアーカイブスは、本誌編集長・宇野常寛の「京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録」をお届けします。今回は、80年代の消費社会下で出現した「終わりなき日常」とその反作用としての「世界の終わり」というモチーフが、どのようにして90年代の文化へと接続されていったのかを論じます。  ※本記事は、この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです。/2016 年12月9日に配信した記事の再配信です。 80年代ラブコメの空気と『きまぐれオレンジ☆ロード』『超時空要塞マクロス』 ここまでは80年代の消費社会を「モノがあっても物語のない」時代と受け止めたサブカルチャーについて考えてきました。「ここではない、どこか」への脱出願望としてのファンタジーの機能がピックアップされ、当時のマンガやアニメが描いた冷戦期の最終戦争のビジョンはそのはけ口として受容されていったわけです。 しかしその一方で、この「モノはあっても物語はない」「いま、ここ」の「終わりなき日常」を肯定しよう、という思想もサブカルチャーは内包していくことになります。その舞台となったのは、以前取り上げた高橋留美子『うる星やつら』が代表するラブコメの系譜です。 70年代の少年誌が「スポ根」の時代なら、80年代の少年誌は「ラブコメ」の時代でした。もちろん、絶対的な連載本数においてラブコメがスポ根マンガやバトルマンガを圧倒したわけではありません。しかし、青年誌や少女誌に較べて決して親和性が高いわけではないラブコメという新興のジャンルがこの時期に拡大していったという意味において、80年代の少年誌はラブコメの時代でした。 そしてあの〈ジャンプ〉にすら、ラブコメは登場します。 ▲きまぐれオレンジ☆ロード  1巻(Kindle版)まつもと 泉  (著) これは、〈ジャンプ〉で連載された『きまぐれオレンジ☆ロード』という作品です。 (『きまぐれオレンジ☆ロード』オープニング映像上映開始) この作品は見てわかるとおり、主人公の春日恭介(かすが きょうすけ)がロングヘアーの同級生・鮎川まどか(あゆかわ まどか)とショートカットの後輩・檜山ひかる(ひやま ひかる)のどっちと付き合うかという、ただそれだけのラブコメです。主人公の声はアムロの古谷徹が演じていますね。当時は男子中高生のあいだで、まどか派かひかる派かでの論争が起こっていたようです(笑)。 そして恐るべきことに主人公の恭介くんは超能力者なんです。キービジュアルを見ただけではまったくわからないと思いますけどね。しかも物語の進行に、主人公が超能力者であるという要素はほとんど関係していない。当時は超能力設定が流行っていたから「とりあえず入れとく?」って感じで無駄に超能力要素が入っているんです。いまだに、『きまぐれオレンジ☆ロード』で主人公が超能力者であることの意味はよくわからないですね。 まあ、この時代にはそれぐらい超能力が流行っていたっていうことです。これまで話してきたように、超能力要素には「ここではない、どこか」への願望が込められていたわけです。そこに「いま、ここ」を目一杯楽しむというラブコメの思想が歪(いびつ)に合体しているのがこの『きまぐれオレンジ☆ロード』という作品なんですね。 同じような動きがロボットアニメにも現れます。以前扱った『超時空要塞マクロス』です。 (『超時空要塞マクロス』映像上映開始) この『マクロス』という作品では、ゼントラーディっていう宇宙人軍団と地球人が戦争して、総力戦の中で人類の命運を賭けた大戦争をしているわけですけど、その大戦争があくまでも背景でしかない。メインは主人公の少年パイロットが美人上司とアイドルデビューした同級生のどっちと付き合うかっていう、非常にどうでもいいストーリーです。で、結局美人上司の方とくっつく。アイドルってやっぱり恋愛禁止だからというのもあって、フラれたアイドルのほうは本当に「みんなの恋人」として歌を届け、戦場のヒロインになっていく。当時80年代のアイドルブームの影響を受けているわけです。 これが80年代半ばの大きな二つの流れなんですね。ひとつは「ここではない、どこか」を求め、現実の世界から失われたドラマチックな世界観をファンタジーの中で取り戻そうというオカルトや架空年代記への欲望。そしてもうひとつが「いま、ここ」を目一杯楽しもうと言うラブ&コメディーへの欲望です。そしてこのふたつがいびつに結びついているのが、『きまぐれオレンジ☆ロード』であり、『超時空要塞マクロス』だったんです。 80年代末の宮崎勤事件と過去最大のオタクバッシング ここまで80年代のオタク文化を見てきたわけですが、さきほどの転生戦士たちの自殺未遂事件と同時期の1988〜89年に、オタク文化の盛り上がりに水をさす事件が起こります。 宮崎勤という当時20代半ばの青年が、近所の女の子を次々と誘拐して殺し、しかもそのうちの何人かの肉を食べたという「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」です。みなさんはこの事件のことを知っていますか? 知っている人は挙手してください。 ……なるほど、かなり少ないですね。これは当時マスコミでもかなり騒がれた事件なんです。この宮崎勤という人物は、今で言う「非コミュ」で当時の学校社会や企業社会には馴染めずに親の印刷工場を手伝っていたんですが、アニメ・特撮オタクでもありました。実家の離れのような場所で暮らしていて、そこに録画したVHSの山があったことがマスコミで大きく報道されました。 この当時は「オタク」という言葉が生まれて5、6年経っていた頃ですね。評論家の中森明夫さんが「漫画ブリッコ」という成人向けマンガ雑誌でコラムを連載するなかで、二次元の世界に逃避する若者たち、どちらかといえばコミュ障の人たちのことを指すのに使った言葉が「オタク」だったんです。 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第14回 ラブコメと架空年代記のはざまで――完全自殺マニュアルと地下鉄サリン事件(PLANETSアーカイブス)

宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第二回 チームラボと「秩序なきピース」(前編)(3)【金曜日配信】

本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。この展示会に「境界のない世界」をテーマに選んだ理由を、チームラボ・代表の猪子寿之さんはこう語ります。「そこが2017年のロンドンだったから」ーーその言葉の意味を解説します。(初出:『小説トリッパー』 秋号 2017年 9/30 号) 2 群鳥はロンドンに飛んだ  二〇一七年一月から三月、チームラボはイギリス・ロンドンで「teamLab: Transcending Boundaries」と題した展示会を行った。このときのチームラボの展示は(彼らのものとしては)決して大規模なものではなかったが、同展は大きな驚きを持って迎えられた。  たとえば前述の〈ウォール・ストリート・ジャーナル〉(二〇一七年一月九日号)は、「The Top Selfie-Worthy Museum Shows of 2017」という記事で、当時まだ開催中だったこのロンドン展「teamLab: Transcending Boundaries」を草間彌生や村上隆と並べて選出した。このときチームラボはロンドンで発行される同誌の雑誌版の表紙も飾ったという。(4)  同展のコンセプトは「境界のない世界」だ。  たとえば同展の中心をなすもっとも大きな展示室では、展示されている七つのまったく異なる作品の間を、蝶のグラフィックが横断しながら飛び交っていく。この蝶たちは単に作品間を横断するだけでなく、それぞれの作品の状態に影響を受ける。たとえばある作品の中で花が咲いていれば、そこに集まる。さらにこの蝶たちは常に鑑賞者の存在の干渉を受ける存在でもある。蝶たちは鑑賞者の足元から発生し、そして飛び立っていく。鑑賞者が蝶のグラフィックに触れるとその身体は四散し、死ぬ。  そう、ここでは様々な境界が同時に無効化されている。  まず、蝶が作品間を横断することによって、作品と作品、事物と事物との境界が曖昧になる。そして鑑賞者の存在が蝶の生死に関与することで、人間と作品、人間と事物との境界も曖昧化することになる。  そして別室に展示された〈Flowers Bloom on People〉では、これに加えて人間間の境界が曖昧になっていく。この展示は一見、ただの暗室だ。そこに鑑賞者が入室すると、その身体に花(のグラフィック)が咲き(投影され)はじめる。そして鑑賞者の身体に咲いた花たちは、近くにいる別の鑑賞者に向けて広がり、足元の花々がつながっていく。こうして、同作は鑑賞者同士の境界をも曖昧にしようとしていく。  なぜ「境界のない世界」をつくりあげたのか。答えは明白だ。猪子は言う、「そこが二〇一七年のロンドンだったから」だ、と。 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第二回 チームラボと「秩序なきピース」(前編)(3)【金曜日配信】

【特別寄稿】稲田豊史『ドラえもん』と四十路男の15年 〜THE ドラえもん展に想う〜

六本木ヒルズ・森アーツセンターギャラリーで開催中の「THE ドラえもん展 TOKYO 2017」に寄せて、大のドラえもん好きであり、『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』の著者である稲田豊史さんのエッセイをお届けします。15年前の同展には憤りを感じていた稲田さんが、移ろいゆく『ドラえもん』に見出した変化とは? 2002年版「THEドラえもん展」への怒り  気鋭の現代美術家が『ドラえもん』をモチーフにさまざまなアート作品を披露する「THE ドラえもん展 TOKYO 2017」(六本木ヒルズ・森アーツセンターギャラリーで11月1日より開催中)が盛況だが、15年前にも同様の主旨で開催されている。2002年7〜9月に大阪の旧サントリーミュージアム、翌2003年3〜5月に横浜のそごう美術館。以降も04年までの間に、旭川、名古屋、大分、松江と各地を行脚したので、足を運んだ方も多いだろう。  2002年時点で筆者は27歳。今と同じく、否、今以上に戦闘的なドラえもん好きを自認していた当時、企画内容を聞いて真っ先に抱いた印象は、一言「いけすかない」だった。  現代美術家がてめえの勝手なゲージュツ的主張のために『ドラえもん』をまんまと「素材利用」した(ように見えた)ことに対する怒り。作品に対する深い愛の表明よりも、自己愛のほうが勝っている(ように見えた)ことに対する怒り。アーティスト自身による自作の解説テキストが「人の話を聞かないで自分語りばかりしている(ように読めた)ことに対する怒り。  「ハイハイ、ポップアート(笑)のいちばん安直なやつね。二次創作のほうがまだマシ」等々、当時つるんでいた同世代の人文&サブカル系女性編集者と共に、深夜のデニーズで愉快に毒づいていたのが懐かしい。  要は「外野に狩り場を荒らされた」という一方的な被害者意識から来る、見識の浅いサブカル者特有の狭量な逆恨みに他ならないわけだが、その少し前に単行本で読んだマンガ『ギャラリーフェイク』(細野不二彦・著)の有名な“村上隆ディスり回”が、15年前の筆者が振りざした「正義の怒り」の燃料になっていたことは、想像に難くない。 『ギャラリーフェイク』の村上隆ディス  『ギャラリーフェイク』は1992年から2005年まで「ビッグコミックスピリッツ」に連載された美術ウンチク漫画で、主人公は贋作専門画廊オーナーにして図抜けた審美眼を持つアウトロー、藤田玲司。歯に衣着せぬ物言いで、腐敗した美術界や堕落したアーティストをガンガン喝破する男である。 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

【特別寄稿】稲田豊史『ドラえもん』と四十路男の15年 〜THE ドラえもん展に想う〜

福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か 1 敵のいない戦争映画(2)【毎月配信】

文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。日本の戦後サブカルチャーと「戦争」について論じた前回に続いて、今回は「敵」が消滅した日本の戦記映画の特徴を、アメリカのそれと比較しながら語ります。 敵を抹消する技術  戦後になっても、国策映画におけるホモソーシャルな友情は、政治的に無害な美学として受け入れられた。山本や円谷とともに出席した一九六八年の座談会で、森岩雄が『加藤隼戦闘隊』について「よくできていますね。米英がどうなんて言葉は一つもないし、加藤隼戦闘隊長と隊員との間の人間的つながり、戦争に対する人間的なつながりというものを描いていますね」と評したのは、製作者自身の牧歌的な意識をよく示すものである[9]。この見方そのものは正しいとはいえ、それは「戦争映画」としてはひどく奇妙なものだと言わねばならない。『加藤隼戦闘隊』は確かに円谷の特撮を介して男たちの「人間的つながり」を強調していたが、それは敵の抹消と表裏一体なのだ。コミュニケーションの範囲は「友」に限定され、「敵」には及ばない。  このような傾向は、円谷が特技監督を務めた戦後の東宝の「戦記映画」でも変わらなかった。一九五〇年代から六〇年代にかけて製作された『太平洋の鷲』、『さらばラバウル』、『太平洋の嵐』、『太平洋奇跡の作戦 キスカ』等では、いずれも男どうしの絆が強調されている。なかでも松林宗恵監督の『太平洋の嵐』(一九六〇年)は円谷の特撮によって真珠湾攻撃を再現しつつ、ミッドウェー海戦で戦死した日本の軍人たちに、海底に沈む生霊のような姿を与えた。それは一種の「鎮魂」の映画ではあるが、日本が何のために戦争をしたのかは語られず、アメリカという敵の論理にも関心が払われない。  考えてみれば、これらの「太平洋」を冠した一群の戦記映画のタイトルは、一九四五年十二月に「大東亜戦争」の使用を禁止し「太平洋戦争」という新しい呼称に置き換えたGHQの占領政策にきわめて忠実である(江藤淳によれば、この名称の変更は「戦争に託されていた一切の意味と価値観」の変造を伴っていた[10])。ゴジラやモスラから『ウルトラマン』のゴモラに到る特撮の怪獣たちも「大陸」ではなく「太平洋」に出自をもつが、これも占領下の概念操作と無関係ではない。しかも、『太平洋の鷲』や『さらばラバウル』の空戦場面は、米極東空軍司令部から戦時の映像を借りて作られていた。戦後の日本映画は、勝者のアメリカから与えられた戦争名と地域と映像によって、自分たちの戦争を総括せざるを得なかった。  大島渚は「敗者は映像を持たない」という七〇年代前半の刺激的なエッセイのなかで「私たちの映像の歴史は、どんな映像が存在したかということより、どんな映像が存在しなかったかということの歴史なのである」と鋭く指摘している[11]。このような「映像の不在」への注目は、日本の特撮映画について考えるときにも必須だろう。『ハワイ・マレー沖海戦』以来のスペクタクル的な特撮の背後には、敵の現実を映像化することへの徹底した無関心が潜んでいた。円谷の技術は軍艦や戦闘機を魅力たっぷりに再現することによって、かえって人間としての敵を抹消してしまったように見える。  さらに、戦後の戦記映画になると、実写(現実)と特撮(虚構)のバランスが崩れていくことも見逃せない。円谷自身が不満を漏らしているように、『ハワイ・マレー沖海戦』では飛行機や航空母艦の実写撮影を使用できたのに対して、戦後の東宝の『太平洋の鷲』や『太平洋の嵐』になると、本物の兵器ではなくセットが主になり、かつ予算やスケジュールにも制約があったため、演出上の「チグハグな面」が露呈してしまった[12]。押井守が戦争の虚構性を訴えるまでもなく、そもそも特撮戦記映画というジャンルそのものに、トリック映像の不自然さを隠し損ねた面があったわけだ。逆に、乾いたスピーディな演出を得意とした岡本喜八監督が、東宝の『激動の昭和史 沖縄決戦』(一九七一年)のような戦記映画で独自の作家性を確立し得たのは、チグハグになりかねない戦闘場面をリズムやテンポの力で巧みに処理したからではないか。 戦争画と戦争映画 ■PLANETSチャンネルの月額会員になると…・入会月以降の記事を読むことができるようになります。・PLANETSチャンネルの生放送や動画アーカイブが視聴できます。  

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