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記事 27件
  • 【今夜21時から見逃し配信!】坂本崇博×新野俊幸「ワークスタイルから社会を変える」

    2020-12-26 12:00  
    今夜21時より、コクヨ・働き方改革PJアドバイザーの坂本崇博さんと退職代行「EXIT」代表取締役社長の新野俊幸さんをお招きした遅いインターネット会議の完全版を見逃し配信します。
    24時までの限定公開となりますので、ライブ配信を見逃した、またはもう一度見たいという方は、ぜひこの期間にご視聴ください!
    坂本崇博×新野俊幸「ワークスタイルから社会を変える」見逃し配信期間:12/26(土)21:00〜24:00
    気がつけば「働き方改革」という言葉がブームになって随分長い時間が経ちました。しかしこの国のワークスタイルは、企業社会は、本当に変わったのでしょうか。「働き方」「やめ方」のプロを交えて、サラリーマンの働き方から社会を変えるための作戦会議を行います。 
    ※冒頭30分はこちらからご覧いただけます。https://www.nicovideo.jp/watch/so37157730
    また、PLANE
  • 男と金|井上敏樹

    2020-12-25 07:00  
    550pt

    平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。今回はお金にまつわるエピソードです。ある晩、神社の境内で見つけた千円札から、拾ったお金についての思い出が蘇ります。敏樹先生の考えるお金論とは……?
    「平成仮面ライダー」シリーズなどで知られる脚本家・井上敏樹先生による、初のエッセイ集『男と遊び』、好評発売中です! PLANETS公式オンラインストアでご購入いただくと、著者・井上敏樹が特撮ドラマ脚本家としての半生を振り返る特別インタビュー冊子『男と男たち』が付属します。 (※特典冊子は数量限定のため、なくなり次第終了となります) 詳細・ご購入はこちらから。
    脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第61回 男 と 金     井上敏樹 
     金を拾った。友人と酒を飲み、夜、神社の境内を歩いていると、寒風に煽られ、枯葉がさざ波のように打ち寄せて来て、その中に千円札が混じっていたのだ。まさに神様からの贈り物である。子供の頃はよく金を拾ったものだ。おそらく地面に近い位置で生きていたからだろう。私の友人に、『あ〜、金が降って来ないかな〜』と口癖のように呟き空を仰ぐ者がいるが無駄である。金は空からは降って来ない。地面を見ている方がましである。生まれて初めて金を拾ったのは今よりずっと地面に近い頃――弟とふたりで遊んでいると、道端に百円玉が落ちていた。興奮した。当時の私にとって百円と言えば大金だった。駄菓子屋に行けば麸菓子や酢イカやアンズやあんこ玉がたらふく食える。だが、私は弟の手前もあって、別の行為を選択した。つまり、交番に届けたのだ。交番への道のり、私は自分がひどく誇らしかったのを覚えている。まるで英雄にでもなったような気分だ。私はお巡りさんの前にグッと握り拳を差し出した。『お金を拾いました』そう言って指を開くと、掌に百円玉が光っている。だが、お巡りさんは言ったのだ。『君は偉い。取っておきなさい』と。幼心に私は学んだ。拾った金は自分の物になるのだ。使っていいのだ。そう言えば私の母も同じ事を学んでいた。学び、そして実践していた。
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  • 『もののあはれ』の実装は可能か──「necomimi」作者・加賀谷友典が師・江藤淳から継承した思想(PLANETSアーカイブス)

    2020-12-24 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、脳波で動く猫耳「necomimi」を作った、加賀谷友典さんのインタビューです。一見キャッチーなプロジェクトの先に浮かび上がったのは「もののあはれ」という意外な言葉。そのルーツには師である文芸評論家・江藤淳から継承した思想がありました。(構成:稲葉ほたて・池田明季哉)※この記事は2014年7月9日に配信した記事の再配信です。※インタビュー内容は、2014年当時の状況に基づいたものです。
    necomimiの作者は何をつくろうとしているのか
    宇野 僕は加賀谷さんを人に紹介しようと思う時に、いつもどう紹介したらいいか悩んでしまうんですよ。加賀谷さんのような立場でものづくりに関わっている人って、僕の知る限りほとんどいない。効率化と最適化を行うコンサルティングだけでもないし、単に表層的なアイディアを出すのでもない。何か思想を含めた、トータルなビジョンを提案しているように感じるんです。
    加賀谷 そうですね。僕のやっていることは説明が難しいんです。最近自分のことを「新規事業開発専門のプランナー」と言えばなんとなく耳慣れていて納得してもらいやすい、ということを覚えたんですが……(笑)。もっと本質的なことですよね。
    僕は情報ジャンキーなんで、純粋に知りたい欲求で動いているんです。だからたまたま物事がメジャーになる手前でキャッチすることが多くて、それをプロジェクトにしていく感じです。例えばphonebookはまだガラケー全盛のスマホ黎明期に、タッチパネルを使って絵本を作ったプロジェクトでした。
     
    ▲phonebook
    その後はiButterflyという、ARとGPSを組み合わせて、ある場所にしかいない蝶を捕まえてクーポンをゲットするアプリケーションを作りました(参照)。
    それでスマホはだいたいやったな、と思ってシリコンバレーに遊びに行ったら、脳波テクノロジー・ベンチャーのニューロスカイ社と仲良くなり、それでnecomimiに繋がっていったわけなんです。
    ▲necomimi
    宇野 加賀谷さんのプロジェクトって、言ってしまえば全てコミュニケーションなんです。でもその捉え方が普通と少し違っているのが興味深い。
    そもそも情報機器によるコミュニケーションって、文字とハイパーリンクによって人間の内面を陶冶していくような話が多いじゃないですか。しかも、現在のネット空間を見ていると、その可能性を語るのはかなり厳しくなっている。ところが、加賀谷さんのプロジェクトはそんなふうに人間を文字で内面から陶冶する可能性なんて一度も検討したことがないような気さえする(笑)。
    加賀谷 まさに、そういうところからは距離をおいてますね……。だって、動物の生態系なんて、非言語的ではあっても、情報のやりとりはなされているわけでしょう。別に言語に拘る必要はないじゃないですか。

    文芸評論家・江藤淳がコンピュータ・サイエンスについて語った"予言"
    宇野 プロフィールを見て気になったのですが、加賀谷さんはSFCにいたときに、文芸評論家の江藤淳のゼミにいらっしゃっいましたよね。
    加賀谷 そこに目をつけますか(笑)。江藤先生のことを話すのは初めてですよ……。僕が先生と出会ったのは、ちょうど江藤さんが学部での講義を再開した頃でした。後継者として文芸評論家の福田和也さんを連れて来られる数年前ですね。
    僕の方は当時大学の一年生で、SFCに政治哲学をやりたくて入ったばかりだったのですが、あの頃は現実の政治体制の分析みたいなことしかやっていなくて……もう正直なところ、退学しようと思っていたんです。でも、そんなある日、ちょうど病気の療養から回復してきたばかりの江藤淳さんが、それでまでに一度も話したことがないという「現代思想」の講義をするという機会があったんです。
    じゃあ、それだけは聞いて辞めようと足を運んで……僕は人生で最も興奮する講義を聞いたんです。
    宇野 それは、とんでもなく貴重な機会に恵まれましたね。
    加賀谷 その講義で一つ忘れられないのが、江藤さんがコンピュータについて言及して、「おそらくコンピュータサイエンスから、言語を否定するような言語理論が生まれてくるだろう」と言ったことなんです。
    正直なところ、当時は何を言ってるのかわからなかった(笑)――でも、なぜかめちゃくちゃに興奮したんですね。
    その後、僕は彼の日本文学のゼミで、言語哲学のようなことを始めました。周囲が坪内逍遥の作品だとかを研究している中で、「言語という秩序体系が、なぜ非秩序である"心"を表現しうるのか」みたいな思想的問題を、一人で延々と考えていたんです。そこで興味を持ったのが本居宣長でした。彼は「漢字の輸入によって、言語を文字として定着させられるようになったけれども、"もののあはれ"が失われてしまった」と「漢意」を批判しているわけですね。
    宇野 それは、江藤淳という人が近代日本のニセモノ性に極めて自覚的だったことと大きく関係してると思います。一般的には戦後日本の文化空間が敗戦とその後のアメリカによる統治によってもたらされたニセモノである、ということを批判した人だと江藤さんは思われている。それは正しいのだけど、より正確にはそんなニセモノであることに自覚的であることによってしか、現代人は成熟できないし、その自覚にしか文学は生まれない、という考えがあったと思うんですよね。そして同時にそれは日本語という日本の近代化が生んだ装置の不完全性への対峙こそが、現代文学であるという理解にもつながっていたと思うんです。
    ところが、加賀谷さんのアプローチというのは、言語が世界を表せないのなら、最初から言語以外のツールを使えばいいという発想になっている。だからそもそも言語の不完全性に向き合う必要がない。
    加賀谷 まさにそうなんです!
    だから、そういう話を江藤先生にしたら、「さすがに日本文学の研究室は違うよね」と言われて「どうしますかねえ」となって、一緒にお酒を飲んでました(笑)。
    宇野 江藤淳の弟子筋からこういう人が生まれたのは、いい意味で歴史の皮肉だと思うんですよ。
    加賀谷 でもね、それから僕は大学を出たあとに大学院にも行かずぶらぶらしていたのですが、その頃に江藤さんにお会いしたら「とりあえず、生き延びろ」と言われたことがあるんです。「俺なんて初めて給料をもらったのは30歳を過ぎたときだ。君はまだ8年もあるだろう」と(笑)。
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  • 超ロングセラーミニカー「トミカ」の50年──“本物らしさ”と“優しさ”を守り続けて

    2020-12-23 07:00  
    550pt

    皆さんはトミカで遊んだことはありますか? 1970年に登場したミニカーシリーズ「トミカ」も今年で50歳。発売以来、低価格、高品質を維持しながら、子どもも大人も夢中にさせてきたトミカ。こんなにも長きにわたって愛され続けた理由は何なのでしょうか? 発売元のタカラトミーを訪ねて、その魅力を探ってきました。(聞き手:宇野常寛、構成:杉本健太郎・PLANETS編集部)
    なぜトミカは国民的ベストセラーになったのか
     ミニカーの代表的ブランド「トミカ」が発売50周年を迎えた。現在までに、累計1050種類、販売台数6億7000万台という驚異的なロングセラーブランドである。常に140種をラインナップし、毎月第3土曜日に新車を発売し、ラインナップを入れ替えている。1970年の登場以来、低価格ミニカー市場において豊富な商品ラインナップを維持し続けているトミカ。ミニカーといえば、外国車や1/43サイズなどの大型モデルが中心だった時代に国産車で子どもの手のひらサイズというまったく新しいコンセプトで登場したミニカーだった。
    ▲1970年発売の初代トミカのラインナップ
     「1970年当時日本にはいろんなミニカーがあったんですけど、国産車でも大きいものが多くて、トミカサイズの小さいものはなかったんです。あったとしても海外から輸入されたものがほとんど」と語るのはタカラトミーでトミカの開発を担当している流石正氏だ。
     トミカの自動車は明確なスケールを設定していないという。国産ミニカー市場自体がほぼなく、ミニカー=輸入玩具という時代に、子どもの手のひらに乗るようなサイズのおもちゃを考えて、このサイズに落ち着いたという。価格も180円(当時)と買い求めやすい値段設定にした。小サイズ、低価格がもたらすコレクション性は、トミカの魅力の中核だ。日本の子どもにミニカーカルチャーを根付かせたのがトミカなのである。
    ▲2021年1月発売予定。No.89 ランボルギーニ シアン FKP 37(© TOMY)
    ▲2020年12月発売。No.26 トヨタ クラウン(© TOMY)
    ▲同じく12月発売。No.84 レクサス RC F パフォーマンスパッケージ(© TOMY)
     トミカ誕生当時、同様に現実の車両をモデルにした(広義の)おもちゃとして、プラモデルがあった。男児向け玩具の歴史に詳しいデザイナー/ライター/小説家の池田明季哉氏は、田宮模型(タミヤ)がリードしていたプラモデル全盛の時代におけるトミカ登場の意義をこのように振り返る。
     「トミカ誕生前夜となる1960年代は、世界中でいわゆるスケールモデルが発展したプラモデルの黄金時代で、日本のメーカーが高い技術力で急激にそこに迫っていった時期です。1968年にタミヤが1/12 ホンダF-1をドイツのニュルンベルク国際玩具見本市に出品し好評を博したことは、日本メーカーの技術力を窺い知ることのできる象徴的な出来事でしょう。まさにホンダがF-1へ電撃参戦し活躍したことに見られるように、こうした模型の発展は日本の工業技術の発展とシンクロしています。70年代後半にスーパーカーブームがおもちゃ業界を席巻したことからもわかるように、この時代の日本の子どもたちにとって、自動車はたいへん勢いのある“かっこいい”モチーフであったはずです。  しかしながら、当時から現在に至るまで、自動車のプラモデルは小さくとも1/48スケールが主流で、トミカのような1/64前後のスケールはほとんどありません。またプラモデルをトミカと同じレベルで見栄えがするように仕上げるためにはたいへんな工作技術が必要です。1/64という手のひらサイズで、国産の低価格で、しかも頑丈でよく走るトミカは、当時の小さな子どもが抱いていた自動車への憧れの受け皿として、唯一無二のポジションだったと思われます」
    毎月2つが消えて2つが加わる。140種の熾烈なラインナップの決め方とは
     毎月2種類のラインナップを変更しながら、常時140種を維持しているトミカ。この編成はどのように決められているのだろうか。改めてタカラトミーの流石氏に訊いてみた。
     「大きくは変わらないです。基本は働く車や緊急車両、スポーツカー、乗用車や外国車などです。その時々のブームになっている車、例えばRVやコンパクトカー、ファミリーカー、今だとエコカーや電気自動車などが出てきたとしても、そういう車が一気に増えるわけではありません。バリエーションを大事にしているので、多少の割合は変わりますけども、緊急車両やスポーツカー、乗用車やバスなどの基本種はある程度の一定の割合を維持しています。例えば2018年からフェラーリのモデルをトミカで製品化していますが、非常に好調です。もっと種類を増やせばいいと思われるかもしれませんが、あえて抑えています。トミカは“立体版の乗り物図鑑”であることを肝に銘じています。いろんな車両があってこその図鑑なので、ラインナップが偏らないように、乗り物全体にバランスをとるよう意識しています」
    ▲No.62 ラフェラーリ(© TOMY)
     “立体版の乗り物図鑑”であるというのは、言い得て妙だ。そうだとすれば、トミカにラインナップされることは、時代時代の自動車産業全体の縮図になるような代表選手を選んでいくのに等しい作業だということになる。そうだとすれば、気になるのは、各シーズンごとの「具体的なラインナップはどういう基準で決まっているのか」だ。廃盤になるトミカ、新たに加わるトミカ、相当な駆け引きがある気もするが、実際のところはどうなのだろう。流石氏の回答はこうだ。
     「毎月新たに2種類加わるわけですから、当然既存のラインナップから2種類減ることになります。これにはいろんな理由がありますが、基本的には外国車ですと、版権の問題があります。あとは安全基準の部分で、『これは今の基準に合致しないな』というものは落としていきます。もちろん販売データも加味していますが、販売実績よりも、さっき言ったようにバランスを保つことの方が大事なので、売れてないから入れ替えるなどと単純に決めているわけではありません」
     廃盤にするトミカと新たに加えるトミカを決めるときの「入れ替え戦」で、部署内の「推し車種」の衝突があったり、版権をもつ自動車メーカーとの関係性で揉めたりとかはしないのだろうか?
     「廃番になる方はあまり喧嘩にならないですが、新しく入れる方は皆さんいろんな意見がありますね(笑)。開発にだいたい1年ぐらいかかるので、議論には時間をかけます」 
     どうやら野暮を聞いてしまったようだ。そうした50年の移り変わりの中で、売れる車の傾向にはどのような変遷があったのだろうか。
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  • 父としてのあだち充の「本音」と「優しさ」が描かれた『虹色とうがらし』(後編)| 碇本学

    2020-12-22 07:00  
    550pt

    ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。前編に続き、異色作『虹色とうがらし』の読み解きです。ファンが期待する青春ラブコメ路線を離れ、あだち充がSF×時代劇の趣向を隠れ蓑に個人的な好みと思いを徹底的に追求した本作は、それ以前にも以後にもない「父」の視点が際立つ作品となりました。
    碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春第15回 父としてのあだち充の「本音」と「優しさ」が描かれた『虹色とうがらし』(後編)
    「SF×時代劇」の見かけに隠された「本音」

    「ラフ」を描いたあとで、もうこの辺で好きなことやってもいいんじゃないかと。ウケようがウケまいが知ったことではないということで始めたのが、「虹色とうがらし」ですね。〔参考文献1〕

    『虹色とうがらし』における「SF×時代劇」という世界観は、ほかのあだち充作品と比べるとやはり異色である。それは作品の冒頭からすでに現れていた。 それまでのあだち作品では、このキャラクターが主人公だということを示すようなシーンや、彼らの住んでいる家や町の風景のコマ、あるいは主要人物の関係性や特徴を示すものが冒頭に描かれているものが多かった。 あだち充作品の中でも、特に冒頭が素晴らしい『タッチ』を例に挙げてみよう。 冒頭2ページは達也たちの勉強部屋の全景を一コマで描いたほぼ同じものが四コマ続く構図がそれぞれのページで繰り返される。 1ページ目の一コマ目は全景のみ、二コマ目は左から学生服の南が歩いてくる、三コマ目は南がドアを開けて中に入っていく、四コマ目でドアが閉まり学生鞄を持った南が左方向へ歩いていく。 続く2ページ目も構図はほぼ同じ。一コマ目は屋根にスズメがいる以外は同じであり、二コマ目で右から学生服の和也が歩いてくる。三コマ目も南とほぼ同じであり、四コマ目も学生鞄を持った和也が部屋の左側へ歩いていくという同じ構図だった。 3ページ目では通学路での南と和也のやりとりが描かれ、二人の顔がやっとわかり、4ページ目でやっと主人公である達也が登場する。ここでは南と和也の最初の登場シーンと同じ勉強部屋を描いた四コマであるが、最初の一コマ目は二人とほぼ同じであり、違うとすればスズメが地面をチュンチュン歩いていることぐらいだ。二コマ目では服を着替えながらパンを口にくわえた達也が右からやってくる姿が描写されている。また、さきほどのスズメが達也に踏まれて「グェッ」と鳴いている。三コマ目では先の二人と比べて勢いよくドアを開ける達也、四コマ目ではパンをくわえて学生鞄を持った達也や部屋の左側に向かって走っていく。達也に踏まれたはずのスズメはなんとか復活して少し地上から飛び上がっている。そして、次の5ページ目では「明青学園中等部」の学校プレートが描かれて物語が動き始める。

    連載1回目の最初のページ──見開きで8コマ使って同じ背景に主人公たちが出入りしている絵は、コピーじゃなくてちゃんと全部描いてますよ。今となっては気にならないかもしれないけど、まあ、当時の少年誌の1回目としてはあり得ないよね。でも、とりあえずなんか変なことをしたかったんでしょう。『サンデー』の新連載だからって肩に全然力が入ってない。我ながら呆れます。〔参考文献1〕

    このように『タッチ』の冒頭で、達也と和也と南の三人それぞれのキャラクターをほとんどセリフもなく読者に伝えていけるのが、あだち充の作家としての魅力である。その凄みが感じられないぐらいに自然な描き方をしているため、読者はすぐに物語の世界へ入っていくことができるし、キャラクターの性格や関係性を違和感なく受け止めることができる。
    対して『虹色とうがらし』は、それまでとは違うものを描くという意欲もあってか、連載前に高橋留美子に作品の構想を話していたという話もあり、あだち充作品と少し違う始まり方をしている。かなり力を入れて始めたと思しき初回はこんなものだった。 第1話の冒頭、作品の最初の1ページ丸々使った一コマでは宇宙に浮かんでいる地球が描かれ、「これは未来の話です。」とあり、次ページからはどんどんズームアップされて地上へ近づいていく。
    次に空が描かれたコマには「オゾン層に穴はなく、大気も汚染されていない。」とあり、その次のコマでは「原生林もそのままに、川には魚が住み、海に油も浮いてない。」と続く。海の中を描いたコマでは「もちろんイニシャル入りの珊瑚礁など、どこにもみあたらない。」とある。

    「あだち充先生より」みなさんこんにちは、あだちです。「ラフ」完結以来しばらくの間お休みをいただいていましたが、いよいよ今号より新連載スタートです。僕が時代劇に挑戦するとあって驚かれた方も多いと思いますが、僕自身は描きたいことがいっぱいあってドキドキしています。ご期待を!! 〔参考文献2〕

    「少年サンデー」1990年4・5合併号に掲載された第1話のそのページの枠外には上記のような、あだちからのコメントが入っていた。「描きたいことがいっぱいあって」という部分から、意欲的にこの作品に臨もうとしている姿勢がわかる。 次のページには空から見た日本が描かれ、物語の舞台が日本だということがわかる。そこには「昔の地球? 最初にいったろ! これは未来の話だと。」とモノローグが続き、さらにズームアップされて、町の地図と立ち並ぶ長屋が描かれ、「この風景が昔の地球のある国のある時代に似ていたとしても、それはただの偶然だということなのである。」というモノローグが挿入されている。 ページが変わると立札に「時代考証に口出し無用 奉行所」とあり、そのコマに続けて、「念のためもう一度、──これは未来の話である」とくどいほどモノローグと世界観についての説明がされている。そのコマでお墓の前で手を合わせている主人公の七味と火消しの番頭夫妻がようやく現れる。そして、母を失ったことが明かされ、ある意味では孤児になった七味が江戸の「からくり長屋」に旅立っていくという流れになる。 あだち充は冒頭の3ページを使って舞台設定についてモノローグで説明をしている。基本的にあだち充はモノローグを使わない漫画家である。また、江戸時代にしか見えない物語の舞台が「昔の地球のある国のある時代」に似ていても偶然であり、「未来」の話とも言っている。これは後々何度か作中でも「モノローグ」として挿入されており、他の作品ではこのようなことはないので、かなり特異なものとして感じられる。
    こんなふうに、『虹色とうがらし』は過剰なまでに「SF×時代劇」という題材の特異性を強調して始まった作品だった。確かに「SF×時代劇」という部分は際立っているので、「ラブコメ」を求める従来のあだち充読者には、あまり手を伸ばしにくいものになっていたのかもしれない。しかし、それは一種のカモフラージュでもあって、その下にはあだち充が考える「優しさ」がセリフとして表現したいという思惑が潜んでいた。
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  • 堤幸彦とキャラクタードラマの美学(1)──『金田一少年の事件簿』は何を変えたか(後編) 成馬零一 テレビドラマクロニクル(1995→2010)〈リニューアル配信〉

    2020-12-21 07:00  
    550pt

    (ほぼ)毎週月曜日は、ドラマ評論家の成馬零一さんが、時代を象徴する3人のドラマ脚本家の作品たちを通じて、1990年代から現在までの日本社会の精神史を浮き彫りにしていく人気連載『テレビドラマクロニクル(1995→2010)』を改訂・リニューアル配信しています。今回は『金田一少年の事件簿』でブレイクした堤幸彦を、押井守や村上龍、小林よしのり、秋元康などとならぶ1955年生まれの作家、すなわち「60年代の革命と80年代の消費社会の間に宙吊りにされた世代」という側面から捉え、彼らの作品に滲み出る革命への〈憧れ〉と〈断念〉について考えます。
    成馬零一 テレビドラマクロニクル(1995→2010)〈リニューアル配信〉堤幸彦とキャラクタードラマの美学(1)──『金田一少年の事件簿』は何を変えたか(後編)
    人工的でありながら生々しい映像
     堤幸彦は自身の映像について「主義主張としてやっているわけじゃないんですよ」(4)「自分に似合うものを追求していったら、不思議とああいう形になってるということですね」と、インタビューで語っている。(5)  だが一方で、ルーティーン化されてきた映画やドラマの撮影方法に対する不満と反発をずっと抱えており、いかに効率よく自分ならではの制作体制を作り上げるかに腐心していったとも語っている。
     「テレビドラマの仕事人たち」の中でインタビューを担当した上杉純也は、堤の演出の特徴を以下のように書いている。

     極力スタジオセットを避ける、スタジオで撮る場合でもセットは全部天井ありの4面総囲みにする。それは“人間の視点に一番近い映像でなくては、アニメやCMには勝てない”という思いからだった。(6)

     堤は『金田一』の際に、マルチカメラ(複数のビデオカメラを使ってマルチアングルで撮影する手法)で、スタジオに組んだセットで撮るという、既存のテレビドラマの手法ではなく、オールロケで一台のカメラで撮影していくという手法を選択した。  また、当時のテレビドラマとしてはカット数が多く、下から煽るようなアップや、魚眼レンズの歪んだ映像で顔を撮影するような、奇抜な構図の映像が多かった。これは堤がミュージッククリップで試してきた手法を持ち込んだものだった。カット数の多い堤の映像はリズミカルで、その切り替わり方に音楽的な快楽がある。  『金田一』第2シーズンではマンネリを避けるために、演出がより過激化したと堤は語っている。

     例えば“犯人はお前だ!”っていうのも“は・ん・に・ん・は・お・ま・え・だ・!”って10カットくらいになったり、縦にカメラがグルグル回ったり。まぁ、小難しくても、小学生が楽しめる作品にはなったと思いますけど」(7)

     また『サイコメトラーEIJI』では、照明を使わずにノーライトで撮影しているが、これは当時としては画期的な一つの事件だった。  当時のテレビドラマが、映画と比べて映像面で劣ると言われた理由は、照明に時間を割くことができず全体にライトを当てるため、陰影のないぺらぺらの映像となっていたからだ。この点を逆手に取り、あえて照明を使わずに撮影すると、ザラザラとした映像となりブロックノイズなども出てしまうが、それが逆にドキュメンタリー映像のような生々しさを生んでいた。
     こうした堤演出の特徴をまとめるなら、下記の3点だろう。  1. 奇抜な映像でカット数が多い。  2. オールロケ  3. 照明を使わない手持ちカメラの映像
     そして『金田一』の時点ではまだ控えめだが、『池袋ウエストゲートパーク』以降になると、小ネタを多用したアドリブ混じりの軽妙な会話劇が劇中に持ち込まれるようになっていく。
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  • 【今夜21時から見逃し配信!】井庭崇「コロナの時代の暮らしのヒント」

    2020-12-19 12:00  
    今夜21時より、『コロナの時代の暮らしのヒント』を刊行した井庭崇さんをお招きした遅いインターネット会議の完全版を見逃し配信します。
    24時までの限定公開となりますので、ライブ配信を見逃した、またはもう一度見たいという方は、ぜひこの期間にご視聴ください!
    井庭崇「コロナの時代の暮らしのヒント」見逃し配信期間:12/19(土)21:00〜24:00
    長引く新型コロナウイルスの流行下で、「withコロナ」「ニューノーマル」といった言葉が、ますます私たちの生活に浸透しつつあります。 今回は、様々な分野に通ずる“コツ“を抽出する「パターン・ランゲージ」の専門家で、『コロナの時代の暮らしのヒント』を刊行された井庭崇さんをゲストに迎えて、with/afterコロナ時代における家での過ごし方や働き方、子育てなど、生活全般にわたる知恵と工夫について教えていただきます。
    ※冒頭30分はこちらからご覧いただけま
  • 「2.5次元って、何?」──テニミュからペダステまで、「2.5次元演劇」の歴史とその魅力を徹底解説|真山緑(PLANETSアーカイブス)

    2020-12-18 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは、「2.5次元演劇」の誕生から定着までを見守ってきた編集者・真山緑さんのインタビューです。2010年代以降に顕在化した「テニミュ」「ペダステ」ブームの背景にある歴史や文脈を辿りながら、新しい演劇文化としての「2.5次元」の魅力について、お話を伺いました。(聞き手:編集部)※この記事は2015年2月26日に配信した記事の再配信です。※インタビュー内容は、2015年当時の状況に基づいたものです。
    『舞台「弱虫ペダル」インターハイ篇 The First Result2014』
    2.5次元って、何?
    ──今回は、このところ話題になっている「2.5次元舞台」について、真山さんに解説をお願いできればと思います。まず2.5次元という概念についてお聞きしたいですが、そもそも「2.5次元」という言い方が定着したのはここ数年ですよね? 
    真山 そうですね。あくまで私が劇場に足を運んでいた体感的なところとデータから見たものでお話しますが、2012年あたりから……だと思います。その前にまず単語として説明すると、2.5次元というのは、マンガ・アニメ・ゲームが原作のものを舞台化──つまり2次元のものを3次元化したからその間をとって2.5次元、という認識でいいと思います。
    元々キャラ性の強い特撮作品や声優さんたちに対しても「2.5次元」という言葉は使われてきていましたが、ここ数年で一気に舞台化作品が増えメディアで紹介されたり、昨年「日本2.5次元ミュージカル協会」という組織ができたりしたこともあり、そういった舞台作品を総称して「2.5次元」舞台というジャンルで捉える動きが出てきています。
    ──2.5次元ブームというと、やはり『ミュージカル・テニスの王子様』(以下『テニミュ』)から『舞台・弱虫ペダル』(以下『ペダル』)の流れを中心に広がっている印象ですが、作品としてはやはり女性向けのものがメインなんですか?
    真山 観劇に足を運ぶ層に女性が多いのもあって過去の舞台化作品を見ても、女性ファンが多い作品が選ばれることが多いです。実は、ここ数年で作品数自体も相当増えていて、私は「PORCh」というテニミュを中心とした評論のZINE(=自主制作・自主流通の同人誌のこと)を作っているのですが、2012年に「おいでよ!2.5次元」という特集をしました。これを出した理由は、観劇に行く中で「最近、急に2.5次元作品が増えたよね」と体感したことなんです。「日本2.5次元ミュージカル協会」の資料をみると、数字的にも2011年は30作品以下だったのに対し、2012年は60作品を超える形で、2011年から2012年にかけて爆発的に作品数が増えたのがわかります。
    ──震災後に爆発的に増えているわけですね。
    真山 2011年がちょうど『テニミュ』の2ndシーズンが始まった年で、2012年は『ペダル』のシリーズ初演と、乙女ゲームの人気作の舞台化『ミュージカル薄桜鬼』(=薄ミュ)シリーズの初演と、『テニミュ』の関東立海公演──これは『テニミュ』のシリーズとして後半戦に入る直前の盛り上がる公演です──その三つが重なって観劇に行くお客さん自体も増えたように思います。2011年から2012年にかけては、動員数も60万人以下から120万人規模とほぼ倍に増えていることが協会の資料からもわかります。
    ── 一気に2倍以上になってるんですね。
    真山 資料には、2013年には160万人突破とまで書いてありますが、リピーターもかなりいるのでユニークユーザーがどれくらいかわかりませんけど(笑)。『テニミュ』は「Dream Live」という楽曲だけのガラコンサートをするんですが、昨年の2ndシーズンを締めくくるライブではさいたまスーパーアリーナが埋まりました。それまでは横浜アリーナ(最大収容人数17000人)で毎回公演をしていて、さいたまスーパーアリーナ(最大収容人数37000人)でやるという告知があったときに、ファンは「え、埋まるの!?」という感じでしたが、意外とチケットが取れない人もいたりしていて。
    ──スーパーアリーナぐらいの規模だとはむしろ「行ってあげる」くらいの気持ちでいたら、意外と取れなかったわけですね。
    真山 あんなに油断せずに行こうと言われてたのに(笑)! ただ、その公演で『テニミュ』2ndシーズンのキャストが卒業だったので、さいたまスーパーアリーナに最後を見届けようというのも大きかったと思います。
     ここまで爆発的にファンが増えたのは、『テニミュ』を中心とした観劇ファンだけでなく『ペダル』や『薄桜鬼』といった別の作品のヒットとその原作から劇場に足を運ぶファンが増えたことも大きいです。『テニミュ』は知っていたけど観たことはないという層が、原作の舞台化をきっかけに2.5次元の世界に入ってきた。その流れに合わせて作品数も増えたのではないかと思います。 
    ──『テニミュ』の成功を背景に、ネルケプランニングといった舞台の制作会社とその周辺の企業が動いたというわけですか。作品数が増えていくと同時に『テニミュ』で培われた人材が分散していったということなんでしょうか?
    真山 『テニミュ』出身のキャストを「テニミュキャスト」(ミュキャス)と呼んだりするのですが、彼らが卒業後別の2.5次元舞台に出ることはとても多いです。『テニミュ』は基本的に舞台経験の少ない若手俳優を役に据えるので、2.5次元舞台をやる上での若手俳優養成所的な役割も担っていると思います。
    「発明」から生まれるヒットシリーズ
    真山 ファン自体も『テニミュ』をきっかけとして舞台にハマって出演者を追いかけて他の作品を観に行ったりするファンや、2次元(アニメ・マンガ)を平行して追いかけている原作ファンもいるので、『テニミュ』で入ったファンがそのままずっと『テニミュ』を観続けるとは限らない。2012年からお客さんがどっと増えたのは、『ペダル』と『薄桜鬼』が舞台化されたことが大きいですけど、どちらも初演から満員だったわけではなく、シリーズを続けることで徐々に原作や役者のファンから作品のファンへと観客を増やしていった印象です。
     それに加えてこの2作は、演出に小劇場系の人を呼び、すでに2.5次元系の作品の出演歴があるキャストに演じさせることで、それぞれの作品にカラーが出たことも大きかった。それが結果的に「あの原作(2次元)がこうやって舞台(2.5次元)になりました」という驚きをあたえることができた。特に『弱虫ペダル』は驚きでしたね! まさかああくるとは(笑)。
    ──想像では、クロスバイクを持ち込んでみんなで漕ぐのかと思っていたら、実際はハンドルだけを持ってみんなで漕いでるアクションをやるという──衝撃でしたよね。
    真山 本当にあれは「発明」でした! 元をたどれば、演出の西田シャトナーさんが「惑星ピスタチオ」という劇団でやっていた「パワーマイム」と呼ばれるもので、小道具を極力使わずに役者の身体で表現をする、パントマイムを使った演出方法なんです。それを『弱虫ペダル』の原作に活かすことによってああいった表現になった。これは『テニスの王子様』も同じで、実際にボールを打っているわけではないんですよね。ただ、ラケットの振りに合わせて、スポットライトと音を効果的に使うことで、ちゃんと打っているように見える。映像だと全てをきちんと表現しないと描けない原作の要素が、舞台では観客の想像力で補われる。そこに「.5(てんご)」の部分が生まれる。そこが2.5次元のおもしろさだと思います。
    ──2.5次元演劇の魅力のひとつが「見立ての美学」であるというのは共有されつつある気がするのですが、『ペダル』のDVDを観たら、舞台としても洗練されているという印象を受けました。メタ視点の入れ方も良いし、原作のまとめ方も良いし、そこにさらにクレイジーな「見立ての美学」という要素が加わっていて。
    真山 これまで「舞台」というと「ちょっと高尚な趣味」という感じで、宝塚や東宝ミュージカルも含めて少し敷居が高い大人の趣味と思われがちでしたが、『テニミュ』や『ペダステ』といった2.5次元系の作品が増えたことで、観に行く敷居が下がったところはあると思います。昔は『テニミュ』ファンだけだったのが、作品数が増えることによって2.5次元舞台ファンが細分化して、広がっていった印象です。
    ──ちなみに『薄ミュ』は、『ペダステ』のようにぶっ飛んだものではないんですか?
    真山 『薄ミュ』は、意表をつく演出があるというわけではないですが、乙女ゲームが原作なので乙女ゲームにあるキャラクターの「ルート」をうまくシリーズに昇華させています。ゲームの『薄桜鬼』はキャラクターごとに主人公と結ばれるルートごとの物語があって、『薄ミュ』では、このゲームの1ルートを1作で見せる形式だったんです。
     『テニミュ』は、主人公の学校が全国大会優勝までを描く物語が一本筋で続いて、その対決を学校ごとに1作で見せていく形式なんですが、こちらは、パラレルワールドとしてストーリーを毎回見せる形でした。お客さんも「このキャラのルートが観たい」という形で原作ファンを定期的に呼び込めるのが上手い点だと思います。
     もうひとつ『薄桜鬼』の発明は、男性キャストは基本的に変えずに「沖田総司篇の千鶴(主人公)役はこの人で…」という形で、1作ごとに主人公を演じる役者さんを変えたことです。その理由は簡単で、パラレルワールドのストーリーになるので、毎回同じ人が演じたら、主人公が移り気過ぎに見えるじゃないですか(笑)。そのやり方で、結果的に「今回の千鶴は~」という風に話題にできたのも良かったと思います。
    ──なるほど。クラスタとして、「2.5次元ファン」というのが生まれつつあるんですか?
    真山 クラスタが生まれているかというと、中々むずかしいと思います。「2.5次元舞台だから追いかける」というとちょっと違う気がするんですよね。2.5次元作品から舞台を観るようになって、キャストのファンになったりすることも多いので、そうすると下北沢の小劇場だったり、もしその人が蜷川幸雄の作品に出ることになったら彩の国に行くことになるので(笑)。原作や俳優が好きで観に行くことはあっても、「2.5次元だから観に行く」というそれを中心としたクラスタはそこまで生まれてないと思います。
    ──たとえば「アイドルオタク」って、AKBだったり、ももクロだったり、もっとマイナーなアイドルもみんな好き、という人が多い気がするんです。自分が推しているグループはあるけれど、基本的にはアイドル全体が好きで、その時々によって好きなグループや好きなメンバーがちがう、という。そういう形にはなっていないということなんでしょうか?
    真山 それは若手俳優のファンが近い感じですね。『テニミュ』から好きになった若手俳優を追いかけて別の舞台を観に行って、さらに別の若手俳優を好きになってその人が出る別の舞台に行く……そういうおっかけ的な習性は、いわゆる「ドルオタ」と近いかもしれません。
    ──つまり、「2.5次元クラスタ」というよりは、観劇ファンの中に、オタク勢力の女性ファンが今いっぱい流れ込んできている。
    真山 そうだと思います。ただその中にも、そこから若手俳優を追う人もいれば、私のような考察するのが好きな人間もいて、自分の好きな作品が舞台化したら舞台も観るよという2次元に準拠したファンもいるので様々ですね。
    斎藤工も!? 役者育成機関としての2.5次元
    真山  「観劇」を趣味とする人の増加も大きな変化ですが、こういった2.5次元舞台が増えることで、若手俳優がデビューするための登竜門の役割が強まったことも大きな変化だと思っています。『テニミュ』以前は、スタイルや見た目の良い若い男の子が芸能活動をしてみたいと思ったときになかなか入り口がなかったところに、そういった2.5次元舞台を経由することでファンを付けられる。それが結果的に2.5次元舞台を盛り上げるところに還元されているんですよね。
    ──なるほど。男性アイドル文化ってジャニーズの存在で発展しづらいところがあるけれども、その分をこの2.5次元を登竜門とする若手俳優が代替しているとも言えるかもしれないですね。
    真山 『テニミュ』が広く知られるようになったとされる1stシーズンのキャストには、ナベプロ(ワタナベエンターテインメント)のD-BOYSという俳優集団のメンバーが多いんですが、彼らは俳優としての活動だけではなく、イベントで歌ったり握手会したりと、限りなくアイドルに近い活動をしているんです。いまでこそ若手俳優がユニットを組んで歌ったり踊ったり、握手会などのイベントをしたりしますが、アイドルとしては売り出しにくいものに対して、それとは別の男性「アイドル」的な回路をナベプロが作ったんだと思っています。2ndシーズンから握手やハイタッチなどの接触系イベントが増えたこともあって、『テニミュ』や他の2.5次元系舞台がそういった流れを組んで、いまの若手俳優の売り方に影響を与えているとは思います。
    ──ちなみに『テニミュ』の出世頭といえば、城田優と加藤和樹という感じなんでしょうか?
    真山 他には、斎藤工ですね。氷帝の忍足侑士役でした。
    ──なるほど、斎藤工!
    真山 いまや「情熱大陸」です! 『テニミュ』などの多くの2.5次元舞台を制作しているネルケプランニング自体も舞台経験なしの若手俳優を一から役者として育てるのでそういった育成機関としてうまく機能していると思います。そこから特撮や朝ドラ、東宝ミュージカルなどに出演する人も多いです。
    ──ネルケプランニングは芸能事務所として機能してたんですか?
    真山 いえ、あくまで舞台制作会社なんですが、何も知らない……事務所にも入っていないような子を採用しているので結果教えることになるんだと思います。役のイメージに合う男の子をスタッフがカフェでスカウトもしていたくらいなので(笑)。
    ──つまり普通の制作会社の域は超えていて、なかばプロデュースに近いこともしているAKSに近いのかもしれないですね。
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  • 読書のつづき [二〇二〇年七月]『MIU404』を慰めにする夏|大見崇晴

    2020-12-17 07:00  
    550pt

    会社員生活のかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動する大見崇晴さんが、日々の読書からの随想をディープに綴っていく日記連載「読書のつづき」。新型コロナ第二波対策のパフォーマティブな喧伝と既定路線の結果しか見えない東京都知事選が進行する一方で、「Naverまとめ」のサービス終了や「ほぼ日」の本社移転など、ネットメディアの曲がり角を印象づける報で幕を開けた二〇二〇年七月。ゲリラ豪雨が相次ぐ不安定な気象と心身の不調に苛まれつつも、民放ドラマの久々の快作『MIU404』を慰めに、論理と修辞をめぐる書々の耽読は進みます。
    大見崇晴 読書のつづき[二〇二〇年七月]『MIU404』を慰めにする夏
    七月一日(水)
     昨夜それなりに眠ったはずなのだが、眠い。目を開いていても閉じていても、世界が靄がかっているような気がする。
     週末にはトランクルームに積み上げられた本を処分しなくてはいけない。トラスコ中山の台車でも買おうか知らん。
     少しは日程管理をしたほうがいいと思ってTrelloをインストールしてみたが性に合わない。
     岩波書店から出ている『〔新増補版〕ギリシア・ラテン引用語辞典』が無性に欲しくなったのだが、よく考えたらギリシア語もラテン語も読む機会がないことに気づいてしまった。とはいえ欲しい。ほしいが置く場所もない。
     NAVERまとめ[1]、本年九月三〇日でサービスを終了するとのこと。今年はもともとイベントが多い一年で、アメリカ大統領選[2]ぐらいまではサービスが存続するかと思ったが、PVを稼げないと判断したのか、それとも上期でちょうど良いと思ったのか、という時期でのサービス終了である。これはCGM(消費者生成メディア)でのマネタイズが困難になったということなのだろう。インターネット上のメディアは再編成が始まる。
     「ほぼ日」[3]の本社が移転するとのこと。青山から神田神保町への移転だそう。創刊したばかりという「ほぼ日」のメルマガに掲載されていた。これで小物屋さんからカルチャースクールに業態が変わっていくのだろうか。企業の立地というのは奇妙なもので、場所が変わるとそれだけで色が変わる。企業理念といった言葉が軽く吹き飛ぶぐらいに、場所や建物といった環境に人間は左右されるのだと思わされることがしばしばだ。前に「ほぼ日」が移転した前後は、吉田カバン[4]やBEAMS[5]とのコラボ商品が増えた時期だった。NORTH FACE[6]とのコラボ企画もあったのではないか。建屋が青山にあれば、そうしたブランドのひとたちとの打ち合わせもしやすかったことだろう。そんな青山から神田神保町に移転するというのだ。岩田宏が人間の悲哀を詩にした、あの神田神保町にである。店舗の多さから考えれば、「ほぼ日」は古書のイベントやカルチャースクール的な面が自然と強くなるような気がする。するが、さて。
     これまで「ほぼ日」というメディアは、業界人の賄い飯のような楽屋裏をタダ同然でインターネット上にリリースし、その内容に共感した読者が手帳を買ったり、イベントのチケットを買ったりして、企業らしい体裁を整えた。朧げな記憶では、株式上場まではたまに読むこともあったが、上場後といえば、なんといったら良いか、むかしながらの広告事業と手帳販売で成り立っているような企業に見えた。博文館の末期もこんなかんじだったのだろうかと思ったりもしたが、事業としてはこれまで以上に大きくなっているはずなのである。
     それでも「ほぼ日」に驚かされるというか、感銘を受けるようなことと言うのは、なくなってしまった。どんな香具師めいた口説きで落としたかはわからないが、ボサノヴァの創始者であるジョアン・ジルベルトを銀座有楽町は東京国際フォーラムに引っ張り出して歌わせたのは、「ほぼ日」だったのである。まあ、それだって十七年前、二〇〇三年のことで、それ以降わたしは「ほぼ日」に案外驚いていないのかもしれない。ギター一本で世界の音楽を変えたお爺さんを引っ張り出したことが偉いというのも呆れる話で、本当はもっと、みながギター一本でも良いから革命を起こしてもよいのかもしれないし、その当たり前にわたしが気づいてしまっただけかもしれないが。
     そして困ったことに、わたし自身はこの数年「ほぼ日手帳」を使っていないのだ。いま書いている日記でも明らかな通り、文章量が多い日には何ページも亘ってノートに文字を書き付けている身としては、一日一頁しか書き込めない制限自体が使い勝手の悪さに感じられるのだ。わたしはその日の予定など気にならない。それよりもその日に何が起こったかが気になる人間で、そういう人間には手帳という体裁は相性が悪いのだ。ノートとカレンダーがあれば大抵のことは事が済んでしまうのは、良いのか悪いのか。
     チャールズ・テイラー[9]『今日の宗教の諸相』、ネット上の感想を見かけていると面白そうだ。借りるか買うかしよう。
     寝際にロラン・バルト『旧修辞学』を読む。

    [1]NAVERまとめ 韓国のIT企業NAVERが二〇〇九年七月一日開始したWebサービス。インターネット上の記事などにリンクを張り、情報を整理した「まとめ」をユーザーが公開できるサービスだった。二〇二〇年九月三〇日にサービスを終了した。
    [2]アメリカ大統領選 二〇二〇年十一月三日に実施されたアメリカ大統領・副大統領を選出する選挙。民主党からはバイデン、共和党からはトランプが立候補した。十一月七日ごろにはアメリカ中西部やラストベルトと呼ばれる工業地帯での支持を取り返したバイデンが勝利したという情勢認識が一般となり、十一月二三日にはGSA(一般調達局)がバイデン陣営への政権移行に関わる予算を執行したことにより、実質的な勝利認定が済んだ。
    [3]「ほぼ日」 株式会社ほぼ日。コピーライター糸井重里が一九九八年六月に開設した「ほぼ日刊イトイ新聞」が企業化され、二〇一六年に株式会社化、二〇一七年三月十六日にJASDAQに上場。物販販売(おもに手帳)で収益を上げている。
    [4]吉田カバン 日本の鞄メーカー。一九三五年に創業。社名よりも自社ブランドであるポーター(PORTER)が人口に膾炙している。BEAMSとのコラボ商品でも知られる。縫製が頑丈なことに定評がある。
    [5]BEAMS 段ボール製造業だった新光株式会社が、一九七〇年代に輸入雑貨を取り扱う店舗を開業後、セレクトショップ・輸入雑貨店として人気を博す。一九九〇年代の裏原宿ブーム前後でブランドとしての知名度を上げ、現在に至る。
    [6]NORTH FACE 一九六六年にアメリカのカリフォルニアで創業されたアウトドア用品と衣服を主としたブランド。
    [7]岩田宏 一九三二年生、二〇一四年没。日本の詩人、翻訳家。翻訳家としては本名の小笠原豊樹名義で発表していた。翻訳家としての仕事は手広く、かつ定評があり、マルチリンガルだったこともあって多岐にわたる。イリヤ・エレンブルグ、ソルジェニーツィン、マヤコフスキーといったロシア文学、ロス・マクドナルドとマーガレット・ミラー夫妻のミステリー小説、ブラッドベリやスタージョンなどのSF文学、ジョン・ファウルズのような村上春樹らにも影響を及ぼしたであろうオカルト文学などを手掛けており、海外文学を手に取ったひとで岩田宏の訳業に接しないことのほうが難しい。
    [8]ジョアン・ジルベルト 一九三一年生、二〇一九年没。ブラジルの歌手、ギタリスト、作曲家。ボサノヴァの創始者。一九五八年にアントニオ・カルロス・ジョビンと録音した楽曲がボサノヴァで初めて録音された曲とされる。一九六三年にスタン・ゲッツと録音した『ゲッツ/ジルベルト』がヒットし、今日でも演奏される「イパネマの娘」が世界的なヒットとなる。気難しいことでも知られており、二〇〇三年に初来日してライブ演奏をしたことは驚かれた。
    [9]チャールズ・テイラー 一九三一年生、カナダの政治哲学者。政治的にはコミュニタリアン(共同体主義者)と呼ばれる保守的な立場をとるが、コミュニタリアンと呼ばれる知識人が、もともと反原子力の運動に晩年を費やしたことでも知られるE・P・トムソンなどと創刊した雑誌「ニュー・レフト・レビュー」のメンバー(他にアラスデア・マッキンタイア)が少なくないように、リベラル・コミュニタリアン論争は単なる革新と保守による論争ではなかった。二〇〇八年に稲盛財団より京都賞「思想・芸術部門」を受賞。

    七月二日(木)
     急に晴れだしたからなのか、腰が痛む。ヘルニアの再発でなければよいのだけれど。
     今更ながら自分の文章が読みやすいかどうかが気になってきた。不安解消にノートをつけながら以下の本を読んでいる。
    福沢一吉『論理的に読む技術』
    福沢一吉『論理的思考』
    井田良、佐渡島紗織、山野目章夫『法を学ぶ人のための文章作法』
    ロラン・バルト『旧修辞学』
    七月三日(金)
     高見浩[10]によるヘミングウェイ『老人と海』の新訳が新潮文庫で出るとのこと。これは読みたい。仕事が慌ただしかった。「脱力タイムズ」を視て寝る。

    [10]高見浩 一九四二年生、日本の翻訳家。ヘミングウェイの全短編、主要な作品の翻訳で知られる。他にも福祉国家化していくスウェーデンの社会を背景に描かれた警察小説「マルティン・ベック」シリーズ、サイコホラーを流行させたトマス・ハリス、映画・文学ともに一九九〇年代に流行したノワール物の作家エルモア・レナードなど、その後の文化・文学に大きな影響を及ぼす作品の翻訳を多く手掛けている。

    七月四日(土)
    部屋片付け。バルト『旧修辞学』を読む。ノートを取りながらだったので肩が凝った。
    七月五日(日)
     都知事選は小池氏が再選。政策を抜きにすれば、巧みな選挙戦術だった。二位になったのが宇都宮健児で、これで久しぶりに都知事選が保革の争いに戻りつつある。都知事選で医療や福祉のような社民的な論点に眼が向けられるようになったことは、COVID-19の影響があるとは思うが、そうだとしても潮目が変わったように思う。準国政選挙とも言えそうな都知事選での論点は、ここ何年も五輪と再開発ばかりだった。
     しかし、より驚いたのは、維新から出馬した候補が、ギリギリになって出馬した山本太郎よりも下位に沈んだことだった。他の候補よりも早く宣言して、熊本県副知事を辞職して──台風被害で大変なのに──準備万端での立候補となったのに、あっという間に抜かれていた。これはもう、維新という政治集団の鮮度が落ちきったのではないかと思えるような、深刻な敗北に見える。
     そんな維新の候補に投票しているのは、どの層の人間であるか調査がテレビで放送されていたのだが、三十代四十代の男性からだそうだ。わたしの同世代である。要するに維新には一部中年男性に対して強力な訴求力があるということなのだと思うが、そこに中年男性であるわたしは、見たくない思想的現実を見てしまう。
     維新的なものの埋没というのは、与党の補完勢力(自民党の別働隊)として機能する野党が求められなくなっている、ということである。言い方を換えれば、大きな流れに身をすべて任せる気はないが軽く棹をさす程度は反発をしたという自意識を政治行動に移すという投票行動を起こすのは、現在の日本では主として中年男性であるということなのだろう。この都知事選の結果を受けて、来年秋には任期満了となり自動的に選挙となる衆議院では、一層と野党再編の動きが進むだろう。それは社民的なものや立憲主義(法治主義)の価値を再発見してのことだろう。その線で国民民主党は解体してしまうのだろう。党をまとめる求心的な課題というものがなく、是々非々で政策を論じ合いたいという程度にしか見えない政党はただでさえ脆いのに、この小選挙区制度では耐えうるとは思えない。維新と国民民主は、いつものメニューに飽きた中年男性が気まぐれに注文する季節のメニューみたいなものになりつつある。
    七月六日(月)
     腰痛と肩こりが辛い。気象と連動しているのかもしれない。大荒れの天気だ。
     佐々木健一『美学辞典』を横に置いてバルト『旧修辞学』を読み進める。丸善オアゾ店で以下を買った。
    アレン・ギンズバーグ[11](柴田元幸訳)『吠える』
    ロマン・ヤコブソン[12]『ヤコブソン・コレクション』
    ポール・グライス『論理と会話』
     『吠える』以外は修辞学に関連した書籍としての購入だが、『ヤコブソン・コレクション』は彼の主要な論文を一冊の本で読めるようになっていて、大変にありがたい。わたしが学生のころは古書店を回って何冊もロシア・フォルマリズム関連の本を買わないと、これらは揃わなかった記憶がある。

    [11]アレン・ギンズバーグ 一九二六年生、一九九七年没。アメリカの詩人。ビート文学の代表的な詩人。ボブ・ディランがギンズバーグに影響を受けており、ディランのライブでギンズバーグが出演したことなども有名。ゲイであることを隠さなかった。
    [12]ロマン・ヤコブソン 一八九六年生、一九八二年没。構造主義と呼ばれる思潮に大きな影響を及ぼした学者。研究対象は範囲が広いが、もともとは詩の構造分析を行っていた。第二次世界大戦下にアメリカに亡命。この地でレヴィ・ストロースと出会い、知己となる(ストロースはユダヤ人の受け入れが活発だったニューヨーク知識人の一員となっていた)。ヤコブソンとの交流は、ストロースに『親族の基本構造』を執筆させるきっかけとなった。

    七月七日(火)
    七夕。電車内が混雑していて、日常に戻りつつある。しかし、そもそも日常とはなんなのだろうか。
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  • 激動どころじゃない2020年! 今年の映画ベスト10|加藤るみ

    2020-12-16 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、加藤るみさんの「映画館(シアター)の女神 3rd Stage」、第11回をお届けします。今回は加藤るみさんが選ぶ、2020年の映画ベスト10を発表します。『パラサイト』の韓国映画として初のアカデミー賞受賞にはじまり、新型コロナウイルスの感染拡大により映画館で鑑賞することそのものにも変化が起きた2020年。そんな激動の1年間で公開された作品の中から、るみさんが選んだ10本とは?
    加藤るみの映画館(シアター)の女神 3rd Stage第11回 激動どころじゃない2020年! 今年の映画ベスト10
    おはようございます、加藤るみです。
    今年も残すところわずかになりました。 私にとっての2020年は、拠点を東京から大阪に移すことから始まり、振り返ってみると激動という言葉だけでは収まりきらないほど色々なことがあった1年でした。
    新天地で気合いを入れて活動しようと思いきや、地球は未知のウイルスに侵略されたり、なかなか自分の思うように物事が進まなかったり……。 ……と、今年が物足りない1年だったことをすべてコロナのせいにしようかと思いましたが、本音を言うと「自分の頑張りが足りなかっただけでは?」と、情けない気持ちになる自分もいることをここに書き留めておきます。
    それでも、自信を持ってやり遂げたと言えることもあって、それは、今年は去年より映画を沢山観れたぞ! ということです。 思う存分インプットできた1年になったので、来年はアウトプット、ゴジラで言うと第3形態から第4形態のように変化し、地に足をしっかりつけ、熱腺を放出できるような1年にできたらいいなと思います。
    さて、今回は2020年の映画総括ということで、毎年恒例の映画ベスト10を発表したいと思います。 私のベスト10は、今年劇場公開がされた作品の中から選んでいきます。
    今年は、面白い作品が多かったので、悩みに悩みました。 昨年は、迷わず『アベンジャーズ/エンドゲーム』を1位にしたのですが、正直、今年はTOP3までは全部1位にしたかったくらいで、めちゃくちゃ苦しんで順位をつけました。
    では、早速10位から発表していきたいと思います!
    10.『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』

    今年公開された、ウディ・アレンの新作です。 養女に対する幼児虐待疑惑で炎上し、ここ数年ハリウッドから追放状態にあるウディ・アレン。 その影響でアメリカではお蔵入りとなった本作でしたが、日本では今年の7月に公開が実現しました。 この件については、まだ心のモヤモヤが拭いきれていませんが、だからと言って事件の真相がわからないまま、あーだこーだと部外者である私が何も言う権利はないと思っています。 もちろん、性的な虐待、暴行、暴力は容認しません。 ですが、この情報が錯乱しているなかリンチかのように集中的に石を投げ続けることはとても虚しいですし、映画や映画作家を社会的に抹殺することについても疑義を持っています。 ウディ・アレンを好きになってから、新作は毎回映画館で観てきた私ですが、今回は劇場で観る気が起きず、最近になって気持ちが落ち着いて、ようやく鑑賞することができました。
    単刀直入に言うと、これを映画館で観なかったのは、ウディ・アレン作品のファンである私からすると惜しいことをしたなぁと思います。 ウディ・アレンの代名詞でもある、NY。  『それでも恋するバルセロナ』('09)、『ミッド・ナイト・イン・パリ』('11)、『ローマでアモーレ』('13)など、ヨーロッパ編も大好きですが、生粋のNY派であるウディ・アレンが描く『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』は、特別としかいいようがないNYへの愛がたっぷり詰まったラブレターでした。 やはり、NYを撮らせたら天下一品、右に出るものはいないと思います。 カーライルやピエールといった、最高のクラシックホテルを舞台に、大学生カップルのティモシー・シャラメとエル・ファニングがNYという街に翻弄されていくのですが、もうこのキャストの絵面だけでも相当に眼福です。 親のスネをかじりながら、ギャンブルで儲けたお金で彼女と高級ホテルに泊まるティモシー・シャラメは本当にどうしようもなく情けない奴なのに、その気だるい色気にやられてしまうんですよね。 ティミーったら罪な男(ティモシー・シャラメ愛が止まらなすぎて最近は愛称で呼んでいる私)。
    そして、この映画のタイトルにも入っている雨というモチーフですが、 ウディ・アレンは「雨はロマンスや愛を象徴している」と、語っていて雨のNYを超ロマンチックに演出しているんです。 たまたま映画のエキストラをすることになったティモシー・シャラメがセレーナ・ゴメスと雨のなかキスするシーンは、『ミッド・ナイト・イン・パリ』のラストシーンに並ぶほど良かったです。 ウディ・アレンは魔法をかけるかのように一番良いシーンで雨を降らせるのですが、雨が降るからこそ一番良いシーンになるのかもしれません。 けれど、物語としては前作の『女と男の観覧車』('18)やその前の『カフェ・ソサエティ』('17)と比べるとキレを感じられず、変に小さくまとまってしまった終わり方だったなぁと思います。 私的にウディ・アレンは、"憧れ"の舞台で"憧れない"物語を描いてきた監督だと思っているんですが、もう少し人生の渋さや苦さが可笑しく思えるスパイスが欲しかった……ということで、少し辛めに、10位としました。
    9.『ナイブズ・アウト/名探偵と刀の館の秘密』

    『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』('17)で我々スター・ウォーズファンを奈落の底に突き落としたライアン・ジョンソン監督のミステリー映画。 ヒドイこと言うかもしれないですけど、多分これを期待して観る映画ファンはあんまりいなかったんじゃないかと思うんです。 だって、スター・ウォーズをハチャメチャにしてくれた、信頼も何もない、あのライアン・ジョンソン監督ですもん。 でも、これが面白かっ…………たんですよ。 「どひゃーーーー‼‼ あんた、やるじゃない!」みたいな(笑)。
    「007」シリーズの完全無敵なジェームズ・ボンドとは一味違い、ちょっと頼りなくて胡散臭い探偵ダニエル・クレイグがある金持ち一家の殺人事件の真相に迫っていくんですが、物語はものすごくベタな展開になるかと思いきや、出てきたのは現代的で新しさを感じるハイセンスミステリー。完敗でした。 途中で一旦わかった気になっていたら、ラスト30分くらいで更に面白くなるんです。 そして、何よりオチが最高にシャレていて、このラストシーンだけで白飯5杯……いや盛りすぎました。3杯はイケます。 監督ライアン・ジョンソンに「スター・ウォーズの件はボロクソ言ってごめんね」と謝りたくなるほど、老若男女楽しめるエンターテイメントとして仕上がっていて、ここ数年のミステリーで群を抜いて痛快でした。
    彼の次作が楽しみです。
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